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2006年10月06日

これで日本は大丈夫?

興味深い記事が今朝の朝刊に二つ出ていた。
ひとつは松本和子早稲田大学教授の研究費の不正使用についての記事。
松本教授は架空のアルバイト料として研究費1500万円を不正受給。うち900万円を投資信託で運用。バイオ系ヴェンチャーと2500万円の架空取り引きも発覚。不適切使用の疑いのある研究費の総額は3億円にのぼる。
その他にも共著論文についての不正疑惑も浮上している。
大学教授の「データ捏造」と「研究費不正使用」の記事を見ない日はない(というのはオーバーだけれど)、「見ない週はない」くらい頻繁に報道されている。
こういう場合は、
(1) もともとこういう事件は日常的にあったのだが、たまたまその事件が話題になっているので、優先的に報道されている
(2) もともとはあまりなかったのだが、最近急に増えた
のいずれであるかについて考えてみる必要がある。
教師のわいせつ行為とか、警官の不祥事とかは、(1)なのであるが、あまりに日常的に頻発している事件なのでニュースバリューがない。
たまたま話題性があると判断するとメディアは「洪水的」に報道するので、読者は「わ、こんなに急に」とびっくりしてしまうのである。
でも、ふだんからそういうものなのであるから驚くには及ばない(だから安堵するということでもないが)。
大学教授のデータ捏造や研究費の不正使用は(2)である。
これは文科省が音頭取りをしてはじめたあの「自己評価・自己点検活動」のマイナスの成果だと私は見ている。
自己点検・自己評価というのは、要するに教員の業績や能力をカタログ化し、標準化し、数値化することである。
フーコーだったら「権力を内面化すること」と言うだろうけれど、そのこと自体は特に悪いことではない(人類社会ができてからずっとやっていることだからだ)。
けれども教師の活動を網羅的にカタログに記載して、それを単一の度量衡で計測して、順位をつけて、予算を傾斜配分するということになると、たいていの人間は数値をふやすことそれ自体を自己目的化してしまう。
内容はどうでもいいから、とにかく数字を、ということになる。
本学でも私が自己評価委員長のときに、教員評価システムを導入して、活動についての外形的な評価をしようという提案をしたら、何人かの教員から「そんなことをしたら、数値だけふやそうとする教師が出てくる」という反対意見があった。
私はぜんぜん意味がわからなかったので、きょとんとしていたが、これは私が不明を恥じなければならない。
世の中には研究それ自体に愉悦を見出すことのできない研究者が想像以上にたくさんいたのである。
理科系は外形的な数値を重んじる傾向が強い(人文系の場合は、論文を10年に一本しか書かない教師が「私の論文は一本でふつうの学者の論文の10倍の価値がある」というような妄言を言い募っても、誰も咎めないから、数値化自体が無意味なのである)。
理系の場合は、データを捏造しても、とにかくはやく国際的なジャーナルに投稿して論文点数を稼がねば、という焦慮が出てくる。
理系の研究には金がかかるからである(人文系の場合は研究にあまりお金がかからない。私などは毎年大学からいただく研究費の大半を使い残している。昔買った本を読み返すのと、面白い人と会って話をするのが私の「研究」のすべてであるので、あまりお金がかからない)。
理科系の場合は、金がなければ研究が進まないので、投資信託でも株式運用でも賄賂でも、とにかく研究費を確保して、しかるべき研究成果を出せば「結果オーライ」という手荒な研究体制に傾きがちな方もおられるのである。
気の毒だが、なにしろ国立の理系の場合、年間研究費が15万円(!)というようなところもある。
これでは、コピー代も出ない。
研究費が要るなら、外部資金を導入できるような研究をしてみろ、と上の方は凄むのである。
外部資金が導入できない研究は要するに社会的ニーズがないのだから、さっさと止めてしまえ。停年まではただ飯を食わせてやるから、もう無意味な研究はするな。
そう言われている理系教員がおそらく日本中に何千人がいる。
そういうふうに「市場原理」を導入したことが大学における研究を活性化したかのか、それ以上に堕落させたのか、これについてはそろそろ損得勘定を始めてもよろしいのではないか。

もう一つ興味深かったのは靖国神社境内の戦史博物館、遊就館が米国から批判の出ていた第二次世界大戦の米国関係の記述を改めることを決定したという記事。
変更するのは「ルーズベルトに残された道は資源に乏しい日本を禁輸で追い詰めて開戦を強要することだった。参戦によって米経済は完全に復興した」という記述である。
神社は駐日アメリカ大使の批判を受けて、「開戦の強要」「米経済の復興」などを削除することを決定した。
その一方、中国関係の記述については見直しの予定はないそうである。
繰り返し申し上げるように、東京裁判を仕切ったのはアメリカである。
アメリカ人将兵29万人の死について有責であるとしてA級戦犯たちを告発したのはアメリカである。
そのアメリカがどうして同盟国の首相がそのA級戦犯たちを祀る靖国神社に公式参拝することにきびしく抗議をしないのか、その理由は一つしかない。
アメリカが抗議しないのは、もし首相の靖国参拝に国務省が正式に抗議して首相が靖国参拝を中止した場合、それがきっかけで日中日韓の歴史問題が「解決してしまう」かもしれないからである。
アメリカにとっては同盟国首相が東京裁判の判決を不服としているという心情的な不快と、東アジアに日中韓ブロックが形成されるという地政学的な損失を比較考量して、後者を優先したのである。
だから、アメリカは「アメリカについての記述」についてのみ限定的に削除を求め、中国についての記述は放置したのである。
遊就館の歴史観そのものをアメリカが批判した場合には、中国についての記述も訂正を求めないと話の筋目が通らない。
だが、そんなことをしたら、せっかく形成された日中日韓の緊張関係が緩和してしまうかもしれない。
そんなことになっては1853年からの東アジア経営に注ぎ込んだ帝国主義的リソースの元が取れない。
だから、アメリカは区々たる文言だけにクレームをつけて、東京裁判を否定する遊就館の「歴史観」そのものは手つかずに置いているのである。
中韓にはどのような失礼を言っても許すが、アメリカにはふざけた口をきくなよと釘を刺したのである。
中国韓国の言い分には決然として耳を貸す気のない靖国神社はアメリカのこの抗議にはただちに頭を下げた。
それについて素朴な疑問がある。
「アメリカと戦って死んだ英霊たち」は靖国神社のこのアメリカに対する対応をどう思うであろうか。
私は死者が何を考えているのかわからないという立場にあるので、英霊たちの反応についても想像がつかない。
英霊たちがどのような弔い方を望んでいるのか熟知していると主張している宮司たちのことだから当然答えはご存じなのであろう。
で、英霊たちはこれについては何と?

投稿者 uchida : 2006年10月06日 21:59

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» 評価点検してないのに少なかったとわかるのか? from ▀▁▂▃▄▅▆▇█▉キタ━━(´◕ฺω◕ฺ`)✪ฺД✪ฺ)♉ฺA♉ฺ)☼Д☼)❝ฺ_❝ฺ)◉ฺ◉)&#
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トラックバック時刻: 2006年10月07日 12:24

» 『たしかなハナシなんだけど』 10/07/06〆 from 【THE FOOL ON THE HILL】
追記:そうなのかな?  わたし達が私淑するところのウチダ先生は早稲田大学科研費凍結 (の原因になった松本和子教授の件) について“これは文科省が音頭取りをして... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年10月07日 21:35

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片づけがたーんとあるのに、 テレビをみてしまった。 漫才の太田光が 憲法九条をまもるこことを決めた日を 記念日にしようという意見を述べている。 そのテレビ番組... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年10月07日 23:16

コメント

内田先生今日は。昨日平川さんのブログで企業の成果主義について書かれていたので、ずっとその事を考えていました。教育と成果主義というのはあわないなあと(夫が教員なので、どうしても教育のほうに引き寄せていろんな事を考えてしまうのです)。そしたら今日先生が大学での評価について書いていらしたので、大変興味深く読みました。
今大学で重要なのは論文の数です。論文を書くたびに学会賞や論文賞を貰うような人でもその論文が何年かに一本では教授にはなれません。何年にも渡る研究をしている人はどうすればいいのでしょうね。今需要が無くても、無くしてはいけない物もありますよね。私は原子力工学と言うのを心配しています。私達が若かった頃、原子力工学と言うのは花形だったようにも思いますが、今各大学で原子力工学科はどうなっているのでしょうか。いつか本当に困った事になるのではないでしょうか。
教育というのは人と人ですよね。どれだけ学生に心を砕けるか、心を砕く用意があるかなんて傍からは分からないことです。大学というのは研究の場であると同時に教育の場であって
そこを忘れてはいけないと思います。神戸の震災の時、学生さんの無事を確認しにバイクを走らせたというような行為は、評価とは無縁のものと思います。自分達もいつでもバイクを走らせる用意はあると思っていたいというのが、教員の妻としての
私の気持ちです。いつか「日本は大丈夫だ」といえるように
なって欲しいし、したいですね。

投稿者 雪国のTT [TypeKey Profile Page] : 2006年10月07日 13:56

 僕はアメリカは、フォークナーも、「老人と海」でディマジオに夢を託してメジャーへの郷愁を共有し合えている老人と少年とのコミュニケーションも、シェーンやローマの休日やサウンドオブミュージック等のハリウッド映画も、そして勿論コルトレーンやマイルスやカウントベイシー等のジャズも大好きなのですが、そしてアメリカとの軍事的な関係を清算するのが時宜にかなった選択だとも思わない者なのですが、そしてそしていわゆる「侵略戦争」を是とするナショナリストでは勿論ないのですが、それにしても遊就館の歴史認識を軽く改竄させる圧力にさえ毅然とした態度が取れない我国の腰砕けには情けない気持ちがしています。
 国家を人格化して悲憤慷慨したり賞賛したりするのも本当はトホホ主義の本分ではないのでしょう。イデオロギーへの自己疎外なのですから。しかし、少なくともアジアへの態度との懸隔を思うと、少なからず人格化への仮託が発生してしまいます。素朴に不愉快。
 アメリカも好きだけどアジアも好きです。アメリカとうまくやりつつ今こそ八紘一宇w。もし僕の小乗が大乗に発展できるとしたら、そゆ戦略になりそうな気がしています。果たして是か非か‥‥‥。

投稿者 about_601 [TypeKey Profile Page] : 2006年10月08日 01:30

A級戦犯刑死者のうち対米国戦の責めを問われたのは東條英機と武藤章・木村兵太郎だけで、あとの板垣征四郎と土肥原賢二・松井岩根が対支那戦の責めを問われ、広田弘毅は近衛文麿(上海事変で蒋介石に恥をかかせた)の身代わりなワケです。アメリカとしてはひとりくらいは海軍幹部の首を括りたかったところでしょうが、ここくらいは支那の面子を立ててやろうとしたがために諦めたということでしょうか。それに在支邦人・権益へのテロを止めさせなかった支那と、正当な外交交渉の決裂の結果として開戦に至った米国とが同一視できる由もありません(むろんデフレが治まっていなければ戦争という“財政出動”が経済へのカンフル剤となるのは自明の理です。言うまでもなく朝鮮は何ら関係はありません) またもしアメリカが対支那戦についてもクレームをつけても日中の歴史問題が解決されるということはなく、むしろ戦中の米中の蜜月時代のほうが思い起こされるだけでしょう(以前にも江沢民はさかんにアメリカへ目くばせをしていましたし、よく北朝鮮が国連で場を弁えない日本への誹謗中傷を繰り返すのも、国連においては日本が“前科者”であるという暗黙の総意を見越してのことです。さらに付け加えれば、A級戦犯刑死者のうち東條・武藤をのぞく4人はいわゆる“支那通”であり、広田の自害した妻は、大隈重信襲撃を実行した玄洋社社員の娘です。支那がたとい懇意にあった者であろうとも敗者となればどのような態度をとってくるのかご一考下さい)ただ先生が、9条というアメリカの科した桎梏を賞賛しながらアメリカと袂を分かち、なおかつ支那との同盟を強化しようという目論みが可能である理由というのが、いまもってよく理解できません。

投稿者 truely_false [TypeKey Profile Page] : 2006年10月08日 21:40

はじめまして。ごく最近の「仏教ルネサンス」「これで日本は大丈夫?」を読んで、並びに某紙掲載の貴氏「疲れすぎて眠れぬ夜のために」よりの「石原千秋先生の国語教室~大妻多摩中学校2006年度入試から」が目に留まり、タイミングだとおもいまして、意見述べさせてください。
>で、英霊たちはこれについては何と?
Wikipediaでさがすと、真珠湾攻撃当時の沈没戦艦アリゾナは現在も湾上の記念館としてある。そして、その日は当時の外務省が職員の暗号解読の遅れで宣戦布告が攻撃以後という、もはや史実もある。「開戦の強要」の削除であるが、神国(国家神道)日本が、神国(キリスト教)の日曜日(主日)を宣戦布告もせずに攻撃したならば、秤に掛けて「開戦の強要」は消してくれと言われれば、この国60年の平和を顧みるに、その謙譲か妥協か知らぬが、1951年の安保条約および60年の新安保、そして70年の更新と、更にそれから30年間の歳月。
当時のモノクロのニュース、『大本営発表、・・・未明、帝国陸海軍は・・・において戦闘状態に入れり』、外務省がミスしようがしまいが、その状態に入ったのであれば、祖国の為戦場で命令を受けて戦うのが、出征将兵であります。
遊就館に入館すると、「国難に殉じた」とあります。 英霊たち、といわれても、個別に調べる労苦を払わずには、無礼でしょう。その戦死日と場所、のことではありません。彼らの「本音」と「建前」の本心の拠り所、のことです。職業軍人が天職の人が何人居たか、知り得ません。その内更に、『靖国で会おう』と信じて遺書もしくは戦友に遺言を託した方が何人居たか、それをも知れ得ません。「本音」はそうでなくとも、遺族の手前、憲兵等に検閲されるから、烈士の手紙しか書けなかった、それが皆無だと誰が断言出来ましょうか。読む側の理性や知性など、なんら係わりないのです。勝手な解釈しよって、と向こうで彼らはおもってるかも知れません。でも彼らも同意するであろう基準というものが、60年後の国民に共通に認識承知されるものならば、それはこの国のその間の平和と国民の安全でありましょう。そして、それが結果証されたものであるならば。
「米経済の復興」、これをも、それでは同様期間の「朝鮮動乱」、ならびに「ベトナム戦争」。○○景気とか、所得倍増とか日本列島改造とか、冷戦構造のさ中、アジアにおける二つの半島の戦場を海を隔てて見ながら、内需拡大、勤勉な国民性と効率ある高い技術力をもって、日本経済の復興を果たしました。
二箇所の項目を削除しても、英霊たちは、よし、と答えるのではないか、というのが自分の推量なのです。これも彼が英霊にしてクリスチャン、限定かも知れません。
そして合わせて、近代日本の夜明けが明治維新ならば、明治天皇が指示で造られた靖国神社は、これ以上、建前のそれであれ、本音のそれであれ、{英霊たち}を量産して欲しくないのです。すなわち、明治から昭和までが『英霊たち』の時代であれ、それで定員を締め切った、そう受け取りたい。
勿論、神社の近くを通り、その人が門扉の前でその人なりの祈りをせずにいられないなら、また門内に進み出てそうしなければ気が済まぬなら、それは個人の自由でしょう。さらに奥まで歩き、社殿の前の『英霊たち』の遺言の掲示まで読むも、その個人の自由に帰します。
吉祥寺の月窓寺といえば、以前榎本武揚の墓探しに行ったことがありましたが見つからず、他の墓石の側面をたどっていたら、あるそれは、日中戦争で大陸に召集され一たん帰還し、再度召集されまた生還を果たし、そして三度目ですか、終戦近く若い兵士も足りず、また呼び出され、そして落命した年月日が刻まれてました。これは二度目の間違いかも知れませんが。いずれにしろ、それで分別がついたのです。明治の元勲の墓の在り処を知れば、話のネタにはなる。しかし無名の兵士のひとりの九死に一生の連続で終わりは流石に命運尽きた、そんな話はネタにならんか。同じ墓地に時代が違う人が眠る。そんな墓地マニアになった自分はトリックスターのひとりかな、と。

投稿者 kaihuu [TypeKey Profile Page] : 2006年10月09日 03:35

「雪国のTT」さんが書いているように、原子力工学は若い人がやりたがらないようです。
流行の分野に資源(金や任期)が集中しますから。早稲田の松本教授だってバイオですよね。金回りがいいから、不祥事もこの分野に集中します。しかし、お金の不正など誰でもやりますが、ただ不正できる金が回ってこない人はできない。文科系研究者は清潔でいられる。ただ有名になっても、講演謝金をぼったりしないように注意しましょう。

投稿者 室屋次郎 [TypeKey Profile Page] : 2006年10月09日 19:49