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2012年12月 アーカイブ

2012.12.01

最低賃金制の廃止について

日本維新の会が選挙公約として「最低賃金制の廃止」を打ち出し、波紋を呼んでいる。
公約発表時点では、私の知る限りどの新聞もこの公約について主題的に検討しなかった。
無視したのである。
その後、ネット上で反対論が噴出して、それを承けてはじめて報道するに至った。
この問題についてのマスメディアの無関心と危機感の希薄さが気になる。
これまで繰り返し書いているとおり、現在日本のエスタブリッシュメントは政官財メディアを挙げて「若年労働者の雇用条件の切り下げ」をめざしている。
その理由は何度も書いてきた。
「日本の中国化」である。
大飯原発再稼働のときの財界の主張をご記憶だろう。
日本にはもう生産拠点を置き続けることはできない。
その理由として指摘されたのが、人件費が高い、法人税率が高い、公害規制がきびしい、電力料金をふくむ生産コストが高い、という点である。
ここで原発を止めて火力に切り替えるなら、もう価格競争で他国に勝てない。
原発を再稼働しないなら、われわれは外国に生産拠点を移さざるを得ない。
それによって国内の雇用が失われ、地域経済が崩壊し、法人税収入がなくなっても、それはすべて政府の責任である。
この恫喝に政府は屈して、大飯原発再稼働を認めたのである。
ご覧のように、日本からの生産拠点の流出による産業の空洞化の第一の原因として財界人が第一に挙げるのはつねに「高すぎる人件費」である。
だが、変だと思わないか。
中国やインドネシアやマレーシアで格安賃金労働者が雇えるなら、黙ってそちらに移動すればいいことで、日本の若者の賃金の切り下げをうるさく主張する必要はない。
でも、うるさく主張する。
それは彼らも本音では海外なんかに出て行きたくないからである。
日本にいたいからである。
タイの洪水や中国の反日デモで露呈したように、海外に生産拠点を移した場合には言語障壁、自然災害、社会的インフラの不備、政情不安など安定的な操業を阻害する要因が多い。
いくら低賃金で労働者が雇えても、デモ一発で10月のトヨタのように月産8万台がゼロになってしまったり、株価が30~40%も下落してこつこつ貯めた利益が一夜で吹っ飛んだりするようであるなら、多少のコスト高は飲み込んでも、日本国内で操業する方が「安全」である。
現に中国では労働者の賃上げ要求で罷業や略奪が頻繁に起きている。このままいいなりに賃上げしていれば、「安い人件費」を求めて生産拠点を移したメリットがなくなる。
だから、大手の製造業はすでにインドネシアやマレーシアやベトナムに生産拠点を移し始めている。
だが、その「引っ越しコスト」は半端な金額ではない。
いずれインドネシアが経済成長すれば、ここでも人件費の引き上げが要求されるだろう。
「このやり方」が正しいという前提に立つなら、次はミャンマーかスリランカかあるいはアフリカかに工場を移転しなければ話の筋目が通らない。
そんな引っ越しを繰り返し、そのたびに新しい「リスク」マネジメントを学び直し、制度設計をやり直すコストは人件費で浮いた分を大幅に奪って行く。
それならいっそ日本に戻った方がましだ。
社会的インフラは安定しているし、政情も安定しているし、防災もさすがに手抜きはしまい。だいいち日本語が通じる。
人件費さえ安ければ日本に帰りたい。
それがビジネスマンたちの悲痛な本音なのである。
だから、この数年間の政財官メディアは一致協力して「中国なみ人件費達成プロジェクト」を推進している。
「大学を減らせ。学力の低いものは大学に行かせず、高卒で働かせろ」というキャンペーンは毎年数十万の低学歴・低学力労働者を生み出すことをめざしている。
就職情報産業主導の「就活」キャンペーンは、若い働き手をほんとうに求めている業種については意図的に情報を遮断し、グローバル企業を筆頭とするごく狭い求人市場に学生たちを送り込み、激烈な競争にさらすことで、学生たちの自己評価を切り下げ、「どんな雇用条件でもいいから、働かせて下さい」という卑屈なマインドセットを刷り込んでいる。
もう一つは雇用条件の複線化による「同一労働同一賃金ルール」の空洞化である。
同じ仕事を雇用条件の違う人々にやらせる。正社員の他に嘱託、派遣、バイトと、どこがどう違うのかわからない非正規雇用労働者に同じ仕事をさせる。
当たり前だが、誰もが同じような成果を上げる。
そこから導かれる結論は「だったら、バイトでいいじゃないか」ということである。
雇用条件の複線化の実践的結論は「同一労働・最低賃金ルール」である。
同じ仕事をしているなからもっとも安い賃金で働いている人間が「標準」であるべきだ。あとは全部「貰いすぎ」である。
そういう考え方がいつのまにか「常識」になった。
橋下大阪市長が「市営バスの運転手は、同じ仕事をしている阪急阪神バスの運転手よりも賃金が高い。これは貰いすぎである」と言ったときに、そのロジックが破綻していることを誰も指摘しなかった。
誰も。労働者自身がこの命題に賛成したのである。
「あいつらは貰いすぎだ」
だが、同じ前件から「阪急阪神バスの運転手の給与を引き上げるべきだ」という結論を導くこともできたのである。
あるいは「阪急阪神バスと市営バスの中程にみんな揃えたらどうだろう」という妥協案だって導くことができたのである。
現に、戦後の労働運動というのは、「同一労働でいちばん高い賃金」を基準にして賃上げ闘争をしてきた。
「同一労働で一番安い賃金」が適正賃金であり、それよりよい条件で働いている労働者はそれに「揃えるべきだ」という議論が当たり前のように口にされるようになったのは、ほんのここ十年のことである。
それまでは誰も「そんなこと」を言わなかった。
そんな近過去のことも人々は忘れている。ずっと昔からこのルールでやってきたような気分になっている。
それを見ると、「人件費を切り下げることが国家的急務である」ということについては、どうやら思惑通りに国民的合意ができつつあるようである。
新自由主義政党である維新の会にとって、最優先課題はグローバル企業に高収益を保証する政策を整備することである。
だから人件費切り下げが選挙公約に入るのは当然なのである。
最低賃金は最低限の雇用条件を確保するための強制的に時給の最低ラインを定めたもので、厚労相が労使代表と中立の公益委員に諮って相場や景況を判断してガイドラインを示し、都道府県ごとにそれを調整して採用している。
東京都は時給850円、大阪府で800円、最低が島根と高知で652円。
適用されるのはパートやアルバイトなど、雇用形態にかかわりなく、非正規雇用も含めて、すべての労働者である。
これを廃止するというのが維新の会の主張である。
橋下市長は「最低賃金のルールがあると、あと2,3人雇えるのに1人しか雇えなくなる。安く働けということではなく、賃金はできるだけ出して雇用も生んでもらう」と30日の記者会見で述べた。
市長はたぶん四則計算ができるはずだから、1人当たり時給800円のルールを廃止して、それで3人雇うということは、1人当たり時給267円になるということはわかると思う。
そもそも、この800円という目安そのものが廃止されるわけであるから、3人に対して時給267円というガイドラインも廃止される。
いくらでもいいのである。100円でも50円でも、雇う「権利」が雇用者側に発生するのである。
時給267円で8時間働いても一日2、136円である。月に25日働いて53、400円である。
これなら中国人労働者なみの雇用条件まであと一歩というところである。
そういう労働者が大量に備給されるなら、たしかにグローバル企業は国際競争(それは今では「コスト削減競争」と同義である)において相対的優位を占めることができるだろう。
もちろんその結果、国内の市場は冷え込み、内需は崩壊し、地域経済も衰退し、社会保障支出が増え、社会不安が亢進し、遠からず国民国家はその体をなさなくなるだろうけれど、そんなことはビジネスマンには「知ったことじゃない」のである。
彼らにとっては次の四半期の収支と株価だけが問題なんだから。
そういう目的に邁進するべく制度改革をしたいという政治家がわらわらと輩出し、それに拍手喝采する人々がいる。
いったい何を考えているのだろう。
たぶん日本の国民経済が崩壊しても、「時給267円で働く労働者を搾取できたおかげで、国際競争に勝ってフェラーリに乗ってドンペリを飲んでいる超富裕層」の一員になっている自分の姿を想像しているのだろう。
たしかに、そういう「いい思い」をする人が何万人か何十万人かは、これから出てくるだろう。
でも、それは「あなた」ではない。
これは私が保証してあげる。

2012.12.17

選挙結果について

総選挙の結果が出て、自民党が歴史的大勝を収めた。
選挙結果については大筋では予想通りということだが、ここまでの圧勝は徴候的である。
小選挙区制は得票率と議席率が同期しない制度であり、わずかな「風向き」の変化で、ドミノ倒しのように一政党が地滑り的勝利を収めるように制度設計されている。
アメリカの大統領選挙人制度と「地滑り選好性」において発想が似ている。
たしかに得票率と議席率が完全に相関していたら、議員構成はごく緩慢にしか変化しないはずである。
安定的であることは悪くはないが、そうなると万年与党はその権益にあぐらをかき、万年野党は政権構想をまじめに考えなくなる。
それよりは「わずかな入力差が大きな出力差となる」複雑系モデルの方が、有権者の変化を反映しやすいし、なにより政治家にひりひりした緊張感を与えることができる。
定常的であるより、頻繁に揺れ動く「不安定な政体」の方が「生命」の本態に近いのではないかと、そう考えた人がいたのだろう。
なかなかの知恵者である。
その結果、2005年の小泉郵政選挙で自民党は296の圧勝。2009年の政権交代選挙では民主党が308の圧勝。2012年の小党乱立選挙では自民党が294の圧勝という「振り子の振れ」の大きな選挙結果が示されている。
このような振幅の大きさこそがこの選挙制度のめざしたかたちであるというふうに受け止めた方がよい。
メディアの選挙総括がどこでもそう書いているように、自民党の勝利には積極的な理由がない。民主党の3年3ヶ月にわたる「オウンゴール」による得点だけで、自民党が野党時代に国民の耳目を集めるようなめざましい政治的実績があったわけではない。
選挙中、安倍総裁は改憲や国防軍創設といったポレミックな政策提言を風向きを見ながら、出したり引っ込めたりした。
政権を取ったあと、こういうイデオロギー系政策の扱いがどうなるか。それを注視したいと思う。
むろん安倍総理(予定)は圧勝の余勢を駆って一気にというふうに考えているだろうが、少し冷静な人たちはこの圧勝が次の歴史的大敗につながる可能性「込み」で贈られたものであることを知っているので、もうすこし慎重にことを構えるだろう。
野党が何もしなくても、政権与党の「オウンゴール」だけで政権陥落のリスクがあることは過去二回の選挙で学習した。
それに、イデオロギー主導的な政策については、アメリカや中国や韓国がどう出るか、予測がむずかしい。
外交は平たく言えば「ブラフ」のかまし合いである。
外交の骨法は「相手がどう切り返していいのかわからないようなカードを狙い澄まして切る」ことで、相手国内の国論を混乱に導き、すっきりとわかりやすくかつ国際社会に受ける外交的なパフォーマンスを「させない」ことにある。
アメリカが戦後日本を「支配」したときの外交がそのみごとな成功例である。
「分割せよ而して統治せよ」(divide et impera) は帝国主義の基本である。
現代では領土的な分割はむずかしいので、「国論の分割」が有効である。
そして、日本は、戦後67年にわたるアメリカの支配がみごとに証明したように、国論の分割がまことに容易な国なのである。
日本が外交的に軽んじられている最大の理由は、軍事力の不足でも、経済力の弱さでもなく、たいせつな話になると国論が割れて収拾がつかなくなる国だからである。
今回の選挙結果から諸外国が日本について改めて確信したのは「あそこは腰の決まらない国だ」ということである。
一国が「腰を決める」ためには、「清濁併せ呑み」「小異を捨てて大同につく」度量の大きなリーダーが登場して、ひろびろとした国家ヴィジョンを提示し、その実現に向けて「みんなまとめて面倒みよう」という話にもってゆくしか手立てがない。
だが、今のわが国にはこの手の懐の大きなリーダーは存在しない。
「小異を捨てて」の直近の使用例は石原慎太郎による「小異を捨てて大同について、第三極を作りましょう」という「小異連合による大同の妨害」提言であった。
それについて「それ、日本語の使い方が間違っているんじゃないですか・・・」と指摘した人が誰もいないことから推して、この国ではもうその言葉が死語登録されていることが知れるのである。
安倍総理(予定)は誰が見ても「懐の大きなリーダー」ではない。
だから、彼が対立する勢力を雅量をもって受け容れ、長期的な国家ヴィジョンを示して、国民的統合を果たすということは決して起こらないだろう。
今回の自民党の「勝ちすぎ」選挙が示すのは、私たちが(無意識のうちに)選んだのは「未決定状態にふらふらして、いかなるイシューについても国論の統一が果たせない国」という様態だったということである。
それが「最悪の選択肢のひとつ手前」のものであったとしたら、日本の選挙民の集団的叡智はそれなりに機能していたとみるべきなのかも知れない。

2012.12.19

国民国家とグローバル資本主義について

ある通信社から、選挙結果について、新政権がどのような方向をとるかについてコメントを求められた。
それについてこんなことを書いた。

大づかみに言うと、いま日本を含めて地球上のすべての人々は「国民国家とグローバル資本主義の利益相反」という前代未聞の状況を前にしている。
国民国家というのは、別に太古から存在したものではない。1648年のウェストファリア条約で基礎づけられた近代の統治システムである。
常備軍と官僚制を備え、領域内の人々は「国籍」というものを持ち、その領域に排他的に帰属しているという意識を持つ(それ以前、例えばカール五世はネーデルランドで生まれて、スペイン王で、神聖ローマ皇帝で、パリに住んでいた)。
国民国家が標準的な政治単位になってそろそろ400年である。賞味期限が切れかけてきたらしく、20世紀末になって脱領域国家的なグローバル資本主義が登場してきた。
ボーダーレスに人・モノ・資本・情報が激しく行き交うさまを人々はうれしげに言祝いでいるが、忘れてはならないのは、カール五世の場合がそうだったように、それらの交易で得られた富はもう国民国家の「国富」ではないということである
グローバル企業は単一の国籍を持っていないし、経営者や株主たちも特定の国家への帰属意識を持っていない。だから企業の収益は原理的には「私物」である。
グローバル企業は特定の国の国民経済の健全な維持や、領域内での雇用の創出や、国庫への法人税の納税を「自分の義務だ」と考えない。そんなことに無駄な金を使っていては国際競争に勝ち残ることができないからだ。
これからのち、政府は人件費を切り下げ、巨額の公共事業を起こしてインフラを整備し、原発を稼働して安価な電力を提供し、法人税率を引き下げ、公害規制を緩和し、障壁を撤廃して市場開放することをグローバル企業から求められることになるだろう。そして、私たちの国の政府はそのすべての要求を呑むはずである。
むろん、そのせいで雇用は失われ、地域経済は崩壊し、歳入は減り、国民国家の解体は加速することになる。
対策としては、ベタなやり方だが、愛国主義教育や隣国との軍事的緊張関係を政府が意図的に仕掛けるくらいしか手がない。気の滅入る見通しだが、たぶんこの通りになるはずである。(ここまで)

実際にはこんな過激なことは紙面に掲載できないとデスクが判断して、穏当な表現に書き替えられ、字数も減らされたものが掲載されるはずである。

以下、コメントについての解説。

政治史的文脈で言うと、「国民国家の頽勢期」に私たちは投じられており、その中で政治指導者たちは「グローバル資本主義」に軸足を置くか、「国民国家」に軸足を置くかで、ふらふらしている。
それは世界中どの国の政治指導者も同じである。
経済のグローバル化はある種の自然過程であり、これに適応しなければ、領域国家は「食い物」にされるだけである。
けれども、グローバル資本主義に加担すれば、遠からず国民国家そのものが瓦解する。グローバル資本主義には「国民経済」という概念がないからである。ある領域内部にすむ住民の福利を他のことよりも優先的に配慮するというのは国民国家にとっては「常識」だが、グローバル資本主義にとっては「たわごと」である。
さすがに国民国家が現実に政治装置として存在する以上、「国民のことなんか知るかよ」とは言い切れないので、弥縫策として「トリクルダウン」理論というものが動員された。
グローバル企業が収益を上げれば、その「余沢」が国民国家の貧乏人たちのところにも及ぶであろうというものである。
それを口実にして、「とりあえず国際競争力のある企業に国民国家の資源を集中させるために、国民は増税負担を受け容れ、賃下げを受け容れ、社会福祉や医療の切り下げを受け容れなければならないが、我慢してもらえば、いずれ『おこぼれ』が回ってくるだろう」という話で、ことが進んでいる。
「トリクルダウン」はグローバル資本主義と国民国家のあいだの本質的な矛盾を糊塗するための「詐欺的理論」であるが、現在のわが国の政治家は全員がこれを信じているふりをしている。
ほかに経済システムと政治単位の本質的な両立不能性を「ごまかす」手立てがないからである。
本気で「トリクルダウン」を信じている人たちは愚鈍である。
ほんとうは信じてないが、そういって国民をごまかして時間稼ぎをしている人たちは知的に不誠実である。
私たちが今なすべきなのは、「国民国家は賞味期限が切れかけているが、他に何か生き延びる知恵はないのか」ということをまじめに考えることなのだが、それだけは誰もしようとしない。

2012.12.26

朴聖焌先生のこと

朴聖焌先生と『日本辺境論』の韓国語訳者である金京媛先生がギルダム書院の日本語クラスのみなさん13人と一緒に昨日凱風館を訪れてくれたので、日韓合同ゼミが開かれた。
安藤忠雄の「光の教会」と直島を訪ねるツァーの途上である。
この日本語クラスは私が8月にソウルを訪れてギルダム書院で講演をした後に始まって、最初のテクストが『日本辺境論』で、それを読み終えての訪日である。
日本語クラスの次のテクストは光嶋くんの『みんなの家』だそうである。
テクストを読んだら、書いた人間に会いに行く。
「みんなの家」凱風館を見学して、建築家自身の話を聞いてから、それが建つまでの経緯を書いた本を読む。
朴先生ならではの「現実主義」の本領が伺い知れる。
この合同ゼミはついこの間ソウルに別件で訪れた光嶋くんがギルダム書院に行って、朴先生と意気投合して、決めてきた話である。
光嶋くんも朴先生も話が早い。
朴聖焌先生については、前に少し紹介したことがある。
軍事政権時代にソウル大学で経済学を学んでいたときに、反共法で逮捕拷問投獄されて、13年半獄中にあり、出獄後アメリカで神学の学位をとって、日本にも滞在されていたことがある老学究である。
今はソウルでギルダム書院という書店、カフェ、画廊、コンサートホールを主宰している。
金浦空港ではじめてお会いしたとき、キャリーバッグから無数の付箋のはりついた私の本を何冊も取り出して「これだけ読みました」見せてくれた。
朴先生と私をつないでくれたのはレヴィナスである。
先生は長くキリスト者として生きてきた。神学者として研究生活を送り、布教や伝道に携わってきた。
けれども、七十歳に近づいた頃、長い眠れぬ夜に「自分にはほんとうに信仰があるのか」を自問したとき、「ある」と言い切れない自分に向き合うことになった。
信仰の支援なしで、なお人間として倫理的に生きることは可能だろうか。
それについて考えているときに先生はレヴィナスに出会った。
正確にはレヴィナスという「名前」に出会った。
レヴィナスの主著は韓国語に訳されていない。
オランダに留学していたある韓国人研究者の論文にレヴィナスについての言及があり、それを一読して、「この人の本を読みたい」と思った。
そのためにフランス語を学び始めた。
哲学書も読み出した。
朴先生は日本語にも堪能なので、レヴィナスについて書かれた日本語の文献を渉猟し、そのとき私の著書に出会ったのである。
『レヴィナスと愛の現象学』と『他者と死者』を読んで、朴先生はおそらく「信仰の支援ぬきで、イデオロギーの支援抜きで、倫理的に生きるための規矩」をレヴィナスのうちに求めている年下の日本人研究者に何か共感するものを覚えたのではないかと思う。
レヴィナスの他者論は、ホロコーストの後、ヨーロッパのユダヤ人たちが、「神に見捨てられた」と思い込んで信仰に背を向けようとしているとき、彼らを信仰に引き留めるために錬成されたものである。
神はその民を救うためにいかなる天上的な介入もされなかった。
それを「神の不在」だとみなして、棄教の誘惑に屈しかけた同宗者たちに向かって、レヴィナスはこう語った。
ホロコーストは人間が人間に対して犯した罪である。
神は、人間が神に対して犯した罪は赦すことができるが、人間が人間に対して犯した罪をとりなすことはできない。
それは人間の仕事である。
自分たちの住む世界を人間的なものにするのは人間の仕事である。
もし、神が人間に代わって世界に整序をもたらし、手際よく悪を罰し、善に報いたら、人間は無能な幼児のままでよいことになってしまう。
神が完全に支配する世界で人間は倫理的である必要がない。
倫理的であるとはどういうことかを思量する必要さえない。
神が人間に代わってすべてを整えてくれるからである。
神なしでは何もできない人間を創造することが神のめざしたことだったのだろうか。
もし神がその名にふさわしい威徳を備えているなら、神は神の支援抜きでこの世界を人間的なものたらしめるだけ霊的に成熟した人間を創造されたはずである。
「唯一なる神に至る道程には神なき宿駅がある」(『困難な自由』)
この「神なき宿駅」を歩むものの孤独と決断が主体性を基礎づける。
「秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界における犠牲者の位置を受難と呼ぶ。この受難が、いかなるかたちであれ、救い主として顕現することを拒み、地上的不正の責任を一身に引き受けることのできる人間の完全なる成熟をこそ要求する神を開示するのである。」(同書)
朴先生はこのレヴィナスの曲がりくねった弁神論の理路をたどることで一度無神論を経由することによって再びおのれの信仰を基礎づけるという困難な道筋を歩もうとされているのではないか。
そんな気がする。
先生は「受難」された人である。
朴先生を13年半獄舎に投じたのは先生の同国人たちである。
先生が戦前の日本の改造社版の「マルクス全集」を所持していたことを咎めた人たちは「マルクス主義」というのがどんな思想であるのかさえ知らなかった。
朴先生自身も知らなかった。
その書物を手に入れたのは「マルクス主義というのはどういう思想か」を誰も教えてくれなかったからである。
若い学究の知的好奇心に非人間的な罰を与えたのは彼の同国人、彼と同じ言葉を話し、彼と同じように祖国を愛し、家族を愛し、勤勉に職務に励む人たちであった。
先生の苦しみは「人間が人間に対して犯した罪」である。
それを正すのは人間の仕事であって神の仕事ではない。
先生は「受難者」という立ち位置から、そう考えられたのではないかと思う。
朴先生がどんなことを話されたのかについてはまだ記しておきたいことがあるが、今日は昨日の英語でされた講演を紹介するにとどめておく。
これは先生がアメリカのユニオン神学校に留学していたときに、獄中体験について語って欲しいと乞われて話したものの一部分である。
英文の原文は朴先生から頂いた。昨日のゼミに出ていない方たちにも読んで欲しい。
英文のあとに私訳を付しておく。

I have been in the prison for 13 and half years as a political prisoner.
When I was first imprisoned, I was cast in a tiny solitary cell for the first six months without being permitted even a book to read. I was hungry and so lonesome.
But the greatest hardship I met with in prison was that there was no music there. But later on I came to know that music was there. In summer, when it began to rain at a distance, first came the smell of dust and then the sound of rain. It came nearer and nearer to my attentively listening ears. The sound became bigger and bigger and bigger. And suddenly the rain began to pour down and drummed violently on the tin-roofs of the old prison buildings. Then there were the sound of the water gushing out of the gutters and the creaks of the iron bars and the gates. Throughout the prison there was a flood of music. And suddenly the lightening came running across the sky and the thunder a little later, making the musical performance more dramatic. What a spectacular music it was!

In the yards and in every nook and cranny there grew various kinds of plants. Even out of the cracks on the high concrete fence there were living tiny wild plants. They had their four seasons. In spring, they awoke and raised their green fists. In summer, they boasted of their exquisite flowers. In autumn, if a careful observer, you could watch how they were busy with the harvest. And in winter, the thin dry stalks of wild plants, high up on the top of the concrete wall, were waiting for the spring to come enduring steadfastly the piercing north wind.
The winter in prison was terribly cold. There were no stoves, no heating system whatsoever. The temperature in the room was almost the same as that of the outside of the building. If you put a bowl of water in your room, you would find a lump of ice in there in the morning. In the freezing night I was cold and lonesome. Yet my consciousness became so still and so concentrated and my senses so keen and vulnerable. My breathing became silent prayers. When there was a full moon in the cold sky, the moonlight flooded in through the small window of my cell and painted blue waves of the ocean on the opposite wall. I arose and tiptoed to look out at the trees in the yard. In the moonlight they were thrilling with joy as well as with cold, just as I was. I said ‘Hi’ to them in a low, quiet voice and they returned ‘Hello’ in a shy motion, we could have long consoling talks with each other.
But, alas! Since I was released, I have lost that stillness in the routine of daily life.

私は政治犯として13年半獄中にありました。
私が最初に投獄されたとき、私は六ヶ月間狭い独房に放り込まれました。そこでは一冊の本を読むことも許されませんでした。私は飢えて、そして孤独でした。
監獄にいていちばんつらかったことはそこに音楽がないことでした。けれども、やがて私はそこにも音楽があること知りました。夏になって、遠くに雨の気配がした時のことです。最初は埃の匂いがして、それから雨音が聞こえたのです。雨音は聞き耳を立てている私の耳元までしだいに近づいてきました。音はしだいに大きく、大きく、大きくなりました。そして突然雨が降り注ぎ始め、古い獄舎のトタン屋根を荒々しく叩き始めたのです。雨樋を流れ落ちる水音と鉄格子と鉄の扉をきしませる音が響き渡りました。次いで稲妻が空を切り裂き、少し遅れて雷鳴が轟き、この音楽の演奏をさらに劇的なものとしたのです。なんとみごとな音楽だったことでしょう!

庭にも隅にも割れ目にもさまざまな種類の植物が繁茂していました。高いコンクリート壁の亀裂からさえ生命力あふれる野生の植物が生えてくるのです。植物たちにはその四季があります。春には、植物たちは目覚め、その緑の拳を突き上げます。夏には見事な花を誇らしげに咲かせます。秋には、子細に観察すれば、彼らが収穫に忙しい様子が見て取れるはずです。そして冬になると、その細く乾いた茎は、コンクリート壁のはるか上で、刺し通すような寒風にしっかりと耐えながら、春の到来を待つのです。
冬の監獄は恐ろしい寒さでした。そこにはストーブも、およそ暖房器具に類するものは何一つありませんでした。室温はほぼ外気温と同じでした。ですから、室内の器に水を張っておくと、翌朝にはそれが氷の塊になっているのです。凍えるような夜、私は冷え切って、ひとりぼっちでした。しかし、私の意識は鎮まり、深まり、五感はひりひりするほど鋭敏でした。私の息づかいは沈黙の祈りに似たものとなっていました。寒空に満月が浮かぶと、月光は独房の小さな窓を通して獄舎のうちに溢れかえり、反対側の壁に大海原の青い波を描き出します。私は起き上がり、つま先立ちになって庭の木々を眺めました。月光を浴びた木々は喜びと寒気で震えていました。私もそうでした。「やあ」と私は低い、静かな声で彼らに呼びかけました。「やあ」と彼らははずかしそうに身をよじって返答してくれました。そんなふうにして私たちは長い間、心を慰めるおしゃべりを交わしたのです。

しかし、何と言うことでしょう!あの静けさは釈放されてから後、日々の生活の営みにまぎれているうちにかき消えてしまったのでした。

2012.12.31

吉例2012年の十大ニュース

吉例2012年の十大ニュース

恒例の「2012年の十大ニュース」の発表。
一年が「あっ」という間に過ぎてしまった。
もう2013年ですか・・・
「玉手箱を明けたらたちまち白髪の老人」という浦島太郎の感懐はおとぎ話ではなくて、加齢の実感だということがよくわかる。
気を取り直して、この1年間をふりかえってみたい。
1) 凱風館道場に人がどんどん入門してきた。支部がどんどんできた。
光嶋裕介、神吉直人、三島邦弘、森田真生と前途洋々たる青年たちが続々と凱風館の門人になって、道場が急速に「梁山泊」化してきた。
これまでの傘下3道場(佳奈ぴょんの「合気道芦屋道場」、ウッキーの「芦屋合気会」、はるちゃんの「合気道高砂道場)に加えて、新たにさまざまな試みが始まった。はるちゃんの「ヨハンナ稽古」、社長の「足捌き部」、ドクターの「気の錬磨と当事者研究」、篠原さんの「ささの葉合気会」、トーザワ青年の「お稽古会」、アーサーの「踊らないダンス教室」Platform。来春には清恵さんの大阪の道場もスタートする。
できるだけ「教える立場」を経験するように、というのは多田塾甲南合気会の基本方針である。
自分が「エンドユーザー」であれば、術技や術理が不正確であっても、それで困るのは自分ひとりである。教えられた技に得心がゆかなくても、身体に違和感があっても、スルーすることができる。
自分が「教える側」であり、「パッサー」であるということは、「自分の不具合」が自分ひとりの問題ではなくなるということである。
「自分からパスを受け取る人たち」のために稽古しなければならない。
そのようなマインドで稽古するものと、自分ひとりのために稽古するものとの差は本人が思うよりもはるかに大きい。
2) たくさんのイベントを開いた。
自分の道場を持つことで「好きなことが、好きなときに、好きなだけできる」環境が整った。
さっそく今年開いたのは
多田宏先生の合気道講習会、甲野善紀先生の武術講習会、光岡英稔先生のナイフと意拳の講習会、安田登さんの甲骨文字と能楽のワークショップ、高橋佳三さんの武術的身体運用講習会。
いずれも来年以降も継続的に開催される予定である。
守伸二郎さんの講習会は3月から隔月で行われる。
3) スピンオフ加速する。
拠点ができるとそこから「リゾーム」状に活動が拡がってゆく。
いったいいくつ「部」ができたのだろう。
中心にあるのはもちろん多田塾甲南合気会と甲南麻雀連盟。
そこから派生したクラブ活動は私が把握しているだけで以下の通り。
ジュリー部(ジュリーの歌をカラオケで歌いまくるクラブ。なぜか最大派閥)、巡礼部(前田さんとシンペーくんが主宰する聖地巡礼活動。目標はサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼。釈先生と私の『聖地巡礼』プロジェクトを支えてくれている)、江弘毅とワンドロップ(江さんがバンマス、エレクトのおじきが音楽監督、イーダ先生がリードヴォーカルをつとめるラテンバンド。レパートリーも増え、クラブデビューも飾った)、おでん部(ジローくんが「ちくわぶ」を伝道しているC級グルメ部)、フットサル部(ワンドロップとともにこの一年もっとも活動的であったクラブ。さ兄さんとかんきちくんが幹事)、昭和歌謡部(最近できた。MBSの福島くんとナカノ先生とくろやんが昭和歌謡を歌いまくるらしい。ようしらんけど)、不惑会(ドクター佐藤と青山さんと西さんがしみじみしているクラブ)、うな正会(「街の悪いうなぎを正す会」。江さんとドクターが創立メンバー。鰻好きのナカノ先生と釈先生と私もまぜてもらいました)、ス道会(大学には「極楽スキーの会」があるが、道場にスキーの会がなかったので、去年からタニオさんが幹事となって創設。高橋佳三さんをコーチに迎えて神鍋高原で武道スキーと蟹三昧)、シネマ部(光安さんが主宰するコアでディープな映画鑑賞会)、蹴球廃人連盟(清恵さんが主宰しているサッカーを深夜から早朝にかけてテレビで見るために全員社会的に廃人化するプロジェクト)、ちはやふる部(毎年お正月に着物を着て百人一首をする会)。
ほかにもいろいろあるらしいけれど、もう思い出せない。たぶん来年もさらにスピンオフは増殖するのであろう。
4) 凱風館まわりで結婚・出産ブーム止まず。
今年も結婚・出産が続いた。結婚は大迫力・裕子、神吉直人・さやか、森田真生くんご夫妻。ご出産は常田くん・汐ちゃんと小野くん・澪ちゃん、谷口さんのところも今年でした。
みんなおめでとう!お幸せに。
4のB)これはびっくりの婚約発表。凱風館的には今年最大の「びっくり」事件だったのだけれど、本人たちからの許可がまだないので、しばらくは氏名非公開。
5) おともだちがAERA「現代の肖像」に連続出演
小田嶋隆、釈徹宗、森田真生、三島邦弘と友人たちが続々と「現代の肖像」に取り上げられ、周辺取材が私のところにも来た。
年間に4人というのはかなりの比率である。
別に「いもづる」式に次の取材先を探しているわけではなく、同時並行的に複数のライターが長期の取材をしている企画であるから、「たまたま」なのである。
6) 今年もたくさん本を出した。
『街場の読書論』(太田出版)、『街場の文体論』(ミシマ社)、『日本の文脈』(中沢新一との共著、角川書店)、『この国はどこで間違えたのか-沖縄と福島から見えた日本』(小熊英二ほかとの共著、徳間書店)、『ぼくの住まい論』(新潮社)、『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』(高橋源一郎との共著、Rocking on Japan)、『辺境ラジオ』(名越康文、西靖との共著、140B)、『荒天の武学』(光岡英稔との共著、集英社新書)。
文庫化されたのは『昭和のエートス』(文春文庫)、『九条どうでしょう』(平川克美、小田嶋隆、町山智浩との共著、ちくま文庫)、『いきなりはじめる仏教入門』(「いきなりはじめる浄土真宗」を改題。釈徹宗との共著、角川ソフィア文庫)『はじめたばかりの浄土真宗』(釈徹宗との共著、角川ソフィア文庫)。
翻訳は『日本辺境論』(中国語版、韓国語版)、『街場の教育論』、『先生はえらい』、『若者よマルクスを読もう』、『私家版・ユダヤ文化論』(以上、韓国語版)。
疲れるはずだ。
7) 韓国に行って、読者たちに出会った。
これがあるいは今年最大のイベントかもしれない。
韓国では私の本は三つの出版社から出ている。そのうち二社(ミンドルとガラパゴス)のご招待で8月15日から17日までソウルを訪れた。
金浦空港でミンドルの金敬玉さん、ガラパゴスの金さん、そして朴聖煥先生に迎えて頂いた。
朴先生についてはすでに断片的に書いたが、金敬玉さんからの事前の紹介ではこんなふうに書かれていた。
「パク•ソンジュン先生は、1970年代の朴正煕軍事独裁政権下で民主化運動をなさって長い年月刑務所生活をしました。出獄後、大学で講義をしたりしました。
また人文学の学習運動の必要性を痛感し、2006年ギルダム書院を作りました。
ギルダムという名前は、内田先生の街場のような意味で私は理解しています。
パク•ソンジュン先生は70代半ばの年齢にもかかわらず、書院で大衆と熱心にコミュニケーションし、世の中の変化のために活動してます。
数年前に内田先生の本を偶然書店で出会った後、その研究に邁進したそうです。
パク•ソンジュン先生の奥さんは、韓明淑という盧武鉉政府の時に総理大臣を務めた方です」
第一日は新聞の取材のあと、朴先生の主宰するギルダム書院で講演。
翌日は読書会のメンバーと昼食会、そのあと教育関係の方たちとトークセッション、夜は市民対象の講演。思いがけなく若い聴衆が多くて驚いた。講演後、ずいぶんたくさんの若い人たちが私の著書を持ってきてサインを求めてくれた。
第三日も新聞社の取材。そのあとみなさんと昼食をとって、朴先生の熱いハグを受けて金浦から飛び立った。
取材記事はそのあと釜山大学の朴東燮先生が訳して送ってくれた。
http://blog.tatsuru.com/2012/08/28_1111.php
http://blog.tatsuru.com/2012/08/20_0918.php
帰国後、ガラパゴスの白さんという若い女性編集者にお礼のメールを書いた。
そのときの気分がよく出ているので、メールをそのまま採録しておく。
「韓国滞在はすばらしい時間でした。
ギルダム書院の朴聖焌先生とお会いできたことが、今回のソウルでのさまざまな出来事の中でもっとも印象に残ったことでした。
先生のような、国家権力と個人で対決して、屈服しなかった知識人というものを私たちの国では、もうリアルな存在として見ることができません。
戦後67年間にわたる平和と繁栄の代償として、私たちの国には、「硬骨の知識人」というものを失ってしまったのです。
もちろん、政府機関や秘密警察が市民を弾圧するような政体はすこしも望ましいものではありませんが、そのような体制が「ほんとうに信頼するに足る人間」とそうでない人間を区別できる「人間を見る眼」のたしかさを作り出したのは確かだと思います。
釜山大学の朴東燮先生も、ミンドルの金敬玉さんも、朴先生をみるときの眼が「きらきら」していました。
信頼でき、尊敬できる年長者をもつことが若い世代にとっては、心の支えになるということがよくわかりました。
日本でも若い人たちは孤立させられ、劣悪な雇用条件に追い込まれています。政治家もメディアも、「経済成長」に夢中で、若い人たちにどのような生きやすい環境を提供するか、若い人たちの市民的成熟をどう支援するか、というような問題にはほとんど関心を示しまていません。
その点では、韓国も日本もそれほど事情は変わらないだろうと思っています。
でも、次世代を担うのは、白さんのような若い世代です。
その人たちを同世代間での競争に追い込み、心身を疲労させれば、いずれ社会そのものの土台が崩れてしまうことに、ほとんどの人々はまだ気づいていません。
ガラパゴスやタンポポやギルダム書院は、そういう若い人の知性的・感性的な成熟を支援するための、自主的な試みだと僕は思います。
もう政府や行政には任せておけない。若い人は自分たちの手で支援しなければならない。そういうふうに考える大人たちが少しずつ増えているのだと思います。
日本の凱風館で僕がやろうとしていることと、深いところでつながる、そういう市民たちの運動と出会うことができて、ほんとうにうれしく思いました。
白さんもがんばってくださいね。
ガラパゴスの林社長、金さんにもよろしくお伝えください。
どうもありがとう。」
8) その朴聖煥先生がギルダムの講演のときに通訳をしてくれた金京媛さんとご一緒に日本語勉強グループを引率して凱風館を訪れ、寺子屋ゼミのメンバーと合同ゼミを開いてくれたことも十大ニュースに入る。
9) 初能『土蜘蛛』を披く。
能楽を始めて15年。はじめての能で『土蜘蛛』のシテを演じた。
ツレの頼光を佐藤“ドクター”友亮さん、胡蝶を飯田祐子先生に、ワキは福王茂十郎先生にお願いした。
これで9個。
あとのひとつは「オープンエンド」で席をひとつ空けておくことにする。
(追伸:新聞社からの問い合わせで調べたら、合気道七段昇段が今年の一月であることを思い出した。去年のことだと思い込んでいた。これで十大ニュースになった)
今年も忙しい、でも生産的な一年であった。
来年も凱風館で愉快な出会いを経験ができることを祈りたい。

すべての方々が佳き年を迎えられますように。

新年のご挨拶がわり

大晦日なので、何かたのしいことを書きたいのだが、書くことがない。
しかたがないので、ある媒体の新年号に寄稿したものを転載する。
年頭所感ということで書いたものである。
平川くんが『移行期的混乱』について自注している文章と併せて読んでもらうと、話の筋目が見えてくるかもしれない。
http://www.radiodays.jp/blog/hirakawa/


震災と原発事故から1年半が経った。この1年半で日本人は変わっただろうか?考え方やものの感じ方や、生き方が変わっただろうか?
変わったはずである。変わらなければ困る。だが、社会の表層を見ている限り、大きな変化は検知されていない。むしろ、2011年よりも退行しているような印象がする。
この文章を書いているのは衆院選挙戦の翌朝だが、選挙では「原発再稼働」やTPPだけでなく、「改憲」や「徴兵制」や「核武装」といった幻想的なイシューが「熱く」語られていた。
そういう論点を前景化する人たちが何を実現しようとしてそうしているのかは私にはよくわからない。
だが、彼らが震災と原発事故の話は「もうしたくない」と思っていることはよくわかる。「厭な話」はもう忘れたいのだ。
それよりは、どうすれば経済が成長するか、どうすれば税収が増えるか、どうすれば国際社会で威信が増すか、どうすれば国際競争に勝てるか。そういう話に切り替えたがっているのはよくわかる。震災だの原発事故だのという「辛気くさい話」はもう止めたいのだ。それよりはもっと「景気のいい話」をしようじゃないか。相当数の日本人がそういう気分になっている。その苛立ちが列島を覆っている。
それに対して、震災や原発事故の被災者に継続的な支援を続けてきた人たちの姿はしだいメディアの後景に退いている。
もともと彼らを駆り立てていたのは、個人的な「惻隠の情」であった。被災者を支援しない奴は「非国民」だというような攻撃的な言葉遣いで被災者支援を語る人間は私の知る限りどこにもいない。他者の痛みや悲しみへの共感は政治的な語法となじみが悪いのだ。
でも、「口を動かすより手を動かす」という謙抑的な構えをとる人たちにメディアはすぐに関心を失ってしまう。メディアは、その本性からして、「ぺらぺら口を動かす人間」「何かを激しく攻撃している人間」を好むのである。
そういうふうにして日本人はいつのまにか二極化しつつある。それが「ポスト3・11」のもっとも際だった日本社会の変化ではないかと私は思う。
一方に「賑やかだが空疎な言葉をがなり立てる人たち」、「何かを激しく攻撃する人たち」、「他責的な言葉づかいで現状を説明する人たち」の群れがいる。メディアはこの「うつろな人たち」の言動を好んで報じている。
だが、他方に、個人としてできることを黙々と引き受けている人たちがいることを忘れたくないと私は思う。誰かを責め立てても事態がすぐに好転するはずがないことを知っており、まず自分の足元の空き缶一個を拾うところからしか秩序を再構築することはできないということを知っている人たちがいる。この人たちの声は小さく、表情は静かである。だが、彼らこそ「地の塩」だと私は思っている。
私が今の日本社会を見ていて、あまり絶望的にならずにいられるのは、周囲にいる若い人たちのうちにいくたりもの「地の塩」を数えることができるからである。誰に強制されたのでも、教え込まれたのでもないし、「そうすればいいことがある」という利益誘導に従ったのでもなく、黙って「空き缶を拾う」ような仕事を淡々と担っている若者たちの数はむしろどんどん増えているように思われる。苛立ち、怒声を上げている若者たちは目立つ。だから、世の中には「そんな若者」ばかりだと人々は思っているかも知れない。だが、静かな声で語る、穏やかなまなざしの若者もまたそれと同じくらいに多い。彼らに日本の希望を託したいと私は思っている

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