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新刊

街場の憂国会議
街場の憂国会議/晶文社
高橋源一郎、平川克美、小田嶋隆、中島岳志、中野晃一、孫崎享、想田和弘、鷲田清一との共著。
先般の特定秘密保護法案の国会通過のあと、これを「民主制の危機」の徴候と感じた論客たちにお声がけをして安倍政権の本質についての論考をとりまとめました。
寄稿者たちの顔ぶれを見るとわかると思いますけれど、「濃い」です。

沈む日本を愛せますか?
沈む日本を愛せますか?―文庫版/文春文庫
渋谷陽一さん主宰の政治誌『Sight』に連載されていた高橋源ちゃんと僕の「時事放談」。文庫化第一弾では2009年政権交代の前後にした話が収録されています。わずか5年間のことなのに、もう遠い昔のことのようです。震災と原発事故がある「前」の日本の風景と今の風景はまるで違うものであることに驚きます。あの事件は日本人にほんとうに深い傷を残したのですね。

日本の身体
日本の身体/新潮社
『考える人』に連載されていたインタビュー集が単行本になりました。多田宏先生、安田登さん、池上六朗先生、平尾剛さん、鶴澤寛也さんら多彩なインタビュイーとおもに「技術知」「身体知」をめぐって対話しております。担当は足立真穂さん、構成は橋本麻里ちゃん。このとき私がお二人を引き合わせたのでした。やがてここに青山さんをまじえたゴールデントライアングルが形成されることになることはそのときは知る由もなく。

街場の共同体論
街場の共同体論/潮出版社
雑誌『潮』で過去数年断続的に行ってきたインタビューや寄稿をまとめたもの。とはいいつつ例の如く原型をとどめぬまでに加筆したので、「ほぼ書き下ろし」です。家族論、学校論、師弟論などを展開しております。

2014.12.20

東京新聞のロングヴァージョン「選挙の総括」

東京新聞のインタビューで選挙の総括をした。ラフの原稿が届いたのだが、締め切りに気づかず、リタッチしていたら、もう掲載された後だった。
せっかく書いたので、ここに再録する。

今回の選挙で有権者が示した判断は「判断保留」ということでした。エコノミストたちのあるものは経済指標は悪化しているといい、与党はどんどん良くなっていると言う。どちらのデータ解釈が真実なのかは私たち素人には判定できません。ですから、有権者は判断を保留した。いずれ判断できる時点まで、今は「中腰」の姿勢で見守っているという感じだと思います。
有権者数を分母にした全国の比例代表の得票数でみれば、自民党は1770万票で、全有権者の17%にすぎません。それを「圧勝」と表現するのは不適切でしょう。
戦後最低の投票率が意味するのは「政権の政策の成否の結果が出るまで、もう少し待つ」という有権者の「中腰のまま、大きな変化を望まない」傾向です。有権者は「大きな変化を望む」ならば投票所に向かうし、「自分の一票で政治が変わるかもしれない」と思えば、投票所に向かう。有権者の過半にはそのどちらの気持ちもなかった。「大きな変化を望まない」という現状維持と、「自分の一票くらいで政治は変わらない」という無力感が、この歴史的な低投票率の意味するところでしょう。

自民党は「争点はアベノミクス」と言い張りました。要は経済成長である、と。経済成長に利するような政策を展開するから見ていてくれ、と。有権者の多くも「争点は経済だ」という言い分に頷きました。それは「政治の最優先事は金だ」という考え方に同意したということです。
とにかく金がいる。官民挙げてそれが国民の総意であるならば、結論は簡単です。国家を金儲けに特化したかたちで制度改革すればいい。国のしくみを営利企業に準拠して作り替えればいい。それが「国民国家の株式会社化」ということです。

国家を株式会社化する上で民主主義はもとより無用のものです。株式会社のCEOは独断専行で即断即決する。従業員や株主の合意を得てからはじめて経営判断を下すような鈍くさい経営者はいません。株式会社は民主的に運営されているわけではない。ワンマン経営でもトップダウンでも構わない。なぜなら、経営判断の適否はただちにマーケットが下すからです。「マーケットは間違えない」。これはすべてのビジネスマンの信仰箇条です。これに異を唱えるビジネスマンはいません。経営判断の適否は、タイムラグなしに、ただちに、売り上げ、シェア、株価というかたちで目に見える。どれほど非民主的で独裁的なCEOであっても、経営判断が成功している限り経営者に反対することは誰にもできません。
安倍首相がめざしているのは、そのような「株式会社化した国家を支配する、CEOのような統治者」です。

彼らが理解していないのは、政治にはビジネスにおける「マーケット」に対応するものが存在しないということです。
国政の適否の判断は今から50年後、100年後も日本という国が存続しており、国土が保全され、国民が安らぎのうちに暮らしているという事実によって事後的にしか判定されない。新製品がどれくらい市場に好感されたか、というような「マーケットの判断」に相当するものは国政については存在しない。
政府が行っている政策の適否がわかるのが自分たちの死後かも知れないという予測の不確かさを実感しているからこそ、民主制国家は独裁を認めないのです。
民主制国家でどれほど時間をかけても合意形成が即断即決よりも優先されるのは、採択された政策が「失敗」したとわかったときに、「CEOを馘首する」というソリューションがとれないからです(たいていの場合、失政の張本人はとっくに引退するか、死んでいます)。
そのとき失政の後始末をするのは国民国家の成員たちしかいない。誰にも責任を押しつけることができない。先祖がした失敗の尻ぬぐいは自分たちがするしかない、そういうマインドを国民の多くが持つための仕組みが民主制なのです。
政策を決定したのは国民の総意であった、それゆえ国民はその成功の果実を享受する権利があり、その失政の債務を支払う義務がある。という擬制を支えるのが民主制です。

安倍政治がめざしているのは、そういうものではありません。彼らは自分たちの政策が歴史的にどう検証されるかということには何の興味もない。彼らにとって政策の成否判断の最高審級は「次の選挙」です。次の選挙が彼らにとっての「マーケット」なのです。そして、「マーケットは間違えない」以上、次の選挙で当選するということは、それまで行った政策の適否についての歴史的判断はその時点で確定したということになる。5年後、10年後にその政策判断がどういう結果をもたらしたか、そんなことは与り知らない。
彼らが「文句があれば次の選挙で落とせばいい」とか「みそぎは済んだ」というような言い回しを好むのは、そうすることによって「直近の選挙結果が政策の適否を判定する最終審級であり、歴史的な審判などというものは考慮するに及ばない」というイデオロギーを国民に刷り込むためです。

ですから、安倍政権はある政策を採用すれば、株価がどう上がるか、次年度のGDPはどうなるかということには興味があるけれど、その結果、数年後に日本がどうなるかということにはほとんど想像力を用いない。
その点で、歴代でもっとも「知性と想像力を欠いた政権」と評するしかないでしょう。
集団的自衛権を行使して、米国の海外派兵に随行して米軍の戦闘行為の下請けをするようになれば、自衛隊が殺傷した人々の同胞たちは日本を「敵国」と認定し、いずれ日本人をテロの標的にすることでしょう。それによって失われる人命や破壊される財産や失われる社会的コストを彼らはゼロ査定しています。とりあえず、そのようなコストは「次の選挙」の前には発生するはずがないので、考えない。彼らの政策の適否を判定する「マーケット」は5年後10年後に日本がこうむるリスクを勘定に入れる商習慣がないマーケットだからです。

安倍政権が進めている政策は日本の戦後七十年の平和主義と民主主義の政体を根本から変えるものです。与党はそれを隠したまま争点を「金の話」に限定した。そして、「金が欲しいんでしょう、みなさんも」と叫び続けた。
これから先も、政府は自分たちが何をしようとしているのか、それが未来の日本にどのような影響を及ぼすかについては、何も語らないでしょう。
先のことは考えなくていい。目先の銭金だけが問題なのだ。それが国民の総意だったはずだ。そういう言い訳で彼らは自分たちの政体変革の歴史的意味を隠蔽し続けることでしょう。
私たちにできるのは「国家は金儲けのためにあるわけじゃない」という常識に立ち戻ることです。株式会社なら、経営に失敗しました。倒産しますで話は済む。株式会社は有限責任体ですから。株券が紙くずになっただけで終わりです。
でも、国家はそうはゆきません。失政のツケを国民は何十年も何百年も払い続けなければならない。私たちは国家の株主なんかじゃないし、むろん従業員でもない。私たちの90%以上はこれからもずっと日本列島に住み、日本語を話し、日本の宗教や生活文化の中で生きることを宿命づけられている。逃げる先はどこにもない。次の選挙より先のことを考えない人たちに自分たちの運命を委ねることはできません。

神戸女学院大学

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