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新刊

代表質問
代表質問/柴田元幸/新書館
柴田元幸さんの新刊はインタビュー集。12人プラス1人と柴田さんがおしゃべりしてます。
お相手はテス・ギャラガー、スチュアート・ダイベック、村上春樹、ジョン・アーヴィングなどなど。
『村上春樹にご用心』の出版イベントのときの対談も収録してもらいました。
柴田さん、ひとのお話引き出すのうまいです。

下流志向―台湾語版
下流志向―台湾語版
『下流志向』韓国語版に続いて、今度は台北で台湾語版が出ました。
東アジアのどの国も、「学ばない子ども、働かない若者」は共通の社会現象みたいですね。
ぜひこれを中国語(繁体字)で読みたいという人がいましたら、ご一報ください。
お送りします〜。

人生2割がちょうどいい
人生2割がちょうどいい/岡康道・小田嶋隆講談社
小田嶋隆×岡康道という都立小石川高校同級生の抱腹絶倒(ときどき涙)の「青春」回想対談集。
「1956年生まれ」の二人がたどった足跡を知ると、われわれ「団塊の世代」はこの世代に「手つかずのもの」を何一つ残さなかった罪の重さをしみじみ味わうのです。
でも、その結果、オダジマ世代は「ニッチ」あるいは「レバレッジ」という、「狭いところにねじ込んでいって、全体を何とかしちゃう」という独特の組織戦略と批評性を獲得したのでした。


今日:
昨日:

2009.07.02

安倍季昌さんと会う

『考える人』のインタビューで雅楽の安倍季昌さんとお会いする。
安倍さんは1943年生まれ。千年続く京都方楽家(「がっけ」と読んでね)のお生まれ。
家芸は篳篥(ひちりき)と神楽舞。
そのほか、右舞(朝鮮半島系の舞楽)、箏、打物、歌謡などをされる。
宮内庁楽部の伶人として、昭和天皇の大喪の礼、今上天皇の即位の礼、伊勢神宮の遷宮などの大きな儀礼のほか、外国からの来賓が来たときの奏楽や、新嘗祭などの恒例の祭事にひさしくかかわってこられた方である。
私のようながさつな東京下町“地下人”キッズはこんな企画でもなければ、まずお目にかかることのない「殿上人」である。
でも、たいへんに穏和でユーモラスな方で、篳篥の演奏や舞の運足などを拝見しているうちに、3時間ほどあっというまにすぎてしまった。
私は知らない世界のことについて話を聴くのが大好きなので、話は宮中のことになる。
安倍さんはもちろん「陛下は・・・」と言われるのだけれど、安倍さんの口から出る柔らかい音色の「へいか」という言葉は、政治家やナショナリストのイデオロギーが口にする同じ言葉とは手触りがまったく違う。
それは政治的な「記号」ではなく、生身の人間について用いられている代名詞だからである。
私はこんなふうに「陛下」という語を発語する人とはじめて会った。
宮中の祭事について、私たちはほとんど何も知らないけれど、新嘗祭などは夕方から深夜まで続き、その間楽師たちは奏楽し続けている。祭事が終わるころには楽師たちも疲弊し果てているが、陛下もまた蒼白となって、よろめくように賢所から出て来られるそうである。
この国の五穀豊穣を神に感謝する祭事を、誰も見ていないところで、何人かの人たちが粛々と、骨身を削るようにして行っている。
「それがどうした」と思う人もいるだろうけれど、私はこういうのも一種の「雪かき」仕事なんだろうと思う。
その仕事の意味や有用性について誰も保証してくれない仕事を、それを完遂しても誰からもねぎらいの言葉がかけられない仕事を黙って行っているからである。
安倍さんの言葉の端々からはそういう報われることの少ない仕事に全身を捧げている人に対する真率な敬意が伝わってきた。
そして、「真率な敬意」というものが私たちの社会では今やどれほど希有のものかを思い知ったのである。

2009.06.30

忙しい週末と批評家の責任について

土曜日、合気道稽古のあと、北野のホテル・トアロードのニュー香港にて、甲南合気会・神戸女学院大学合気道部・杖道会主宰の結婚祝いのパーティ。
みなさんにおみやげのアンリ・シャルパンティエのお菓子を買うことにしたので、人数を訊くと、全部で79名。
武道関係者のみならず大学院聴講生のマダムたちもお見えになっていた。
永山くんがシャンペンの瓶のふたをナイフで切り飛ばす大技のソムリエ芸を繰り出して開会。
司会はいつもの谷口・谷尾コンビ。
全部で出し物が12個あるという(2時間の宴会なのに)。
披露宴ですべての出し物を禁じたので、その腹いせというか欲求不満が嵩じたのか、歌に、踊りに、芝居に、演奏にとまことに盛りだくさん。
ひさしぶりにヤベ・クー・おいちゃんトリオの「あてがきパロディ・ミュージカル」を見る。
今回のパロディネタは『天空の城ラピュタ』で、「あてがき」されたのは会の「夫婦」たち。
ヤベのムスカ大佐がそっくり。アニメの真似までできるとは、まことに端倪すべからざる才能である。
写真は私たちのものがないので、思いつき的に「会員たちの逸品」を放映する。
ケンサクさんの高校時代の「アイドル写真」や、オオツカさん14歳の「ツッパリ写真」に歓声が上がる。
企画してくださったタカトリくん、トーザワくん、清恵さんご夫妻、司会の谷口さん、谷尾さん、『冬ソナ』を演奏してくださったタカモトさん、タナカさん、みなさん、ほんとうにどうもありがとう。
日曜日はひさしぶりの例会。
13名集まって3卓を囲む。
今季も不調の総長は、かろうじて5戦1勝。
養成リーグから上がってきたタムラくんが必死に打っているが、やはりボロ負け(涙)。
オーサコくんが後ろで偉そうに指導している。このあいだまで自身も養成リーグにいたのに、J1でもよく勝つので、これもよろしくない。
若い諸君にはもっと「愛想よく負ける」という芸に熟達してほしいものである。
月曜日。部長会がないので、昼過ぎまで家でのんびり仕事。
日経から電話取材。『1Q84』について。
村上春樹的神話構造と「料理とお掃除」の関連についてお話しする。
夕刊の文芸時評に川村湊が『1Q84』を評している。
川村の評価は否定的である。その一部を採録する。
「『1Q84』という小説自体が、虚構の『現実空間』(変な言い方だが)を作り出そうとしている作品なのだが、この『現実』の世界と、ちょっとだけずれた世界を構築しようとしていることに、興味を引かれる。私たちのこの世界は、階段を一段だけ踏み間違えてしまったおかげで、奇妙な、リアリティーのない世界に足を踏み入れてしまったのではないか。それは、たぶんオウム真理教のサリン事件と、阪神大震災のあった、あの時点から、あるいはもっとそれ以前から(1984年から?)
しかし、私たちが立ち戻るべき“正しい世界”とか“正常な世界”なんかは存在しない。それで村上春樹という物語作者は、“1Q84年”という時空間を設定し、どこか既視感がありながら、現実の世界とは微妙にずれている物語空間を作り出そうとしたのである。
もう一人の主人公の青豆が陥ったパラレルワールドを描いた“1Q84”の世界の、物語としての面白さは認めざるをえない。だが、この虚構空間を、もう一度『現実』に還元した時に見えてくるのは、現実の事件や人間や、いろいろの問題の解決法としての“底の浅さ”以外のものではないのではないか。暴力やテロや戦争を、こんな低い鞍部で越えてよいものだろうか。村上春樹作品における根源的な物語る力の衰弱を感じざるをえなかった。(・・・)現実の世界を少しずらしながら、小説についての小説を書くこと。これは、物語を物語ることの衰弱なのか、あるいはその極限というべきだろうか。小説と現実は乖離しているのだろうか。現実という壁に対しての、壊れものとしての卵のような小説。しかし、そうした比喩に、現実の壁に届かない卵の自壊作用が含まれているのではないか。」(毎日新聞、6月29日夕刊)
わかりにくい批評である。
ひとつはこの批評家が、小説作品の価値を考量するときに、「現実の事件や人間や、いろいろの問題の解決法」を示したかどうかを基準としている(らしい)のだが、その意味が私にはよくわからなかったからである。
小説作品の価値というのは、「暴力やテロや戦争」といった「いろいろの問題」をどのように効果的に解決したかで決まる、というふうに理解してよろしいのだろうか。
それも一つの考え方だとは思うが(私は必ずしも同意しないが)、だが、その場合、ある小説がそれらの問題を「解決した」かどうかは、あるいはその「解決法としての底の深浅」は誰が何を指標にして判定するのだろうか。
私たちを説得したいと望むなら(違うかもしれないが)、その場合には、村上春樹を否定的に評価することの論拠として、川村は「暴力やテロや戦争」を現に解決してみせた文学作品の例をいくつか列挙して、「これらの作品に比較したときに劣っている」というふうに論を進めるべきではないかと思う。
ある文学作品を「・・・ができていない」とか「浅い」といった言い方で批評した場合は、「・・・できている」作品や「深い」作品をそれと対比させなければ、批評家が何を基準にしてそう判定しているのか、私たちにはわからない。作品を評価する手だても、考課している当の批評家の判断そのものの適切性を評価する手だてもない。
以前、「村上春樹の世界性」を疑問視するある批評家が、こう問いただしたことがある。
「どうして春樹のアラビア語訳やウルドゥー語訳が存在していないのでしょうか。これは言語をめぐる政治の問題です。はたしてバグダッドやピョンヤンでは春樹は読まれているのでしょうか。世界がハルキを読む。大いに結構です。だがその場合の『世界』とは何なのか。端的にいって勝ち組の国家や言語だけではないのか。ここに排除されているものは何なのか。誰なのか」
これは「言いがかり」に類するもので批評の態をなしていないと私には思えた。
アラビア語やウルドゥー語の訳が存在しない文学作品は所詮ローカルな文学であり、ピョンヤンでもバグダッドでも読まれるものでなければ、世界的とは言えないというロジックを認めたら、この世に「世界文学」などというものは存在しなくなる。
村上春樹の文学が世界的ではないというのは一つの判断である。
けれども、村上春樹の作品は英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、韓国語、ハンガリー語、フィンランド語、デンマーク語、ポーランド語、インドネシア語などに訳されており、その語種は年々増加している。
その語種が世界のすべての言語を網羅していないからという理由で、どのような外国語にも翻訳されていない小説と村上春樹の小説は「どちらも非世界的である点で選ぶところがない」という判断を下すことにどのような積極的な意味があるのか、それによって村上春樹作品についての理解がどれほど深まるのか、私にはわからない。
「世界的」とは「世界中のすべての言語で訳されていること」というであるという基準を適用すれば、「世界的文学」というものは過去にも現在にも存在しないし、おそらく未来にも存在しないであろう。
その場合に、ある文学作品を指して、「これは世界的ではない」と言ってみても、それは現存するすべての文学作品に妥当することなので、個別作品についての理解は少しも深まらない。
それは「これは本である」と言っていることとほとんど変わらない。
「それがどうした」という以外にどのような反応をこの批評家は期待していのか、私にはうまく想像できない。
同じことを私は川村のこの批評についても言えると思う。
批評家はどうやら「現実の事件や人間や、いろいろの問題の解決法として」“底の深さ”を示した文学作品、「暴力やテロや戦争」を高い鞍部で越えた作品、「根源的な物語る力」の横溢している作品、「現実と乖離していない」小説、「現実の壁に届く」作品を読みたく思っているが、村上春樹の新作がその期待に応えてくれなかったことを不満に思っているようである。
それは個人的な印象なのだから、余人の容喙すべきことではない。
けれども、もしその不満に汎通的に有用な知見が含まれていると思っているなら、せめて彼が「及第点」を与えられる作品はどういうものなのか示し、その根拠を挙証する義務からは免れないだろう。
「彼から見て100%の文学作品」がどのようなものであるかを示さないままに、個別作品を格付けするのは手続きとして適切ではない。
あるいは、この世に「100%の文学作品」などというものは存在せず、すべての作品は程度の差はあれ「底が浅く」、「暴力やテロや戦争」を低い鞍部で越えており、「根源的な物語る力」を欠いており、「現実から乖離」しており、「現実の壁」に届いておらず、村上春樹の新作もその点では他と選ぶところがないと言いたいのかも知れない。
その場合には、私はもう同じ言葉を繰り返さなければならない。
他のすべての場合に妥当することがこの作品にも妥当すると教えてもらったことによって、私たちのこの作品についての理解はどれだけ深まるのか。私たちがこの作品から引き出すことのできる快楽はどれだけ増大するのか。私たちの世界の文学的生成力はどれだけ賦活されるのか。
この問いについても批評家には答える責任があると思う。
いやそうではなく、村上春樹の新作だけが例外的に「底が浅く」「鞍部が低く」「現実から乖離している」というのだとしたら、(私はこの判断にはつよく興味を惹かれるが)、なぜ村上春樹の場合にのみ、そのようなことが選択的に起きたのか、ぜひその理由についての仮説を語っていただきたいと思う。

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