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新刊

邪悪なものの鎮め方
邪悪なものの鎮め方/バジリコ
「邪悪なもの」についての学的考察。
考えてみたら「邪悪なもの」についての学術的考察って、あんまりないですね。
べつに「悪魔学」とか、そういうゴシックホラー的な話じゃありません。
私たちのふだんの生活にふつうに存在する「生きる知恵と力を(ちょっとずつ、ゆっくり)損なうものたち」
にどうやって対処するか、というお話です。
バカにできませんよ。そういうものが原因で命が失われることだってあります。
ですから、ある意味たいへんプラクティカルな本です。
「生き方本」というのはありますけれど、これはむしろ「犬死にしないための本」。
邪悪なものを祓うために必要な人間的資質は
「礼儀正しさ」「身体感度」「オープンマインド」の三つです。
どうしてそうなるのかは本書をお読みください。

東京ファイティングキッズ・リターン
東京ファイティングキッズ・リターン―文庫版/文春文庫
平川克美くんとのインターネット往復書簡を『ミーツ・リージョナル』に連載していたもの。
最初の想定読者が当時『ミーツ』の編集長だった江弘毅さんなので、なんとなく平川くんと江さんと三人でバーのカウンターでわいわいしゃべっているような雰囲気です。
実際に、そのバーの隣の席(『ミーツ』連載時の隣の頁)には鷲田清一先生と永江朗さんがいらして、その『てつがくこじんじゅぎょう』(バジリコで単行本化されました)には江さんと僕が「乱入」しています。
そのご縁で、鷲田先生に、胸の熱くなるような、すばらしい「解説」を書いていただきました。

日本辺境論 (新潮新書 336)
日本辺境論/新潮新書
ほぼ一年ぶりの書き下ろし新刊『日本辺境論』。
平川くんと三砂先生から「これまでのウチダ本でいちばん面白かった」というご感想をいただきました。
みんな読んでね~


今日:
昨日:

2010.02.05

看護する力と横浜での驚愕の出会いについて

火曜日。
医学書院の月刊『看護教育』のために、甲南女子大看護リハビリテーション学部の前川幸子、重松豊美、阿部朋子のお三方プラス神戸大の岩田健太郎先生で座談会。
月刊『看護教育』の担当者は青木さんという青年。彼とははじめて。
聞けば編集長はなんと“ワルモノ”白石さんだそうである。
いったい私に看護教育についてどのような提言を期待されているのであろうかと考えたが、何も思いつかないので、ぼおっとしたまま元町へ。
会場のOrfeu は以前、田口ランディさん、白石さんといっしょにご飯を食べに来たことがある。
最初に私のところに来た医学書院の鳥居直介くんと杉本佳子さんも『看護学雑誌』の編集者であった。
ずいぶん前の話である。
私のところに看護関係の人が話を聴きに来るのは、たぶん私が「わからないはずのことがわかる」能力の開発プログラムをひさしく主張しているからだと思う。
看護のような、身体とまぢかに触れ合う職業においては、微細なシグナルを感知する能力が必要とされる。
「微細なシグナル」というのは外形的・数値的には「まだ」表示されないところの身体的変化である。
いずれ閾値を超えれば計測機械も反応するであろうが、それに満たない場合は検査機器では検知できない種類の変化がある。
人間の身体がアナログ的な連続体である以上当然のことである。
それが数値的に表示されるより「前に」、変化に気づく能力は医療の専門家に要求される重要な資質である。
「わからないはずのことが、わかる」
繰り返し引くように、シャーロック・ホームズのモデルは、作者コナン・ドイルのエジンバラ大学医学部時代の恩師、ジョーセフ・ベルである。
ベル先生は患者が診察室のドアを開けて、椅子に座るまでのあいだの数秒間の観察を通じて、患者の出身地、職業、家族構成、既往症、何の疾病で来院したかまで言い当てたという。
それは千里眼でもなんでもなく、ひとりの人間の身体が発信している無数のシグナルを感知することがベル先生にはできたからである。
それは「観察力」というような言葉では言い尽くせない。
「観察力」は強いサーチライトを当てて、倍率の高い望遠鏡で対象を眺めるような感じがするけれど、ベル先生はむしろきわめて受動的な、ほとんどvulnerable な状態で他者の身体の前に向かっていたのではないかと思う。
強い身体は微弱なシグナルに反応できない。
「傷つきやすい身体」だけが「傷ついた身体」からのcalling を感知できる。
機械はvulnerable ではない。
だから、機械は「逸脱」は検知できても、「弱さ」は検出できない。
弱さというのはアウトプットそのものではなく、ある種のアウトプットを生み出す「傾向」のことだからである。
ナースの中には「死臭」を嗅ぎ当て、瀕死の人のかたわらに立つと「弔鐘」の音が聞こえる人がいるそうである(という話を前川先生からうかがった。ちなみに前川先生は「嗅ぎ当てる」人)
そういうことって、ありますよね。
「癒す」仕事にもっとも必要なのは、この「弱さ」が発信する微弱なシグナルをあやまたず聴き取る力だろうと思う。
だが、看護の現場でも、看護技術のマニュアル化、EBM化が進み、結果的にナースの身体性が衰えているという。
医療技術が進歩することは歓迎すべきことである。
けれども、それがヒーラー自身の「わからないことがわかる」能力の評価の切り下げや、そのような能力の開発プログラムの軽視を結果するのであれば、それは医療にとって危機的なことである。

看護学部はどこでも志願者が増えている。
メディアはそれを不況時における「手に職」志向だというふうに簡単に総括しているが、私は違う要素もあると思う。
自分の身体の蔵している未知のポテンシャルに興味をもち始めた若い人たちも、きっとその中には含まれているだろうと思う。
それにしても、ナースというのは、いっしょにいて、ほんとうに気持ちの落ち着く方々である。
目と目があったときに、彼女たちから最初に伝わるメッセージはDon’t worry である。
それは無言のまま皮膚を通して、深く身体の奥にしみこんでくる。

水曜日。
入試委員会を終えてから新幹線に飛び乗って新横浜へ。
横浜国大の室井尚さんが主宰している北仲スクールの開校記念シンポジウムにお招きいただき、室井さんの司会で、東大の吉見俊哉さんと「ポスト戦後社会と都市文化の行方」というお題でお話するのである。
室井さんには以前日本記号学会の大学教育についてのシンポジウムにお招きいただき、そのときは慶應幼稚舎の金子郁容さんと教育評価をめぐってだいぶ熱い論争をしてしまった(私が人前で論争的になるというのはきわめて例外的なことである)。
それを知ってのお招きであるから、「シロートの言いたい放題」を期待されてのことであろうと気楽にお出かけする。
車中で吉見さんの最近刊『親米と反米』と『ポスト戦後社会』を読む。
たいへんに面白い。
読みつつ、私は「網羅的な調べ物」というのができない人間だということをつくづく思い知る。
もちろん、たんに「無精」という資質のせいなのだが、きわめて興味深い人物の書いたもの以外にはまるっきりリテラシー装置が反応しないのである。
「ふつうの人が書いたふつうの文書」を前にすると、私の知的アクティヴィティの針は「ゼロ」の近くに貼りついてもはや微動だにしない。
社会学者は職掌上、「ふつうの人が書いたふつうの文書」に伏流するイデオロギー性や臆断を読みだすことが求められるので、そういうものを大量に読まねばならぬのだが、どれほど高額のバイト料を提示されても、私はそのような仕事には就くことができない。
文学研究者の中にも「イデオロギー的に間違っているテクスト」を徹底的に批判するために、「政治的に正しくない」テクストを精読する方がいる。
そういうことが私にはできない。
私が学者としてついにモノにならなかったのには無数の理由があるが、その致命的な一つはこの「無精」を制御することができなかったことである。

新横浜駅に着くとお迎えのスタッフの方々が待ち構えていてただちに会場に拉致される。
馬車道の旧横浜正金銀行の跡地のYokohama Creative city Centerというところ。
室井さん、吉見さんとご挨拶していると、「大久保鷹さん、今日来てますから、ご紹介しましょうか」と室井さんがいきなり言い出す。
ええええ。オオクボタカ?
大久保鷹といえば・・・
李礼仙、麿赤児、不破万作とともに状況劇場の初期の看板役者だった方である。
私は1967年の夏に新宿花園神社で状況劇場の『月笛お仙 義理人情いろはにほへと編』を見た。
麿赤児が泥絵具のようなメークをして、客入れをしており、私の耳元では山下洋輔ががんがんピアノを弾いていた。
大久保鷹はそのとき「床屋」の役を演じていた。
彼は私がそれまでに見たどのような映画やテレビや舞台の演技ともまったく違う芝居をした。
どこがどう違うのか、今でもうまく言うことができない。ましてや16歳の高校生に大久保鷹の演技の意味がわかるはずがない。
なんだか凄いものを見たということだけずっと記憶している。
そのあと状況劇場の舞台は何度も見た。
けれども、花園神社で受けたような衝撃はさすがに二度と経験できなかったのである。
室井さんは唐十郎を横浜国大の教授に迎えた人である。
だから、状況劇場人脈が形成されていて当然だったのである。
大久保鷹さんは、なんと「昔のまんま」であった。
もう66歳だそうだから、だいぶ白髪にはなっていたが、飄々とした表情も温かい声も、花園神社のときの大久保鷹の姿がはっきりと蘇ってきた。
なんと大久保さんはひさしく私の本の愛読者で、私が横浜に来ると室井さんから聴いて、わざわざ戸山ハイツから出てきてくださったのである。
大久保鷹が私の本を読んでいる風景はどうしても想像できないけど、なんだかすごく感激。
あまりにうれしくてシンポジウムのときも、なんだかウキウキ気分で、大久保鷹の芝居の破壊力はこんなもんじゃなかったよな・・・と思いながら変痴奇論を繰り広げて、吉見さんと室井さんと良識あるオーディエンスを困惑させてしまったのである。
室井さん、吉見さん、ごめんなさい。そして、ありがとうございました。
とっても楽しかったです。

2010.02.03

甲野先生の最後の授業

甲野善紀先生を本学の特別客員教授にお招きして3年。この年度末で任期満了となる。
2月1日から3日までの集中講義が甲野先生の本学における最後の授業である。
ご挨拶に伺い、お稽古に加えて頂く。
ずいぶん多くの学生たち(および「にぎやかし」の合気道部員、杖道会員、OG、甲南合気会員)がミリアム館にひしめいて、さまざまな身体技法をあちこちで試みている。
甲野先生の講習会はだいたいこういうかたちで、「全級一斉」という指導法はなされない。
ひとりひとりが自分のペースで、自分の選んだ課題を試みる。だいたい数人のグループになって教え合ったり、批評し合ったりする。そのグループも固定していない。甲野先生が何か違うことを始めると、自然に解体して、また違う人たちとのグループが出来る。
自分の身体の内側で起きていることを「モニター」するというのが、稽古の基本であるから、外的な規制はできるだけ行わず、ひたすら自分の内側の出来事に感覚を集中させるというのが、おそらく甲野先生の方針なのであろう。
だから授業なのだが、点数はつけない。
もちろん教務的には成績をつけていただかないと困るのだが、甲野先生の授業の成績は「自己申告」制である。
遅刻早退しても、でれでれさぼっていても、自分で成績表に100点と書き込めば100点をつける。
ただし、と先生は笑いながら告知していた。
「そういうことをすると、あとで別のところで『税金』をきっちり取られることになるからね」
おっしゃる通りである。
他人の監視や査定を逃れることはできるが、自分が「成績をごまかすような小狡い人間だ」という自己認識からは逃れることはできない。
つねづね申し上げていることだが、他人を出し抜いて利己的にふるまうことで自己利益を得ている人間は、そういうことをするのは「自分だけ」で他人はできるだけ遵法的にふるまってほしいと願っている。
高速道路が渋滞しているときに路肩を走るドライバーや、みんなが一列に並んで順番を待っているときに後ろから横入りする人は「そんなことをするのが自分だけ」であるときにもっとも多くの利益を得、「みんなが自分のようにふるまう」ときにアドバンテージを失うからである。
だから、彼らは「この世に自分のような人間ができるだけいないこと」を願うようになる。
論理的には必ずそうなる。
その「呪い」はまっすぐ自分に向かう。
「私のような人間はこの世にいてはならない」という自分自身に対する呪いからはどんな人間も逃れることはできない。
そのような人は死活的に重要な場面で必ず「自滅する」方のくじを自分の意志で引いてしまうのである。
しかるに、「自分のような人間は自分だけである方が自己利益は多い」という考えを現代人の多くは採用している。
「オリジナリティ」とか「知的所有権」とか「自分探しの旅」とかいうのはそういうイデオロギーの副産物である。
けれども、「オリジナルであること」に過大な意味を賦与する人たちは、そのようにして「私のような人間はこの世にできるだけいない方がいい」という呪いを自分自身かけているのである。
「私のような人間ばかりの世界」で暮らしても「平気」であるように、できれば「そうであったらたいへん快適」であるように自己形成すること、それが「倫理」の究極的な要請だと私は思う。
「世界が私のような人間ばかりだったらいいな」というのが人間が自分自身に与えることのできる最大の祝福である。
でも、これはむずかしい課題である。
ふつうの人は「世界が私のような人間ばかりだったら」気が狂ってしまう。
他者のいない世界に人間は耐えられないからである。
だから、論理的に考えれば、「私のような人間ばかりでも平気な『私のような人間』」とは「一人の人間の中に多数の他者がごちゃごちゃと混在している人間」だということになる。
一人の人間のなかに老人も幼児も、お兄ちゃんもおばさんも、道学者も卑劣漢も、賢者も愚者も、ごちゃごちゃ併存している人間にとってのみ、「自分みたいな人間ばかりでも世界はけっこうにぎやかで風通しがいい」。
倫理的とはそういうことだと私は思う。
つねに遵法的で、つねに政治的に正しく、つねに自己を犠牲にして他人のために尽くし、つねににこやかにほほえんでいる人間たちのことを「倫理的」だと思っている人がいるが、そうではない。
だって、そんな人で世界が充満していたら私たちはたちまち気が狂ってしまうからだ(少なくとも、私は狂う)。
だから、「そんな人間」は「倫理的」ではないと私は思っている。
他人を踏みつけにして自己利益を追求するだけの人間も、自己犠牲を厭わずに正義や信念を貫く人間も、「世間がそんな人間ばかりだったら、息苦しくてやってられない」人間であるという点では選ぶところがない。
だから、甲野先生の成績を自己申告でつけるときには「えええ、どうしたらいいんだろう」と迷ってしまうというのがたぶん適切なふるまい方なのだと思う。
自己評価よりちょっと高めに点をつければあとで「自分は狡い人間なのでは」とくよくよすることになる。自己評価よりちょっと低めに点をつければ、「自分は過剰に謙遜するイヤミな人間なのでは」とこれまたいじけることになる。
ではどうすればいいのか。
別にむずかしいことではない。
甲野先生の自己申告制では、成績表に点数を書き込むのは自分だけれど、他人に評価を求めることは禁じていないからである。
自分の点数を知りたければ、あたりを見渡して、「人を見る眼」がありそうな人を探せばいい。
そして、その人に「私は何点くらいかな」と訊けばいい。
あなたに「人を見る眼」があれば、その問いにきちんと適切な解答をしてくれる人を過たず探し当てることができるはずである。
正確な自己評価などというものはこの世に原理的に存在しない。
「正確な自己評価が出来ている人」が存在するように見えるのは、その人が「自分についての適切な外部評価を下してくれそうな人」を言い当てる能力を持っているからである。
おべんちゃらを言うタイコモチやイエスマンに取り囲まれている人間が「正確な自己評価を下している」とは誰も思わない。
逆に、何を言っても「アホかお前は」と言って頭をはたくような人とつるんでいる人間もやはり「正確な自己評価」とは無縁である。
人間は自分のことは適切には評価できない。
でも、「私のことを適切に評価してくれる人」を探し当てることはできる。
自己評価とはその能力のことを言うのである。
そのことを知っただけでもこの授業に出た甲斐はあると思う。
それくらいむずかしい課題を甲野先生は出しているのである。

今回の稽古では「キャスター=風見鶏理論」と「悪魔の手の内」というのがたいへんに興味深かった。
武道でいう「機」というのは「待たない、懸からない」ということだが、これを甲野先生は「構造」としてとらえている。
キャスターは抵抗がいちばん大きい方向に車輪が向かって、抵抗を最小にする。
風見鶏は風が吹き付ける方向にまっすぐ向かう。
攻撃の入力があったときに、それに防衛的に反応するのではなく、攻撃の入力そのものを「自分自身の運動の材料」にして立ち上がる動きを以て応じる。
防衛的、反撃的に考えると、「攻撃を逃れる」という体制になる。
そうではなくて、「攻撃」そのものを滋養として成り立つ体制をつくる。
キャスターや風見鶏には「こころ」はない。
けれども、入力に遅滞なく反応する。
そのような構造になっているからである。
理屈はむずかしくないが、そのような「キャスター的」構造を身体的にどう構築するのかというのは非常にむずかしい。
合気道的にはまことに興味深い課題である。
「悪魔の手の内」は実見されるに如くはないであろう。
とても私の禿筆を以てしてはこれを表象することはできない。
稽古終了後、門戸の「じゅとう屋」でささやかなお礼の会を開いて、三年間のお働きに謝辞を述べる。
大学での授業は今週で終わりだが、来年度以降も合気道部や杖道会の主宰で甲野先生の講習会は定期的に開いてゆければよいと思う。
甲野先生、三年間ありがとうございました。


神戸女学院大学
入試部長のひとり言

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