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新刊

街場の現代思想ー文庫版
街場の現代思想ー文庫版/文春文庫
2004年にNTT出版から出た同名書のリイシューです。
ひさしぶりに読み返したら、クリスプで面白かったです。
「おいおい、そこまで言うか」的な断言満載。

てつがくこじんじゅぎょう
てつがくこじんじゅぎょう/鷲田 清一・永江 朗/バジリコ
鷲田先生と永江さんが『ミーツ』でやってた「哲学上方場所」が単行本になりました。
途中で、私と江さんが「乱入」して勝手なことを言っていますが、「この人たち素面でこんなことしゃべってるの?」と疑問を感じる読者もおられるでしょうが、もちろん飲みながらやってるんです。

いきなりはじめる仏教生活
いきなりはじめる仏教生活/釈徹宗/バジリコ
釈徹宗先生の新作『いきなりはじめる仏教生活』。読んで成仏!


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2008.05.13

被害者の呪い

毎日新聞に三ヶ月に一度「水脈」というコラムを書いている。
いささか旧聞に属するが、そこに聖火リレーのことを書いた。
昨日の夕刊に出たので、もうブログに採録してもよろしいであろう。
こんな話。

 オリンピックの聖火リレーをめぐる騒動を眺めていて、いささか気鬱になってきた。何か「厭な感じ」がしたからである。何が厭なのか、それについて少し考えたいと思う。
 熱い鉄板に手が触れたときに、私たちは跳びすさる。「手が今熱いものに触れており、このまま放置すると火傷するので、すみやか接点から手を離すことが必要である」というふうに合理的な推論してから行動するわけではない。たいていの場合、私たちはわが身に何が起きたのかを行動の後に知る。
 聖火リレーにまつわる「厭な感じ」はそれに似ている。
 だから、この論件については、誰の言い分が正しく、誰の言い分が誤っているというような「合理的」なことは申し上げられない。それは「厭な感じ」が議論の内容ではなく、論を差し出す仕方のうちに感知されているからである。語られている政治的言説の当否は私にとっては副次的なことにすぎない。
 私が「厭な感じ」を覚えたのは、たぶんこの政治的イベントに登場してきた人たちが全員「自分の当然の権利を踏みにじられた被害者」の顔をしていたせいである。
 チベット人の人権を守ろうとする人々も、中国の穢された威信を守ろうとする人々も、聖火リレーを「大過なく」実施したい日本側の人々も、みな「被害者」の顔で登場していた。ここには「悪者」を告発し、排除しようとする人々だけがいて、「私が悪者です」と名乗る「加害者」がどこにもいない。
 そんなの当たり前じゃないか、と言われるかも知れない。権利を主張するということは「被害者」の立場を先取することなのだから、と。
 まことに、その通りである。「本来私に帰属するはずのものが不当に奪われている。それを返せ」というのが権利請求の標準的なありようである。それで正しい。困ったことに、私はこの「正しさ」にうんざりし始めているのである。
 近代市民革命から始まって、プロレタリアの名における政治革命も、虐げられた第三世界の名における反植民地主義の戦いも、民族的威信を賭けた民族解放闘争も、つねに「被害者」の側よりする「本来私に帰属するはずの権利の奪還」として営まれてきた。
 私たちが歴史的経験から学んだことの一つは、一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんにむずかしいということである。
  争いがとりあえず決着するために必要なのは、万人が認める正否の裁定が下ることではない(残念ながら、そのようなものは下らない)。そうではなくて、当事者の少なくとも一方が(できれば双方が)、自分の権利請求には多少無理があるかもしれないという「節度の感覚」を持つことである。エンドレスの争いを止めたいと思うなら「とりつく島」は権利請求者の心に兆す、このわずかな自制の念しかない。
 私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。
 私が今回の事件を見ていて「厭な感じ」がしたのは、権利請求はできる限り大きな声で、人目を惹くようになすことが「正しい」という考え方に誰も異議を唱えなかったことである。「ことの当否を措いて」自制を求める声がどこからも聞こえなかったことである。
 「いいから、少し頭を冷やせ」というメッセージが政治的にもっとも適切である場面が存在する。そのような「大人の常識」を私たちはもう失って久しいようである。

「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。
以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。
「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人は、ご本人はそれを「個性」だと思っているのであろうが、実は「よくある病気」なのである。
統合失調症の特徴はその「定型性」にある。
「妄想」という漢語の印象から、私たちはそれを「想念が支離滅裂に乱れる」状態だと思いがちであるが、実はそうではなくて、「妄想」が病的であるのは、「あまりに型にはまっている」からである。
健全な想念は適度に揺らいで、あちこちにふらふらするが、病的な想念は一点に固着して動かない。その可動域の狭さが妄想の特徴なのである。
病とはある状態に「居着く」ことである。
私が言っているわけではない。柳生宗矩がそう言っているのである(澤庵禅師も言っている)。
「こだわる」というのは文字通り「居着く」ことである。
「プライドを持つ」というのも、「理想我」に居着くことである。
「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。
もし「私」がこの説明を足がかりにして、何らかの行動を起こし、自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現した場合、その「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになる。
これは前件に背馳する。
それゆえ、一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。
自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。
自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。
「被害者である私」という名乗りを一度行った人は、その名乗りの「正しさ」を証明するために、そのあとどのような救済措置によっても、あるいは自助努力によっても、「失ったもの」を回復できないほどに深く傷つき、損なわれたことを繰り返し証明する義務に「居着く」ことになる。
もし、すみやかな救済措置や、気分の切り換えで「被害」の傷跡が癒えるようであれば、それは「被害者」の名乗りに背馳するからである。
「私はどのような手だてによっても癒されることのない深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させるし、「加害者」に対するさまざまな「権利回復要求」を正当化するだろう。
けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。
「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。

2008.05.12

六甲山から広島へ

金曜日の教授会を途中で抜け出して、六甲セミナーハウスで基礎ゼミのフレッシュマン・キャンプ。
渡部先生のゼミとご一緒で総勢40名。
マニュアルができていて、ちゃんと食前の祈りも、讃美歌も、聖書朗読も、奨励もある。
私はこういうふうにきちんとしたプロトコルが整っていることはたいせつだと思う。
場を一気に圧倒するようなカリスマ的な人がいれば、できあいの儀礼に頼る必要はない(その人のふるまいそのものがプロトコル化するからである)。
しかし、われら常人にはそれほどの人間的迫力は望み難い。
だから、「かつて場を一気に圧倒した人が践んだ手順」を儀礼として再演するのである。
私はこの知恵を深いと思う。
焼き肉パーティ、礼拝とミーティングをさくさくと済ませて(ついでに長説教10分間。どうして私は説教をはじめると止めることができぬのであろう・・・)
別に学生たちを叱っての「説教」ではなく、語義通り「教えを説いて」いるのである。
諸君の中には大学生活を通じて、自己の能力を高めようとしている方がおられるやもしれぬ。
TOEICの点数を上げたいとか、ナントカ資格を取りたいとか、そういうことを目的にしている方もおられるやもしれぬ。
しかし、諸君、それは大きな誤解というものである。
諸君らひとりひとり個人の能力を高めることは高等教育のめざすところではない(おお、すごい断言)。
そうではなくて、私どもは「まわりにいるすべての人々の能力を高めるような人間」を育てることを教育の目的であると考えている。
そのような教育理念を掲げている大学はたぶん日本にウチしかない。
愛神愛隣とは実はそのことなのである(知らなかったでしょ)。
諸君が自己の能力を高める努力をされるのは結構である。
だがもし、その努力の報酬として「私は他人より自分は高いポジションに就くべきである」とか「他人より高い年収を得る資格がある」とか「他人から敬意を示されるべきである」というようなことを考えているのであれば、そのような能力開発は諸君を少しも幸福にしないし、諸君のまわりの人をも少しも幸福にしない。
諸君が自己の潜在可能性を開花させ、生きる知恵と力とを高めるのは、それによって「諸君の周囲にいる人々の可能性を開花させ、彼らの生きる知恵と力とを高める」ためである。
もし、諸君が「競争」という枠組みで努力をとらえていれば、諸君はいずれ「自分が優れていること」と「他人が劣っていること」が結果的には同一であることに気づくであろう。
それはつまり「自分の心身の能力を高める努力」と「他人を愚鈍で無能な状態のままにとどめおく努力」とが交換可能だということである。
そういうことになったとき、人間はその両方を同時に達成できるような方法を探し始めるものである。
論理の経済がそれを要請するからである。
だから、原理的に言えば、教育の場に「競争」という概念は決して持ち込んではならないのである。
本学がめざすのは「他者の能力を高め、他者に幸福をもたらす力」を涵養することである。
どうすれば、私たちの隣にたまたま居合わせたこの人々を、今よりもっとアクティヴで、もっとイノベーティヴで、もっとハッピーな状態にすることができるか。
それを思量することに優先的にリソースを備給する人間になりなさい。
とりあえず、諸君の今夜の任務は君たちの隣にたまたま居合わせた学友たちと夜を徹して仲良しになることである。
がんがん盛り上がってくれたまえ。
あまりに変テコな説教なので、学生たちは目を点にして「しーん」としている。
渡部先生とお部屋に戻って「琉球泡盛」を喫しつつ、沖縄はいいよね話からハイブラウな文学論、はては酔余の勢いで数学論など、頭がだんだんくるくるしてくるのであった。
翌朝、ソッコーで起きて、学生たちを渡部先生に託して、六甲山を下り、身支度を調えて、広島へ。
広島県合気道連盟主催の多田先生の講習会に駆けつける。
甲南合気会の諸君はすでに朝の9時から現地入りしている。
私が到着したのは11時半。
先生に遅参のお詫びをしてから、夕方までお稽古。
久しぶりに受け身をとったので、どろどろに汗をかく。
むかしは、これくらいの時間の稽古は何でもなかったのであるが、さすがに還暦も間近となると、学生さん相手にばしばし稽古していると、受け身から起き上がるのが億劫になる。
畳に臥せって、このまま寝ていたいと思うが、多田先生がときどき回ってきて、息も絶え絶えな私のありさまを見て「ウチダくんも修業が甘いな」と寂しげなお顔をされる(ように見えた)ので、泣く泣く起き上がる。
だが体力の限界はいかんともしがたく、必殺「説教責め」に作戦変更。
これは高段者だけに許された必殺技であり初心者はまねをしないように。
素直そうな顔つきの学生をつかまえて、二三本技をかけさせたあとに、おもむろに「あのね、ちょっといいかな」といかにも親切げに語りかけるのである。
とりあえず一つ二つ技術的な課題をお示しする。
もちろん口頭で指示されたくらいでいきなりできるなら誰も苦労はないわけで、当然、できない。
「う~ん、こまったね。どうだろう、この辺をこうしてみちゃ」というような親切心をさらにお示しする。
すると、少しできるようになる。
学生よろこぶ。私もうれしい(口を開いている間だけでも休めるから)。
なんとか生きて夕方を迎え、ホテルにもどってシャワーを浴びてから、私とドクター佐藤、ウッキーは懇親会へ。残る諸君は大挙して「宴会」に繰り出す。
多田先生のお隣にぺたりと座って二時間、先生のお話を伺う。
先生とはお正月以来である。
ホテルまでお送りしてから、門人諸君の待つ宴会会場へ。
すでに全員「ヘベレケ」姉さん「ヘベレケ」兄さん状態になっている。
いったいわずか2時間余でどれほどの量を飲めばこうなるのか。
おそらく生ビールを一樽ほど干したのであろう。
懇親会組はちょっと飲み足りないので、二次会へ。
ここで発作的に「邪道」の昇段審査が行われる。
相変わらずウッキーがぶっちぎりで段位を上げてゆく。
この人は「寸暇を惜しんでイジワルをする」ということに天賦の才能を持っているのである。
ドクター佐藤やヒロスエもそれなりに「邪心」の芽生えはあるのだが、まだまだウッキーの水準には遠い。
翌日も朝から夕方までお稽古。
午後は剣と杖だったので、身体はだいぶ楽である。
お稽古を終えて、多田先生をお見送りしてから、いつものように広島駅の広島焼き屋で生ビールで乾杯。
めっちゃ美味しい。
さらにビールなど飲みつつ、新幹線で新神戸へ。
新大阪方面へ去る諸君と駅頭でお別れする。
合気道の稽古を長時間した後は、どうも別れ難い。
「一体感」が高まっているので、なんだか自分の身体の一部と別れるような不思議な寂しさがするのである。
みんな次の稽古が待ち遠しいような顔をしている。
身体の節々が痛むのに、私も次の稽古が待ち遠しい。

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