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新刊

街場の憂国会議
街場の憂国会議/晶文社
高橋源一郎、平川克美、小田嶋隆、中島岳志、中野晃一、孫崎享、想田和弘、鷲田清一との共著。
先般の特定秘密保護法案の国会通過のあと、これを「民主制の危機」の徴候と感じた論客たちにお声がけをして安倍政権の本質についての論考をとりまとめました。
寄稿者たちの顔ぶれを見るとわかると思いますけれど、「濃い」です。

沈む日本を愛せますか?
沈む日本を愛せますか?―文庫版/文春文庫
渋谷陽一さん主宰の政治誌『Sight』に連載されていた高橋源ちゃんと僕の「時事放談」。文庫化第一弾では2009年政権交代の前後にした話が収録されています。わずか5年間のことなのに、もう遠い昔のことのようです。震災と原発事故がある「前」の日本の風景と今の風景はまるで違うものであることに驚きます。あの事件は日本人にほんとうに深い傷を残したのですね。

日本の身体
日本の身体/新潮社
『考える人』に連載されていたインタビュー集が単行本になりました。多田宏先生、安田登さん、池上六朗先生、平尾剛さん、鶴澤寛也さんら多彩なインタビュイーとおもに「技術知」「身体知」をめぐって対話しております。担当は足立真穂さん、構成は橋本麻里ちゃん。このとき私がお二人を引き合わせたのでした。やがてここに青山さんをまじえたゴールデントライアングルが形成されることになることはそのときは知る由もなく。

街場の共同体論
街場の共同体論/潮出版社
雑誌『潮』で過去数年断続的に行ってきたインタビューや寄稿をまとめたもの。とはいいつつ例の如く原型をとどめぬまでに加筆したので、「ほぼ書き下ろし」です。家族論、学校論、師弟論などを展開しております。

2014.08.19

「ひとりでは生きられないのも芸のうち」韓国語版序文

『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文春文庫)の韓国語版が出ることになった。
序文を頼まれたので、こんなものを書いた。 

韓国のみなさん、こんにちは。内田樹です。
『ひとりでは生きられないのも芸のうち』をお買い上げ下さいまして、ありがとうございます。これで僕の本の韓国語訳もそろそろ10冊に近くなりました。
韓国との外交関係がこのところ険悪な日本ですが、その隣国の書き手の本を次々と翻訳出版してくださっていることにまず心からお礼を申し上げます。
他にも現代日本社会を論じている本はいくらもありますが、なぜ僕の本が選好されるのでしょうか。
こういう問いがあまり品のよいものではないことは僕も承知しています(「私の本はなぜ売れるのか?」なんて、ちょっとうんざりさせられるタイトルですからね)。
でも、僕はこの問いに興味があります。それについていささか思うところを述べて「韓国語版序文」としたいと思います。

この本は2000年代のなかばに主に僕がブログに書いたエッセイを編集者がまとめてくれたものです。この時期に新聞を賑わせたニュースと、大学の僕のゼミで学生たちが取り上げたことが主な論点となっています。ですから、統一的な主題の下に書かれたものではありません。でも、まとめてくれたものを通読すると、政治からファッションまで、「2000年代なかばの日本の問題」がかなり網羅的に取り上げられていることがわかります。
ブログに書かれた時評的エッセイですから、そこには「マスメディアが決して書かないこと」が選択的に書かれています。「そういうこと」を書けるというのが、ネットメディアの最大の利点なのですから、せっかく書くなら「他の誰も言いそうもないことを書く」ように努めるのは当然のことです。
ですから、ここに書かれたことのほとんどは「日本国内でも、僕と同じようなことを言う人がいない話」だということになります。それが隣国で翻訳されるというのは、いったいどういうことなのでしょう。説明できるロジックはひとつしかありません。それは日本のメディアも韓国のメディアも「ある種のことがら」については語らないようにしているということです。
メディアの表層に露出してくる「書かれたこと」は両国ではずいぶん違います。でも、「書かれないこと」は共通している。それは日本と韓国には両国に共通する「抑圧されたこと」が存在するということです。それを感知した人たちがこの本には翻訳する価値があると認めてくれたということではないかと思います。
もちろん、日本に固有の状況について書かれた部分では「ぜんぜん意味がわからない」というところも多々あろうと思います。そこはさらりとスルーして頂いて結構です。でも、「これって韓国社会の話をしているんじゃないのかな?」と思われるところがきっといくつか見つかるのではないかと思います。
 
日韓両国に共通するのは、一言で言えば「原子化」と「グローバル化」ということだと思います(本書に収録された文章が書かれている頃は、まだそれほどこの傾向は強化されておりませんでしたが、その後日本でも韓国でも事態は急激に進行しました)。
「原子化」というのは市民たちがさまざまな伝統的紐帯を失って、ばらばらになってしまうことです。人々が「自立」して、「自己実現」をめざして「自己決定」をくだし、その成否についてはすべて「自己責任」を負う。そういう生き方のことです。
誰にも依存しない。誰からも依存されない。誰にも迷惑をかけない。誰からも迷惑をかけられない。自分の失敗の責任は誰にも転嫁しない。その代わり自分が獲得したものは誰ともわかちあわない。相互扶助・相互支援の仕組みは要らない。親族も地域社会も要らない。自分に必要なものがあれば貨幣を出して市場で商品として買えばいい。
そういう考え方です。
家事労働も、医療も、教育も、介護も、慰安も、快楽も、すべては商品として市場に並んでいる。誰でも金さえ出せば買えるのだから、ひとりひとりはただ「できるだけ多くの貨幣をできるだけ効率よく稼ぐこと」だけに集中すればよい。十分な貨幣を稼げない人間は、人間として必要な最低限のサービスを受けられず、ついには路上生活に転落して窮死するしかないが、それは「自己責任」である。
それが「原子化した市民」の生き方です。
一方、「グローバル化」というのは、商品、資本、人間、情報が国境を越えて超高速で移動することです。「世界のフラット化」という言い方をすることもあります。
国民国家はそれぞれが固有の言語、固有の通貨、固有の度量衡、固有の法制度、固有の文化を持っていますが、グローバル化というのは、そういうものは「はっきり言って、邪魔」という立場のことです。
国境のボーダーコントロールを廃し、国語をやめて英語を公用語にし、通貨も度量衡も経済法制も世界同一にし、消費者の価値観や欲望やライフスタイルも世界同一にし、労働者の規格も賃金も世界同一にする。
それがグローバル化ということです。
つまりは「国民国家を解体して、世界市場に組み込む」ということなのですが、その目標に向かって日本も韓国もまっしぐらに進んでいます。

でも、どうして「そんなこと」をしなければならないのか、それについてのきちんとした説明を僕は聞いたことがない。政治家も官僚もビジネスマンも学者もメディアも「国の仕組みをすべてグローバル化に最適化しないと、われわれは『おしまい』だ」と浮き足立っているだけです。何がどう「おしまい」になるのか、それについての説明はありません。

僕がこの本の中で論じているのは、主に個人レベルで起きている「原子化」の現象についてです。
原子化趨勢に抗って、共同体の一員としてどう互いに支え合い支援し合うのか、教育を通じてどう次世代を育てるのか、労働を通じてどう自分自身を成熟させてゆくのか。そういったことが繰り返し語られます。そういう問題を論じているうちに、これらがすべて「グローバル化趨勢」が個人レベルで出来した歴史的な問題なのだということがわかってきました。市民の原子化は社会のグローバル化の論理的帰結なのです。
日韓両国民は今「原子化」がもたらした深い孤立に苦しんでいます。
親族とのつながりが絶え、隣人たちと地縁で結ばれることもなく、人間として生きてゆくための基本的なサービスをすべて商品として市場で購入しなければならない。タイトな生き方です。人間は誰でも病むし、傷つくし、老いるし、生産性を失うことがあります。ひとりで生きていれば、そういうことがある度に社会の最下層に転落するリスクを負うことになる。
そのリスクを回避するためには、集団成員が相互に支え合い、支援し合う仕組みを作る他ありません。集団に帰属してさえいれば誰でも(お金がなくても、能力がなくても、幼くても、老いていても、病んでいても)人間としての自尊感情を高く持って、愉快に暮らしていける仕組みが必要です。
とりあえず僕はそう思っています。
でも、「グローバル化に最適化すること」に夢中になっている人たちはそのような提案を一顧だにしません。それはまさに「自己決定・自己責任」の対極にある考え方だからです。経済成長や収益増大や株価上昇と何の関係もない話だからです。
いや、相互・相互支援の共同体が整備されてしまうと、経済活動は停滞する怖れがあります。
家事労働や介護や教育など、それまで原子化していた市民がしかたなく市場でお金を出して買っていたものが共同体に属していると「あ、私がやっておいてあげるよ」という隣人から無償サービスとして提供される可能性があるからです。「代わりに今度、なにか頼むから」で済んでしまう。これは市場経済にとっては大きなダメージになります。不動産や家財だってそうです。孤立した市民はひとりずつばらばらに暮らしますから、住む家も家財道具も一式全部自分で揃えなければなりません。でも、共同体に属していれば、シェアハウスできるし、家財道具も共有できるし、車だって何人かで一台所有しておけば、重い荷物を運ぶときとか、足の悪い人をどこかに連れてゆくときにだけ「今日は私に使わせてね」で済む。
共同体で暮らすようになるとものを買わなくなる。これは考えれば当然のことです。
でも、資本主義にとってはたいへん迷惑な話です。だから、資本主義経済は全力をあげて相互支援的な共同体の形成を阻止しようとする。
当然のことです。良い悪いではなくて、資本主義というのは「そういうもの」だからです。
でも、人間は資本主義経済のために生きているわけじゃない。人間が愉快に暮らすために経済システムは存在するわけで、本末転倒されては困る。
ですから、資本主義経済の要請に逆らっても、相互扶助の仕組みを作ることが、現代社会における最優先の「人間的」課題だろうと僕は思っています。経済成長やGDPの増大やビジネスモデルの開発やマーケットシェアの拡大よりも、相互扶助の仕組み作りの方が優先すべきです。
世の中には金儲けよりも大切なことがある。それは支援を求めている人を支援することだ。というのが一言で言ってしまえば僕がこの本で主張していることのすべてです。

支援を求めている人にはいろいろなかたちがあります。物質的に困窮している人もいるし、成熟したいのだけれどメンターがいない人もいるし、仕事を探しているけれど見つからない人もいるし、病み、傷つき、癒しを求めている人もいるし、危機に瀕していて救助を求めている人もいる。それらの「困っている人たち」それぞれに適切な支援がなされる仕組みを作りましょう。
なんだか当たり前すぎて、小学生でも言えそうな話ですけれど、この「小学生でも言えそうな話」を実現するために政治家も官僚もメディアも指一本動かす気がないということに僕は愕然としています。
日本では今生活保護の打ち切りや社会福祉の切り下げが進行しています。働きのない人間が税金に「ただ乗り」することは許さないということを平然と言い放つ政治家がいます。「在特会」という名の日本のナショナリスト組織は在日コリアンへのヘイトスピーチや暴力行為で知られていますが、彼らが主に攻撃しているのは政治運動や政治思想ではなく、在日コリアンには「生活保護受給者が多い」という「金の話」なのです。「支援を求めている人」は自己責任でそのような事態に陥ったのであるから「支援を求める権利」を持たないという奇怪なロジックがメディアでは大声で、大まじめに語られている。

この知的・倫理的頽廃を前にして、「もう行政に頼らず、自分でなんとかしなければいけない」と思い始めた人たちが日本には最近出てきました。さまざまなサイズの相互支援のための共同体の試みが日本各地で今急速に拡がっています。
それは従来あったような血縁共同体の復活ではなく、また労働組合や互助組合のようなものでもありません。自力で新しい相互支援の仕組みを構想しなければならないということはみんなもわかっている。けれども、できあいの「サクセスモデル」を模倣するということができない(まだ成功事例がないんですから)。だから、どれも手探り、手作りです。
それらの試みに共通しているのは、とりあえず手元に「贈与できるだけの資財の余裕」がある人たちがそれを提供して、人々が集まれる場所を作るということです。
多くはそこに「塾」という看板を掲げて、学びの場としてスタートしています。
僕自身は2011年の秋に凱風館という道場を建てました。
武道の道場として毎日稽古に使っていますが、それ以外に毎週「寺子屋ゼミ」という学びの場を設け、さまざまな講演、レクチャー、映画会、古典芸能の上演(能楽、落語、浪曲など)の他、門人やゼミ生たちの自主的な利用に開放しています。
最も便利なことは200人近くの人々が出入りしていますから、「要らないもの」と「欲しいもの」がしばしば一致するということです。家具でも家電製品でも本でもパソコンでも自転車でもベビー服でも、「欲しいものがある」と告知しておけば、だいたいすぐに手に入る。もちろん無料です。食べ物もそうです。季節ごとにタマネギが送られてくる、桃が来る、蟹が来る。家で食べきれないものはみんな凱風館に持ち込みます。「ご自由にお持ち帰りください」と記して廊下に置いておけば、一日できれいになくなります。それだけではありません。凱風館で友だちができる、仕事仲間をリクルートする、結婚相手がみつかる。そういう例ももういくつもあります。この2年半で門人同士5組が結婚しました(うち4組は仲人を僕たち夫婦が勤めました)。彼らはみんな凱風館の近くに新居を構えましたので、僕はいわば「十人の息子と娘」に囲まれて暮らしているような気分です。ほんとうの親族たちよりも、この「息子・娘」たちと一緒に過ごす時間の方がずっと長いのですから、これはもう一種の「拡大家族」と呼んでよいかも知れません。
僕がこのような具体的な共同体実践を決意に至ったのは、もしかするとこの本が扱っている「原子化」トレンドの分析の結果だったのかも知れません。この本の中の文章を書いているときは、まだ「道場を建てる」ということはぼんやりとした夢想でしかなかったのですから。
韓国でもおそらく今これと同じような共同体実践の試みが進められているだろうと思います。そういった韓国での共同体実践とわが凱風館が国境を越えて連携できる機会を今度はぼんやりと夢見ることにします。
韓国のみなさんもがんばってください。

神戸女学院大学

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