マルクシアンと武道的思考

2025-06-18 mercredi

 韓国に講演旅行に行くようになって14年になる。今年は『武道的思考』の韓国語訳が出たばかりなので、講演ではそれについて話をした。
 これで私の著書の韓国語訳は56冊になる。それは韓国の言論人の中に「内田が言いそうなこと」を言う人が少ないからだと思う。韓国社会にはある種の「言論の隙間」があり、それを埋める仕事が私にアウトソースされているというのが私の仮説である。その「足りないもの」の一つは「マルクス主義をコロキアルな言葉で語る人」、一つは「武道を学術的な言葉で語る人」である。
マルクスの思想をカジュアルな生活言語に落とし込んで語れる人が韓国にほとんどいないのは歴史的条件を勘案すれば当然のことである。李氏朝鮮や日本の植民地支配の時代に革命思想の研究が許されるはずがないし、戦後の軍事独裁政権にとっては共産主義は北朝鮮という敵国の国是だった。だから、久しく「反共法」があり、マルクス主義を賛美することも、研究することも刑事罰の対象だったのである(私の友人の一人は『資本論』を所持していた罪で13年間を牢獄で過ごした)。民主化以後も「国家保安法」は維持されており、私の『若者よマルクスを読もう』には韓国語訳があるが、厳密にはこれも違法なのである。100年以上のマルクス研究の蓄積がある日本とはそこが違う。
 日本は世界的に見てもマルクス主義研究のレベルが際立って高い。それだけではない。若い頃からマルクスとマルクス主義について書かれた無数の本を読み、その旗の下で政治にかかわり、その経験を踏まえて「マルクスの思想を自分の言葉で語れる人」が日本には多数存在する。
 私の哲学の師であるエマニュエル・レヴィナスはかつて「マルクスの思想をマルクスの術語で語る人を『マルクシスト』と呼び、マルクスの思想を自分の言葉で語る人を『マルクシアン』と呼ぶ」という独特の定義を語ったことがある。それに従うなら、「日本には数多くのマルクシアンが存在する」と言うことができるだろう。これはロシアや中国はもちろん、アメリカやヨーロッパでもなかなか見ることのできない光景である。
 私自身は16歳で『共産党宣言』を読んで以来、マルクスとマルクスについて書かれた文章をそれこそ浴びるように読んできた。カミュやポパーやレヴィ=ストロースの思想も彼らとマルクスの「対決」を軸に読まないと理解が及ばない。
 私の場合はそのような直接間接の読書経験を通じてマルクスの思想は「血肉化」した。だから自分自身の身体実感の裏付けのある言葉でマルクスの思想をある程度までは祖述することができる。そういう「芸当」ができる人は韓国の知識人にはたぶんほとんどいない。これが私の埋めることのできる言説的な「空隙」の一つである。
 もう一つ足りないのは「武道の術理を科学的な言葉で語る人」である。これも韓国の歴史的条件を考えれば当然かも知れない。臨戦状態の国では、武術は何よりもまず殺傷技術としての有効性を問われる。「武道の宗教性」とか「武道の哲学」いうような叡智的な枠組みで武道について発言する人は「何を気楽なことを」と白眼視されるだろう。
 日本では戦国時代以後、武芸の上達と人間的成熟は相関するということについての社会的合意があった(明治維新と敗戦でほぼ失われたが)。私は「武道修行は宗教的・哲学的な成熟をもたらす」と信じている数少ない武道家の一人である。そんな少数派の言葉に少なからぬ韓国の若者たちが耳を傾けてくれている。これはほんとうにうれしい。
(週刊金曜日、6月4日)