『コモンの再生』韓国語版まえがき

2025-06-18 mercredi

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 このたび、『コモンの再生』の韓国語版が刊行されることになりました。これでたしか僕の本の韓国語訳は57冊目になるはずです。これはたいした数字だと思います。
 先月、韓国を訪れて講演をしました。その時に頂いた演題は「日韓連携」というものでした。その機会に「どうして僕の本は韓国で読まれるのか?」という話をしました。聴き方によってはあまり品のない問いの立て方です(「なぜ僕はこんなに人気があるのか?」なんて話、ふつうは誰も聞きたくないんですよね)。でも、僕はこの論件には興味があります。というのは、僕の本をこんなに精力的に訳してくれているのは韓国だけだからです。
 中国語の翻訳は『日本辺境論』や『若者よマルクスを読もう』などいくつかありますが、たいした点数ではありません。それでも外国語翻訳があるのは、韓国語と中国語だけです。不思議だと思いませんか。フランス語の雑誌とドイツ語の雑誌とスイスのラジオ局からはそれぞれ過去に一度インタビューを受けたことがあります。欧米語圏からの取材はそれだけです。英語圏からは取材も寄稿依頼も翻訳のオファーも来たことがありません。一度だけ香港の英字紙からインタビューのオファーがありましたが、担当者の態度があまりに横柄だったので、こちらから断りました。
 韓国語訳が出るにつれて、この「英語圏からの組織的な無視」が気になってきました。いや、もちろん単に「つまんないから」という説明でも十分に合理的なんです。でも、もしかすると英語圏の読者は日本人が書く「状況論的な論考」にはまったく興味がないのかも知れない。だって、村上春樹とか平野啓一郎とか吉本ばななとかの文学作品はじゃんじゃん英訳されているわけですからね。文学については日本人の才能を高く評価するけれど、状況的な論点についての日本人の分析は「読む価値がない」と英語圏では思われているとしたら、この事実はなかなか興味深いと思います。
 例えば、僕が敬愛する「状況論」的な書き手というと、戦後日本では吉本隆明、埴谷雄高、江藤淳、橋本治、加藤典洋というような名前が僕の脳裏には浮かびます(かなり選好が偏ってはいると思いますが)。でも、ネットで検索すればすぐにわかりますが、このリストの中で英訳があるのは、江藤の一冊だけです(『閉ざされた言語空間』)。吉本も橋本も加藤も英語訳は一冊もありません(吉本は『共同幻想論』の仏語訳がありますが)。でも、これでは戦後日本人が政治について何を考えていたのか、何を熱く議論していたのかがわからない。英語圏の政治学者や社会学者のものは決して「一流」とは呼べない人のものでもどんどん和訳が出ているというのに、この非対称性はどういうことでしょう。
 これは英語圏の人たちは(主に「アメリカ人は」ということですが)、日本の知識人が自分たちの社会と世界をどうとらえているかについて全然興味がないということを意味していると、そう解釈してよいと思います。
 日本はアメリカの軍事的属国です。基幹的な政策については、それが安全保障であれ、外交であれ、エネルギーであれ、食料であれ、アメリカの許諾なしには何一つ決定できません。いや、別に「許諾」なんか要らないんです。なにしろ「アメリカの国益を最優先に配慮する政治家しか安定的に政権を維持できない」と日本の政治家は(与党だけではなく、野党の一部も)信じているんですから。
 現にアメリカに忠実に隷従している国について「こいつらはどうしてこんなに卑屈なんだろう」と考えるほどアメリカ人だって暇じゃありません。もっと他に考えなければならないことがありますからね。
 
 でも、僕の書き物の中で一番頻繁に言及されるのはアメリカです。アメリカの政治、アメリカの映画、アメリカの音楽、アメリカの文学...そういうものについて僕は大量の文章を書いてきました。この本に収められている論考でもアメリカへの言及が一番多いはずです。というのは「アメリカ人は何を考えているのか?」ということが属国の民である僕にとっては非常に緊急性の高い論件だからです。アメリカ人の「欲望のありか」を探り当てることが、日本のこれからを予測する上で欠かすことのできない情報だからです。
 でも、アメリカ人にとっては「日本人が何を考えているのか?」「日本人は何を欲望しているのか?」はいかなる知的関心も喚起することのない問いです。もちろん経済的なイシューについては(日本車の輸入台数とか日本資本の米企業買収とかには)多少は関心があると思います。でも、それは「日本人はどういう手段を使って金儲けをしようとしているのか」という問いに縮減されますし、それはどれも「アメリカ人でも考えそうな金儲けの手段」リストにすでに記載済みのものです。そんな問いは日本研究のインセンティブにはなりません。
 
 このように日米間には知的関心において驚くべき非対称性があります。それと比較したときに、日韓国民の隣邦に対する関心の高さもまた驚くべきレベルにあります。
 2024年に日本を訪れた韓国人は880万人です。中国の700万人、台湾の600万人を大きく上回っています。同時期に韓国を訪れた日本人は300万人です。人口の母数では日本が韓国の約二倍ですから、「隣邦への関心の高さ」という抽象的な概念を旅客数だけで計測すれば(ほんとうはそんなことをしてはいけないのですが)、韓国民の日本に対する関心は、日本人の韓国に対する関心の6倍(!)ということになります。すごいですね。
 それは日米関係で用いたスキームを適用すると、韓国の人たちは「日本人が何を考えているのか?」「日本人は何を欲望しているのか?」という問いに切実な関心を寄せているということを意味している。僕はそんなふうに考えます。
 日本はかつて朝鮮半島を植民地化し、はげしい収奪を行い、朝鮮人の人権をふみにじった過去を持つ「加害国」です。そして、この植民地支配について、いまだに十分な謝罪と補償を行っていない。少なくとも韓国の人たちの多くはそう感じています。それどころか現代日本の歴史修正主義者たち(その中には政権与党の国会議員も含まれています)は在日コリアンへの排外主義的言説をまき散らし、植民地支配を正当化してさえいる。現代韓国の人たちがこんな「危険」な隣邦に対して無関心でいることはできないのは当然です。
 ですから、日本の言論人・知識人たちの「韓国論」に対してはかなり精密なリサーチをしているはずです(「危険な」日本人思想家の危険性について韓国には十分に警戒的になるだけの歴史的理由がありますから)。たぶんそのリサーチの過程で、「韓国に対して好意的な言論人(それは言い換えると、日本国内の植民地主義者、歴史修正主義者と戦っている日本の言論人のことです)」リストに僕の名前が挙がったのだと思います。神戸と大阪の韓国総領事からは先方からコンタクトがあって、会食して友誼を深めたことがありますから、そういう「リスト」はきっとあるんだと思います。
 
 でも、韓国民の日本に対する関心はそのような「警戒心」や「猜疑心」のレベルに限定されるわけではありません。日本の伝統文化の古層に「朝鮮半島の伝統文化と相通じるもの」が存在することを感知して、親しみを感じてくれる人もいます。逆に、僕は朝鮮半島のさまざまな文化のうちに日本と通じるものを感じます(済州島で「白いご飯とキムチと鯖の味噌煮」を食べたときに「食文化は同根だ」と痛感しました)。
 朝鮮半島と日本列島は、中華帝国の「辺境」であり、中国文化の強い影響の下にそれぞれ固有の文化を形成してきた儒教圏の国ですから、深い文化的な「親しみ」を感じて当然です。

 もう一つ韓国と日本を結びつけるものがあります。それは安全保障です。日韓はアメリカの東アジア戦略の「最前線」を担うという地政学的地位において「同じ船」に乗っています。米中戦争が始まれば、日韓はアメリカから軍事的コミットメントを求められるはずです。場合によっては国が戦場になる。そのリスクを日韓ともに抱えています。
 ですから、どんなことがあっても、米中戦争を回避すること。この安全保障上の最優先課題を日韓は共有しています。アメリカと中国がともに抑制的にふるまうことを日韓両国は等しく、強く求めています。この点から僕は日韓同盟こそが東アジアの地政学的安定のためには最も合理的な解だと信じています。

 日韓は合わせると人口1億7700万人、GDP6兆ドルで米中に次ぐ世界3位の経済圏になります。人種的同一性においても、文化的親近性においても、地政学的利害においても、日韓ほど「共同体」形成に似つかわしい政治単位は他に存在しません。
 日韓合邦については、両国内に明治初期からさまざまな議論が存在しました。それが当初の連帯と友愛の素志を失って、日本による植民地支配の正当化に遷移するプロセスについては、近著『日本型コミューン主義の擁護と顕彰 権藤成卿の人と思想』で思うところを書きました。
 かつての「日韓合邦論」は失敗しました。でも、その一因は明治時代において大日本帝国と大韓帝国の間には「対等合邦」を阻む軍事力・経済力における圧倒的な力の差があったことです。併合当時の日本のGDPは620億ドル、大韓帝国は推定値で70億ドル。10倍近い差でした。軍事力の差はさらに大きかった。
 でも今はGDPは日本が4兆ドル、韓国が2兆ドル。軍事力ランキングでは韓国が米ロシア中国インドに続く世界5位。日本が英仏に続く8位。民主主義指数は日本が指数8.48、世界16位の「完全民主主義国家」、韓国が指数7.75、世界32位の「欠陥民主主義国家」(近い将来逆転するかも知れませんが)。これらの統計指標を徴する限り、国力において、国際社会におけるステイタスにおいて、日韓の一方が他国を支配するというシナリオは存立する余地がありません。ですから、21世紀の国際政治を語る上での一つの選択肢として「日韓共同体」構想は十分に検討に値する論件だと僕は思っています。そういう可能性を身近に感じている人たちが、日韓両国に一定数存在していて、この構想をもう少し解像度の高いヴィジョンに仕上げたいと願っている。たぶん、それが僕の本が韓国で読まれる理由の一つなのだろうと思います。

 なぜ韓国で僕の本が読まれるのかということについて、考えたことを書き並べてみました。とりとめのない話になってしまって、すみません。これからも僕の本は続けて翻訳されることになると思いますが、そのつど同じ問いを繰り返し自分に向けてゆきたいと思っております。

 最後になりましたが、いつも僕の本を翻訳してくださっている朴東燮先生のご尽力に感謝申し上げます。本書が、日韓の友情と相互理解を深めるために役立つことを心から願っております。

2025年6月
内田樹