韓国社会にむけての内田樹の提案

2025-06-21 samedi

先日の講演について、韓国のブロガー(一人書店をしている方)が長文の感想を書いてくれた。ハンギョレ新聞に続いてのことである。韓国でどういうふうに私の書き物が受け入れられているのか知れる貴重な資料だと思う。講演の中身を実に手際よく要約してくださっている。ご厚意に深く感謝したい。
原文はこちら
https://siilbw.com/inspiration/?idx=165108687&bmode=view&fbclid=IwY2xjawLC6bFleHRuA2FlbQIxMABicmlkETFDUTlKd3lpdUZobG10UGRBAR6npr9Vk3bFtoHJw5juuSY7hCquX7AdFAPltlmRmPT6GJ_w8cs4wZeiinbnBg_aem_114y64JYEEkCBu_GAKX4PQ

 思想家であり武道家の内田樹は、今日の韓国社会が直面している様々な知的な渇きと空白を洞察する。IVEマガジンと「MUSABOOKS」そして、「YuYU出版社」が共同で企画した今回のソウルでの講演は、単に彼の哲学を伝えることにとどまらず、韓国社会に根付いている生き方や存在のあり方にかかわる根本的な問いについて確認できた豊かな時間だった。マルクスの読解と武道の哲学、そして師匠と弟子との関係性を通じて内面化すべき求道者としての姿勢と、そこから生まれる自由さを、彼は一貫して強調した。
 講演で彼は私たちに、知識の習得を超えた生き方、すなわち絶えず学び省察し自らを空にする「修行」の重要性を力説した。そしてこれは、競争と成果に埋もれた現代の韓国社会に必要な深い省察と、新たな方向を示す意味と価値としても読むことができる。
 彼は聴衆たちに一方的に語りかけていたが、まるで彼と休む間なくディスカッションをしている時間のように思えたのは、彼の著作の様々なメッセージが死んだ知識ではなく、生きたリアリティーを持っているからではないか。
 それは朴東燮(パク・ドンソプ)という、哲学者で作家、そして誰よりも内田樹の哲学を深く理解している彼の言葉で同時通訳されたおかげでもあろう。こんなぜいたくな時間は今までなかったと思うし、またこれからもないだろうと思う。
 師弟が交わす楽しい対話の饗宴、過去と現在、そして未来を結び、韓国と日本をつなぐ知識人の洞察を講演で如実に感じたのはもちろん、老年という枠に囚われず、いまだ新たな学びを渇望する内田樹の若々しさに私は圧倒された。それは間違いなく青春の眼差しだった。
 彼のまなざしと表情を私はいつまでも覚えているだろう。その残像が、現場に来られなかった人たちのために彼のメッセかージを紹介する文章を書こうと思わせた動機となった。現象を読み取るために、私たちは見えるものの向こう側にある「深さ」を泳ぐしかないという彼の慧眼へ招待する。
企画:IVEマガジン・MUSABOOKS ソウル・ユユ出版社
日時:2025年5月28日 17:00~19:00
場所:LGアートセンター ソウル U+ STAGE
「MOVEMENT」というタイトルで用意された今回の全体プログラムは当初19時終了と告知されていたが、実際の現場では彼の話は19時を越えてもさらに続いた。無理に時間に合わせることなく、彼は言いたかったことを全て吐き出したように(少なくとも私には)見えた。「信号とのノイズ」というキーワードで内田を韓国に招いたIVEコーポレーションのソン・ジュファン代表の「提案」と「説得」により本格的なディスカッションが始まった。同時通訳の朴東燮氏とまるで対話しているかのように、独白と対話の間を行き来しながら、彼は自身の見解を淡々とではあるが力強い口調で語った。

 韓国社会が失った哲学的基盤 ― マルクス読解を通じて時代を理解するのに欠かせない目

 内田樹は「マルクスを読まなければ19世紀以降の世界の歴史を説明できない」という言葉でもって講演を始めた。マルクス思想が19世紀・20世紀、そして現在に至るまで、全ての時代の思想を理解するために不可欠な糧であるというのだ。
 1917年のボルシェビキ革命のような世界史的激動の原因をちゃんと把握するには、マルクスの洞察が核心になると彼は強調した。これは単なる歴史的事件にとどまらず、私たちが今どのような歴史的文脈の中に置かれているのか、自分の立ち位置とアイデンティティを把握するためにもマルクスの読解が不可欠だと言うのだ。
 彼は韓国社会におけるマルクス読解の「空白」を痛烈に指摘した。この空白は現象を解釈できる哲学の不在、さらには思想の骨組みを身体に持てず感覚として受け取ることができなかったことから生じていると主張した。内田の言葉によると、マルクスを正しく理解するためには、マルクス主義者(Marxist)ではなく「マルクシアン(Marxian)」にならなければならないという。前者はマルクスを学術的に引用するが、後者はマルクスを人生の中で実践していくからだ。
 内田自身が「身体を通過した言語」としてマルクスを語ろうとする人であるため、彼が韓国読者に愛される理由もここにあると解釈した。難解な言葉遣いの代わりに、日常の感覚に寄り添ってマルクスを解釈する彼のやり方は、まるでヘルメスのように神と人間の間を橋渡しする伝達者の役割を果たしているからだ。私たちが読みたいマルクスは、「現代思想の深い森」に踏み込み、そこを彷徨う難解な哲学者ではなく、生活と汗で翻訳された思想家であるというわけだ。内田樹が韓国の読者たちに広く読まれている理由もまた、彼がマルクシアンとして知的理解を超えた生きた洞察を提供しているからだという彼の言葉に私は深く共感した。内田樹こそ、哲学を哲学として思惟する人ではなく、自らの「生活論」として変換し、人生と文章に表現する人物であるからだ。

「修行」という思惟の根 ― 武道的哲学が求められる社会
 
 内田は韓国社会のもう一つの欠如として「武道の哲学」に言及した。興味深いのは、韓国社会がこの欠落を自覚できていないにもかかわらず、無意識にそれを渇望しているという彼の洞察だった。彼はこの欠如が「修行」という概念に集約されていると見ている。
 彼が言う修行とは、目的も終着点も分からないまま、ひたすら師の背中を見ながら黙々と歩む旅を意味する。 修行は決してたどりつかない目的地めざして歩くだけのことである。行程表もないし、タイムを計る人もいないし、競争相手もいない。
 合気道でも哲学でも、修行の過程という点で違いはないと彼は力説した。始まりの動機は曖昧で、終わりは見えず、成果が比較の対象ではないこのような精進は、成果中心の社会、勝敗に敏感なシステム、速度と効率が美徳とされる韓国社会ではあまりにも馴染みの薄い話だ。
 それにもかかわらず彼は楽観論を語った。韓国社会が内田を通じて読みたがっているのは、もしかすると忘れていた「武道的思考」と「自己形成」の古い感覚を取り戻そうとする無意識の動きなのかもしれないと。彼は武道の最終目標である「天下無敵」こそ、「大悟覚醒」または「解脱」を経て「無限消失点」に向かう修行の本質だと説明した。
 初心者は自分がなぜこの道を歩むのか分からないが、少なくとも10年以上コツコツと精進してようやく一歩を踏み出せるということ。修行の逆説はまさにここにあるというのだ。
 どんな動機で始めたとしても、その最初の理由は消え、新たな目標と動機が絶えず生成されながら自ら成長していく過程が修行の本質だという彼の言葉は、成果や効率を重んじる現代社会において「過程」そのものの価値と、持続的な努力が持つ力を意味している。

レヴィナス哲学との出会いで照らす望ましい修行の態度と姿勢

 今回の講演で特に印象的だった題目は、哲学者エマニュエル・レヴィナスを初めて読んだとき「全く理解できなかったが弟子になりたいと思った」という告白だった。さらにエマニュエル・レヴィナス哲学との出会いを通じて直面した「修行」の姿勢についてさらに深く語った。知識が足りなかったのではなく、人間的に未熟だったから理解できなかったと語ったのだ。これは、知識の深さを測る尺度が「人間的成熟」であるという彼の哲学的立場を如実に表している話でもある。
 ここで彼は「研究者」と「弟子」の違いを明確に区別した。彼によれば、研究者とは自分がすでに知っているフレームに思想をはめて扱う人ならば、弟子とは自らの知識と情報が役に立たないと認め、捨てることから始める人、すなわち自らのフレームを壊して他者の世界に入ろうとする人だ。知らないことを発見して喜ぶ人、それを喜んで学ぼうとする人。それが弟子であり、その道は常に不完全さを認め受け入れる、生きる姿勢を伴う。
 これは単に哲学に対する態度だけでなく、全ての関係や学習、人生に対する態度に対する深い省察とも直結している。私たちの社会は「知らないことが不安な人々」で溢れているが、内田はその反対の存在として「知らないことを喜ぶ人」を提示する。これは絶えず学び成長しようとする真の学問の姿勢を見せてくれ、知っていることより知らないことの方が遥かに多いという「無知の自覚」が学びの始まりであると強調した。

無知の自覚と私たちが目指すべき哲学的姿勢

 そうした点で内田樹は図書館の役割を、単に知識を誇示する空間ではなく、自分の無知を常に自覚する場所と定義すると力説した。本を並べて置くのは、自分がどれだけ多くの情報を獲得したかを誇示するためではなく、自分がいかに物事を知らず無知な存在なのか、いかに器の小さな人間であるかを「可視化してくれる」役割だというのだ。無知をさらけ出すことを恐れない姿勢、これが真の読書の姿勢であり哲学の態度だと彼は強調した。
 彼は競争社会の王道が「敵を倒して上に立つこと」と思われがちだが、真の自己形成の王道は「競争に反対する修行」だと断言した。武道は強弱を問わず、勝敗を問わず、相対的優劣を論じない。勝てば勝つことに居付いて止まり成長を阻害するからだと、彼は勝利の内在的属性に言及した。よって真の武道とは「自由自在」を得る過程であり、相対的優劣にとらわれず自らの内面を深く探求する過程だ。これは勝敗に縛られず、ひたすら自らを磨き続ける過程の重要性を意味している。
 競争は他者に勝とうとすることで自己を作るが、修行は他者と共に歩むことで自己を作る。そしてその歩みは勝つためではなく、自身の成熟のための行為と同じことだ。勝敗を問わず優劣をつけず、ただ歩くこと――これこそ今日の韓国社会が失った武道家の哲学であり、内田が示す代替的思惟方法だという点で彼の講演の意義を推し量ることができた。

結局、韓国社会が内田樹を通して読み取ろうとしているもの

「なぜ韓国の人々は私の話を必要とするのでしょうか?」
 内田樹は、韓国社会が自分を必要とする理由を「武道的思考」、すなわち勝敗にとらわれず相対的優劣を問わぬ人生に対する憧れからきていると言う。彼は自分が新しい何かを韓国に伝えているのではなく、「もともと韓国にあったはずの話」を思い出させる役割をしていると結論付けた。韓国社会が本来持っていたものを深いところから引っ張り上げる人、それが自分の役割だと。
 彼はマルクス思想を自らの言葉で血肉化し、武道的思考のような深い面を掘り下げる若い研究者たち、すなわち新たなマルクシアンたちが韓国にも間もなく現れると信じており、そうした新たな精神と流れが韓国社会に新たな活力を呼び込むだろうと期待している。
 彼が「外来文物」として自身の哲学ではなく「すでに潜在している哲学」を語る理由もここにある。私たちのアーカイブの中、眠っていた思惟の感覚を再び揺さぶり起こすこと。それこそが内田が今、韓国に必要とされる理由であり、私たちが目指すべき「修行の哲学」ではないだろうか。
 内田樹はこう言った。「時代を変える新しいアイディアはしばしば『初めて聴くけれど懐かしい』ものです。自分たちの文化の深層に潜んでいたものを発見した(という幻想)が必要なんです。外来のブランニューな思想は切れ味が良いほど社会的分断を生み出すリスクがあります。」
 私たちの多くが自覚する社会の空白を埋め、より良い社会へ進むために、私は彼の哲学が緊要であることに共感する。読み取れない時代、道に迷った読者、一方向的に成功を追い求める人々に内田は、「歩く哲学」を提示する。成果志向でなく、また合理と効率だけを崇拝する現代社会においてまさに大切なことは、ただ終わりのない学びに向かって精進する姿勢に他ならないという彼の哲学は、哲学と武道の出会いであり、哲学と人生をつなぐ架け橋のようだ。