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2012年08月 アーカイブ

2012.08.08

「学力と階層」解説

苅谷剛彦さんの『学力と階層』が朝日文庫から文庫化されて出た。その解説を書いた。
苅谷さんの「意欲格差」や「学習資本」というアイディアに私はつよい影響を受けており、『下流志向』や『街場の教育論』で展開した考想は苅谷さんの『階層化日本と教育危機』がなければ書かれなかったはずのものである。
その感謝をこめて書いた解説である。とりあえずこれを読んでから、書店に走ってください。


最初に読んだ苅谷剛彦さんの本は『階層化日本と教育危機』で、その頁を開いたのは、講演のために東京から千葉に向かう総武線の車内でのことだった。手に赤鉛筆を持って、傍線を引きながら読み進んだ。しだいに赤線が増えてきて、ついに一頁全体が真っ赤になったころに、降りる駅についた。本を閉じるときに、文字通り「後ろ髪を引かれる」思いがしたことを、駅前の寒空とともに身体がまだ記憶している。
日本の教育危機の実相について、私の現場の実感とこれほど精密に対応する言葉に私はそれまで出会ったことがなかった。とくに、「自分探し」イデオロギーを深く内面化した子どもが社会階層下位に集中していること、階層下位の子どもたちほど学習機会を放棄する自分に自尊感情を抱いていることを統計から明らかにしたその手際の鮮やかさには動悸の高まりを禁じ得なかった。

『階層化日本と教育危機』を読んだ後、私は苅谷さんのつよい影響下に『下流志向』という教育論を書いた。その中で私は、現代の日本の子どもたちの「学力」の崩壊も、ニート・フリーター志向も、もっぱら教育への市場原理の侵入と、子どもたちの消費者化の帰結であるという議論をなした。そういうおおざっぱな議論をたぶん苅谷さんは好まれないだろうが、私としては苅谷さんの教育論のアイディアが別の領域にも適用可能であることを証明してみたかったのである。
本書は『階層化日本と教育危機』に続く時期に書かれた一連の教育についての論考である。この中で私たちは「学習」と「努力」という、すでに語義が一義的に確定していて、普通名詞化していると思われている言葉の洗い直しを求められる。そして、それらの語が隠蔽している社会の実相に直面させられる。
苅谷さんの知見のうちで、私がもっとも重要だと思うのは、前著では「インセンティブ・デバイド」(意欲格差)という言葉で語られ、本書では「学習資本」という言葉で語られる、「学ぶことへの意欲」そのものが社会構築的な能力だというアイディアである。
ひさしく「詰め込み教育」批判やゆとり教育を駆動していた基本的な教育観は、「誰でもがんばれば学習目標を達成できる」という「努力の平等」論であった。学習成果に差が出るのは、「がんばりが足りなかった」からであり、「がんばる」か「がんばらない」かは一次的に本人の自己決定に委ねられている。学習機会はすべての子どもの前に平等に開かれている。学力や体力には個体差があるが、「努力する能力」は万人に均等に分配されている。というのが、近代日本において、一度として懐疑されたことのなかった「努力主義」イデオロギーである。
苅谷さんはこれがある種の歴史的状況のもとで生まれた、一個の臆断であり、それによって日本の教育が深く損なわれていることを指摘する。これは教育学史上に残る卓見だと私は思う。
たしかに、「努力する能力」は万人に均等に分配されているわけではない。努力する能力は子どもたちの出身階層に深く影響される。階層上位の家庭の子どもたちは、「努力する」ことの意味と効用を信じ、努力することによって現に社会的成功を収めた人々に取り囲まれている。階層下位の子どもたちは個人的努力と社会的達成の間には正確な相関がないから「努力するだけ無駄だ」と信じている人々を周囲に多く数える。この社会的条件の違いは、子どもたちの「努力することへの動機づけ」そのものに決定的な差をもたらすだろう。だが、その事実はこれまでほとんど主題化することがなかった。
「どれだけがんばるかを、個人の自由意志の問題とみなすかぎり、その背後に社会階層の影響があることに目は向きにくい。(・・・)努力=平等主義を基調とする日本型メリトクラシーにおいて、メリトクラシーの信奉は、能力の階層差を隠すにとどまらない。それは努力の階層差をも隠すことにより、教育達成の不平等を二重に隠蔽するイデオロギーとして機能するのである。」(『階層化日本と教育危機』、有信堂高文社、2001年、p.159)
そして、ひさしくわが教育観を覆い尽くしてきた「だれでも努力すれば・・・」イデオロギーは、外見上の平等主義とはうらはらに、格差を再生産し、社会の階層化を強化してきた。それは今も変わらない。
今の日本の子どもたちは「自分が一番がんばれること」を探し出して、それにすべての人間的資源をつぎ込みなさいと学校教育でも家庭教育でも誘導をされている。もちろん、寝食を忘れて打ち込めるような対象がふつうの子どもたちにいくつもあるはずがない。芸人になりたい、アイドルになりたい、スポーツ選手になりたい、声優になりたい・・・というようなことを洩らす子どもたちは、彼らの幼い日常生活の中で「寝食を忘れて」夢中になれる対象がせいぜいテレビかネットかゲームの中にしかないという文化環境の貧困を告白しているに過ぎない。だが、子どもたちがさしあたり唯一「がんばれること」のが「それ」だと言い張るなら、子どもたちが「それ」をめざして「がんばる」ことを止めるロジックを大人は持っていない。もちろん、ほとんどの子どもたちはその「夢」と現実の絶望的な落差にいずれ気づいて、いずれ「がんばる」ことを止めてしまう。それまで「がんばれ」を煽ってきた大人たちは、子どもの努力放棄に対して不意に無表情になる。それは「努力する能力」が遍在しているということを半ば信じ、なかば信じていない人々に固有の反応のように私には見える。いずれにせよ、今の日本の子どもたちの過半は、人生のはやい時期に「努力すること」に対してシニックな態度をとるように仕向けられている。
その一方で、私たちの社会のエスタブリッシュメントはいまだに「努力することへの動機づけ」を安定的に備給されている人々がいる。そのような階層の子どもたちは「努力すればいいことがある」というタイプの利益誘導型のロジックにではなく、むしろ「あなたは人に倍して努力することを義務づけられている」という選良意識に従って努力をしている。そのような「努力することができる」集団と、「努力する能力を早い時期に損なわれた」集団が日本社会には解離的に存在しており、その隔たりは、日々拡がっている。階層上位の人々は、「強者連合」的な相互扶助・相互支援のネットワークを享受しているが、階層下位の人々は分断され、孤立化し、社会的流動性を失っている。それが苅谷さんが「『学習資本』の階層差」と呼ぶ事態である。
この階層化はもっぱら「努力することへの動機づけを欠いた集団」ばかりが増大してゆくというかたちで推移している。つまり、学習資本を持たない子どもたちが大量に、組織的に今学校で作り出されているのである。それが私たちの直面している喫緊の問題である。
「十分な学習資本を持たない若者が大量に社会に放り出される」とどうなるか。非正規化圧にさらされている若年労働者が「学校時代に身に付けるべきことを身に付けないまま、職業に就いてからも十分な職業訓練の機会を与えられない」(本書、24頁)ままであれば、いずれ彼らを支援するための社会的コストは破滅的な規模のものになるだろう。
私たちはあらゆる手立てを尽くしてそのような事態の到来を防がなければならない。だが、教育行政にかかわる人々も、政治家も、メディアも、この問題に対して、ほとんど関心を示さない。ただ「最近の子どもは学力が下がった」ということを不満げに言い立て、「できる」子どもに報償を与え、「できない」子どもに罰を与える「人参と鞭」戦略をさらに強化せよという声ばかりが高まっている。
だが、教育史が教えるのは、「人参と鞭」戦略は必ず失敗するということである。
同学齢集団内部での相対的な優劣を競わせれば、子どもたちの集団全体としての学力は必ず下がる。
それは子どもたちが「自分の同学齢の子どもたちができるだけ無能で愚鈍であることから利益を得る」モデルになじんでしまうからである。受験競争では、自分の学力が上がることと、他人の学力が下がることは、同義である。子どもたちは、無意識的には、自分以外の同学齢集団の子どもができるだけ勉強をしないことを望んでいる。同世代の子どもたちが、できるだけ知的に不活発であることを望んでいる。その方が競争において自己利益を確保する上で有利だからだ。「努力する子どもたち」は機会があれば、他の子どもたちを「努力する気を失うような無力感」のうちに叩き込もうとする。個人的な性情の善悪とはかかわりがない。彼らは、合理的な判断として、「他人の努力を妨害する」ことを、ごく自然なふるまいとして行うようになるのである。
それが現代日本で起きていることである。そして、この「努力する能力」の階層的偏りと、努力する動機づけそのものの劣化・空洞化を、わが国の教育行政にかかわる人々も、教育を声高に論じる人々も、ほとんど理解していない。ただ、教え方が悪い、学習時間が短い、格付けと差別化が不徹底であるというような、この危機的状況をさらに悪化させるような愚かしい議論に明け暮れている。
教育をめぐる議論の底知れぬ退廃をどこかで防ぎ止めなければならない。そう私は思っているが、その方法について、確かなことを言える立場にはない。とりあえず、私と不安を共にしている皆さんには「まず苅谷剛彦さんの本を読んで下さい」と言うことにしている。苅谷さんの本には実践的なことについて、指図がましいことは何も書かれていない。何をなすべきかを思量し、実行に移すのは、私たちひとりひとりの仕事である。
私はとりあえず苅谷さんの本を読んで「私塾を作ろう」と決意した。文科省のいかなる教育政策にも掣肘されることのない教育機関が必要だという私の決断に、苅谷さんの教育社会学的知見は深く与っている。
そんなことを言われても、苅谷さんは当惑するばかりかも知れないが。

2012.08.10

『時局』インタビュー

名古屋で出されている『時局』という雑誌でインタビューを受けた。掲載誌が送られた来た。あまり手に取る機会のない媒体であるはずなので、一部加筆修正した上で掲載する。


―― 大学を退職後の昨年十一月に合気道道場「凱風館」を開かれましたが、内田先生にとって合気道はどんな存在ですか。
 
内田 大学卒業後、25歳から始めて、稽古に打ち込むようになったのですが、「稽古ばかりやっていてはダメだ」と大学の先生からは言われました。研究者になるつもりなら、寝食を忘れても研究に打ち込んだらどうか――と。でも、夕方六時になると、どうしても全部放り出して稽古に行ってしまう。そんな生活を十五年続けていました。
合気道の稽古と専門の研究の間には本質的な繋がりがあるということを、本人は確信しているんですけれど、言葉では説明できない。三十年くらいやったところで、「研究でやってきたことと、道場でやってきたことは、実はまったく一つの同じことだったのだな」と得心がゆきました。
合気道は武道である以上、敵がいて、自分を攻撃してくるという設定で動くのですが、理想的には、「敵と私」が対立するのではなくて、二人が対になり、同化的に動くことで、それぞれの身体能力を高めていく稽古をめざしています。
競技武道の場合、敵がいることによって、私の側は可動域や動線が制約されたり、動きの選択肢が狭められるというふうにマイナスの方をカウントしていくのですけど、合気道はその逆です。相手がいることによって、自分単独ではできないことができるようになると考える。新たに何ができるようになるのかを考えていく。与えられた環境を「自己実現」を阻害する否定的なものととらえないで、つねに自分の潜在可能性を引き出す新しい機会ととらえる。そういう点では、きわめて汎用性の高い心身の統御法です。だからこそ全世界に広まり、合気道人口が増え続けているのだと思います。

―― 現代人が求めているものがあるということでしょうか。
内田 若い人たちは相対的な優劣を気に病んで、あらゆることを対立的・競争的に考えている。わずかな格付けの上下に反応して、上から目線に対しては「なめるな」と怒り出す。かつては競争は受験やスポーツ競技など限定的な場面だけのものでしたが、今は社会全体に競争原理がゆきわたっている。あらゆる機会に個人の数値的格付けが要求される。でも、本来武道は術者の強弱勝敗巧拙を論じないものなのです。
道場に来る子たち、特に男の子は精神的に痛めつけられているケースが少なくありません。学校や職場の人間関係に苦しみ、追い詰められて、直感的に合気道に救いを求めてやってくる。それが道場で稽古するうちに身体がほぐれ、気持ちが開き、だんだん明るくなっていき、友達もできて、気がつくと仕事も家庭も順調にゆくようになっていた。そういう事例をよく耳にします。でも、当たり前のことなんです。武道的な心身の錬磨というのは、「どうしていいかわからない状況」で直感的に最適解を選ぶ訓練なんですから。自分の置かれた状況を俯瞰的に見下ろし、自分がどこにいるのか、何をなすべきなのかを瞬時に理解するというのが武道家のめざすところですから、武道的な修業が進めば、「仕事ができるやつ」だということになるから、会社でだって出世します。 

―― 状況を俯瞰するとは客観的視点を持つということですか?
内田 「客観的な視点」というようなものは、どこにもありません。でも、相手の身体に同化できると、自分が見える以上のことがわかるということがある。相手の五感が感知している情報が身体を経由して、こちらも部分的に共有される。自分では見えないが、相手が見えているものが見える。自分には聞えないが、相手には聞えている音が聞える。そういうことが起こります。二つの存在が同化すれば、私が単独で存在するよりも、外界についての情報入力が増える。見える範囲も可聴領域も広くなる。その分だけ、判断が正確になる。それを強いて言えば「客観的視点」を持つということになるかも知れません。
でも、その前提にあるものは「他者への共感」なんです。
まずは目の前の一人と同化する。それができれば、やがて同じ空間を共有している三人、四人、五人に同化の輪を拡げてゆく。性も年齢も国籍も宗教も違う人たちと身体的に、感覚的に同化する。その同化が深まるほど視野は広がり、判断も正確になる。でも、ベースになるのは、目の前にいて自分と向き合っている人間の心と身体への共感です。それを日々の稽古で練るのです。

―― インターネット上など身体を伴わない交友ではその共感は得られないと。
内田 ネットのコミュニケーションには身体性が伴いませんから、共感を作り上げるのはむずかしい。人間の感情って、アナログな連続体ですから。「喜び」と「悲しみ」と「悔しさ」と「怒り」の間には別に明瞭な切断線があるわけじゃない。実際には、知っている語彙では言い表せない非分節的な感情が無限にあるわけです。そういう微細な感覚は身体を経由すれば送受信できますけれど、デジタルな記号で伝えようとしたら、相当な筆力がないとできない。
デリケートな感情を伝えるのって、むずかしいんです。「ほのかな好意」とか「泣き笑い」みたいなものは目の前にいて全身を使わないと伝えられない。でも、「バカやろう」とか「死ね」というような薄っぺらな記号でも、憎しみや怒りは誤解の余地なく伝えられる。怒りや憎しみにはほとんど受け手の側に誤解の余地がないんです。だから、ネットコミュニケーションで、少ない記号運用で自分のメッセージを的確に伝えようとする人は「怒り」を選択する。記号利用の費用対効果を考えれば、「怒る」のが一番効率的なんです。
たしかに怒りを放電するツールとして、ネットは効果的です。現に、「アラブの春」で、民衆の「声なき怒り」が爆発的に感染していくときには強い力を発揮しました。しかし、政権崩壊後、新しい政治体制をつくっていくときにはもう機能しません。忍耐力が要る、きめこまかいネゴシエーションは生身の人間が顔と顔を接して進める他ないからです。
政治的対話というのは、最終的には、生身の人間と向き合ったときの「この人は信用できる」という身体的な確信がベースになる。その上に交渉が積み上げられてゆくわけで、レンガを積むのと同じで、基礎がぐらぐらしていては何も建設できない。でも、この「この人は信用できる」という確信はネットコミュニケーションで獲得することは簡単ではありません。やはり、顔が見え、声が聞え、手が届く範囲の具体的な人間関係を経由せずには、十分信頼に足る社会的な信頼関係は築けないと思います。

―― 思想家として言葉を扱ってこられた先生として気になることはありますか。
内田 日本語は今、危機的な状態にあると思っています。
日本語というのはもともと土着の「やまとことば」に大陸から伝来した漢字を取り入れたハイブリッド言語です。外来のテクスチュアルな公式言語をコロキアルな生活言語で受け止め、取り込み、生活言語を富裕化させてゆく。そのような外来語と土着語の緊張関係の中で日本語は豊かなものになってきた。幕末から明治の初めにかけて、ヨーロッパの言語が入ってきましたが、当時の日本人はそれを漢字二字の熟語に置き換えることで、一気に語彙を拡大させました。漢字熟語への置き換えというんは、要するに「外来語を外来語で置き換える」ということですから、土着語の統辞構造まで揺らぐわけではない。だから、外来の概念や術語の取り入れに対する心理的抵抗が少なかった。
日本が東アジアの中で例外的に近代化に成功した理由の一つはこのハイブリッド言語の柔構造が関与していると私は思っています。
でも、現在の日本語は土着語と外来語の緊張関係が希薄になっています。
もう新しい概念を漢字二字の熟語に置き換えるというような手間は誰もかけなくなった。英語は英語のままで済ませてしまう。加えて、まだ漢字もろくに書けない子どもたちに英語教育を行おうとしている。でも、日本語は日常語としてカジュアルに使い、難しい話は英語でするというのは植民地の言語状況ですよ。

―― ハイブリッド言語の機能が生かされなくなってきているのですね。
内田 せっかく土着語と外来語の緊張関係が日本人の言語能力を高い水準のものにしてきたのに、その関係を切断してしまった。今、日本語は急速に貧しい言語になりつつあります。新聞などメディアでも使われる日本語の語彙が年々少なくなってきている。これからビジネスは英語でやりましょう、論文は英語で書きましょうということは、日本語ではもうそういう「ややこしい話」ができなくなってきているということです。日本語の汎用性が失われているということです。

―― どうすればいいと。
内田 日本のメディアが使用語彙に対してもう少し寛容であってくれればいいと思いますね。僕は勝手に漢字二字で新語を造語することがあるんですけれど、新聞社から「こんな言葉は広辞苑にありません」と必ずチェックが入る。でも、広辞苑に採録されている言葉だってすべてもとは「新語」でしょう。漢字二字並べて意味がわかるなら、それでいいじゃないですか。言葉って、もっと生成的なものだと思う。

―― その一方、日常会話的な言葉は次々に生み出され、あっという間に認知されていきますね。
内田 「うざい」とか「ビミョー」とか「真逆」といった新語は、わずかな期間のうちに日本全土に広まりました。メディアに出る前に、もう拡がっていた。聞いた瞬間に意味がわかって、「これは新しい」と感じたら、子どもはすぐに使い出す。
ところが、複雑な感情や概念を表す新語というのは今の日本ではほとんど作られることがありません。このままでは、日本語の語彙はやせ細っていくしかない。最近の新聞で使われる漢字の語彙はもう僕が子どものころに比べても半分以下ではないでしょうか。

―― 深い意味を内包した言葉を生み出せなくなっていると。
内田 そうです。それを作りだすためには、「文章を書く力」が要るのですが、日本の学校教育では「創造的な言葉の使い方」というものを教えない。
たしかに、定型的な言葉の使い方には子供たちはすぐに習熟します。でも、出来合いのストックフレーズの在庫が増えるだけでは言葉が豊かになったことにはならない。どんな話題からでも無理やり自分の得意なところに持ち込み、用意していた台詞を一気に読み上げて、「どうだ!」と押し切るのが、今の日本でいうところの「ディベートのうまい人」です。でも、こんな能力は新しいものを作り出すためには何の役にも立たない。
本当のディスカッションというのは、「自分が知っていること」を言い立てることではなく、「自分がはじめて聞いた話」に反応することなんです。
そうすると、双方とも自分たちの話していることがよくわからない。何となく大事なことを話していることは直感されるのだけれど、気持ちの片づく表現を見いだせない。そういうときに、お互いに協力しながら新しい言葉や概念を作り出していったり、新しい感情の分節を発見したりするのが本来のクリエイティブな言葉の使い方だと思います。
当然、その過程では、口ごもったり、言いよどんだり、言い直したり、言い変えたりということが何度も起こるわけですが、今の若い人たちって、そういう戸惑いを「恥ずかしいこと」、「しちゃいけないこと」だとか思い込まされているんですよ。

―― 学校教育の場だけでなく、家庭でも職場でも、打てば響くように、立て板に水のごとく話すことを求めがちですね。
内田 そうなっていますね。これ、テレビがいけないと思うんです。テレビって制作費がすごくかかっているせいもあって、短い時間の中にメッセージを詰め込まなければいけないという制度的な要請があります。だから早口で、きちんと整理された話を、枠の中にきちんとはめ込むような語り口をするタイプの人しかテレビでは発言できない。
それを見て育った子どもたちは、ああいう話し方をするのが知的な人間であると思い込んでしまう。
討論番組を見ていると、ひどいときは二秒三秒で反論したり、自説の正しさ証明をしたりしなければいけない。でも、それんなことは、よほど話を単純化しない限りできるはずがない。「あなたの言うことも一理あるような気がするけれど、自分の主張も捨てがたい。どうです、ここはひとつナカ取って、玉虫色の落としどころを探しませんか」なんていう味のある対話はテレビでは絶対できない。ひたすら大声で自分が正しいと主張し、相手を黙らせることのうまい人間だけしかテレビには出られない。

―― 和を尊ぶ日本文化とは相反するのでは。
内田 本当にそうですね。僕はほんとうに非常にシビアな対立点がある場合には、相手の言葉にまず「うなずく」ところから始めるというのが、合意形成には非常に役立つと思っているんです。「うなずく」というのは、必ずしも「同意している」ということを意味しません。意見が違う人の話を聞く場合でも、「なるほど、そうですよね、そういうことってありますよね」と、とにかく首肯しながら聞く。身体でそういう動作を行いながら相手の話を聞き、向こうの語りのリズムとか、声のピッチにだんだん身体がなじんでくる。そうすると、なんとなくその人がその主張をなさざるを得ない「やむにやまれい事情」が頭じゃなくて、身体でわかってくる。
「この人がこれだけきっぱり確信している以上、何か切ない事情があるのだろう」と思えてくる。
だいたい議論の対立点というのは、ほとんどの場合、過去の経験則に基づいて、未来の出来事について「たぶんこうなるだろう」と予測していることが違うから起きるんです。事実関係で争っているわけじゃない。未来予測が違うんです。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているから対立しているわけじゃない。まだ起きていないことについて、「どちらの予測の蓋然性が高いか」を論じている。お互いに、どういう情報に基づいてそれぞれの未来予測の確かさを根拠づけているかを開示し合えば、歩み寄ることは決してむずかしいことじゃない。

―― ネット上のやりとりでは起こりえないことですね。
内田 こればかりはできないですね。
ネット上で一番難しいことの一つに謝罪があります。「この度は不祥事を起こしまして、関係各位に対してお詫び申し上げます」という定型的な謝罪というのはありますけど、個人的な失言とか、事実誤認に対して個人が固有名において「すみませんでした」と謝ることはまずない。謝るのって、その場に身体がないと難しいんですよ。
例えば、もつれた事態の収拾のために一応謝罪することになった。でも内心は向こうの方が間違っていると思っているとき、手紙とかネットでの文字だけの表現では、謝罪しながら「お前に謝る気なんかないんだぜ」という思いは込められません。ところが身体があるとそれができるんです。まったく謝意がないままに、「申し訳ありません。この通り、土下座いたします」と言って土下座することができるんです。過剰に演技的に振る舞うことによって、「私は謝っているけれど、謝っていない」という無言のメッセージを発信することができる。
 
― 確かに「土下座いたします(笑)」と文字で明記しては、身も蓋もありませんね。
内田 それだと「ふざけるな!」となっちゃいますからね。でも、身体があれば、「(笑)」というメタ・メッセージを言葉の上にかぶせることができる。だから謝れるんです。
勘違いしている人が多いけれど、手紙で謝るより、直接謝る方が、ずっと楽なんです。内心では謝意がなくても、現に土下座されると、謝られた方はそれ以上要求できません。そこでその件は一件落着する。
そうした場合だけでなく、ことが紛糾して、「やばい」と思ったら、とにかく現場に飛び込んでゆく方がいい。現場に身体を放り込むと、何とかなるんです。危機的状況のときに、遠くから事態をリモートコントロールしようとすると、失敗する。人間の身体が持っている力というのは結構たいしたものなんです。言葉だけでやり取りしていると、なかなかほつれた感情はほどけないけど、顔と顔をつき合わせてやりとりすると、割とあっさり、「じゃあ、いいや」「いや、俺も悪かった」で終わることってままありますからね。
特に謝る時には機先を制して「えっ、本人が来ちゃったの?」という気持ちにさせる効果がある。先方が「電話の一本もよこして謝罪しろよ」くらいに思っている時に、本人が来て、「やっ、どうも申し訳ありませんでした」とぺこぺこすると、たいてい、怒りの熱は一気に冷めてしまう。
目の前にいる生身の人間に向かって、その人を激しく傷つける言葉を言うのは、よほど鈍感な人間にしかできませんから。だから、謝罪においては、相手の「間合いを切る」ことが効果的なんです。相手の身近く、手が触れるくらいの所まで行って謝まる。
でも、繰り返し言いますけれど、死ぬほど鈍感な人間が相手の場合は、この手は効きませんよ。

―― 最後に日本の経済環境についてのご意見を。
内田 「後手に回らない」というのが武道の基本なんです。でも、日本というのは本質的に「後手に回る」国なんです。
日本人をせき立てる一番有効な言葉は「バスに乗り遅れるな」ですね。でも、「バスに乗り遅れない」ことに夢中な人間は、「バスの行き先」を決める気もないし、「バスを作る」気もないし、「バスを運転する」気もない。そういうたいせつなことは全部他の人に委ねておいて、自分はゲームが始まってから、参戦して、成功事例の真似をして、何とかいいスコアーを上げようとしている。でも、こういうふうにはじめから「後手に回った」国がゲームを制するということはありえません。
日本は欧米に比べてもアジア諸国に比べても、治安もいいし、民度も高いし、社会的インフラも整備されている。なにより、一億三千万人という巨大な国内市場がある。グローバルな経済競争の「バス」の後を追うよりは、この国内市場だけ成り立つような「小商い」のビジネスモデルを創造すべきだと僕は思います。
国内で成功させ、その安定した基盤を使って、余力があれば世界に出てゆく。国際競争でのトップシェアは「ボーナス」みたいなもので、「月給」は国内市場だけで稼ぐ。そういう発想でいいと思うんです。
十億人、二十億人の市場でシェア一位じゃないとすぐ倒産してしまうというようなビジネスモデルは制度設計それ自体がが間違っている。
日本って独特の国だと思います。欠点もあるけれど、いいところもたくさんある。世界に誇れる厚みのある国民文化を持っている国なんですから、みんなでこの伝統をたいせつにしてゆけば、国際社会の中で名誉ある地位は保てると思います。

2012.08.11

市場からの撤収

消費増税法案が成立した。
日経は一昨日の一面で、これで日本の信認が守られ、政治家たちが「消費増税の先送りという最悪の事態を避ける理性だけは残っていた」ことに満腔の安堵を示している。
税金を上げないと「日本の財政再建への疑惑」が国債格付けを下げ、金利が上昇し、国債が投げ売りされ、国家財政が破綻するからである(らしい)。
この辺の「風が吹けば桶屋が儲かる」的なドミノ倒し的破綻シナリオがどれほどの信憑性があるのか、私にはよくわからない。
国債を格付けやら金利の乱高下を材料にして国債を売り買いする機関投資家というのは、平たく言えば「ばくち打ち」の皆さんである。
世界の人々が自尊心をもって文化的で愉快な生活を営めるかどうかということは彼らの投資行動とはかかわりがない。
手前の懐が温かくなるなら、どれほどの人が寒い思いをしようと路傍で飢えようと、「それは自己責任でしょ」と言い放つ方々が金融市場というものを支配している。
消費増税ができなければ、日本国債を暴落させて、それで大いにお金もうけをしようと虎視眈々としている方々の思惑を配慮しないと、国家財政が立ちゆかないような金融システムの中にすでにわれわれは組み込まれているのである、それが冷厳なリアリティなのだからそれに順応するほかないというのが当世の「リアリスト」たちの言い分のようである。
なるほど。
おっしゃる通りなのかも知れない。
私たち生活者にはそういうややこしいマネーゲームのことはわからない。
わかるのは消費税がいずれ10%に上がるということだけである。
貧しい人ほど税負担が重くなるいわゆる「逆進性」についての制度的な手当ては具体的にならない。
その一方で、生き延びるためには「選択と集中」が不可避であると主張する経営者の方々は、こんな高コストでは国際競争に勝てないということで、法人税の引き下げ、人件費の引き下げ、電気料金を含む製造コストの引き下げを繰り返し要求している。
「それが達成されなければ、日本を出て行く他ない。生産拠点が海外に移転すれば、雇用は失われ、地域経済は壊滅し、国庫の歳入は激減するが、それはすべて『あんたたち』のせいだよ」と経営者たちは毎日のようにメディアを通じて宣告している。
そして、メディアはだいたいどこもこの言い分に理ありとしている。
自社の経営がうまくゆかない要因をもっぱら外部の無理解と非協力に求める経営者がわが国ではいつのまにかデフォルトになったようである。
そのデフォルトに基づいて、グローバル企業が国内にとどまってくださるように、法人税を下げ、賃金を下げ、公害規制を緩和し、原発を稼働させ、インフラを整備すべしというのが当今の「リアリスト」たちの言い分である。
そうしないと、「たいへんなことになる」らしい。
だが、「消費税を上げる」と「賃金を下げる」という二つのことを同時的に行うと何が起こるか。
想像することは難しくないと思うのだが、税金を上げて、賃金を下げることで何が起こるかについて、私が徴した限り、人々はあまり想像力を駆使している様子がない。
「ベーシックインカム」とか「軽減税率」とかいうことをぼそぼそ言っているだけである。
メディアや財界のかたがたがそれについて想像力の行使を惜しむようなので、私が彼らがに代わって想像してみる。
消費税が上がって、賃金が下がると何が起きるか。
もちろん国民の消費行動はクールダウンする。内需が縮小する。国内市場相手の「小商い」はばたばたと潰れてゆく。「貧困ビジネス」とグローバル企業だけが生き残る。
「それでいいじゃないか」とたぶん政官財メディアのみなさんは思っておられるようである。
「選択と集中だよ。国際競争力のないやつらはマーケットから退場する、それがフェアネスだ」と豪語するであろう。
だが、私の想像はもう少し先の出来事に及んでいる。
「国際競争力のないやつら」が「マーケットから退場」したあと、「どこ」に行くのか、ということをあまり彼らは考えていない。
マーケットから退場した人々は「いくら安い賃金でもいいから使って下さい」と懇願する「安価な労働力」を形成すると考えているのであろう。だから、弱者の退場は人件費コストのカットに直結すると考えているのであろうか。
それはいささか楽観的にすぎると私は思う。
マーケットから退場させられるより先に、自主的にマーケットから撤収する人々が出てくる。
「国民たちの市場からの撤収」が起きるのではないかと私は予測している。
「もうマーケットはいいよ」というのが現に国民のおおかたの実感である。
額に汗して労働してわずかな貨幣を稼ぎ、その貨幣で税金の乗った高額の商品を買わされるという市場中心の生き方そのものの被収奪感にもう「うんざり」し始めている。
これは健全なリアクションだ。
というのは、「労働を貨幣に替える。その貨幣で商品を買う」という行為だけに経済活動が限定されているというのは、人類史的にはかなり最近の出来事だからである。
人類はその草創期からずっと経済活動を行ってきた。
経済活動とは要するに「財貨やサービスや情報をぐるぐる回す」ということである。
これを達成するためには、さまざまな人間的資源の開発が求められる。
取引ということが果たされるためにはまず度量衡が統一されなければならない。
共通の言語が要る。
パートナーを共軛する法律も要る。
信用とか為替とかいう概念も発明しなければいけない。
もちろん交通手段・通信手段の開発整備も必須である。
モノをぐるぐる回すケームをするためには、「いろいろなもの」を作り出さないといけない。
モノそのものよりも、この「ゲームを円滑に進行するために必要なもの」に人類学的な価値があることにわれわれの先祖は気づいた。
マリノフスキーやモースが報告している「クラ交易」の事例が教えるように、交易において循環する「もの」には一次的な価値はない。
「もの」を適切かつ円滑に交易させることのできる人間的能力に価値がある。
それは将棋の駒にはほとんど使用価値も交換価値もないが、将棋の駒を適切に操作することのできる人間的資質には汎用性があるというのと同じである。
貨幣や商品は本質的には「将棋の駒」である。
重要なのは「将棋を指す人間の中で活発に活動している人間的資質」の方である。
現に私たちがありがたがっている貨幣そのものにはいかなる使用価値もない。洟もかめないし、メモも書けないし、暖房にもならない。
でも、貨幣を用いて商品をぐるぐる回すために人間にはさまざまな能力を開発せねばならず、その能力には高い汎用性がある。
だが、今このポストグローバル資本主義社会においては、「経済活動が人間的能力の開発を要求しない」という事態が出来した。
これは経済史的に前代未聞のことである。
「円高」とか「国債格付け」とかいうことは、すでに実際の国富の多寡や生産物の質や市場の需要と無関係に語られている。
こういうファクターを決定しているのは「現実」ではなく「思惑」である。「未来予測」であり、同一の未来予測を共有するプレイヤーの頭数である。
「貨幣で貨幣を買うゲーム」は「ゲームの次の展開」だけが重要であり、「次はこういう展開になる」という「まだ起きていないことについての予測」が反転して「これから起きること」を決定する。
不思議なゲームである。
ここで流れる時間は、人間的時間の流れとはもう違うものである。
ある意味で時間は止っているのである。
だから、この「貨幣で貨幣を買うゲーム」のプレイヤーにはどのような人間的資質も、市民的成熟も求められない。
そこで必要なのは適切な「数式」と高速度の「計算」だけである。
だから、金融工学についての十分な知識をもっていれば「子ども」でも株や債券の売り買いについての適切なアルゴリズムを駆使して巨富を築くことができる。
現に、そうなっている。
今では人間に代わってコンピュータが一秒間に数千回というようなスピードで取引をしているのである。
グローバル経済はもう人間主体のものでもないし、人間的成熟を促すためのものでもない。
私たちはそのことにようやく気づき始めた。
「こんなのは経済活動ではない」ということに気づき始めた。
「こんなこと」はもう止めて、「本来の経済活動」に戻りたい。そう思い始めている。
私にはその徴候がはっきりと感じられる。
そのような人たちは今静かに「市場からの撤収」を開始している。
さまざまな財貨やサービスをすべて商品としてモジュール化し、それを労働で得た貨幣で購入するというゲームの非合理性と「費用対効果の悪さ」にうんざりしてきたのである。
目の前に生きた労働主体が存在するなら、彼の労働をわざわざ商品化して、それを市場で買うことはない。
「ねえ、これやってくれる。僕が君の代わりにこれやるから」で話が済むなら、その方がはるかに合理的である。
経済学的にはこれは「欲望の二重の一致」といって「ありえないこと」とされている。
だからこそ貨幣が生まれたとのだ、と説明される。
だが、ある程度のサイズの「顔の見える共同体」に帰属していると、実際にはかなりの頻度で「欲望の二重の一致」が生じることがある。
これはやればわかる。
というか、欲望というのは自存するものではなく、「それを満たすものが目の前に出現したとき」に発動するものなのである(という洞察を語ったのは『羊たちの沈黙』におけるハンニバル・レクター博士である。私は博士の人間観の深さにはつねに敬意を払うことにしている)。
だから、共同体に「いろいろな財貨やサービスや情報や技能」をたっぷり持っていて、「誰か『これ』要らないかなあ」と思っている人が出入りしていると、「あ、オレが欲しかったのは、『これ』なんだ」というかたちで欲望が発動すると「欲望の二重の一致」はたちまち成就してしまう。
私の主宰する凱風館という武道の道場には約200人の人々が出入りしているが、専門領域や特技を異にするこれだけの数の人がいると、多様な相互扶助的なサービスのやりとりを貨幣を介在させずに行うことが可能になる。
今凱風館で行き交っている情報や知識や技術や品物の「やりとり」は、それらひとつひとつがモジュールとして切り出されて、パッケージされて、商品として市場で売り買いされた場合には、かなりの額の貨幣を積み上げても手に入れることがむずかしい質のものである。
だが、凱風館では貨幣は用いられない。
ここでは、情報や技術や品物が必要なひとはその旨を告知しておけば、そのうち誰かがそれを贈与してくれるからである。
この贈与に対する反対給付は「いつか」「どこかで」「誰かに」パスすることで相殺される。
いま贈与してくれた人も、かつて、どこかで誰かに「贈与されたもの」をここで次の受け取り手に「パス」することによって反対給付を果たしているのである。
貨幣が介在しないことで、ここでは貨幣で買えるものも、貨幣では買えないものも、ともに行き交っている。
これはもうある種の「物々交換」と言ってもよいだろう。
そして、すでに日本の各地では、さまざまなサイズ、さまざまなタイプのネットワークを通じて、このような「直接交換」が始まっている。
貨幣を媒介させるのは、「その方が話が速い」からであった。だが、今は貨幣を媒介させた方が「話が遅い」という事態が出来している。
自分の創出した労働価値を貨幣に変えて、それで他の労働者の労働価値から形成された商品を買うというプロセスでは、労働価値が賃金に変換される過程で収奪があり、商品を売り買いする過程で中間マージンが抜かれ、商品価格にも資本家の収益分や税金分が乗せられている。
それなら、はじめから労働者同士で「はい、これ」「あ、ありがとう」で済ませた方がずっと話が速いし、無駄がない。
例えば日本人の主食である米については、すでにその相当部分は市場を経由することなく、生産者から知り合いの消費者に「直接」手渡されている。この趨勢はもう止らないだろうと私は思っている。
こういう活動は「表の経済」には指標として出てこない。
すでに始まりつつある「国民の市場からの静かな撤収」についての経済の「専門家」たちの見解をメディアは報じないが、たぶんそれは彼らがそれについてまだ何も気づいていないからであろう。
一番敏感なのは就職を控えた若者たちである。
感度のよい若者たちはすでに自分たちを「エンプロイヤビリティ」の高い労働力として、つまり「規格化されているので、いくらでも替えの効く」労働者として労働市場に投じるほど、雇用条件が劣化するということに気づき始めた。
それなら、はじめから労働市場に身を投じることなく、「知り合い」のおじさんやおばさんに「どこかありませんか」と訊ねて、「じゃあ、うちにおいでよ」と言ってくれる口があれば、そこで働き始めるというかたちにした方がよほど無駄がない。
あまりに雇用条件を引き下げすぎたせいで、就活が過剰にストレスフルなものになり、就活を通じて人間的成長どころか心身に病を得る者が増えたせいで、労働市場から若者たちが撤収するという動きはすでに始まっている。
「市場からの撤収」は就活に限らず、あらゆるセクターでこれから加速してゆくだろう。
これからさき、ポスト・グローバリズムの社会では、「貨幣を集めて、商品を買う」という単一のしかたでしか経済活動ができない人々と、「贈与と反対給付のネットワークの中で生きてゆく」という経済活動の「本道」を歩む人々にゆっくりと二極化が進むものと私は見通している。
むろん、貨幣はこのネットワークが円滑に形成され、ひろがってゆくためにはきわめて効果的なアイテムであり、「本道」の人々も要るだけの貨幣をやりとりする。
だが、貨幣はもう経済活動の目標ではなく、ネットワークに奉仕する道具にすぎない。
それが人間的成熟に資する限り貨幣は有用であり、人間的成熟を阻害するなら有害無用のものである。このことは久しく「人類の常識」であったのだが、いつのまにかこの常識を語る人が少数派に転落したので、あらためてここに記すのである。

2012.08.12

党首か市長を探しています

今月1日に大阪市の公募区長に就任した榊正文・淀川区長(44)が個人のツイッターで、自身を批判した相手に「アホ」「暇人」などと発言していたことがわかった。自身もツイッター上で過激な発言を繰り返している橋下徹市長は9日の記者会見で、「(区長は)公選職でなく、僕と同じやり方はできない。有権者へのアホとかバカという言葉遣いは行政職としては許されない」と述べ、処分を検討する方針を示した。
榊区長は人材派遣会社役員から転身。今月7日にツイッター上で、「これまでの暴言について明確に謝罪してからが初めてスタートライン」と区長就任後の挑発的な発言を批判され、「アホか、相当な暇人やな」と発言していた。
榊区長は「問題と言われるなら問題かもしれない。ただ私的なツイッターであり、特定の人にアホと言ったのではない。 (ツイッターには)変な人や行儀の善くない人たちがいっぱい来る」と話した。(毎日新聞、8月9日)

少し前にはこんな事件もあった。

大阪市浪速区の公募区長として8月に就任予定の経営コンサルタント会社社長、玉置賢司氏(45)がインターネットの短文投稿サイト「ツイッター」に「菅直人(前首相)を殴る」などと書き込んでいたことが分かった。玉置氏は「東日本大震災への政府の対応が遅れていることにいら立って書いた。暴力やテロを肯定しているようで、社会人として言葉の選択が誤っていた」と陳謝した。
玉置氏は昨年4月9日、ツイッターに「近頃の日本は右翼があかん政治家を殺したりせえへんようになった。今の時代に殺す必要は無いのかもしれんけど、菅直人は正直殴ったらなあかんと思っている。SPの人には悪いけど私の前に来たら必ず殴ります。たとえ懲役に行くことになったとしても。覚悟しとけよ。ボンクラ政治家よ!」と書き込んだ。市が公募区長の就任予定者を発表した21日、投稿内容が不適切だと考えてツイッターのアカウントを削除した。
玉置氏は奈良県出身。公募区長の選考では、浪速区内の空き地活用策や自衛団を使った治安回復策などを提案したという。「(投稿が)大きな問題になるかもしれないが、辞退する考えはない」と話している。(yahoo news 6月23日)

どうも困った人たちを選んだものである。
「類は友を呼ぶ」という古諺もあるから、類似した事件がこれから続いても私は驚かないし、大阪の有権者も驚かないだろう。
ただ、市長はいささか憂鬱になっているのではないかと思う。
維新の会は次の総選挙で国政進出をめざしている。
週刊誌の予測では数十の議席を占めることになる勢いである。
あるいは予測の通りなのかもしれない。
だが、問題はこの数十人の議員たちがぞろぞろと国会議事堂に出勤したあと、誰がが彼らをたばねるか、ということである。
市長は「国政には出馬しない」と繰り返し表明している。
でも、この発言を額面通りに信用する人はほとんどいない。
必要と判断すれば、「大阪都構想を実現するためには国政改革が不可欠である」というロジックで「まず国政、それから大阪」と言い始めて国政に出馬するだろう。
「必要」という判断を下す可能性は高い。
というのは、仮に50人の国会議員を送り出した場合、その相当数は「公募区長」のレベルの人たちである蓋然性が高いからである。
政党である以上、その中から党首や幹事長や国対委員長を選び出さなければならない。連立与党に参加するという話になれば、大臣も出さなければならない。私たちがその名前もしらない「公募政治家」が国政維新の会の党首になり、大臣になる可能性がある。
この人たちに与野党政治家や官僚がすりより、メディアが群がり、財界人が「どうです飯でも」と誘いに来る。
そういう立場になっても、政策の適否のいちいちについて、国会審議内容のいちいちについて、大阪市長に連絡・相談・報告を怠らず、逐一大阪市長の指示を待つということはできない。
物理的にできないし、心理的にもできない。
必ずや「なぜ国政に参与しているわれわれが一介の地方自治体の首長に箸の上げ下ろしまで指図受けなくちゃいけなんだ」とぶつぶつ言うやつが出てくる。
必ず出てくる。
国政に参加して、半年もすれば、連立与党のボスたちと大物気分で懇談などしているうちに、市長に内緒であれこれの密約をなして、事後報告で「いや、市長にご相談せず、申し訳ありませんでした。市長もお忙しそうなので、ついこちらで勝手に・・・」で済ませてしまう議員たちも出てくるであろう。
いや、連立与党の連中は必ず言いますよ。
「あなた、もう立派な代議士なんだから、これくらいのことは市長に相談せず、自己裁量でお決めになってよろしいんじゃないですか。それができなきゃ、ただのロボットじゃないですか・・・それとも市長の逆鱗に触れるのがご心配で?ほうほう。それならどうです、いっそ『うち』に来ちゃ。次の選挙では必ず公認しますよ」とか。
それくらいのことなら自民党・民主党の食えない政治家たちなら絶対にやる。
その事態が予測できない橋下さんではない。
だから、たぶん国政に出馬することになると私は思っている。
自分が党首で、連立政権の大臣になって永田町でにらみをきかせていなければ、次の選挙までに市長のコントロールが効かなくなる議員が出てくることが予測できるからである。
だから国政に出る。
でも、市長が国政に出ると、大阪市長選が行われる。
当然平松前市長はリベンジをめざして出馬する(と思う。ようしらんけど)
かなり有力な対立候補を探し出さないと平松さんに勝つのはむずかしい。
さきの市長選で平松さんに入れた人がこの10ヶ月の市政の成果を見て、維新の会支持者に転じた可能性は低いが、橋下市長に投票した有権者の相当数は自分の投票行動を悔いているからである。
だが、もし平松さんが市長に返り咲いたらと、職員基本条例とか教育基本条例とか大阪都構想とかはほとんどぜんぶ「白紙」に戻されてしまう。
そうされては、これまでの努力が水の泡である。
だから、橋下さんはそう簡単には大阪市長を辞めることができない。
でも、大阪市長のままでは遠からず国政がコントロールできなくなる。
それくらいのことがわからない人ではない。
国政には出たいが、大阪からは出られない。
だから、総選挙が今すぐ実施されたら「困る」のである。
とりあえず「党首を託せるだけの実力があり、かつ大阪からリモートコントロールできる衆院選候補者」か「平松さんに勝てそうな市長選候補者」をみつけ出すまでは身動きができない。
はたして、そのどちらかが解散総選挙までにみつかるのか。
時間との競争である。
私はそういう観点から、興味深く推移を見ているのだが、上記のふたつのニュースを見ると、「党首」も「市長」も探し出すのは、なかなかむずかしそうな気がするのだが、どうなのであろう。

2012.08.20

ハンキョレ新聞のインタビュー

8月15日から17日までソウルに滞在した。
『街場の教育論』と『先生はえらい』と『日本辺境論』が続けて出版されたので、そのパブリシティというか、「ウチダ本読者のみなさま」たちとの交流の集いが持たれたのである。
新聞の取材が3件、講演が2回、セッションが1回と、二泊三日の滞在にしてはハードなつめつめ日程であったけれど、たいへんに愉快で、かつ生産的な出会いだった。
その詳細については、また後日レポートするつもりであるが、とりあえず最初の日にハンキョレ新聞に載ったインタビュー記事を釜山大学の朴東燮先生が翻訳してくださったので、それを貼り付けておく。
この記事は8月17日に掲載された(朴先生、お手数かけました。ありがとうございました)。


このままだと韓国も日本のように教育崩壊

日本、受験競争が激しくなり、学校市場化になりつつ
学びから逃走する若い世代 下流志向予測
目的のない真の学びのための師を求めるべし

スーパーとかで買い物することと同様に教育を行う韓国でも近いうちに学力低下および教育崩壊が起こるでしょう。そういう現象が起こる前に
真の学びのための師を見つけないといけないと思います。

日本を代表する知識人の一人である 内田樹(62:神戸女学院大学名誉教授 )は韓国の教育現実に対してこのように警告した。
内田氏の著書《先生は偉い》(韓国語のタイトルは《師はいる》)の韓国語の翻訳出版の時期にあわせて15日韓国を訪問した内田氏は、30年前に「4時間睡眠で頑張った人は合格する。5時間も寝てる奴は落ちる。」という言葉が日本ではやり、恐ろしい受験戦争を経験した日本はそれ以後、学校が教育を販売する市場になってしまい、学力低下が、社会的な問題になっているといい、日本と同様に高校の入学段階から深刻な受験戦争に生徒たちをおいやっている韓国も限界点に到達すると同じ危機が訪れるだろうと述べた。

内田氏は構造的に弱者をつくりあげる社会で学びと労働から逃走する若い世代の出現を鋭く分析した《下流志向》、日本は中心になろうとする辺境という主張を示した《日本辺境論》などの本を執筆し、現在日本を体表する知性として評価されている。

内田氏は、日本はすでに教育の市場化で教育が崩壊しつつあると述べた。“学校は教育商品を販売する市場になってしまい、勉強のために注込む努力は貨幣に、貨幣で買う教育商品の価値は[高い年収・高い威信・一流大学の進学]などの目的を達成できるかどうかによって評価される”と指摘した彼は、そのうち目的ははっきりしなし教育商品と教育者からは背をむけるというような現象が
エスカレートー化していき、結局は教育の荒廃化につながってしまうのであろうとと指摘した。

内田氏は、さらに日本政府の教育政策に対しても批判的な観点を述べた。“日本の文部省は‘グロバール人材の育成’をスローガンを掲げたが、‘競争を通じてお金をたくさん稼げる’
グロバール人材は実は今の学校教育システムでは効率よく養成できません。結局、文部省は学校の市場化を強要しているだけです。”


内田氏は、‘教育の市場化’という現象を克服するためには‘若者たちが師はどこかにいると信じ、学ぼうとする気持ちを持つことが大切であると述べた。

氏がいう本当の学びというのはあくまでも学ぶ前と学んだあとかわっていくプロセスであり、手段では決してない。

今度韓国語で翻訳出版された〔師はいる〕でも内田氏は、‘師と教育は既製品ではない、学ぼうとする気持ちさえあれば師はどこにもいる’というメッセジーを若者たちに伝えている。

30年間大学の教師としての経験をもち、昨年退官した内田氏は神戸市である種の学びの共同体である凱風館を開いて運営している。‘暖かい風が吹いてくる’という意味を持つこの場では6歳の子どもから大人までさまざまな人々が合気道を学び、人文学の講座に参加し、目的なしの学びを実践している。

内田氏は“教育が荒廃化するにつれて制度圏の外で学びを回復させようとする動きがあちことで起こっていると述べた。

2012.08.21

領土問題は終わらない

韓国大統領の竹島上陸と尖閣への香港の活動家の上陸で、メディアが騒然としている。
私のところにも続けて三社から取材と寄稿依頼が来た。
寄稿依頼は文藝春秋で、この問題について400~800字のコメントを、というものだった。
そのような短い字数で外交問題について正確な分析や見通しが語られるはずがないのでお断りした。
日米安保条約について、あるいは北方領土問題について400字以内で意見を述べることが「できる」というふうに文藝春秋の編集者が信じているとしたら、彼らは「あまりにテレビを見過ぎてきた」と言うほかない。
400字というのは読み上げるとちょうど1分である。ワイドショーのコメンテイターが独占的に使用することのできるぎりぎりの時間である。ということは、「あなたの領土問題についての意見を2分以内で述べて下さい」という申し出をしてきたということである。
街頭インタビューの場合なんかは「10秒以内でおねがいします」くらいの指示が出ているのだろうから、2分というのはまたずいぶん気前よく時間を与えてくれたものだ。
これにOKの返事をした「有識者」たちはたぶん「テレビ慣れ」しているのだろう。
だが、「2分あれば領土問題について、それなりの知見が語れる」とほんとうに信じているとしたら、メディアの知的不調は想像以上に深刻である。
そのこと自体が、このような外交上のトラブルに対応しきれていない「日本システムの不調」の徴候のひとつであるように私には思われる。
メディアに「問題を解決してくれ」とか「ソリューションを示してくれ」とか私は頼んでいるわけではない。
せめて「問題を報道する」ことに限定してはくれまいか。
メディアが「問題そのもの」になってどうする。

『GQ』と毎日新聞の取材にはそれぞれ20分ほど話した。
とりあえず、「中華思想には国境という概念がない」ということと「領土問題には目に見えている以外に多くのステイクホルダーがいる」ということだけには言及できた。
華夷秩序的コスモロジーには「国境」という概念がないということは『日本辺境論』でも述べた。
私の創見ではない。津田左右吉がそう言ったのを引用しただけである。
「中国人が考えている中国」のイメージに、私たち日本人は簡単には想像が及ばない。
中国人の「ここからここまでが中国」という宇宙論的な世界把握は2000年前にはもう輪郭が完成していた。「国民国家」とか「国際法」とかいう概念ができる1500年も前の話である。
だから、それが国際法に規定している国民国家の境界線の概念と一致しないと文句をつけても始まらない。
勘違いしてほしくないが、私は「中国人の言い分が正しい」と言っているわけではない。
彼らに「国境」という概念(があるとすれば)それは私たちの国境概念とはずいぶん違うものではないかと言っているのである。
日清戦争のとき明治政府の外交の重鎮であった陸奥宗光は近代の国際法の規定する国民国家や国境の概念と清朝のそれは「氷炭相容れざる」ほど違っていたと『蹇蹇録』に記している。
陸奥はそれを知った上で、この概念の違いを利用して領土問題でアドバンテージをとる方法を工夫した(そしてそれに成功した)。
陸奥のすすめた帝国主義的領土拡張政策に私は同意しないが、彼が他国人の外交戦略を分析するときに当今の政治家よりはるかにリアリストであったことは認めざるを得ない。
国境付近の帰属のはっきりしない土地については、それが「あいまい」であることを中国人はあまり苦にしない(台湾やかつての琉球に対しての態度からもそれは知れる)。
彼らがナーバスになるのは、「ここから先は中国ではない」という言い方をされて切り立てられたときである。
華夷秩序では、中華皇帝から同心円的に拡がる「王化の光」は拡がるについて光量を失い、フェイドアウトする。だんだん中華の光が及ばない地域になってゆく。だが、「ここから先は暗闇」というデジタルな境界線があるわけではない。それを認めることは華夷秩序コスモロジーになじまない。
繰り返し言うが、私は「そういう考え方に理がある」と言っているのではない。
そうではなくて、明治の政治家は中国人が「そういう考え方」をするということを知っており、それを「勘定に入れる」ことができたが、現代日本では、政治家もメディアも、「自分とは違う考え方をする人間」の思考を理解しようとしないことを指摘しているだけである。
「強く出ないと相手になめられるから、弱腰になるな」というような中学生的交渉術を声高に言い立てる人間は「相手は自分と同じだ」と思っているからそう言うのである。
自分だったら「弱腰の相手」にはどれほど無法な要求でもするつもりでいるからそう言うのである。
だが、「自分が相手の立場だったらこうするだろう」という鏡像的想像だけで外交はできない。
国家のセルフイメージも、国家戦略も、それぞれの国ごとに違うからである。
実際にはその「違い」のうちに外交的な「妥協」の余地が存在する。
当事国の一方にとって「大きな損失」と思われるものが、他方においては「それほどでもない」ということがあり、一方にとって「大きな利得」と思われるものが、他方においては「それほどでもない」ということがある。
周恩来は1973年の日中共同声明において、日本に「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感し、深く反省する」という文言を呑ませたが、戦時賠償請求は放棄した。
周恩来は賠償金を受け取るよりも一行の謝罪の言葉を公文書に記させることの方が国益増大に資するという判断をした。
「言葉」を「金」より重く見たのである。
これは「誰でもそうする」という政治判断ではない。
鄧小平は78年に有名な「棚上げ論」を語った。
複雑な係争案件については、正しい唯一の解決を可及的すみやかに達成しようとすることがつねに両国の国益に資するものではないという鄧小平談話にはいろいろ批判もあるが、それが「誰でも言いそうなこと」ではないということは揺るがない。例えば、国内における政治基盤が脆い政治家にはそんなことは口が裂けても言えない。
外交の「手がかり」はこの「誰でもするわけではないこと」にある。
というか、「そこ」にしかない。
日本が「失っても惜しくないもの」と中国が「失っても惜しくないもの」が「同じではない」のはどういう場合か、それを探り当てるのが外交の骨法である。
ふつうに考えられているように、外交とは両国の「利害の一致点」を探すことにあるのではない。
「利害がずれるところ」を探すのである。
だが、この「手がかり」の探求と分析に知的資源を投じている人は、メディアを徴する限り、今の日本にはほとんどいないように思われる。
しかし、そういう人がいないと領土問題は永遠に解決しない。外務省の一隅か、議事堂の一隅に、黙ってそういう仕事をしている人がいると私は信じたいと思う。

もうひとつメディアがまったく報じないのは、「領土問題の他のステイクホルダー」のことである。
領土問題は二国間問題ではない。
前にも書いたことだが、例えば北方領土問題は「南方領土問題」とセットになっている。
ソ連は1960年に「日米安保条約が締結されて日本国内に米軍が常駐するなら、北方領土は返還できない」と言ってきた。
その主張の筋目は今も変わっていない。
だが、メディアや政治家はこの問題がまるで日ロ二カ国「だけ」の係争案件であるかのように語っている。アメリカが動かないと「話にならない」話をまるでアメリカに関係のない話であるかのように進めている。それなら問題が解決しないのは当たり前である。
当のアメリカは北方領土問題の解決を望んでいない。
それが米軍の日本常駐の終結と「沖縄返還」とセットのものだからだ。
領土問題が解決すれば、日本は敗戦時から外国軍に不当占拠されている北方領土と「南方領土」の両方を獲得することになる。
全国民が歓呼の声で迎えてよいはずのこのソリューションが採択されないのは、アメリカがそれを望んでいないからである。
あるいは「アメリカはそれを望んでいない」と日本の政治家や官僚やメディアが「忖度」しているからである。

竹島はまた違う問題である。
さいわい、この問題は今以上こじれることはない。
「こういう厭な感じ」がいつまでもエンドレスで続くだけである。
あるいはもっと重大な衝突が起きるかもしれないが、軍事的衝突にまでは決してゆかない。
それは私が保証する。
というのは、もし竹島で日韓両軍が交戦状態に入ったら、当然日本政府はアメリカに対して、日米安保条約に基づいて出動を要請するからである。
安保条第五条にはこう書いてある。
「両国の日本における、(日米)いずれか一方に対する攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものであるという位置づけを確認し、憲法や手続きに従い共通の危険に対処するように行動することを宣言している。」
領土内への他国の軍隊の侵入は誰がどう言いつくろっても日本の「平和及び安全を危うくする」事態である。
こういうときに発動しないなら、いったい安保条約はどういうときに発動するのか。
他国の軍隊が自国領に侵入したときに、米軍が動かなければ、日本国民の過半は「日米安全保障条約は空文だった」という認識に至るだろう。
それはもう誰にも止められない。
そのような空文のために戦後数十年間膨大な予算を投じ、軍事的属国としての屈辱に耐えてきたということを思い出した日本人は激怒して、日米安保条約の即時廃棄を選択するだろう。
竹島への韓国軍上陸の瞬間に、アメリカは東アジアにおける最も「使い勝手のよい」属国をひとつ、永遠に失うことになる。

それに米韓相互防衛条約というものがあることを忘れてはいけない。
これは「戦時」における作戦統制権は米軍にあると定めている。
だから韓国軍の竹島上陸という「作戦」は在韓米軍司令部の指揮下に実施された軍事作戦なのである。つまり、「韓国軍の竹島上陸」はすでに日米安保条約をアメリカが一方的に破棄した場合にしか実現しないのである。
その場合、日本政府にはもはやアメリカと韓国に対して同時に宣戦を布告するというオプションしか残されていない(その前に憲法改正が必要だが)。
しかし、軍事的に孤立無援となった日本が米韓軍と同時に戦うというこのシナリオをまじめに検討している人は自衛隊内部にさえいないと思う(なにしろ北海道以外のすべての日本国内の米軍基地で戦闘が始まるのである)。
そんなことは誰も望んでいない。
日本人もアメリカ人も韓国人も、誰も望んでいない。とくにアメリカが望んでいない。
小さな島ひとつの所有をめぐっての日韓の意地の張り合いのせいで、アメリカの19世紀からの150年にわたる西太平洋戦略が灰燼に帰してしまうのである。
そんな情けないことをアメリカが許すはずがない。
あらゆる手立てをつくして竹島における戦闘行為の発生を抑止するはずである。
だから、安心してよい、というのもひどい言い方だが、ほんとうなのだから仕方がない。

このことからわかるように、外交についての経験則のひとつは「ステイクホルダーの数が多ければ多いほど、問題解決も破局もいずれも実現する確率が減る」ということである。
日本はあらゆる外交関係において「アメリカというステイクホルダー」を絡めている。
だから、日本がフリーハンドであれば達成できたはずの問題はさっぱり解決しないが、その代わり破局的事態の到来は防がれてもいるのである。
今さら言うほどの話でもないが、たまには思い出した方がよいと思うので、かくは贅言を弄したのである。

2012.08.22

『先生はえらい』を韓国の読者がレビューしてくれました。

韓国で先日『先生はえらい』が刊行された。
そのレビューが出たのを訳者の朴東燮先生が訳して送ってくださった。
隣国の(それも外交問題でもめている隣国の)読者から、日本人の書いた教育論にこういう手触りの温かいコメントをもらうと、ほっとする。
国境のこちらもにもあちらにも、「気持ちの通じる人」はちゃんといる。
以下がレビュー。

すがすがしかった。
面白くてからからとうちわらうような愉快さではなく、久しぶりにきれいな空気をたっぷり吸い込んだような、 心が清くなるような気がした。
それで、なんだか顔に喜びの微笑みが浮かぶようなそういうすがすがしさを本を読んでいるうちに感じた。
あ!こんな考え方を持っている人がいるんだっていう感じ!
丁寧な言葉づかいからは保守的な大人のもどかしくて一方的なロジックではなく、若い世代のための心をこめた愛情と関心が感じられた。
タイトルを見ている限り、日韓両方の出版社も「教育」を踏まえて本を企画したようだが、実は、この本は、人間あるいは人と人の関係のつくり方に関して書かれた本だと私には思われる。
200ページもならない薄い本で人間の本性を見抜く作家の視点は シャープで鋭くて頭の中に深くしみとおる。
判りやすい言葉と親切な言葉遣いをしているが、決して簡単に読むことができない重さがこもっている。
一人の個人を独立した自我としてではなく、まわりの人との関係づくりを通じてはじめて定義される人格としてみる作家の視線は、典型的な東洋的な考え方とつながる。
それだからこそもっと親しみを感じたかもしれない。
日本ではどんでもない右翼の本もあふれているがこのように宝のような本に出会うと
相変わらず日本が持っている-その社会を支えている-力に感嘆を禁じえない。

2012.08.28

京郷新聞のインタビュー記事

京郷(キョンヒャン)新聞にインタビューが出た。
釜山大学の朴先生が訳をつけてくれたので、再録する。
インタビューは8月17日午前中に二紙合同で約90分行われた。
前日の講演を聴いてくれた記者だったので、前日の講演の内容についても言及されている。
最後の方に「カビのように」という表現があったが、これはたぶん私が「リゾーム」とか「クラスター」とか言ったことの意味がうまく伝わらなかったのであろう。
凱風館門人諸君、君たちは決して黴ではないよ。

生徒たちの激しい成績競争と画一化を押しとどめるために作り上げた学びの共同体凱風館

日本の知識人、内田樹氏 来韓講演、政府と企業の論理の虚構性指摘

合気道7段の元大学教授が差し出してくれた名刺には合気道の師範と凱風館の館長という肩書きが書いてあった。

日本の神戸市にある凱風館は内田氏が、定年退職後、つくりあげた小さな共同体である。
建物の1階は合気道場、2階は研究空間兼社交空間、3階はプライベート空間で、この建物の中で合気道の稽古から哲学のセミナまで様々なイベントが行われる。
6才の子どもから、学生、勤め人などおよそ200人がここを訪れる。

「この共同体の運営をどうするんですか?」と訊いたら
「え?運営ですか 」と 内田氏は 目が大きくなる。
「組織ではありません。ある種の生命体です」

日本を代表する大衆的知識人と言われるている内田樹(神戸女学院大学名誉教授;62)が我々に見せてくれる生き方と思想は独特である。

最近、韓国語で出版された<日本辺境論>(出版社:ガラパゴス)では、内田氏は、日本人は絶対的世界を中心においてどうやったらそこに近づいたり、遠ざかったりすることができるのかという考え方をもって行動する辺境人であると主張する。
この本は数多くの論争を起こしながらも日本で35万部以上売れた。
また<先生はえらい>(タンポポ出版社)は生徒と教師そして学びの通念をひっくり返す本である。

去る16日ソウルのハジャセンターで行われた内田氏の講演は、氏の生き方と思想をもっと理解することができる場であった。

講演の主題は、<呪いの時代を生き延びるち力>
このタイトルの本が日本ですでに出版されたそうである。
講演は、なぜネットが攻撃的で呪いの言葉が飛び交っている空間になってしまったのかという我々韓国人にも比較的慣れている問題意識からはじまった。
[私しかできない話をするときに、我々は非常に丁寧に言葉をつかうでしょう。それが固有の名前と身体を持っている話し手が使う言葉の特徴であります。]


[一方、ネットで飛び交っている暴力的な書き込みは誰が書いたのかその識別が難しいです。]

[その言葉づかいは匿名でありながら一方、ネットで飛び交っている暴力的な書き込みは誰が書いたのかその識別が難しいです。]


それは匿名であり、言葉の使い方も似ています。そういう言葉づかいをなぜするのかというと、それは自分と同じ言葉遣いをする人が何十万人いると思い込んでいるので、そういう攻撃的な言葉を発信することができると思います。
しかしそれは危険な考え方です。自分が言わなくてもだれかが同じことを言うことができると思うということは、結局は自分がいなくてもいいということです。
つまり、呪いの言葉を吐くということはその言葉を口にした本人の固有性を傷つけることです。
吐けば吐くほど、自分の存在の理由が] 空虚になってしまい、その無力感のせいでもっと破壊的な言葉を吐くようになる。悪循環ですね。

なぜこういう名前も顔も身体も無い人々が登場するのだろうか

内田氏は、政府も企業もみんな‘グロバール人材の育成’という名目の下、企業活動にどれほど役に立つのかを基準にして、規格化された人材を育てるのにみんな夢中になっているからだと指摘した。
“日本の若者たちは大学3年になると、同じへーアスタイルをし、同じ服を着るようになります。人と同じではないと仕事を求めることができないと思っているからですね。結果的に、お互いにどんどん似るようになり、いつでも交替可能な人間になっていきます。ですから、給料の値上げを要求すると‘君の代わりに仕事してくれる人はいくらでもいるよ’といわれてしまいますね。これはネット上の匿名性と本質的には通じる面があります。”

内田氏は、日本を代表とする企業が競争力が高くなっても、国民経済に役に立つ時代はもう二度と戻ってこないが、政府と企業そしてマスコミは相変わらず企業の論理だけを広げようとしているので、若者たちの総体的な規格化がエスカレート化されていると指摘した。

“日本の企業は核発電所の再起動を認めてくれなかったら、電気料金が高いから海外に出て行くと言っています。核発電の稼動によってまた起こるかもしれない危険など考えずに、自分の利益にならなければ、日本を捨てると軽々と言っているわけです。
国家戦略会議に参加していたある企業人は、いまの若者たちの大学の教育はいらないと言っていました。そうすると、海外に行かなくても日本で低学力でしかも賃金の労働者を確保できるからでしょう。“

内田氏は、自分が建てた凱風館がこういう総体的規格化に手向かう場であると述べた。

“若者たちがはじめて自分の固有の名前と固有の体で言葉を発することができるようにやってあげたいです。それを待ってくれるのが師の役割だと思います。
どれほど影響力があるかもしれませんが、現在起こっている社会の変化を食い止める方法はこれしかないと思います。実際にストリートで反原発運動が増えることによって、ネットで飛び交う呪いの言葉が少なくなっています。“

内田氏は、講演の次の日、インタビューで現在の韓国で深刻な問題になっている校内暴力(おもに生徒同士の暴力)など、韓国社会が病んでいるいろいろな問題に関してもっと具体的な意見を述べた。

“学校の問題は教師と生徒の問題ではなく、学校を取り巻いている社会が何を求めるいるのかの問題です。今は能力のある人が文化資本などをたくさん取るのが
フェアで、人間を競争に追い込むとその能力を発揮できるという考え方がメインストリムになっている。
勿論、スポーツ競技のように短期間的に目標がちゃんと立っている状況では、競争は効果がありますね。しかし、人は誰でも一生の間にはそういう競争には耐えられません。

内田氏は、特に子どもたちを競争に追い込むとかえって学力低下が生じると述べた。“一人で学力を高めることと、まわりの子どもたちの学力を落とすこととは同じ効果をもたらします。
ですから、子どもたちは生まれつきの知的な意欲で勉強に頑張るよりも授業の時に私語をしたり、学校と教師は間違っているといううわさを流したりしながら、他の子どもたちの学習意欲を落とす工夫をしています。
そういう活動の極端的な形がいじめです。
いじめの対象は誰にもなれます。全員が スケープ-ゴートになり、全員の生命力を落とすことになります。

内田氏は、いまの学校システムを批判するよりも、人々が様々な学びの共同体を自ら作っていくべきであると述べた。

凱風館を訪れる人々は自分なりの共同体に所属しています。

そういう人たちが自分が所属している共同体に戻って、化学反応を起こし、新たなグループが作りあげられると、それが水平的に広がっていくでしょう。
変なたとえに聞こえるかもしれませんが、カビのようにですね。

恐らく、春の日、南から吹いてくるそよ風が凱風が意味するものであろう。

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