市場からの撤収

2012-08-11 samedi

消費増税法案が成立した。
日経は一昨日の一面で、これで日本の信認が守られ、政治家たちが「消費増税の先送りという最悪の事態を避ける理性だけは残っていた」ことに満腔の安堵を示している。
税金を上げないと「日本の財政再建への疑惑」が国債格付けを下げ、金利が上昇し、国債が投げ売りされ、国家財政が破綻するからである(らしい)。
この辺の「風が吹けば桶屋が儲かる」的なドミノ倒し的破綻シナリオがどれほどの信憑性があるのか、私にはよくわからない。
国債を格付けやら金利の乱高下を材料にして国債を売り買いする機関投資家というのは、平たく言えば「ばくち打ち」の皆さんである。
世界の人々が自尊心をもって文化的で愉快な生活を営めるかどうかということは彼らの投資行動とはかかわりがない。
手前の懐が温かくなるなら、どれほどの人が寒い思いをしようと路傍で飢えようと、「それは自己責任でしょ」と言い放つ方々が金融市場というものを支配している。
消費増税ができなければ、日本国債を暴落させて、それで大いにお金もうけをしようと虎視眈々としている方々の思惑を配慮しないと、国家財政が立ちゆかないような金融システムの中にすでにわれわれは組み込まれているのである、それが冷厳なリアリティなのだからそれに順応するほかないというのが当世の「リアリスト」たちの言い分のようである。
なるほど。
おっしゃる通りなのかも知れない。
私たち生活者にはそういうややこしいマネーゲームのことはわからない。
わかるのは消費税がいずれ10%に上がるということだけである。
貧しい人ほど税負担が重くなるいわゆる「逆進性」についての制度的な手当ては具体的にならない。
その一方で、生き延びるためには「選択と集中」が不可避であると主張する経営者の方々は、こんな高コストでは国際競争に勝てないということで、法人税の引き下げ、人件費の引き下げ、電気料金を含む製造コストの引き下げを繰り返し要求している。
「それが達成されなければ、日本を出て行く他ない。生産拠点が海外に移転すれば、雇用は失われ、地域経済は壊滅し、国庫の歳入は激減するが、それはすべて『あんたたち』のせいだよ」と経営者たちは毎日のようにメディアを通じて宣告している。
そして、メディアはだいたいどこもこの言い分に理ありとしている。
自社の経営がうまくゆかない要因をもっぱら外部の無理解と非協力に求める経営者がわが国ではいつのまにかデフォルトになったようである。
そのデフォルトに基づいて、グローバル企業が国内にとどまってくださるように、法人税を下げ、賃金を下げ、公害規制を緩和し、原発を稼働させ、インフラを整備すべしというのが当今の「リアリスト」たちの言い分である。
そうしないと、「たいへんなことになる」らしい。
だが、「消費税を上げる」と「賃金を下げる」という二つのことを同時的に行うと何が起こるか。
想像することは難しくないと思うのだが、税金を上げて、賃金を下げることで何が起こるかについて、私が徴した限り、人々はあまり想像力を駆使している様子がない。
「ベーシックインカム」とか「軽減税率」とかいうことをぼそぼそ言っているだけである。
メディアや財界のかたがたがそれについて想像力の行使を惜しむようなので、私が彼らがに代わって想像してみる。
消費税が上がって、賃金が下がると何が起きるか。
もちろん国民の消費行動はクールダウンする。内需が縮小する。国内市場相手の「小商い」はばたばたと潰れてゆく。「貧困ビジネス」とグローバル企業だけが生き残る。
「それでいいじゃないか」とたぶん政官財メディアのみなさんは思っておられるようである。
「選択と集中だよ。国際競争力のないやつらはマーケットから退場する、それがフェアネスだ」と豪語するであろう。
だが、私の想像はもう少し先の出来事に及んでいる。
「国際競争力のないやつら」が「マーケットから退場」したあと、「どこ」に行くのか、ということをあまり彼らは考えていない。
マーケットから退場した人々は「いくら安い賃金でもいいから使って下さい」と懇願する「安価な労働力」を形成すると考えているのであろう。だから、弱者の退場は人件費コストのカットに直結すると考えているのであろうか。
それはいささか楽観的にすぎると私は思う。
マーケットから退場させられるより先に、自主的にマーケットから撤収する人々が出てくる。
「国民たちの市場からの撤収」が起きるのではないかと私は予測している。
「もうマーケットはいいよ」というのが現に国民のおおかたの実感である。
額に汗して労働してわずかな貨幣を稼ぎ、その貨幣で税金の乗った高額の商品を買わされるという市場中心の生き方そのものの被収奪感にもう「うんざり」し始めている。
これは健全なリアクションだ。
というのは、「労働を貨幣に替える。その貨幣で商品を買う」という行為だけに経済活動が限定されているというのは、人類史的にはかなり最近の出来事だからである。
人類はその草創期からずっと経済活動を行ってきた。
経済活動とは要するに「財貨やサービスや情報をぐるぐる回す」ということである。
これを達成するためには、さまざまな人間的資源の開発が求められる。
取引ということが果たされるためにはまず度量衡が統一されなければならない。
共通の言語が要る。
パートナーを共軛する法律も要る。
信用とか為替とかいう概念も発明しなければいけない。
もちろん交通手段・通信手段の開発整備も必須である。
モノをぐるぐる回すケームをするためには、「いろいろなもの」を作り出さないといけない。
モノそのものよりも、この「ゲームを円滑に進行するために必要なもの」に人類学的な価値があることにわれわれの先祖は気づいた。
マリノフスキーやモースが報告している「クラ交易」の事例が教えるように、交易において循環する「もの」には一次的な価値はない。
「もの」を適切かつ円滑に交易させることのできる人間的能力に価値がある。
それは将棋の駒にはほとんど使用価値も交換価値もないが、将棋の駒を適切に操作することのできる人間的資質には汎用性があるというのと同じである。
貨幣や商品は本質的には「将棋の駒」である。
重要なのは「将棋を指す人間の中で活発に活動している人間的資質」の方である。
現に私たちがありがたがっている貨幣そのものにはいかなる使用価値もない。洟もかめないし、メモも書けないし、暖房にもならない。
でも、貨幣を用いて商品をぐるぐる回すために人間にはさまざまな能力を開発せねばならず、その能力には高い汎用性がある。
だが、今このポストグローバル資本主義社会においては、「経済活動が人間的能力の開発を要求しない」という事態が出来した。
これは経済史的に前代未聞のことである。
「円高」とか「国債格付け」とかいうことは、すでに実際の国富の多寡や生産物の質や市場の需要と無関係に語られている。
こういうファクターを決定しているのは「現実」ではなく「思惑」である。「未来予測」であり、同一の未来予測を共有するプレイヤーの頭数である。
「貨幣で貨幣を買うゲーム」は「ゲームの次の展開」だけが重要であり、「次はこういう展開になる」という「まだ起きていないことについての予測」が反転して「これから起きること」を決定する。
不思議なゲームである。
ここで流れる時間は、人間的時間の流れとはもう違うものである。
ある意味で時間は止っているのである。
だから、この「貨幣で貨幣を買うゲーム」のプレイヤーにはどのような人間的資質も、市民的成熟も求められない。
そこで必要なのは適切な「数式」と高速度の「計算」だけである。
だから、金融工学についての十分な知識をもっていれば「子ども」でも株や債券の売り買いについての適切なアルゴリズムを駆使して巨富を築くことができる。
現に、そうなっている。
今では人間に代わってコンピュータが一秒間に数千回というようなスピードで取引をしているのである。
グローバル経済はもう人間主体のものでもないし、人間的成熟を促すためのものでもない。
私たちはそのことにようやく気づき始めた。
「こんなのは経済活動ではない」ということに気づき始めた。
「こんなこと」はもう止めて、「本来の経済活動」に戻りたい。そう思い始めている。
私にはその徴候がはっきりと感じられる。
そのような人たちは今静かに「市場からの撤収」を開始している。
さまざまな財貨やサービスをすべて商品としてモジュール化し、それを労働で得た貨幣で購入するというゲームの非合理性と「費用対効果の悪さ」にうんざりしてきたのである。
目の前に生きた労働主体が存在するなら、彼の労働をわざわざ商品化して、それを市場で買うことはない。
「ねえ、これやってくれる。僕が君の代わりにこれやるから」で話が済むなら、その方がはるかに合理的である。
経済学的にはこれは「欲望の二重の一致」といって「ありえないこと」とされている。
だからこそ貨幣が生まれたとのだ、と説明される。
だが、ある程度のサイズの「顔の見える共同体」に帰属していると、実際にはかなりの頻度で「欲望の二重の一致」が生じることがある。
これはやればわかる。
というか、欲望というのは自存するものではなく、「それを満たすものが目の前に出現したとき」に発動するものなのである(という洞察を語ったのは『羊たちの沈黙』におけるハンニバル・レクター博士である。私は博士の人間観の深さにはつねに敬意を払うことにしている)。
だから、共同体に「いろいろな財貨やサービスや情報や技能」をたっぷり持っていて、「誰か『これ』要らないかなあ」と思っている人が出入りしていると、「あ、オレが欲しかったのは、『これ』なんだ」というかたちで欲望が発動すると「欲望の二重の一致」はたちまち成就してしまう。
私の主宰する凱風館という武道の道場には約200人の人々が出入りしているが、専門領域や特技を異にするこれだけの数の人がいると、多様な相互扶助的なサービスのやりとりを貨幣を介在させずに行うことが可能になる。
今凱風館で行き交っている情報や知識や技術や品物の「やりとり」は、それらひとつひとつがモジュールとして切り出されて、パッケージされて、商品として市場で売り買いされた場合には、かなりの額の貨幣を積み上げても手に入れることがむずかしい質のものである。
だが、凱風館では貨幣は用いられない。
ここでは、情報や技術や品物が必要なひとはその旨を告知しておけば、そのうち誰かがそれを贈与してくれるからである。
この贈与に対する反対給付は「いつか」「どこかで」「誰かに」パスすることで相殺される。
いま贈与してくれた人も、かつて、どこかで誰かに「贈与されたもの」をここで次の受け取り手に「パス」することによって反対給付を果たしているのである。
貨幣が介在しないことで、ここでは貨幣で買えるものも、貨幣では買えないものも、ともに行き交っている。
これはもうある種の「物々交換」と言ってもよいだろう。
そして、すでに日本の各地では、さまざまなサイズ、さまざまなタイプのネットワークを通じて、このような「直接交換」が始まっている。
貨幣を媒介させるのは、「その方が話が速い」からであった。だが、今は貨幣を媒介させた方が「話が遅い」という事態が出来している。
自分の創出した労働価値を貨幣に変えて、それで他の労働者の労働価値から形成された商品を買うというプロセスでは、労働価値が賃金に変換される過程で収奪があり、商品を売り買いする過程で中間マージンが抜かれ、商品価格にも資本家の収益分や税金分が乗せられている。
それなら、はじめから労働者同士で「はい、これ」「あ、ありがとう」で済ませた方がずっと話が速いし、無駄がない。
例えば日本人の主食である米については、すでにその相当部分は市場を経由することなく、生産者から知り合いの消費者に「直接」手渡されている。この趨勢はもう止らないだろうと私は思っている。
こういう活動は「表の経済」には指標として出てこない。
すでに始まりつつある「国民の市場からの静かな撤収」についての経済の「専門家」たちの見解をメディアは報じないが、たぶんそれは彼らがそれについてまだ何も気づいていないからであろう。
一番敏感なのは就職を控えた若者たちである。
感度のよい若者たちはすでに自分たちを「エンプロイヤビリティ」の高い労働力として、つまり「規格化されているので、いくらでも替えの効く」労働者として労働市場に投じるほど、雇用条件が劣化するということに気づき始めた。
それなら、はじめから労働市場に身を投じることなく、「知り合い」のおじさんやおばさんに「どこかありませんか」と訊ねて、「じゃあ、うちにおいでよ」と言ってくれる口があれば、そこで働き始めるというかたちにした方がよほど無駄がない。
あまりに雇用条件を引き下げすぎたせいで、就活が過剰にストレスフルなものになり、就活を通じて人間的成長どころか心身に病を得る者が増えたせいで、労働市場から若者たちが撤収するという動きはすでに始まっている。
「市場からの撤収」は就活に限らず、あらゆるセクターでこれから加速してゆくだろう。
これからさき、ポスト・グローバリズムの社会では、「貨幣を集めて、商品を買う」という単一のしかたでしか経済活動ができない人々と、「贈与と反対給付のネットワークの中で生きてゆく」という経済活動の「本道」を歩む人々にゆっくりと二極化が進むものと私は見通している。
むろん、貨幣はこのネットワークが円滑に形成され、ひろがってゆくためにはきわめて効果的なアイテムであり、「本道」の人々も要るだけの貨幣をやりとりする。
だが、貨幣はもう経済活動の目標ではなく、ネットワークに奉仕する道具にすぎない。
それが人間的成熟に資する限り貨幣は有用であり、人間的成熟を阻害するなら有害無用のものである。このことは久しく「人類の常識」であったのだが、いつのまにかこの常識を語る人が少数派に転落したので、あらためてここに記すのである。