BlogNagayaLinkaGuestsColumnsBookMovieSeminarBudoPhotoArchivesProfile

« 2012年06月 | メイン | 2012年08月 »

2012年07月 アーカイブ

2012.07.12

いじめについて

ある媒体から、大津市のいじめについてコメントを求められた。
書いたけれど長くなったので、たぶん半分くらいに切られてしまうだろう。
以下にオリジナルヴァージョンを録しておく。

今回の事件はさまざまな意味で学校教育の解体的危機の徴候だと思います。

それは学校と教育委員会が学校教育をコントロールできていないということではなく、「コントロールする」ということが自己目的化して、学校が「子供の市民的成熟を支援する」ための次世代育成のためのものだということをみんなが忘れているということです。

私の見るところ、「いじめ」というのは教育の失敗ではなく、むしろ教育の成果です。

子供たちがお互いの成長を相互に支援しあうというマインドをもつことを、学校教育はもう求めていません。むしろ、子供たちを競争させ、能力に応じて、格付けを行い、高い評点を得た子供には報償を与え、低い評点をつけられた子供には罰を与えるという「人参と鞭」戦略を無批判に採用してる。

であれば、子供たちにとって級友たちは潜在的には「敵」です。同学齢集団の中での相対的な優劣が、成績評価でも、進学でも、就職でも、すべての競争にかかわってくるわけですから。

だから、子供たちが学校において、級友たちの成熟や能力の開花を阻害するようにふるまうのは実はきわめて合理的なことなのです。

周囲の子供たちが無能であり、無気力であり、学習意欲もない状態であることは、相対的な優劣を競う限り、自分にとっては「よいこと」だからです。

そのために、いまの子供たちはさまざまな工夫を凝らしています。「いじめ」もそこから導き出された当然の事態です。

「いじめ」は個人の邪悪さや暴力性だけに起因するのではありません。それも大きな原因ですが、それ以上に、「いじめることはよいことだ」というイデオロギーがすでに学校に入り込んでいるから起きているのです。

生産性の低い個人に「無能」の烙印を押して、排除すること。そのように冷遇されることは「自己責任だ」というのは、現在の日本の組織の雇用においてはすでに常態です。

「生産性の低いもの、採算のとれない部門のもの」はそれにふさわしい「処罰」を受けるべきだということを政治家もビジネスマンも公言している。

そういう社会環境の中で、「いじめ」は発生し、増殖しています。

教委が今回の「いじめ」を必死で隠蔽しようとしたのは、彼らもまた「業務を適切に履行していない」がゆえに、処罰の対象となり、メディアや政治家からの「いじめ」のターゲットになることを恐れたからです。失態のあったものは「いじめ」を受けて当然だと信じていたからこそ、教委は「いじめ」を隠蔽した。自分たちが「いじめ」の標的になることを恐れたからです。でも、隠蔽できなかった。

ですから、これからあと、メディアと政治家と市民たちから、大津市の教員たちと教委は集中攻撃を受けることでしょう。でも、そのような「できのわるいもの」に対する節度を欠いた他罰的なふるまいそのものが子供たちの「いじめマインド」を強化していることにはもうすこし不安を抱くべきでしょう。

私はだから学校や教委を免罪せよと言っているわけではありません。責任は追及されなければならない。でも、その責任追及が峻厳であればあるほど、仕事ができない人間は罰を受けて当然だという気分が横溢するほど、学校はますます暴力的で攻撃的な場になり、子供たちを市民的成熟に導くという本来の目的からますます逸脱してゆくだろうという陰鬱な見通しを語っているだけです。

伊丹十三と「戦後精神」

第三回伊丹十三賞の受賞記念講演を去年松山で行った。
そのときのテープ起こしが届いた。
既報のとおり、登壇した後に資料を控え室に忘れてしまって、資料なしでうろおぼえのことをしゃべった。
今回はちゃんと資料を手元において、きちんと引用出典を示しながら書いたので、ほんとうは何が言いたかったのか、わかりやすくなったかと思う。

では、どぞ。長いですよ。80分しゃべったんですから。


ご紹介いただきました、内田でございます。
松山に来るのは3回目です。10数年前に学会で来て、10年程前に父と母と兄と家族4人で旅行で来て、今日が3回目です。
第3回伊丹十三賞を頂いたあとに、11月にこちらで講演をしてくださいというオファーを頂きました。喜んでお引き受けしたのですけども、「何を話すか」何ひとつ浮かばず、まあ、まだだいぶ先の話だから、贈呈式が4月で、まだ8ヶ月もあるから、その間に何かアイディアが浮かぶだろうと思っておりました。
何も考えぬままに日が経つうち、演題についての問い合わせがありました。その時に、フッと「伊丹十三と『戦後精神』」というタイトルを思いつきました。括弧付きの「戦後精神」。なんとなく、これで行けそうな気がして、そのまま今日を迎えたのであります。
Twitterを読んでる方はご存知かもしれませんけども、実は何を話すか全然決まらないまま、今こうやって演壇に立ってしまいました。
 メモ書きはずいぶんたくさんして来たのですが、話がなかなか一つに絞り込めません。これは僕にとってはかなり珍しいことなんです。どんなテーマでもすぐに一席仕立てるのが特技なんですけれど、伊丹十三について松山で語るという宿題を与えられてからあと、なかなか話を思い付かなかった。少なくとも、僕自身の手持ちのスキームにはめ込んで伊丹十三を論じることは、どうも出来そうもない。そのことだけは日を追って、だんだんと分かってきました。
昨日も半日考えて、今日もさっきまで楽屋で考えて、やっぱり、上手くまとまらない。
こういう時、普通の人はずいぶん困るんでしょうけれども、僕はそれほど困らないんですね。どっちかっていうと、うれしくなってしまう。
というのは、「なぜ、私は伊丹十三についてきちんと論じることができないのか」と問題の次数を一つあげて考えればいい。
僕がうまく論じる枠組みを思いつかなかったのは、伊丹十三をみごとに論じている先行例を知らないからなんです。標準的な伊丹十三論がすでに存在するのであれば、僕はそれを参考にすることができる。敷衍するにせよ、批判するにせよ、とりあえず手がかりがある。でも、それができなかった。ということは、伊丹十三についての標準的な論が存在しないということです。驚くべきことではありますが、実は、伊丹十三を論じた、まとまった批評的言説というものは、いまだ存在していないのであります。
伊丹さんが亡くなったのは97年ですからもうずいぶん前になります。もちろんご存命の時から華やかな活動をされてきた方ですから、その才能や業績のクオリティの高さについては、これまでも多くの人が高い評価を与えていました。にもかかわらず、この人物が一体どのような戦略的意図に基づいて、あのような活動を、あれほど多彩な分野において展開し続けてきたのかについては定説がない。
「13の顔を持つ男」という言い方がされましていますけれど、人間がどのような多面的な活動をするにせよ、目指しているところは結局はひとつなわけですよね。ひとつの強い志がある、一つの明確な目標がある。それが一つの手段では達成できないので、さまざまななかたちを経由して表現される。伊丹十三はあれだけ多面的な活動を展開したわけですが、その核にあったのは、一つの強い、明確な志だったと思うのです。とりあえず、僕はそのような仮説から出発します。
彼は多才であったとか、あふれるほどに豊かな才能があった、だから何をやっても上手だったという評価をされる人は多いと思うんです。でも、僕はそういう言い方はあまり正確じゃないんと思う。そうではなくて、ひとつのジャンルの仕事だけでは、どうしても「自分が何をしたいのか」がご本人にもうまく捉えきれなかった。だから、ひとつずつジャンルをずらし、さまざまな方法を踏破することになった。ジャンルをずらしながら、伊丹さん自身が、ご自身の創作活動を通じて「いったい自分は何をしたいのか」を探っていたのではないか。僕はなんとなくそういう気がするんです。
それほどに、彼がめざしたものは「わかりにくいもの」であった。本人にさえよくわからなかったくらいですから。
自分が何をしようとしていたのか、伊丹十三自身もわかっていなかった。それが「誰でもが参照する標準的な伊丹十三論」が存在しないという異常事態のいちばんの理由ではないか、僕はそんなふうに思います。
例えばこの伊丹十三賞、私は第3回目の受賞者でありますが、第1回受賞者の糸井重里さんは、この会場で受賞記念の「講演」はされなかったんですね。松家仁之さん(当時『考える人』、『芸術新潮』編集長)との対談で、ご自分が伊丹十三から受けた影響などについてお話しされたと。でも、それはどうも「伊丹十三論」というものではなかったようです。第2回受賞者のタモリさんは、講演自体をしなかった。僕は3回目の受賞者ですが、これが正面から「伊丹十三」と題した講演をする最初の受賞者になるわけです。だとすれば、これから先の伊丹十三論のひとつのスタンダードになるようなものをここで語っておく義務がある。誰にも頼まれていないんですけど(笑)。

ここに至るには、色々前段があります。贈呈式の時にも申し上げましたが、僕は久しい伊丹十三ファンでありまして、本はもちろん読んでいましたし、『Mon oncle』も創刊から終刊まで全部読んでいましたし、講演を見に行ったことだってあるのです。
1980年代は、伊丹さんが比較的仕事が暇で、よく講演活動をされている頃だったと、さきほど玉置さんから伺いましたが、その頃僕が住んでいた東京都世田谷区上野毛の玉川高島屋で伊丹さんが女性対象のカルチャーセンターに講演においでになったことがありました。たしか家族論、子育て論について講演をされたのだと思います。
朝、新聞で、「今日午後伊丹十三氏玉川高島屋に来る」という記事を見て、「これは行かねば」と。その頃は大学の助手をしていたので、ウィークデーの昼間なのに家にいた。ですから、家からバイクを走らせて会場に駆けつけまして、入り口で「入れてください」と言ったら「だめ」と断られました。当たり前ですよね。事前申し込みもしてないし、第一、「今回は女性会員のための講演会ですから、男の方は入れません」と。でも、どうしても見たい。ほとんど土下座するようにして、とりすがって、お願いだから見せて下さい、ドアの隙間からでもいいですからと受付の女性に懇願して、無理にホールの後ろのドアの隙間から、立ち見で眺めさせていただきました。
期待にたがわぬ素晴らしい講演でありました。内容は覚えていていませんけども(笑)。たしか育児論だったと思います。僕もその頃育児をしていたので、胸に沁みる言葉ではありました。
その時の気分というのは、アイドルのステージをみつめるファンのような心理でした。そのとき、自分が実に久しく伊丹十三という人の熱烈なファンだったということに気づきました。だって、僕が講演というものを自分の意思で聴きに行ったのは、生涯で伊丹十三ただ一人だからです。あと、いないんです。

そもそも僕が伊丹十三という人物の名を知ることになったのは、大江健三郎の小説を通じてでありました。
今では大江健三郎の60年代の小説はあまり読まれることがありませんから、今日いらしている若い人にはちょっとぴんと来ないかも知れませんが、大江健三郎の初期の傑作に『日常生活の冒険』(1964年)という小説があります。
これはなかば私小説でありまして、大江健三郎と思しき小説家のところに、伊丹十三と思しき無頼の美青年が登場し、筆禍事件の後遺症で、ヒポコンデリア(心気症・憂鬱症)に陥っている作家を冒険の旅へ連れ出して彼の魂の救済を完遂するという、ロードムーヴィー的なテンポのよい小説なのであります。近年の大江健三郎からは想像がしにくいですが、60年代の大江の小説はワイルドで、スピード感があって、豊かな娯楽性さえあったのです。
小説の主人公の、大江健三郎をモデルとした人物は、気鬱な人物で、あまり魅力がないのですが、彼を救いに突然やってくる斎木犀吉(さいきさいきち)という人物は極めていきいきと魅力的に造形されておりまして、大江健三郎の作品の中に登場してくる男性の登場人物の中で、もっともチャーミングな人物でした。大江健三郎は素晴らしい作家だな、このような人物を造形できるなんて・・・と感心していたら、「あれは、実は伊丹十三という俳優がモデルなのだよ」という話を誰か物知りに教えてもらいました。そのときに、大江健三郎が伊丹十三の高校時代からの知人で、その義弟であることも教えられました。
 それからあとも僕は80年代まで大江作品のかなり忠実な読者でした。その理由の一つは、間違いなく彼が造形したひとりの主人公の魅力によるものです。
「鳥」と書いて「バード」とルビが振ってあるこの人物は、『不満足』という短編に暴力的でかつ知的な青年という矛盾したキャラクター設定で登場し、その二年後の『個人的な体験』に一層深みを加えて再登場します。
今にして思うと、「鳥」というのは、大江健三郎が、彼自身と伊丹十三を混ぜ合わせて作り出したキャラクターではないかと思います。知性的で内省的であると同時に、衝動的で暴力的であるという、この矛盾した人物を造形しえたことが『個人的な体験』の小説的な成功にふかく与っていると僕は思います。少なくとも、僕自身はストーリーそのものよりも、この主人公の発する強い磁力のようなものに惹きつけられました。
大江健三郎の小説の主人公は程度の差はあれ、作家自身が自己投影されていますが、そのフィクションの主人公に「伊丹十三」的なものを付け加えることで、作中人物は突然生々しい熱を発するようになった。それは大江健三郎にとっても、伊丹十三が「男性的魅力」というもののひとつの際だった実例として存在していたからではないかと僕は思います。
そして、大江経由で伊丹十三という人に興味を持ち、その頃出始めていた彼のエッセイを読むようになりました。伊丹十三のエッセイを僕は三十代のはじめの一時期、文字通り座右において、繰り返し、暗誦するほど読み込みました。ですから、僕のものの考え方か価値観や美意識に伊丹十三的なものはつよく刷り込まれています。

『ヨーロッパ退屈日記』を暗記するほど読んだという人は、僕らの世代には少なくありません。例えば、『ヨーロッパ退屈日記』の文庫版解説を書いている関川夏央さんがそうです。僕たちの世代にたいへんに強い影響力を与えた人なのに、先ほどから言っている通り、それが「どういう影響」であったのか、それをまだ誰もうまく言葉にできないでいる。
 そのあと、映像作家として、あるいは俳優として、CMのプランナーとして、プロデューサーとして、様々な形で次々と新しい活動を行っていかれたわけですけども、いったい彼は何をしようとしているのか、那辺に伊丹十三のオリジナリティーと魅力があるのかということについて、きちんと語りきった言葉はありませんし、語ろうと試みた言葉のあることさえ僕は知りません。
97年に伊丹さんは亡くなるわけですが、亡くなったあと、これほどのスケールの人物ですから、「いったい伊丹十三とはどのような人間であり、どういうようなプロセスを経て人格形成を果たし、どうしてこのような表現を選択し、どのような同時代的な影響を与え、どのようなメッセージを残そうとしたのか」について、包括的な研究なり分析なりがなされて然るべきだったと思います。でも、それに類するものをついにわれわれは持たなかった。
 こう言うと差し障りがあるとは思いますが、その理由のひとつは、大江健三郎のという人の存在だと思うのです。
大江さんは伊丹さんの死後、『取り替え子』(2000年)という、明らかに伊丹十三と思しき人の死を経験した、大江健三郎の分身である古義人という作家の苦悩を描いた長編小説を書きました。たいへん濃い小説で、そこには「伊丹十三について語るのは私を措いて他にいない」というつよい自負の念がこめられていたと思います。でも、それは同時に伊丹十三について他の人が語ることに対する隠然たる抑圧としても機能したように僕は思います。
大江健三郎は日本のジャーナリズムに対しても、文壇・論壇に対しても、つよい影響力を持っています。現代日本を代表する作家であり、知識人であり、いわば日本の「文学的な叡智と良心」を象徴するような人物が、伊丹十三について語るときの特権的な立場を占めている。高校時代からの友人であり、義理の兄弟でもあるわけですから、伊丹十三についての個人情報において、大江健三郎に及ぶ人がいるはずがありません。でも、それが一種の抑圧として働いていたということは否定できないと思います。「伊丹十三について、ちょっと書いてみたい」「ちょっと論じたいな」と思っても、大江健三郎をはばかって、自主規制したということはしばしばあったんじゃないかと思います。
 そういう個別的な事情は措いておいても、伊丹十三が非常に「語りにくい人物」であることは間違いない。
もう数年前になりますが、新潮社の『考える人』という雑誌が、戦後の100人の代表的な人物を選んで、それについてひとりひとりが論評していくという特集(「戦後日本の考える人100人100冊」、『考える人』、2006年夏号)を組んだことがありました。僕もその頃『考える人』に連載をしていたので、寄稿のお声がかかりました。選んだのは手塚治虫、長谷川町子、伊丹十三でした。
こういうアンケートの場合、論ずべき100人のリストは編集部があらかじめ選んでいるわけで、その中の誰を論じるかは、「偉い人」から順番に「じゃ僕はこの人論じるから」と取りのけてゆくことになります。僕なんかは一番下っ端ですから、リストが回ってきた時はもう8割方は書き手が決まっていて、たぶんそれまで「ちょっとこれは…」って除けたあとの人たちが残っていた。その中に手塚治虫、長谷川町子、伊丹十三がいました。知識人に対するアンケートですから、マンガ家二人が残るのはわからないでもないのですが、伊丹十三が残されていたのが僕には実に意外でした。
なるほど、どこを切り口にして論じたらいいのかが、たいへんに分かりにくい人なのだということをそのときに知りました。岸田秀先生がもっとお元気だったら、伊丹十三論として長いものをお書きになったかも知れない。村松友視や山口瞳といった親交の篤かった文人たちも、山口さんはもう亡くなられましたが、書いてよかったと思うのですが、そういう方たちも含めて、本格的な評伝というものが書いれていない。『ヨーロッパ退屈日記』の文庫版解説に関川夏央さんがみごとな伊丹十三論を書いていましたが、これはほんとうに例外的な仕事だったと思います。

特に、伊丹十三の「世代的な傾向」について論じたものは管見の及ぶ限り存在しません。でも、伊丹十三もまた生まれ育った歴史的環境から自由に生きていたわけではありません。色濃く、その時代が刻み込まれている。僕はそんなふうに考えます。
伊丹十三は、『ヨーロッパ退屈日記』を20代の後半で書いて、鮮烈な、劇的なデビューを飾った人です。登場のときにすでに完成した文体を持っていた。かつ、そこで扱われたトピックは、“アル・デンテ”とか“エルメス”とか“ヴィトン”とか“ロータス・エラン”とか“ジャギュア”とかというような話でした。それらの単語を僕たちはどれも伊丹十三の本ではじめて知ったのです。
このトピックの選択は、1960年代のリアルタイムの日本人の消費生活水準から考えると、信じられないようなハイレベルの、ハイクオリティーの商品についてのものでした。でも、それらについての、非常に深い、一種の商品哲学のようなものが展開されていた。とりわけ、ヨーロッパの階層社会についての鋭い分析があった。
『ヨーロッパ退屈日記』は今から40年ほど前に、20代の青年が書いたヨーロッパ文化論だったわけですけれど、それが現在にしてなおリーダブルであるどころか、出版当時と変わらない高い批評性を維持できている。これは驚くべきことだと思います。
もし、それが、そのあと出てきた、『POPEYE』とか『Hot-Dog PRESS』とかいうメディアと似たような情報誌的なアプローチで、「今アメリカではこんな音楽が流行っている」とか「イタリアではこんなファッションが流行っている」というようなカタログ的なトリビアを披瀝するものであったら、とうのむかしに消費され尽くしていて、今さらそんなものを読み返す人はいなかったでしょう。でも、伊丹十三が書いたものに限っては、「どういう車がよい車であるか」とか、「どういうレストランで、どういう料理を食べて、どういうワインを選んで、そのときには、どういうような服を着て、どういう靴を履くべきか」というようなことを縷々書き綴ってある文章の魅力がいまだに少しも色褪せない。他の凡百の情報誌的なトリビア情報へのニーズがすべてかき消えたあとに、なぜか伊丹十三の商品情報だけが未だに残っている。未だに読むに堪える。それはなぜなのでしょう。
伊丹十三のエッセイに限って、いまだに読むと胸を衝かれるような鋭利な批評性が存在する。そのことにわれわれはもっと驚いていいと思います。このエッセイには他のものとまったく違う何があったのか。それは何か。なぜ「それ」は今でもリアリティを失わないのか。そういう問いはある程度時間が経たないと提起できないものだったと思います。
リアルタイムで『ヨーロッパ退屈日記』を読んだ編集者や批評家たちの中には、伊丹十三をかなり低めに評価した人もいたと思います。これを70年代以後すさまじい勢いで昂進してゆくことになる高度消費社会の前駆的な形態だとみなし、伊丹十三を「消費文化の旗手」のようなものとして高をくくり、「一時の流行り物だから、いずれ消えてしまうだろう」と思っていた人は決して少なくなかったと思います。実際にそう訳知り顔に言っていた人たちはかなりいたと思うんです。でも、残念ながら、伊丹十三は消えなかった。なぜ消えなかったのか。それはリアルタイムでの読者たちが、僕や関川さんのような熱心な読者も含めて、「見落としていたもの」があったからではないか。
今日のテーマは、実は『ヨーロッパ退屈日記』という一冊のエッセイを、徹底的に読むことで、この洒脱なエッセイが隠している深いメッセージを探るということなのであります。

今日の演題には「戦後精神」と書きましたけども、伊丹十三が、高度消費社会の消費哲学とか商品記号論に似たものを先取りしていたせいで、僕たちは何となく彼を同時代人だと思い込んでいる。でも、そうじゃありません。彼は戦中派なんです。1933年生まれですから。これは、誰と同じかと言うと、江藤淳なんですよね。
江藤淳は32年の12月、伊丹十三は33年の5月生まれです。半年伊丹さんの方が年上です。われわれはそのふたりの顔を思い浮かべるとき、江藤淳というとなんとなく老成したときの顔を思い浮かべ、伊丹十三は若々しい顔を思い浮かべるから、10も20も年が違うように思いがちです。でも、彼らは実は同世代なんです。
33年生まれということは、戦争終わった時に12歳ということです。つまり、戦前の軍国主義の時代に少年期をまるごと残してきた世代だということになります。
前に高橋源一郎さんと、吉本隆明と江藤淳というふたりの戦中派についてかなり集中的に話をしたことがありますが(「戦後批評 吉本隆明と江藤淳 ―最後の『批評家』」、『中央公論』2011年12月号)、この世代には他には見ることの出来ない、きわだった特徴があります。
彼らより年上で、実際に応召して戦争に行った世代は、ある程度戦争の実情を見てきました。だから、「天壌無窮の皇運」とか「八紘一宇」とったイデオロギーが実は無内容な空語であるということを、兵士の実感として、あるいは生活者のリアリズムとして知っていた。中でも知的な人たちは、この戦争には大義が無いこと、いずれ敗北するだろうということまで予測していた。その戦争の中をともかく生き残って、敗残の祖国でもう一度生活を再建しようと考えていた。そういう人たちにとって敗戦はリアルな経験ではありますが、さまざまな苦労のうちの一つに過ぎません。
一方、僕たち戦後生まれは、戦争に関して何の記憶も持っていない。従軍したこともないし、空襲を逃げ回ったこともないし、飢えたこともない。日本が民主主義になった後に生まれて、右肩上がりの経済の下で、好き放題暮らしてきた。
この戦前派と戦後派のあいだに、戦中派という集団がいます。少年期には戦争の大義を信じ、おそらく20歳になる前に自分は死ぬだろうと覚悟を決めていたのが、ある日、戦争が終わる。昨日まで自分たちを鼓舞していた教師たちや周りの大人たちが、「間違った戦争が終わり、これからは民主主義の時代だ」と言い出した。「墨を教科書に塗らされた世代」です。
この世代の人たちが総じて懐疑的な精神の持ち主になるのは、歴史的事情からすれば当たり前のことです。でも、それは単なる懐疑的というのとは違う。
戦中派の特徴は、10代のある時期まで、ひとつの偏ったイデオロギーの中で育てられてきて、そのような世界しか知らないのに、ある日、あなた方が現実だと思っていた世界は幻想でした。あれは「なし」ということになりましたと宣告されたことです。
戦前派であれば、戦争に入っていく前からプロセスを観察している。だから、「戦争以外の選択肢もあった」ことを知っている。戦争になったときに、鶴見俊輔や丸山眞男や加藤周一のような知性は「この戦争は負ける」と予測できた。そういう人は戦争が負けたときにも、別に天蓋が崩れるような衝撃を感じることはない。「やはり負けたか」と思うだけです。
でも、33年生まれだと、そうはゆかない。満州事変が31年ですから、物心ついたときからずっと日本は戦争状態だった。「戦争をしていない日本」を知らない。すでに始まっていた戦争を日常的に呼吸し、戦争をする国家であるところの大日本帝国の「少国民」であることを自己同一性の一番基本に据えていた。その社会で価値ありとされていたものを自らの価値としていったんは血肉化していった少年たちが、ある日、それを捨てろと言われた。「1945年8月15日以前の自分を切り離して、今日から新しい自分が始まる」といったようなアクロバット的なことができるのか。僕はこの仕事にどれほど真剣に立ち向かったかによって、この世代の人々の知的なあるいは感性的な深みは決定されたのではないかと思っています。

僕は以前『昭和のエートス』という昭和人論に、この世代の屈折について書いたことがあります。彼らは戦前に取り残した、おのれの半身を取り残している。少年期の経験も、喜びも、悲しみも、高揚感も、感動も、全部戦前の日本の記憶に貼り付いている。少年期に吸った空気、そこで自然だと思って取り込んできた概念や美や価値は、もう自分の中に受肉してしまっている。それを切り捨てろと言われても、それを切り捨てては、自分というものが立ちゆかない。「戦前に残されたおのれの半身のうち、戦後社会においてもなお生き延びるに足るものは何か?それなしでは自分が自分でいることのできないぎりぎりのものは何か?」それを探し出して、何とかして、それを戦後の半身に縫合しなければならない。
この仕事の模範は年長世代のうちに見出すことはできません。周りを見回しても、これを完遂せずには自分が立ちゆかないと思い詰めているのは、自分と年齢の変わらないものしかいない。でも、みんな子どもたちですから、その中に、「こうやって私は切断された少年期の半身を奪還して戦後に縫合してみせた」という成功事例を語れるものはまだ一人もいません。だから、彼らは自分ひとりで、独力で、そのやり方を発見しなければならなかった。
大人たちは「軍国主義教育はすべて間違っていた。これまで君らが習ったことは嘘だった」と言う。でも、そんな言葉に軽々しく従うわけにはゆかない。軍国少年であった少年期において自分が信じたことのうちには、本当に人間がそれを信じ抜くに足ることも、人間が生涯をかけて守り切るべきもの、そのために死んでもいいというようなものも、含まれていたはずだからです。それを戦後社会は「全否定せよ」と言う。誰もそれを守ってくれない。だったら、少年たちが自分で自分の過去を守るしかない。
そういうふうに考えたのが、戦中派の特徴だと僕は思います。その使命感は、先行世代にも後続世代とも共有されていない。この固有の世代的使命を感じていた集団に伊丹十三もまた属していた。そして、彼のいささかわかりにくい特性の多くは、この世代的な条件づけによっていくぶんかは解釈可能である、というのが僕の仮説なのです。

例えば、江藤淳の戦後の仕事を見ると、明らかに戦中派的なこだわりを僕は強く感じる。
60年代から後の江藤淳がもっとも心血を注いだ仕事の一つは戦後日本におけるGHQによる検閲の検証でした。江藤は大学の60年代にサバティカル(長期休暇)を使って、ワシントンに行き、ほとんど取り憑かれたように公文書館に通って、GHQの占領期日本における検閲の記録を精査しました。その情熱はほとんど「妄執」というのに近い。
江藤が明らかにしたのは、占領期にGHQが日本の出版メディアに対して徹底的な言論統制を行っていたことです。「言論統制が行われている」という当の事実までが言論統制されていた。だから、占領期の日本人は行き交う言論が「検閲済み」のものだということさえ知らなかった。戦時中でも、人々はメディアの言葉が「検閲済み」であり、戦争指導部にとって不都合な情報はそこには開示されないということを知っていました。でも、占領期の検閲はさらに徹底的だった。そして、日本人はそのことを知らなかった。占領軍が去ったあとでも、それについては知りたがらなかった。江藤はその欺瞞性を暴き出しました。
この研究に学問的にどんな意味があるのかは、僕にはよくわかりません。江藤淳以後に、この研究を継続した人がいるのかどうかも知りません。江藤の学的貢献が政治史的に重要なものとして敬意を持たれているのかどうかも知りません。たぶん後続世代には、江藤のこの執念はうまく理解できなかったのだと思います。
僕は、この検閲研究は戦中派世代からの悲痛な異議申し立てだったと思います。「戦前においてわれわれはイデオロギー教育を受け、強いバイアスのかかった教育によってものの見方を歪められていた。だが、戦争が終わり、言論統制もイデオロギー抑圧も取り去られ、ついにわれわれは自由に語れるようになった」という物語を江藤たち少年は戦後、大人たちから聴かされて来ました。けれども、そう言って民主主義の旗を振っていた人々もまた戦前のイデオローグと同じなのではないのか。日本人は、8月15日以前は軍部によって言論統制され、それ以後は、GHQによって言論統制されている。民主と自由を謳歌しているつもりで、「アメリカによって検閲済みの言論」だけを選択的に語ることを強いられている。そして、それに気づかないでいる。それは、戦前に軍の言論統制に屈服したことよりもさらに恥ずべきことではないのか。江藤淳はそう言いたいのだと思います。
 あたかも十全に自由を享受しているかのようにうれしげな戦後のリベラリストたちの言説に対する江藤のこの異議申し立ては、その攻撃が向けられているところだけを取り出して見ると、かなり反動的なものに見えます。でも、実際には、これは右とか左とかいう党派的な差別とは無関係な仕事だったのではないかと思います。
江藤淳は彼自身の少年期の言論空間を「工作されたものだ」として全否定した戦後のリベラリストに対して、「あなたたちが自由に語っているつもりの言説空間もまたGHQに工作されたものではないか」と言い立てている。つまり、江藤が言いたいのは、「8月15日に本質的な切断線はない。日本は敗戦の前も後も地続きなのだ」ということです。
江藤淳は必ずしも、そこから「だから日本人はダメなんだ」という総括的な批判を導き出したわけではないと思います。江藤淳という一人の生身の人間にとって、8月15日で日本がいきなり別の国になったわけではない。国はそのまま続いている。戦前の日本にあったものは、美しいものも、醜いものも、価値のあるものも、無価値なものも、かたちを変えはしたが、戦後日本にも生き延びている。デジタルな切断線を引いて、「ここから向こうはもう終わった時代の、もう存在しない社会だ。切断線からこちらだけがリアルで、線の向こうはアンリアルだ」と言う戦後リベラリストの健忘症を江藤は許せなかった。これもまた政治的に切り離されたおのれの半身を何とかして戦後日本の自分の半身に縫い付けようとする痛々しい外科手術のようなものではなかったのかと思います。

僕は江藤淳の仕事と伊丹十三の仕事を比べてみると、そこにひとつの共通点があるのではないかと思いました。
『ヨーロッパ退屈日記』は、ご存知のとおり、1962年から63年にかけて、ニコラス・レイ監督の『北京の55日』というハリウッド映画に、チャールトン・ヘストン、エヴァ・ガードナー、デヴィッド・ニーヴンなどと共演するためにロンドンに行くところから始まります。でも、エッセイは実は映画の話から始まるわけではありません。エッセイの冒頭はこの一行から始まります。

「イギリス風のお洒落、なんていう言葉を耳にしたことがあった、と思うのだが一体何をさしていったことなのだろう。今日、わたくしは、白いヘルメットにプリーツ・スカート、ハイ・ヒール、そしてこれは一つ非常に洒落たつもりで、紫のストッキングをはいたという御婦人が、単車を乗り捨てて、教会へ入って行くのを目撃したのだが、どうですか」(伊丹十三、『ヨーロッパ退屈日記』、新潮文庫、2005年、12頁)

映画の話が出てくるのは、ずっと後の34頁目。

「台本を渡される。
 『北京籠城55日』の籠城十日目まで。
 前半というところろうが厚さ一寸くらいある。
 このままとれば全部で六時間くらいの映画ができるだろう。いい加減に読み飛ばしたが、わたくしの出番は前半ほとんどなし。」(34-5頁)

『ヨーロッパ退屈日記』というエッセイを読んだ不用意な読者は、英語がよくできる日本の青年が、国際派俳優をめざしてオーディションを受け、ハリウッド映画で重要な役を獲得して、撮影現場でチャールトン・ヘストンやエヴァ・ガードナーと仕事をして、出演料でジャガーを買ったという、自慢話のようなものとして読むかもしれません。
でも、僕はこのエッセイの中で伊丹十三が言い落していることの方がむしろ重要ではないかとという気がするのです。
『北京の55日』を観た人はここにはどれくらいおられるでしょう。まあ、若い人ではまず見た方はいないと思います。これは義和団事件を扱った映画です。義和団事件というのは、華北に興った義和団という拳法を使う団体の拳匪たちが1900年に「扶清滅洋(清朝を助けてヨーロッパ人を殺せ)」というスローガンを掲げて、北京に迫ったときに、西太后がそれに呼応したことによって起こった事件です。その時、各国の大使や領事たちが北京に閉じ込められ、55日間に渡って義和団の激しい攻勢に対してよく防戦して、各国の市民たちを守った。

映画自体は、チャールトン・ヘストン演ずるところのアメリカ軍のルイス少佐が大活躍をするという話になっている。でも、歴史的な事実から言うと、この『北京の55日』の北京攻防戦、北京攻城戦を担ったのは、実質的には日本軍なんです。
日本陸軍の柴五郎砲兵中佐が、この北京包囲戦の事実上の指揮官であった。というのは、彼が率いた陸戦隊のメンバーが最も練度が高く、最も統制が取れていた部隊だったからです。彼らの活躍によって『北京の55日』の籠城戦は完遂された。
そのとき陸戦隊の軍律の高さと勇猛さに感動した軍人出身の英国公使クロード・マクドナルドが、「日本という国は極東の島国であるけれども、兵の練度も極めて高く、規律も良く、また知的な人々によって構成されているのである。だから日本を植民地の対象にするような未開の島国と侮ってはいけない」ということを本国に具申した。のちに初代駐日イギリス大使となったこのマクドナルドの、高い日本軍評価に基づいて、1902年に大英帝国と近代化したばかりの極東の小国が同盟を結ぶという、世界史的にも異例な日英同盟が成立するのです。この日英同盟のおかげで、日露戦争におけるイギリスの有形無形の支援があり、それが日露戦争における日本の薄氷の勝利をもたらしたわけですから、この義和団事件における日本陸戦隊の働きは、日本人にとっては歴史的に記念すべき武勲なわけです。
このとき陸戦隊を率いた柴五郎という人は、代表的明治人の一人で、多くの評伝が書かれています。村上兵衛の『守城の人-明治人柴五郎大将の生涯』や石光真人『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』など、今でも柴五郎を顕彰する本は書店の棚から消えることがありません。
柴五郎は会津の人です。幼少のため白虎隊に加われず、祖母、母、兄嫁、姉妹が自刃し、生き残った家族と下北半島の斗南藩に移り、そこで零下15度の、屋根もない壁もない小屋で、極寒の冬過ごすという壮絶な少年期を送ったあと、縁あって陸軍幼年学校に入り、やがて立身を遂げて、会津はもちろん賊軍とされた東北諸藩出身者で初めて陸軍大将になった人物です。岩手出身の原敬と並んで、戊辰戦争以後、新政府の冷遇ゆえに、久しく不遇のうちにあった明治の東北人たちの期待を一身に担った人物でした。
柴五郎自身も、出自に対する強い責務の感覚を持っていました。賊軍とされて虐殺され、維新以後も「白河以北一山百文」と言われるほどに近代化から見捨てられた東北の士族を代表しなければならないとする気概がありました。明治政府に滅ぼされた会津の武士が、陸軍大将にまで登り詰めてゆく。自分の武勲によって、会津人に対する評価を改めさせてみせるという強烈な使命感に駆動されて軍歴を重ねていった人物です。そして、1945年、敗戦の年の暮れに割腹死する。明治を代表する武人です。伊丹十三が演じたのは、実はこの柴五郎の役なのです。
しかし、この『ヨーロッパ退屈日記』には柴五郎についての記述が一行もありません。一行もない。それどころか、なぜ彼がこの役のオッファーを受けたのかについての説明さえない。読者は同じ本のその後の方では伊丹十三が『ロード・ジム』のスクリーンテストを受けるために自費で行く話を読むことになります。役が決定するまでの映画界の実情について、役が決定するまでの緊張の日々を送ったという事情が書いてある。でも、『北京の55日』については、そのような記述はまったくありません。

なぜ、『ロード・ジム』のキャスティングについては長々と書いている伊丹十三が、『北京の55日』については何も書いていないのか。
 僕の仮説は、伊丹十三は柴五郎を日本人として演ずることに、一種の国民的な責務の感覚を覚えていたのではないか、というものです。
柴五郎に象徴されるような、誇るに足る日本人、純良な日本人、12歳までの池内岳彦少年が「そのようなものでありたいと願っていた」ある種の理想形を代表するような日本人を演じたかったのではないか。
でも、ここに柴五郎という人を演じるときの役作りの工夫とか、そのような日本人を演じることへの気負いのようなものが書き込まれていたら、『ヨーロッパ退屈日記』という作品はまったく違うものになってしまったと僕は思います。むしろ、作品として成立しなくなったのではないか。
『ロード・ジム』で彼が演じたのは、ウォリスという役は東アジアの村の青年です。この役を得るまでの過程については、台本を渡されたときから、監督リチャード・ブルックスによる演技指導について、スクリーン・テストについて、長い記述がある。それに比すると、柴五郎の役についての記述はほとんどゼロです。
監督ニコラス・レイの最初の構想では、各々の国籍の役柄を、その国々の俳優によって各国語入り乱れてやるということでした。でも、英、米、仏、伊、独、露といった国々については俳優が揃ったけれど、主要な役である西太后以下の中国人三人のキャスティングに難渋した。しかたなく、中国人をイギリスの俳優が演じることになり、全編英語でやるということになった。そのキャスティング事情を紹介したあとに、伊丹十三はこう書いています。

「日本人が日本人をやる、というわたくしが、いわばニック最後の砦だったわけなのです。」(40頁)

これだけです。ここにも、ほかの場所にも、役名さえ書かれていない。つまり、『ヨーロッパ退屈日記』の読者のうち、映画『北京の55日』を見ていない人たちは、この映画で伊丹十三が誰を演じたのかを知らされないのです。

僕はこの言い落としは故意のものだと思います。言わないことに意味があるのではないかという気がします。柴五郎はたぶん伊丹十三が素直に敬意を抱くことの可能な、例外的な日本の武人でした。ですから、この役をキャスティングされたときに、何らかの感動を覚えなかったはずはない。でも、それについて一語も記さなかった。自分が誰の役を演じ、それはどんな人物であり、撮影の二十年前にどんな死に方をした人物なのか、何も書かなかった。スパゲッティの茹で方やドライビングテクニックについてはトリビアの披瀝を惜しまない作家が、自分の演じた役については、一言も語らないということは、あきらかに均衡を逸しています。

『北京の55日』という映画は、その歴史的な歪曲について、特に中国側から、つよい批判を浴びました。義和団を悪役にした勧善懲悪の物語になっているからですが、それだけではない。チャールトン・ヘストン率いるアメリカ軍人とデビッド・ニーヴンのイギリス公使が北京籠城戦を事実上統率し、最も勇敢に戦ったという話になっているけれど、これは歴史的事実ではない。そして、北京籠城戦の事実上の指揮官である柴五郎は、映画において、ほとんど見るべき働きをしません。スクリーンの中心には英米の俳優が立ち、伊丹十三が出るときは、スクリーンの端しか与えられない。だから、テレビ放映用にサイズが縮小されると、伊丹十三の出演シーンでは、声だけ聞えて顔が映らないということさえ起きました。このような不当な扱いに対して、伊丹十三が何の心理的屈託も感じなかったとは考えられません。

そう思って、『ヨーロッパ退屈日記』を読んでゆくと、微妙に含意のある文章があることに気づきます。一つは、主演のチャールトン・ヘストンについての記述です。
チャールトン・ヘストンはこのとき『十戒』『ベン・ハー』『エル・シド』に主演した後ですから、トップ中のトップスターでした。でも、偉ぶらない、愉快で愛すべき人物であるという好意的な言及を伊丹十三は繰り返しています。
ヘストンは、ご存じのように、俳優としてのほか、長く全米ライフル協会の会長をつとめ、2000年の大統領選挙でのジョージ・W・ブッシュ当選に貢献した人物ですけれど、若いときはリベラル派として人種差別主義と戦い、マルチン・ルーサー・キング牧師とワシントン大行進にも参加した。そういう弱者に配慮するリベラル派的な気質と、好戦的で自己中心的な「リアル・アメリカン」気質が同居している、ある意味できわめてアメリカ的な人物です。でも、伊丹十三は、そういうチャールトン・ヘストンのある種の無神経さにつよい嫌悪をも感じている。『ヨーロッパ退屈日記』には次のような記述がありますが、これはおそらくヘストンを念頭に置いて書かれたものだと僕は思います。

「普通の西洋人は、わたくしには、何かずっと酷薄な、武装した存在に感じられる。友だちづきあいをしていても、いつ、しらじらしいただの他人に変化してしまうかわからない。自分の権利が少しでも犯されそうになろうものなら、ただちに冷たい叱責をまなざしに浮かべて、激しく抗議してくるに違いない振幅の狭さが感じられて気が許せない。
あるいはまた、普段はひどく無口で、はにかみやの大男が、突然、われわれアメリカ南部の白人が、過去においていかに黒人と美しい協調をなしとげてきたか、いかに黒人が現状に満足しているか、黒人問題などというものは、実際問題として南部には存在していない、という驚くべき発言を、アメリカ人独特の、身についた正義の身ぶりで愚かしくしゃべりたてるのである。
これは我慢がならない。屈折のない心、含羞のない心、これは我慢がならない。」(74-75頁)

チャールトン・ヘストンについての、それ以外の箇所での好意的な言及と、今の引用の最後の箇所に表われる激しい嫌悪感はあまりに対比的です。でも、僕はこれはどちらも伊丹十三の実感だろうと思います。『北京の55日』はそのシナリオからして、アメリカ人の愚かしい正義面とアジア蔑視が剥き出しになった、人種差別的な映画でした。でも、それは無意識のものであった。アメリカ人自身はアジア人を救ったつもりでいる。伊丹十三はこの善意でコーティングされた人種差別と自民族中心主義を痛みとして感じたはずです。でも、その個人的感想は深く秘され、抑圧された。それがあえて固有名をあげずに、個人的な瑕疵を非難するというかたちで噴き出してきたのが今の箇所だと思います。特に、その批判が人種差別的であるという事実に対してではなく、「屈折のない心」「含羞のない心」に向けられていることに僕は興味を引かれます。
人間の歴史をふりかえるなら、戦争とか人種対立というのは「ふつうのこと」です。戦争に勝つものもいれば、負けるものもいる。たまたま軍事的・経済的・文化的優位ゆえに、他民族に対して差別的にふるまうことができるものがおり、差別されることを甘受しなければならないものがいる。歴史の流れが変われば、それぞれの立場が入れ替わる。逆転することもある。だから、戦争に勝ったり負けたり、経済的に優位であったり劣位であったりすることをあまり口うるさく言挙げすべきではない。伊丹十三はそういう構えで海外に出て行ったのだと思います。敗戦国日本の劣位は事実として静かに受け入れる。でも、それについて過剰な劣等感を持って、ことさらに自国の弱点や欠点を露悪的に語ったり、戦勝国の制度文物をありがたがったりすることはしない。日本には日本のすぐれた点があり、恥ずべき点がある。それをともに受け入れるのが伊丹十三のいう「屈折する心」だと思います。自国の誇るべき点を言挙げするときにも羞じらい、恥ずべき点を告白するときにも羞じらう。それが成熟した国民国家のメンバーとしてのあるべき態度ではないのか。そういうふうに考えていたのではないでしょうか。
 ただ、それは同世代の江藤淳にあったナショナリズムの感情とはちょっと手触りが違うような気がします。もう一つ屈折が深い。敗戦国民が、マッカーサーに「四等国」、「精神年齢12歳」と侮られたときの屈辱感に由来するアメリカに対する反感や敵意とはたぶん違う。それほどストレートな反感ではない。そうであれば、もう少し率直に書いてもよかったはずなんです。でも、そのへんのところは丁寧に書き分けてある。ニコラス・レイにしても、チャールトン・ヘストンにしても、個人的な欠点をあげつらうことを伊丹十三は自制しています。でも、「アメリカ人」というようなひとつの人種類型、国民性格を取り上げるとき、不意にきわめて辛辣な記述を行う。
『ヨーロッパ退屈日記』を読んだ方はご記憶だと思うんですけれど、この本の中で厳しく批判されているものは二種類あるんです。ひとつは、アメリカ人が表現するような種類の、ある種の無神経さ、「屈折」と「含羞」の欠如。もう一つは、日本の「ミドルクラス」の醜悪さです。『ヨーロッパ退屈日記』のコンテンツから言うと、圧倒的にミドルクラス批判に大量の頁が割かれています。

『ヨーロッパ退屈日記』というタイトルから想像すると、ヨーロッパにみられる文化的な質の高さ、自動車やファッションや料理の洗練を列挙しているかのように見えます。たしかに、それはきちんと紹介してある。でも、それは「返す刀で」、1960年代のわれわれの日本の、貧しさというよりは陋劣さ、醜悪さ、緩さ、自己規律のなさ、自己批判のなさを斬り捌いている。日本文化のだらしのなさに対して、伊丹十三はほとんど憎しみにものを感じている。そして、この日本人批判、日本文化批判を、当時の多くの読者は、「そうそう」と深く頷きながら読んでいた。そのことに僕は奇異の感を抱くのです。

僕が『ヨーロッパ退屈日記』を初めて読んだのは、もう文庫版になっていましたから、70年代の終わり頃だと思います。僕はまだ二十代でした。そのときは、「ずいぶん激しく日本を批判する人だな」という印象を持ちました。もちろん、爽快感も覚えました。でも、その時点で、伊丹十三が取り上げている事例はすでに微妙に古くなっていた。
ここで批判されているのは、高度成長期以前の貧しかった日本であって、それからあと、日本人は高度成長も経験してきたし、海外旅行にもどんどん出かけいるし、国際化もしているし、英語も話せる人が増えたし、ブランド商品も入ってきたし、もう「これほど」ひどくはないだろうと思った。これは高度経済成長以前の、まだ貧しかった時代の日本について、伊丹十三という非常に尖鋭的な精神の人が捉えた「その頃の日本人」の醜さであって、歴史的過去に属する風俗である、と。だから、この本が書かれたあと、日本人は、そういう批判をしっかり受け止めて、もっとお洒落で、シックで、洗練された文化を創り上げて、もう外国から愚弄されたり侮られたりすることのない国民になっていくに違いないと、そういうふうな期待を持って読んでいた記憶があります。もう、だいぶ前の話だよね。十年前位はこうだったかもしれないけど、今まはもう違うんじゃないかなあ・・・そう思って読んでいた記憶があります。
でも、この講演のために最近改めて読み返してみると、1960年代の日本について書かれたこの批判はすべて今も有効なんです。そのことに驚きました。40年経っても、ここで辛辣に批判されている日本の「ミドル・クラス」的な貧乏臭さはまったく払拭されていない。
ということは、この時に伊丹十三が批判していたのは、当時の日本が置かれていたある種の歴史的に特殊な事態ではなかったということです。歴史的条件に強いられた、敗戦国ゆえの後進性や貧しさや生活水準の低さや国際感覚の欠如を批判していたのではない。日本が仮に戦争に勝ったとしても、その後もついてまわったに違いない後進性や貧しさや国際感覚の鈍さを批判していた。日本人と日本文化に内在し血肉化している、根源的な惰弱、緩み、自己規律のなさに対して、自分自身の内臓に刃を突き立てるように、自己分析を試みた。僕はそんなふうに感じました。
さきほど申し上げましたように、アメリカ人に対する伊丹十三の批判も、それと同じもののように思います。彼が批判しているのは、歴史的なアメリカの個別的な政策であったり、制度であったりするわけではないし、もちろん個別的なアメリカ人ではない。そうではなくて、アメリカ社会が内在している、無垢なほどの幼児性、不作法、自己中心性、屈託のない正義感、そういった変わることのない国民性格を標的にして、それに向けて厳しい筆誅を加えている。
僕が最初に抱いた仮説は、この時期に彼が書いたものは、実は「一回ひねりの反米的言説」ではないかということでした。実は、伊丹十三は反米的な心情を隠蔽するために、あえて「ヨーロッパ」を迂回したのではないか。ヨーロッパはアメリカに対して、発生的には先行しています。アメリカよりも古く、アメリカよりも文化が高く、アメリカがそれに対して劣等感を持っている文化圏です。そのようなヨーロッパに直接アクセスすることで、アメリカに対するアドバンテージを手に入れる、そういう戦略ではないかと思ったのです。直接敵対するものを攻略するために、敵が「それだけには頭が上がらないもの」と直に繋がろうとするというのは、古典的な手口ですから。だから、伊丹十三もヨーロッパと直取引をすることで、アメリカを見下す視点を手に入れるという、迂回的な戦略を採用したのではないか、そう思ったのです。

 この迂回戦略は別に珍しいものではありません。日猶同祖論という不思議な理説があります。「日本人とユダヤ人は同祖である」というとんでもない話です。明治末期に突然生まれたものですが、日本社会に深く根を下ろしていて、いまだに日猶同祖論を信じてる人、あるいは信じたがっている人は少なくありません。これは日本人とユダヤ人は同系列の民族であり、聖書に出てくる「東」というのはすべて日本のことを指しているとか、元寇のときの神風から日露戦争の勝利まで、エホバの恩寵はつねに選択的に日本列島の上に輝いているというタイプの議論です。
日猶同祖論は明治末期に突然に出現したわけですけれども、論者全員に共通していることがあります。一つは少年期に外国人に就いて西洋的な学問を修め、キリスト教に入信し、アメリカ留学の経験があるということです。アメリカの大学で勉強して、学位を取って日本に帰ってきて、後進の青年たちの精神的・霊的な指導者になるべき人々が、相互の何の関連もなく、示し合わせたわけでもないのに、「日本人とユダヤ人は同祖である」という妄説を語り出した。ユダヤ人と日本人は、実は、同じ祖先から派生したものである。離散したユダヤ人の一部が古代に日本列島に渡来した。だから、日本文化の中にユダヤ教の教えは深く根を下ろしている、と。
なぜ、そういうことを言い出したのか。ロジックは簡単です。ヨーロッパやアメリカでユダヤ人が受けている迫害と、この時期に日本人が帝国主義列強から受けている迫害にある種の同質性を感じ取ったからです。
ユダヤ人が迫害されるのは、キリスト教徒に対して、文明史的に、霊性の歴史の上で、「長子権」を有しているからです。キリスト教はユダヤ教から派生してきた。派生したきた宗教が母胎宗教を罵倒するのは必然的なことです。
でも、この「長子であるがゆえの迫害」というロジックは日本人には快いものに聞えた。というのは、そのロジックを使えば、世界に冠絶する文化的な高みにあるがゆえに、われわれ日本人はそれを羨む欧米諸国によって迫害されているという話になるからです。
だから、これからは日本人はユダヤ人と協調して、帝国主義列強と戦い、彼らを屈服させ、彼らを睥睨する地位をめざさなければならない。そういう奇異な論が明治末年に登場してきて、一部に熱狂的な支持者を獲得しました。
僕はこの論の立て方にはそれなりの説得力があると思います。日本人とユダヤ人が人種的に同根であるとか、日本文化の深層にユダヤ教があるというような主張は、科学的検証に堪えないのですが、それでもこの「物語」のうちには、何かしら日本人の心の琴線に触れるものがある。自分たちが国際社会の中において劣位にあるときに、直接の上位者として自分たちを見下してる国よりも、さらに歴史的に古く、さらに文化が高い国とわれわれは「一体」なのだという論を立てれば、わが身についての劣等感は一時的に緩和されるからです。

ですから、『ヨーロッパ退屈日記』の伊丹十三は「ヨーロッパ」と「アメリカ」を対比させようとしているのではないかと僕は思ったわけです。
アメリカがそこから派生してきた起源であり、アメリカ人自身も、自分たちの方が文化的に劣っているということを自覚しているような文化的優位者たるヨーロッパと直接に通じることによって、かつてわれわれの国を軍事的に屈服させ、今なお日本を「属国」として支配しているところの事実上の「宗主国」に対して、優位に立つのは無理としても、せめて同じラインに並ぼうとした。そういう戦略ではないか、と。
現に、アメリカとヨーロッパの文化的深みの差について、『ヨーロッパ退屈日記』には印象深いエピソードが紹介されています。
チャールトン・ヘストンは若い時から乗馬が趣味で、西部劇の端役をしている貧乏俳優時代から、いつかロンドンで本場の乗馬靴を買うのは若い時からの夢でした。そして、ロンドンに来たとき、ショーウィンドーにすばらしい乗馬靴を見つけて、店内に入りました。慇懃な店員からのさまざまな質問に答えて、採寸して、ようやく発注を済ませました。その後日談をヘストンはこう語ります。

「その乗馬靴だが、注文して半年もたった頃、思い出したように送って来たんだが、中にはいっている木型がどうしても取れない。多分、見えないところに螺子(ねじ)かなんかがあって外すようになっているんだろうと思って随分調べたんだが、とうとう判らなかった。だから、あれは木型のはいったまま、今でもちゃんとしまってあるよ。」(59頁)

ハリウッドスターがロンドンの靴店の一店員に気後れしている様子がユーモラスに書かれています。ですから、伊丹十三たちがその話を聴いた後に「チャックはいい男だ、背広を着ると全く似合わないが、あんなにいい男はいない」(60頁)という好意的な人物評を行うのは流れとしては自然です。でも、それにこのような「同種のエピソード」が続くと、ニュアンスが変わってきます。

「それから誰かが、プロデューサーのマイク・ヴァシンスキーが、ロールス・ロイスを注文した時、扉の外につける御紋章はいかがいたしましょうか、と聞かれた話をして、-君も、ロールスを注文しに行く時は、あらかじめ答を用意していった方がいいよ-一座はしばらく沈黙におちいった。」(60頁)

この二つのエピソードが並べられると、「ヨーロッパ文化圏で高額の商品を買うことはできるが、そのものが本来何のためのものかをほんとうは理解していない(だから使いこなすことができない)アメリカ人」という皮肉な像が浮かび上がってきます。
ここにヨーロッパ文化という上位者を一つ噛ませることによって、アメリカの増上慢を「懲らしめる」という伊丹十三の戦略が僕は透けて見えたような気がしたのです。

「臥薪嘗胆、捲土重来」、そういう屈託した心情は、江藤淳にも吉本隆明にも、伊丹十三にも、出方は違っても、戦中派の知識人たちの中には共通してあるように思います。というのは、戦争に負けた国の国民たちが、戦後まず口にすべき言葉は、原理的には「次は負けない」という言葉のはずだからです。
「今はしばらく苦しい思いをしているけれど、あともう少しがんばって、捲土重来を期すべし」。「次は負けない」というマインドでありさえすれば敗戦国民のモラルは決して劣化したりはしません。戦争は、すれば必ず勝つ国と負ける国が出る。敗戦国になる確率は50%です。歴史上のすべての社会集団は敗戦を経験している。百戦無敗なんていう国は存在しません。だから、負けたあとに、どうやって国を再建するのかという作業は、リアルかつプラクティカルな課題であって、別に妙にいじけたり、パセティックになったりするものじゃない。けれども、世界軍事史上、日本ほど負けていじけた国は珍しい。日本の負け方はちょっと尋常じゃありません。
そのことが「おかしい」と多分、戦中派の人たちは心のどこかで感じていたのではないかと思います。戦争に負けるというのは、誤解を恐れずに言えば、よくある散文的な事実にすぎません。だから、負けたら、「なぜわれわれは負けたのか」についてリアルでクールな分析をすればいい。失敗から学んで、有意義な教訓をそこから引き出してゆけばいい。軍略のどこに問題があったのか、社会システムのどこに欠陥があったのか、社会倫理や宗教やイデオロギーのどこが機能不全だったのか。敗戦の原因を摘抉して、問題点を補正し、「次は負けない」ように国家制度を設計してゆく。それが、本来であれば、敗戦国の一番基本的なマインドなわけです。
そのプロセスで「永世中立」とか「戦争放棄」という戦略が提言されるということも十分にありうる。「次は負けない」、「二度と負けない」ためには「二度と戦争をしない」というオプションはきわめて合理的なものだからです。でも、日本の戦後の平和主義というのはそういうものではありませんでした。「次は負けない」ために、敗戦をもたらした国家システムの瑕疵を徹底的に検証し、吟味した末に、振り絞るようにして選び取られた「戦争放棄」ではありません。「もうしません」と頭を下げることで罰を逃れようとしていたら、「もうしません」という「言質」を看板にして首から下げろと命令された。そういう「戦争放棄」です。だから、そこには深みのある思想がない。人間と国家の運命についての熟慮もない。
戦中派の一人として、伊丹十三が納得のゆかなかったのはその点ではないかと思います。戦争に負けたことはしかたがない。でも、こんな負け方はないだろう。なぜ、もっときちんと負けられなかったのか。負けた日本社会の欠点を洗い出して、それを総点検し、改善すべきところは改善するということをしないのか。
戦後の日本人の戦争についての歴史的総括というのは、きわめて単純で、「全部間違っていた」と「全部正しかった」のふたつしかありません。「よいところはよかったが、悪いところは悪かった」という、ごく合理的な判断を戦後の日本人は採ろうとしなかった。戦前の日本においても、こういう制度や、こういうルールは「よいもの」だった。だから、残さなければならない。これとこれは日本の国力を殺いだ「よくないもの」だったので、補正を要する。そういう一度クラッシュしたシステムを再起動するためのもっと「当たり前」のことを日本人はしませんでした。
なぜ、当たり前のことができなかったのか。それは、「負け方があまりにもひどかった」からです。常軌を逸してひどい負け方をした。あまりにひどい負け方をしたので、戦前戦中の日本社会の中に、多少でも「生き延びるに耐えるもの」があるようには思えなかった。それほどひどい負け方をした。
とにかく日本の伝統的な美質は洗いざらい捨てられた。それと同時に、日本をこのような歴史的大敗に導いたところの日本人の惰弱、無責任、自己規律のなさ、集団主義、付和雷同・・・そういう倫理的な質に関する踏み込んだ批判もやはりなされなかった。「一億層懺悔」というのはそういうことですね。「負けたことはわかった。もう逆らわない。だから、もうこれ以上は責めないでくれ」ということです。
 伊丹十三は、そのような戦後日本の精神的堕落を前にして、「誰もその仕事をする気がないなら、オレがやろう」と思った。僕はそんな気がするんです。大日本帝国敗戦の総括を単身で行おうとした。どのような日本人の国民性格の脆さが敗戦を導いたのか、それをどう補正すれば「次は負けない」ような日本を再建できるのか。それを誰も考えようとしないなら、オレがひとりで考える。伊丹十三はそう思ったのではないか。

この世代を代表する知識人として、僕はさきほど吉本隆明、江藤淳の名を挙げました。ここに伊丹十三を加えて一つのグループに入れて論じた人は、これまでにたぶんいなかったと思います。でも、僕はこの三人はひとつのカテゴリーに入れることができると思う。彼らの共通点は「誰もやらないなら、オレがやる」です。それも、何をやるかというと、「日本をまともな国にする」という仕事です。
「この国を、そこに住む人間が誇るに足るような国にする」。それは決して経済成長して、国民一人あたり所得を増やすということではないし、もちろん軍事力を増強することでもありません。「人間の質を高めていく」ことです。言葉が抽象的にすぎますけども、「人間かくあるべし」「人間、こういうことをしてはいけない」ということについて、厳しく、徹底的に、執拗な、呵責ない批判を加えていく。そういう仕事をしたという点で、この三人には深いところで共通点があるように僕には思われます。
『ヨーロッパ退屈日記』の行間のそこここに、数頁に一度くらいの頻度で、日本のすばらしいところについて言及した文章がある。日本の食文化についての言及の場合もあるし、日本の着物のことについてのこともあるし、日本人の美意識についてのこともありますし、あるいは廉潔さですとか、潔さ、高貴さ、あるいは優しさ、長幼の序ですとか、そういった、かなり古めかしい倫理について言及している箇所が思いがけなく多い。ほとんどの方は多分、「アル・デンテ」とか「ジャギュア」とか、そちらの方の文章に引っ張られてお読みになったんじゃないかと思います。非常におしゃれなことが書いてある。でも、これはカタログ的なもの、旅自慢的なことが書いてあるわけじゃない。その行間に、「ヨーロッパの文化の中の、何を称えているのか」を読まなければならない。

『ヨーロッパ退屈日記』を通じて伊丹十三が高く評価しているのは、ひとつは、ヨーロッパ人の自国の文化に対する誇りです。自分の国の美しいものに対して全身で守ろうとする気概、これを繰り返し称えている。
それは第一には、「クラフトマンシップ(職人芸)」というかたちで示される。これがこの本ではいちばん多いですね。すばらしい鞄や靴やカメラや洋服を作る、腕のよいアルチザンたちの仕事の質に対して、伊丹十三は素直な敬意を示します。この職人たちの仕事の質を担保しているのは、社会全体の「質の高いものに対する敬意」ですね。社会そのもののうちに、質の高い手仕事に対する敬意が根づいている。そして、そのような技芸を守り抜こうという高い職業意識を持った人々がいる。そのようなクラフトマンシップと、それを守っている文化に対する伊丹十三の真率な敬意、それは行間にあらわれている。
高度消費文化の中で現れてきたカタログ的情報は、商品をもっぱら記号としてとらえました。自分の流行感度の高さとか、エッジの立ったセンスの良さを誇示するために人々は血眼になって商品を選択する。でも、『ヨーロッパ退屈日記』における「もの」の紹介は、そうではありません。伊丹十三が評価するのは、自分たちが国民的に共有している文化、父祖から伝えられてきた伝統的な技芸に対する忠誠心と敬意です。そういうものに触れると伊丹十三の筆は震えるわけです。そして、それが必ず返す刀のように「なぜ、日本人はこれができないんだ」といううめきに近い言葉で出てくる。

そこで、最初に僕が振ったテーマに戻ります。「なぜ伊丹十三についての包括的な、全体的な論というものが成り立たないのか?」
エッセイについてであったり、あるいはデッサンについてであったり、映画作品についてであったり、タイポグラフィについてであったり、個別的な彼の仕事に関しては、きちんとした批評の言葉が存在します。彼の仕事がきわめて質の高いものであり、それまでの常識を打ち破った大胆なものであるということは、繰り返し言及されています。でも、その全てに通底している、伊丹十三の根本的な趨向性というか志向性、「伊丹十三はどこに向かおうとしているのか」ということについて問うた人はあまりいない。でも、僕は彼がめざしていたのは、思いがけなく素朴なもののような気がするんです。「日本の伝統的なものの中の、質の高いものに対して繰り返し敬意を表する」ということ。それではないかと思います。
日本に限らず世界のどの社会についても、そこで「人々が守ろうとしているもの」、父祖から受け継いできた伝承や技芸に対する配慮と敬意。そういうものを政治や市場に委ねない決意。それは自分たちの共同体の「宝」なのだから、無言で引き継いでいかなければならない。そういう強い志を僕は伊丹十三の文章から感じます。
だから、彼が最も深く憎むものというのは、惰弱さ、自己規律のなさ、欲望や怠慢や無能にずるずると譲歩してしまう人間的弱さではないかと思います。とくに「貧乏くささ」。「貧乏くさい」というのは「貧乏」とは違います。「貧乏」というのは端的にひとつの状態ですが、「貧乏くさい」というのは、その状態をごまかそう、それを隠蔽しようとして、まるで貧乏ではないかのようにふるまうのだが、その「貧乏を隠そうとする作為」のひとつひとつがかえって貧しさを露呈してしまう。そういうありさまを言います。それこそが戦後日本人の最悪の部分だと伊丹十三は思っている。それについて書かれた箇所は無数にあるわけですが、とりあえず代表的なところを一つだけ選んでみます。

「わたくしは、過去に、随分貧乏してきたから、貧乏というものは嫌いである。貧乏そのものは何とも思わないが、貧困に由来するもの、つまり『貧ゆえの』という感じがやり切れない。
地下鉄などという愚劣なものには、一生乗りたくない。国電もいやだ。タクシーさえも大嫌いである。折り畳み式の蝙蝠(こうもり)傘、和式便所の蓋、電話の呼び出し、熱海へ一泊旅行に出かけた隣の小母さんから、小田原かまぼこの御土産を貰うこと、プラスチックの麻雀牌、こういうもの一切がわたくしは大嫌いだ。(・・・)
靴を磨くための天鵞絨のきれなんかポケットにしのばせている。折り畳みブラシなんか持っている。そうして会社の退けどきなぞ、チャッチャッと馴れ切った手つきで、器用に靴を磨くのである。
犬というとスピッツを飼う。弗入れ、というのか、鞣し革を二つ折りにして、真中にクリップをつけている。(・・・)車を持っていない筈だのに、あるいはダットサンに乗っている筈だったのに、どういうわけか、ベンツのマークのネクタイ留めをしている。」(142-147頁)

こういったありようを総称して、伊丹十三は「ミドル・クラス」と呼ぶことを提案しています。

「ミドル・クラスとは、即ち中産家庭である。小金がありながら、趣味低俗である。本当の贅沢を知らないという点では、われわれ、その日暮らしの貧乏人に劣るのである。犠牲を払わずに贅沢をしようとするから、贅沢の処理が何とも中流でミミッチクなってしまう。」(145頁)

貧しいことは恥ずかしくない。恥ずかしいのは貧しいことを隠そうとすることである。言葉を換えれば、敗戦国民であることは恥ずかしいことではない。恥ずかしいのは敗戦国民であることを隠そうとすることである、ということになります。敗戦国であり、それゆえ国防についても外交についても安全保障についても主権国家としてのフリーハンドを持たない日本が、にもかかわらず英米仏露中と対等の独立国・主権国家であるような顔をするから、「何ともミミッチクなってしまう」。伊丹十三はそう言いたかったのではないでしょうか。
今、2011年のこの時点に、もし伊丹十三氏が生きていたら、日本の現況に対してどんなコメントをするだろう、と僕は時々考えます。今日も考えました。たとえば、先の大阪ダブル選挙の帰結について、「伊丹さんコメントしてください」って聞いてみた場合に、どんなことを彼は語るだろう…たぶん、吐き捨てるように「貧乏くさい選択だね」というコメントを下しただろうと思います。
人間が、自分自身の弱さや非力、無能を認めること、それは必要なことなんです。そこからしか始まらない。でも、そこに安住してしまって、そのポジションから、「私はこんなに苦しんでいる」とか「私はこんなに差別されている」とか「私はこんなに弱い」ということをアピールして、「誰か悪いやつがいるに違いない」、「何とかしてくれ」と泣訴するのは恥ずかしい。だが、「社会を何とか変えて欲しい」というコメントを有権者たちが平然と口にし、それをメディアが無批判に流す。ここはあなたたちの自分の国ではないのか。ひどい国だと思うなら、自分で何とかしようとするのが国民ではないのか。「私はこのひどい社会の、ひどいルールのせいで、ひどい目に遭っている。誰か、私に代って何とかして欲しい」というのは大人の市民の言いぐさではあるまい。たぶん、伊丹さんならそう言うと思います。「一体、男の誇りはどこにあるのか。男ならやせ我慢で押し通すべきではないか。忍の一字、これがダンディズムというものではないか。」(148頁)と言うのではないでしょうか。
今ご存命であれば、「日本人はここまで誇りをなくしたのか」と深いため息をつくだろうと僕は想像します。なぜ、伊丹十三の論が立てられないのかというと、それが大きな理由であるような気がします。

つまり、日本人全体が、日本列島の一億三千万人全体が劣化してるから。今の日本は、社会システムとしても、そこに住んでいる人間たちの質そのものも、ゆっくり地盤が沈下するように劣化している。そして、そのことについての痛覚がない。「何とかしなければいけない、もう少し日本人は自分たちの持っている中の、限りある資源の中の残されたものをもう一度磨き上げて、そこを足場にしてもう一回踏ん張んなきゃいけない」というような言葉を誰も口にしない。みんなぼんやり口を開けて、自分自身の非力さ、社会的な無能、あるいは幼児性、そういうことを看板に掲げている。自分はこんなに非力です、こんなに幼児的です、こんなに社会的に訓練されていません、仕事もできません。そういうことを前面に押し出して、「なんで私はこんなになってしまったのでしょう。誰か、何とかしてください。ひどいじゃないですか、こんな目に遭わせて。」そういう語り口をする人々が現におり、それを誰も「おかしい」と言わない。弱者の泣訴をそのまま「正義の訴え」としてメディアは報道する。黙って、やせ我慢で、苦難に耐えて、社会を支える仕事をしている人間をメディアは組織的に無視する。泣き声を上げる人間の言葉だけが報道される。
今の日本では、幼児的である人間に向かって「君は幼児的だ」って言うことは批判として成立しないんです。「子供でなんで悪い!」と言う言葉が通る社会になっている。
 戦後ずっとそうなんです。60年代から伊丹十三はそういう流れに気づいていた。そして、それをなんとか食い止めようとした。伊丹さんが、エッセイやテレビ番組やCMや雑誌や映画つくりなどさまざまな活動を通じてしようとしていたのは「日本人全体を教化する」という企てではなかったかと思うのです。
エッセイのいくつかをお読みになれば気がつくと思うんですけど、伊丹十三の文章はまっすぐ読者に向かって「みなさん」と呼びかけていますね。主題はさまざまで、場合によっては、ずいぶん趣味的なことであることもあります。でも、自分の言いたいことを読者は必ずや理解できるはずであるという前提で書かれている。読者の知性に対する敬意が前提されている。日本人なら私の言いたいことがわかってくれるはずだという祈りのようなものが込められている。
『ヨーロッパ退屈日記』に貫流しているメッセージは、「日本人よ、誇れるものは誇り、恥ずべきことは恥じよ」という、ごくまっとうなものだと僕は思います。でも、今の日本には、この「まっとうな戦中派の大人」から告げられる言葉を受け止める素地が存在しない。だから、伊丹十三についての論が立てられない。
僕たちの社会全体が、知性的にも感性的にも倫理的にもゆっくり劣化している。だから、彼の文章を読んでいても、この社会的趨勢そのものに対する批判を読み込むことがあまりに苦痛なので、それは読まない。その代わりに、伊丹十三の趣味のよさであるとか、批評の切れ味といったところを、あたかも完成度の高い美術品のように玩味しようとする。でも、行間から染み出してくるメッセージはそのような審美的なレベルのものではないと僕は思います。もっとずっと実存的に、われわれが襟を正し、膝を揃えて座ることを求めているように僕には思われます。

僕は、今回、この講演のために何冊かのエッセイ、とくに『ヨーロッパ退屈日記』を付箋を貼りながら繰り返し読みました。その中の、国民倫理にかかわる箇所に全部付箋を貼ったら、とんでもない箇所になりました。昔読んでいたときには一体何を読んでいたんだろうと反省しました。
ですから、伊丹十三が受けてきたさまざまな誤解、あるいはレッテル貼り、過小評価とは送り手である彼の側の問題というよりはむしろ、彼が発信しようとしていたきわめてシンプルなメッセージを受け止めることをわれわれ自身が拒否していることの結果ではないかと思います。
 もちろん、「日本人よ何とかしろ!」ということを道学者めいて上から目線で怒鳴り散らすような、偉そうな人たちはたくさんいます、でも、そういう説教をたれる人たちの生き方を僕たちがロールモデルにするということはありません。
僕が伊丹十三に感じる一番大きな魅力は、意外に思われるかも知れませんが、彼の「勇気」です。彼は孤立することを恐れていない。さらに言えば、理解されないということを恐れていない。
実際に、非常に多くの敵と伊丹十三は闘った。たとえば、暴力団との闘いにおいては、彼は実際に重傷を負いました。これを一映画監督が遭遇した不幸なエピソードというふうにおそらく日本のほとんどのメディアは総括したがっていると思います。でも、これは違いますよね、やはり。彼は絶対に踏み込んではいけないエリアに踏み込んだ。宗教とかヤクザとか闇社会とかとか。そういうところにまっすぐ踏み込む市民というのは、ふつうはいないわけですよね。怖いから。それだけのリスクを冒すような話じゃないと思っている。そういうところのコントロールは「プロ」に任せておけばいいと思っている。でも、伊丹さんという人は、そういうことに対して、恐れてはいけないと思っている。日本社会をまともなものにしようと思ったら、ふつうの市民が勇気を持たなきゃいけないと考える。
その勇気というのは、蛮勇ではありません。もちろん、権力があるとか、情報があるとか、あるいは有力な筋にコネクションがあるとかいうことではない。逆です。「孤立して、誰も支援がないというところでも、なすべき仕事は果たさなければならない」という覚悟のことです。僕はここに武士的なエートスに近いものを感じるんです。
あまりにご本人が洒脱で、そして、ある種の韜晦(とうかい)癖もあったということもあって、彼の気質の根本のところにある、禁欲的で、謙抑的で、朴訥な気構えはうまく伝えっていないのではないかという気がします。
だからこそ、今、文章を書いてる人も、映像を作ってる人も、芝居をやっている人も、伊丹十三を前にすると、自分自身にあれだけの勇気があるのか自己点検すると、つい恥じ入ってしまう。それを「威圧感」と言うのは違うと思うんです。でも、あの端正なたたずまいが、孤立を恐れずにすっくと立っている姿が、われわれの舌を凍えさせて、彼について語ることを妨げているんじゃないか、そういう気がします。
 ですから、僕は、日本人が伊丹十三について、のびのびと、的確に語れるようになるということが、われわれの知的な、あるいは情緒的な成熟の賭け金であるという気がするんです。われわれが十分に知性的、感性的に成熟しない限り、伊丹十三が成し遂げようとしていたことはわからない。個別的な作品の良否について語ることはできるでしょうけれども、その全部を通じて日本人に向かって何を告げようとしていたのかっていうことはわからない。それをわれわれがきちんと受け止めて、われわれ自身のことばに置き換えていく作業は、しばらくは困難であろうという気がいたします。

僕は、大江健三郎の小説を介して彼の名前を知ったときから、実際に彼の書いたものを読んだ20代のときからずっと、伊丹十三に惹かれてきました。ほかのさまざまなクリエイターや作家については、「ここが好きです」、「こういう影響を受けました」ということがある程度言えるんですが、伊丹十三に関してはずっと言えなかったし、今もうまく言えません。
「憧れている」のは確かです。でも、どこにどう「憧れている」のかは、よく分からない。それは、英語ができて、国際的なスターとしてハリウッドに進出したからとか、スパゲッティの食べ方を教えてくれたから、スポーツカーの運転の仕方を教えてくれたからとか、そういうレベルのことではない。そのたたずまいそのものの中に非常に純粋なものがある。高貴なものがある。そういう気がします。
たぶん今の日本人が一番評価できないのは、人間の高貴さだと思います。「ノーブルである」という形容詞を僕たちはもうほとんど使いません。現代日本人が人を誉めるときに絶対に使わないような形容詞を持つ人物を、われわれはどうやって形容したらいいのか。
伊丹十三という人を見ると、僕は、「ノブレスの受難」というものを感じます。「デリカシーの受難」とか「善良なるものの受難」という言葉は僕らにもすぐに理解できます。それを主題にした物語もたくさんあります。われわれはそれには慣れています。でも、「高貴な魂を持った人の受難」というのは、われわれは見慣れていない。少なくとも、現実生活において、高貴な人物がその魂の高貴さゆえに受難するなどという話は、ほとんど見聞きすることがありません。だから、そういった事例から何かを学ぼうという意欲も僕たちはもう持っていない。でも、その、われわれが今失いつつある人間的なある種の範例を、この人は体現していたのではないかと思います。

今、この年になってきて、40年間にわたってその著作を愛し、映画を見てきた人について、改めて、この人のどこに惹かれたのかといえば、それは一言で言えば、「孤立することを恐れない」ということだったと思います。
でも、彼が孤立を恐れないでいられたのは、彼の勇気を支え、担保していたものは、実はごく一般的な価値であったからです。何も特殊なモラルや、例外的な人間的純良さを当てにしていたわけではない。「人間は自己を律する規範を持たねばならぬ」、「人間は自分の弱さを許してはならない」、そういう当たり前のことを当たり前に実践していた。

僕は「境界を守る人」という言い方をするんですが、われわれの世界が人間的世界として成立するためには、人間的世界とその外側にある「非人間的な領域」を切り分けている境界線を守る人がいる。そういう人がいなければならない。
「非人間的な領域」からは、人間を汚し、損ない、傷つけるものが侵入してきます。それは邪悪なもの、暴力的なものという場合もありますし、あるいは、村上春樹が描く「リトル・ピープル」のようなせこい悪意や、見苦しい弱さというかたちを取るときもある。さまざまな形象をまとって、非人間的なものはわれわれの世界に入り込んでくる。それを境界線の向こうに押し戻す。誰かがその仕事を引き受けなければならない。
弱さとか、憎しみとか、嫉妬とかは、人間的なものだというふうにみなさんは思ってるかもしれません。でも、僕はそれは違うと思う。これは、人間世界に侵入してきた「非人間的なもの」と人間的なものが出会って出来たアマルガムのようなものだと僕は思っています。そういう中間的な合成物を通じて、「非人間的なもの」は人間たちの世界に侵襲してうる。邪悪さや嫉妬や暴力や怠惰、あるいは自己憐憫、自己規律の弱さ、そういったものは、そこを通じて「非人間的なもの」が滲入してくる回路なんです。
だから、いろんな姿をした人たちが、いろいろな名前を名乗って、境界線で歩哨の役をしている。僕は「歩哨(センチネル)」と読んでいますけれど、門番と呼んでもいい。サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のように「キャッチャー」と呼んでもいい。
「ライ麦畑のキャッチャー」はライ麦畑で遊んでいる子供たちの誰かが間違えて崖から落ちないように、崖っぷちで待ちかまえていて、子供が走ってきたら、ぱっとキャッチして、元に戻してあげる。「そういうキャッチャーのような人間に私はなりたい」とホールデン・コーフィールド君は言うわけですが、そのキャッチャーもまた歩哨の一種だと思います。


 人間的な社会は自然的に存在するものではありません。人間たちの不断の、真剣な努力があってはじめて、かろうじて成立している。「境界を守る人」たちは、そこに立って、人間社会を崩壊させかねない要素の侵入を食い止めています。でも、それは孤独な仕事なんです。そもそも誰かに依頼されて始めた仕事ではない。誰に命じられるわけでもなく、ひとりで思いついて、ひとりでやっている。その仕事のたいせつさは余人には理解されないし、だから尊敬されることもない。彼らが現に救っている人たちでさえ、自分が境界線の守り手たちのおかげで、安穏と生きていられることを知らない。
そういうかたちで人間的秩序を守ってる人間に対しては、われわれは、少なくとも、ときどきはその背中に向かって手を合わせるぐらいのことはしてもいいんじゃないでしょうか。
今の日本社会からは、「境界線を守る人」がしだいに減っています。もちろん、今でも必死になって崩壊しかけた戦線を守っている人はいます。その人たちの無言の、無償の働きがあるおかげで、われわれの社会はそれでもまだ秩序を保っているし、それなりに住むに堪える場所であり得ています。でも、このあとも、境界線を守る人を一定数、安定的に供給してゆかないと、この状況はもう長くは続かない。境界を守る人の数が減るにつれて、われわれの世界には、非人間的なものがどんどん日常生活の中にまで侵入してくる。
それらがあまりに日常的なかたちを取っているので、見た目は分かりにくいでしょうけども、たとえば、ネットに渦巻く呪いの言葉、政治を語る言説にあふれている攻撃性、他人に対する嫉妬や羨望。そういうものがごく日常的で、ごく人間的な感情でもあるかのような仮装をまとって、日常世界を侵犯している。
ですから、村上春樹が『1Q84』で書いていることと、伊丹十三が『ヨーロッパ退屈日記』で書いていることとは、実は、本質的には同じことじゃないかという気がするんです。人間が住んでいる人間的な世界を人間が守るためには、誰かが境界線に立って、侵入してくるものを押しとどめなければいけない。その仕事は「私がやります」と言って立ち上がる人間にしかできない。誰も求めないし、誰も命じない、誰も理解しないし、誰も感謝しない。それでもいいと思った人が引き受けるしかない。伊丹十三は、そういう仕事を引き受けた稀有な人のひとりではないかと思います。

だいぶ説教臭い話になりました。1000人の人を前にしてお話しする機会なんてなかなか与えられないので、言いたいことを言わせていただきました。わかりにくい話だったかも知れませんが、僕が今話したことは、「ほんとうにそう思っていること」をお話ししたのです。
ここにいる方々の中にも、「境界線を守る」ことを自らの仕事として引き受けて、黙々と働いていらっしゃる方がおられると思います。おそらく、評価されることも、社会的な支援を受けることもないでしょうけれども、どうぞ、その仕事をがんばってくださいてやり遂げてください。そして、この仕事には、伊丹十三という誇るべき先駆者がいるということを、記憶しておきましょう。
どうもご静聴ありがとうございました。

2012.07.13

いじめについての続き

ある媒体で、「いじめ」についてコメントした。それは昨日のブログに書いた通り。
それについて追加質問が来たので、これも追記として書き留めておく。

Q: 学校という場は社会の雰囲気とは切り離されたものではなく、一定程度の影響を受けていると思います。現実に、リストラが激しくなる一方ですし、1分1秒ごとに自己成長を求められる息苦しい世界になりました。この状況にあって、学校だけを過度な競争社会から切り離してある種のユートピアにすることは可能なのか、それとも競争を是とする今の社会を根底から変えない限り、社会に蔓延するいじめ体質はなくならないのか。この点はどう思われるでしょうか。

A: 学校は本来は苛烈な実社会から「子供を守る」ことを本務とするものです。それは学校というものの歴史的発生から明らかだと思います。
ヨーロッパで近代の学校教育を担った主体のひとつは、イエズス会ですけれど、それは「親の暴力から子供を守る」ためでした。当時のヨーロッパで子供たちは親の所有物とみなされており、幼年期から過酷な労働を強いられ、恣意的な暴力にさらされておりました。イエズス会は「神の前での人間の平等」という原理に基づいて、「親には子供を殺す権利はない」としたのです。

学校の歴史的使命は、何よりもまず「子供を大人たちの暴力から守る」ことでした。それは今も変わりません。

子供を幼児期から実社会の剥き出しのエゴイズムの中に投じると、どのように悲惨な結果を生じるかは、マルクスの『資本論』の中の19世紀イギリスの児童労働についてのレポートを読むとよくわかります。

子供を心身ともに健全に育て、強者からの暴力や収奪から自分を守ることができるだけの力をつけさせるためには、彼らを一時的に世俗から切り離し、一種の「温室」に隔離することが必要だったのです。

学校に弱肉強食の競争原理を持ち込んで、「子供の頃から実社会の現実を学ばせた方がいい」としたりげに言う人々は、その考えが学校教育の本質の一部を否定しているということを自覚していません。

質問に対するお答えは、ですから「学校に競争原理を導入すべきではない」というものです。最優先するのは、「子供を暴力と収奪から守る」ということです。

「いじめ」は学校に滲入してきた「外の原理」です。
学校で子供がまず学ぶべきことは、相互支援と共生の原理です。
でも、今学校では、何よりもまずその原理を教えていると胸を張って言える教師が何人いるでしょう。
「きれいごとを言うな。社会はそんな甘いものじゃない」と言う人がいるかも知れません。その人には、毎年200人の子供が学校でのことを苦にして自殺しているという事実を「甘い」と言えるかどうか、本気で考えて欲しいと思います。

Q:また、学校の役割が市民的成熟を支援するための組織である、よき市民を生み出すための組織であるという点については全面的にその通りだと思います。ただ、戦後の教育を見た時、そういった市民的成熟の培地だった期間が本当にあったのか、と考えると、よく分からない面があります。私自身、昭和50年代後半~平成初期にかけて学生生活を送っているので、そう感じているだけかもしれませんが・・・。学校や教育委員会は次世代育成という重大な役割をなぜ忘れたのでしょうか。

A:学校が次世代の成熟した市民を育成するための場であるということを人々が忘れたのは、戦後67年日本が例外的に豊かで平和な時代を享受できたせいです。
豊かで平和な時代が続けば、社会の成員たちは共同体を維持するために身銭を切るという仕事を免ぜられます。そういう公共的な仕事は税金を払っておけば行政がやってくれる。個人はただ自己利益の追求と、「自分探し」とか自己実現とかいうことに専念していればいい。
だから、日本から「大人」がいなくなったのは、平和のコストだと私は思っています。
でも、あまりに長く続いた平和と繁栄のせいで、ついに日本社会から「大人」らしい大人がほとんどいなくなってしまいました。自分のことしか考えない幼児的な市民ばかりになってしまった。
自己利益よりも公共の福利を優先的に配慮する「大人」が一定数いなければ、社会は保ちません。
今の日本のすべての制度劣化は「大人がいなくなった」ためだと私は思っています。
でも、今のような危機的状況が続けば、どこかで誰に言われなくても、「せめて私だけでも大人にならなければならない」と思う若者たちが散発的に出てくるはずです。

それは自分のまわりで「いじめ」が行われたときに、黙って立ち上がって「やめなさい。それは人間として恥ずかしいふるまいだ」と言えるよう若者というかたちで現れるはずです。(そのような若者は年齢がどうであれ、もう「子供」ではありません。それは「青年」と呼ぶべき存在だろうと思います)。

そのような若者たちを支援する体制がいまの学校には存在しませんし、教育行政もそのような若者の育成には一片の関心も持ちません(彼らが欲しがっているのは、「グローバル人材」のような「能力が高くて、賃金の安い、規格化された労働者」だけです)。

子供が大人になることを、この社会では誰も求めていないのです。

そんな社会で、有形無形の無数の抑圧をはじきかえして、「やめなさい。それは人間として恥ずかしいことだ」ときっぱり言えるためには、どれほどの勇気と決断が要るか。

学校の教員や教委を「いじめる」暇があったら、そういう若者たちの登場をどうやったら支援できるのか、私たちはそれについて考えることに限られた資源を投じるべきではないのでしょうか。


プレス民主でのインタビュー

半月ほど前に、東京で「プレス民主」(民主党の機関誌)のインタビューを受けた。「窓」というコーナーで、党外の人に広報委員長の有田芳生さんがインタビューするという趣向のもの。
たぶんあまり一般読者の目にとまるチャンスのない媒体だと思うし、長すぎたので一部削除されていたので、ここにオリジナルヴァージョンを再録しておく。


「民主党への建設的提言 各界識者に聞く」 最終回 今求められているのは国の統治機構について率直に言えるリーダー
(聞き手 有田芳生 参院議員)

――民主党への建設的提言ということですが、今朝ツイッターで「今や、民主党に言いたいことはない」と書かれていました。まずはその理由からお聞かせください。

内田 2009年の政権交代後の鳩山さんの最初のスピーチを聞いたときは非常に期待しました。「これまでとまったく違う政治になる」「時代は変わる」と。
しかし、沖縄の普天間基地問題をめぐり、メディアは総理の「迷走」を激しく非難して、結局鳩山さんは政権から引きずり下ろされました。僕はどうして基地問題で「できれば国外」という要求をしたことがこれほど同国人から批判されなければならないのか最後まで理由がわかりませんでした。そのあたりから民主党という政党が何をしたいのかが分からなくなってきた。
その後発足した菅政権は当初60%を超える支持率でした。これはおかしいと僕は思いました。菅さんは鳩山内閣の副総理であり主要閣僚だった人です。前総理に致命的な失政があったのだとすれば、副総理だった人にも当然政治責任は及ぶはずです。まったく責任がないというのであれば、彼は副総理だったときに内閣の重要決定にまったく関与せず、政策的影響力を行使しなかったということになる。そういう人は「政治的に無能」と判断するのがふつうではないのですか。だから、その人を次の総理に据えるという党内のロジックがよく理解できなかったし、その人に前任者の3倍の支持率を与えた世論も理解できなかった。

――新しい政治への期待が、普天間基地問題をめぐる「迷走」というあたりから分からなくなったということですが、それは原理的にはなぜだと思われますか。

内田 「迷走」とは、外から見るとやっていることに一貫性がないように見えるということです。当然ながら、鳩山さんにしても、そのつど主観的には合理的な根拠に基づいて政治判断をしているに決まっている。
でも、「何を根拠に政策を変えたのか」を言うことができない場合があります。
安全保障に関する重要な情報は開示してはならない決まりです。一国の総理、国防の最高責任者として、首相に就任した段階で、それまで知らなかった核抑止力にかかわる機密を鳩山さんはたぶん知らされたのだと思います。それによって沖縄の基地についての要求を変えざるを得なくなった。それをまるで思いつきで政策を変えたかのようにメディアは報道しました。そのときに僕はメディアに対してつよい不信感を持ちました。一国の総理大臣の行動が外形的に不整合的に見えた場合にも、その人自身は主観的には合理的にふるまっているという仮説を立てて、その上で「彼はどんな情報を知らされて、政策判断を変えたのか?」を推察すべきではないのですか。

――それは今でも変わっていないどころか、ますますひどくなっている状況です。

内田 そうだと思います。安全保障やデリケートな外交交渉に関する情報はそうそう簡単には国民に開示できない。でも、消費増税や大飯原発の再稼働問題などは、「国民生活を守る」という抽象的な言葉ではなく、なぜこうした政策判断に至ったのかに関して、きちんとデータを挙げ、資料と整えて、合理的な説明をすることができたはずです。
歴史的状況が変わるごとに政策が転換されるのは当然のことです。誰もそれを責めているわけではない。でも、当初に掲げた政策が不適切として下ろされた場合には、その理由を説明してもらわなければ、国民は意味がわからない。為政者には自分の「豹変」について説明する義務があります。
僕は、政権交代によって政策決定のこのわかりにくプロセスそのものが透明化して、「わかりやすい政治」になるのでは、という期待を当初は持っていました。でも、結局、民主党内閣でそれは実現しなかった。それが一番期待を裏切られたことですね。

――同時に、政権交代をしたときには「政治主導」の政治の実現がうたわれました。

内田 今となっては、政治主導というアイディアが未熟でしたね。
霞が関に切り込んで行くというのはいいけれど、そのときに「日本の官僚はダメだ、腐っている」という情緒的な言葉で官僚のマイナス・イメージをばらまいた。短期的には、それで官僚の勢いを殺ぐことはできたでしょうが、結果的には、国民のなかに日本の行政組織全体に対する不信感を広げてしまった。官僚たちも「そこまで言われるなら」ということになり、オーバーアチーブする動機づけが失われてしまった。
政治主導という発想そのものは悪くはないんです。でも、その場合でも、政治家は、大所高所から、長期的な国益を図っておおざっぱな政策を提言し、官僚はそのヴィジョンを実現するための具体的で細密な手順を整えるという、お互いに敬意を持ち合う「分業」であるべきだったと思います。

――政治主導を掲げながらうまくいっていない民主党に至って、政党とはそもそもどういうものだとお考えですか

内田 政党というのは本来はまず政治綱領があり、それに賛同する人たちが集まって組織されるものだと思います。でも、いったん組織が動き出した後は、創設時点では想定しなかった状況の変化、新しい情報に遭遇することになる。だから、結党時の綱領を墨守するだけでは生き残れない。状況に対して開放的であることが求められます。
たしかに、民主党は変化に対して、フレキシブルに対応するという点では、なかなか開かれた政党だったと思います。でも、野田内閣の消費増税や大飯再稼働を見ると、綱領への義理立てがあまりに緩くて、野党との政党的な差異がもうわからない。自民党と政策が違わないなら、政権交代は何のためのものだったのか。
民主党は旧田中派の流れ、自民党は旧福田派の流れ。かつての「角福戦争」の路線対立がそのまま二大政党になったというのが僕の理解です。
旧福田派は新自由主義的な「選択と集中」、都市とエリートへの資源集中による国際競争力の向上、外交的には日米同盟基軸。それに対して田中派は、まず都市と地方の格差解消、地方分権、一億総中流、外交は対米自立。鄧小平と毛沢東くらいに立場の違う派閥が同一党内にあることでかつての自民党はエネルギーを得ていたわけですけれど、それが最終的に二極分解して自民党と民主党になった。これは原理的な対立ですから、それぞれが日本の政党政治における両極を形成すべきだと思います。

――かつてマックス・ヴェーバーが政治家に求められる資質について論じましたが、内田さん的理想の政治家像とはどういうものですか。

内田 政治家、官僚にはそれぞれ役割分担があると思います。国家百年の計という「大きな話」をするのが政治家の仕事。机上の空論でもいいからあるべき国家像を語るのが政治家の本来の仕事だと思います。官僚はいたずらに天下国家を論じるべきではない。どういう国にしたいのかについての国民的合意ができたことについて、それを効率的に物質化してゆく。それが官僚の仕事でしょう。政治家には、多少青臭くても理想論を語り続ける、骨の太さが必要だし、官僚には、その夢に冷水を浴びせて、クールダウンさせつつ、できることから順番に実現してゆく職人的なリアリズムが必要だと思います。

――ツイッターで1970年代のある政治活動家の話を書かれていましたが、60年代でいうと佐藤栄作さん、春日一幸さん、宮本顕治さんとイデオロギーは違っても、ものすごく大づかみの人間の粒はあった記憶があります。それが崩れていったのは日本社会の変貌によるものでしょうか。

内田 今おっしゃったような戦中派政治家は激動の時代を生き延びてきたわけですから、人間を見る眼が違うでしょう。胆力があるし、統率力や包容力がある。実現したい国家像についてはおおざっぱな、でも身体化したイメージを持っているから、個々の政策に関してはいくらでも妥協する。
でも、僕らの世代はもう戦争も飢餓も経験がない。本当の意味で危機的状況を生き延びたということはありません。それは、危機を乗り越えるためにはどのような人間的資質が必要なのかがわからなくなっているということです。
危機に強い人間というのは、要するに、器の大きい人間です。懐が深く、腹がすわっている。でも、平和と繁栄が67年続いて、僕らの世代では人間がぐっと小粒になってしまった。これはしかたがない。平和と繁栄の代償なんですから。いずれ危機の時代になれば、また人間は大柄になります。そうしないと生き残れませんからね。そういう意味で言うと、政治も経済も行政も教育も、社会の根幹のシステムがここまで劣化してくると、大柄な人間が登場してくるだろうと僕は思っています。

――今後の政治的プロセスをどう思われますか。「国民は深い憂鬱(ゆううつ)に沈むだろう」と書かれていました。

内田 あと3カ月で民主党代表選挙ですが、9月の段階で民主党、自民党の増税推進、原発再稼働派が連合し、鳩山さん、小沢さんの旧田中派系が分裂するのではないかと予測しています。第3極として大阪・維新の会が加わる。そういう「三すくみ」の構図になるのではないでしょうか。
そのとき、有権者が選挙で関与できず、水面下での裏交渉で次のリーダーが決まっていくのはあまり愉快ではありません。
総選挙を行うのであれば、最大の争点は、原発推進か脱原発になると思います。
最優先の国民的課題は復興支援と事故処理なのか、それともグローバル企業の国際競争力の向上なのか。それを明確な争点にして国民の信を問うべきです。国民はそれを望んでいます。

――今求められるリーダー像はなんだと考えられますか。

内田 鳩山さんの最大の誤算はアメリカの日本に対する影響力の強さを見誤ったことでしょう。鳩山さんは、日本はアメリカに軍事的に従属しているので、主権国家であれば当然要求できることさえ要求できない立場にある、とはっきり言うべきだったと思います。日本は敗戦国であり、国土を外国軍に長期的に占拠されており、国防や外交について自己決定できる主権国家ではないのだ、ということを明言すべきでした。
今の日本の統治者に必要なことは、「ほんとうのこと」を言うということです。そこからしか始まらない。敗戦国なんだからしかたがないんです。日本は主権国家でない。安全保障、国防・外交に関しては、日本の国益を最優先するという政策選択ができない、と。日本はこうしたいが、アメリカがそれを許さない。だからアメリカに従うしかない、とはっきり言うべきです。敗戦国の屈辱の上にしか国家は再建できません。主権国家でない国が主権国家であるかのように偽装的にふるまうから、政策判断がわかりにくくなるのです。今の日本のリーダーに求められていることは、われわれの国の統治機構について率直に事実を言える人です。

――最後に、民主党はかくあるべしというのを一言でお願いします。

内田 先ほども言いましたが、2大政党制の場合、それぞれの政党の綱領、立ち位置、体質はあまり変えるべきではないと思います。「旧田中派的な政治」の実現、経済成長よりも格差の解消、競争よりも共生をめざすのが民主党に託された政治史的な使命のはずです。まずは格差是正や社会保障の充実。外交面では対米自立、東アジア諸国との協調。そういうはっきりとした旗印を掲げるべきだと思います。旗印がはっきりしていると「選ばれないリスク」を負うことになりますが、そのつどの世論や政局に振り回されて旗印を捨ててしまえば、民主党にもう未来はありません。

2012.07.15

グローバルリスクについて

常磐大学のこども教育学科の新設記念の記念講演で、学校教育とグローバルリスクについて話してきたら、翌朝の毎日新聞に西水恵美子さん(元世界銀行副総裁)がグローバルリスクについて書いていた。
西水さんはブータンが人口70万の小国であり、かつ多民族・多言語国家でありながら、よくその国民的統合を保ち得たのは、先王雷龍四世の国民国家観が堅牢だったからだとみている。
王は1989年の勅令にこう記している。
「国家固有のアイデンティティーを守る以外、独立国家の主権を擁護する術を持たない。富や、武器、軍隊が、国を守ることはできない。(・・・)異邦文明を避け、我らの文明を献身的に責任を持って慣行とせねばならない。」
よく知られた「国民総幸福」(Gross National Happiness)という概念はこの王の提唱したものだが、「文明の持続的発展を国政の中心に置く」ものである。
日本の国民国家としての危機はまさにこの「国家固有のアイデンティティ-」を企業収益の増大のために、ほとんど捨て値で売り払いつつあることによる、というのが西水の診断である。
「日本にはその逆、政治と経済の低迷に後押しされる人材流出が国家経済を空洞化するリスクがある。(・・・)この数年来、スーパーシチズンという呼び名の国籍を超越する中産階級が、世界中で増えている。人作りが国作りではなくなる21世紀のグローバルリスクだ。その到来にわが国の政治家は気づいている様子はない。」(毎日新聞、7月15日)
私が昨日の講演で日本の「グローバルリスクへの無自覚」の典拠として引いたのは「産学官連携によるグローバル人材育成推進に関する当面の考え方」と「第三回国家戦略会議議事要旨」と「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画の策定について」という三つの政府文書である。どれもネットですぐに検索することができるので、ぜひ時間を作って読んで頂きたい。
例えば、「英語が使える日本人」の前文はこうである。2003年という古い日付のものだが、それだけにグローバルリスクへの「無自覚」があらわに露呈していることがわかる。
「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を越えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。さらに、地球環境問題をはじめ人類が直面する地球的規模の課題の解決に向けて、人類の英知を結集することが求められています。こうした状況の下にあっては、絶えず国際社会を生きるという広い視野とともに、国際的な理解と協調は不可欠となっています。
また、グローバル化は、経済界のみながら個人の様々な営みにまで波及し、個々人が国際的に流通する商品やサービス、国際的な活動に触れ、参画する機会の増大がもたらされているとともに、誰もが世界において活躍できる可能性が広がっています。」
書き写しているだけで気が滅入ってきた。
典型的な官僚的作文だが、官僚的作文はしばしば細かい査定を恐れるあまり、査定者たち(今の場合なら、政治家と財界人)を共軛しているなまぐさい欲望については、これを剥き出しに再現してしまうことがある。
これはその好個の適例である。我慢してもう少し書き写す。
「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々の間をつなぐ国際共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際共通語つぃての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です。」
「その一方で、現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないため、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないという事態も報じています。また、同時に、英語の習得のためには、まず国語で自分の意思を明確に表現する能力を涵養する必要もあります。」
これくらいでよろしいだろう。
この文書は「経済、社会のグローバル化」について書きながら、「政治」については一言の言及もない。
経済のグローバル化が国民国家の先行きにどのような影響を及ぼすことになるのかということについて、国民国家の中央省庁の人間が「何も考えていない」のである。
「国際的な英知の結集」のために必要なのは、英知であって英語ではない。
英語で発言できる人間以外には「英知の結集」参加資格を認められないというルールは「英語を母国語とする話者」に国際社会におけるデシジョンメイカーとしての圧倒的なアドバンテージを認めるということであるが、これは誰が考えてもアンフェアなルールである。
英語が国際共通語になっているのは、イギリス、アメリカという二国がこの200年世界のスーパーパワーとして君臨してきたという歴史的条件がもたらしたもので、彼らが母語を国際共通語にしたがるのは、「母語がそのまま国際共通語である国民」は外国とのビジネスでも国際会議でも国際学会でも圧倒的なアドバンテージを握ることができるからである。
言語は政治である。
そして、英語は覇権をもった言語である。
「覇権言語」を母語とする人間はその事実からできるだけ長期にわたって政治的・経済的・文化的なアドバンテージを取り出そうとする。
そういうものである。
戦勝国の国語が国際共通語になる。
戦勝国民は世界中どこにいっても、Is there anyone who can speak English? といえば用が足りる。誰も返事をしなければ、「けっ、とんでもない未開人の国に来ちまったぜ」とつぶやけよい。
敗戦国や旧植民地の人間たちは、母語の他にもうひとつ英語を学習しなければならない。それに要するすべての時間は「ハンディキャップ」なのである。
今朝の同じ毎日新聞の「余録」には、明治期の留学生たちがどれほど骨身を削って勉強したのかが誇らしげに紹介してあった。
小金井良精(鷗外の義弟)はドイツに留学して医学を学んだ。彼に先んじて三人の留学生がドイツに送られていた。いずれもドイツ人の教授が感嘆するほどの成績を収めたが、一人は体調を崩して学業半ばで帰国、残る二人は卒業はしたが数年を出ずして早世した。
これを「余録」は「明治の留学生の気迫と勉学心」だと称えるが、彼らの命を縮めたのは、「ドイツ語を母語としないためにドイツ人学生よりも圧倒的な不利な条件で勉強することを強いられた」という事実である。
命を縮めることが「当たり前」だと私は思わない。
繰り返しいうが、言語政治というのは、国際共通語を母語とする国民が有利になるようにルールを定めたアンフェアなゲームである。
それが現実なのだから、そこに命を削って参加することは敗戦国民・「後進国」民にとっては不可避の選択である。
だが、それでも「これはアンフェアなゲームだ」ということは歯を食いしばっても言い続ける必要がある。
それを文科省が一言も言わないのは、「敗戦国民は不利なルールでプレイしなければならない」ということがあまりに血肉化してしまったので、それが当たり前だと彼らが思っているからである。
主権国内に外国軍の基地が戦後67年間も常駐していることが「変だ」と思わない感受性の鈍麻とこの英語観は同質のものである。
この文書はグローバル化について語りながら、グローバル化を推し進めている「政治」がどのようなダイナミクスで作動しているのかについて一言も語らない。
語らないのではなく、語れないのである。
それは、この文書を起草した人間が「グローバルな政治についての決定過程にわれわれ日本人はどうせ関与させてもらえないから」という敗戦国民・植民地人の諦観を深く内面化させているからである。
そして、そのビハインドは「日本人の多くが、英語力が十分でないため、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないという事態」から説明されている。
「敗戦国民が戦勝国民の国語をうまく運用できないせいで『制限を受けたり』『適切な評価が得られない』でいるので、敗戦国民はこぞって戦勝国の国語をがんばって勉強しましょう」という植民地マインドそのものが国際社会における侮りを生み出しているのではないかという反省はここにはかけらもない。
もし、日本人が植民地を支配しているときに、現地の政府が「日本語力が十分でないために、日本人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないという事態」を打開するために、「日本語が使える植民地人」育成のための行動計画を起案したら、日本人はどう思うか。それを想像してみてほしい。
きっとにやにや笑うと思う。
「まあ、せいぜいがんばって勉強してくれよ」

長くなったので、他の二つの文書の精査をするのはもうやめるが、いずれも「グローバルな競争」というゲームを「誰かがもう始めてしまった」ので、「オレたちは『バスに乗り遅れない』ために必死になるしかないんだよ」という悲鳴に近いものを私は聴き取った。
「バスに乗り遅れるな」というのは日本人を鼓舞する最も効率的な言葉であるが、そこには「バスの行き先を決めるのも、バスを製造するのも、バスを運転するのも私たちではない」という深い諦観がこびりついている。
人類がどこにゆくのか、その行き先を誰が決めるのかという問題について、それは自分ではないかということについて一瞬も考えたことのない人間だけが「バスに乗り遅れるな」という言葉に絶望的な切迫感を感じるのである。
人口70万人のブータン国王は、「バスの行き先」について個人的なアイディアを語った。それに全世界が耳を傾けている。
「人類の英知」というのは、こういう場合に用いるのである。
「人類の英知を結集する会議」の参加条件を満たすために、まずベルリッツに通うというような発想をする人間には、誰も意見を聴きに来ない。
永遠に。

グローバルリスクがどのように日本の産業を空洞化し、教育を空洞化しているのかについてはまた今度時間のあるときに。

2012.07.18

デインジャーとリスク(しつこい)

ある雑誌にまたまた「デインジャーとリスク」について書いた。
もうその話はいいよという読者も多いと思うけれど再録。


国際関係論では「危険」を「リスク」と「デインジャー」に使い分ける。
リスクというのは「マネージ」したり、「コントロール」したり、「ヘッジ」したりできる危険のことである。デインジャーというのは、そういう手立てがまったく効かない種類の危険のことである。
サッカーの試合で、残り時間5分で1点のビハインドというのはリスクである。サッカースタジアムにゴジラが来襲してきて、人々を踏みつぶし始めるというのはデインジャーである。
デインジャーとはまさかそんなことが起こるとは誰も予測しなかったために、そのためのマニュアルもガイドラインもない事態のことである。

私たちの社会は戦後67年間例外的な平和と繁栄のうちに安んじていた。そのために、リスク対応はできるが、デインジャーに対応するとはどういうことかを考えることをだいぶ前に止めてしまった。
東日本大震災と福島原発事故はデインジャーがどういうものか、私たちに改めて教えてくれた。

しかし、大飯原発再稼働のとき、野田首相は「国民生活の安全を守る」という同じひとつの言葉で、「デインジャーへの備え」と「リスクへの備え」を混同するというカテゴリー・ミステイクを犯したばかりか、「デインジャーよりリスクを重く見る」という倒錯的な判断を下した。

原発事故はデインジャーである。いつ、どういう様態で起きて、どのような被害をもたらすかについて予測が立たない。
それについて備えをするというのは、事故が起きたときにどうやって人命を守るかという「対症的」措置のことである。
住民の避難経路を確保し、収容施設を設置し、事故対策のための施設や機材を全原発に配備しておくということ、それがデインジャーに対してできる最大限である(それでもデインジャーには対応できない)。
同じ話を繰り返すが、「予防できる」危険はデインジャーとは呼ばない。

原発が停止したままでは電力が不足するというのはリスクである。
停電が頻発する、電力料金が高騰する、医療機関で十分なケアができなくなる、製造業が生産拠点を海外に移す、雇用機会が失われる・・・というのが想定されるリスクのシナリオである。どれも平たく言えば「金の話」であり、「金で解決できる話」である。
ただ、金を出したくない人にとっては、デインジャーよりも大事な案件である。

「命より金の方が大事だ」というのが、装飾を剥ぎ取って言えば、再稼働を進めた人々のロジックである。
あまりに長きにわたって平和と繁栄になじんだせいで、年収を増やすことが生きる目的であり、経済競争に勝つことが国家目的だと信じるに至った国民の選択したロジックである。

私は「必ず原発事故は起きる」と言っているわけではない。この先永遠に原発事故はないかも知れない。
でも、ひとたび起きたときに日本がこうむる被害は国土の汚染や国民の健康被害にとどまらない。
「デインジャーというものがこの世にありうることを知らない国民」、つまり、「幼児」として(もっと遠慮なく言えば、「バカ」として)国際社会から遇されるということである。

私は国民がまるごと「バカ」だとみなされることのもたらすそのことがもたらす災厄は電気料金や製品単価によってトレードオフされるようなものではないだろうと思う。
野田首相と原発再稼働推進派の人々は、目先の銭金を失うことを恐れて、「デインジャーなどというものは存在しない(するかも知れないけれど、われわれの身にはたぶん訪れないだろう)」という楽観的希望に国運を賭けた。
これほどに視野の狭い人々に、これから先の混迷を深めるはずの国際社会の舵取りを任せることに私は同意しない。

2012.07.22

米軍のフィリピン移駐について考える

これまでもアメリカの西太平洋戦略の転換を論じるときには必ず触れたことだけれど、1991年、フィリピン政府は米軍基地の存続を図る米比友好安全保障条約の批准を拒否し、植民地時代から一世紀近く駐留した在比米軍は翌年末までに全面撤退した。
米軍撤退に至るにはさまざまな国内事情があったが、「米軍基地の撤収はフィリピンの真の独立の第一歩」という、アメリカの軍事的属国状態からの脱却志向があったことが第一の要因であることは間違いない。
1987年に独裁者マルコスが倒されたあと、当時のコラソン・アキノ大統領は、新憲法を制定し、そこには「外国軍駐留の原則禁止」がうたわれていた。
米軍の海外最大の基地であったクラーク空軍基地、スーヴィック海軍基地はこのときフィリピンに返還された。
外交条約である以上、いくら「かつての植民地」とはいえ、かりにも主権国家内に政府の同意なしに基地を置き続けることはできない。
もちろんこの安保条約批准拒否をアメリカは喜ばなかった。以後20年、憲法の規定は現在もそのままだが、すでにアメリカはさまざまな例外規定の抜け穴を通って、フィリピンへの再駐留を進めている。
日本と同じように、フィリピン内部にも親米派と対米自立派のあいだには激しい確執がある。
コラソン・アキノは対米自立を志向したが、続く親米のラモス政権は、ラモス自身がウェストポイント陸軍士官学校の卒業生ということもあり、何より中国が南シナ海の南沙諸島へ露骨な領土的野心を示したことに強く反発して、米軍の再駐留へ向けて動き出した。
米軍の恒久的な駐留は憲法違反になるので、アメリカ軍は「訪問米軍」というかたちで断続的にフィリピンを訪れているだけで常駐はしていないことになっている。(「半年の訓練後、一日のインターバルを置けば、次の半年の合同演習は再開可能」というふうに地位協定を解釈したので、同一兵員は366日のうち365日フィリピンを「訪問」できる)。
2001年9・11によってフィリピンへの米軍回帰運動は一層加速した。
フィリピンもまた国内ミンダナオ島にイスラム系ゲリラを抱え、その掃討戦に消耗を強いられていたからである。
「テロとの戦い」という旗幟の下に米比両国は急速に接近していった。
また、中国がフィリピン領海や排他的経済水域を国内法に依拠して「自国領」と主張し、侵犯を繰り返し、船員を拿捕するといった軍事的威嚇行為を繰り返したことも、フィリピン国民の「米軍復帰」を歓迎する気分を盛り上げている。
という流れを簡単にご紹介したのは、実はこのフィリピンへの「米軍回帰」と沖縄の基地問題が密接にリンクしているからである。
米軍が西太平洋戦略の見直しを進めている最大の理由は「金がない」ということである。
「米統合参謀本部議長のマイケル・マレン大将は、アメリカの国家安全保障にとって何が最大の脅威だと思うかと聞かれて、連邦政府の赤字だと答えた。」(2011年7月25日、『ファイナンシャル・タイムズ』電子版)
米軍の西太平洋戦略の再編の基本ルールは「最低のコストで、できる限り高い軍事的パフォーマンスを果たしうる布陣」である。
先方が「コスト」と「効果」のバランスを考えて、さじ加減をしているせいで、私たちの眼から見て「アメリカはいったい西太平洋で何をしようとしているのか」がさっぱりわからなくなる。
いわゆる「米軍再編」(transformation)はソ連崩壊による「東西冷戦モデル」から、9・11以後の「対テロモデル」への軍略の変換に伴う制度設計そのものの書き替えである。
単に「仮想敵が変わった」とか「兵器や輸送手段が高度化した」というだけなら、机の上でちゃっちゃっと設計図を書けばおしまいだが、実は「在外米軍をどこに駐留させるか」という頭の痛い問題がある。
駐留先をどこにするかを決めるときに関与する非軍事的ファクターは「どれほど反米感情が強いか」と「どれほど金がかかるか」である。
フィリピンがわりとあっさり放棄された理由の一つは「けっこう金がかかる基地」だったからである。
1946年独立以来、フィリピン政府は巨額の軍事・経済援助を受けてきた。最大の名分は「基地使用料」である。これは巨額の財政赤字を抱えるにアメリカにとって無視できないほどの財政負荷になっていた。
沖縄にアメリカが固執するのは、現地の激しい反基地運動にもかかわらず、日本政府が法外な「在日米軍駐留経費」を負担して、アメリカの財政負担を軽減していることにある(2010年度で総額7000億円)。
日本国内では、つよい反米感情に遭遇することもない。
沖縄でも、反基地感情はつよいが、基地の外に出た米軍兵士が間断なく罵倒や暴行に警戒しなければならないということはない。
そういう点で、日本はアメリカ軍にとって、二重の意味で「居心地のよい」駐留地なのである。
しかし、軍略上の重要性で考えると、沖縄はあくまで「東西冷戦構造における対ソシフト」の一環であり、中国との軍事対立に備える基地としては「近すぎる」。中国の中距離ミサイルの射程内だからである。
だから、できることなら、沖縄以外のところに移したい。
でも、金がない(海兵隊のグアム移転費用を含んだ軍事予算案はアメリカ議会で否決されてしまった)。
だから、「金がかからない」で、かつ「軍略上有効」な場所はどこかということが再編の軸となる。
沖縄にぐずぐずいるというのも、悪いソリューションではない。
沖縄に居座る限り、日本政府からはいくらでも金が引き出せるからである。
もめればもめるほど、金が出てくる。
それはわかっている。
問題は、日本を西太平洋の軍略のキーストーンに設定した場合に、批判の矢面に立って、アメリカにとって都合の良い政策を実行できるような「豪腕で、かつ国民的人望のある政治的リーダー」がいないことである。
それどころか、政権交代で首相になった最初の人物はあからさまな対米自立派で、「基地はできれば国外」というようなことを言ってしまった。
彼が引きずり下ろされた後には、あれこれとアメリカのご意向を忖度してくれる親米派の政治家官僚が出てきたが、これもひたすら忠義面をしてへこへこしているだけで、表舞台に出て、矢弾を浴びながら、「基地問題についての日本の立場」を内外に公言し、説得できるほどの度胸も才覚もない。
属国が従属的であるのはけっこうだが、あまりに従属的になりすぎて「使いものにならなくなった」というのが現在のアメリカ政府の日本理解だろうと思う。
いったい、誰と話をつければ、ものごとが前に進むのか、今の日本を相手にしているともうわからない。
野田さんが必死になって「政治生命をかけている」のは、個別的な政策ではないのだと思う。
そうではなくて「私が日本の代表者です。政府に用事があるひとは、他の人じゃなく、『私に』話をしてください」というアピールに政治生命をかけているのだと思う。
総理大臣が政治生命をかけて訴えているメッセージのコンテンツが「私が総理大臣です」ということであるというのは、たしかに末期的な光景である。
一方、フィリピンからは「早く来てくれ」と官民挙げてのつよい要請が来ている。フィリピンは日本のようにじゃんじゃん金を出してくれるわけではないが、スーヴィック湾という天然の良港があり、20年前からの米軍基地がそのままに残っている。もともとアメリカの植民地だからみんな英語を話せる。とりあえず一度は「アメリカ軍は出て行け」と言った国だし、今でも「米軍駐留は憲法違反だ」と噛みつくような外務官僚がいたりする。それだけ「骨」があるから、交渉相手になるぐらいの人物はいる。押すにしろ、引くにしろ、勝負をする相手がいる。
鳩山総理が自民党政権下の日米合意を覆して、「国外に」という要望を伝えたことの背景について、加治康男さんはこう書いている。
「鳩山由紀夫元首相の脳裏には、口外できないスービックの名が間違いなく浮かんでいたはずだ。なぜなら、2009年の政権交代で民主党と連立した国民新党の下地幹郎幹事長(衆院議員・沖縄選出)こそ在沖米軍の比移駐に10年近く直接関与してきた“仲介人”であるからだ。」(「グアム移転見直しで浮上する米軍のフィリピン回帰」、『世界』2012年6月号、143頁)
上に書いたようなフィリピン移駐が米比両国で進んでいるという情報を、私はこの記事ではじめて知った。
でも、普天間基地がスタックしている背後には、「そういうこともあるかもしれない」と思う。
そして、たぶんこの後アメリカは西太平洋の軍略上のキーストーンをフィリピンに移すことになるだろうと思う。
日本からアメリカの基地が撤収することはうれしいことだが、その理由が「主権国家から『出て行ってくれ』と言われたから」ではなく、「従属国があまりにだらだらで、まともな交渉相手になれる人間がいないから」であるとすれば、まことに情けない。

2012.07.26

青年の文章

光嶋裕介くんの『みんなの家』が発売早々に東京堂書店で総合1位という快挙をなしとげた
すごいね。
『みんなの家』は彼が凱風館を設計して、竣工するまでの経過を、これまでの建築家に至る道筋の回想とからめながら書いたものだけれど、光嶋君というひとの器の大きさ、風通しのよさが行間からにじんでいて、読んでいてまことに爽快である。
凱風館という建物と組織のコンセプトもこれを読むとよくわかります(僕の「住まい論」も併せて読むと、同一の建築物の建つプロセスを施主と建築家がどう見ていたのか、わかって面白いです)。
推薦文を版元アルテスの鈴木くんに頼まれたので、「青年の文章」というものを書いた。
『みんなの本』に採録されているけれど、ブログでも公開して販促してくださいという鈴木社長からのご依頼があったので、ここに公開。


青年の文章

これは僕の道場兼自宅である凱風館という建物が建つまでの流れを光嶋裕介という若い建築家が記録したものである。
お読みになった方の多くは同じ印象を持たれたと思うけれど、彼は独特の文章を書く。癖のある文章とか、ひねった文章ということではない。こういうふうに書く人が絶えてひさしい「青年の文章」である。
青年というのは、少年と大人の中間的な様態である。少年らしい無垢さやみずみずしい好奇心をまだ失っていないけれど、すでにそれなりの社会的ポジションに達し、その発言を傾聴され、その構想を物質化できる機会を確保している。
僕の(勝手な)考えでは、「青年」というのは幕末から明治初年にかけてその「原型」がつくられ、近代日本を牽引し、知性的なあるいは芸術的なイノベーションを担い、いくつかの「戦い」で前線に立たされた後、1960年代末に消滅した。弊衣破帽で天下国家を論じ、詩を吟じ、琴を弾じ、スポーツに興じ、斗酒なお辞せずという「旧制高校生」の姿がその典型的なものである。そのような社会的機能を日本社会が必要としていたときに出現し、必要としなくなったときに姿を消した。
「青年」が姿を消して半世紀近くが閲した。
「青年」期がなくなったので、日本の男性は「洟垂れの子ども」時代が終わると、間を置かずに「脂ぎったおじさん」になった。だから、それから後の日本社会は「妙に勘定高い子ども」と「幼児的なオヤジ」ばかりで埋め尽くされるようになった。正直言って、かなり見苦しい風景だが、歴史的状況が「そういう社会構成」を求めたのだからしかたがないと諦めていた。
そしたら、21世紀に入ってしばらくすると、僕のまわりに「青年」たちがひとりまたひとりと登場してきた。少年のような初々しさを失っていないのに「仕事のできる」若者たちである。そんな「青年」をほんとうにひさしぶりに見た。彼らの登場なしではもう立ちゆかないところまで日本のシステムが劣化したという点では痛ましいことだが、もう絶滅したと思っていた「青年」に生きているうちにまた会えたということを僕自身は個人的にはうれしく思っている。
この本はほんとうにひさしぶりに「日本の青年」が書いた本である。
イノセントな好奇心と冒険心に駆動された「彼のアイディア」を実現するために、建築家はうるさがたの職人やビジネスマンの懐に入り込み、タフな交渉をし、思いがけない妥協案を提示する。その力業のひとつひとつを通じて、彼は確実に成熟への階梯をのぼり、社会的な実力をつけ、世界を語る新しい語彙を獲得してゆく。
たいしたものだと思う。
この本は一軒の家が建つまでのドキュメントとして読んでもたいへん面白いし、専門的にも価値豊かなものだと思うけれど、僕としてはそれ以上に半世紀近くの不在の後、「救国」のために「青年」たちが出現してきたことの喜ばしい徴候として記憶にとどまることを願うのである。

同一労働最低賃金の法則について

自治労のセミナーで「橋下政治について」のシンポジウムに招かれた。
コーディネイターはTBSの金平茂紀さん。パネラーは香山リカ、湯浅誠のご両人と私。
個別的な政策の適否や政治手法については、もう多くの人が語っているので、屋上屋を重ねることもない。
まだ、この政治現象について「誰も言っていないこと」を言わないと、せっかく日帰り東京ツァーに出た甲斐がない。
私は「海外メディアは橋下徹と大阪維新の会をどう見ているか」というところから始めた。
私はフランスの『リベラシオン』の電子版で定期的に「フランスのメディアは日本での出来事をどう見ているか」をチェックしているが、『リベラシオン』にはキーワード「hashimoto」でも「maire d’Osaka」でも記事は存在しなかった。
『ル・モンド』には「大阪のポピュリスト市長が既成政党と官僚に全方位的に攻撃を加えている」という記事があったが、日本におけるこの政治的潮流の出現の政治的意味についての分析はなかった。
(帰宅後にThe Guardian を読んだら、ここにはかなり詳しい橋下現象解説記事があった。
興味深い記事だったので、終わりの方を採録する。

「日本は民主制では、決定することができない」と彼は記者会見で語った。「我々は終わりのない議論を行い、全員の意見をテーブルに載せるが、何も決められない。」
これを変革するために、彼は法律制定を妨げている参議院の廃止と首相公選制と地方分権を提案する。
「ヨーロッパにおける左右両極の過激派、民族派の出現と同じく、橋下はその支持を既成のメインストリームと代議制民主主義の不調に対する大衆的な不満から引き出している」とある日本の政治学者は語っている。
「彼は過度に単純化された、権威主義的な“回答もどき”pseudo-answer を提示するが、それは現実には何も問題を解決しない。だが、既存の政治システムに対する大衆的不満のはけ口にはなる。」
市長のサッチャー型の社会政策への賛意には日本のタカ派の元首相小泉純一郎を思わせる点がある。
彼は紛争解決の手段としての武力行使を禁止している日本国憲法の改正手続きの簡易化を求めているが、彼の批判者たちは、それは中国との領土問題での摩擦において軍がより攻撃的なものになる道を開くものだと述べている。福祉政策は、米国と英国の右派の後追いに過ぎない。「もちろんわれわれはまったく生計を立てる能力がない人たちについては支援しなければならない」と彼は言う。「だが、それ以外の人たちは、自分で何とかしてもらわねばならない。」
だが、政治学者はこの人物は官邸をめざすために自分のほんとうのねらいを隠しているとみている。「彼はマーガレット・サッチャーでもないし、小泉純一郎でさえない。彼はさしたる主義主張のないポピュリストである。彼はパワーゲームとして政治に接近している。彼がめざしているのは支配することそれ自体である。」(The Guardian, 17July, 2012)
(文中の「日本の政治学者」は記事中では実名。興味がある方は原文を徴されたい)。

たしかにこのプレゼンテーションが適切であるなら、橋下現象は海外メディアが特に興味を持って取り上げたり、踏み込んだ分析をするようなトピックではない。
橋下徹は欧米でもよく見る「ポピュリスト」政治家の一人であるに過ぎない。
海外メディアのこの相対的な無関心と、国内メディアの熱狂の温度差に私はどうもひっかかるのである。
海外メディアが「切って棄てる」ような書き方を採用する理由は二つ考えられる。
ほんとうに維新の会のムーブメントが「よくある話」であるのか、海外のジャーナリストがこの現象を適切に語る文脈なり語彙なりを「まだ獲得していない」のか。いずれかである
私はこういう場合には、できるだけ知性の行使を要求する方の仮説を採択することにしている。
私の経験則は「『変なできごと』が『変』に見えるのは、それを語る適切な言葉を私たちがまだ持っていない場合がある」ということを教えている。「変な現象」の「変さ」がそこにかかわる人たちの愚鈍さや邪悪さで説明できるケースは私たちが想像しているよりずっと少ないのである。
その上で、橋下徹と大阪維新の会のムーブメントは「前代未聞のものだ」という仮説を採択することにする。
別にしなくてもいいのだが、したことによって失われるのは私の時間だけである(私の話に付き合わされる読者の方々も時間を失うわけだが、それはご本人の神聖なる自由に属するので、私がとやかくいう筋のことではない)。
では、どういう点が「前代未聞」なのかというと、これが「経済のグローバル化を推進して、国民国家を解体しようとしている政治運動が外形的には愛国主義的な衣装をまとっている」という点である。
維新の会の政治綱領が、「手垢のついた新自由主義」であることは誰でもが認めている。
けれども、新自由主義はそれでも「選択と集中」によるトリクルダウンという「言い訳」を用意していた。
私たちに資源を集中せよ。私たちがそれによって国際競争力を増し、ワールドマーケットで大金を儲ければ、一時的に「割を食っていた」貧乏人諸君もその余沢に浴することができる、というあれである。
だが、維新の会のグローバリズムはもう「余沢」についてはほとんど語らない。「とりすぎのやつから剥ぎ取る」という話だけである。「剥ぎ取った分」がどこに行くのかということに、有権者たちはもはや興味を持っていない。
市長が着任して最初にやったことの一つは、大阪市営バスの運転手の賃金が高すぎるので、これを民間並に引き下げるということであった。
この政策に市民のほとんどは喝采を送った。
労働者たちが、同じ労働者の労働条件の引き下げに「ざまあみろ」という喝采を送るというのは、日本労働史上でおそらくはじめてのことである。
労働者というのは労働条件の向上のために「連帯する」ものだと思っていたが、それはもう違ってしまったのである。
現に市長の組合攻撃はすさまじい。組合員というのは「非組織労働者」には与えられていない特権を享受している「ワルモノ」であるという物語に有権者もメディアも同意署名を与えた。
それが自分たちの死刑執行書に署名したことかもしれないということに誰も気づいていない。
市営バスのケースは「同一労働では、最低賃金が標準賃金である」という文字通り「前代未聞のルール」に有権者たちが同意を与えたということを意味している。
このルールに大阪の有権者たちが同意した以上、これから後、彼らはすべての賃金交渉において、「同じ労働をもっと低い賃金で引き受けるものがいる」事例を雇用者側が示し得た場合には、最低賃金を呑む他ないのである。
だって、自分で「それがフェアネスというものだ」と言ったわけだから。
このルールの導入によって最も喜んでいるのはビジネスマンたちである。
すでに、「日本の労働者は人件費が高すぎる」という理由で生産拠点を海外に移し、国内の雇用を空洞化してきたグローバル企業のふるまいを日本人の過半は「それももっとも」と同意してきた(現に、大飯原発の再稼働を決断したとき、野田首相は「電力コストが高ければ、日本を捨てて国外に出て行くのは、企業家としては当然のふるまいである」として、グローバル企業の利益の擁護は原発の安全性に不安を抱く国民感情に優先するという「常識的な」決断を下した)。
それは、国内の雇用においても、「同一の能力であれば、いちばん人件費の安いものを雇う」というルールが一般則として適用されるということである。
ご存じの通り、現在、どの組織でも、非正規雇用労働者が溢れかえっている。正社員の他に、嘱託社員、派遣社員、アルバイトと雇用形態は識別しがたいほどに複雑に複線化した。
そのときに何が起きたか。
仕事ぶりを外から見ていると、それが正社員かアルバイトか区別できないということが起きてきたのである。
場合によっては、正社員よりアルバイトの方が業務内容を熟知しており、適切な判断を下すというようなことさえ起き始めた。
そのときに何が起きたか。
正社員と同じくらいに働くなら、「アルバイトの雇用条件を正社員並にせよ」という要求がなされたのではない。
逆である。
アルバイトと同じくらいの働きしかないなら「正社員なんか要らないじゃないか」という台詞が出てきたのである。
出てきて当然である。
雇用形態の複線化は論理の必然として、「同一労働の場合、それを最低の賃金で達成するものを標準とする」という「同一労働・最低賃金の法則」を導くということに私は導入時点では気づかなかった。
でも、今はわかる。
職場に業務内容が似ており、雇用条件の違う労働者を「ばらけた」かたちに配備しておくと、最終的に雇用条件は最低限まで引き下げることができる。
だから、経営者たちは非正規雇用の拡大に固執したのである。
彼らのロジックは「日本のような高い人件費では、コスト削減の国際競争に勝てない」というものである。
日本の労働者の絶対的な貧困化はグローバル企業にとって「好ましいこと」なのである。
もちろん、貧しい労働者は消費活動がきわめて消極的なので、日本国民のほとんどが下層に固定化された段階で内需は壊滅するが、とりあえずそれまでの間は人件費削減で浮いた分は企業の収益にカウントされる。
先のことは考えない、というのが資本主義の作法であり、国民国家の将来のことなど配慮しないというのがグローバル企業の常識であるから、それでよいのである。
前に国民戦略会議の「大学統廃合」について書いたときも述べたが、日本の財界人が国際競争に勝つために採用している最優先事項は「人件費を限りなく切り下げること」である。
低学歴低学力労働者を大量に作り出せば、場合によっては中国の労働者程度の時給まで国内の賃金を下げられるかもしれない。
人件費問題さえクリアーされるなら、国内で操業する方がずっと利益が大きい。
労働者のモラルは高いし、社会的インフラは整備されているし、怪しげな党官僚が賄賂をせびることもないし、テロや内乱の不安もないし、中国の労働者の賃金が上がって、「もっと賃金のやすい国」めざしてプラントごと引っ越しをする移動コストも考えなくてよい。
実際に、「焼き畑農業的」に生産拠点を移してみたが、このやり方が予測したほどに安定的な利益をもたらさず、むしろコストとリスクを増やすことに資本家たちも気づいてきたのである。
できることなら、日本にいたい。
そこで、日本の経営者たちは「こんなに人件費が高くては生産拠点を国外に移すしかない」という言葉をことあるごとにメディアを通じて「国内向けに」アナウンスすることにした。
これは別に「そのうち移転しますので、みなさん心の準備をしていてくださいね」と事前に親切に告知しているわけではない。
そうではなくて、「国内にいてほしければ、人件費を下げろ」と言っているのである。
政治家も官僚もビジネスマンも大学人も、みんなそれを聴いて「わかりました」と頷いて、「どうやったら人件費が安くなるか?」という問いへの最適解を求めて知恵を絞り始めた。
とりあえずやってみて効果があったのは:
(1)学力が低い若者を大量に作り出し、「自分のような能力の人間には高い賃金は要求できない」という自己評価を植え込む。
(2)同一労働に雇用条件の違う労働者を配備して、「こんな安い給料で同じ仕事をしている人間がいる」という既成事実を作り出し、「同一労働なら最低賃金」のルールを受け入れさせる
(3)製造コストや人件費コストが上がりそうになると、「では国内の製造拠点を海外に移します。それで雇用が失われ、地域が『シャッター商店街』化し、法人税収入が失われても、それはコスト負担を企業におしつけたあなたたち日本国民の責任です」というロジックで脅しにかかる
やってみたら、全部成功した。
大阪維新の会はまさにこのグローバル企業と政官が国策的に推し進めている「国内労働者の絶対的窮乏化」路線そのものを政治綱領の前面に掲げたという点で「前代未聞の政治運動」なのである。
「これから『反撃のできないセクター』から順番に、国民の既得権を奪い、そのつどの最低賃金で働いてもらいます」という彼らの政策に国民自身が拍手を送った。
たしかに、この制度改革は「グレート・リセット」というのに相応しいであろう。
なにしろ18世紀の市民革命から以後の労働運動の成果そのものを否定しているからである。
維新の会が権力を掌握すれば、体制が「変わる」という点については、間違いなく変わる。それは私が保証してあげる。
ただ、その「変化」は労働者の絶対的窮乏化と「グローバル企業」の収益の増大と彼らのいわゆる「国際競争力」の向上に資するものであることは告げておかなければならない。
この労働者の組織的連帯を破壊してゆく過程で、「愛国主義」が功利的に利用されているのだが、なんだか書いているうちにぐったり疲れちゃったので、今日はここまで。
「愛国主義はどうして国民的統合の解体に役に立つのか」については、前に書いたものがあるから、それを参照されたし。
http://blog.tatsuru.com/2007/06/20_1056.php
http://blog.tatsuru.com/2008/03/30_1850.php

2012.07.27

ビジネスマインデッドな行政官について

橋下徹大阪市長が文楽協会への補助金打ち切りの意向を示してから、「儲からない芸能」を行政が支援することの可否について議論がなされている。
市長が文楽協会の個人的なオーナーであり、彼が経費を支出している立場であるなら、「採算不芳部門は切る」という発言をすることは経営判断として合理的である。
だが、彼は文楽協会の経営者ではない。
地方自治体の首長である。
当たり前のことを確認するけれど、自治体行政はビジネスではなく、自治体の首長は経営者ではない。
にもかかわらず、自治体の首長が予算執行を「経営者感覚」で行っていることを誰も「変だ」と言わない。
私は「変だ」と思う。
誰も言わないようなので、言わせて頂く。
行政官はビジネスマンではない。
「もう少しビジネスマインドがある方が望ましい」という要求はありうるが、そういう言葉はふつう「ビジネスマンではない人間」にしか使われない。
行政は税金で運営されている。
まず納税者からお金を頂いて、それを分配するのが仕事である。
行政官に対しては、「税金を無駄づかいしている」という批判はありうるが「稼ぎが悪い」という批判はありえない。
誰もそんなことを言わない。
企業の場合は、そういう仕事をするセクションのことを「管理部門」と言う。
それ自体は何の収益も上げないし、何も創り出さない。もともと「管理部門以外の人々」が働きやすい環境を整備し、その創造的な活動を支援するのが本務である。
組織論でも書いたとおり、集団成員が150名以下の場合は、管理部門は要らない。
仕事をしている当人同士でダイレクトに「あれ、頼むわ」「おうよ」で話が片づく。
けれども、「マジックナンバー150」(ロビン・ダンバーが勝手に「ダンバー数」と呼んだライン)を越えると、組織が弛緩する。
怠業する人間、ものを盗む人間、指揮系統から離脱する人間などが出てくる。
しかたがないので、管理部門を独立させて、集団成員がまじめに働くように管理する。
彼らは価値のあるものを創り出すプロセスを支援するのが仕事だが、自分たちでは何も価値あるものを創り出さない。
行政というのはそのような管理部門である。
別にそういうものでよろしいのである。
だが、「ビジネスマインデッドな管理者」がここに据えられると、なぜか話が込み入ってくる。
「ビジネスマインデッドな管理者」は「金を稼ぐ」というふるまいを過大評価する傾向があるからである。
金を稼ぐのはよいことで、稼げないのは恥ずかしいことだと思っている。
ところが、管理者自身は実は金を稼いでいない。
ものづくりをしている企業でも、研究開発部門や製造部門や営業部門のアクティヴィティに対応するような「自慢できる成果」を管理部門は「売り上げ」というかたちではお示しすることができない。
このことをビジネスマインデッドな管理者は何とか隠蔽しようとする。
そして、非生産部門である管理者がそれにもかかわらず「あたかも金を稼いでいるかのように仮象する」方法が一つだけある。
「コストカット」である。
コストをカットすると、目に見える「現金」がぽんと目の前に出現する。
それは「稼いだ金」ではなく、「払う約束だったものを払わなかった」だけなのだが、その金がまるで自分が「無から」創造したもののように本人には思えるのだ。
海賊たちがほかの船を襲ったあとに、ぶんどり品を甲板に並べて宝自慢しているときに、「オレもこれだけ稼いだぜ」と当の船員たちの給料カット分の金貨を並べる船長がいたら、たぶん海に突き落とされるだろう。
でも、「ビジネスマインデッドな管理者」がしているのは、実は「そういうこと」である。
彼がおのれのビジネスマインドを誇示しようとすればするほど、彼のコストカット努力はその領域を広げ、削減の比率は苛烈なものになってゆく。
最終的には彼が理想とするのは「集団の行う作業量は現行のままで、人件費はゼロ」というものになる以外にないのだが、さすがに論理的に「人件費ゼロ」で働く人はいないので、「限りなくゼロに近い水準」が理想となる。
この理想は、労働者の平均賃金が下がれば下がるほど、その達成に近づく。
昨日申し上げた「同一労働・最低賃金」の法則である。
だから、「ビジネスマインデッドな行政官」が、組織内でのコストカット努力と並行して、「労働者の平均賃金の引き下げ」のために努力を惜しまないようになるのは当然のことなのである。
この点において、「ビジネスマインデッドな行政官」は国内の人件費水準を限りなく低下されることによる生産拠点の国内回帰を果たそうとしているグローバル企業家と高い親和性を示すことになる。
財界の人々は橋下市長に熱い拍手を送っているが、それは彼が「人件費カット」という本来なら労働者大衆から怨嗟の声が上がって当然の政治的行動を「既得権益者からの『不当な利益』の剥ぎ取り」というシアトリカルなかたちで遂行してくれているからである。
大阪の労働者たちは、自分たちが何をしているのか、実はよくわかっていないのだと思う。
昨日も書いたように、大阪の有権者は、市営バスの運転手の年収が阪神・阪急の運転手よりも高いことを「貰いすぎ」とみなし、その「貰いすぎ」分を剥ぎ取るべきだという判断を下した。
この判断は一見すると合理的である。
だが、いったんこのロジックに同意した人は、その後例えば「阪神・阪急より京阪バスの運転手の給与の方が安い。阪神・阪急の運転手は貰いすぎだ」という言い分がなされた場合に、ただちに同意しなければならない(「例えば」ですから。京阪バスの方、気を悪くしないでくださいね)。
さらに、「和歌山バスの運転手は・・・」とか「熊野交通のバスの運転手は・・・」とか(実際は知りませんけど)、同業種で一円でも安い賃金が発見されるごとに、同業他社の労働者たちの給与引き下げに有権者たちは満腔の同意を与えなければならない。
「知られている限り最も安い賃金との差額は『貰いすぎ』である」という危険な命題に大阪の労働者たちの実に多くが「理あり」とした。
彼らは、他ならぬそのロジックによって、彼ら自身の給与引き下げを雇用者から言い渡されたときに反論できなくなっていることにまだ気づいていない。
繰り返し言うが、「ビジネスマインデッドな管理部門責任者」はまずコストカットを行う。
それも全労働者に波及するような規模のコストカットを行う。
これは頭の悪い経営者が黒字を出すために、次々に採算不芳部門を廃止したり、分社化したり、アウトソーシングしたりするのと同じ発想である。
たしかに、そのせいで一時的に利益率は増える。
そうしているうちに従業員はどんどん減り、仕事はどんどん少なくなり、ある日気がつくと、「あ、会社をやっていること自体が採算に合わないんだ!」ということになって、消えてしまうのである。
でも、これはあながち絵空事ではない。
地方自治をまるごと民営化したいというのは、リバタリアンの「口に出されない夢」だからである。
公共サービスというものを全部止めてしまう。
全部民営化する。
その代わり、もう税金も払わなくていい。
実際にそうすることの方が資産家たちにとっては、はるかに合理的である。
自分の土地を要塞化して、そこに私兵を配備して部外者の侵入を防ぎ、召使いや執事を侍らせて、「主人」として君臨できる人たちにとっては、「公共サービスが全部民営化された社会」は一種のパラダイスである。
なにしろ、民営化された警察や消防や医療を「私企業」として自己所有すれば、自力で犯罪に立ち向かえない市民や、自力では火を消せない市民や、自力では病気を治せない市民たちから個別サービスごとに恣意的に課金して、ほとんど無尽蔵の収益を上げることができるからである。
それがリバタリアンの「口に出せない夢」である(まれに“重慶王”簿煕来のように実行しようとする人間もいるが)。
「すべての公共サービスの民営化」は資産家たちにとっては「税金を払わずに済む」だけでなく、「税金を徴収する立場になる」チャンスをも意味するのである。
いずれ「ビジネスマインデッドな行政官」は同じロジックを、役人や補助金事業から、遠からず政治家たちにも適用するようになるだろう。
市長の参院廃止論は「政治家に食わせる無駄飯はない」ということであった。
その意味ではこのロジックは「文楽無用論」と変わらない。
「収益をもたらさない芸能には存在理由がない」という命題に同意するなら、「収益をもたらさない公務は不要である」という判断にも同意するしかない。
その次は「衆院の定員削減」、「公務員定数削減」さらには「首相公選」へと流れは続くだろう。
「費用対効果の高い政治」を人々がほんとうに求めているなら、そういうことになる。
歴史上、独裁制に傾斜する政治過程ではさまざまな正当化のロジックが駆使されたが、政治家に対して、政治家であるより先に「コストカッター」であることを求め、その仕事がさくさくスピーディに運ぶために全権を委任することが効果的だと思う有権者が登場してきたのは、たぶん世界史上これがはじめてのことである。
だが、政治について考えるときに、あまり金のことばかり考えない方がいいと思う。
というのは、「費用対効果の高い政治」を徹底的につきつめると、意外なことに、最適解はたぶん「アメリカの51番目の州になる」というあたりに落ち着くしかないからである。
たしかに、これが日本列島の統治システムとしては、一番金がかからない形態である。
国会で「アメリカの州になります」と議決すればいいのである。
ハワイもテキサスもそうやって州になった。
そうなれば、中国との尖閣問題でも、北方領土問題でも、円高問題も、TPPも、もう日本人は自主的には何も考えなくてよくなる。
すべての懸案は日本人の肩から取り払われる。
全部ホワイトハウスが私たちに代わって処理してくれるのである。
沖縄における「外国軍隊の不法占拠」状態も一気に解決する(だってアメリカ軍は自国軍隊になるのである。彼らが基地外で市民に対して犯した犯罪は日本州警察が所轄し、オスプレイだってもちろん自国民の上に飛ばしたりはしない)。
日本州代表で、二人の上院議員と五人ほどの下院議員を連邦議会に差し出して、衆参両院は廃止。700人いる国会議員を上下院で50人の「日本州議員」に格下げ。都道府県は「市町村」に、「市町村」は「郡・大字・字」にそれぞれ格下げ。
費用対効果ということを最優先すれば、これがほんとうに最適解なのである。
ほんとうに。
日本という国民国家で「何をしたいか」ではなく、どうやって「行政の無駄を省いて、費用対効果のよい制度設計をするか」ということを最優先に配慮した場合に、この選択肢の「不合理性」を指摘することはきわめて困難なのである。
問題は天皇制をどうするかだけである。
そしてそのとき私たちは天皇制という「経済合理性になじまない制度」によってこの国民国家が統合されているという事実に直面することになるのであるが、それはまた別の話である。


About 2012年07月

2012年07月 にブログ「内田樹の研究室」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは 2012年06月 です。

次のアーカイブは 2012年08月 です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。