第三回伊丹十三賞の受賞記念講演を去年松山で行った。
そのときのテープ起こしが届いた。
既報のとおり、登壇した後に資料を控え室に忘れてしまって、資料なしでうろおぼえのことをしゃべった。
今回はちゃんと資料を手元において、きちんと引用出典を示しながら書いたので、ほんとうは何が言いたかったのか、わかりやすくなったかと思う。
では、どぞ。長いですよ。80分しゃべったんですから。
ご紹介いただきました、内田でございます。
松山に来るのは3回目です。10数年前に学会で来て、10年程前に父と母と兄と家族4人で旅行で来て、今日が3回目です。
第3回伊丹十三賞を頂いたあとに、11月にこちらで講演をしてくださいというオファーを頂きました。喜んでお引き受けしたのですけども、「何を話すか」何ひとつ浮かばず、まあ、まだだいぶ先の話だから、贈呈式が4月で、まだ8ヶ月もあるから、その間に何かアイディアが浮かぶだろうと思っておりました。
何も考えぬままに日が経つうち、演題についての問い合わせがありました。その時に、フッと「伊丹十三と『戦後精神』」というタイトルを思いつきました。括弧付きの「戦後精神」。なんとなく、これで行けそうな気がして、そのまま今日を迎えたのであります。
Twitterを読んでる方はご存知かもしれませんけども、実は何を話すか全然決まらないまま、今こうやって演壇に立ってしまいました。
メモ書きはずいぶんたくさんして来たのですが、話がなかなか一つに絞り込めません。これは僕にとってはかなり珍しいことなんです。どんなテーマでもすぐに一席仕立てるのが特技なんですけれど、伊丹十三について松山で語るという宿題を与えられてからあと、なかなか話を思い付かなかった。少なくとも、僕自身の手持ちのスキームにはめ込んで伊丹十三を論じることは、どうも出来そうもない。そのことだけは日を追って、だんだんと分かってきました。
昨日も半日考えて、今日もさっきまで楽屋で考えて、やっぱり、上手くまとまらない。
こういう時、普通の人はずいぶん困るんでしょうけれども、僕はそれほど困らないんですね。どっちかっていうと、うれしくなってしまう。
というのは、「なぜ、私は伊丹十三についてきちんと論じることができないのか」と問題の次数を一つあげて考えればいい。
僕がうまく論じる枠組みを思いつかなかったのは、伊丹十三をみごとに論じている先行例を知らないからなんです。標準的な伊丹十三論がすでに存在するのであれば、僕はそれを参考にすることができる。敷衍するにせよ、批判するにせよ、とりあえず手がかりがある。でも、それができなかった。ということは、伊丹十三についての標準的な論が存在しないということです。驚くべきことではありますが、実は、伊丹十三を論じた、まとまった批評的言説というものは、いまだ存在していないのであります。
伊丹さんが亡くなったのは97年ですからもうずいぶん前になります。もちろんご存命の時から華やかな活動をされてきた方ですから、その才能や業績のクオリティの高さについては、これまでも多くの人が高い評価を与えていました。にもかかわらず、この人物が一体どのような戦略的意図に基づいて、あのような活動を、あれほど多彩な分野において展開し続けてきたのかについては定説がない。
「13の顔を持つ男」という言い方がされましていますけれど、人間がどのような多面的な活動をするにせよ、目指しているところは結局はひとつなわけですよね。ひとつの強い志がある、一つの明確な目標がある。それが一つの手段では達成できないので、さまざまななかたちを経由して表現される。伊丹十三はあれだけ多面的な活動を展開したわけですが、その核にあったのは、一つの強い、明確な志だったと思うのです。とりあえず、僕はそのような仮説から出発します。
彼は多才であったとか、あふれるほどに豊かな才能があった、だから何をやっても上手だったという評価をされる人は多いと思うんです。でも、僕はそういう言い方はあまり正確じゃないんと思う。そうではなくて、ひとつのジャンルの仕事だけでは、どうしても「自分が何をしたいのか」がご本人にもうまく捉えきれなかった。だから、ひとつずつジャンルをずらし、さまざまな方法を踏破することになった。ジャンルをずらしながら、伊丹さん自身が、ご自身の創作活動を通じて「いったい自分は何をしたいのか」を探っていたのではないか。僕はなんとなくそういう気がするんです。
それほどに、彼がめざしたものは「わかりにくいもの」であった。本人にさえよくわからなかったくらいですから。
自分が何をしようとしていたのか、伊丹十三自身もわかっていなかった。それが「誰でもが参照する標準的な伊丹十三論」が存在しないという異常事態のいちばんの理由ではないか、僕はそんなふうに思います。
例えばこの伊丹十三賞、私は第3回目の受賞者でありますが、第1回受賞者の糸井重里さんは、この会場で受賞記念の「講演」はされなかったんですね。松家仁之さん(当時『考える人』、『芸術新潮』編集長)との対談で、ご自分が伊丹十三から受けた影響などについてお話しされたと。でも、それはどうも「伊丹十三論」というものではなかったようです。第2回受賞者のタモリさんは、講演自体をしなかった。僕は3回目の受賞者ですが、これが正面から「伊丹十三」と題した講演をする最初の受賞者になるわけです。だとすれば、これから先の伊丹十三論のひとつのスタンダードになるようなものをここで語っておく義務がある。誰にも頼まれていないんですけど(笑)。
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ここに至るには、色々前段があります。贈呈式の時にも申し上げましたが、僕は久しい伊丹十三ファンでありまして、本はもちろん読んでいましたし、『Mon oncle』も創刊から終刊まで全部読んでいましたし、講演を見に行ったことだってあるのです。
1980年代は、伊丹さんが比較的仕事が暇で、よく講演活動をされている頃だったと、さきほど玉置さんから伺いましたが、その頃僕が住んでいた東京都世田谷区上野毛の玉川高島屋で伊丹さんが女性対象のカルチャーセンターに講演においでになったことがありました。たしか家族論、子育て論について講演をされたのだと思います。
朝、新聞で、「今日午後伊丹十三氏玉川高島屋に来る」という記事を見て、「これは行かねば」と。その頃は大学の助手をしていたので、ウィークデーの昼間なのに家にいた。ですから、家からバイクを走らせて会場に駆けつけまして、入り口で「入れてください」と言ったら「だめ」と断られました。当たり前ですよね。事前申し込みもしてないし、第一、「今回は女性会員のための講演会ですから、男の方は入れません」と。でも、どうしても見たい。ほとんど土下座するようにして、とりすがって、お願いだから見せて下さい、ドアの隙間からでもいいですからと受付の女性に懇願して、無理にホールの後ろのドアの隙間から、立ち見で眺めさせていただきました。
期待にたがわぬ素晴らしい講演でありました。内容は覚えていていませんけども(笑)。たしか育児論だったと思います。僕もその頃育児をしていたので、胸に沁みる言葉ではありました。
その時の気分というのは、アイドルのステージをみつめるファンのような心理でした。そのとき、自分が実に久しく伊丹十三という人の熱烈なファンだったということに気づきました。だって、僕が講演というものを自分の意思で聴きに行ったのは、生涯で伊丹十三ただ一人だからです。あと、いないんです。
そもそも僕が伊丹十三という人物の名を知ることになったのは、大江健三郎の小説を通じてでありました。
今では大江健三郎の60年代の小説はあまり読まれることがありませんから、今日いらしている若い人にはちょっとぴんと来ないかも知れませんが、大江健三郎の初期の傑作に『日常生活の冒険』(1964年)という小説があります。
これはなかば私小説でありまして、大江健三郎と思しき小説家のところに、伊丹十三と思しき無頼の美青年が登場し、筆禍事件の後遺症で、ヒポコンデリア(心気症・憂鬱症)に陥っている作家を冒険の旅へ連れ出して彼の魂の救済を完遂するという、ロードムーヴィー的なテンポのよい小説なのであります。近年の大江健三郎からは想像がしにくいですが、60年代の大江の小説はワイルドで、スピード感があって、豊かな娯楽性さえあったのです。
小説の主人公の、大江健三郎をモデルとした人物は、気鬱な人物で、あまり魅力がないのですが、彼を救いに突然やってくる斎木犀吉(さいきさいきち)という人物は極めていきいきと魅力的に造形されておりまして、大江健三郎の作品の中に登場してくる男性の登場人物の中で、もっともチャーミングな人物でした。大江健三郎は素晴らしい作家だな、このような人物を造形できるなんて・・・と感心していたら、「あれは、実は伊丹十三という俳優がモデルなのだよ」という話を誰か物知りに教えてもらいました。そのときに、大江健三郎が伊丹十三の高校時代からの知人で、その義弟であることも教えられました。
それからあとも僕は80年代まで大江作品のかなり忠実な読者でした。その理由の一つは、間違いなく彼が造形したひとりの主人公の魅力によるものです。
「鳥」と書いて「バード」とルビが振ってあるこの人物は、『不満足』という短編に暴力的でかつ知的な青年という矛盾したキャラクター設定で登場し、その二年後の『個人的な体験』に一層深みを加えて再登場します。
今にして思うと、「鳥」というのは、大江健三郎が、彼自身と伊丹十三を混ぜ合わせて作り出したキャラクターではないかと思います。知性的で内省的であると同時に、衝動的で暴力的であるという、この矛盾した人物を造形しえたことが『個人的な体験』の小説的な成功にふかく与っていると僕は思います。少なくとも、僕自身はストーリーそのものよりも、この主人公の発する強い磁力のようなものに惹きつけられました。
大江健三郎の小説の主人公は程度の差はあれ、作家自身が自己投影されていますが、そのフィクションの主人公に「伊丹十三」的なものを付け加えることで、作中人物は突然生々しい熱を発するようになった。それは大江健三郎にとっても、伊丹十三が「男性的魅力」というもののひとつの際だった実例として存在していたからではないかと僕は思います。
そして、大江経由で伊丹十三という人に興味を持ち、その頃出始めていた彼のエッセイを読むようになりました。伊丹十三のエッセイを僕は三十代のはじめの一時期、文字通り座右において、繰り返し、暗誦するほど読み込みました。ですから、僕のものの考え方か価値観や美意識に伊丹十三的なものはつよく刷り込まれています。
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『ヨーロッパ退屈日記』を暗記するほど読んだという人は、僕らの世代には少なくありません。例えば、『ヨーロッパ退屈日記』の文庫版解説を書いている関川夏央さんがそうです。僕たちの世代にたいへんに強い影響力を与えた人なのに、先ほどから言っている通り、それが「どういう影響」であったのか、それをまだ誰もうまく言葉にできないでいる。
そのあと、映像作家として、あるいは俳優として、CMのプランナーとして、プロデューサーとして、様々な形で次々と新しい活動を行っていかれたわけですけども、いったい彼は何をしようとしているのか、那辺に伊丹十三のオリジナリティーと魅力があるのかということについて、きちんと語りきった言葉はありませんし、語ろうと試みた言葉のあることさえ僕は知りません。
97年に伊丹さんは亡くなるわけですが、亡くなったあと、これほどのスケールの人物ですから、「いったい伊丹十三とはどのような人間であり、どういうようなプロセスを経て人格形成を果たし、どうしてこのような表現を選択し、どのような同時代的な影響を与え、どのようなメッセージを残そうとしたのか」について、包括的な研究なり分析なりがなされて然るべきだったと思います。でも、それに類するものをついにわれわれは持たなかった。
こう言うと差し障りがあるとは思いますが、その理由のひとつは、大江健三郎のという人の存在だと思うのです。
大江さんは伊丹さんの死後、『取り替え子』(2000年)という、明らかに伊丹十三と思しき人の死を経験した、大江健三郎の分身である古義人という作家の苦悩を描いた長編小説を書きました。たいへん濃い小説で、そこには「伊丹十三について語るのは私を措いて他にいない」というつよい自負の念がこめられていたと思います。でも、それは同時に伊丹十三について他の人が語ることに対する隠然たる抑圧としても機能したように僕は思います。
大江健三郎は日本のジャーナリズムに対しても、文壇・論壇に対しても、つよい影響力を持っています。現代日本を代表する作家であり、知識人であり、いわば日本の「文学的な叡智と良心」を象徴するような人物が、伊丹十三について語るときの特権的な立場を占めている。高校時代からの友人であり、義理の兄弟でもあるわけですから、伊丹十三についての個人情報において、大江健三郎に及ぶ人がいるはずがありません。でも、それが一種の抑圧として働いていたということは否定できないと思います。「伊丹十三について、ちょっと書いてみたい」「ちょっと論じたいな」と思っても、大江健三郎をはばかって、自主規制したということはしばしばあったんじゃないかと思います。
そういう個別的な事情は措いておいても、伊丹十三が非常に「語りにくい人物」であることは間違いない。
もう数年前になりますが、新潮社の『考える人』という雑誌が、戦後の100人の代表的な人物を選んで、それについてひとりひとりが論評していくという特集(「戦後日本の考える人100人100冊」、『考える人』、2006年夏号)を組んだことがありました。僕もその頃『考える人』に連載をしていたので、寄稿のお声がかかりました。選んだのは手塚治虫、長谷川町子、伊丹十三でした。
こういうアンケートの場合、論ずべき100人のリストは編集部があらかじめ選んでいるわけで、その中の誰を論じるかは、「偉い人」から順番に「じゃ僕はこの人論じるから」と取りのけてゆくことになります。僕なんかは一番下っ端ですから、リストが回ってきた時はもう8割方は書き手が決まっていて、たぶんそれまで「ちょっとこれは…」って除けたあとの人たちが残っていた。その中に手塚治虫、長谷川町子、伊丹十三がいました。知識人に対するアンケートですから、マンガ家二人が残るのはわからないでもないのですが、伊丹十三が残されていたのが僕には実に意外でした。
なるほど、どこを切り口にして論じたらいいのかが、たいへんに分かりにくい人なのだということをそのときに知りました。岸田秀先生がもっとお元気だったら、伊丹十三論として長いものをお書きになったかも知れない。村松友視や山口瞳といった親交の篤かった文人たちも、山口さんはもう亡くなられましたが、書いてよかったと思うのですが、そういう方たちも含めて、本格的な評伝というものが書いれていない。『ヨーロッパ退屈日記』の文庫版解説に関川夏央さんがみごとな伊丹十三論を書いていましたが、これはほんとうに例外的な仕事だったと思います。
特に、伊丹十三の「世代的な傾向」について論じたものは管見の及ぶ限り存在しません。でも、伊丹十三もまた生まれ育った歴史的環境から自由に生きていたわけではありません。色濃く、その時代が刻み込まれている。僕はそんなふうに考えます。
伊丹十三は、『ヨーロッパ退屈日記』を20代の後半で書いて、鮮烈な、劇的なデビューを飾った人です。登場のときにすでに完成した文体を持っていた。かつ、そこで扱われたトピックは、“アル・デンテ”とか“エルメス”とか“ヴィトン”とか“ロータス・エラン”とか“ジャギュア”とかというような話でした。それらの単語を僕たちはどれも伊丹十三の本ではじめて知ったのです。
このトピックの選択は、1960年代のリアルタイムの日本人の消費生活水準から考えると、信じられないようなハイレベルの、ハイクオリティーの商品についてのものでした。でも、それらについての、非常に深い、一種の商品哲学のようなものが展開されていた。とりわけ、ヨーロッパの階層社会についての鋭い分析があった。
『ヨーロッパ退屈日記』は今から40年ほど前に、20代の青年が書いたヨーロッパ文化論だったわけですけれど、それが現在にしてなおリーダブルであるどころか、出版当時と変わらない高い批評性を維持できている。これは驚くべきことだと思います。
もし、それが、そのあと出てきた、『POPEYE』とか『Hot-Dog PRESS』とかいうメディアと似たような情報誌的なアプローチで、「今アメリカではこんな音楽が流行っている」とか「イタリアではこんなファッションが流行っている」というようなカタログ的なトリビアを披瀝するものであったら、とうのむかしに消費され尽くしていて、今さらそんなものを読み返す人はいなかったでしょう。でも、伊丹十三が書いたものに限っては、「どういう車がよい車であるか」とか、「どういうレストランで、どういう料理を食べて、どういうワインを選んで、そのときには、どういうような服を着て、どういう靴を履くべきか」というようなことを縷々書き綴ってある文章の魅力がいまだに少しも色褪せない。他の凡百の情報誌的なトリビア情報へのニーズがすべてかき消えたあとに、なぜか伊丹十三の商品情報だけが未だに残っている。未だに読むに堪える。それはなぜなのでしょう。
伊丹十三のエッセイに限って、いまだに読むと胸を衝かれるような鋭利な批評性が存在する。そのことにわれわれはもっと驚いていいと思います。このエッセイには他のものとまったく違う何があったのか。それは何か。なぜ「それ」は今でもリアリティを失わないのか。そういう問いはある程度時間が経たないと提起できないものだったと思います。
リアルタイムで『ヨーロッパ退屈日記』を読んだ編集者や批評家たちの中には、伊丹十三をかなり低めに評価した人もいたと思います。これを70年代以後すさまじい勢いで昂進してゆくことになる高度消費社会の前駆的な形態だとみなし、伊丹十三を「消費文化の旗手」のようなものとして高をくくり、「一時の流行り物だから、いずれ消えてしまうだろう」と思っていた人は決して少なくなかったと思います。実際にそう訳知り顔に言っていた人たちはかなりいたと思うんです。でも、残念ながら、伊丹十三は消えなかった。なぜ消えなかったのか。それはリアルタイムでの読者たちが、僕や関川さんのような熱心な読者も含めて、「見落としていたもの」があったからではないか。
今日のテーマは、実は『ヨーロッパ退屈日記』という一冊のエッセイを、徹底的に読むことで、この洒脱なエッセイが隠している深いメッセージを探るということなのであります。
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今日の演題には「戦後精神」と書きましたけども、伊丹十三が、高度消費社会の消費哲学とか商品記号論に似たものを先取りしていたせいで、僕たちは何となく彼を同時代人だと思い込んでいる。でも、そうじゃありません。彼は戦中派なんです。1933年生まれですから。これは、誰と同じかと言うと、江藤淳なんですよね。
江藤淳は32年の12月、伊丹十三は33年の5月生まれです。半年伊丹さんの方が年上です。われわれはそのふたりの顔を思い浮かべるとき、江藤淳というとなんとなく老成したときの顔を思い浮かべ、伊丹十三は若々しい顔を思い浮かべるから、10も20も年が違うように思いがちです。でも、彼らは実は同世代なんです。
33年生まれということは、戦争終わった時に12歳ということです。つまり、戦前の軍国主義の時代に少年期をまるごと残してきた世代だということになります。
前に高橋源一郎さんと、吉本隆明と江藤淳というふたりの戦中派についてかなり集中的に話をしたことがありますが(「戦後批評 吉本隆明と江藤淳 ―最後の『批評家』」、『中央公論』2011年12月号)、この世代には他には見ることの出来ない、きわだった特徴があります。
彼らより年上で、実際に応召して戦争に行った世代は、ある程度戦争の実情を見てきました。だから、「天壌無窮の皇運」とか「八紘一宇」とったイデオロギーが実は無内容な空語であるということを、兵士の実感として、あるいは生活者のリアリズムとして知っていた。中でも知的な人たちは、この戦争には大義が無いこと、いずれ敗北するだろうということまで予測していた。その戦争の中をともかく生き残って、敗残の祖国でもう一度生活を再建しようと考えていた。そういう人たちにとって敗戦はリアルな経験ではありますが、さまざまな苦労のうちの一つに過ぎません。
一方、僕たち戦後生まれは、戦争に関して何の記憶も持っていない。従軍したこともないし、空襲を逃げ回ったこともないし、飢えたこともない。日本が民主主義になった後に生まれて、右肩上がりの経済の下で、好き放題暮らしてきた。
この戦前派と戦後派のあいだに、戦中派という集団がいます。少年期には戦争の大義を信じ、おそらく20歳になる前に自分は死ぬだろうと覚悟を決めていたのが、ある日、戦争が終わる。昨日まで自分たちを鼓舞していた教師たちや周りの大人たちが、「間違った戦争が終わり、これからは民主主義の時代だ」と言い出した。「墨を教科書に塗らされた世代」です。
この世代の人たちが総じて懐疑的な精神の持ち主になるのは、歴史的事情からすれば当たり前のことです。でも、それは単なる懐疑的というのとは違う。
戦中派の特徴は、10代のある時期まで、ひとつの偏ったイデオロギーの中で育てられてきて、そのような世界しか知らないのに、ある日、あなた方が現実だと思っていた世界は幻想でした。あれは「なし」ということになりましたと宣告されたことです。
戦前派であれば、戦争に入っていく前からプロセスを観察している。だから、「戦争以外の選択肢もあった」ことを知っている。戦争になったときに、鶴見俊輔や丸山眞男や加藤周一のような知性は「この戦争は負ける」と予測できた。そういう人は戦争が負けたときにも、別に天蓋が崩れるような衝撃を感じることはない。「やはり負けたか」と思うだけです。
でも、33年生まれだと、そうはゆかない。満州事変が31年ですから、物心ついたときからずっと日本は戦争状態だった。「戦争をしていない日本」を知らない。すでに始まっていた戦争を日常的に呼吸し、戦争をする国家であるところの大日本帝国の「少国民」であることを自己同一性の一番基本に据えていた。その社会で価値ありとされていたものを自らの価値としていったんは血肉化していった少年たちが、ある日、それを捨てろと言われた。「1945年8月15日以前の自分を切り離して、今日から新しい自分が始まる」といったようなアクロバット的なことができるのか。僕はこの仕事にどれほど真剣に立ち向かったかによって、この世代の人々の知的なあるいは感性的な深みは決定されたのではないかと思っています。
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僕は以前『昭和のエートス』という昭和人論に、この世代の屈折について書いたことがあります。彼らは戦前に取り残した、おのれの半身を取り残している。少年期の経験も、喜びも、悲しみも、高揚感も、感動も、全部戦前の日本の記憶に貼り付いている。少年期に吸った空気、そこで自然だと思って取り込んできた概念や美や価値は、もう自分の中に受肉してしまっている。それを切り捨てろと言われても、それを切り捨てては、自分というものが立ちゆかない。「戦前に残されたおのれの半身のうち、戦後社会においてもなお生き延びるに足るものは何か?それなしでは自分が自分でいることのできないぎりぎりのものは何か?」それを探し出して、何とかして、それを戦後の半身に縫合しなければならない。
この仕事の模範は年長世代のうちに見出すことはできません。周りを見回しても、これを完遂せずには自分が立ちゆかないと思い詰めているのは、自分と年齢の変わらないものしかいない。でも、みんな子どもたちですから、その中に、「こうやって私は切断された少年期の半身を奪還して戦後に縫合してみせた」という成功事例を語れるものはまだ一人もいません。だから、彼らは自分ひとりで、独力で、そのやり方を発見しなければならなかった。
大人たちは「軍国主義教育はすべて間違っていた。これまで君らが習ったことは嘘だった」と言う。でも、そんな言葉に軽々しく従うわけにはゆかない。軍国少年であった少年期において自分が信じたことのうちには、本当に人間がそれを信じ抜くに足ることも、人間が生涯をかけて守り切るべきもの、そのために死んでもいいというようなものも、含まれていたはずだからです。それを戦後社会は「全否定せよ」と言う。誰もそれを守ってくれない。だったら、少年たちが自分で自分の過去を守るしかない。
そういうふうに考えたのが、戦中派の特徴だと僕は思います。その使命感は、先行世代にも後続世代とも共有されていない。この固有の世代的使命を感じていた集団に伊丹十三もまた属していた。そして、彼のいささかわかりにくい特性の多くは、この世代的な条件づけによっていくぶんかは解釈可能である、というのが僕の仮説なのです。
例えば、江藤淳の戦後の仕事を見ると、明らかに戦中派的なこだわりを僕は強く感じる。
60年代から後の江藤淳がもっとも心血を注いだ仕事の一つは戦後日本におけるGHQによる検閲の検証でした。江藤は大学の60年代にサバティカル(長期休暇)を使って、ワシントンに行き、ほとんど取り憑かれたように公文書館に通って、GHQの占領期日本における検閲の記録を精査しました。その情熱はほとんど「妄執」というのに近い。
江藤が明らかにしたのは、占領期にGHQが日本の出版メディアに対して徹底的な言論統制を行っていたことです。「言論統制が行われている」という当の事実までが言論統制されていた。だから、占領期の日本人は行き交う言論が「検閲済み」のものだということさえ知らなかった。戦時中でも、人々はメディアの言葉が「検閲済み」であり、戦争指導部にとって不都合な情報はそこには開示されないということを知っていました。でも、占領期の検閲はさらに徹底的だった。そして、日本人はそのことを知らなかった。占領軍が去ったあとでも、それについては知りたがらなかった。江藤はその欺瞞性を暴き出しました。
この研究に学問的にどんな意味があるのかは、僕にはよくわかりません。江藤淳以後に、この研究を継続した人がいるのかどうかも知りません。江藤の学的貢献が政治史的に重要なものとして敬意を持たれているのかどうかも知りません。たぶん後続世代には、江藤のこの執念はうまく理解できなかったのだと思います。
僕は、この検閲研究は戦中派世代からの悲痛な異議申し立てだったと思います。「戦前においてわれわれはイデオロギー教育を受け、強いバイアスのかかった教育によってものの見方を歪められていた。だが、戦争が終わり、言論統制もイデオロギー抑圧も取り去られ、ついにわれわれは自由に語れるようになった」という物語を江藤たち少年は戦後、大人たちから聴かされて来ました。けれども、そう言って民主主義の旗を振っていた人々もまた戦前のイデオローグと同じなのではないのか。日本人は、8月15日以前は軍部によって言論統制され、それ以後は、GHQによって言論統制されている。民主と自由を謳歌しているつもりで、「アメリカによって検閲済みの言論」だけを選択的に語ることを強いられている。そして、それに気づかないでいる。それは、戦前に軍の言論統制に屈服したことよりもさらに恥ずべきことではないのか。江藤淳はそう言いたいのだと思います。
あたかも十全に自由を享受しているかのようにうれしげな戦後のリベラリストたちの言説に対する江藤のこの異議申し立ては、その攻撃が向けられているところだけを取り出して見ると、かなり反動的なものに見えます。でも、実際には、これは右とか左とかいう党派的な差別とは無関係な仕事だったのではないかと思います。
江藤淳は彼自身の少年期の言論空間を「工作されたものだ」として全否定した戦後のリベラリストに対して、「あなたたちが自由に語っているつもりの言説空間もまたGHQに工作されたものではないか」と言い立てている。つまり、江藤が言いたいのは、「8月15日に本質的な切断線はない。日本は敗戦の前も後も地続きなのだ」ということです。
江藤淳は必ずしも、そこから「だから日本人はダメなんだ」という総括的な批判を導き出したわけではないと思います。江藤淳という一人の生身の人間にとって、8月15日で日本がいきなり別の国になったわけではない。国はそのまま続いている。戦前の日本にあったものは、美しいものも、醜いものも、価値のあるものも、無価値なものも、かたちを変えはしたが、戦後日本にも生き延びている。デジタルな切断線を引いて、「ここから向こうはもう終わった時代の、もう存在しない社会だ。切断線からこちらだけがリアルで、線の向こうはアンリアルだ」と言う戦後リベラリストの健忘症を江藤は許せなかった。これもまた政治的に切り離されたおのれの半身を何とかして戦後日本の自分の半身に縫い付けようとする痛々しい外科手術のようなものではなかったのかと思います。
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僕は江藤淳の仕事と伊丹十三の仕事を比べてみると、そこにひとつの共通点があるのではないかと思いました。
『ヨーロッパ退屈日記』は、ご存知のとおり、1962年から63年にかけて、ニコラス・レイ監督の『北京の55日』というハリウッド映画に、チャールトン・ヘストン、エヴァ・ガードナー、デヴィッド・ニーヴンなどと共演するためにロンドンに行くところから始まります。でも、エッセイは実は映画の話から始まるわけではありません。エッセイの冒頭はこの一行から始まります。
「イギリス風のお洒落、なんていう言葉を耳にしたことがあった、と思うのだが一体何をさしていったことなのだろう。今日、わたくしは、白いヘルメットにプリーツ・スカート、ハイ・ヒール、そしてこれは一つ非常に洒落たつもりで、紫のストッキングをはいたという御婦人が、単車を乗り捨てて、教会へ入って行くのを目撃したのだが、どうですか」(伊丹十三、『ヨーロッパ退屈日記』、新潮文庫、2005年、12頁)
映画の話が出てくるのは、ずっと後の34頁目。
「台本を渡される。
『北京籠城55日』の籠城十日目まで。
前半というところろうが厚さ一寸くらいある。
このままとれば全部で六時間くらいの映画ができるだろう。いい加減に読み飛ばしたが、わたくしの出番は前半ほとんどなし。」(34-5頁)
『ヨーロッパ退屈日記』というエッセイを読んだ不用意な読者は、英語がよくできる日本の青年が、国際派俳優をめざしてオーディションを受け、ハリウッド映画で重要な役を獲得して、撮影現場でチャールトン・ヘストンやエヴァ・ガードナーと仕事をして、出演料でジャガーを買ったという、自慢話のようなものとして読むかもしれません。
でも、僕はこのエッセイの中で伊丹十三が言い落していることの方がむしろ重要ではないかとという気がするのです。
『北京の55日』を観た人はここにはどれくらいおられるでしょう。まあ、若い人ではまず見た方はいないと思います。これは義和団事件を扱った映画です。義和団事件というのは、華北に興った義和団という拳法を使う団体の拳匪たちが1900年に「扶清滅洋(清朝を助けてヨーロッパ人を殺せ)」というスローガンを掲げて、北京に迫ったときに、西太后がそれに呼応したことによって起こった事件です。その時、各国の大使や領事たちが北京に閉じ込められ、55日間に渡って義和団の激しい攻勢に対してよく防戦して、各国の市民たちを守った。
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映画自体は、チャールトン・ヘストン演ずるところのアメリカ軍のルイス少佐が大活躍をするという話になっている。でも、歴史的な事実から言うと、この『北京の55日』の北京攻防戦、北京攻城戦を担ったのは、実質的には日本軍なんです。
日本陸軍の柴五郎砲兵中佐が、この北京包囲戦の事実上の指揮官であった。というのは、彼が率いた陸戦隊のメンバーが最も練度が高く、最も統制が取れていた部隊だったからです。彼らの活躍によって『北京の55日』の籠城戦は完遂された。
そのとき陸戦隊の軍律の高さと勇猛さに感動した軍人出身の英国公使クロード・マクドナルドが、「日本という国は極東の島国であるけれども、兵の練度も極めて高く、規律も良く、また知的な人々によって構成されているのである。だから日本を植民地の対象にするような未開の島国と侮ってはいけない」ということを本国に具申した。のちに初代駐日イギリス大使となったこのマクドナルドの、高い日本軍評価に基づいて、1902年に大英帝国と近代化したばかりの極東の小国が同盟を結ぶという、世界史的にも異例な日英同盟が成立するのです。この日英同盟のおかげで、日露戦争におけるイギリスの有形無形の支援があり、それが日露戦争における日本の薄氷の勝利をもたらしたわけですから、この義和団事件における日本陸戦隊の働きは、日本人にとっては歴史的に記念すべき武勲なわけです。
このとき陸戦隊を率いた柴五郎という人は、代表的明治人の一人で、多くの評伝が書かれています。村上兵衛の『守城の人-明治人柴五郎大将の生涯』や石光真人『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』など、今でも柴五郎を顕彰する本は書店の棚から消えることがありません。
柴五郎は会津の人です。幼少のため白虎隊に加われず、祖母、母、兄嫁、姉妹が自刃し、生き残った家族と下北半島の斗南藩に移り、そこで零下15度の、屋根もない壁もない小屋で、極寒の冬過ごすという壮絶な少年期を送ったあと、縁あって陸軍幼年学校に入り、やがて立身を遂げて、会津はもちろん賊軍とされた東北諸藩出身者で初めて陸軍大将になった人物です。岩手出身の原敬と並んで、戊辰戦争以後、新政府の冷遇ゆえに、久しく不遇のうちにあった明治の東北人たちの期待を一身に担った人物でした。
柴五郎自身も、出自に対する強い責務の感覚を持っていました。賊軍とされて虐殺され、維新以後も「白河以北一山百文」と言われるほどに近代化から見捨てられた東北の士族を代表しなければならないとする気概がありました。明治政府に滅ぼされた会津の武士が、陸軍大将にまで登り詰めてゆく。自分の武勲によって、会津人に対する評価を改めさせてみせるという強烈な使命感に駆動されて軍歴を重ねていった人物です。そして、1945年、敗戦の年の暮れに割腹死する。明治を代表する武人です。伊丹十三が演じたのは、実はこの柴五郎の役なのです。
しかし、この『ヨーロッパ退屈日記』には柴五郎についての記述が一行もありません。一行もない。それどころか、なぜ彼がこの役のオッファーを受けたのかについての説明さえない。読者は同じ本のその後の方では伊丹十三が『ロード・ジム』のスクリーンテストを受けるために自費で行く話を読むことになります。役が決定するまでの映画界の実情について、役が決定するまでの緊張の日々を送ったという事情が書いてある。でも、『北京の55日』については、そのような記述はまったくありません。
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なぜ、『ロード・ジム』のキャスティングについては長々と書いている伊丹十三が、『北京の55日』については何も書いていないのか。
僕の仮説は、伊丹十三は柴五郎を日本人として演ずることに、一種の国民的な責務の感覚を覚えていたのではないか、というものです。
柴五郎に象徴されるような、誇るに足る日本人、純良な日本人、12歳までの池内岳彦少年が「そのようなものでありたいと願っていた」ある種の理想形を代表するような日本人を演じたかったのではないか。
でも、ここに柴五郎という人を演じるときの役作りの工夫とか、そのような日本人を演じることへの気負いのようなものが書き込まれていたら、『ヨーロッパ退屈日記』という作品はまったく違うものになってしまったと僕は思います。むしろ、作品として成立しなくなったのではないか。
『ロード・ジム』で彼が演じたのは、ウォリスという役は東アジアの村の青年です。この役を得るまでの過程については、台本を渡されたときから、監督リチャード・ブルックスによる演技指導について、スクリーン・テストについて、長い記述がある。それに比すると、柴五郎の役についての記述はほとんどゼロです。
監督ニコラス・レイの最初の構想では、各々の国籍の役柄を、その国々の俳優によって各国語入り乱れてやるということでした。でも、英、米、仏、伊、独、露といった国々については俳優が揃ったけれど、主要な役である西太后以下の中国人三人のキャスティングに難渋した。しかたなく、中国人をイギリスの俳優が演じることになり、全編英語でやるということになった。そのキャスティング事情を紹介したあとに、伊丹十三はこう書いています。
「日本人が日本人をやる、というわたくしが、いわばニック最後の砦だったわけなのです。」(40頁)
これだけです。ここにも、ほかの場所にも、役名さえ書かれていない。つまり、『ヨーロッパ退屈日記』の読者のうち、映画『北京の55日』を見ていない人たちは、この映画で伊丹十三が誰を演じたのかを知らされないのです。
僕はこの言い落としは故意のものだと思います。言わないことに意味があるのではないかという気がします。柴五郎はたぶん伊丹十三が素直に敬意を抱くことの可能な、例外的な日本の武人でした。ですから、この役をキャスティングされたときに、何らかの感動を覚えなかったはずはない。でも、それについて一語も記さなかった。自分が誰の役を演じ、それはどんな人物であり、撮影の二十年前にどんな死に方をした人物なのか、何も書かなかった。スパゲッティの茹で方やドライビングテクニックについてはトリビアの披瀝を惜しまない作家が、自分の演じた役については、一言も語らないということは、あきらかに均衡を逸しています。
『北京の55日』という映画は、その歴史的な歪曲について、特に中国側から、つよい批判を浴びました。義和団を悪役にした勧善懲悪の物語になっているからですが、それだけではない。チャールトン・ヘストン率いるアメリカ軍人とデビッド・ニーヴンのイギリス公使が北京籠城戦を事実上統率し、最も勇敢に戦ったという話になっているけれど、これは歴史的事実ではない。そして、北京籠城戦の事実上の指揮官である柴五郎は、映画において、ほとんど見るべき働きをしません。スクリーンの中心には英米の俳優が立ち、伊丹十三が出るときは、スクリーンの端しか与えられない。だから、テレビ放映用にサイズが縮小されると、伊丹十三の出演シーンでは、声だけ聞えて顔が映らないということさえ起きました。このような不当な扱いに対して、伊丹十三が何の心理的屈託も感じなかったとは考えられません。
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そう思って、『ヨーロッパ退屈日記』を読んでゆくと、微妙に含意のある文章があることに気づきます。一つは、主演のチャールトン・ヘストンについての記述です。
チャールトン・ヘストンはこのとき『十戒』『ベン・ハー』『エル・シド』に主演した後ですから、トップ中のトップスターでした。でも、偉ぶらない、愉快で愛すべき人物であるという好意的な言及を伊丹十三は繰り返しています。
ヘストンは、ご存じのように、俳優としてのほか、長く全米ライフル協会の会長をつとめ、2000年の大統領選挙でのジョージ・W・ブッシュ当選に貢献した人物ですけれど、若いときはリベラル派として人種差別主義と戦い、マルチン・ルーサー・キング牧師とワシントン大行進にも参加した。そういう弱者に配慮するリベラル派的な気質と、好戦的で自己中心的な「リアル・アメリカン」気質が同居している、ある意味できわめてアメリカ的な人物です。でも、伊丹十三は、そういうチャールトン・ヘストンのある種の無神経さにつよい嫌悪をも感じている。『ヨーロッパ退屈日記』には次のような記述がありますが、これはおそらくヘストンを念頭に置いて書かれたものだと僕は思います。
「普通の西洋人は、わたくしには、何かずっと酷薄な、武装した存在に感じられる。友だちづきあいをしていても、いつ、しらじらしいただの他人に変化してしまうかわからない。自分の権利が少しでも犯されそうになろうものなら、ただちに冷たい叱責をまなざしに浮かべて、激しく抗議してくるに違いない振幅の狭さが感じられて気が許せない。
あるいはまた、普段はひどく無口で、はにかみやの大男が、突然、われわれアメリカ南部の白人が、過去においていかに黒人と美しい協調をなしとげてきたか、いかに黒人が現状に満足しているか、黒人問題などというものは、実際問題として南部には存在していない、という驚くべき発言を、アメリカ人独特の、身についた正義の身ぶりで愚かしくしゃべりたてるのである。
これは我慢がならない。屈折のない心、含羞のない心、これは我慢がならない。」(74-75頁)
チャールトン・ヘストンについての、それ以外の箇所での好意的な言及と、今の引用の最後の箇所に表われる激しい嫌悪感はあまりに対比的です。でも、僕はこれはどちらも伊丹十三の実感だろうと思います。『北京の55日』はそのシナリオからして、アメリカ人の愚かしい正義面とアジア蔑視が剥き出しになった、人種差別的な映画でした。でも、それは無意識のものであった。アメリカ人自身はアジア人を救ったつもりでいる。伊丹十三はこの善意でコーティングされた人種差別と自民族中心主義を痛みとして感じたはずです。でも、その個人的感想は深く秘され、抑圧された。それがあえて固有名をあげずに、個人的な瑕疵を非難するというかたちで噴き出してきたのが今の箇所だと思います。特に、その批判が人種差別的であるという事実に対してではなく、「屈折のない心」「含羞のない心」に向けられていることに僕は興味を引かれます。
人間の歴史をふりかえるなら、戦争とか人種対立というのは「ふつうのこと」です。戦争に勝つものもいれば、負けるものもいる。たまたま軍事的・経済的・文化的優位ゆえに、他民族に対して差別的にふるまうことができるものがおり、差別されることを甘受しなければならないものがいる。歴史の流れが変われば、それぞれの立場が入れ替わる。逆転することもある。だから、戦争に勝ったり負けたり、経済的に優位であったり劣位であったりすることをあまり口うるさく言挙げすべきではない。伊丹十三はそういう構えで海外に出て行ったのだと思います。敗戦国日本の劣位は事実として静かに受け入れる。でも、それについて過剰な劣等感を持って、ことさらに自国の弱点や欠点を露悪的に語ったり、戦勝国の制度文物をありがたがったりすることはしない。日本には日本のすぐれた点があり、恥ずべき点がある。それをともに受け入れるのが伊丹十三のいう「屈折する心」だと思います。自国の誇るべき点を言挙げするときにも羞じらい、恥ずべき点を告白するときにも羞じらう。それが成熟した国民国家のメンバーとしてのあるべき態度ではないのか。そういうふうに考えていたのではないでしょうか。
ただ、それは同世代の江藤淳にあったナショナリズムの感情とはちょっと手触りが違うような気がします。もう一つ屈折が深い。敗戦国民が、マッカーサーに「四等国」、「精神年齢12歳」と侮られたときの屈辱感に由来するアメリカに対する反感や敵意とはたぶん違う。それほどストレートな反感ではない。そうであれば、もう少し率直に書いてもよかったはずなんです。でも、そのへんのところは丁寧に書き分けてある。ニコラス・レイにしても、チャールトン・ヘストンにしても、個人的な欠点をあげつらうことを伊丹十三は自制しています。でも、「アメリカ人」というようなひとつの人種類型、国民性格を取り上げるとき、不意にきわめて辛辣な記述を行う。
『ヨーロッパ退屈日記』を読んだ方はご記憶だと思うんですけれど、この本の中で厳しく批判されているものは二種類あるんです。ひとつは、アメリカ人が表現するような種類の、ある種の無神経さ、「屈折」と「含羞」の欠如。もう一つは、日本の「ミドルクラス」の醜悪さです。『ヨーロッパ退屈日記』のコンテンツから言うと、圧倒的にミドルクラス批判に大量の頁が割かれています。
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『ヨーロッパ退屈日記』というタイトルから想像すると、ヨーロッパにみられる文化的な質の高さ、自動車やファッションや料理の洗練を列挙しているかのように見えます。たしかに、それはきちんと紹介してある。でも、それは「返す刀で」、1960年代のわれわれの日本の、貧しさというよりは陋劣さ、醜悪さ、緩さ、自己規律のなさ、自己批判のなさを斬り捌いている。日本文化のだらしのなさに対して、伊丹十三はほとんど憎しみにものを感じている。そして、この日本人批判、日本文化批判を、当時の多くの読者は、「そうそう」と深く頷きながら読んでいた。そのことに僕は奇異の感を抱くのです。
僕が『ヨーロッパ退屈日記』を初めて読んだのは、もう文庫版になっていましたから、70年代の終わり頃だと思います。僕はまだ二十代でした。そのときは、「ずいぶん激しく日本を批判する人だな」という印象を持ちました。もちろん、爽快感も覚えました。でも、その時点で、伊丹十三が取り上げている事例はすでに微妙に古くなっていた。
ここで批判されているのは、高度成長期以前の貧しかった日本であって、それからあと、日本人は高度成長も経験してきたし、海外旅行にもどんどん出かけいるし、国際化もしているし、英語も話せる人が増えたし、ブランド商品も入ってきたし、もう「これほど」ひどくはないだろうと思った。これは高度経済成長以前の、まだ貧しかった時代の日本について、伊丹十三という非常に尖鋭的な精神の人が捉えた「その頃の日本人」の醜さであって、歴史的過去に属する風俗である、と。だから、この本が書かれたあと、日本人は、そういう批判をしっかり受け止めて、もっとお洒落で、シックで、洗練された文化を創り上げて、もう外国から愚弄されたり侮られたりすることのない国民になっていくに違いないと、そういうふうな期待を持って読んでいた記憶があります。もう、だいぶ前の話だよね。十年前位はこうだったかもしれないけど、今まはもう違うんじゃないかなあ・・・そう思って読んでいた記憶があります。
でも、この講演のために最近改めて読み返してみると、1960年代の日本について書かれたこの批判はすべて今も有効なんです。そのことに驚きました。40年経っても、ここで辛辣に批判されている日本の「ミドル・クラス」的な貧乏臭さはまったく払拭されていない。
ということは、この時に伊丹十三が批判していたのは、当時の日本が置かれていたある種の歴史的に特殊な事態ではなかったということです。歴史的条件に強いられた、敗戦国ゆえの後進性や貧しさや生活水準の低さや国際感覚の欠如を批判していたのではない。日本が仮に戦争に勝ったとしても、その後もついてまわったに違いない後進性や貧しさや国際感覚の鈍さを批判していた。日本人と日本文化に内在し血肉化している、根源的な惰弱、緩み、自己規律のなさに対して、自分自身の内臓に刃を突き立てるように、自己分析を試みた。僕はそんなふうに感じました。
さきほど申し上げましたように、アメリカ人に対する伊丹十三の批判も、それと同じもののように思います。彼が批判しているのは、歴史的なアメリカの個別的な政策であったり、制度であったりするわけではないし、もちろん個別的なアメリカ人ではない。そうではなくて、アメリカ社会が内在している、無垢なほどの幼児性、不作法、自己中心性、屈託のない正義感、そういった変わることのない国民性格を標的にして、それに向けて厳しい筆誅を加えている。
僕が最初に抱いた仮説は、この時期に彼が書いたものは、実は「一回ひねりの反米的言説」ではないかということでした。実は、伊丹十三は反米的な心情を隠蔽するために、あえて「ヨーロッパ」を迂回したのではないか。ヨーロッパはアメリカに対して、発生的には先行しています。アメリカよりも古く、アメリカよりも文化が高く、アメリカがそれに対して劣等感を持っている文化圏です。そのようなヨーロッパに直接アクセスすることで、アメリカに対するアドバンテージを手に入れる、そういう戦略ではないかと思ったのです。直接敵対するものを攻略するために、敵が「それだけには頭が上がらないもの」と直に繋がろうとするというのは、古典的な手口ですから。だから、伊丹十三もヨーロッパと直取引をすることで、アメリカを見下す視点を手に入れるという、迂回的な戦略を採用したのではないか、そう思ったのです。
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この迂回戦略は別に珍しいものではありません。日猶同祖論という不思議な理説があります。「日本人とユダヤ人は同祖である」というとんでもない話です。明治末期に突然生まれたものですが、日本社会に深く根を下ろしていて、いまだに日猶同祖論を信じてる人、あるいは信じたがっている人は少なくありません。これは日本人とユダヤ人は同系列の民族であり、聖書に出てくる「東」というのはすべて日本のことを指しているとか、元寇のときの神風から日露戦争の勝利まで、エホバの恩寵はつねに選択的に日本列島の上に輝いているというタイプの議論です。
日猶同祖論は明治末期に突然に出現したわけですけれども、論者全員に共通していることがあります。一つは少年期に外国人に就いて西洋的な学問を修め、キリスト教に入信し、アメリカ留学の経験があるということです。アメリカの大学で勉強して、学位を取って日本に帰ってきて、後進の青年たちの精神的・霊的な指導者になるべき人々が、相互の何の関連もなく、示し合わせたわけでもないのに、「日本人とユダヤ人は同祖である」という妄説を語り出した。ユダヤ人と日本人は、実は、同じ祖先から派生したものである。離散したユダヤ人の一部が古代に日本列島に渡来した。だから、日本文化の中にユダヤ教の教えは深く根を下ろしている、と。
なぜ、そういうことを言い出したのか。ロジックは簡単です。ヨーロッパやアメリカでユダヤ人が受けている迫害と、この時期に日本人が帝国主義列強から受けている迫害にある種の同質性を感じ取ったからです。
ユダヤ人が迫害されるのは、キリスト教徒に対して、文明史的に、霊性の歴史の上で、「長子権」を有しているからです。キリスト教はユダヤ教から派生してきた。派生したきた宗教が母胎宗教を罵倒するのは必然的なことです。
でも、この「長子であるがゆえの迫害」というロジックは日本人には快いものに聞えた。というのは、そのロジックを使えば、世界に冠絶する文化的な高みにあるがゆえに、われわれ日本人はそれを羨む欧米諸国によって迫害されているという話になるからです。
だから、これからは日本人はユダヤ人と協調して、帝国主義列強と戦い、彼らを屈服させ、彼らを睥睨する地位をめざさなければならない。そういう奇異な論が明治末年に登場してきて、一部に熱狂的な支持者を獲得しました。
僕はこの論の立て方にはそれなりの説得力があると思います。日本人とユダヤ人が人種的に同根であるとか、日本文化の深層にユダヤ教があるというような主張は、科学的検証に堪えないのですが、それでもこの「物語」のうちには、何かしら日本人の心の琴線に触れるものがある。自分たちが国際社会の中において劣位にあるときに、直接の上位者として自分たちを見下してる国よりも、さらに歴史的に古く、さらに文化が高い国とわれわれは「一体」なのだという論を立てれば、わが身についての劣等感は一時的に緩和されるからです。
ですから、『ヨーロッパ退屈日記』の伊丹十三は「ヨーロッパ」と「アメリカ」を対比させようとしているのではないかと僕は思ったわけです。
アメリカがそこから派生してきた起源であり、アメリカ人自身も、自分たちの方が文化的に劣っているということを自覚しているような文化的優位者たるヨーロッパと直接に通じることによって、かつてわれわれの国を軍事的に屈服させ、今なお日本を「属国」として支配しているところの事実上の「宗主国」に対して、優位に立つのは無理としても、せめて同じラインに並ぼうとした。そういう戦略ではないか、と。
現に、アメリカとヨーロッパの文化的深みの差について、『ヨーロッパ退屈日記』には印象深いエピソードが紹介されています。
チャールトン・ヘストンは若い時から乗馬が趣味で、西部劇の端役をしている貧乏俳優時代から、いつかロンドンで本場の乗馬靴を買うのは若い時からの夢でした。そして、ロンドンに来たとき、ショーウィンドーにすばらしい乗馬靴を見つけて、店内に入りました。慇懃な店員からのさまざまな質問に答えて、採寸して、ようやく発注を済ませました。その後日談をヘストンはこう語ります。
「その乗馬靴だが、注文して半年もたった頃、思い出したように送って来たんだが、中にはいっている木型がどうしても取れない。多分、見えないところに螺子(ねじ)かなんかがあって外すようになっているんだろうと思って随分調べたんだが、とうとう判らなかった。だから、あれは木型のはいったまま、今でもちゃんとしまってあるよ。」(59頁)
ハリウッドスターがロンドンの靴店の一店員に気後れしている様子がユーモラスに書かれています。ですから、伊丹十三たちがその話を聴いた後に「チャックはいい男だ、背広を着ると全く似合わないが、あんなにいい男はいない」(60頁)という好意的な人物評を行うのは流れとしては自然です。でも、それにこのような「同種のエピソード」が続くと、ニュアンスが変わってきます。
「それから誰かが、プロデューサーのマイク・ヴァシンスキーが、ロールス・ロイスを注文した時、扉の外につける御紋章はいかがいたしましょうか、と聞かれた話をして、-君も、ロールスを注文しに行く時は、あらかじめ答を用意していった方がいいよ-一座はしばらく沈黙におちいった。」(60頁)
この二つのエピソードが並べられると、「ヨーロッパ文化圏で高額の商品を買うことはできるが、そのものが本来何のためのものかをほんとうは理解していない(だから使いこなすことができない)アメリカ人」という皮肉な像が浮かび上がってきます。
ここにヨーロッパ文化という上位者を一つ噛ませることによって、アメリカの増上慢を「懲らしめる」という伊丹十三の戦略が僕は透けて見えたような気がしたのです。
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「臥薪嘗胆、捲土重来」、そういう屈託した心情は、江藤淳にも吉本隆明にも、伊丹十三にも、出方は違っても、戦中派の知識人たちの中には共通してあるように思います。というのは、戦争に負けた国の国民たちが、戦後まず口にすべき言葉は、原理的には「次は負けない」という言葉のはずだからです。
「今はしばらく苦しい思いをしているけれど、あともう少しがんばって、捲土重来を期すべし」。「次は負けない」というマインドでありさえすれば敗戦国民のモラルは決して劣化したりはしません。戦争は、すれば必ず勝つ国と負ける国が出る。敗戦国になる確率は50%です。歴史上のすべての社会集団は敗戦を経験している。百戦無敗なんていう国は存在しません。だから、負けたあとに、どうやって国を再建するのかという作業は、リアルかつプラクティカルな課題であって、別に妙にいじけたり、パセティックになったりするものじゃない。けれども、世界軍事史上、日本ほど負けていじけた国は珍しい。日本の負け方はちょっと尋常じゃありません。
そのことが「おかしい」と多分、戦中派の人たちは心のどこかで感じていたのではないかと思います。戦争に負けるというのは、誤解を恐れずに言えば、よくある散文的な事実にすぎません。だから、負けたら、「なぜわれわれは負けたのか」についてリアルでクールな分析をすればいい。失敗から学んで、有意義な教訓をそこから引き出してゆけばいい。軍略のどこに問題があったのか、社会システムのどこに欠陥があったのか、社会倫理や宗教やイデオロギーのどこが機能不全だったのか。敗戦の原因を摘抉して、問題点を補正し、「次は負けない」ように国家制度を設計してゆく。それが、本来であれば、敗戦国の一番基本的なマインドなわけです。
そのプロセスで「永世中立」とか「戦争放棄」という戦略が提言されるということも十分にありうる。「次は負けない」、「二度と負けない」ためには「二度と戦争をしない」というオプションはきわめて合理的なものだからです。でも、日本の戦後の平和主義というのはそういうものではありませんでした。「次は負けない」ために、敗戦をもたらした国家システムの瑕疵を徹底的に検証し、吟味した末に、振り絞るようにして選び取られた「戦争放棄」ではありません。「もうしません」と頭を下げることで罰を逃れようとしていたら、「もうしません」という「言質」を看板にして首から下げろと命令された。そういう「戦争放棄」です。だから、そこには深みのある思想がない。人間と国家の運命についての熟慮もない。
戦中派の一人として、伊丹十三が納得のゆかなかったのはその点ではないかと思います。戦争に負けたことはしかたがない。でも、こんな負け方はないだろう。なぜ、もっときちんと負けられなかったのか。負けた日本社会の欠点を洗い出して、それを総点検し、改善すべきところは改善するということをしないのか。
戦後の日本人の戦争についての歴史的総括というのは、きわめて単純で、「全部間違っていた」と「全部正しかった」のふたつしかありません。「よいところはよかったが、悪いところは悪かった」という、ごく合理的な判断を戦後の日本人は採ろうとしなかった。戦前の日本においても、こういう制度や、こういうルールは「よいもの」だった。だから、残さなければならない。これとこれは日本の国力を殺いだ「よくないもの」だったので、補正を要する。そういう一度クラッシュしたシステムを再起動するためのもっと「当たり前」のことを日本人はしませんでした。
なぜ、当たり前のことができなかったのか。それは、「負け方があまりにもひどかった」からです。常軌を逸してひどい負け方をした。あまりにひどい負け方をしたので、戦前戦中の日本社会の中に、多少でも「生き延びるに耐えるもの」があるようには思えなかった。それほどひどい負け方をした。
とにかく日本の伝統的な美質は洗いざらい捨てられた。それと同時に、日本をこのような歴史的大敗に導いたところの日本人の惰弱、無責任、自己規律のなさ、集団主義、付和雷同・・・そういう倫理的な質に関する踏み込んだ批判もやはりなされなかった。「一億層懺悔」というのはそういうことですね。「負けたことはわかった。もう逆らわない。だから、もうこれ以上は責めないでくれ」ということです。
伊丹十三は、そのような戦後日本の精神的堕落を前にして、「誰もその仕事をする気がないなら、オレがやろう」と思った。僕はそんな気がするんです。大日本帝国敗戦の総括を単身で行おうとした。どのような日本人の国民性格の脆さが敗戦を導いたのか、それをどう補正すれば「次は負けない」ような日本を再建できるのか。それを誰も考えようとしないなら、オレがひとりで考える。伊丹十三はそう思ったのではないか。
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この世代を代表する知識人として、僕はさきほど吉本隆明、江藤淳の名を挙げました。ここに伊丹十三を加えて一つのグループに入れて論じた人は、これまでにたぶんいなかったと思います。でも、僕はこの三人はひとつのカテゴリーに入れることができると思う。彼らの共通点は「誰もやらないなら、オレがやる」です。それも、何をやるかというと、「日本をまともな国にする」という仕事です。
「この国を、そこに住む人間が誇るに足るような国にする」。それは決して経済成長して、国民一人あたり所得を増やすということではないし、もちろん軍事力を増強することでもありません。「人間の質を高めていく」ことです。言葉が抽象的にすぎますけども、「人間かくあるべし」「人間、こういうことをしてはいけない」ということについて、厳しく、徹底的に、執拗な、呵責ない批判を加えていく。そういう仕事をしたという点で、この三人には深いところで共通点があるように僕には思われます。
『ヨーロッパ退屈日記』の行間のそこここに、数頁に一度くらいの頻度で、日本のすばらしいところについて言及した文章がある。日本の食文化についての言及の場合もあるし、日本の着物のことについてのこともあるし、日本人の美意識についてのこともありますし、あるいは廉潔さですとか、潔さ、高貴さ、あるいは優しさ、長幼の序ですとか、そういった、かなり古めかしい倫理について言及している箇所が思いがけなく多い。ほとんどの方は多分、「アル・デンテ」とか「ジャギュア」とか、そちらの方の文章に引っ張られてお読みになったんじゃないかと思います。非常におしゃれなことが書いてある。でも、これはカタログ的なもの、旅自慢的なことが書いてあるわけじゃない。その行間に、「ヨーロッパの文化の中の、何を称えているのか」を読まなければならない。
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『ヨーロッパ退屈日記』を通じて伊丹十三が高く評価しているのは、ひとつは、ヨーロッパ人の自国の文化に対する誇りです。自分の国の美しいものに対して全身で守ろうとする気概、これを繰り返し称えている。
それは第一には、「クラフトマンシップ(職人芸)」というかたちで示される。これがこの本ではいちばん多いですね。すばらしい鞄や靴やカメラや洋服を作る、腕のよいアルチザンたちの仕事の質に対して、伊丹十三は素直な敬意を示します。この職人たちの仕事の質を担保しているのは、社会全体の「質の高いものに対する敬意」ですね。社会そのもののうちに、質の高い手仕事に対する敬意が根づいている。そして、そのような技芸を守り抜こうという高い職業意識を持った人々がいる。そのようなクラフトマンシップと、それを守っている文化に対する伊丹十三の真率な敬意、それは行間にあらわれている。
高度消費文化の中で現れてきたカタログ的情報は、商品をもっぱら記号としてとらえました。自分の流行感度の高さとか、エッジの立ったセンスの良さを誇示するために人々は血眼になって商品を選択する。でも、『ヨーロッパ退屈日記』における「もの」の紹介は、そうではありません。伊丹十三が評価するのは、自分たちが国民的に共有している文化、父祖から伝えられてきた伝統的な技芸に対する忠誠心と敬意です。そういうものに触れると伊丹十三の筆は震えるわけです。そして、それが必ず返す刀のように「なぜ、日本人はこれができないんだ」といううめきに近い言葉で出てくる。
そこで、最初に僕が振ったテーマに戻ります。「なぜ伊丹十三についての包括的な、全体的な論というものが成り立たないのか?」
エッセイについてであったり、あるいはデッサンについてであったり、映画作品についてであったり、タイポグラフィについてであったり、個別的な彼の仕事に関しては、きちんとした批評の言葉が存在します。彼の仕事がきわめて質の高いものであり、それまでの常識を打ち破った大胆なものであるということは、繰り返し言及されています。でも、その全てに通底している、伊丹十三の根本的な趨向性というか志向性、「伊丹十三はどこに向かおうとしているのか」ということについて問うた人はあまりいない。でも、僕は彼がめざしていたのは、思いがけなく素朴なもののような気がするんです。「日本の伝統的なものの中の、質の高いものに対して繰り返し敬意を表する」ということ。それではないかと思います。
日本に限らず世界のどの社会についても、そこで「人々が守ろうとしているもの」、父祖から受け継いできた伝承や技芸に対する配慮と敬意。そういうものを政治や市場に委ねない決意。それは自分たちの共同体の「宝」なのだから、無言で引き継いでいかなければならない。そういう強い志を僕は伊丹十三の文章から感じます。
だから、彼が最も深く憎むものというのは、惰弱さ、自己規律のなさ、欲望や怠慢や無能にずるずると譲歩してしまう人間的弱さではないかと思います。とくに「貧乏くささ」。「貧乏くさい」というのは「貧乏」とは違います。「貧乏」というのは端的にひとつの状態ですが、「貧乏くさい」というのは、その状態をごまかそう、それを隠蔽しようとして、まるで貧乏ではないかのようにふるまうのだが、その「貧乏を隠そうとする作為」のひとつひとつがかえって貧しさを露呈してしまう。そういうありさまを言います。それこそが戦後日本人の最悪の部分だと伊丹十三は思っている。それについて書かれた箇所は無数にあるわけですが、とりあえず代表的なところを一つだけ選んでみます。
「わたくしは、過去に、随分貧乏してきたから、貧乏というものは嫌いである。貧乏そのものは何とも思わないが、貧困に由来するもの、つまり『貧ゆえの』という感じがやり切れない。
地下鉄などという愚劣なものには、一生乗りたくない。国電もいやだ。タクシーさえも大嫌いである。折り畳み式の蝙蝠(こうもり)傘、和式便所の蓋、電話の呼び出し、熱海へ一泊旅行に出かけた隣の小母さんから、小田原かまぼこの御土産を貰うこと、プラスチックの麻雀牌、こういうもの一切がわたくしは大嫌いだ。(…)
靴を磨くための天鵞絨のきれなんかポケットにしのばせている。折り畳みブラシなんか持っている。そうして会社の退けどきなぞ、チャッチャッと馴れ切った手つきで、器用に靴を磨くのである。
犬というとスピッツを飼う。弗入れ、というのか、鞣し革を二つ折りにして、真中にクリップをつけている。(…) 車を持っていない筈だのに、あるいはダットサンに乗っている筈だったのに、どういうわけか、ベンツのマークのネクタイ留めをしている。」(142-147頁)
こういったありようを総称して、伊丹十三は「ミドル・クラス」と呼ぶことを提案しています。
「ミドル・クラスとは、即ち中産家庭である。小金がありながら、趣味低俗である。本当の贅沢を知らないという点では、われわれ、その日暮らしの貧乏人に劣るのである。犠牲を払わずに贅沢をしようとするから、贅沢の処理が何とも中流でミミッチクなってしまう。」(145頁)
貧しいことは恥ずかしくない。恥ずかしいのは貧しいことを隠そうとすることである。言葉を換えれば、敗戦国民であることは恥ずかしいことではない。恥ずかしいのは敗戦国民であることを隠そうとすることである、ということになります。敗戦国であり、それゆえ国防についても外交についても安全保障についても主権国家としてのフリーハンドを持たない日本が、にもかかわらず英米仏露中と対等の独立国・主権国家であるような顔をするから、「何ともミミッチクなってしまう」。伊丹十三はそう言いたかったのではないでしょうか。
今、2011年のこの時点に、もし伊丹十三氏が生きていたら、日本の現況に対してどんなコメントをするだろう、と僕は時々考えます。今日も考えました。たとえば、先の大阪ダブル選挙の帰結について、「伊丹さんコメントしてください」って聞いてみた場合に、どんなことを彼は語るだろう…たぶん、吐き捨てるように「貧乏くさい選択だね」というコメントを下しただろうと思います。
人間が、自分自身の弱さや非力、無能を認めること、それは必要なことなんです。そこからしか始まらない。でも、そこに安住してしまって、そのポジションから、「私はこんなに苦しんでいる」とか「私はこんなに差別されている」とか「私はこんなに弱い」ということをアピールして、「誰か悪いやつがいるに違いない」、「何とかしてくれ」と泣訴するのは恥ずかしい。だが、「社会を何とか変えて欲しい」というコメントを有権者たちが平然と口にし、それをメディアが無批判に流す。ここはあなたたちの自分の国ではないのか。ひどい国だと思うなら、自分で何とかしようとするのが国民ではないのか。「私はこのひどい社会の、ひどいルールのせいで、ひどい目に遭っている。誰か、私に代って何とかして欲しい」というのは大人の市民の言いぐさではあるまい。たぶん、伊丹さんならそう言うと思います。「一体、男の誇りはどこにあるのか。男ならやせ我慢で押し通すべきではないか。忍の一字、これがダンディズムというものではないか。」(148頁)と言うのではないでしょうか。
今ご存命であれば、「日本人はここまで誇りをなくしたのか」と深いため息をつくだろうと僕は想像します。なぜ、伊丹十三の論が立てられないのかというと、それが大きな理由であるような気がします。
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つまり、日本人全体が、日本列島の一億三千万人全体が劣化してるから。今の日本は、社会システムとしても、そこに住んでいる人間たちの質そのものも、ゆっくり地盤が沈下するように劣化している。そして、そのことについての痛覚がない。「何とかしなければいけない、もう少し日本人は自分たちの持っている中の、限りある資源の中の残されたものをもう一度磨き上げて、そこを足場にしてもう一回踏ん張んなきゃいけない」というような言葉を誰も口にしない。みんなぼんやり口を開けて、自分自身の非力さ、社会的な無能、あるいは幼児性、そういうことを看板に掲げている。自分はこんなに非力です、こんなに幼児的です、こんなに社会的に訓練されていません、仕事もできません。そういうことを前面に押し出して、「なんで私はこんなになってしまったのでしょう。誰か、何とかしてください。ひどいじゃないですか、こんな目に遭わせて。」そういう語り口をする人々が現におり、それを誰も「おかしい」と言わない。弱者の泣訴をそのまま「正義の訴え」としてメディアは報道する。黙って、やせ我慢で、苦難に耐えて、社会を支える仕事をしている人間をメディアは組織的に無視する。泣き声を上げる人間の言葉だけが報道される。
今の日本では、幼児的である人間に向かって「君は幼児的だ」って言うことは批判として成立しないんです。「子供でなんで悪い!」と言う言葉が通る社会になっている。
戦後ずっとそうなんです。60年代から伊丹十三はそういう流れに気づいていた。そして、それをなんとか食い止めようとした。伊丹さんが、エッセイやテレビ番組やCMや雑誌や映画つくりなどさまざまな活動を通じてしようとしていたのは「日本人全体を教化する」という企てではなかったかと思うのです。
エッセイのいくつかをお読みになれば気がつくと思うんですけど、伊丹十三の文章はまっすぐ読者に向かって「みなさん」と呼びかけていますね。主題はさまざまで、場合によっては、ずいぶん趣味的なことであることもあります。でも、自分の言いたいことを読者は必ずや理解できるはずであるという前提で書かれている。読者の知性に対する敬意が前提されている。日本人なら私の言いたいことがわかってくれるはずだという祈りのようなものが込められている。
『ヨーロッパ退屈日記』に貫流しているメッセージは、「日本人よ、誇れるものは誇り、恥ずべきことは恥じよ」という、ごくまっとうなものだと僕は思います。でも、今の日本には、この「まっとうな戦中派の大人」から告げられる言葉を受け止める素地が存在しない。だから、伊丹十三についての論が立てられない。
僕たちの社会全体が、知性的にも感性的にも倫理的にもゆっくり劣化している。だから、彼の文章を読んでいても、この社会的趨勢そのものに対する批判を読み込むことがあまりに苦痛なので、それは読まない。その代わりに、伊丹十三の趣味のよさであるとか、批評の切れ味といったところを、あたかも完成度の高い美術品のように玩味しようとする。でも、行間から染み出してくるメッセージはそのような審美的なレベルのものではないと僕は思います。もっとずっと実存的に、われわれが襟を正し、膝を揃えて座ることを求めているように僕には思われます。
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僕は、今回、この講演のために何冊かのエッセイ、とくに『ヨーロッパ退屈日記』を付箋を貼りながら繰り返し読みました。その中の、国民倫理にかかわる箇所に全部付箋を貼ったら、とんでもない箇所になりました。昔読んでいたときには一体何を読んでいたんだろうと反省しました。
ですから、伊丹十三が受けてきたさまざまな誤解、あるいはレッテル貼り、過小評価とは送り手である彼の側の問題というよりはむしろ、彼が発信しようとしていたきわめてシンプルなメッセージを受け止めることをわれわれ自身が拒否していることの結果ではないかと思います。
もちろん、「日本人よ何とかしろ!」ということを道学者めいて上から目線で怒鳴り散らすような、偉そうな人たちはたくさんいます、でも、そういう説教をたれる人たちの生き方を僕たちがロールモデルにするということはありません。
僕が伊丹十三に感じる一番大きな魅力は、意外に思われるかも知れませんが、彼の「勇気」です。彼は孤立することを恐れていない。さらに言えば、理解されないということを恐れていない。
実際に、非常に多くの敵と伊丹十三は闘った。たとえば、暴力団との闘いにおいては、彼は実際に重傷を負いました。これを一映画監督が遭遇した不幸なエピソードというふうにおそらく日本のほとんどのメディアは総括したがっていると思います。でも、これは違いますよね、やはり。彼は絶対に踏み込んではいけないエリアに踏み込んだ。宗教とかヤクザとか闇社会とかとか。そういうところにまっすぐ踏み込む市民というのは、ふつうはいないわけですよね。怖いから。それだけのリスクを冒すような話じゃないと思っている。そういうところのコントロールは「プロ」に任せておけばいいと思っている。でも、伊丹さんという人は、そういうことに対して、恐れてはいけないと思っている。日本社会をまともなものにしようと思ったら、ふつうの市民が勇気を持たなきゃいけないと考える。
その勇気というのは、蛮勇ではありません。もちろん、権力があるとか、情報があるとか、あるいは有力な筋にコネクションがあるとかいうことではない。逆です。「孤立して、誰も支援がないというところでも、なすべき仕事は果たさなければならない」という覚悟のことです。僕はここに武士的なエートスに近いものを感じるんです。
あまりにご本人が洒脱で、そして、ある種の韜晦(とうかい)癖もあったということもあって、彼の気質の根本のところにある、禁欲的で、謙抑的で、朴訥な気構えはうまく伝えっていないのではないかという気がします。
だからこそ、今、文章を書いてる人も、映像を作ってる人も、芝居をやっている人も、伊丹十三を前にすると、自分自身にあれだけの勇気があるのか自己点検すると、つい恥じ入ってしまう。それを「威圧感」と言うのは違うと思うんです。でも、あの端正なたたずまいが、孤立を恐れずにすっくと立っている姿が、われわれの舌を凍えさせて、彼について語ることを妨げているんじゃないか、そういう気がします。
ですから、僕は、日本人が伊丹十三について、のびのびと、的確に語れるようになるということが、われわれの知的な、あるいは情緒的な成熟の賭け金であるという気がするんです。われわれが十分に知性的、感性的に成熟しない限り、伊丹十三が成し遂げようとしていたことはわからない。個別的な作品の良否について語ることはできるでしょうけれども、その全部を通じて日本人に向かって何を告げようとしていたのかっていうことはわからない。それをわれわれがきちんと受け止めて、われわれ自身のことばに置き換えていく作業は、しばらくは困難であろうという気がいたします。
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僕は、大江健三郎の小説を介して彼の名前を知ったときから、実際に彼の書いたものを読んだ20代のときからずっと、伊丹十三に惹かれてきました。ほかのさまざまなクリエイターや作家については、「ここが好きです」、「こういう影響を受けました」ということがある程度言えるんですが、伊丹十三に関してはずっと言えなかったし、今もうまく言えません。
「憧れている」のは確かです。でも、どこにどう「憧れている」のかは、よく分からない。それは、英語ができて、国際的なスターとしてハリウッドに進出したからとか、スパゲッティの食べ方を教えてくれたから、スポーツカーの運転の仕方を教えてくれたからとか、そういうレベルのことではない。そのたたずまいそのものの中に非常に純粋なものがある。高貴なものがある。そういう気がします。
たぶん今の日本人が一番評価できないのは、人間の高貴さだと思います。「ノーブルである」という形容詞を僕たちはもうほとんど使いません。現代日本人が人を誉めるときに絶対に使わないような形容詞を持つ人物を、われわれはどうやって形容したらいいのか。
伊丹十三という人を見ると、僕は、「ノブレスの受難」というものを感じます。「デリカシーの受難」とか「善良なるものの受難」という言葉は僕らにもすぐに理解できます。それを主題にした物語もたくさんあります。われわれはそれには慣れています。でも、「高貴な魂を持った人の受難」というのは、われわれは見慣れていない。少なくとも、現実生活において、高貴な人物がその魂の高貴さゆえに受難するなどという話は、ほとんど見聞きすることがありません。だから、そういった事例から何かを学ぼうという意欲も僕たちはもう持っていない。でも、その、われわれが今失いつつある人間的なある種の範例を、この人は体現していたのではないかと思います。
今、この年になってきて、40年間にわたってその著作を愛し、映画を見てきた人について、改めて、この人のどこに惹かれたのかといえば、それは一言で言えば、「孤立することを恐れない」ということだったと思います。
でも、彼が孤立を恐れないでいられたのは、彼の勇気を支え、担保していたものは、実はごく一般的な価値であったからです。何も特殊なモラルや、例外的な人間的純良さを当てにしていたわけではない。「人間は自己を律する規範を持たねばならぬ」、「人間は自分の弱さを許してはならない」、そういう当たり前のことを当たり前に実践していた。
僕は「境界を守る人」という言い方をするんですが、われわれの世界が人間的世界として成立するためには、人間的世界とその外側にある「非人間的な領域」を切り分けている境界線を守る人がいる。そういう人がいなければならない。
「非人間的な領域」からは、人間を汚し、損ない、傷つけるものが侵入してきます。それは邪悪なもの、暴力的なものという場合もありますし、あるいは、村上春樹が描く「リトル・ピープル」のようなせこい悪意や、見苦しい弱さというかたちを取るときもある。さまざまな形象をまとって、非人間的なものはわれわれの世界に入り込んでくる。それを境界線の向こうに押し戻す。誰かがその仕事を引き受けなければならない。
弱さとか、憎しみとか、嫉妬とかは、人間的なものだというふうにみなさんは思ってるかもしれません。でも、僕はそれは違うと思う。これは、人間世界に侵入してきた「非人間的なもの」と人間的なものが出会って出来たアマルガムのようなものだと僕は思っています。そういう中間的な合成物を通じて、「非人間的なもの」は人間たちの世界に侵襲してうる。邪悪さや嫉妬や暴力や怠惰、あるいは自己憐憫、自己規律の弱さ、そういったものは、そこを通じて「非人間的なもの」が滲入してくる回路なんです。
だから、いろんな姿をした人たちが、いろいろな名前を名乗って、境界線で歩哨の役をしている。僕は「歩哨(センチネル)」と読んでいますけれど、門番と呼んでもいい。サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のように「キャッチャー」と呼んでもいい。
「ライ麦畑のキャッチャー」はライ麦畑で遊んでいる子供たちの誰かが間違えて崖から落ちないように、崖っぷちで待ちかまえていて、子供が走ってきたら、ぱっとキャッチして、元に戻してあげる。「そういうキャッチャーのような人間に私はなりたい」とホールデン・コーフィールド君は言うわけですが、そのキャッチャーもまた歩哨の一種だと思います。
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人間的な社会は自然的に存在するものではありません。人間たちの不断の、真剣な努力があってはじめて、かろうじて成立している。「境界を守る人」たちは、そこに立って、人間社会を崩壊させかねない要素の侵入を食い止めています。でも、それは孤独な仕事なんです。そもそも誰かに依頼されて始めた仕事ではない。誰に命じられるわけでもなく、ひとりで思いついて、ひとりでやっている。その仕事のたいせつさは余人には理解されないし、だから尊敬されることもない。彼らが現に救っている人たちでさえ、自分が境界線の守り手たちのおかげで、安穏と生きていられることを知らない。
そういうかたちで人間的秩序を守ってる人間に対しては、われわれは、少なくとも、ときどきはその背中に向かって手を合わせるぐらいのことはしてもいいんじゃないでしょうか。
今の日本社会からは、「境界線を守る人」がしだいに減っています。もちろん、今でも必死になって崩壊しかけた戦線を守っている人はいます。その人たちの無言の、無償の働きがあるおかげで、われわれの社会はそれでもまだ秩序を保っているし、それなりに住むに堪える場所であり得ています。でも、このあとも、境界線を守る人を一定数、安定的に供給してゆかないと、この状況はもう長くは続かない。境界を守る人の数が減るにつれて、われわれの世界には、非人間的なものがどんどん日常生活の中にまで侵入してくる。
それらがあまりに日常的なかたちを取っているので、見た目は分かりにくいでしょうけども、たとえば、ネットに渦巻く呪いの言葉、政治を語る言説にあふれている攻撃性、他人に対する嫉妬や羨望。そういうものがごく日常的で、ごく人間的な感情でもあるかのような仮装をまとって、日常世界を侵犯している。
ですから、村上春樹が『1Q84』で書いていることと、伊丹十三が『ヨーロッパ退屈日記』で書いていることとは、実は、本質的には同じことじゃないかという気がするんです。人間が住んでいる人間的な世界を人間が守るためには、誰かが境界線に立って、侵入してくるものを押しとどめなければいけない。その仕事は「私がやります」と言って立ち上がる人間にしかできない。誰も求めないし、誰も命じない、誰も理解しないし、誰も感謝しない。それでもいいと思った人が引き受けるしかない。伊丹十三は、そういう仕事を引き受けた稀有な人のひとりではないかと思います。
だいぶ説教臭い話になりました。1000人の人を前にしてお話しする機会なんてなかなか与えられないので、言いたいことを言わせていただきました。わかりにくい話だったかも知れませんが、僕が今話したことは、「ほんとうにそう思っていること」をお話ししたのです。
ここにいる方々の中にも、「境界線を守る」ことを自らの仕事として引き受けて、黙々と働いていらっしゃる方がおられると思います。おそらく、評価されることも、社会的な支援を受けることもないでしょうけれども、どうぞ、その仕事をがんばってくださいてやり遂げてください。そして、この仕事には、伊丹十三という誇るべき先駆者がいるということを、記憶しておきましょう。
どうもご静聴ありがとうございました。
(2012-07-12 10:36)