同一労働最低賃金の法則について

2012-07-26 jeudi

自治労のセミナーで「橋下政治について」のシンポジウムに招かれた。
コーディネイターはTBSの金平茂紀さん。パネラーは香山リカ、湯浅誠のご両人と私。
個別的な政策の適否や政治手法については、もう多くの人が語っているので、屋上屋を重ねることもない。
まだ、この政治現象について「誰も言っていないこと」を言わないと、せっかく日帰り東京ツァーに出た甲斐がない。
私は「海外メディアは橋下徹と大阪維新の会をどう見ているか」というところから始めた。
私はフランスの『リベラシオン』の電子版で定期的に「フランスのメディアは日本での出来事をどう見ているか」をチェックしているが、『リベラシオン』にはキーワード「hashimoto」でも「maire d’Osaka」でも記事は存在しなかった。
『ル・モンド』には「大阪のポピュリスト市長が既成政党と官僚に全方位的に攻撃を加えている」という記事があったが、日本におけるこの政治的潮流の出現の政治的意味についての分析はなかった。
(帰宅後にThe Guardian を読んだら、ここにはかなり詳しい橋下現象解説記事があった。
興味深い記事だったので、終わりの方を採録する。

「日本は民主制では、決定することができない」と彼は記者会見で語った。「我々は終わりのない議論を行い、全員の意見をテーブルに載せるが、何も決められない。」
これを変革するために、彼は法律制定を妨げている参議院の廃止と首相公選制と地方分権を提案する。
「ヨーロッパにおける左右両極の過激派、民族派の出現と同じく、橋下はその支持を既成のメインストリームと代議制民主主義の不調に対する大衆的な不満から引き出している」とある日本の政治学者は語っている。
「彼は過度に単純化された、権威主義的な“回答もどき”pseudo-answer を提示するが、それは現実には何も問題を解決しない。だが、既存の政治システムに対する大衆的不満のはけ口にはなる。」
市長のサッチャー型の社会政策への賛意には日本のタカ派の元首相小泉純一郎を思わせる点がある。
彼は紛争解決の手段としての武力行使を禁止している日本国憲法の改正手続きの簡易化を求めているが、彼の批判者たちは、それは中国との領土問題での摩擦において軍がより攻撃的なものになる道を開くものだと述べている。福祉政策は、米国と英国の右派の後追いに過ぎない。「もちろんわれわれはまったく生計を立てる能力がない人たちについては支援しなければならない」と彼は言う。「だが、それ以外の人たちは、自分で何とかしてもらわねばならない。」
だが、政治学者はこの人物は官邸をめざすために自分のほんとうのねらいを隠しているとみている。「彼はマーガレット・サッチャーでもないし、小泉純一郎でさえない。彼はさしたる主義主張のないポピュリストである。彼はパワーゲームとして政治に接近している。彼がめざしているのは支配することそれ自体である。」(The Guardian, 17July, 2012)
(文中の「日本の政治学者」は記事中では実名。興味がある方は原文を徴されたい)。

たしかにこのプレゼンテーションが適切であるなら、橋下現象は海外メディアが特に興味を持って取り上げたり、踏み込んだ分析をするようなトピックではない。
橋下徹は欧米でもよく見る「ポピュリスト」政治家の一人であるに過ぎない。
海外メディアのこの相対的な無関心と、国内メディアの熱狂の温度差に私はどうもひっかかるのである。
海外メディアが「切って棄てる」ような書き方を採用する理由は二つ考えられる。
ほんとうに維新の会のムーブメントが「よくある話」であるのか、海外のジャーナリストがこの現象を適切に語る文脈なり語彙なりを「まだ獲得していない」のか。いずれかである
私はこういう場合には、できるだけ知性の行使を要求する方の仮説を採択することにしている。
私の経験則は「『変なできごと』が『変』に見えるのは、それを語る適切な言葉を私たちがまだ持っていない場合がある」ということを教えている。「変な現象」の「変さ」がそこにかかわる人たちの愚鈍さや邪悪さで説明できるケースは私たちが想像しているよりずっと少ないのである。
その上で、橋下徹と大阪維新の会のムーブメントは「前代未聞のものだ」という仮説を採択することにする。
別にしなくてもいいのだが、したことによって失われるのは私の時間だけである(私の話に付き合わされる読者の方々も時間を失うわけだが、それはご本人の神聖なる自由に属するので、私がとやかくいう筋のことではない)。
では、どういう点が「前代未聞」なのかというと、これが「経済のグローバル化を推進して、国民国家を解体しようとしている政治運動が外形的には愛国主義的な衣装をまとっている」という点である。
維新の会の政治綱領が、「手垢のついた新自由主義」であることは誰でもが認めている。
けれども、新自由主義はそれでも「選択と集中」によるトリクルダウンという「言い訳」を用意していた。
私たちに資源を集中せよ。私たちがそれによって国際競争力を増し、ワールドマーケットで大金を儲ければ、一時的に「割を食っていた」貧乏人諸君もその余沢に浴することができる、というあれである。
だが、維新の会のグローバリズムはもう「余沢」についてはほとんど語らない。「とりすぎのやつから剥ぎ取る」という話だけである。「剥ぎ取った分」がどこに行くのかということに、有権者たちはもはや興味を持っていない。
市長が着任して最初にやったことの一つは、大阪市営バスの運転手の賃金が高すぎるので、これを民間並に引き下げるということであった。
この政策に市民のほとんどは喝采を送った。
労働者たちが、同じ労働者の労働条件の引き下げに「ざまあみろ」という喝采を送るというのは、日本労働史上でおそらくはじめてのことである。
労働者というのは労働条件の向上のために「連帯する」ものだと思っていたが、それはもう違ってしまったのである。
現に市長の組合攻撃はすさまじい。組合員というのは「非組織労働者」には与えられていない特権を享受している「ワルモノ」であるという物語に有権者もメディアも同意署名を与えた。
それが自分たちの死刑執行書に署名したことかもしれないということに誰も気づいていない。
市営バスのケースは「同一労働では、最低賃金が標準賃金である」という文字通り「前代未聞のルール」に有権者たちが同意を与えたということを意味している。
このルールに大阪の有権者たちが同意した以上、これから後、彼らはすべての賃金交渉において、「同じ労働をもっと低い賃金で引き受けるものがいる」事例を雇用者側が示し得た場合には、最低賃金を呑む他ないのである。
だって、自分で「それがフェアネスというものだ」と言ったわけだから。
このルールの導入によって最も喜んでいるのはビジネスマンたちである。
すでに、「日本の労働者は人件費が高すぎる」という理由で生産拠点を海外に移し、国内の雇用を空洞化してきたグローバル企業のふるまいを日本人の過半は「それももっとも」と同意してきた(現に、大飯原発の再稼働を決断したとき、野田首相は「電力コストが高ければ、日本を捨てて国外に出て行くのは、企業家としては当然のふるまいである」として、グローバル企業の利益の擁護は原発の安全性に不安を抱く国民感情に優先するという「常識的な」決断を下した)。
それは、国内の雇用においても、「同一の能力であれば、いちばん人件費の安いものを雇う」というルールが一般則として適用されるということである。
ご存じの通り、現在、どの組織でも、非正規雇用労働者が溢れかえっている。正社員の他に、嘱託社員、派遣社員、アルバイトと雇用形態は識別しがたいほどに複雑に複線化した。
そのときに何が起きたか。
仕事ぶりを外から見ていると、それが正社員かアルバイトか区別できないということが起きてきたのである。
場合によっては、正社員よりアルバイトの方が業務内容を熟知しており、適切な判断を下すというようなことさえ起き始めた。
そのときに何が起きたか。
正社員と同じくらいに働くなら、「アルバイトの雇用条件を正社員並にせよ」という要求がなされたのではない。
逆である。
アルバイトと同じくらいの働きしかないなら「正社員なんか要らないじゃないか」という台詞が出てきたのである。
出てきて当然である。
雇用形態の複線化は論理の必然として、「同一労働の場合、それを最低の賃金で達成するものを標準とする」という「同一労働・最低賃金の法則」を導くということに私は導入時点では気づかなかった。
でも、今はわかる。
職場に業務内容が似ており、雇用条件の違う労働者を「ばらけた」かたちに配備しておくと、最終的に雇用条件は最低限まで引き下げることができる。
だから、経営者たちは非正規雇用の拡大に固執したのである。
彼らのロジックは「日本のような高い人件費では、コスト削減の国際競争に勝てない」というものである。
日本の労働者の絶対的な貧困化はグローバル企業にとって「好ましいこと」なのである。
もちろん、貧しい労働者は消費活動がきわめて消極的なので、日本国民のほとんどが下層に固定化された段階で内需は壊滅するが、とりあえずそれまでの間は人件費削減で浮いた分は企業の収益にカウントされる。
先のことは考えない、というのが資本主義の作法であり、国民国家の将来のことなど配慮しないというのがグローバル企業の常識であるから、それでよいのである。
前に国民戦略会議の「大学統廃合」について書いたときも述べたが、日本の財界人が国際競争に勝つために採用している最優先事項は「人件費を限りなく切り下げること」である。
低学歴低学力労働者を大量に作り出せば、場合によっては中国の労働者程度の時給まで国内の賃金を下げられるかもしれない。
人件費問題さえクリアーされるなら、国内で操業する方がずっと利益が大きい。
労働者のモラルは高いし、社会的インフラは整備されているし、怪しげな党官僚が賄賂をせびることもないし、テロや内乱の不安もないし、中国の労働者の賃金が上がって、「もっと賃金のやすい国」めざしてプラントごと引っ越しをする移動コストも考えなくてよい。
実際に、「焼き畑農業的」に生産拠点を移してみたが、このやり方が予測したほどに安定的な利益をもたらさず、むしろコストとリスクを増やすことに資本家たちも気づいてきたのである。
できることなら、日本にいたい。
そこで、日本の経営者たちは「こんなに人件費が高くては生産拠点を国外に移すしかない」という言葉をことあるごとにメディアを通じて「国内向けに」アナウンスすることにした。
これは別に「そのうち移転しますので、みなさん心の準備をしていてくださいね」と事前に親切に告知しているわけではない。
そうではなくて、「国内にいてほしければ、人件費を下げろ」と言っているのである。
政治家も官僚もビジネスマンも大学人も、みんなそれを聴いて「わかりました」と頷いて、「どうやったら人件費が安くなるか?」という問いへの最適解を求めて知恵を絞り始めた。
とりあえずやってみて効果があったのは:
(1)学力が低い若者を大量に作り出し、「自分のような能力の人間には高い賃金は要求できない」という自己評価を植え込む。
(2)同一労働に雇用条件の違う労働者を配備して、「こんな安い給料で同じ仕事をしている人間がいる」という既成事実を作り出し、「同一労働なら最低賃金」のルールを受け入れさせる
(3)製造コストや人件費コストが上がりそうになると、「では国内の製造拠点を海外に移します。それで雇用が失われ、地域が『シャッター商店街』化し、法人税収入が失われても、それはコスト負担を企業におしつけたあなたたち日本国民の責任です」というロジックで脅しにかかる
やってみたら、全部成功した。
大阪維新の会はまさにこのグローバル企業と政官が国策的に推し進めている「国内労働者の絶対的窮乏化」路線そのものを政治綱領の前面に掲げたという点で「前代未聞の政治運動」なのである。
「これから『反撃のできないセクター』から順番に、国民の既得権を奪い、そのつどの最低賃金で働いてもらいます」という彼らの政策に国民自身が拍手を送った。
たしかに、この制度改革は「グレート・リセット」というのに相応しいであろう。
なにしろ18世紀の市民革命から以後の労働運動の成果そのものを否定しているからである。
維新の会が権力を掌握すれば、体制が「変わる」という点については、間違いなく変わる。それは私が保証してあげる。
ただ、その「変化」は労働者の絶対的窮乏化と「グローバル企業」の収益の増大と彼らのいわゆる「国際競争力」の向上に資するものであることは告げておかなければならない。
この労働者の組織的連帯を破壊してゆく過程で、「愛国主義」が功利的に利用されているのだが、なんだか書いているうちにぐったり疲れちゃったので、今日はここまで。
「愛国主義はどうして国民的統合の解体に役に立つのか」については、前に書いたものがあるから、それを参照されたし。
http://blog.tatsuru.com/2007/06/20_1056.php
http://blog.tatsuru.com/2008/03/30_1850.php