レヴィナス『困難な自由』の再校が続いている。
ようやく半分ほど終わる。あと二日あれば、終わる。
夏前には本になるだろう。
あまりに内容がタイトなので、読んでいてこめかみがきりきりしてくる。
鈴木邦男『失敗の愛国心』を読む。
これは理論社が出している『よりみちパン!セ』という中学生向き図書シリーズのうちの一つである。ちくまの「プリマー新書」みたいなものらしい。
私も執筆を頼まれている(たしか天皇制についてだったような気がするけれど、違うかもしれない)。
「以下続刊」のところに名前が出ていた。
西原理恵子/リリー・フランキー/叶恭子/安野モモヨ/杉作J太郎/内田樹/中沢新一・・・というふうに著者名が並んでいる。なかなか意欲的なラインナップである。
鈴木さんの本を読むのは初めてである。
読み始めたら、面白くて最後まで一気に読んでしまった。
その本の中で鈴木さんは以前長崎市長テロ事件のあと『朝まで生テレビ』に何人かの右翼活動家とゲスト出演したときのことを書いていた。
司会の田原総一朗が活動家たちに「テロを支持するか」と質問すると、鈴木さん以外の全員が「支持する」と答えた。
そのときのことをこう書いている。
「僕は『テロを否定する』と発言し、あとで右翼のみなに批判された。(…) 『裏切り者』だと言われた。『仲間が愛国心で、命をかけて行動したのだ。警察やマスコミや一般の人々が批判しても、我々仲間だけは支持し、守ってやるべきだ。それなのに何だ』『仲間としての情がない』『マスコミ受けをねらった卑怯なやつだ』『自分だけがいい格好をしている』と言われた。」(鈴木邦男、『失敗の愛国心』、理論社、2007年、167頁)
それに対して鈴木さんは「それは違うだろう」と言う。
「それから十年以上たって思うのは、僕らはべつに人を殺したり、傷つけるために愛国運動をしているわけではない、ということだ。愛国心は人を殺すことではない。愛国心とは、この国を愛し、この国に住む人を愛することだ。殺すことではない。殺しては愛にならない。」(168頁)
右翼の行動主義のロジックは「自分たちの言い分に誰も耳を傾けてくれない」という被害者意識にドライブされている。直接行動をすると新聞が書き立てる。そして「何のために事件を起こしたのか?」という理由を書く。
「それで我々の主張も間接的に伝わる。それでいい。そう思っている人が多いのだ。
本当は言論でやりたい。だが、それがないから事件を起こす・・・と。後退した理屈だ。それに、せっかく『朝生』のような『言論の場』が提供されたわけだ。それで『テロは必要だ』はないだろうと僕は思った。言論の場があるのに、それから逃げて、暴力を訴えるのでは、かえって卑怯だ、そう思った。」(168-9頁)
ずいぶん率直な人だ。
愛国心とは、この国を愛し、この国に住む人を愛することだ。
私もそう思う。
その意味でなら、私も「愛国者」である。
「自国を愛する」というのは、「自国にかかわるすべてのものに好意的な(オーバーレイト気味の)まなざしをむける」ということだと思っている。
けれども、私の知っている「愛国者」たちは「自国にかかわるほとんどすべてのもの」に対して罵倒に近い言葉を投げつけている。
どうしてあれほど自国の制度や文化を罵り、同国人を嫌う人々が「愛国者」を自称できるのか、私にはうまく理解できない。
おそらく彼らのうちには「あるべき祖国」の幻影があり、それと現実の落差が耐えられないのであろう。
けれども、もし、「あるべき妻」についての確固たる理想があり、それと現実の配偶者のありさまとの落差が耐えられないので、朝から晩まで配偶者の挙措をあげつらい、その醜悪や鈍重を罵倒し続ける男がいたとして、あなたはその人を「愛妻者」と呼ぶだろうか。
私は呼ばない。
昨日も話したことだけれど、私たちは「愛する」という言葉を軽々しく使うが、実際には「愛する」というのがどういうことかよくわかっていない。
マタイによる福音書には「隣人をあなた自身を愛するように愛しなさい」という言葉がある。
私たちはその意味を知っているつもりでいる。
誰でも自分のことは愛せる。
それと同じような愛情を他人に向けることがむずかしいのだと思っている。
けれども、「誰でも自分のことを愛している」というのはほんとうだろうか。
私は違うと思う。
現に毎年日本では3万人の人が自殺している。
彼らは「自分を愛している」と言えるのか。
彼らはむしろ「自分を愛する」ことに失敗して、死を選んだのではないのか。
思春期の少年少女には自己嫌悪や自己との乖離感に苦しんでいるものが何十万人もいる。
彼らもまた「自分を愛している」とは言うまい。
向上心を持っている人間、克己心を持っている人間。「こんなところにいるはずの人間じゃないんだ、俺は」とイラついている人間。
彼らもまた「今ある自分」には満足していない。場合によっては憎んでさえいる。
その逆に怠惰に暮らし、ジャンクフードを貪り喰らい、酒を浴びるように飲み、皮膚にタトゥーを刻み、ピアスの穴を体中に開けるような人間もいる。
彼らはでは自分を愛しているのか。
彼は自分の「自己破壊欲動」に対してはたしかにたいへん好意的である。けれども、破壊されてゆく内臓や加工される皮膚に対して十分な敬意を寄せているとは言えまい。
今の日本に「私は自分を愛している」ときっぱり言い切れる人が何人いるだろうか。
あまりいないような気がする。
自分を愛する仕方を知らないものが、どうやって隣人を愛することができるのか。
隣人を愛することのできないものが、どうやって国を愛することができるのか。
それとも、自分のことも愛していないし、隣人も愛していないものでも、国や神は愛することができるのだろうか。
そうかも知れない。
とりあえず愛する対象が「ここ」に手に触れることのできる仕方では存在しないから、という理由で。
だが、今ここにいないものなら愛せるが、今ここにあるものは愛せないという人は「愛する」仕方を知っていると言えるのだろうか。
私たちは「愛する」というのがどういうことかをよく知らない。
その無知の自覚から始めるべきだと私は思っている。
「愛国心」についても同じことが言える。
「国を愛する」ということがどういうふるまいを指すのか私たちはよく知らない。
それを決定する権利は私たちの誰にも属していない。
だから、私は「愛国者」を名乗るのである。
私が自分を「愛国者である」と名乗るのは、ただちに「お前なんか『愛国者』じゃない」というリアクションがあることが「確実」だからである。
反論が確実であるからこそ、私はそう名乗るのである。
そこからはじめて「愛国とはどういうふるまいのことなのか?」というエンドレスの問いが始まるからである。
「失敗の愛国心」というのは、愛国を定義することに失敗し続けたという鈴木さんのシビアな自己認識を表している。
「国を愛するとはどういうことか」という問いに鈴木さんもまた軽々しい答えを出すことを自制しているように私には思えた。
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(2008-03-30 18:50)