午前中はめぐみ会の葺合、生田、長田、兵庫北、須磨、垂水西支部の合同支部会にお招きいただき講演をする。
神戸女学院の同窓生の姉妹がたがその結束と召命を確認すべく神戸クラウンプラザ(旧新神戸オリエンタルホテル)に結集されるのである。
めぐみ会の支部総会にお招きいただき講演するのは、京都、大阪に続いて三回目。
三都物語である。
本学教職員はめぐみ会に対してお返しすることのできぬほど深い恩恵があるので、講演依頼があると、他の用事はさておき、「万障繰り合わせて」参上することにしている。
6月は寝屋川支部からお呼びがかかっている。
昨日は東京支部からも「今度お願いしますね」と肩を叩かれてしまった・・・
テーブルに就くと、左となりはめぐみ会の石割初子会長、右となりは本城智子先生。
背筋を伸ばして、借りてきたチェシャ猫のように、最大限にフレンドリーな笑みを浮かべる。
演題は「日本の家族のゆくえ」。
姉妹がたはたいへんにオープンハーテッドな聴衆であり、なんといっても「身内」であるので、お気楽といえばお気楽である。
どんな話をしても、最後に「それにつけても神戸女学院は地上のパラダイスであります」というオチさえつければ暖かい拍手が送られるわけであるし、第一しゃべっている当の本人が心からそう信じているわけであるから、話は簡単。
日本文学協会のシンポジウムでは(前日多田先生に伺った「合気道家は入れ歯が合う」論を敷衍した)「言語は入れ歯である」説を唱えたが、今回は「配偶者は入れ歯である」説を語る。
「言語=入れ歯説」はとっさに思いついたにしてはたいへんよくできた話であるので、談ここに及んだことを奇貨として、ここにその論の一部を掲げることにする(一部といってもけっこう長いです)
昨日は合気道の講習会がありました。杖と剣の講習会だったのですが、みんなあまり杖と剣をうまく使えない。そこで私の武道の師匠であります多田宏先生がどうやったらそういうものをうまく使えるのかということで喩え話を一つされました。それが非常に印象に残っています。
多田先生のお弟子さんに歯医者さんがいらっしゃって、その歯医者さんのおっしゃるには「合気道をやる人は入れ歯とのなじみがいい」と言うのです。だから、剣杖をうまく使えない人はきっと入れ歯と相性が悪いんだろうと先生はおっしゃった。
みんなそれを聴いて笑っていたのですが、私はこれはずいぶんと本質的なことに触れた話だなと思いました。
入れ歯というのは口腔中の異物です。その異物とどうやってなじんでいくか。健常な私がこちらにいて、その私の一部が欠損したので代替物、異物が入ってきたというような二項対立的な図式で入れ歯をとらえていると、たぶん入れ歯との咬み合わせはうまくゆかないんでしょう。
その歯医者さんによると、入れ歯が合わない患者さんは何度作り直しても合わないのだそうです。合う人は一発で合う。
だとすると、それは口腔の解剖学的な組成とはたぶんかかわりがない。口腔中の異物を異物としてずっと認知し続けるか、あるいはこれも自分の身体の一部分だと思うことができるか、そのマインドの差ではないかと思います。
武道では「敵を作ってはならない」と教えられます。
相手と対立しない。
武道的な意味での「敵」というのは、心身のパフォーマンスを低下させるすべての要素を含みますから、もちろん歯が抜けて入れ歯を入れるという場合の入れ歯も原理的には「敵」にカウントできます。
けれども、それを「敵」だと思わない。
それとふわっと一体化してしまう。
本来あるべき理想の私、健常な私を幻想的に措定して、それが病魔や怪我によって損なわれているので、原状を回復しよう・・・という発想で病を捉えていると、病となじむことができない。臓器や手足の機能不全も自分の一部として受け容れ、それとさりげなく共生していく。
それが「敵を作らない」人間の異物とのかかわり方です。万有共生という考え方です。
私と異物の両方を含む共生態そのものを「私」として再定義する。「私」の次元を一つ繰り上げる、ということです。
先生の言われたことがこれだけ気になったのは、「口腔中の異物」というのが言語の比喩のように私には思われたからです。
私たちは自分の発する言語に違和感をもつということがありますね。「これは『ほんとうに言いたいこと』ではない」と。でも、自分の発する言葉にいつまでも違和感をもってしまう人間は結局どれほど大量の言葉を重ねても、入れ歯が合わない患者と同じように、もしかすると一生自分の言葉となじむことができないのではないでしょうか。
どんなに修辞的に熟達しようと、自分自身の思想や感情を完全に過不足なく表現するということは人間の身には起こりえません。すべての言葉は言い足りないか言い過ぎるかどちらかです。だから、私たちの発するすべての言葉は原理的には「口腔中の異物」であるわけです。それを異物として排除してしまうか、少し違うけど、大体まあこのへんで許容範囲かな、と受け入れるか。そして、自分の言葉を異物ではなく、自分の身の一部として受け入れたとき、隙間やずれが消える。言い足りず、言い過ぎたと思っていた言葉が自分の言葉になる。そういうダイナミックな関係があるのではないか。
以前に「クローサー」という映画を観ました。ジュード・ロウとナタリー・ポートマが出る、まあどうでもいいような恋愛ドラマなんですけれど、その中に印象深いエピソードがありました。イギリスの新聞記者のジュード・ロウが街角で交通事故に遭ったナタリー・ポートマンを拾ってタクシーに乗る。車の中で、女の子にどんな仕事をしているかと訊かれた男は、自分はジャーナリストで、死亡記事を書いていると答える。「そんなことをしていて楽しいの」、「楽しくない、いまにもっといいものが書けるようになると思う」と言ったあとに、男はこう続けます。
「ぼくはまだ自分のヴォイスを発見していないから。」
つまらない映画だったんですけれど、この台詞にはどきっとしました。「自分のヴォイスを発見する」というときの、この「ヴォイス」というのは一体何のことなのでしょう。
たぶん、ふつうの人はこれを自分の思いや情感をぴたりと表現することができるような「自分らしい言葉づかい」のことだと思われるでしょう。でも、それを探しているかぎり、私たちは入れ歯の合わない患者のままなのです。
「ヴォイスを発見する」というのは、自分自身の思いをくまなく表現できる言葉に出会うというようなことではおそらくない。むしろ「自分の思いなんか、言葉にできなくてもいいじゃないか」という涼しい諦観を得ることではないのかと私は思います。そうなってはじめて人はのびやかに言葉を使うことができるようになる。「ヴォイスを発見する」ということは「入れ歯になじむ」ということと同じだろうと私は思います。どんな言葉でも構わない。どんな異物でも、仮にも一度は自分の口腔中に存在した、ご縁のある異物であるなら、その言葉にはきっと何かそこにいなければならないような必然性があったんでしょう。
自分の言葉を聞いて、その後で、なるほど自分がこんなことを言いたかったのか・・・と後でわかるということが現にあります。それが「ほんとうに言いたいこと」だったかどうかなんて、誰にもわからない。私自身にもわからない。でも、現にその言葉が口にされた以上、「そのようなことを言いそうな人間」として自分を構築してゆくプロセスはもう起動している。人間が自分自身についてある程度首尾一貫性のある「物語」を語ろうとするならば、「一度口にした言葉」は自己史の文脈にやはり適切に位置づけられなければならない。私たちは現にそういうことを日々やっているわけです。だとすれば、「言語の自由」というのは自分にジャストフィットした、自分の思いを過不足なく伝達する透明なヴィークルを手に入れることではない、ということになります。そうではなくて、どんな言語を口にしても、それと気持ちよくなじんでしまうような語る側のやわらかいフレキシビリティのことではないか、と。包容力のことではないか、と。そういうしなやかさを獲得することを「ヴォイスの発見」というのだという気が私はしたわけです。
だって、ジュード・ロウは死亡記事専門の記者なわけですから。彼が「これこそ自分のヴォイスだ」という発見をして、いろいろな記事を書かせてもらえるようになるためには「ヴォイスが通った死亡記事」を書くしか手段がないわけです。それは「彼がほんとうに言いたいこと」でも何でもない。死亡記事なんですから。にもかかわらず、そこに彼だけしか出せないヴォイスが響くということがありうる、ということです。
先日、修士論文を書いている学生が相談に来ました。サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の野崎孝訳と村上春樹の訳の違いをテーマにしたいと言うので「面白そうだね」という話をしました。二人の訳のどこが違うのかというと、これはもう新訳についていろいろな人がコメントしていますが、あの小説で語り手は「you =君」に向かって語っているという構成になっています。でも、野崎訳はこの「君」をかなり飛ばしてしまっている。変なところで「君」が出てくると、なんだか違和感があるからでしょう。ところが、村上訳は「君」を全部訳している。だから文章のなかにポンと「君」が出てくる。そこにずいぶん違和感がある。村上訳はその違和感をあえて避けない。すると、読む方はその「君」というのはいったい誰なのかと考え出す。修士論文はこの「君」は何かということについての論考なんです。
その「君」は小説を読む限り、男の子で、ニューヨークに住んでいる。そして背が高い。要するにホールデン・コールフィールド自身です。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という作品はニューヨークで地獄巡りを経験したホールデン少年が、たぶん統合失調症を発症して精神病院に収監されて、その回復過程でなされた独白というかたちになっています。
でも、なぜホールデンは気が狂ってしまったのかよくわからなかった。それが村上訳だと、わかる。これはたしかに狂気に近づいてゆく言語活動だということがわかる。
それはホールデンが自分に向かってしか言葉を語れないからですね。
「君」というのはホールデン自身です。
この小説はホールデンがホールデンに向かって語っているのです。それは自分の言葉を正確に理解できるのは自分しかいないと彼が思っているからです。冒頭で、どこに住んでいるとか、家族構成はどうだとかいう「デイヴィッド・カッパフィールド的な話」はしないよ、とホールデンは宣言するわけですけれど、それは要するに読者に向かって、語り手についての外形的な情報を与えないと宣言していることですね。どうせ他人にはぼくのことなんかわかりゃしない。自分の話が理解できるのは「君」すなわちホールデン自身しかいない、と。読者に対するきっぱりとした拒絶の徴として「君」という二人称が採用されている。そのこと自体がホールデンの病態なのだ。私はそんなふうに読みました。
人間のなかには多様な人格要素が存在しています。自分のなかには卑しいところもあるし、高貴なところもある。攻撃的なところもあるし柔和なところもある。母性的なところもあるし、父性的なところもある。矛盾した多くの要素がごちゃごちゃと混在している。でも、思春期の子どもはそういう自分のなかに同時並列的に複数の人格要素が存在しているというありように耐えられない。どれか一つを選んで「これがほんとうの私だ」と宣言して、それ以外の人格要素を排除していこうとする。でも、それらの人格要素もまたまぎれもなく本人の中に根を下ろしているわけですから、自分らしさをピュアな単一人格として表現することは、手足をもがれるように痛い。
馬場さんが挙げられた原口統三の場合もその典型だと思います。ある人格要素だけを選択して、それだけが私であってそれ以外の人格要素は私ではない、と。そして最終的には「ほんとうの私」が「私の中に巣食っている異物」をまとめて清算するために、自殺してしまう。思春期における統合失調症はそんなふうに解離的に混在している人格要素を統合できる「ゆるい私」を作ることに失敗して発症する。そういうケースが多いですね。
ホールデンが回避する「デイヴィッド・カッパフィールド的な話」にしても、それをしてしまうと、両親がどんな人で、どういう家庭環境で育ってという話をするとホールデンを構成しているさまざまな人格要素のリストができてしまう。読む方も、なるほど、この人はそういうわけで「こういう人」になったんだなということがわかってしまう。ホールデンにしてみると、そういうふうに納得されては困るわけです。自分についての物語は自分が完全に管理したい。私はこれこれの人間であると名乗る権利は専一的に主体に属しており、他の人間から「でも、君にはこういうところもあるじゃないか」というような異議申し立てはさせない、と。ホールデンはそう宣言しているわけです。
今自分の言語を統御している単一の主体だけを残し、その主体が「語る権利」を独占する。それ以外のものには発言権を与えない。
そうなると理想の読者は自分自身以外にいない。
「君」に向かって語られるこの物語はですから完全に閉じられた世界なわけです。思春期の狂気が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」には濃縮されている。村上春樹さんはたぶんそのことに気づいて、これは怖い小説だというふうに言っているんだと思います。
80年代から「自己決定」とか「自己責任」とか「自分探し」とか、そういう言葉が行政主導でうるさく言われてきたわけですけれど、こういうことを思春期の子どもたちに強いるのは、統合失調症の誘因をかたちづくっているんじゃないかという気がしてなりません。自分のなかには無数の人格要素があって、それが対立したり対話したり抑制したりしている。成長の過程というのは、自分はそういう混沌としたものであるという事実を素直に受け容れてゆくことだと思うんです。そのためには緩やかな統合が必要で、その中心に位置する人格性はうすぼんやりした、あまり明確な輪郭をもたないものである方がいい。そういう人格なら、いろいろな人格要素のどれをも排除せずにゆるやかに統合できる。それに反して、水晶のように透明で、均質的で、隅から隅まで自分らしい自我を構築しようとして、すべての「汚れ」を排除しようとする人は思春期の狂気から出られなくなる。
とまあ、そんな感じでそのあとは90年代の国語教育批判に話はつながってゆくのであるが、それは省略しよう。
この中の「言語」を「配偶者」の置き換えて読んでみたらどうなるか、ということである。
「私たちは自分の配偶者に違和感をもつということがありますね。「これは『ほんとうに人生を共に過ごすパートナー』ではない」と。でも、自分の傍らにいる配偶者にいつまでも違和感をもってしまう人間は結局どれほど多くのパートナーを取り替えても、入れ歯が合わない患者と同じように、もしかすると一生自分の配偶者ととなじむことができないのではないでしょうか。
どんなにコミュニケーション技術に熟達しようと、自分自身の思想や感情を完全に過不足なく理解し受け容れる配偶者に出会うということは人間の身には起こりえません。すべての配偶者について100%の理解や共感に達することはできません。だから、私たちの配偶者は原理的には「生活の中の異物」であるわけです。それを異物として排除してしまうか、少し違うけど、大体まあこのへんで許容範囲かな、と受け入れるか。そして、自分の配偶者を異物ではなく、自分の身の一部として受け入れたとき、隙間やずれが消える。理解と共感の不足と思えていたことが、自分自身の可塑性を起動し、自己変革を動機づける。そういうダイナミックな関係があるのではないか。」
というのが「配偶者=入れ歯」論である。
これはめぐみ会ではたいへんに好評であった。姉妹がたは手を叩き、爆笑しておられたのである。
そのあと夜は宝塚ホテルでPちゃんとシオちゃんの結婚式の二次会にかけつけて、冒頭のご挨拶でこの「配偶者=入れ歯」説を再演したのであるが、こちらはあまりはかばかしい反応がなかった。
あら・・・と思ったが、理由は簡単で、その席には入れ歯をした方がおそらくひとりもおられなかったからである。
ともあれ、私がお二人に送りたかったのは、このような言葉だったのである。
ご多幸を祈る。
おっと、そんな簡単に結婚式の話を終わらせるわけにはゆかない。
東大気錬会と神戸女学院合気道部のあいだの結婚にはのぶちゃんかなぴょんの内古閑ご夫妻の前例があり、甲南合気会内部ではドクター佐藤と飯田先生ご夫妻の前例があるが、気錬会OBと女学院合気道部OGかつ甲南合気会門人同士の結婚というのは今回が最初である。
まことにめでたいことである。
これら三組の婚姻は私が合気道部を作ったり、道場を始めたりしなければ、もとよりありえなかったことであるからして、極論するならば私こそが彼ら彼女らの「福の神」なのである。
入れ歯話で多少滑ったくらいのことは諒とせられよ。
合気道家同士の結婚は如上の理由により、たいへん円滑に進行することが知られているので、お二人も幸福な結婚生活を営まれることを私は確信しているのである。
気錬会からはのぶちゃん、工藤君、中野君が来てくれる。披露宴で演武をしてくれたそうであるが、私は二次会からなので拝見の機を逸してしまった。
Pちゃんの関電の同僚と、シオちゃんの法律事務所の上司同僚もお見えになるが、80%くらいは合気道関係者であり、こういう「内輪のり」になるともう歯止めが利かないのがわれわれの会の「宿痾」である。
学生たちはかわいらしく「てんとうむしのサンバ」などを歌って、サキちゃんとアオキが宝塚風に踊ってくれたが、そのあとに出てきたセトッチ、エグッチ、スミッチの「ルパン三世」でいきなりヒートアップ。
この人たちはいったいどれくらいの時間をリハーサルに投じたのであろう・・・
エグッチの「あごひげ」は彼女が「越えてはいけない境界線を越えた」ことを物語っていたようである(セトッチは眼が「飛んでいた」ので、境界線を越えてずいぶん時が経過されていたようである)。
モリカワくんのピアノ独奏(こんな裏芸があるとは知らなかった。彼女もまた数週間にわたって猛練習を積んだらしい)。
そして、ヤベたちの寸劇。
ヤベ、クー、おいちゃん、かなぴょんの四人(現役のときはイクちゃんもいたが)は在学中に合気道部を「裏演劇部」に改組し、「シングルベル」(クリスマスイブの真夜中に岡田山ロッジ3階で上演が開始され、翌朝まで続くミュージカル)という年中行事を発足させた功労者世代である。
今回はおいちゃん宅に泊まりみ、結婚式当日午前5時までゲストのタカオくんをまじえて、スパルタンなリハーサルを繰り返したそうである。
ヤベくんには私の形態模写をギャグのメインにすえた「ウンパンマン」という歴史的名作があるが、今回もヤベに「ウチダ」を演じられてしまった。
それにしてもタカオくんの献身的な演技には頭が下がる思いがした。
彼の輝かしいアカデミック・キャリアに致命的な傷が残るということは心配しなくてよいのであろうか。
司会の労をとられた「ゑぴす屋」タニグチくんとタニオさんのコンビ、「Pちゃんのお母さんの手紙」を代読して、感動のさざ波を呼び起こしたキヨエさんはじめその他実に多くの方々が祝福のためにいろいろなものを「かなぐり棄てて」登壇された。そのすべての人に新郎新婦になり代わって(勝手に「なり代わる」権限は私にはないのであるが)お礼を申し上げたい。
みなさんどうもありがとう。
二人の上にとこしなえに神のみめぐみがありますように。
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(2008-03-30 13:32)