レオン・ブランシュヴィックの日記

2008-03-29 samedi

ようやくレヴィナスの『困難な自由』の再校に取りかかる。
ゲラが届いたのはたぶん三ヶ月以上前である。
再校などというものはふつう一日で済ませてしまうものなのだが、相手がレヴィナスということになると、自分の書き物のように「あらよっと」というふうに鼻歌まじり、家事の片手間にやることができぬ。
ある程度の期間、その世界に「拉致」されるだけの余裕がないと、レヴィナスは読めない。
読み出していきなり「ぼお」っとして時間を忘れてしまう。
「レオン・ブランシュヴィックの日記」と題する短文である。
ここには若き日にこの哲学者に親炙したレヴィナスの回想が記されている。
すてきな文章である。
レヴィナスの哲学は「邪悪なほどに難解」であるが、ときどきこういう、立ちくらみがするほどに手触りの優しい文章を書くことがある。
レオン・ブランシュヴィックの事績について、二つのことだけレヴィナスの文章から紹介しておこう。
一つは、彼が1882年につけていた日記のことである。
彼は哲学教授試験に合格して、その年ある地方のリセで教えていた。そして、エコール・ノルマル以来の友人で、ひさしく会っていなかったエリ・アレヴィに宛てて毎日自分の感懐を記した。
アレヴィもまた、ブランシュヴィックに宛てて、日記を書き綴った。
そして、ふたりは日記を交換した。
1937年にアレヴィが亡くなったときにブランシュヴィックは旧友の手帖をその未亡人に返した。
アレヴィ未亡人もブランシュヴィックの手帖を彼に返した。
ふたりの友人はそれぞれの日記を45年間手元に置いていたのである。
そして、1942年ヴィシー政府によってあらゆる活動を禁じられていたブランシュヴィックは彼自身の若き日の省察に対して返事を書き始めた。
少し長いけれど、レヴィナスの文章をそのまま引用しよう。

五十年の歳月を隔てた、自分と自分の間の対話。ジャン・ヴァールの美しい表現を借りれば、「一人の若い男と、つねに若かった一人の男」の間の不思議な対話。「私がこれほど私にそっくりであるというのは、驚くべきことである。」ブランシュヴィックは彼の古い日記を読み返しながらそう語っている。この言葉は、時を超えて個人的なかかわりにおいて変化がなかったと言っているように聞こえるかもしれないけれど、そうではない。レオン・ブランシュヴィックの存在が絶えざる自己征服とおそらくは挫折や妥協、総じて彼の人生全部を含んでいるということを忘れてはならない。「私」というものは「自己」に対する違和から始まる。一八九二年一月一五日、ブランシュヴィクはこう書いている。「私であることに耐えることができないでいる私、それが私だ。」この言葉は一九四二年の次の言葉と響き合っている。「五十かける三六五日にわたって相互に譲歩してきたにもかかわらず、私たちは相変わらずまだお互いにわずかな距離感を感じている。」

もう一つの逸話は1937年のデカルト学会におけるガブリエル・マルセルとの論争の一場面についての思い出である。
レヴィナスはこの回想をさまざまな著書で繰り返しているから、よほど深く心に残った情景だったのだろう。

私は一九三七年のデカルト学会のことを思い出す。その頃すでに哲学上の新しい思潮が出現してきていた。実存主義、カトリック思想、マルクス主義。苦悩、死、不安・・・そういう言葉が重くのしかかり始めていた。ある分科会の席上でガブリエル・マルセルはそれらの思想家たちには「内面的なものに対する感覚がまったく欠けており」、神に対して盲目であり、死に対しても盲目であると激しい口調で非難を浴びせたことがあった。するとブランシュヴィックはいつものいかにも気負いがないように見せようとする微かな気負いをこめてこう言った。「ガブリエル・マルセルがガブリエル・マルセルの死を気遣っておられるほどには、レオン・ブランシュヴィックはレオン・ブランシュヴィックの死を気遣っておりません。」もちろんブランシュヴィックの『日記』にも、老いてゆくことへの悲痛や死についての思いが綴られていないわけではない。しかしその悲しみはアイロニーによって鎮められ、賢者の微笑が哲学の門を守護しているのだった。

1945年に戦争が終わったときに世界からはさまざまなものが消滅した。レヴィナスが敬慕するレオン・ブランシュヴィックが体現していたような貴族的な知性もその一つである。
その本質をレヴィナスは次のような言葉でスケッチしている。

ヒロイックな自己超克とは別に、優雅な自己超克、本質的な無-重力性、知性の飛翔というものが存在する。その知性はあらゆることを思考するが、それによって、たとえ揺るぎなき断言によってであれ、自分自身が鈍重なものなることを避けようと気遣っている。断言の宿命的な重みをアイロニーによってやわらげることによって。そしてそのアイロニーそのものをさらにアイロニーによってやわらげることによって。
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