現代日本の精神的危機パート2

2008-03-28 vendredi

25日から春休みが始まり、この三日ほどは気楽な日々である。
懸案の用事を次々と片付ける。今日くらいから「冬物撤収」作業(こたつの撤去、もう着られない冬物衣類の廃棄など)に入れればうれしいことである。
グーグル・カレンダーを見ると、今日は空白である。
一日空白の日というのはいったい何週間ぶりであろう。
3月7日以来である。
その前はと見ると、2月6日である。
つまり、私の休日は月一なのである。

27日は朝カルで名越先生との対談「現代日本の精神的危機」の二回目。
名越先生に定期的にお会いして、最近の出来事について親しく専門的知見を拝聴して、帰り道にお友だちとプチ宴会を楽しみ、ついでにお鳥目までいただき、その対談内容を録音して活字化したものについては原稿料やさらには印税までくださろうではないかという、まるで慈善事業のようなイベントである。
釈住職、川上牧師、ウッキー、ヒロスエ、かんちき、タムラくん親子、トガワさんなど常連メンバーが詰めている。
精神医学と学校教育は決して「体制的」になってはならないという、かなりハードコアな話で締めたのだが、それまでは『唐獅子牡丹・人斬り唐獅子』の人類学的解読とか、宝塚歌劇と『冬のソナタ』における「焦点的人物」の設定とか、そういう楽しい話題ばかりである。
そのときに言い忘れたことを書き足しておく。
『人斬り唐獅子』はシリーズ中の白眉であるが、名越先生がその炯眼によって看破されたように、その理由はこの映画にむせかえるような「エロス」にある。
だが、その最たるものは巷間言われるような「花田秀次郎と風間重吉」のホモセクシュアル的愛ではない。
もっともエロティックなのは度胸千両の剣の親分(片岡千恵蔵)に対する寡黙な代貸(沼田曜一)と若頭(寺島達夫)のすがりつくような愛である。
彼らがまれに口にするのは「親分」という台詞だけであるのだが、そこにこめられたエロス的濃密さは、映画のクライマックスでの池辺良の歴史的名台詞に拮抗するものと申し上げてよろしいであろう。
「兄弟、俺も行くぜ。後生大事に守ってきた渡世の仁義ももう縁はねえ。今の俺には、生まれたときは別々だが、死ぬときはいっしょのおめえだけだ。」(書き写しているだけで動悸が激しくなってくる)。
だが、兄弟盃の水平方向の愛の難点はこの台詞から知れるようにまれに「説明」を要する点にある。
現に、この台詞が口にされるのは、重吉が東雲一家の代貸として剣の親分の殺害に関与したと疑った秀次郎の「この盃はけえすぜ」という絶縁の宣言に対してなされるのである。
ところが、これに類した危機は剣の親分への「親子の盃」関係では生じない。
剣の親分の「親としての有資格性」についての疑義を呈するものはこの世界に存在しないのである。
寡黙な代貸と寡黙な若頭のエロス的幻想は、「親分の盾になって死ぬこと」だけに集約されている。
私はこの濃密にエロティックな親子関係のうちに「天皇制」を支えるエートスを理解するについての鍵があると思う。
しかし、それはまた別の長い話になる。
『冬ソナ』はユジン(チェ・ジウ)になりきってミニョン(ペ・ヨンジュン)に恋をするという心理設定で見ないと意味がわからないという話をする。
現代日本の一般男性は「少女の身になって少年に恋をする」という想像的な心理設定の訓練を子どもの頃に受けていない。
学校でも家庭でも、そんなことは教えないからである。
そのせいで彼らはある種の物語を享受することができなくなっている。
私は10歳のときにジョルジュ・サンドの『愛の妖精』を読んで、「恋」というものがどのようなときめきやほてりを意味するのか、身体的に実感するところからその文学的経験をスタートさせた。
だから、「感情移入」の初期設定が「少女」になっている。
『若草物語』や『あしながおじさん』や『赤毛のアン』に夢中になったのはそのせいである。
『女は何を欲望するか?』の中のフェミニズム言語論批判で、私がフェッタリーやフェルマンの「すべての女性は男性として読むことを強制されている」という論を退けているが、それは彼女たちが「女性として読んでいる男性読者」が存在する可能性を一度も吟味していないからである。
そのほか面白い話がたくさんあったのであるが、これはいずれどこかから活字になって出るはずなので、それをお楽しみに。
名越先生とのセッションは次は5月8日。
釈先生をまじえて三人で「親鸞の顔」について論じるのである。
どんな話になるのか見当もつかない。
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