ビジネスマインデッドな行政官について

2012-07-27 vendredi

橋下徹大阪市長が文楽協会への補助金打ち切りの意向を示してから、「儲からない芸能」を行政が支援することの可否について議論がなされている。
市長が文楽協会の個人的なオーナーであり、彼が経費を支出している立場であるなら、「採算不芳部門は切る」という発言をすることは経営判断として合理的である。
だが、彼は文楽協会の経営者ではない。
地方自治体の首長である。
当たり前のことを確認するけれど、自治体行政はビジネスではなく、自治体の首長は経営者ではない。
にもかかわらず、自治体の首長が予算執行を「経営者感覚」で行っていることを誰も「変だ」と言わない。
私は「変だ」と思う。
誰も言わないようなので、言わせて頂く。
行政官はビジネスマンではない。
「もう少しビジネスマインドがある方が望ましい」という要求はありうるが、そういう言葉はふつう「ビジネスマンではない人間」にしか使われない。
行政は税金で運営されている。
まず納税者からお金を頂いて、それを分配するのが仕事である。
行政官に対しては、「税金を無駄づかいしている」という批判はありうるが「稼ぎが悪い」という批判はありえない。
誰もそんなことを言わない。
企業の場合は、そういう仕事をするセクションのことを「管理部門」と言う。
それ自体は何の収益も上げないし、何も創り出さない。もともと「管理部門以外の人々」が働きやすい環境を整備し、その創造的な活動を支援するのが本務である。
組織論でも書いたとおり、集団成員が150名以下の場合は、管理部門は要らない。
仕事をしている当人同士でダイレクトに「あれ、頼むわ」「おうよ」で話が片づく。
けれども、「マジックナンバー150」(ロビン・ダンバーが勝手に「ダンバー数」と呼んだライン)を越えると、組織が弛緩する。
怠業する人間、ものを盗む人間、指揮系統から離脱する人間などが出てくる。
しかたがないので、管理部門を独立させて、集団成員がまじめに働くように管理する。
彼らは価値のあるものを創り出すプロセスを支援するのが仕事だが、自分たちでは何も価値あるものを創り出さない。
行政というのはそのような管理部門である。
別にそういうものでよろしいのである。
だが、「ビジネスマインデッドな管理者」がここに据えられると、なぜか話が込み入ってくる。
「ビジネスマインデッドな管理者」は「金を稼ぐ」というふるまいを過大評価する傾向があるからである。
金を稼ぐのはよいことで、稼げないのは恥ずかしいことだと思っている。
ところが、管理者自身は実は金を稼いでいない。
ものづくりをしている企業でも、研究開発部門や製造部門や営業部門のアクティヴィティに対応するような「自慢できる成果」を管理部門は「売り上げ」というかたちではお示しすることができない。
このことをビジネスマインデッドな管理者は何とか隠蔽しようとする。
そして、非生産部門である管理者がそれにもかかわらず「あたかも金を稼いでいるかのように仮象する」方法が一つだけある。
「コストカット」である。
コストをカットすると、目に見える「現金」がぽんと目の前に出現する。
それは「稼いだ金」ではなく、「払う約束だったものを払わなかった」だけなのだが、その金がまるで自分が「無から」創造したもののように本人には思えるのだ。
海賊たちがほかの船を襲ったあとに、ぶんどり品を甲板に並べて宝自慢しているときに、「オレもこれだけ稼いだぜ」と当の船員たちの給料カット分の金貨を並べる船長がいたら、たぶん海に突き落とされるだろう。
でも、「ビジネスマインデッドな管理者」がしているのは、実は「そういうこと」である。
彼がおのれのビジネスマインドを誇示しようとすればするほど、彼のコストカット努力はその領域を広げ、削減の比率は苛烈なものになってゆく。
最終的には彼が理想とするのは「集団の行う作業量は現行のままで、人件費はゼロ」というものになる以外にないのだが、さすがに論理的に「人件費ゼロ」で働く人はいないので、「限りなくゼロに近い水準」が理想となる。
この理想は、労働者の平均賃金が下がれば下がるほど、その達成に近づく。
昨日申し上げた「同一労働・最低賃金」の法則である。
だから、「ビジネスマインデッドな行政官」が、組織内でのコストカット努力と並行して、「労働者の平均賃金の引き下げ」のために努力を惜しまないようになるのは当然のことなのである。
この点において、「ビジネスマインデッドな行政官」は国内の人件費水準を限りなく低下されることによる生産拠点の国内回帰を果たそうとしているグローバル企業家と高い親和性を示すことになる。
財界の人々は橋下市長に熱い拍手を送っているが、それは彼が「人件費カット」という本来なら労働者大衆から怨嗟の声が上がって当然の政治的行動を「既得権益者からの『不当な利益』の剥ぎ取り」というシアトリカルなかたちで遂行してくれているからである。
大阪の労働者たちは、自分たちが何をしているのか、実はよくわかっていないのだと思う。
昨日も書いたように、大阪の有権者は、市営バスの運転手の年収が阪神・阪急の運転手よりも高いことを「貰いすぎ」とみなし、その「貰いすぎ」分を剥ぎ取るべきだという判断を下した。
この判断は一見すると合理的である。
だが、いったんこのロジックに同意した人は、その後例えば「阪神・阪急より京阪バスの運転手の給与の方が安い。阪神・阪急の運転手は貰いすぎだ」という言い分がなされた場合に、ただちに同意しなければならない(「例えば」ですから。京阪バスの方、気を悪くしないでくださいね)。
さらに、「和歌山バスの運転手は・・・」とか「熊野交通のバスの運転手は・・・」とか(実際は知りませんけど)、同業種で一円でも安い賃金が発見されるごとに、同業他社の労働者たちの給与引き下げに有権者たちは満腔の同意を与えなければならない。
「知られている限り最も安い賃金との差額は『貰いすぎ』である」という危険な命題に大阪の労働者たちの実に多くが「理あり」とした。
彼らは、他ならぬそのロジックによって、彼ら自身の給与引き下げを雇用者から言い渡されたときに反論できなくなっていることにまだ気づいていない。
繰り返し言うが、「ビジネスマインデッドな管理部門責任者」はまずコストカットを行う。
それも全労働者に波及するような規模のコストカットを行う。
これは頭の悪い経営者が黒字を出すために、次々に採算不芳部門を廃止したり、分社化したり、アウトソーシングしたりするのと同じ発想である。
たしかに、そのせいで一時的に利益率は増える。
そうしているうちに従業員はどんどん減り、仕事はどんどん少なくなり、ある日気がつくと、「あ、会社をやっていること自体が採算に合わないんだ!」ということになって、消えてしまうのである。
でも、これはあながち絵空事ではない。
地方自治をまるごと民営化したいというのは、リバタリアンの「口に出されない夢」だからである。
公共サービスというものを全部止めてしまう。
全部民営化する。
その代わり、もう税金も払わなくていい。
実際にそうすることの方が資産家たちにとっては、はるかに合理的である。
自分の土地を要塞化して、そこに私兵を配備して部外者の侵入を防ぎ、召使いや執事を侍らせて、「主人」として君臨できる人たちにとっては、「公共サービスが全部民営化された社会」は一種のパラダイスである。
なにしろ、民営化された警察や消防や医療を「私企業」として自己所有すれば、自力で犯罪に立ち向かえない市民や、自力では火を消せない市民や、自力では病気を治せない市民たちから個別サービスごとに恣意的に課金して、ほとんど無尽蔵の収益を上げることができるからである。
それがリバタリアンの「口に出せない夢」である(まれに“重慶王”簿煕来のように実行しようとする人間もいるが)。
「すべての公共サービスの民営化」は資産家たちにとっては「税金を払わずに済む」だけでなく、「税金を徴収する立場になる」チャンスをも意味するのである。
いずれ「ビジネスマインデッドな行政官」は同じロジックを、役人や補助金事業から、遠からず政治家たちにも適用するようになるだろう。
市長の参院廃止論は「政治家に食わせる無駄飯はない」ということであった。
その意味ではこのロジックは「文楽無用論」と変わらない。
「収益をもたらさない芸能には存在理由がない」という命題に同意するなら、「収益をもたらさない公務は不要である」という判断にも同意するしかない。
その次は「衆院の定員削減」、「公務員定数削減」さらには「首相公選」へと流れは続くだろう。
「費用対効果の高い政治」を人々がほんとうに求めているなら、そういうことになる。
歴史上、独裁制に傾斜する政治過程ではさまざまな正当化のロジックが駆使されたが、政治家に対して、政治家であるより先に「コストカッター」であることを求め、その仕事がさくさくスピーディに運ぶために全権を委任することが効果的だと思う有権者が登場してきたのは、たぶん世界史上これがはじめてのことである。
だが、政治について考えるときに、あまり金のことばかり考えない方がいいと思う。
というのは、「費用対効果の高い政治」を徹底的につきつめると、意外なことに、最適解はたぶん「アメリカの51番目の州になる」というあたりに落ち着くしかないからである。
たしかに、これが日本列島の統治システムとしては、一番金がかからない形態である。
国会で「アメリカの州になります」と議決すればいいのである。
ハワイもテキサスもそうやって州になった。
そうなれば、中国との尖閣問題でも、北方領土問題でも、円高問題も、TPPも、もう日本人は自主的には何も考えなくてよくなる。
すべての懸案は日本人の肩から取り払われる。
全部ホワイトハウスが私たちに代わって処理してくれるのである。
沖縄における「外国軍隊の不法占拠」状態も一気に解決する(だってアメリカ軍は自国軍隊になるのである。彼らが基地外で市民に対して犯した犯罪は日本州警察が所轄し、オスプレイだってもちろん自国民の上に飛ばしたりはしない)。
日本州代表で、二人の上院議員と五人ほどの下院議員を連邦議会に差し出して、衆参両院は廃止。700人いる国会議員を上下院で50人の「日本州議員」に格下げ。都道府県は「市町村」に、「市町村」は「郡・大字・字」にそれぞれ格下げ。
費用対効果ということを最優先すれば、これがほんとうに最適解なのである。
ほんとうに。
日本という国民国家で「何をしたいか」ではなく、どうやって「行政の無駄を省いて、費用対効果のよい制度設計をするか」ということを最優先に配慮した場合に、この選択肢の「不合理性」を指摘することはきわめて困難なのである。
問題は天皇制をどうするかだけである。
そしてそのとき私たちは天皇制という「経済合理性になじまない制度」によってこの国民国家が統合されているという事実に直面することになるのであるが、それはまた別の話である。