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2012年06月 アーカイブ

2012.06.08

相互扶助と倫理について

片山さつき議員による生活保護の不正受給に対する一連の批判的なコメントが気になる。
「相互扶助」ということの本義に照らして、この発言のトーンにつよい違和感を持つのである。以下は朝日新聞の報道から。

人気お笑いコンビ「次長課長」の河本準一さんの母親が生活保護を受けていたことが、週刊誌報道をきっかけに明らかになった。4月12日発売の週刊誌「女性セブン」が最初に匿名で報じた。「推定年収5千万円」の売れっ子芸人なのに母親への扶養義務を果たさないのは問題だ、と指摘した。翌週にはインターネットのサイトが河本さんの名前を報じ、今月2日に自民党の片山さつき参院議員が「不正受給の疑いがある」と厚生労働省に調査を求めたことをブログで明かすと、他の週刊誌や夕刊紙が相次いで取り上げた。
報道を受け、所属事務所よしもとクリエイティブ・エージェンシーは16日、コメントを発表。河本さんの母親が生活保護を受けていたことを認めたが、「違法行為はない」とした。 同社によると、母親が生活保護を受け始めたのは河本さんの無名時代の12年ほど前から。
同社の担当者は朝日新聞の取材に「収入が年によって増減し、将来も安定的に援助できるか見通しが難しかった事情もあるが、認識が甘かった」と話す。
親族間の扶養義務は、民法730条に次のように定められている。
「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない」
自治体は生活保護の申請を受けると、扶養義務のある親族に扶養の可否と年収を尋ね、受給開始後も毎年調べる。しかし、調査に強制力はなく、回答の真偽を検証する手立てもない。
自治体の担当者からは、調査権限の強化を求める声が上がっている。
「親族に尋ねても『余裕がない』と断られるケースが大半だ」
「これまでは『親に生活保護を受けさせるのは恥』の意識があったが、『もらわないと損』の感覚が広がれば、法改正の必要があるかもしれない」
生活保護法では、親族から援助を期待できるかどうかは、生活保護を受ける際の要件ではない。高収入の子供がいるからといって、不正、違法となるわけではない。
だが、扶養義務の調査を厳正化すると、生活保護を受けるべき人たちが申請を控える事態を招きかねない。
専門家は「扶養は法律で強制するのでなく、当事者の話し合いで解決するよう導くのが本来の行政のあり方だ。生活保護を減らすには、就労支援など、先にすべきことがある」と話す。(朝日新聞5月25日による)

複雑な問題である。
It’s complicated というのは「簡単には説明できない事態」について、相手に判断の保留を求めるときのシグナルである。簡単に理非正邪の判定ができないことが私たちの社会にはある。
そういうときには、「とりあえず座って、お茶でも一杯」してから、長い話を始めるというのがことの手順である。
複雑な問題には、複雑な解決法しかない。
「複雑な問題」に「簡単な解決法」を無理に適用する人は、「散らかっているものを全部押し入れに押し込む」ことを「部屋を片付けた」と言い張る人に似ている。
そのときは一瞬だけ部屋は片づいたように見える。だが、そのままにしておけば、押し入れの中はやがて手の付けられないカオスになる。
生活保護の問題は「相互扶助」という複雑な問題にかかわりがある。
複雑な問題に簡単な解決法は存在しない。
弱者の処遇についての考え方は、単純化すれば二つしかない。
(1)社会的弱者は公的な制度が全面的にこれを扶助する。
(2)社会的能力の多寡は本人の自己責任であるので、公的制度がこれを扶助する理由はない。
「大きな政府」論と「小さな政府」論も、「コミュニズム」と「リバタリアニズム」の対比も論理的には同型である。
私たちが経験的に言えることは、「落としどころはその中間あたり」ということである。
ある程度公的な支援を行い、ある程度は自己努力に頼る。そのさじ加減はときどきの政治状況や景況や、何を以て「弱者」と認定するかについての社会的合意にかかわる。
社会的弱者を支援する事業を行政が専管するというのは、いいことのようだが、長期的には問題が多い。
べつに金がかかりすぎるとか、そういう野暮な話ではない。
もし、政府が弱者を実効的に救済するシステムが機能していれば、私人は弱者救済の義務を免ぜられるということである。
目の前に、飢え、渇き、寒さに震え、寝る場もない人がいても、「行政で何とかしてやれよ」と電話一本すれば済む。たいへんけっこうな社会のように思えるだろう。だが、そのような社会に住む人々はいずれ「目の前で苦しんでいる人を救うのは、他ならぬ私の仕事だ」という「過剰な有責感」を感じなくなる。
これは人間として危険な徴候である。
「世界を一気に慈愛深いものにしようとする」企ての挫折をレヴィナスはスターリン主義のうちに見た。
「スターリン主義とはつまり、個人的な慈悲なしでも私たちはやっていけるという考え方のことなのです。慈悲の実践にはある種の個人的創意が必要ですが、そんなものはなくてもすませられるという考え方なのです。そのつどの個人的な慈愛や愛情の行為を通じてしか実現できないものを、永続的に、法律によって確実にすることは可能であるとする考え方なのです。スターリン主義はすばらしい意図から出発しましたが、管理の泥沼で溺れてしまいました。」(エマニュエル・レヴィナス、『暴力と聖性』、国文社、1991年、p.128)
この世の中を少しでも手触りの暖かい、住みやすい場所にしようと思ったら、「永続的に、法律によって」それを確実にできると考えない方がいい。
レヴィナスはそう教えている。
慈愛の実践のためには制度だけでなく、「個人的創意」の参与が不可欠である。
「正義がさらに義であるように」「社会的公正がさらに公正であるように」するためには、生身の個人が、自分の身体をねじこむようにして、弱者支援の企て関与することが必要である。
けれども、「個人的創意」ばかりを強調すると、今度は「公的制度による支援は無用」というリバタリアンのロジックに歯止めをかけることができなくなる。
苦しむものは勝手に苦しむがいい。それを見ているのが「つらい」という人間は勝手に身銭を切って、支援するがいい。オレは知らんよ。
今回、一部の政治家たちと一部のネット世論が求めている「生活受給条件の厳正化」は、ある意味でリバタリアン的である。
親族による扶養を強調しているが、その趣旨は「相互扶助」ではない。
問題になっているのは、「いかにして、孤立した弱者を救うか」ではなく、「身内のことは、身内で始末しろ(他に迷惑をかけるな)」という、弱者(とそれを親族内に含むものたち)の公的制度からの「切り離し」である。
なぜ「親族間の扶け合い」をうるさく言い立てる保守派が、その舌の根も乾かぬうちに「公的制度にすがりつくな」というリバタリアン的主張をなすことができるのか。
これは矛盾しないのか?
もし「相互扶助」ということの大切さを言いたいのなら、公的制度を介しての「相互扶助」の必要も指摘すべきではないのか。
でも、彼らは「親族間の扶け合い」は人間として当然のこととして求めるが、公的支援は「本来ならやらずに済ませたいこと」という表情をあらわにする。
というのは、リバタリアンにとって、「公」というのは国家や地方自治体という非人格的な行政組織のことであって、それ以外は全部「私」に分類されるからである。
そして、親族は「私」なのである。どれほどの規模でも、所詮は「私」なのである。
だから、「親族間で」弱者の面倒を見ろと言うのは、要するに「自助しろ」と言っているのである。
彼らは「相互扶助」ということそれ自体に「価値がある」とは思っていない。
この世界は本質的には無数の「私」たちの競争と奪い合いだと思っている。
弱者への支援は「ゴミ収集」とか「屎尿処理」と同じような「面倒だけれど、やらなければいけない仕事」だと思っている。個人の責任に任せてしまうと、かえって市民一人あたりの社会的コストがかさむから、やむなく行政が引き受けている仕事だと思っている。
だから、ぎりぎりまで軽減したい。理想的にはゼロにしたい。
だから、「誰が『公』の負担を増やしているのだ?」という問いに強迫的につきまとわれてしまう。
生活保護の不正受給について論じたあと、ブログでは片山議員は引き続き外国人の国保の納入率が低いことを難じている。
いずれの場合でも、社会保障制度の「フリーライダー」が標的にされている。
社会的公正の達成というのが建前だが、そこに一貫するのは「誰が国富を収奪しているのか?」というなじみ深い「ゼノフォーブ」(xenophobe)の定型的思考である。
ゼノフォーブは「外国人嫌い」と訳されるが、べつにそれは彼らが「同国人好き」であることを意味しない。
国籍にかかわりなく、彼の自己利益の確保を妨害するすべての他者は一括して「外国人」と呼ばれる(ネット右翼が批判者を誰かれ構わず「在日」と呼ぶのと同じメカニズムである)。
彼以外のすべての他者は限られた資源を奪い合う「潜在的な敵」とみなされている。
敵性のつよいものは「外国人」と呼ばれ、敵性の弱いもの(自己利益増大のために利用価値のある他者)は暫定的に「同国人」に認定される。
あくまで「暫定的」なので、自己都合により、「同国人」たちも一夜にして「外国人」や「非国民」に分類変更される。
それだけのことである。
片山議員の発言は、彼女の心情を吐露したものというより、選挙目当ての「煽り」という感じがする。
その政治感覚は決して鈍くないのだと思う。
たしかに今の日本に「ゼノフォーブ」的な気分が瀰漫しており、「外国人叩き」をする政治家はしばらくは高いポピュラリティを獲得する可能性が高い。
おそらく、片山議員が「成功」すれば、このあと、彼女の真似をして、「フリーライダー叩き」にわらわらと政治家たちが参入してくるだろう。
先ほどの書いたように、公的制度が至れり尽くせりの弱者支援をすべきだという思想は個人の責務を免ずることで社会そのものを「非倫理的」なものに転じるリスクを抱えていると私は考えている。
けれども、すべての人間は資源を奪い合う競争に参加しているのだから、自分の取り分は自力で確保しろというリバタリアン的な考え方も同じように「非倫理的」である。
私はこのふたつの非倫理を退ける。
集団成員の相互扶助の問題は、倫理問題である。
倫理というのは「同胞とともにあるために理法」のことである。
定型があるわけでもないし、文字に書かれているわけでもない。
同胞たちと穏やかに共生し、集団がベストパフォーマンスを発揮するためには、何をしたらよいのかという問いへの答えは状況的入力が変わるごとに変わるからである。
そのゆらぎに耐えることのできる人間を「倫理的」な人間と呼びたいと私は思う。

2012.06.11

大飯原発再稼働について

野田首相が大飯原発の再稼働に向かう決意表明を行った。
首相は記者会見で「原発を止めたままでは、日本の社会は立ちゆかない。原発は重要な電源だ」とし、「国民の生活を守るため再稼働すべきだというのが私の判断だ」と断言した。
その根拠として、首相は政府が一年以上かけて安全対策を講じたことを挙げて、「原発の安全性は実質的に確保された」とした。
首相が「国民の生活」と言うのは、長期的には電力料金の値上がりによるコストの上昇、それによる製造業の国際競争力の劣化、それによる生産拠点の海外移転、それによる産業の空洞化、それによる雇用の喪失というスパイラルのことであり、短期的には「突発的な停電が起これば、命の危険にさらされる人もいる」という生命リスクのことである。
橋下徹大阪市長も、再稼働反対を撤回した根拠として、「病院はどうなるのか、高齢者の熱中症対策はできるのか。そう考えると、原発事故の危険性より、目の前のリスクに腰が引けた」と語っている。(いずれも6月9日讀賣新聞)

3/11原発事故以来の日本であらわになったある種の思考傾向が首相にも市長にもあらわになっている。
それは「目の前のリスク」は長期的なリスクよりも優先されるべきだということである。
ただし、この「リスク」はそのコンテンツによって考量されているのではない。
「原発事故のリスク」と「病院が停電したり、エアコンが止まって高齢者が熱中症になるかもしれないリスク」ではリスクのスケールが違う。
盛夏の電力消費が最大になる時期については、専門家が繰り返し言っているように、個別的な節電努力で十分に対応できるはずである。
家庭での電力消費は電力全体の25%である。消費電力が大きいのはエアコン、冷蔵庫、照明、テレビ。この4品だけで1世帯の消費電力量の70%を占める。つまり、エアコンと冷蔵庫と照明とテレビで、国内の総発電量の17.5%を使っている計算になる。
一方、国内54基の原発が発電しているのは、年間総発電量の30%である。
節電は「焼け石に水」ではなく、工夫次第で十分に電力消費を抑制できることはこの数字を見れば誰でもわかることである。
現に一月ほど前のアンケートでは、回答者の75%が今夏の電力不足については「受忍する」と回答している。今の電力消費レベルを維持したいから、原発を再稼働してほしいと回答した国民はきわめて少数であった。
国民的規模での節電努力があってもなお、人命にかかわるような「突発的な停電」が起きるというのは、どういう場合を想定してそういうことを言っているのであろう。
病院はもちろん「突発的な停電」に備えて自家発電装置を備えている。
ICUや重篤な患者がいる病室のエアコンももちろん自家発電でカバーされている。
「突発的」というからには、まさか停電が何日も続くという事態を指しているわけではないだろう。
エアコンが突発的に止まったために、高齢者がただちに熱中症で死に至るというケースも想像しにくい。
フランスでは2003年の異常高温で、全土で15000人の熱中症による死者が出たことがある。夜間が高温で、そのために何日も寝不足が続き、心身がはげしく消耗した高齢者の死者が多かった。
いくつか原因があるが、医療体制の不備、政府の対応の遅さの他に、フランスでは一般家庭にエアコンというものが装備されていないことが挙げられる(パリで暑いのは盛夏の3週間だけで8月下旬には秋風が立つ。エアコンを買うなら、その予算で盛夏期に都会を離れて、田舎にバカンスに出かけた方がずっと快適である)。
だから、「突発的な停電」で2003年のフランスのような事態が大阪で起きるということは考えにくい。
市長がいったいどの国のどの事例に基づいて「目の前のリスク」をイメージしているのか。私にはよくわからない。
とにかくそれは「目の前にある」というだけで、「長期的なリスク」よりも優先的に配慮されるべきものとされている。
繰り返し書いているように、これはビジネスマンに特有の「業界的奇習」である。
会社経営をしている場合、今期赤字を出したら株価が下がる。資金調達が難しくなり、資金繰りがつかなければ不渡りが出て、倒産する。
そういう「目の前のリスク」のことを脇に置いて、「長期的なリスク」について語る経営者はいない。
目の前のリスクを逃れ損ねたら、長期的リスクについて考える主体そのものが消滅するからである。
何があっても今期の利益を確保して、今期だけは生き延びる。
それがビジネスマンにとっては最優先事項である。
だから、人件費が安く、環境保護法制のゆるい国に工場を移転し、法人税の安い国に本社を移すことをためらわない。
生産拠点の移転や産業の空洞化によって、長期的に祖国の国民経済がどうなろうと、同胞の雇用環境がどう劣化しようと、日本の国庫の税収がどれほど減ろうと、そんなことはグローバリスト・ビジネスマンの関知することではない。
だから、グローバリストが「目の前のリスク」は「原発事故の危険性」よりも重いと判断するのは当然のことである
その判断は、彼らがビジネスというゲームをしている限りは合理的である。
だが、私たちは今ビジネスの話をしているのではない。
国の統治の話をしているのである。
国というのは「金儲け」をするためにあるのではない。
とにかく石にかじりついても、国土を保全し、ひとりでも多くの国民を「食わせる」ために存在する。
グローバル企業がより多くの収益を求めて日本を捨てて逃げ出すのは、彼らが「国より金が大事」だと思っているからである。
そういう考え方をする人たちは、そういう考えで生きられればいいと思う。
シンガポールでも上海でもドバイでもムンバイでも、投機的なマネーが渦巻いているところでひりひりするようなゲームを続けられればよろしいかと思う。
でも、そういうマナーで国を統治することはできない。
国がなすべきことは、逃げ出したくても逃げ出すことのできない一億あまりの列島住民たちの国土を保全し、健康を配慮し、「三度の飯」を食わせることである。
それが最優先である。
金儲けのために、国土をばら売りするとか、国民の健康を危険にさらすとか、食えない国民を切り捨てるというような選択肢は統治者には許されていない。
野田首相が企業経営者であるなら、彼の言うことは筋が通っている。
彼がいう「国民の生活」というのは端的に「ビジネス」のことだからだ。「目先の金」「明日の米びつ」のことだからだ。
でも、彼は会社の経営者ではない。
一国の統治者である。
彼は「原発の危険性」がどれほどのものか、骨身にしみているはずである。
それが目先の不便や、税収の減少や、グローバリストの「エクソダス」とトレードオフできるようなレベルの災禍ではないことを知っているはずである。
それを恐怖している国民の実感を(少なくとも知識としては)知っているはずである。
かりにその国民たちの恐怖が「確率論的には無視できるほどのリスク」についての「杞憂」であったとしても、現に福島原発が「確率論的には無視できるほどのリスク」が現に起こりうるということを示してしまった以上、国民が「天文学的確率でしか起きないはずの事故」を恐れる感情を軽視することはできないはずである。
「杞憂」というのは、杞の国の人が「いつ天地が崩れるか」を恐れて、取り越し苦労をした故事に基づく。
杞人の上についに天地は崩れなかったが、福島の原発は一年前にメルトダウンを起こした。
だから、原発の危険性を「杞憂」と同列に扱うことはもうできない。
政府はその恐怖を鎮静させるために、いったいこれまでにどれだけのことをしたのか。
事故についての政府や東電の証言は食い違い、事故がなぜ起きて、なぜこれほどの規模の災禍にまで拡がったのか、システムにどのような瑕疵があり、どのような人為的ミスがあったのかについて、価値中立的な調査結果はいまだに明らかにされていない。
これは原発にとっても決してよいことではない。
というのは、官邸と東電が、「想定外の事態」によって「起こるはずのなかったことが起きた」ので、誰も責任でもないというロジックで話を打ち切るつもりであるなら、これから先も同種の事故が起こる確率はあきらかに高まるからである。
人間というのは、「手抜き」をして失敗をしたときに、それは「想定外の事態のためで、いかなる人為的ミスもかかわっていない」という弁明を採用すると、その後も引き続き同じ「手抜き」を続けることを宿命づけられる。
「手抜きのせいで起きた事故ではなかった」と言い張っている以上、もし「手抜き」を反省し、改善してしまえば、事故と「手抜き」の因果関係を認めることになるからである。
私たちに罪はないと言い続けるためには、意地でも「手抜き」を続けるしかない。
日本の原発は今そのような呪縛のうちにある。
福島原発事故について「あれでよかったのだ。われわれは安全操業のためにベストを尽くしたのだ」という電力会社や経産省の言い分を認めて、これを免責することはできる。
たぶん、政府はそうするつもりであろう。
だが、それは代償として、これから先、「われわれは安全操業のためにベストを尽くした」という言明が無意味になるということを意味している。
「安全操業のためにベストを尽くした」が「事故は起きた」。
そして、ベストを尽くしたものには非がないというのなら、この二つの出来事の間にはいかなる相関関係もないということになる。
だとすれば、安全性が担保されようがされまいが、原発事故が起こる蓋然性には変化がないことになる。
原子力行政の当事者がそうアナウンスしている以上、「原発の安全性は実質的に担保された」という言明は単なる空語である。
多くの国民はそう思って、首相の宣言を理解していると思う。
「安全性が担保されたので、原発事故は未来永劫起こらない」と信じているのは今の日本で讀賣新聞の論説委員くらいであろう。
何度も書くが、原発再稼働の判断は「会社経営者」というスタンスで考える人にとっては合理的である。けれども、国家の統治というスタンスから考えた場合には熟慮を要する問題である。
少なくとも、今の段階でゴーサインが出せるようなことではないと私は思う。
決断のためには、
(1)福島原発事故の事故原因の調査委員会の報告書が、遺漏なくすべての人為的ミスを列挙すること
(2)家庭での節電努力を最大化しても「突発的な停電」が不可避であることが技術的に証明されること
の二点がクリアーされることが必要だろうと私は思う。
それを先送りにしたまま、原発再稼働を強行すれば、私たちは「ここから出ることができない」人たちを置き去りにして、「こんな国、用がなくなったら、いつでも捨てて出て行く」と公言する人たちに国の舵取りを委ねるという背理的な選択をしたことになる。


2012.06.13

さよなら民主党

「プレス民主」の取材で、有田芳生さんを聴き手に民主党政治の総括をした。
いくつか話したけれど、二点だけここに録しておく。
一つは「政治主導」というスローガンについて。一つは「民主党分裂」について。

民主党は2009年の総選挙で「政治主導」「官僚政治打破」を唱えて、圧倒的な有権者の支持を集めた。
けれども、それは「霞が関の官僚は邪悪で、利己的である」ということについて国民的な規模の疑念が形成されたということであって、必ずしも、官僚の上に立つことになった政治家たちの方が官僚たちよりも、善良であり、フェアであり、政策判断において適切であるという判断を国民が下したということではなかった。
「政治主導」というのは、要するに「政策の適否については、専門家に吟味させるよりも、直近の選挙で多数を得た政党に『好きなようにやらせる』方が、正しい政策を選択する可能性が高い」という「アイディア」のことである。
理論的にも、実践的にもたしかな根拠のある「アイディア」ではないが、とにかく2009年時点では、有権者はこれに「理あり」とした。
それまで、自称専門家たちが、個々の政策を決定するに際して、その決定がなぜ適切であるかを有権者に説明する努力をあまりに惜しんだことに、有権者たちが腹を立てたせいだろうと思う。
「政治主導」というのは、その限りでは「政治過程を有権者にわかりやすいように開示してほしい」という有権者のがわの期待を担ったものだった。

けれども、それはいきなり鳩山内閣の普天間基地問題で頓挫を余儀なくされた。
普天間基地問題は日米の安全保障、もっとスペシフィックに言えば、核抑止力にかかわる問題である。
核抑止力は米軍の専管するマターであり、日本政府はこれについて、いかなる決定権も持っていない。
情報開示を要請する権利さえない。
だから、日本の総理大臣が勝手に「基地の国外移転」を言ったことについて、米軍はつよい不快感を抱いた。
少なくとも「米軍とホワイトハウスはつよい不快感を抱いたに違いない」と「忖度」する日本人政治家・官僚・メディア知識人がたくさんいた。
彼らは全力を尽くして「鳩山おろし」を企て、それに成功した。
だが、それ以前に、鳩山首相はなぜ、「迷走」と言われるような、発言のダッチロールを行ったのかについてもう少し冷静に考えるべきだったと私は思う。

鳩山首相は基地問題でアメリカと交渉を試みたときに、「申し訳ないけど、あなた勘違いしてません?日本政府はね、安全保障については自己決定権がないんですよ」とぴしゃりと言われた(のだと思う。想像ですけど)
そのやりとりは、そのまま情報開示されるべきだったと私は思う。
鳩山首相は「迷走」の理由を問われたときに、「えーと、ちょっと勘違いしていましたけれど、日本はアメリカの軍事的属国なので、安全保障については主権国家としてのフリーハンドを持っていないのでした」と答えるべきだったのだ。
それを明らかにすれば、彼の政策決定(というよりは不決定)をめぐる政治過程は透明性を獲得しただろう。
でも、彼もまた、歴代の総理大臣たちと同じように、「日本があたかも安全保障政策について自己決定できる主権国家であるかのように」ふるまう道を選んだ。
主権国家でない国があたかも主権国家であるかのように言葉を取り繕えば、言うことは支離滅裂になる。
「私たちは安全保障について主権的な決定を下すことができません。敗戦国ですから。まことに屈辱的なことではありますが、これが現実なのです。でも、私たちはここから出発するしかありません。一歩ずつ基地撤去にむけてがんばりましょう」と鳩山首相がそのときカミングアウトしていれば、民主党は日本の戦後政治史の新しいフェーズに踏み出すことができただろう。
でも、鳩山首相はそうしなかった。
していたら、loopy どころか、アメリカの政府筋からは crazy とか traitor と呼ばれていたであろう。
どちらが日本の国益に資することになったのか、私には判断ができない。
でも、このときに重大な政策決定(というより不決定)について、そのプロセスを開示できなかったことによって、「政治主導」という語はそこに託された歴史的意味を失って、空語になった。

その後に起きたことは、ご案内の通りである。
菅首相時代の震災復興・原発処理も、野田首相時代の増税・原発再稼働も、いずれも「なぜ、このような政策が採択され、他の政策は棄却されたのか」についての合理的な説明を統治者自身が放棄するというパターンを繰り返した。
「わかりやすい政治」を求めた国民の「政治主導」への期待はかき消え、ついにその言葉さえ誰かも口にしなくなった。

いや、「政治主導」を最大限に活用した人がいないわけではない。
維新の会がそうだ。
この政党の最大の特徴は、自分たちの政策の適切性についての説明努力よりも、反対派の人々の資質的な不適切性を言いたてることに優先的にエネルギーを備給することにある。
反対派の非をどれほどならしても、それ自体は彼らの政策の適切性を証明することにはならない。
けれども、有権者は「直近の民意」を代表している政党は、政治過程全体を主導する権利があるという主張に頷いて見せた。

2001年の小泉純一郎から始まった「劇場型政治」は、2005年の「郵政選挙」、2009年の「政権交代選挙」を経由して、2012年の「維新の会ブーム」に至り着いた。
「政治主導」はもともと「わかりやすい政治」を目指していたはずである。
今、何が起きているのか、それがたとえ不都合なことであっても、あえて開示することで、外見的には意味不明に見える政治行動の内在的な合理性を国民に「説明」すること。
それが「政治主導」に有権者が託していたものではなかったか。
あるいは、私の誤解だったのかもしれない。
だが、私は「政治主導」という言葉をそのように理解していた。
主権がないなら「主権がない」とはっきりいい 言い、金がないなら「金がない」とはっきり言い、打つ手がないなら「打つ手がない」とはっきり言う。
その上で、国民的な統合と叡智の結集と非利己的な献身を求めるのが「政治主導」の本道ではなかったのか。
政治家の人気投票をしただけで、あとは彼らに「丸投げ」して、政策の適否について説明責任さえ求めないというような没主体的な有権者のふるまいを指してそう呼んだわけではないだろう。

民主党は今、彼らに立候補者330に対して308人の当選者を与えた2009年の総選挙での選挙公約のほとんどを放棄し、首相は「しない」と約束した消費税増税に「政治生命をかける」と呼号している。
なぜ、選挙公約がこれほど組織的に放棄されなければならないのか。
これについて、為政者には説明責任があるだろう。
けれども、消費増税についても、原発再稼働についても、首相の口から「情理を尽くした説明」が語られたようには思われない。
政策が歴史的状況の変化によって転換されるのは当然のことである。
だが、その場合には、なぜ過去のある時点では「適切」と思われた政策がその後「不適切」になったのか、その経過を説明する義務があるだろう。
どのような情報を勘定に入れ忘れていたのか。どのような想定外の事態が出来したのか。なぜ、現実には起きてしまった事態を「想定外」に類別していたのか。何を見落とし、何を見誤り、どのような推論上の過誤を犯したのか。
その検証と開示ぬきに、マニフェストを変更することはできないと私は思う。
私は間違っているのだろうか。
選挙は候補者の属人的資質についての信認投票であり、政策の適否を有権者は判断材料にしているわけではないという反論があるかもしれない。
なるほど。
そうであるなら、マニフェストなど、もとより不要のものだし、政策をめぐる論争も無駄なことだ。
有権者は政権公約などは無視して、候補者の中から、それぞれの基準で「好み」の人を選ぶことに専念すればいい。
「政治主導」が日本の政治にもたらしたのは、逆説的なことだが、「個別的な政策について、有権者の支持を求めたいと願うなら、その政策の適切性を説くことが必要だ」という、常識を打ち捨ててしまったことである。
「直近の民意」を代表した政治家は、その事実だけによって、政策判断の正しさを論証する義務を免ぜられる。
この新しいルールは、小泉純一郎によって持ち込まれ、政権交代でピークに達し、維新の会でその究極のかたちを取るに至った。
というのが、私の理解である。

もう一つは、長くなりすぎたので、「巻き」でゆくが、民主党は自民党と連合する勢力と、小沢・鳩山派に別れた方がいいと思う。
つねづね申し上げているとおり、民主党は自民党の旧田中派の流れを汲み、自民党は旧福田派のアバターである。
増税・原発再稼働・TPPに賛成、新自由主義、対米従属、「選択と集中」、競争と格付け、飴と鞭、勝ち組への資源集中による国際競争の勝利は福田派の綱領である。
増税・原発再稼働・TPP反対、一億総中流、都市と地方の格差解消、バラマキ、一律底上げ、対米自立は田中派の綱領である。
両派の考え方は、鄧小平と毛沢東くらいに違う。
でも、このような対立的な世界観をもつ党派が両端にあることで、私たちはそのつどの歴史的条件の中で、より適切な政策を選択する「枠組み」を持つことができる。
私はどちらかの党派を支持しているわけではなくて、このような政策判断上の「枠組み」があった方がいいと申し上げているのである。
私は今の日本には「田中派的なテコ入れ」が必要だと判断をしている。
イデオロギー的に賛成というのではなくて、さしあたり「対症療法的には」田中派政治の方が適切だろうと判断している。
民主党はこのあと、自民党と合流する部分と、消費増税反対・原発再稼働反対を貫く部分に分裂するほうが筋が通ると思う。
「田中派的民主党」が消費税と原発を争点に掲げて、総選挙に打って出れば、とりあえず私たちはこの二つの政策について、結果がどう出ようとも、主権者としてかかわることができる。
そのような「選挙の洗礼」は、国の未来にかかわるこの二つの政策については必要だろうと私は思う。
でも、その考えに与してくれる人はあまりに少ない。

2012.06.14

「国民生活」という語の意味について

野田首相の大飯原発再稼働について国民に理解を求める声明が発表され、それについての評価を東京新聞から求められた。
声明の全文を読まないとわからないので、全文のpdfファイルを送って貰って読んだ。
驚嘆すべき文章であった。
このようなものを一国の国論を二分しているマターについて、首相が国民を「説得」するために語った言葉として公開してよいのか。
私は野田さんという人に個人的には特に好悪の感情を抱いていなかったが、この声明を読んで「誠実さを欠いた人だ」という印象を持ってしまった。
その所以について述べたい。
そのためには、首相の所信表明演説の全文を読んでもらう必要がある。

【野田総理冒頭発言】
本日は大飯発電所3,4号機の再起動の問題につきまして、国民の皆様に私自身の考えを直接お話をさせていただきたいと思います。
4月から私を含む4大臣で議論を続け、関係自治体のご理解を得るべく取り組んでまいりました。夏場の電力需要のピークが近づき、結論を出さなければならない時期が迫りつつあります。国民生活を守る。それがこの国論を二分している問題に対して、私がよって立つ、唯一絶対の判断の基軸であります。それは国として果たさなければならない最大の責務であると信じています。
その具体的に意味するところは二つあります。国民生活を守ることの第一の意味は、次代を担う子どもたちのためにも、福島のような事故は決して起こさないということであります。福島を襲ったような地震・津波が起こっても事故を防止できる対策と体制は整っています。これまでに得られた知見を最大限に生かし、もし万が一すべての電源が失われるような事態においても、炉心損傷に至らないことが確認されています。
これまで一年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果であります。もちろん、安全基準にこれで絶対というものはございません。最新の知見に照らして、常に見直していかなければならないというのが東京電力福島原発事故の大きな教訓の一つでございました。そのため、最新の知見に基づく、30項目の対策を新たな規制機関の下で法制化を先取りして、期限を区切って実施するよう、電力会社に求めています。
その上で、原子力安全への国民の信頼回復のためには、新たな体制を一刻も早く発足させ、規制を刷新しなければなりません。速やかに関連法案の成案を得て、実施に移せるよう、国会での議論が進展することを強く期待をしています。
こうした意味では実質的に安全は確保されているものの、政府の安全判断の基準は暫定的なものであり、新たな体制が発足した時点で、安全規制を見直していくこととなります。その間、専門職員を擁する福井県にもご協力を仰ぎ、国の一元的な責任の下で、特別な監視体制を構築いたします。これにより、さきの事故で問題となった指揮命令系統を明確化し、万が一の際にも私自身の指揮の下、政府と関西電力双方が現場で的確な判断ができる責任者を配置致します。
なお、大飯発電所3,4号機以外の再起動については、大飯同様に引き続き丁寧に個別に安全性を判断してまいります
国民生活を守ることの第二の意味、それは計画停電や電力料金の大幅な高騰といった日常生活への悪影響をできるだけ避けるということであります。豊かで人間らしい暮らしを送るために、安価で安定した電気の存在は欠かせません。これまで、全体の約3割の電力供給を担ってきた原子力発電を今、止めてしまっては、あるいは止めたままであっては、日本の社会は立ちゆきません。
数%程度の節電であれば、みんなの努力で何とかできるかも知れません。しかし、関西での15%もの需給ギャップは、昨年の東日本でも体験しなかった水準であり、現実的にはきわめて厳しいハードルだと思います。
仮に計画停電を余儀なくされ、突発的な停電が起これば、命の危険にさらされる人も出ます。仕事が成り立たなくなってしまう人もいます。働く場がなくなってしまう人もいます。東日本の方々は震災直後の日々を鮮明に覚えておられると思います。計画停電がなされ得るという事態になれば、それが実際に行われるか否かにかかわらず、日常生活や経済活動は大きく混乱をしてしまいます。
そうした事態を回避するために最善を尽くさなければなりません。夏場の短期的な電力需要の問題だけではありません。化石燃料への依存を増やして、電力価格が高騰すれば、ぎりぎりの経営を行っている小売店や中小企業、そして家庭にも影響が及びます。空洞化を加速して雇用の場が失われてしまいますそのため、夏場限定の再稼働では、国民の生活は守れません。
そして、私たちは大都市における豊かで人間らしい暮らしを電力供給地に頼って実現をしてまいりました。関西を支えてきたのが福井県であり、おおい町であります。これらの立地自治体はこれまで40年以上にわたり原子力発電と向き合い、電力消費地に電力の供給を続けてこられました。私たちは立地自治体への敬意と感謝の念を新たにしなければなりません。
以上を申し上げた上で、私の考えを総括的に申し上げたいと思います。国民の生活を守るために、大飯発電所3m4号機を再起動すべきだというのが私の判断であります。その上で、特に立地自治体のご理解を改めてお願いを申し上げたいと思います。ご理解をいただいたところで再起動のプロセスを進めてまいりたいと思います。
福島で避難を余儀なくされている皆さん、福島に生きる子どもたち。そして、不安を感じる母親の皆さん。東電福島原発の事故の記憶が残る中で、多くの皆さんが原発の再起動に複雑な気持ちを持たれていることは、よく、よく理解できます。しかし、私は国政を預かるものとして、人々の日常の暮らしを守るという責務を放棄することはできません。
一方、直面している現実の再起動の問題とは別に、3月11日の原発事故を受け、政権として、中長期のエネルギー政策について、原発への依存度を可能な限り減らす方向で検討を行ってまいりました。この間、再生エネルギーの拡大や省エネの普及にも全力を挙げてまいりました。
これは国の行く末を左右する大きな課題であります。社会の安全・安心の確保、エネルギー安全保障、産業や雇用への影響、地球温暖化問題への対応、経済成長の促進といった視点を持って、政府として選択肢を示し、国民の皆さまとの議論の中で、8月をめどに決めていきたいと考えております。国論を二分している状況で一つの結論を出す。これはまさに私の責任であります。
再起動させないことによって、生活の安心が脅かされることがあってはならないと思います。国民の生活を守るための今回の判断に、何とぞご理解をいただきますようにお願いを申し上げます。
また、原子力に関する安全性を確保し、それを更に高めてゆく努力をどこまでも不断に追求していくことは、重ねてお約束を申し上げたいと思います。
私からは以上でございます。

お読み頂いて、どういう感想を持たれただろう。
なんとなく「狐につままれた」ような、言いくるめられたような、気持ちの片づかない思いをした人が多かったのではないかと思う。
それも当然である。
この所信表明は「詭弁」の見本のようなものだからである。
詭弁にはさまざまなテクニックがあるが、そのもっとも基礎的な術の一つに「同一語を二つの意味で使う」という手がある。
二つの意味のうち、それぞれ一方についてしか成立しない命題を並べて、あたかも二つの命題が同時に並立可能であるかのように偽装するのである。
この演説で同一語を二つの違う意味で用いているのは、キーワードである「国民生活」である。
この語は前半と後半でまったく違う、そもそも両立しがたい意味において用いられている。
前半における「国民生活」は「原子力発電所で再び事故が起きた場合の被災者の生活」のことを指している。
首相はこう述べている。
「国民生活を守ることの第一の意味は、次代を担う子どもたちのためにも、福島のような事故は決して起こさないということであります。」
「何から」国民生活を守るのかは、この文からは誤解の余地がない。
原発事故の及ぼす破壊的影響から守る。
たしかに首相はそう言っている(のだと思う)。
だが、それは私たちの読み違いであることがわかる。
首相はこう続けているからである。
「福島を襲ったような地震・津波が起こっても事故を防止できる対策と体制は整っています。これまでに得られた知見を最大限に生かし、もし万が一すべての電源が失われるような事態においても、炉心損傷に至らないことが確認されています。」
注意して読んで欲しいのだが、首相はここでは福島原発を襲ったのと「同じ」震度の地震と「同じ」高さの波が来ても大丈夫、と言っているだけなのである。
だが、福島原発「以上」の震度の地震や、それ「以上」高い津波や、それ「以外」の天変地異やシステムの異常や不慮の出来事(テロや飛来物の落下など)を「防止できる対策と体制」についてはひとことも言及していない。
そのようなものはすべて「想定外」であり、それについてまで「安全を保証した覚えはない」とあとから言われても、私たちは一言もないように書かれている。
次の文章も官僚的作文のみごとな典型である。
「これまで一年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果であります。」
これは原発の安全性が確認されるというこの所信表明の「きかせどころ」なのだが、何とこの文には主語がないのである。
いったい「誰」が安全性を確認したのか?
うっかり読むと、これは「IAEAや原子力安全委員会」が主語だと思って読んでしまうだろうが、たしかに不注意な読者にはそのように読めるが、実は安全性を確認した主語は存在しないのである。
意味がわからなくなるように周到に作文されているのである。
これを英語やフランス語に訳せと言われたら、訳せる人がいるだろうか。
私がフランス語訳を命じられたら、「安全性を確認した」のところはたぶんこう書くだろう。
La sécurité s’est confirmée
これは代名動詞の受動的用法と呼ばれるもので、「安全性」というものが自存しており、それが自らを確認したというニュアンスを表わす。
つまり、人間は誰もこの確認に関与していないということである。
La porte s’est fermée は「扉が閉まった」と訳す。
「誰も扉を閉めていないのに、扉が勝手に閉まった」という事情を言う場合に使う。
たぶん、それと同じ用法なのである。
だから、仮にその後何かのかたちで「安全ではなかった」ことがわかったとしても、文法的には、その責任は勝手におのれを「確認」した「安全性」に帰せられるほかない。
だが、そうやって「安全性を確認」した主体を曖昧にしただけでは不安だったのか、ご丁寧に、そのあとには「結果であります」ともう一重予防線を張って、さらに文意を曖昧にしている。
もう一度この文を読んで欲しい。
「これまで一年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果であります。」
「安全性を確認した結果」とは何を指すのか。
「安全性を確認した結果」は実はこの文の前にも後にも言及されていない。
それが出てくるのは、はるか後、演説の終わる直前である。
「大飯発電所3、4号機を再起動すべきだというのが私の判断であります。」
これが「結果」である。
たぶんそうだと思う。
「安全性を確認した結果」として意味的につながる言葉は声明の中に、これしかないからである。
だが、この書き方はいくらなんでも、声明の宛て先である国民に対して不誠実ではないだろうか。
「これまで一年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果、大飯発電所3、4号機を再起動すべきだというのが私の判断であります」と堂々と書けばよろしいではないか。
なぜ、そう書かないのか。
推察するに、そう書いてしまうと、IAEAや原子力安全委員会を含めるすべての専門家が全員「安全だ」言ったので、それを根拠に首相は再起動の政治決断をした、というふうに読めてしまうからである。
実際には、専門家からは大飯原発の安全性についてはさまざまな疑念と否定的見解が提出されていた。IAEAも特定の原発について、「絶対安全です」という技術的な保証を与えることを任とする機関ではない。
だから、そうは書けない。
やむなく、「専門家の議論」と「私の判断」の間に数十行の「ラグ」を挿入して、この二つの間に関連性が「あるような、ないような」不思議な文を作ったのである。
議論には参加したが、安全性を確認していない専門家に対してはみなさんがなさった議論と私の政治判断の間に「関連がある」とはひとことも書いていないという言い訳ができる。
でも、素人が読めば、議論の「結果」、あたかも科学的推論に従って、首相は粛々とこの判断に至ったかのように読める。
よくこんな手の込んだ作文をするものである。

だが、詭弁が冴えるのはむしろこの後である。
「国民生活の第二の意味」についての部分である。
さきほど見たように、「国民生活の第一の意味」は原発事故という「非日常的なリスク」から守られるべき生活のことである。
このリスクは「安全性が確認された」のでクリアーされた、というのが首相の言い分である。
第二の意味は平たく言えば、「日々の生活」のことである。
「計画停電を余儀なくされ、突発的な停電が起これば、命の危険にさらされる人も出ます。仕事が成り立たなくなってしまう人もいます。働く場がなくなってしまう人もいます。」
だから、原発再稼働というロジックはみなさんご案内の通りである。
原発事故や天変地異は「いつ、どこを、どのような規模の災禍が襲うか予測できないリスク」である。
電力高騰と停電は「いつ、どこで、どのような規模の災禍が襲うか予測可能なリスク」である。
盛夏期の午後(高い確率で甲子園の決勝の日)に、関電が送電している地域で、計画的な(場合によっては、突発的な)停電があるかも知れない。
たしかにそうだろう。
だが、そのような事態や電力料金の値上げは、原発事故とは「リスク」として比較を絶している。
原発事故は「長期的な、被害規模が予測できないリスク」である。
原発停止がもたらす電力不足や電気料金の高騰は「短期的な、被害規模が予測可能なリスク」である。
再稼働反対の人たちは「長期的なリスク」を重く見る。
賛成派は「短期的なリスク」を重く見る。
その射程の違いが賛否をわけているということは、これまでに何度も書いてきた。
野田首相は「長期的なリスク」を低く見積もり、「短期的なリスク」を高く見積もった。
それは彼の個人的判断であり、一般性は要求できないが、ひとつの見識である。
だが、それなら「原発事故が起きる蓋然性は低い。だから、それよりは確実に被害をもたらす短期的なリスクを優先的に手当てすべきだ」と率直に言えばよかったのである。
「原発事故が起きた場合に損なわれる(かもしれない)国民生活より、電力高騰と電力不足によって(確実に)損なわれる国民生活の方を私は優先的に配慮したい」とはっきり言えばよかったのである。
首相が不実なのは、そのことを言わなかった点にある。
彼は「原発事故が起きた場合に損なわれる蓋然性のある国民生活」については、これを今は配慮しないという政治決断を下した。(「安全性が確認された」のである。どうして事故を気づかう必要があろう)。
繰り返し言うように、そのような判断は「あり」である。
「朝三暮四」と侮られようと、この夏が乗り切れなければ、「日本は終わりだ」と彼がほんとうに信じているなら、そう考える自由は彼のものである。
だが、「原発事故から国民生活を守る」という仕事を「原発の安全性について(誰ひとりその責任をとる気のない)『確認』を行ったこと」に矮小化して、あたかも「原発事故から国民を守っている」かのように偽装することは一国の統治者には倫理的に許されない。
「原発事故から国民を守る」というのは、原理的には稼働停止・段階的廃炉以外の選択肢はない。
仮に暫定的な再稼働が経済的理由で不可避であるというのなら、「原発事故から国民生活を守る」ためにまずなすべきは、原発隣接地域における汚染被害を最小限に食い止めるための「最悪の事態に備えた避難計画」の立案と周知であろう。
それを再稼働よりも「後回し」にできる理由として、私には「原発事故から国民生活を守る仕事には緊急性がない」と彼が思っているという以外のものを思いつかないのである。

長くなるのでもう止めるけれど、昨日と同じことを今日も書く。
困っているなら、「困っています」と素直に言えばいい。
二つの選択肢の間で、決断しかねている。
こちらを立てればあちらが立たずという苦境にいるのだが、とにかく目先のリスクを回避するのが優先すると、私は腹をくくった。
原発事故がもう一度起きたら、そのとき日本は終わりだが、それは起きないと「祈りたい」。
「原発事故から国民生活を守る」という「国として果たさなければならない最大の責務」については、これを暫時放棄させて頂く、と。
そう正直に言ってくれたらよかったのである。
そう言ってくれたら、私は彼の「祈り」にともに加わったかも知れない。
だが、彼は正直に苦境を語るという方法をとらずに、詭弁を弄して、国民を欺こうとした。
政治家が不実な人間であることを悲しむほど私はもうナイーブではない。
だが、総理大臣が自国民を「詭弁を以て欺く」べき相手、つまり潜在的な「敵」とみなしたことには心が痛むのである。

2012.06.18

直感と医療について

第13回日日本赤十字看護学会というところで講演をすることになって、長野県の駒ヶ根というところに来ている。
学会は今朝から始まっているが、私は懇親会に出るだけで、明日の朝講演をすることになっている。
頂いたお題は「東日本大震災における天災と人災」というものだが、私を講師に指名して下さったということは、「人災」の構造についての分析だけのためとは思えない。
私が武道家としてこれまで考究してきたのは、天災であれ、人災であれ、「生きる力」を損なうものからどうやって身を守るか、ということである。
自然災害であれ、人間が発する邪悪な思念であれ、それが私たちの生物としての存在を脅かすものであれば、私たちはそれを無意識のうちに感知し、無意識のうちに回避する。
たしかにそのような力は私たち全員のうちに、萌芽的なかたちで存在する。
だが、それを計測機器を用いて計量し、外形的・数値的に「エビデンス」として示すことはできない。
「不穏な気配」とか「殺気」とか「邪眼」とかいうものは、「やかん」とか「おたま」とか同じようにリアルに存在する。私はそう思っている。現に、それを感じることがある。少なくとも、明治維新以前の日本人はほとんどは、危険な「気」を感知すると、立ち止まったり、五感の感度を上げたり、姿勢を変えたり、歩く進路を変えたりすることを「当然のこと」として行っていた。
何らかの入力に反応して、「このままではいけない」と判断すると、「するはずだったこととは違うことをする」というのは、平安時代の「方違え」以来、今に至るまで、生き延びるためのもっとも基本的なセンサーの使い方である。
その「見えない危険を察知するセンサー」をどうやって組織的に開発するか、それは久しく学校教育の重要な課題であった。
でも、現在の学校教育でも、職業教育でも、「何かが起きているような気がするのだが、それをエビデンスによって示すことができないことがら」に対するセンサーの感度をどうやって高めるかという教育的課題に真剣に取り組んでいる人はまれである。
ところが、やはり、そういう人たちがいるのである。
医療の現場というのは、「人間の身体という生もの」を扱っているために、経験知が理論知に優先することがある。
なぜそれがわかるのか説明できないが、わかる。
なぜそれができるのか説明できないが、できる。
そういった経験知なしには、医療の現場は成り立たない。
ナースというのは、そういう仕事をしている人たちである。
だから、看護系の学会から私のような人間のところに繰り返し講演依頼が来るのだと思う。
「人間はできないはずのことができる」「どうしていいかわからないときに、どうしていいかがわかる」
これは武道の実践においては「当たり前」のことであり、そもそもその能力の涵養のために修行しているわけである。
だから、「エビデンスがなくても、現場のナースには直感的にわかることがある」という話を聴いても、私はすこしも不思議に思わない。
「『やかん』て、ありますよね?」と訊かれて、「うん、あるよ」というような会話を私はしているつもりなのである。
ところが、世の中の多くの人は「ふざけたことをいうな、『やかん』などというものが、この世にあってたまるものか」と怒り出すのである。
何も怒ることないじゃないですか。
だって、『やかん』あるし。
オレ、それで今朝もコーヒー淹れたし…
そういう流れに困惑し果てて、私はなんとか武道論や身体論を学術的に基礎づけたいと思っているのである。
長いマクラになったが、私と同じ困惑を感じている人たちがいる、という話である。
それは看護師の方々である。
この第13回日本赤十字看護学会の「趣旨」をお読み頂きたい。

日本の旧来の看護は、疾病別の看護法という形で教育されてきました。そして、戦後はGHQの指導に象徴されるように、アメリカの影響を全面的に受けてきました。看護の独自性、科学性を打ち出すことが標榜され、昭和43年には、テキストが改正されました。いわゆる赤本と呼ばれるテキスト体系である看護法の時代から看護学という学問体系を意識した教育へと大きく舵が切られました。
学問の始まりは分類することでした。分類し、弁別するという思考法は、やがて神と人間の関係から原因と結果の関係へと置き換えられ、自然科学的思考法という神秘性を超越したかに見せる合理的思考法へと姿を変えていきました。看護学もまたそれに倣い、科学的思考の虜になっていきました。科学的看護がもてはやされ、それは大きく看護教育の大学化を実現させていきました。人間界における諸現象は何事もそうではありますが、看護においてもその間の揺れ戻しはありました。自然科学では説明できない事態についての議論が盛んに行われた時期もありました。そしていま、経済活動の下降、衰退により、医療においても看護においても、エビデンスブームが起こっています。自然科学思考の回帰です。歴史は繰り返します。それでもその裏では、看護本来の機能である日常の営みからもたらされた数多くの工夫と創造による優れて看護的な技術が伝承されてきました。しかし、いまエビデンスブームの中で、自然科学的検証になじむ技術以外のものはどんどん忘れ去られていきつつあります。
一方、医療現場はすでに聖域ではなくなり、市場経済の真っただ中に置かれていることは申すまでもありません。段階的治療、入院期間の短縮、地域医療への移行、慢性化状態や障害の福祉への転換など、経済効率が優先されるようになりました。そして、昨今の救急・急性期病院での治療や看護現場、リハビリなどの各種施設、在宅療養に移行した患者さんやその家族などに目を遣ると、理学療法士や作業療法士をはじめ、ケースワーカーや臨床心理士、臨床薬剤師、保育士、栄養士など、さまざまな職種がチームとして入り混じった形で仕事をしています。チーム医療は、当初のようなツリー型の整然としたものではなく、自由に根を張るというよりは根を絡ませるリゾーム型医療に変貌してきています。そのような現状において、看護の専門性はややもするとかすみがちになっています。なぜならば、病院内看護においては医療処置の格段の増加に伴い、看護職者が行う行為が多すぎること、看護の専門性が他職種の専門性と重なることがあるゆえに他職種に取って代わられているからです。裏を返せば看護の専門性とは、それだけ広いがゆえに曖昧に見えるのです。
そんな中、1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災が起こりました。物事は常に相対的です。私たち人間の日常もまた非日常とワンセットになっています。日常の中に非日常があり、非日常の中に日常があります。そして、私たちが二つの大震災直後に目にしたことは、非日常に覆い尽くされた人々の生活でした。そして次に目にしたのが、その非日常の中にあって日常を取り戻そうとする人々の姿です。東日本大震災から、はや5カ月が過ぎようとしています。被災し、避難所や仮設住宅で暮らす人々、そして県外への移住を余儀なくされている人々が苦しみながら切実に願っていることは、この非日常の中に日常を取り戻すことなのです。
看護も医療も、つい最近までは病院内看護が主流でした。しかし、超高齢化社会を迎え、経済政策の大きな柱は、医療経済をどうするかでした。そこで病院医療は地域医療へとシフトしていきました。家庭という日常から病院という非日常への移行、そして非日常から日常への回帰です。家庭から病院、そして家庭へと還ってきたのです。看護は、できるだけ病院という非日常に可能な限りの日常を持ち込むことに心を砕いてきました。そして今は逆に、在宅治療のためにさまざまな医療機器を持ち込み、家庭がまるで病院のミニチュアのような光景を呈している状況を生みだしている場合さえあります。生老病死が人にとって避けがたい事態であるかぎり、日常は常に非日常と背中あわせです。看護は、健康にまつわる日常的営みが職業として特化されていったときに専門性という非日常的営みを獲得する必要性に迫られました。従って、非日常という専門性が学問という形に昇華され、体系化されたとしても、それが実践に移される時には再度人々の日常に戻されることが必要です。このことは、大震災での非日常と日常の関係と同じ構図です。
このように考えてくると、看護が対象者とする人間についての理解、看護の方法についての技術、さらに看護を展開する場、つまり「対象論・方法論・展開論」という看護を構成しているすべてに違和感を覚えてしまいます。対象者としての理解は一面的です。身体は解剖生理学的な理解にとどまっています。検査で異常がないと言われても、体のあちこちの違和感や痛みが解消されないことは多いはずです。何となく変な感じが病気の前触れであったことも多々あると思います。そういった日常的に感じているさまざまな感覚は、解剖生理学的身体や病理学的身体では説明できないことが多いのです。なぜならば身体は重層的だからです。生物学的医学という意識的な言葉では説明できない前意識的あるいは無意識的な感覚が人間の身体の底には横たわっているはずです。直観や予兆などはそのよい例でしょう。また身体と心は連動しているはずです。心と身体は相互交通しているのはもはや自明のことです。看護技術はどうでしょうか。各種の高度な医療機器と診療報酬という医療経済的事情から、患者さんの生命力の消耗を最小にするような看護技術が忘れ去られ、また創造されなくなってしまいました。自然科学的なエビデンスを証明できない技術は消滅していきそうです。そして看護が展開される場は、病院などの施設、地域、そして災害などの有事の場といった具合に分断されていることに気付きます。一体化している心と身体、自己と他者という関係の相互作用としての対他的な看護技術、背中合わせである日常と非日常といった観点から、臨床看護を創出していく必要があると思います。

どうです。
看護の現場のひりひりするようなリアリティが伝わってくるではありませんか。
特にこの箇所に私は「びびび」と来た。
「なぜならば身体は重層的だからです。生物学的医学という意識的な言葉では説明できない前意識的あるいは無意識的な感覚が人間の身体の底には横たわっているはずです。直観や予兆などはそのよい例でしょう」
そうです。その通りです。

明日の講演では、「そういう話」をたっぷりさせて頂きます。

2012.06.20

「先生はえらい」韓国語版のための序文

『先生はえらい』韓国語版序文を書きました。
韓国語には、これまで『下流志向』、『寝ながら学べる構造主義』、『若者よマルクスを読もう』(石川康宏先生との共著)、『私家版・ユダヤ文化論』、『日本辺境論』が出ています。
『先生はえらい』は来月くらいに出るそうです。
韓国では教育関係者にけっこうウチダ本の読者がいるようですが、その人たちから「先生はえらい」というタイトルの本をぜひ訳してくださいというリクエストがあって、訳されることになったようです。
最初にこの本のタイトルを考えたときに、筑摩の吉崎さんと「日本だけで教職員が80万人いますからねえ」「じゃあ、50万部は堅いですなあ」というような気楽な会話をしたことを思い出しました。
そうか、世界中にいるんじゃないですか、先生は。
というわけで、韓国の先生がたどうぞよろしく。

では序文です。


韓国のみなさん、こんにちは。内田樹です。
『先生はえらい』お買い上げありがとうございます。まだ買う前で、書店で立ち読みしている方も、お手に取ってくれてありがとうございます。これもご縁ですから、ぜひ「まえがき」だけでも読んでいってください。

『先生はえらい』というのは、筑摩書房という出版社が企画した「ちくまプリマ-新書」というシリーズの中の一冊です。これは中学生・高校生を対象にして、ものごとを本質的に考えるための手がかりを提供しようという趣旨のシリーズでした。
「ものごとを本質的に考える」あるいは「ものごとをラディカルに考える」というのは、私たちがふつうに使っている言葉の「ほんとうの意味」や、私たちが当たり前だと思っている制度や儀礼は「もともと何のために作られたのか」を問うということです。
例えば、貨幣とか、市場とか、資本とか、欲望とか、交換とかについて、改めて「それほんとうはどういう意味なの?」と中学生に訊かれて、「それはね」と即答できる大人がどれほどいるでしょう。「オレはできるよ」という人がいるかも知れませんけれど、ほんとですかね。相手は中学生ですよ。「資本」について、中学生にもわかるように説明するのはかなりの力業です。とりあえず僕は「ちょっと待ってね」と言って、一週間くらい余裕をもらって準備しないととても答えられません。
そういうものです。私たちがふだん「その言葉の意味は自明であり、みんな熟知している」つもりで使っている言葉のほとんどについて、私たちは、「そのほんとうの意味」を中学生に問われて、ただちに説明できるほどには理解していません。
「ちくまプリマ-新書」はそういう問いに答えるための本ということで企画されました。
僕の『先生はえらい』はシリーズナンバー002ですので、シリーズ二冊目の本でした。
一冊目は橋本治さんの『ちゃんと話すための敬語の本』です。
橋本治さんは現代日本を代表する作家です。橋本さんの小説やエッセイが韓国語訳されているかどうか、私は不案内で存じ上げませんが、機会があれば、ぜひ韓国の若い人たちに読んで欲しい日本人作家のひとりです。
橋本さんは「敬語とは何か」ということを古典から日常会話まで縦横に引用して説明しました。橋本さんの本に横溢していたのは、中学生たちに対する「愛」でした。「キミたち、敬語とは何かということを、きちんと理解して、その使い方を覚えておいた方がいいよ。それはこのワイルドで、苛烈な社会でキミたちが生き抜いて、自分のたいせつな感受性を守るためのひとつの武器にもなるんだから」というのが橋本さんのメッセージだったように思います。
私は橋本さんのこの「シリーズナンバー001」をまず読んで、それから自分の書く物の計画を立てました。橋本さんと同じように若い読者への「愛」に貫かれた書物を書きたいと思いました。
そのとき、編集者から「内田さんが、今の中学生高校生にいちばん言いたいことはなんですか?」と訊かれたので、「『先生はえらい』かな・・・」と答えて、それが本の題名になりました。
この本は「学校」、「教師」、「学び」という、ごく平凡な、日常的に私たちが意味がわかって使っているつもりの言葉を取り上げて、その「ほんとうの意味」について書いたものです。中学生が読んでもわかるように。そして、中学生がこの本を読み終えたあとに顔を上げて、すこし頬を紅潮させて、「よし、学ぶぞ!」と決意を新たにすることを願って、書きました。
私は教師という仕事を30歳から始めて、ちょうど30年間やってきました。大学の教師という仕事は去年退職したことで終わりましたが、武道(合気道)の師範として若い人たちに教える仕事は変わらず続けています。その実践的経験からひきだした、「どうすれば、子どもたちはその潜在可能性を爆発的に開花して、ブレークスルーを成し遂げるか?」という問いへの答えが、この本に記されています。
子どもたちが目の前で、殻を破って脱皮する蝶のように、鮮やかな変身を遂げる場面を私は教師として何度も見てきました。
これは素晴らしい経験でした。
私は「子どもは必ず成長する。すべての子どもの中には豊かな可能性が潜在していて、じっと開花の機会を待っている」というずいぶん楽観的な教育観の持ち主ですが、それには私自身のこの幸福な経験が深く与っています。
そのような「開花の瞬間」に立ち会った経験から私が導き出したのは、人が「学び」をめざして、、自分を閉じ込めている知的な檻を押し破るのは、「先生はえらい」という言葉を素直に、屈託なく、笑顔で、口にできたときである、ということでした。
「先生はえらい」というのはある種の「信仰告白」のようなものです。
それはある意味で「私は神を信じる」という言葉と同じものです。
そう言った人に向かって、「神なんか存在しない。存在するというなら、ここへ連れてき、見せてみろ」というような不敬な人はあまりいません。
「先生はえらい」もそれと同じです。
でも、神さまと違って、「お前は『先生はえらい』というけれど、あの先生のどこがえらいんだ。オレはぜんぜんえらいと思わないよ。つまらん男じゃないか、あいつ」というようなことを言う人はけっこうたくさんいます。そう言われると、先生のどこがえらいのかを挙証することはむずかしい。実は、証明は原理的には不可能なんです。「お前、いったいあの女/男のどこがいいんだ?」という問いに誰も十分に説得力のある答えで応じることができないように。
「先生はえらい」というのは、信仰にも似ているし、恋愛にも似ている。それは「えらい」と思った人にとってのみ意味のある、決定的なできごとなんです。誰にとっても「えらい」先生、万人が認める「えらい」先生などというものは存在しません。
「えらい先生」というのは、理想的には「この世界で、私にとってだけえらい先生」なのです。それがもっとも激しい学びへの起動力をもたらします。というのは、「この先生のえらさを理解できるのは私だけだ」という思い込み(錯覚でもいいんです)だけが、人間をして爆発的な学びへ誘うからです。
なにしろ、「先生がえらい」ということを何よりも雄弁に立証できるのは「その先生に就いて学んだ当の私が、これこのようにちゃんとした大人になれたではないか」という事実だからです。自分自身の知性的な成長と感性的な成熟によってしか「先生はえらい」という言明の真理性は証明できない。逆に言えば、自分が成長するという当の事実によって、過去の自分の言明の正しさはあますところなく立証される。
よくできたシステムだと思いませんか?
「先生はえらい」というのは、自らが成長することなしにはその真理性を証明できない「宣言」です。
どう考えても、そういう宣言は、人生のなるべく早い時期にした方がいいし、できることならたくさんの先生について「先生はえらい」という言葉を向けた方がいい。だって、それによって限りなく利益を得るのは宣言した自分自身であり、私がそんな宣言をしたせいで損をしたり、困ったりする人はひとりもいないんですからね。
ですから、どうして日本の若い人たちが「先生はえらい」という言葉を惜しむのか、それがもったいないなあと思って、この本を書いたのです。
たぶん、誰かに向かって、「先生、どうぞ教えて下さい」と懇願するのは、「自分の弱さを暴露するみたいで、格好悪い」とか「借りを作るみたいで、イヤだ」という理由でその宣言を惜しんでいるのだろうと思います。そんなところで我慢をしていたら、ついに死ぬまで子どものままでいるしかないのに。もったいないですね。
でも、現実に日本の子どもたちは「先生はえらい」という言葉を惜しみました。そして、いくぶんかはそのせいで、学ぶ意欲を失い、学習時間を減らし、学力をどんどん低下させました。今の日本の子どもたちは「近代史上最も勉強しない子ども」です。誰にも頭を下げず、誰にも「教えて下さい」と膝を屈さなかったことによって、子どもたちはささやかなプライドや主体性は守り抜いたのかも知れません。でも、代償として失ったものはあまりに大きいように思います。
事情は日本と韓国でもそれほど違わないのではないかと思います。
メディアから伝えられる情報では、韓国の子どもたちは世界でいちばん勉強しているようです(日本とは比較になりませんね)。でも、その烈しい努力の目標が、「有名校への入学」や「有名企業への就職」や「高い年収・高い威信・大きな権力・豊かな文化資本」というような「私的利益」であるなら、その学習努力は申し訳ないけれど、「成熟」とは無縁のものです。だって、それはどれも「6歳の子どもでもその価値がわかるもの」ですからね。
大人とは「子どもにはその価値がわからないものの価値がわかる人」のことです(「大人」の定義は他にもたくさんありますが、とりあえずそのうちの一つはこれです)。
私たちが学ぶのは「子どもに見える世界」より外側に踏み出すためです。お金が欲しい、いい家に住みたい、みんなにちやほやされたい、レベルの高い配偶者を手に入れたい・・・というようなことが人生の目的だという人は、たとえ60歳であっても「子ども」です。その年になるまで、ついに学びと無縁だった人だったということです。
私は若い人たちには、できれば全員が「大人」になって欲しいと願っています。まあ、全員は無理なんですけどね。でも、できるだけ多く。
そういう願いを込めてこの本を書きました。もともとは中学生(15歳くらい)を想定読者にして書きました。でも、小学生が読んでも、大学生が読んでも、「読むに耐える」だろうと思います。そして、「子どもを成熟に導く」ことはあらゆる共同体に共通の責務なわけですから、日本だけでなく、韓国でも、もちろん中国でもインドでもアメリカでもヨーロッパでも、どこの国の読者にとっても、切実な問題を論じていると思います。
長くなりましたので、このへんにしておきます。
この本を読んで、韓国のみなさんがどんな感想を持たれたか、ぜひ知りたいと思います。
では、また別の本でお会いできるといいですね。

最後になりましたが、この本の韓国語訳の出版のためにお骨折り頂きました訳者、編集者、出版社のみなさんに心からお礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。

2012.06.25

大学統廃合について(ひさしぶりに)

6月23日の朝日新聞の社説に「大学改革 減らせば良くなるのか」という論説が掲げられていた。
政府の国家戦略会議が行っている大学改革論議の中で、財界人や政治家たちから、「大学が増えすぎて学生の質が下がった。専門知識はおろか一般教養も外国語も身についていない。大学への予算配分にメリハリをつけ、競争によって質を上げよ。校数が減って、大学進学率が下がってもいい」という声が上がったことへの疑念を示したコメントである。
大学を市場原理に放り込み、集客力のない大学の淘汰に同意すると、統廃合が進み、「体力のない地方の小さな私大からつぶれ、地方の裕福ではない家庭の子は進学の機会を奪われる」と社説は予測する。
この予測には、私も同意する(朝日新聞の教育関連の社説と部分的にではあれ意見が合うというのは、私には珍しいことである)。
そもそも大学生の学力が低下しているのは、中等教育で基礎学力が担保されていないからである。
中等教育の内容を理解していない卒業生を送り込まれた大学に向かって「そんなのはばんばん入試で落とせ」と言われても困る。
「高校卒業程度の学力があるものだけ」に入学者を限定すれば、たぶん日本の大学入学者数は今の三分の一以下になるだろう。
だったら、大学も三分の一になればいい、とおっしゃるかもしれない。
なるほど。
だが、そこで弾き出された「高校卒業程度の学力もない高校卒業生の群れ」の雇用の確保や職業訓練について、戦略会議の皆さんはどうお考えなのであろう。
何かアイディアはおありなのだろうか。
高卒で放り出されたうちの半数は、ほんとうを言うと、「中学卒業程度の学力」さえおぼつかないのである。
アルファベットが書けない、四則計算がおぼつかない、明治大正昭和の順番がわからないという子どもたちを15歳で学校から放り出した後、戦略会議の皆さんには、どういう授産計画・雇用計画がおありになるのか。
まず、それを訊きたい。
いや「それを訊きたい」というのは修辞的な問いだ。
財界人たちだって、何が起きるかわかっているのである。
そして、それも「それほど悪いことじゃない」と思っているのである。

考えてみよう。
財界人が「大学はこんなに要らない」というのは、論理的には「変な話」なのである。
知性的な成長のチャンスは、ごく常識的に考えて、教育を受ける「時間的長さ」と相関する。
どれほど学力が低いとはいえ、中卒、高卒で学業を終えるより、大学まで出た方が、「まだまし」である。
四年長く学校に通っているうちに、思いがけないトリガーに触れて爆発的に知性的活動が活発化するということだってある。
たしかに「大学が増えすぎて学生の質が下がった」というのは事実である。
だが、それは「大学が増えすぎて日本の若者の知的な質が下がった」ということとは違う。
大学が増えたことによって、日本の若者たちの高等教育を受けるチャンスは明らかに増え、全体の学力は(わずかなりとはいえ)底上げされた。
たしかに高等教育のチャンスが活用されていないということは事実である。
だが、それではというので、学校に通うチャンスを減らせば、日本の若者の学力が向上するということはありえない。
淘汰を生き延びた大学に通う学生については「平均学力が上がった」という結果が見込めるだろう。
だが、それは「日本の若者たちの平均学力が上がった」ということを意味しない。
若者たち全体の平均学力は下がる。
必ず、下がる。
そこで、「大学生の学力が低いので、大学を減らせ」という主張をなした戦略会議の委員の方にお訊きしたい。
「大学を減らすと、日本人全体の学力が向上する」という推論が合理的ではないということくらいは委員の皆さんにもわかっていたはずである。
では、いったい「何を」めざしてこのような提言をなされたのであろうか。
大学を市場原理による淘汰に委ねた場合に確実に起きると予測されることの一つは、「低学歴労働者の大量の出現」である。
中卒労働者はたぶん時給500円以下の最下層労働者群を形成することになる。
そうすれば、製造業は中国やインドネシアに近い人件費で国内で労働者が雇用できるようになる。
生産拠点の海外移転が進むのは、国内では人件費が高いからというのが最大の理由であった。
人件費が大幅に下がってくれるなら、何も海外に出ることはない。
海外は、言葉は通じないし、インフラは不十分だし、政情も不安定である・・・それよりは日本で安い労働力が手に入るならこれに越したことはない。
たぶん経営者たちはそう考えたのだろう。
たしかに低学歴労働者たちが増えすぎると、労働者の絶対的な貧窮化が進み、購買力は弱まり、国内市場は瓦解することになる。
でも、それまで企業は人件費の大幅な削減によって短期的な収益の確保が見込める。
資本主義企業というのは、「短期的な収益の方が長期的な収益より優先的に配慮される」という、きわめて特殊な成り立ちをしている。
「朝三暮四」というのが企業の本性である。
この四半期を乗り越えられなければ「全部おしまい」だからである。
だから、戦略会議の目的は「日本人全体の学力の向上」ではないのである。
日本人全体の学力は下がっても構わない。
生き残った大学に通う大学生(「人を使う側」になる人間)の学力だけが選択的に上がり、低学歴労働者はまさに低学歴であるがゆえに人件費の大幅カットに合理的な理由を提供してくれればよい、と。
非情ではあるが、合理的な判断である。
日本が生き延びるためには、格差を拡大し、エリートと大衆を分割した方が「よい」というのは、ひとつの見識である。
私自身はそのような考え方には反対だが、そういう主張をなす人が主観的には合理的に推論していると思っていることは知っている。
短期的に考えれば、大学淘汰は大学助成にかけている国費を節約でき、大学の教育目的を国際競争力のあるエリート育成に限定でき、同時に大量の低賃金労働者を生み出すという点で「夢のようなソリューション」である。
だが、長期的に考えれば、「低学歴労働者の大量備給」を国策に掲げるような国に未来はない。
いったんこの趨勢に舵を切れば、あとは「少数の支配層」と「圧倒的多数の被支配層」に二極分解し続ける他ないからである。

もちろん朝日の社説は私がしているような生な話はしない。
弱々しい反論を試みている。
「学生が勉強しないのは企業側にも原因がある。3年の後半から就職活動が始まり、専門課程の勉強がろくにできない。」
中等教育で身につけるべき基礎学力を持たないままに学校教育から放逐された「行き場を失う子を増やすだけに終わるおそれがないか。仕事に必要な能力が身についていない若者が増えれば、年金などの社会保障を担う層が細ってしまう。」
「ただでさえ少ない予算を上位校に回し、下から切り捨てるようなことになれば、人材の層がますます薄くなってしまう。複数の大学が運営部門や教員を共有し、研究や教養教育を共同で行う。そうした『連携』で経営の効率を上げる。そして、生まれた余力は各大学の特色を高める工夫に回す。淘汰のムチをふるうより、そんな底上げをめざすほうが実りがあるのではにないか。」
何とも腰砕けの、情けない結論だが、朝日新聞が大学の市場原理による淘汰に異議(のようなもの)を唱えたことをとりあえず多としたい。
私が知る限り、日本のマスメディアはこれまで一貫して「集客力のない大学は市場から退場せよ」という市場原理による大学の再編をつよく支持してきたからである。
その意味では、「弱小大学を守れ」というのは画期的な路線変更である。
なぜ、考え方を改めたのか、その理由を訊きたいのだが、日本のマスメディアに社説の変更について、自己批判的な総括を期待するのは時間の無駄なので、訊かない。
日本には大学が短大も含めて1200ある。
いくらなんでも多すぎるとりあえず、私も思う。
なぜ、こんなに増やしたのか。
文科省は何を考えて、少子化趨勢が明らかになった後に大学設置基準を緩和し、ついには株式会社立大学の参入まで許したのか。
なぜそのような政策を合理的だと考えたのか、その理路をまず語るべきだろう。
文科省は何を考えて大学を増やしたのか?
その時の教育行政の方針が正しいと今でも思っているなら、文科省は国家戦略会議の大学削減提言に対して、はっきり反論すべきではないのか。
それについて口を噤んだまま、今度は大学を潰してゆくという。
その結果生じるさまざまな問題について、今度は誰が責任を取ることになるのか?
たぶん誰も責任を取る気はないのだろう。
国家戦略会議のメンバーも、朝日新聞の論説委員も、誰も教育のことを考えていない。
読めばわかる。
社説が問題にしているのは「年金を負担する層」「人材の層」が細くなることだけである。
「金の話」をしているのである。
学校教育を受ける当の子供たちの行く末について心配しているわけではない。
年金負担が増えると困る。生産性の高い人材が輩出して収益をもたらしてくれないと困る。
そう書いているのである。
だから、大学に求められるのは、まず「経営の効率を上げる」努力になる。
平たくいえば、人件費をカットして、少人数の教職員で大量の学生をてきぱきと「処理」できるシステムを作り、外部資金を取り入れ、学内起業で金を稼ぐ工夫でもしたらどうか、という話である。
日本の子供たちの学力が恐るべき勢いで劣化していることへの懸念や社会的能力を欠いた彼らの未来に対する不安は、すべて「金の問題」に矮小化されてしまう。
私が繰り返し書いているのは、日本の子供たちの劇的な学力低下は、学校教育をビジネスのワーディングで語るようになったせいだということである。
そのせいで、子供たちは消費者として学校に登場し、最低の代価で教育「商品」を手に入れることを目指すようになった。最少の学習努力で見栄えのいい単位や学位記を手に入れることが「賢い消費者」として称賛される達成だと思い込んでしまった。
朝日新聞の言うとおり、日本の子供たちは「効率」優先で学校教育を泳ぎ切り、そこで浮いた「余力」を自分の「特色を高める努力」に振り向けて、「こんなふう」になった。
それが原因で子供たちが学ぶことを止めた当の原理を学校教育に当てはめることで、子供たちの学びが再起動すると、この社説を書いた人はほんとうに信じているのだろうか。


2012.06.26

韓国の教育事情はどうなっているんだろう

韓国からお客さまが来た。
Silla University のパク教授と、Danjae school のパク先生。そのご令息で一橋大学留学中のパク君と、そのお友だちの生巣さん(彼女は日本人)。
パク教授は『先生はえらい』の翻訳者である。
パク先生は『下流志向』を読んで、膝を叩いて(ほんとうに叩いたらしい)、叩きすぎて膝が痛くなったので、そのあと韓国語版のウチダ本を順番に読書会で取り上げて、教員仲間でお読み頂いているそうである。
『先生はえらい』も、この方々のおかげで出ることになった。
このあと『街場の教育論』、『街場のメディア論』を続けて翻訳出版したいという。
隣国で自分の本が読まれることはたいへんにうれしいけれど、それは翻って言えば、日本と同じ問題を韓国社会も抱え込んでいるということである。
韓国はご存じの通り、かつての日本に似た受験競争・学歴社会である。
高学歴を手に入れることが死活的な重要性を持ってくる。
卒業証書の種別によって、将来の収入や地位が決まる。
そのせいで、一時的にはたいへん活発に子どもたちは勉強するようになる。
だが、ある段階で、おそらく日本で起きたように、子どもたちはぱたりと学習努力を止めてしまう。
パク先生たちが危機感を持っておられるのは、すでにそのような予兆が韓国内で見られるからだろう。

教育の「目的」が経済的な優位性を確保することに限定されれば、必ず教育「過程」そのもののうちにも効率化や経済合理性や費用対効果や原価率という概念が入り込んでくる。
必ず、入り込んでくる。
そのとき、子どもたちは「最低の学習努力で、最も高値の学歴を手に入れる方法」を競うようになる。
ビジネスマンたちが、最も安いコストで、最も利幅の多い商品を売り込もうとするのと同じことである。
子どもたちは単位であれ、成績であれ、卒業証書であれ、それを手に入れるための「ミニマムの学習努力」を探し始める。
そして、すぐにミニマムが固定値ではなく、同学齢集団の学力の関数であることに気づく。
つまり、「みんな」が毎日自宅学習を5時間勉強するなら、ミニマムは5時間だが、「みんな」が1時間なら、ミニマムもそれに連動するということである。
「みんな」が5時間のときに、相対的優位に立つためには6時間、7時間の自宅学習が求められるが、「みんな」が1時間なら、2時間で優位に立てる。
だから、賢い子どもたちはすぐに周囲の子どもたちの学習意欲を減殺することが競争的環境においては、自己努力よりも圧倒的に費用対効果がよいことに気づく。
まわりの子どもたちの学習意欲を減殺する方法はいくつかあるがもっとも有効なのは、「教育過程は実はそのまま経済活動である」というこの説明をうるさく言い立て、子どもたちが学校教育に対してシニックな態度をもつことをデフォルトにすることである。

学習が経済活動なら、最少の学習努力で最大の利益を上げた子どもが「最も賢い子ども」として称揚されることになる。
3分の2の出席と、60点が必要な教科では、そのミニマムをピンポイントで射貫いた学生は、当該教科で満点を取った学生よりも「優秀」なのである。
これはビジネスマンが「最低のコスト、最大のベネフィット」をめざすマインドと同一である。
さらに言えば、大学が「助成金の減額分が最少化し、かつ学納金が最大化する入学者数」をめざして入試の合否判定をするときのロジックとも同一である。
だから、親も教師も「ミニマム」を狙う学生に向かって、これを制止するロジックを持っていない。
額に汗して働いてちびちび稼ぐ人間より、キーボードをかちゃかちゃ叩いて数分で何億円も稼ぐ人間の方が「賢い」というルールで「世間」が動いているときに、子どもたちが「なぜ、自分たちだけは違うルールを適用されるのか」と抗議してきたときに、彼らに学習することの「本質的なたいせつさ」を説くことのできる人間はいない。

学生たちはミニマムを狙ってくるが、もちろん狙いはしばしば外れる。
それが「60点が合格最低点のときに65点をとってしまう」というかたちで外れるのは例外であり、「60点が最低点のときに55点をとってしまう」というかたちで外れるのが「ふつう」である。
クラスの半数以上が最低点に満たないという場合、教員はそれらの学生を落とすことを許されない。
教務から「いったいあなたはどんな授業をしているのだ」と「教育力の不足」を責められ、「再履修クラスのための教室の余裕もないし、教員の増員も手当てできない」からという理由で、「55点でも通してください。いいじゃないですか、5点くらい」というふうに説得されるのである(言葉づかいが妙にリアルだが、これは私が教務部長だったことと無関係ではない)。
「いいじゃないですか55点なら」はたちまち次の学期には「いいじゃないですか50点なら」になり、あっという間に「いいじゃないですか30点なら」というふうに下方修正されるのである。
「ミニマムが下方修正された」ということについての学生たちの情報収集力はきわめて高い。
そして、短期間のうちに、大学の定期試験の難度は中学生レベルにまで下がってしまうのである。

経済的合理性によって子どもたちを学習させようとすれば、ある段階から、子どもたちは急坂を転げ落ちるように学習意欲を失い、「誰がもっとも無知・無教養でありながら、最高レベルの学歴を手に入れたか」を競うようになる。
「誰がいちばんバカか」を競うようになる。
奇妙な話に聞えるかも知れないが、それが学校教育に市場原理を持ち込んだことの悪魔的なコロラリーなのである。
それが世界でもっとも早く、もっとも劇症的に起きたのが日本である。
かつて世界でもっとも勤勉だった日本の子どもたちは、教育の市場化にともなって、今は世界でもっとも勉強しない子どもたちになった。
「教育の市場化」が進行する国では、遅かれ早かれ同じことが起きる。
現に、韓国では、たぶんそのような事態が起きつつある。
いずれ中国でも、シンガポールでも、マレーシアでも、ベトナムでも、同じような学力崩壊現象が起きるだろう。
日本における学力崩壊趨勢がどこで「底」を打って、V字回復することになるのか、私にはまだ見通しが立たない。
私にわかるのは、文科省や中教審や国家戦略会議のような「教育の市場化」を推進する勢力の影響を完全に遮断したかたちで子どもたちを教育する場が今、日本各地で同時多発的に生まれているはずだし、生まれなければならないということだけである。

8月に韓国に行ったときに、現地の学校教育事情を現場の先生がたから詳しくうかがってこようと思っている。
それについては帰国してからご報告したいと思う。

2012.06.27

検察は怖いです

陸山会事件の捜査報告書に虚偽記載があった問題で、法務省は27日、報告書の記載が不正確だったとして、元東京地検特捜部の田代政弘検事(45)を減給6か月(100分の20)の懲戒処分とし、田代検事は辞職した。
また、監督責任で元特捜部長の佐久間達哉検事(55)と、元特捜部主任検事の木村匡良検事(50)を戒告の懲戒処分とした。
報告書は、小沢一郎元民主党代表に対する検察審査会の起訴相当議決を受け、田代検事が元秘書の石川知裕衆院議員(39)を再聴取した際の様子を記したものだが、実際にはないやり取りが記載されていた。同省は田代検事を停職とする方向で調整していたが、滝法相の最終判断で減給となった。このほか、地検検事正だった岩村修二・名古屋高検検事長(62)を厳重注意、斎藤隆博・特捜部副部長(49)を訓告の処分とした。
一方、最高検は同日、虚偽有印公文書作成などの容疑で告発された田代検事ら7人を不起訴とした。田代検事は嫌疑不十分、ほかは嫌疑なしの判断だった。(2012年6月27日17時11分 読売新聞)

このニュースについて日経から電話取材を受けた。
それほど興味のあるトピックでもなかったけれど、「それについてあまり考えていなかったこと」について意見を求められるというのは刺激的なことなので、電話口で考えながら、コメントを述べた。
処分の軽重については、同様の先行事例における処分と比較しない限り、処分が重いか軽いか判断できないので、「わからない」。
調書の偽造というのは「この程度の処分が妥当」ということが検察内部でこれまで蓄積された事例に基づいてルール化しているなら、その適否について素人がコメントすべきことはない。
ただ、検察が「司法の威信」ということを重く見るなら、この処分は「軽すぎる」という印象を持った。
今回の処分が適法的で、先行の処分事例に比べても妥当なものであったとしても、これによって検察への信頼性と司法の威信については、得るものより失うものの方が多かったと思う。
私は一市民として検察への信頼が高く、司法制度に国民が深い信頼を寄せている状態を好ましいと思うが、そのような状態を作り出すことに検察当局は第一次的な関心をもっていないということがわかった。
その政治判断の適否についても、私にはよくわからない。
ひとつわかったことは、たぶん「検察は公正な司法判断よりも、組織の自己防衛を優先する」ということをひろく国民に知らしめることもまた司法の威信を高める迂回的な効果があったということである。
陸山会事件のあと、政治家たちは政治資金の出し入れについて、これまでよりずっと慎重になり、できる限り合法的に帳簿をつけ、検察に疑惑をもたれないようにする努力をし始めたと思う。
検察は「やりたい放題」だというイメージを政治家に植え付けたことは、検察に対する信頼を損なった代償に、「検察は怖い」というイメージを植え付けることには成功した。
政治資金に関しては、できる限り、違法行為脱法行為とみなされかねない行為はしないという暗黙の了解が政界に共有された可能性が高い。
だとすれば、これは差し引き勘定すれば、法治効果を上げたという可能性がある。
検察当局はそこまで考えて、深慮遠謀の末に「検察なめたら、あかんど。わしら何でもできるんやからね」というアピールを国民全体に広めた可能性を私は排除しない。
現に、私がこの事件から汲み取った最大の教訓は、「どんなことがあっても検察とかかわりあいになるようなことはすまい」という自戒だったからである。
それが反社会勢力のなすアピールと同型的であり、効果もまた相同的であるということはとりあえず脇においても。
大筋そのような話を電話でした。
しばらくして電話がかかってきて、「紙面が混んでいるので、ウチダさんのコメントは掲載できなくなりました」という連絡があった。
まあ、当然でしょうね。


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