韓国の教育事情はどうなっているんだろう

2012-06-26 mardi

韓国からお客さまが来た。
Silla University のパク教授と、Danjae school のパク先生。そのご令息で一橋大学留学中のパク君と、そのお友だちの生巣さん(彼女は日本人)。
パク教授は『先生はえらい』の翻訳者である。
パク先生は『下流志向』を読んで、膝を叩いて(ほんとうに叩いたらしい)、叩きすぎて膝が痛くなったので、そのあと韓国語版のウチダ本を順番に読書会で取り上げて、教員仲間でお読み頂いているそうである。
『先生はえらい』も、この方々のおかげで出ることになった。
このあと『街場の教育論』、『街場のメディア論』を続けて翻訳出版したいという。
隣国で自分の本が読まれることはたいへんにうれしいけれど、それは翻って言えば、日本と同じ問題を韓国社会も抱え込んでいるということである。
韓国はご存じの通り、かつての日本に似た受験競争・学歴社会である。
高学歴を手に入れることが死活的な重要性を持ってくる。
卒業証書の種別によって、将来の収入や地位が決まる。
そのせいで、一時的にはたいへん活発に子どもたちは勉強するようになる。
だが、ある段階で、おそらく日本で起きたように、子どもたちはぱたりと学習努力を止めてしまう。
パク先生たちが危機感を持っておられるのは、すでにそのような予兆が韓国内で見られるからだろう。

教育の「目的」が経済的な優位性を確保することに限定されれば、必ず教育「過程」そのもののうちにも効率化や経済合理性や費用対効果や原価率という概念が入り込んでくる。
必ず、入り込んでくる。
そのとき、子どもたちは「最低の学習努力で、最も高値の学歴を手に入れる方法」を競うようになる。
ビジネスマンたちが、最も安いコストで、最も利幅の多い商品を売り込もうとするのと同じことである。
子どもたちは単位であれ、成績であれ、卒業証書であれ、それを手に入れるための「ミニマムの学習努力」を探し始める。
そして、すぐにミニマムが固定値ではなく、同学齢集団の学力の関数であることに気づく。
つまり、「みんな」が毎日自宅学習を5時間勉強するなら、ミニマムは5時間だが、「みんな」が1時間なら、ミニマムもそれに連動するということである。
「みんな」が5時間のときに、相対的優位に立つためには6時間、7時間の自宅学習が求められるが、「みんな」が1時間なら、2時間で優位に立てる。
だから、賢い子どもたちはすぐに周囲の子どもたちの学習意欲を減殺することが競争的環境においては、自己努力よりも圧倒的に費用対効果がよいことに気づく。
まわりの子どもたちの学習意欲を減殺する方法はいくつかあるがもっとも有効なのは、「教育過程は実はそのまま経済活動である」というこの説明をうるさく言い立て、子どもたちが学校教育に対してシニックな態度をもつことをデフォルトにすることである。

学習が経済活動なら、最少の学習努力で最大の利益を上げた子どもが「最も賢い子ども」として称揚されることになる。
3分の2の出席と、60点が必要な教科では、そのミニマムをピンポイントで射貫いた学生は、当該教科で満点を取った学生よりも「優秀」なのである。
これはビジネスマンが「最低のコスト、最大のベネフィット」をめざすマインドと同一である。
さらに言えば、大学が「助成金の減額分が最少化し、かつ学納金が最大化する入学者数」をめざして入試の合否判定をするときのロジックとも同一である。
だから、親も教師も「ミニマム」を狙う学生に向かって、これを制止するロジックを持っていない。
額に汗して働いてちびちび稼ぐ人間より、キーボードをかちゃかちゃ叩いて数分で何億円も稼ぐ人間の方が「賢い」というルールで「世間」が動いているときに、子どもたちが「なぜ、自分たちだけは違うルールを適用されるのか」と抗議してきたときに、彼らに学習することの「本質的なたいせつさ」を説くことのできる人間はいない。

学生たちはミニマムを狙ってくるが、もちろん狙いはしばしば外れる。
それが「60点が合格最低点のときに65点をとってしまう」というかたちで外れるのは例外であり、「60点が最低点のときに55点をとってしまう」というかたちで外れるのが「ふつう」である。
クラスの半数以上が最低点に満たないという場合、教員はそれらの学生を落とすことを許されない。
教務から「いったいあなたはどんな授業をしているのだ」と「教育力の不足」を責められ、「再履修クラスのための教室の余裕もないし、教員の増員も手当てできない」からという理由で、「55点でも通してください。いいじゃないですか、5点くらい」というふうに説得されるのである(言葉づかいが妙にリアルだが、これは私が教務部長だったことと無関係ではない)。
「いいじゃないですか55点なら」はたちまち次の学期には「いいじゃないですか50点なら」になり、あっという間に「いいじゃないですか30点なら」というふうに下方修正されるのである。
「ミニマムが下方修正された」ということについての学生たちの情報収集力はきわめて高い。
そして、短期間のうちに、大学の定期試験の難度は中学生レベルにまで下がってしまうのである。

経済的合理性によって子どもたちを学習させようとすれば、ある段階から、子どもたちは急坂を転げ落ちるように学習意欲を失い、「誰がもっとも無知・無教養でありながら、最高レベルの学歴を手に入れたか」を競うようになる。
「誰がいちばんバカか」を競うようになる。
奇妙な話に聞えるかも知れないが、それが学校教育に市場原理を持ち込んだことの悪魔的なコロラリーなのである。
それが世界でもっとも早く、もっとも劇症的に起きたのが日本である。
かつて世界でもっとも勤勉だった日本の子どもたちは、教育の市場化にともなって、今は世界でもっとも勉強しない子どもたちになった。
「教育の市場化」が進行する国では、遅かれ早かれ同じことが起きる。
現に、韓国では、たぶんそのような事態が起きつつある。
いずれ中国でも、シンガポールでも、マレーシアでも、ベトナムでも、同じような学力崩壊現象が起きるだろう。
日本における学力崩壊趨勢がどこで「底」を打って、V字回復することになるのか、私にはまだ見通しが立たない。
私にわかるのは、文科省や中教審や国家戦略会議のような「教育の市場化」を推進する勢力の影響を完全に遮断したかたちで子どもたちを教育する場が今、日本各地で同時多発的に生まれているはずだし、生まれなければならないということだけである。

8月に韓国に行ったときに、現地の学校教育事情を現場の先生がたから詳しくうかがってこようと思っている。
それについては帰国してからご報告したいと思う。