大学統廃合について(ひさしぶりに)

2012-06-25 lundi

6月23日の朝日新聞の社説に「大学改革 減らせば良くなるのか」という論説が掲げられていた。
政府の国家戦略会議が行っている大学改革論議の中で、財界人や政治家たちから、「大学が増えすぎて学生の質が下がった。専門知識はおろか一般教養も外国語も身についていない。大学への予算配分にメリハリをつけ、競争によって質を上げよ。校数が減って、大学進学率が下がってもいい」という声が上がったことへの疑念を示したコメントである。
大学を市場原理に放り込み、集客力のない大学の淘汰に同意すると、統廃合が進み、「体力のない地方の小さな私大からつぶれ、地方の裕福ではない家庭の子は進学の機会を奪われる」と社説は予測する。
この予測には、私も同意する(朝日新聞の教育関連の社説と部分的にではあれ意見が合うというのは、私には珍しいことである)。
そもそも大学生の学力が低下しているのは、中等教育で基礎学力が担保されていないからである。
中等教育の内容を理解していない卒業生を送り込まれた大学に向かって「そんなのはばんばん入試で落とせ」と言われても困る。
「高校卒業程度の学力があるものだけ」に入学者を限定すれば、たぶん日本の大学入学者数は今の三分の一以下になるだろう。
だったら、大学も三分の一になればいい、とおっしゃるかもしれない。
なるほど。
だが、そこで弾き出された「高校卒業程度の学力もない高校卒業生の群れ」の雇用の確保や職業訓練について、戦略会議の皆さんはどうお考えなのであろう。
何かアイディアはおありなのだろうか。
高卒で放り出されたうちの半数は、ほんとうを言うと、「中学卒業程度の学力」さえおぼつかないのである。
アルファベットが書けない、四則計算がおぼつかない、明治大正昭和の順番がわからないという子どもたちを15歳で学校から放り出した後、戦略会議の皆さんには、どういう授産計画・雇用計画がおありになるのか。
まず、それを訊きたい。
いや「それを訊きたい」というのは修辞的な問いだ。
財界人たちだって、何が起きるかわかっているのである。
そして、それも「それほど悪いことじゃない」と思っているのである。

考えてみよう。
財界人が「大学はこんなに要らない」というのは、論理的には「変な話」なのである。
知性的な成長のチャンスは、ごく常識的に考えて、教育を受ける「時間的長さ」と相関する。
どれほど学力が低いとはいえ、中卒、高卒で学業を終えるより、大学まで出た方が、「まだまし」である。
四年長く学校に通っているうちに、思いがけないトリガーに触れて爆発的に知性的活動が活発化するということだってある。
たしかに「大学が増えすぎて学生の質が下がった」というのは事実である。
だが、それは「大学が増えすぎて日本の若者の知的な質が下がった」ということとは違う。
大学が増えたことによって、日本の若者たちの高等教育を受けるチャンスは明らかに増え、全体の学力は(わずかなりとはいえ)底上げされた。
たしかに高等教育のチャンスが活用されていないということは事実である。
だが、それではというので、学校に通うチャンスを減らせば、日本の若者の学力が向上するということはありえない。
淘汰を生き延びた大学に通う学生については「平均学力が上がった」という結果が見込めるだろう。
だが、それは「日本の若者たちの平均学力が上がった」ということを意味しない。
若者たち全体の平均学力は下がる。
必ず、下がる。
そこで、「大学生の学力が低いので、大学を減らせ」という主張をなした戦略会議の委員の方にお訊きしたい。
「大学を減らすと、日本人全体の学力が向上する」という推論が合理的ではないということくらいは委員の皆さんにもわかっていたはずである。
では、いったい「何を」めざしてこのような提言をなされたのであろうか。
大学を市場原理による淘汰に委ねた場合に確実に起きると予測されることの一つは、「低学歴労働者の大量の出現」である。
中卒労働者はたぶん時給500円以下の最下層労働者群を形成することになる。
そうすれば、製造業は中国やインドネシアに近い人件費で国内で労働者が雇用できるようになる。
生産拠点の海外移転が進むのは、国内では人件費が高いからというのが最大の理由であった。
人件費が大幅に下がってくれるなら、何も海外に出ることはない。
海外は、言葉は通じないし、インフラは不十分だし、政情も不安定である・・・それよりは日本で安い労働力が手に入るならこれに越したことはない。
たぶん経営者たちはそう考えたのだろう。
たしかに低学歴労働者たちが増えすぎると、労働者の絶対的な貧窮化が進み、購買力は弱まり、国内市場は瓦解することになる。
でも、それまで企業は人件費の大幅な削減によって短期的な収益の確保が見込める。
資本主義企業というのは、「短期的な収益の方が長期的な収益より優先的に配慮される」という、きわめて特殊な成り立ちをしている。
「朝三暮四」というのが企業の本性である。
この四半期を乗り越えられなければ「全部おしまい」だからである。
だから、戦略会議の目的は「日本人全体の学力の向上」ではないのである。
日本人全体の学力は下がっても構わない。
生き残った大学に通う大学生(「人を使う側」になる人間)の学力だけが選択的に上がり、低学歴労働者はまさに低学歴であるがゆえに人件費の大幅カットに合理的な理由を提供してくれればよい、と。
非情ではあるが、合理的な判断である。
日本が生き延びるためには、格差を拡大し、エリートと大衆を分割した方が「よい」というのは、ひとつの見識である。
私自身はそのような考え方には反対だが、そういう主張をなす人が主観的には合理的に推論していると思っていることは知っている。
短期的に考えれば、大学淘汰は大学助成にかけている国費を節約でき、大学の教育目的を国際競争力のあるエリート育成に限定でき、同時に大量の低賃金労働者を生み出すという点で「夢のようなソリューション」である。
だが、長期的に考えれば、「低学歴労働者の大量備給」を国策に掲げるような国に未来はない。
いったんこの趨勢に舵を切れば、あとは「少数の支配層」と「圧倒的多数の被支配層」に二極分解し続ける他ないからである。

もちろん朝日の社説は私がしているような生な話はしない。
弱々しい反論を試みている。
「学生が勉強しないのは企業側にも原因がある。3年の後半から就職活動が始まり、専門課程の勉強がろくにできない。」
中等教育で身につけるべき基礎学力を持たないままに学校教育から放逐された「行き場を失う子を増やすだけに終わるおそれがないか。仕事に必要な能力が身についていない若者が増えれば、年金などの社会保障を担う層が細ってしまう。」
「ただでさえ少ない予算を上位校に回し、下から切り捨てるようなことになれば、人材の層がますます薄くなってしまう。複数の大学が運営部門や教員を共有し、研究や教養教育を共同で行う。そうした『連携』で経営の効率を上げる。そして、生まれた余力は各大学の特色を高める工夫に回す。淘汰のムチをふるうより、そんな底上げをめざすほうが実りがあるのではにないか。」
何とも腰砕けの、情けない結論だが、朝日新聞が大学の市場原理による淘汰に異議(のようなもの)を唱えたことをとりあえず多としたい。
私が知る限り、日本のマスメディアはこれまで一貫して「集客力のない大学は市場から退場せよ」という市場原理による大学の再編をつよく支持してきたからである。
その意味では、「弱小大学を守れ」というのは画期的な路線変更である。
なぜ、考え方を改めたのか、その理由を訊きたいのだが、日本のマスメディアに社説の変更について、自己批判的な総括を期待するのは時間の無駄なので、訊かない。
日本には大学が短大も含めて1200ある。
いくらなんでも多すぎるとりあえず、私も思う。
なぜ、こんなに増やしたのか。
文科省は何を考えて、少子化趨勢が明らかになった後に大学設置基準を緩和し、ついには株式会社立大学の参入まで許したのか。
なぜそのような政策を合理的だと考えたのか、その理路をまず語るべきだろう。
文科省は何を考えて大学を増やしたのか?
その時の教育行政の方針が正しいと今でも思っているなら、文科省は国家戦略会議の大学削減提言に対して、はっきり反論すべきではないのか。
それについて口を噤んだまま、今度は大学を潰してゆくという。
その結果生じるさまざまな問題について、今度は誰が責任を取ることになるのか?
たぶん誰も責任を取る気はないのだろう。
国家戦略会議のメンバーも、朝日新聞の論説委員も、誰も教育のことを考えていない。
読めばわかる。
社説が問題にしているのは「年金を負担する層」「人材の層」が細くなることだけである。
「金の話」をしているのである。
学校教育を受ける当の子供たちの行く末について心配しているわけではない。
年金負担が増えると困る。生産性の高い人材が輩出して収益をもたらしてくれないと困る。
そう書いているのである。
だから、大学に求められるのは、まず「経営の効率を上げる」努力になる。
平たくいえば、人件費をカットして、少人数の教職員で大量の学生をてきぱきと「処理」できるシステムを作り、外部資金を取り入れ、学内起業で金を稼ぐ工夫でもしたらどうか、という話である。
日本の子供たちの学力が恐るべき勢いで劣化していることへの懸念や社会的能力を欠いた彼らの未来に対する不安は、すべて「金の問題」に矮小化されてしまう。
私が繰り返し書いているのは、日本の子供たちの劇的な学力低下は、学校教育をビジネスのワーディングで語るようになったせいだということである。
そのせいで、子供たちは消費者として学校に登場し、最低の代価で教育「商品」を手に入れることを目指すようになった。最少の学習努力で見栄えのいい単位や学位記を手に入れることが「賢い消費者」として称賛される達成だと思い込んでしまった。
朝日新聞の言うとおり、日本の子供たちは「効率」優先で学校教育を泳ぎ切り、そこで浮いた「余力」を自分の「特色を高める努力」に振り向けて、「こんなふう」になった。
それが原因で子供たちが学ぶことを止めた当の原理を学校教育に当てはめることで、子供たちの学びが再起動すると、この社説を書いた人はほんとうに信じているのだろうか。