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2012年05月 アーカイブ

2012.05.02

仕事力について

4月に一ヶ月間、毎週一度朝日新聞の求人欄の上のコラムに「仕事力」というエッセイを連載しました。いつもの話ですけれど、就活する学生たちに対して言いたいことをわりとコンパクトにまとめてあるので、そういう立場にいる方はぜひご一読ください。


自分の適性に合った仕事に就くべきだと当たり前のように言われていますが、「適職」などというものがほんとうにあるのでしょうか。
僕は懐疑的です。
「キャリア教育」の名のもとに、大学2年生から就活指導が始まり、その最初に適性検査を受けさせられます。
これがいったい何の役に立つのか、僕にはまったくわかりません。
大学で教えている頃に、ゼミの学生が適性検査の結果が出たのだが、と困惑してやってきたことがありました。
「あなたの適職は1位キャビンアテンダント、2位犬のトリマーと出たんですけど、私は一体何になればいいのでしょう?」
就職情報産業は学生たちを、自分には「これしかない」という唯一無二の適職があるのだが、情報が足りないせいで、それに出会えずにいるという不安のうちに置きます。それに乗じられる学生たちが僕は気の毒でなりません。
仕事というのは自分で選ぶものではなく、仕事の方から呼ばれるものだと僕は考えています。
「天職」のことを英語では「コーリング(calling)」とか「ヴォケーション(vocation)」と言いますが、どちらも原義は「呼ばれること」です。
僕たちは、自分にどんな適性や潜在能力があるかを知らない。でも、「この仕事をやってください」と頼まれることがある。あなたが頼まれた仕事があなたを呼んでいる仕事なのだ、そういうふうに考えるように学生には教えてきました。
仕事の能力については自己評価よりも外部評価の方がだいたい正確です。頼まれたということは外部から「できる」と判断されたということであり、その判断の方が自己評価よりも当てになる。
「キャリアのドアにはドアノブがついていない」というのが僕の持論です。
キャリアのドアは自分で開けるものではありません。向こうから開くのを待つものです。そして、ドアが開いたら、ためらわずそこの踏み込む。

労働市場における「適職」という語の意味は、意地悪く言えば、「自分が持っている能力や素質に対していちばん高い値段をつけてくれる職業」のことです。とりあえず今はそういう意味で使われている。最も少ない努力で、最も高い報酬を得られる職種を求めるのは、消費者にとっては自明のことです。いちばん安い代価でいちばん質のよい商品を手に入れるのが賢い消費者ですから。その消費者マインドが求職活動にも侵入している。
でも、「費用対効果のよい仕事がいちばんいい仕事だ」というロジックを推し進めれば、ディスプレイの前でキーボードを叩くだけで何億円も稼ぐような仕事がいちばん「賢い」仕事だということになります。
「仕事をする」というのは「手持ちの貨幣で商品を買う」ことではありません。それはむしろ、自分がいったい何を持っているのかを発見するプロセスなのです。

最も少ない努力と引き替えに、最も高い報酬を提供してくれる職種、それを今の人たちは「適職」と呼びます。そして、就活する若者たちは適職の発見に必死です。
でも、それは消費者マインドがもたらした考え方に他ならないと僕は思います。
「賢い消費者」とは、最少の貨幣で、価値ある商品を手に入れることのできたもののことを言います。「賢い消費者になること」それが今の子どもたちのすべてのふるまいを支配しています。
学校がそうです。
消費者的基準からすれば、最低の学習努力で最高の学歴を手に入れたものがいちばん「賢い学生」だということになります。
だから、ぎりぎり60点を狙ってくる。出席日数の3分の2が必須なら、きっかり3分の1休むようにスケジュールを調整する。60点で合格できる教科で70点をとることは、100円で買える商品に200円払うような無駄なことだと思っている。
ほんとうに学生たちはそう信じているんです。
僕の友人が大学の運動部の監督をしています。彼が用事でグラウンドに出られないときに、部員がこう訊きに来たそうです。
「何やっとけばいいんですか?」
彼はその問いにつよい違和感を覚えました。
当然だと思います。これは「何をすべきか」を訊ねる価値中立的な問いではないからです。そのように装っていますが、実際に訊いているのは、「それだけしておけばよい最低ライン」なのです。「あなたから文句を言われないミニマムを開示してください」学生たちはそう言っているのです。
これも友人の医学部の先生から聴いた話です。授業の後に廊下を追って質問に来る学生がいました。教科の内容について訊かれるのかと思って振り返ったら、「これ国試に出ますか?」と訊かれた。
この二つは同じ質問です。
学生たちは当然の質問をしているつもりですが、彼らが訊いているのは「ミニマム」なのです。その商品を手に入れるための最低金額の開示を求めている。
だから、「大学では何も勉強しませんでした」と誇らしげに語る若者が出現してくるのです。
彼らは最低の学習努力で、労働市場で高値のつく学位記を手に入れたおのれの「力業」に対する人々の賞賛を期待して、そう言っているのです。
ですから、就職についても、彼らは同じ原則を適用します。
「特技や適性を生かした職業に就きたい」というのは、言い換えれば、「最小限の努力で最高の評価を受けるような仕事をしたい」ということです。すでに自分が持っている能力や知識を高い交換比率で換金したい、と。
そういう人は、自分が労働を通じて変化し成熟するということを考えていません。
でも、「その仕事を通じて成長して、別人になる」ことを求めない人のためのキャリアパスは存在しません。

歯科医によると、世の中には「入れ歯が合う人」と「合わない人」がいるそうです。
合う人は作ってもらった入れ歯が一発で合う。合わない人はいくら作り直しても合わない。別に口蓋の形状に違いがあるわけではありません。自分の本来の歯があった時の感覚が「自然」で、それと違う状態は全部「不自然」だから嫌だという人は、何度やっても合わない。それに対して「歯がなくなった」という現実を涼しく受け入れた人は「入れ歯」という新しい状況にも自然に適応できる。多少の違和感は許容範囲。あとは自分で工夫して合わせればいい。
この話を僕は合気道の師匠である多田宏先生から伺いました。「合気道家は入れ歯が合うようじゃなくちゃいかん」と言って先生は笑っておられました。
武道というのは与えられた環境でベストパフォーマンスを達成するための心身の工夫のことです。戦場に投じられた時に、「こんな戦力じゃ戦えない。やり直せ」と要求することはできません。手持ちの資源をやり繰りして、何とかするしかない。
結婚も就職も、ある意味では「入れ歯」と同じです。
自分自身は少しも変わらず自分のままでいて、それにぴったり合う「理想の配偶者」や「理想の職業」との出会いを待ち望んでいる人は、たぶん永遠に「ぴったりくるもの」に出会うことができないでしょう。
「どんな相手と結婚しても、そこそこ幸福になれる人」は「理想の配偶者以外は受け付けられない人」より市民的成熟度が高いと僕は思います。
親族というのが「それが絶えたら共同体が立ち行かないもの」である以上、 「大人」とはそういうものでなければ困る。
仕事だってそうです。
「どんな職業についても、そこそこ能力を発揮できて、そこそこ楽しそうな人」こそが成熟した働き手であり、キャリア教育はその育成をこそ目指すべきだと僕は思っています。
自分にどんな能力があるかなんて、実際に仕事をしてみなくちゃわからない。分かった時にはもうけっこうその道の専門家になっていて、今さら「別の仕事に就いていたら、ずっと能力が発揮できたのに…」というような仮定の話はする気もなくなっている、というものではないでしょうか。
予備校生の頃、僕は法学部を出て、検察官か警察官になることを予定していました。でも、なぜか仏文学者になってしまった。法律家になっていたら成功しただろうかと今でも時々考えます。でも、何だかずいぶん残忍で非情な司法官になって、人びとを苦しませていたような気もして、「ならなかった方が世間のためだった」と自分に言い聞かせています。
仏文学者になることも、 武道家になることも、二十歳の時は全く予想もしていませんでした。でも、もののはずみで、それが職業になりました。なった以上、そこでベストを尽くす。そんなふうにして人間は「天職」を自作してゆくものではないかと思います。

卒業して、社会人になったら、学ぶことは終わってしまうわけではありません。学びはエンドレスです。
でも、学び続けられる人は決して多くありません。
先日、あるトークセッションでアナーキズムのことを話題にしたことがありました。
終わった後にたまたまフロアにいた卯城竜太君(美術家集団Chim↑Pomの)が僕のところにやってきました。
彼が僕に向けたのは、「アナーキズムの社会では貨幣はどうなるんですか?」「起業するときは、どういうふうにするんですか?」という面食らうような質問でした。
彼は僕や中沢新一さんがしていたアナーキズムの話を聞いて、「あ、それいい」と思って、もし日本がアナーキズム的な社会になったら、自分はどんな仕事のしかたをすればいいのか僕に訊ねてきたのです。
彼のその想像力の自由さと、「学ぶ」姿勢のストレートさに、僕はちょっと感動してしまいました。
そして、たしかにこういう人が自分の専門分野で抜きんでた仕事をなしとげ、国際的な存在になるのだろうなと思いました。
「学ぶ姿勢」のある人は何よりも素直です。つまらない先入観を持たない。「アナーキズム的社会なんてありえないよ」という生半可なリアリズムで好奇心を閉ざさない。素直な人に訊かれると、こちらもつい真剣になる。知っている限りのことを、知らないことまでも、教えてあげたい気分になる。そういうものです
つねづね申し上げていることですが、学ぶ力には三つの条件があります。
第一は自分自身に対する不全感。自分が非力で、無知で、まだまだ多くのものが欠けている。だから、この欠如を埋めなくてはならないという飢餓感を持つこと。
第二は、その欠如を埋めてくれる「メンター(先達)」を探し当てられる能力。メンターは身近な人でもいいし、外国人でも、故人でも、本や映画の中の人でもいい。生涯にわたる師でなく、ただある場所から別の場所に案内してくれるだけの「渡し守」のような人でもいい。自分を一歩先に連れて行ってくれる人はすべてたいせつなメンターです。
第三が、オープンマインド。人をして「教える気にさせる」力です。素直さと言ってもいいし、もっと平たく「愛嬌」と言ってもいい。
この三つの条件をまとめると、「学びたいことがあります。教えて下さい。お願いします」という文になります。
これが「学びのマジックワード」です。
これをさらっと口に出せる人はどこまでも成長することができる。この言葉を惜しむ人は学ぶことができません。学ぶ力には年齢にも社会的地位にも関係がありません。
これから仕事に就くみなさんのご健闘を祈ります。
がんばってください。

忠臣蔵のドラマツルギー

モーリス・ベジャール振り付けの「ザ・カブキ」のパリ公演のためのパンフレットに「どうして日本人は忠臣蔵が好きなのか」について書きました。
まず日本語で書いて、それを一文ごとにフランス語に置き換えるという作業をしました。
うまくフランス語が思い出せない言葉は日本語を書いている段階ですでに抑制されるので、ふだん日本語で書くときとはかなり違う文体になります。
結論も「フランス人向き」にアレンジしてあります。
この夏パリに行って、バレーを見る機会があったら、パンフレットぱらぱらとめくってみてください。

忠臣蔵のドラマツルギー La dramaturgie de “Chusin gura”

日本では、毎年暮れになると、どこかのTV局で『忠臣蔵』の映画かドラマが放映される。『忠臣蔵』に題材にした新作映画も飽くことなく製作され続けている。外国人の眼からは、定期的に『忠臣蔵』を見るという行為は、日本人が国民的なアイデンティティーを確認するための一種の儀礼に類したもののように見えることだろう。
私たちは『忠臣蔵』についての国民的規模での偏愛を抱いている。いったい、この物語のどこにそれほど日本人を惹きつける要素があるのか。
それを検出するのは、手続き的にはそれほどむずかしいことではない。というのは、『忠臣蔵』の物語には同時代の『東海道四谷怪談』をはじめとして、無数のヴァリエーションが存在するからである。もし、無数のヴァリエーションを通じて、「決して変わらない要素」があるとすれば、それこそが『忠臣蔵』の物語的エッセンス、必須の説話的原型だということになる。
ベジャールのバレー『ザ・カブキ』の基礎となっている『仮名手本忠臣蔵』もまたそのような無数のヴァリエーションの一つである。そこには多くの「歌舞伎的な創意」が凝らされており、それがこの物語を魅力的なものにしているのは事実であるが、例えば、「高師直の顔世御前への片思い」や「お軽、勘平の悲劇」や「力弥と小浪の悲恋」といった『仮名手本忠臣蔵』の中での「愛をめぐる挿話」は、どれも歌舞伎のオリジナルな工夫であって、他のヴァリエーションには採用されていない。だから、この舞台を見て、『忠臣蔵』とは「成就しない愛」の物語であり、それが国民的な人気の理由なのだというふうに解釈する人は短慮のそしりを免れないであろう。
すべての『忠臣蔵』ヴァリエーションが一つの例外もなく共通して採択している物語要素があれば、私たちはそれをこそ忠臣蔵的な物語の本質と名指すべきであろう。
さて、驚くべきことだが、そのような物語要素は実は一つしかないのである。
数知れない『忠臣蔵』ヴァリエーションの中には「松の廊下」の場面をカットしているものがあり、「赤穂城明け渡し」をカットしているものがあり、極端な場合には「討ち入り」の場面をカットしているものさえある。だが、絶対にカットされない場面がある。
それは「大石内蔵助/大星由良之助の京都の茶屋での遊興の場面」である。
そこから私たちはこのエピソードこそ、それ抜きでは『忠臣蔵』という物語が成立しなくなるぎりぎりただ一つの物語要素だと推論できるのである。
『忠臣蔵』では、浪士たちの人物造形にはある程度の自由度が許されている。例えば、堀部安兵衛は浪士たちの中ではもっともカラフルな履歴を誇る武士だが、ヴァリエーションごとに造形が違う。ある物語では彼は思慮深く、温厚な人物として描かれ、別の物語では、好戦的で、軽率な青年として描かれる。どう描こうと、物語の骨組みに影響はないから、そのような自由裁量が許されるのである(そもそも『仮名手本忠臣蔵』に安兵衛は登場さえしない)。
他の登場人物についても同様である。
浅野内匠頭も、幼児的ではた迷惑な人物として描かれる場合があり、筋目の通った爽やかな武士として描かれる場合もある。どちらであっても、物語の骨組みは揺るがない。
だが、大石の場合はそれが許されない。
あらゆる『忠臣蔵』ヴァリエーションを通じて、大石内蔵助を演じる役者には絶対に譲れない役作り条件が課されている。
それは「何を考えているのか、わからない男」であることである。
『忠臣蔵』というのは「不安」のドラマなのである。大石という、仇討ちプロジェクトの総指揮者であり、資源と情報を独占して、浪士たちの生殺与奪の権利をにぎっている人物が何を考えているのか、わからない。
ほんとうに討ち入りはあるのかと疑う同志たちの猜疑心。討ち入りがいつ来るか怯える吉良方の人々の怯え。公的な裁定への暴力的な異議申し立てがなされることに対する統治者の側の不安。血なまぐさいスペクタクルを期待している大衆の苛立ち。主君の仇を討つというヒロイックな企てを浪士たちが利己的な理由で放棄した場合、「武士道倫理の卓越性」という武士による統治の根本原理が崩れることへの武士階級全体の困惑・・・無数の不安が「大石が何を考えているのかわからない」というただ一つの事実の上に累積してゆく。
大石が自分の命を賭して主君の仇を討てば、「武士道倫理」へのクレジットが加算される。彼が現世の快楽と保身を優先させるのであれば「人間なんて、しょせん色と欲で動かされる利己的な生き物にすぎない」というシニックな人間観へのクレジットが加算される。
果たして、大石はパセティックな倫理に賭け金を置くのか、シニックなエゴイズムに賭け金を置くのか、人々は息をつめてみつめている。そして、最後に、大石の決断によって、この過度に引き延ばされた非決定状態は劇的な仕方で解決される。
『忠臣蔵』のカタルシスはそのように構造化されている。
「全権を握っている人間が何を考えているのかわからない」とき日本人は終わりのない不安のうちにさまざまな解釈を試みる。そのときに、日本人の知性的・身体的なセンサーの感度は最大化し、想像力はその限界まで突き進む。中心が虚であるときにパフォーマンスが最大化するように日本人の集団が力動的に構成されている。
たぶんそういうことなのだ。
だから、それが天皇制の政治力学と構造的に同一であることに私はもう驚かない。

2012.05.07

原発ゼロ元年の年頭にあたり

国内のすべての原発が止まった。
1970年から42年ぶりのことである。
2012年という年号が「脱原発元年」としてひさしく記憶されるようになることを私は願っている。
原発の再稼働の賛否については、文字通り「国論を二分する」ような議論がゆきかっている。
再稼働賛成派の論拠はおもに経済的なものである。
盛夏における電力の不足、電気料金の値上がり、電力コストの上昇による工業製品の国際競争力の相対的低下、より安い電力を求めての生産拠点の海外流出と産業の空洞化などなど。
政治的要因としては、石油依存体制がもたらすエネルギー安保上の不安があるが、これはあまり大きな声で言い立てる人がいない。
ご存じのとおり、石油の採掘、精製、輸送、販売は「オイルメジャー」と呼ばれる石油資本が伝統的に独占してきた。メジャーの価格統制を嫌った産油国が1960年にOPECを結成し、石油メジャーによる市場の独占は70年代に終わったが、エクソン・モービル、シェブロン、BP、ロイヤル・ダッチ・シェルといった巨大資本はふたたび石油の独占体制をめざして市場を回復しつつある。
石油の安定的な供給のためには、これらの石油資本と産油国の両方に「いい顔」をする必要がある。
だがアメリカ政府は日本が産油国に主権的に「いい顔」をすることを許さない。
先日の鳩山由紀夫元総理のイラン訪問に対してアメリカ政府と民主党内の親米勢力は露骨な不快を示した。
これは日本がエネルギー安保において主権的にふるまうことに対する国内外のアレルギーの現れと見るのが妥当だろう。
エネルギー安保も軍事同盟と同じである。
アメリカ以外のところと安全保障の盟約を締結することは許されない。
そういうふうに考える人たちがここにきて原発再稼働に賛成するようになっている。
ように見える。
いま原発再稼働を主張している人たちのうちで、福島原発以後官邸や東電を擁護して、「原発はこれからも稼働すべきだ」という力強い論陣を張った人がどれだけいるだろうか。
ほとんどいなかったように思う。
彼らの判断はたぶん最近変わったのである。
2011年暮れまでは「アメリカは日本には原発をコントロールできるだけの能力がないと判断して、『脱原発』を指示するのではないか」という予測が「日米同盟基軸派」内には存在した。
存在したかどうか確証はないが、私は何となくそう推測している。
だが、その後、アメリカは別に脱原発を指示してもこないし、石油メジャー依存へのエネルギー戦略の切り替えも指示してこないし、代替エネルギー(そのテクノロジー開発のアメリカはトップランナーである)への転換も指示してこなかった。
どうやら、アメリカは日本の原子力行政に積極的な介入をする意思はないらしい。
そのことがわかった。
そこで、これまで「アメリカの出方待ち」で態度表明を保留していた人々が、一斉に「じゃあ、原発再稼働しようよ。コスト安いし(事故があった場合でも電力会社にはさしたるお咎めもないみたいだし)」という命題を公言するようになった。
そういう流れではないかと思う。
私はそれが悪いと言っているのではない。
「アメリカの意思を最優先することが日本の国益を最大化する道である」という国家戦略(と言えるかどうか心許ないが)は「あり」である。
現に、そのようなしかたで日本は戦後67年を生き延びたのである。
けれども、日本の国益の判断はもう少し自主的に行ってもよろしいのではないか。
アメリカの国益を損なうが日本の国益は増大するというきびしい選択の場面で、もう少し「強押し」してもよろしいのではないか、という考え方をする人はいつもいたし、今もいる。
私もそういう立場をとるひとりである。
とはいえ、別にさしたる思想的確信があってそう言っているわけではない。
最終的な判断基準は「国益の多寡」という数量的なものだからである。
カミュの言葉を借りて言えば、必要なのは「計量的知性」である。
イデオロギーではない。
原発再稼働が国益増大に必須の所以を教えてあげようという人がいたら、私は素直にその言葉に耳を傾けるだろう。
そして、その話に説得力があれば、私は意見を変えるにやぶさかではない。
でも、誰も「そういう話」をしてくれない。
「再稼働反対なんて、バカかお前は」という言い方ばかりされて、さっぱり説得されるチャンスに恵まれないのである。
ごく短期的に見れば、原発再稼働は国益増大にプラスであるように見える。
電力不足も起こらないし、エネルギー安保も担保できるし、企業の海外流出も防げる。ばんばんざいである。
でも、すこし長期的に考えると、原発は国益にマイナスである。
すでに私たちは国土の一部を半永久的に失った。
福島の事故の終熄までにどれほどの国民が苦しみに耐えなければならないのか、どれほど国費を投じなければならないのか、まだわからない。
一説には200兆円という。
使用済み核燃料の処理費用も天文学的な額にのぼる。
これらは「原発のつくりだす電力料金」に加算されるべきものであり、それを考えると、原発は「長期的にはきわめて費用対効果の悪いテクノロジー」だということになる。
だから、原発を「損得」で考える場合に「支払期限」をどこに設定するかで、結論が変わってくる。
「この夏の電力不足は待ったなしだ」とか「このままでは国内の製造業は壊滅する」というようなタイプの「この」という指示形容詞を多用する言説は総じて「短期決算」型の損得に固着している。
その切実さを私は理解できないわけではない。
だが、短期的にはメリットがあるが、長期的にはメリットのない選択肢をリコメンドする人々は「長期的なデメリット」についての言及を忌避する傾向がある。
「私が勧めるこの選択肢は、短期的には利があるが、長期的には利がない。でも、短期で損失を計上した場合、わが社は倒産するので、そもそも『長期的メリット』について語ることさえできなくなるであろう」と会社経営者が言うのは筋が通っている。
そういうルールでゲームをしているからである。
株式会社が短期的な資金繰りの失敗で「待ったなし」ですぐ倒産するのは、100社起業した株式会社のうち99社が100年後には存在しないことを誰も不思議に思わないような「短期決戦」ルールで制度設計されているからである。
だが、国家経営は会社経営とは違う。
国民国家はそういうルールでやっているわけではない。
そもそも国民国家は「利益を出す」ためにつくられたものではない。
「存続し続けること」が第一目的なのである。
「石にかじりついても存続し続けること」が国民国家の仕事のすべてである。
もし「私の経営理念は利益を出すことではなく、会社を存続させることです」という会社経営者がいたら、「バカ」だと思われるだろう。
だから、ビジネスマインドで国家経営をされては困ると私はつねづね申し上げているのである。
短期的利益を言い立てて、原発再稼働を推進している人たちは総じてビジネスマインドの人々である。
彼らは「電気料金が上がったら企業は海外に生産拠点を移して、国内の雇用が失われる」というようなことをまるで「自明のこと」のように語る。
いかなる場合でも最大の利益を求めて行動するのが人間として「当然」のふるまいだと信じているからである。
コスト削減を最優先して国内の雇用確保をないがしろにするのは国民経済的視点からは「いささか問題」ではないかという反省はここにはまったくない。
国民経済というのは「日本列島に住む1億3000万人の同胞をどうやって養うか」という経世済民の工夫のことである。
それを考えるのが統治者の仕事である。
ビジネスマンは同胞の雇用の確保よりも自社の利益確保の方が優先させる。
「まずオレが儲けること」があらゆる国家的事業に優先されねばならない。だから、国がビジネスの邪魔をするなら、オレはよその国に出て行くよと平然と言い放つ。
この不思議な主張を正当化するのは例の「トリクルダウン」理論である。
「オレを金持ちにしてくれたら、みんなにいずれ分配するよ」というあれである。
この理論の根本的瑕疵は「オレが金持ちになったら」というときの「金持ち」の基準が示されていないことである。
「オレはまだ皆さんに分配するほどの金持ちになっていない」と自己申告しさえすれば、企業がどれほど収益を上げようと、CEOの個人資産が10億ドルに達しようと、貧者への分配は始まらない。
その歴史的経験からそろそろ私たちは学んでもいい頃ではないかと思う。
「国論を二分する」ようなイシューについては、誰が考えても、「ゆっくり議論して合意形成を待つ」というのが筋である。
だが、国論を二分する一方の主張が「ゆっくり議論している暇なんかない」という短期的な損得勘定を自説の正しさのよりどころにしている。
つまり、まことに不思議なことなのだれけれど、原発再稼働をめぐる議論はコンテンツの正否をめぐる議論というより今ではむしろ、「じっくり話し合おう」という立場と「話をしている暇なんかない」という立場の、つまり「アジェンダをめぐる対立」と化しているのである。
当たり前だが、「アジェンダをめぐって対立が存在している」という当の事実がアジェンダの早期確定を妨げている。
そうである以上、「待ったなし派」にとっては「ここには対立はない。あるのは正しい政策を理解できる程度に賢明な人間と、正しい政策の正しさを理解できない程度の愚鈍な人間の間の乗り越え不能のコミュニケーション不調なので、議論するだけ時間の無駄なのである」というロジック以外にもう頼るものがない。
たしかに、おっしゃるとおりなのかも知れない。
だが、「お前はバカなのだから黙れ」というステートメントをしだいにヒステリックになりながら繰り返すことによって集団の合意形成が早まるということはふつうは起こらない。
そうこうしているうちに、実際に夏が来て、ばたばた節電したり停電したりしているうちに、日本を見限って出てゆく会社は日本を出て行き、「待ったなし派」の設定したタイムリミットはいつのまにか過ぎてしまう。
タイムリミットは過ぎ、原発は止まったままだが、別にそれだからと言って日本は滅びているわけではない(たぶん)。
少しばかり貧乏になるだけで。
「待ったなし派」の方々は「座して貧乏になるようなバカばかりの日本なんか、もうどうなっても知らない」と言い放って、彼らと同じような考え方をする人ばかりが暮らす国にきっと移住してしまうのだろう。
それはそれでしかたがないような気がする。
そういう静かな諦観とともに、「原発ゼロ元年」を言祝ぎたいと思う。


2012.05.09

「忖度」する人たち

インタビューで、沖縄米軍基地、原発と原子力行政、日本のこれからの安全保障と外交戦略についてお話ししする。
どうして私のようなシロートにそういう話を聞きに来るのか、正直に言って、よくわからない。
私は外交や国防の専門家ではないし、知っていることはどれも新聞で読んだ公開情報だけである。
それさえあまり真面目に読んでいない。
読んでも「よくわからない」からである。
でも、仮にも一国の外交戦略と国防にかかわることであるから、どこかに、日本政府の「よくわからない」国家行動を説明できる「読み筋」があるはずである。
はたからみてどれほど支離滅裂な行動であっても、行動の主体から見れば、主観的には首尾一貫した論理性がある。
だから、私は日本政府の「よくわからない」行動を説明できる仮説を立てる。
仮説が立てば、反証事例が必ずず「ヒット」するからである。
あ、この読み筋は違っていたのだということが、少なくとも私にはわかる。
違っていることがわかれば、仮説の修正ができる。
仮説がないと修正ができない。
自然科学の場合と同じである。
仮説の提出/反証事例との遭遇/仮説の書き換え
その繰り返しである。

長くこのプロセスを繰り返してきて、わかったことがいくつかある。
あまりにも多くの事例に妥当する仮説は、世界の成り立ちを理解する上で役に立たない。
例えば、「人間はほとんどの場合、自己利益だけを計って行動している」という仮説は多くの場合に妥当する。だが、それによって私たちが直面している問題を解決する手がかりが得られることはあまりない。
「私に反対する人間は邪悪であるか、愚鈍であるか、あるいはその両方である」というのもたいへん使い勝手のよい仮説である。
でも、これを繰り返して活用していると、そのうちまわりに話を聴いてくれる人が一人もいなくなる。
よいことがあれば、悪いことがある。
そういうものである。
さて、私の個人的経験からして、これまでのところのかなり「打率」のいい仮説の一つは次のようなものである。
「はたからは邪悪で愚鈍に見える行動の多くは善意と熟慮の産物である」
これはほんとうです。
だから、そのような「はためからは支離滅裂に見える行動や思考」を理解するためには、行動者たちの内面で活発に働いている「善意」と「熟慮」にフォーカスすることが有効である。
ほとんどの場合、組織のゆくえを誤るほどにつよい指南力を発揮できる人間は、主観的には「善意」であり、客観的には「わりと賢そう」な人なのである。
だから、始末におえないのである。

さて、そのような一般論に基づいて、沖縄基地問題についての私の仮説を申し上げる。
それは「日本のエスタブリッシュメントは、『アメリカの国家意思を忖度する』ことで、そのつどの政策を決定している」というものである。
別に珍しい話ではないが、この仮説のかんどころは「忖度」という動詞にある。
「日本はアメリカの属国である」ということは、必ずしも、アメリカのが「箸の上げ下ろし」についてまで、こうるさく干渉してくるという意味ではない。
ほとんどの場合、そうではない。
人が他人にこうるさく干渉してくるのは、相手の「反抗」や「自律」を恐れているからである。
アメリカは日本を恐れていない。
ぜんぜん。
悲しいけれど。
アメリカ政府が日本人の「反抗と自律」を恐れていた時期がなかったわけではない。
1950年までは日本人による進駐軍に対するテロやゼネストや、過度の抑圧が日本人民を「国際共産主義運動」に押しやる可能性をたしかにアメリカは恐れていた。
60年安保闘争のときにも、反米ナショナリズムのあまりの激しさにたじろいだ。
60年代末のベトナム反戦運動にもかなりナーバスになった。
でも、それが最後だった。
そのあと、日本人はアメリカを相手には、もう経済競争にしか興味を持たなくなったからである。
60年代まではそれでも「経済戦争でアメリカに勝って、先の敗戦の汚名を雪ぐ」というようなことを揚言するビジネスマンがちらほらといた。
だが、70年代に「明治生まれのビジネスマン」がフロントラインから消えると同時に、そのようなマインドセットも消えた。
それから後のビジネスマンは自社の利益(ひどい場合は自分の利益)だけ配慮して、日本の国益については「知ったことじゃない」という態度を取るようになった(だいたい株主も社長も外国人になってしまったし)。
だから、70年代から後、アメリカは日本人を恐れることを止めてしまった。
恐れていない以上「干渉」することもない。
でも、「命令する」ことを止めたわけではない。
用事があれば、「おい、お茶」くらいのことは言う。
日本人の一挙手一投足を監視して、反米的なふるまいを芽のうちに摘むというようなコストのかかる仕事はとっくに止めたが、それでも、もののはずみで「アメリカの虎の尾」を踏むと、物凄く怖い目を向けることを止めたわけではない。
田中角栄はたぶん「アメリカの虎の尾」を踏んだ最後の日本人政治家だと思う。
彼を「罰する」ことはアメリカの国家意思として遂行された。
それ以後、「アメリカの虎の尾」を思い切り踏んだ政治家はいない。
小泉純一郎は無意識のうちに「虎の尾」踏んだと私は思っているが、踏んだ本人も踏まれたブッシュもそうは思っていないはずである。
そして、久しぶりに、小沢一郎と鳩山由紀夫は西太平洋戦略をめぐって「アメリカの虎の尾」を踏んだ。
だが、彼らを「罰した」のはアメリカ人ではなかった。
「アメリカ政府の意思を忖度した日本人」たちである。
「日米同盟基軸」という「呪文」を唱えているうちに「アメリカの国益を最大化することが、日本の国益を守る最良の方法である」という不思議な信憑に陥った人々がいる。
彼らが現代日本におけるエリート層を形成している。
そして、「アメリカ政府を怒らせそうなことをする人々」を血眼になって探し出し、「畏れながら」とお縄にして、うれしげに「忠義面」をしてみせるんである。
何で、そんなことをするのか、私にはよくわからない。
アメリカだってそんなこと、別に頼んでいないのである。
日本の総理大臣が「日米間の国益が背馳する事案」について「日本の国益を優先したい」と言ったからといって「罷免しろ」というような無法なことを、いくら世界の冠絶するスーパーパワーであったにせよ、アメリカが言うわけがない。
内政干渉である。
でも、「鳩山がアメリカが機嫌を損なった以上、ホワイトハウスはきっと総理大臣を替えて欲しいと思っているに違いない」と「忖度」して、引きずりおろしたのは日本の政治家と官僚とメディアである。
これは内政干渉ではない。
アメリカとしては、なんか「苦笑い」状態であろう。
何も言わないのに、勝手に「忖度」して、先様の意向をじゃんじゃん実現してくれるのである。
いや~、なんか悪いね。別に頼んでいるわけじゃないのに、勝手にこちらに都合のいいようにあれこれと配慮してくれて。
まあ、頼んでいるわけじゃないから、お礼するという筋でもないけどね。
そんなふうにしてことが進んでいる。
ように見える。
「忖度する人」にはわかりやすい外形的な特徴がある。
それは「首尾一貫性がない」ということである。
アメリカの国家意思は首尾一貫している。
それはアメリカの国益の最大化である。
でも、「忖度する人」たちは「こんなことをしたら、アメリカが喜ぶかも知れない」と思って、走り回っているので、その動線には法則性がない。
というのは彼らが「アメリカ」と呼んでいるものは、彼らひとりひとりの頭の中に像を結んだ「幻想」だからである。
「オレが『アメリカ』だと思っているもの」
それが「忖度する人たち」にとっての「アメリカ」である。
アメリカが直接日本政府に「指示」を出しているなら、その指示は国家的にオーソライズされている。
だから、どの政策も首尾一貫している。
でも、「忖度する人たち」にとっての「アメリカの欲望と推定されているもの」は誰によってもオーソライズされていない。
「言挙げされていない」欲望に焦点化しているなのだから当然である。
「いや、殿、その先はおっしゃいますな。何、こちらはちゃんと飲み込んでおります。ま、どうぞここは、この三太夫にお任せください」的状況である。
このような「みなまで言わずと」的制止のあとに「殿の意思」として推定されるのは、多くの場合、「三太夫の抑圧された欲望」である。
三太夫は「私が殿の立場だったら、きっとこう考えるだろう」ということを推定する。
そして、「忖度する人」は相手の欲望を読み取っていると思っている当のそのときに自分の欲望を語ってしまうのである。
「せこい」やつがアメリカの意思を忖度すると、アメリカは「せこい国家意思」を持った国として観念される。
そういうものである。
彼らが「アメリカの国家意思だと思っているもの」は、それぞれの「忖度する人」ごとの「もし自分がアメリカ人だったら、へこへこへつらってくる属国民に向かって何を要求するか?」という自問への答えの部分なのである。
「忖度されたアメリカの意思」はこれらの人々の「卑しさ」をそのままに表示することになる。
ある人にとってアメリカは「日本を軍事的に支配し、いかなる自主的な外交戦略も国防構想も許さない」国として立ち現れる(それは彼らの先輩たちがかつてアジアの植民地を支配したときに「やろうとしたこと」である)。
ある人にとってアメリカは「日本の市場を食い荒らし、農業を潰し、林業を潰し、自動車産業を潰し、IT産業を潰し、その他なんでも潰したがっている資本家たちの集団」として立ち現れる(それと同じことを自分たちも弱小な国を相手にする機会があれば、ぜひやってみたいと思っているからである)。
だから、「忖度する人たち」にとってのアメリカは、彼らの歪んだ自画像なのである。
それが、傍から見ると支離滅裂に見えるのは当り前である。

「小沢一郎の政治生命を断つ」というのは、別にアメリカが指示したことではない(と思う)。
私が国務省の小役人なら、「政治生命が絶たれた方が望ましいが、アメリカが間接的にではあれ介入するリスクに引き合うほどの政治的効果はない」とレポートするであろう。
たしかに、小沢一郎は在日米軍基地の縮減について語ったことがある。
だから、「アメリカ政府は西太平洋における軍略上のフリーハンドを確保するために、小沢一郎を邪魔に思っているのではないか」と「忖度」することは可能である。
現に、多くの人々がそう「忖度」した。
だから、それらの人々は、実際には相互に何の連携もないままに、まるで指揮者に従うオーケストラのように、整然と行動しているのである。
小沢一郎は野田首相にとっては党内反対派の最大勢力である。
自民党の谷垣総裁にとっては彼らを政権の座から叩き落とした不倶戴天の敵である。
検察にとってもマスメディアにとっても年来の天敵である。
彼らは「小沢一郎を排除することをアメリカは望んでいる」というかたちでおのれの欲望をアメリカに投影してみせた。
私はそう思っている。
彼らがあれほど執拗かつ非寛容になれるのは、彼らが「小沢排除」は自己利益のためではなく、アメリカの要請に応え、日本の国益を増大させるソリューションだと思っているからである。
自分のためにやっているんじゃない。
アメリカの、ひいては日本のためにやっているのである。
そう思っている人たちがこれほどたくさんいることに私はむしろ感動するのである。
でも、これほどに立場の違う人々が、同一の実践的結論を共有することを彼らは「変だ」とは思わなかったのだろうか?
ふつう、人間は自分は例外的に賢いと思っている。
いや、謙遜しなくてもよろしい。
誰でもそうなのであるから恥ずかしがることはない。
だから、「例外的に賢いはずの自分と同意見の人がたくさんいる」というときには、前段から後段にいたる論理的架橋が破綻しているということに気づいてよいはずである。
「私ほど賢い人間が、これほど多くの人と同じ意見であるはずがない」というふうに推論してよいはずである。
でもしない。
その理由はひとつしかないが、言うと角が立つので言わぬのである。

2012.05.11

利益誘導教育の蹉跌

「世界に通用する人材育成」をめざして橋下徹大阪市長が府知事時代に始めた「TOEFL上位校に破格の助成金を与える施策」が行き詰まっている(朝日新聞5月11日朝刊)。
府は50校分5億円の助成金を準備したが、参加校はわずか8校。基準点をクリアできたのは4校。すべて私立だった。
一位の関西学院千里国際高等部は私も入試部長時代に営業に行ったことがあるが、帰国子女が多く、ほとんどアメリカのハイスクールみたいな雰囲気の学校だった。
授業を英語でやる学校とふつうの公立高校が英語のスコアを競っても勝負にならない。
助成金1800万円を受け取った千里国際は、生徒全員にiPadを配付したそうである。
でも、受け取った側もあまり浮かない顔をしている。
英語で授業をやっている学校がハイスコアを取るのは当たり前で、「現実に通用する英語教育を大阪全体で実現する」という政策の成否とはあまり関係ないのですが・・・という教頭先生のコメントが伝えられていた。
助成金事業への参加校が少なかったのは「100人以上のチームを作って参加する」ということと「受験料(17000円)は生徒負担」という条件がハードルになったからである。
実際には二位の関西外語専門学校の高等課程と四位の大阪YMCA国際専門学校の高等課程はそれぞれ23人、31人の参加であるので、基準を満たしていなかった。
平均点が基準値(38点)を突破すれば受験料は助成金で賄えるが、達しなければ返ってこない。
今回の受験校8校のうち4校は平均点が基準点に達しなかったので助成金はゼロ。
うち3校は次のコンテストにはもう参加しない意向だそうである。
となると、次回からは5校で助成金を分け合うことになる。
そんなことしても英語教育振興の効果はないから、たぶん三回目はないだろう。

学校が助成金を受けるための競争に、生徒たちを自己負担で参加させるというゲームのルールそのものがアイディアとしてあまりに偏差値が低かったと私は思う。
この事業は橋下前府知事が韓国の高校を視察したときに、流暢な英語でディベートする高校生を見て、日本の英語教育に危機感をもったことで始まったものだそうである。
「利益誘導で学習させる」というアイディア自体がもう無効を宣告されているということになぜこの政策の起案者たちは気づかでいるのか。
私はそれが不思議である。
「英語を勉強して高いスコアをとると、金になる」という「リアリスト」のロジックは、高校側の「スコアが低ければ、参加料とられ損」という「リアリスト」のロジックに反論できない。
「今これだけ金を出せば、そのうちどんと返ってきますよ」という口調で営業に来る人間を見なれ過ぎたせいかも知れない。

これまで繰り返し書いてきたが、日本の子どもたちが学習意欲を失ったのは、「勉強すれば、金になる」という利益誘導のロジックが学校教育を覆い尽くしたせいである。
親たちも、教師たちも、メディアも、政治家も、みんな同じことを言った。
勉強すれば、金になる(しないと貧乏になる)。
そういえば子どもたちは報償を求め、処罰を恐れて、必死になって勉強するようになるだろうと人々は信じたのである。
けれど、子どもたちはそれから急坂を転げ落ちるように勉強しなくなった。
学習時間は劇的に減少した。
というのは、このような利益誘導のロジックは次の3種類のリアクションに有効な反論ができないからである。
(1) 「他の方法で金を儲けるから、オレ、勉強パス」
(2) 「金要らない、オレ、もう持ってるから」
(3) 「金要らない、オレ、物欲ないから」

そもそも、文科省と経産省が旗振りをしている「グローバル人材育成」というのはその本性からして、(1)のタイプの子どもたちにたいへんに高い評価を与える傾向がある。
そりゃそうである。
スティーブン・ジョブズも、マーク・ザッカーバーグもさっさと大学をドロップアウトして「他の方法」で世界的な富豪になった。
たぶん中学でも高校でも、このお二人は先生たちからは「反抗的なガキ」として憎まれていたと思う。
興味のない教科の勉強なんかぜんぜんやらなかったはずである。
彼らはたまたま英語を母国語とする国に生まれたから、英語を話したが、もし非英語圏で生まれていて「英語できないと、グローバル人材になれないぞ」と高校の教師に意地悪く言われたら、絶対に英語の勉強なんかやらなかったと思う。
「あ、そう。英語わりと好きだったけど、今お前がそう言ったから、もう生涯絶対やらねえよ」
というようなリアクションをするような人じゃないと、あそこまでにはなれません。
「やりたいこと」に達するために、しぶしぶ迂回的に「やりたくないこと」を我慢してやるようなタイプの人間は、どのような分野においても「イノベーターになる」ことはできない。
これは自信を以て断言することができる。
ぜったいに・なれません。
ビジネスマンとして、あるいは政治家として、あるいは官僚として、小成することならできるだろう。
だが、「算盤を弾いて、『やりたくないこと』を今は我慢してやる」ことができるようなタイプの人間には「イノベーション」を担うことはできない。
そういうものである。
だから、ジョブスやザッカーバーグを「グローバル人材」のサクセスモデルとして示しておきながら、「『グローバル人材』になるために、先生の言うことを聞いて、学校の勉強をちゃんとやりましょう」と言ったって、それは無理なのである。
「グローバル人材」と「学校教育」の間には相関性がない。
ぜんぜん。
真にイノベーティブな才能は、論理的に言って、その才能の意味や価値を査定する度量衡そのものが「まだない」ものである。
そうである以上、「最もイノベーティブな子ども」は学校においては「能力計測不能」の「モンスター」としてしか登場しようがない。
でも、文科省や経産省の役人たちは「モンスター」については何も考えていない。何の指示も出していない。
だから、教師たちは「モンスター」が出現したきたら、青くなって潰しにかかるはずである。
もし、ほんとうに日本を救うような「グローバル人材」が欲しいと思っているなら、「モンスター」の取り扱いマニュアルを真剣に考えるべきなのだ。
元モンスターの大人だって、探せばそのへんにいるんだから、彼らをつかまえて、訊いてみればよい。
「あなたはどうやって学校教育で潰されることを免れて生き延びたのですか?」
たぶん、半数が「私、学校行かなかったから」。残り半数が「あ、私、帰国子女ですから」と答えるであろう。

いずれにせよ、「他の方法で金儲けるから、オレ、勉強パス」という子どもは組織的に出現し始めている。
そして、ほんとうにかちゃかちゃキーボードを叩くだけで巨富を築くような「子ども」があちこちに登場している。
教師がそれを制して言うべき言葉があるとすれば、「学校教育の目的は金が稼げる知識や技能を習得させることじゃない」ということに尽くされる。
それ以外に、彼らを学校教育に引き戻す言葉はない。
だが、確信をもってそう言い切れる教師が今の日本にいったいどれだけいるか。
ほとんどの教師は「学校教育の目的は金が稼げる知識や技能を習得させることだ」という俗信に違和感を持ったとしても、有効な反論をできないでいる。
そういう教師は「うまい金儲けの方法見つけたので、学校辞めます」という子どもを前に絶句するしかない。

(2)と(3)の子どもたちについても同様である。
彼らを学校に引き戻そうとしたら、「学校教育の目的は金が稼げる知識や技能を習得させることではない」とはっきり告げるしかない。

私が今の日本の教育行政に対して一貫して批判的なのは、教育行政の要路の人々が「こうすれば子どもたちは勉強するようになる」と信じている利益誘導の「リアリスト」ロジックはもうとうに破綻していることに彼らが少しも気づいていないからである。
今後も彼らは懲りずにさまざまな「利益誘導」によって、子どもたちを勉強させようとして、そのすべてに失敗するであろう。

彼らが「学校教育の目的は次世代を担うことのできる成熟した市民を育成することである」という本義に気づくまで、いったい私たちはあとどれくらいの時間を無為のうちに過ごさなければならないのだろう。

2012.05.28

テクノロジカルな付喪神たち

「テクノロジカルな付喪神たち」という文章を書きました。
凱風館の設計をしてくれた光嶋裕介くんのドローイング集のための帯文です。
不思議な絵を描くひとなんですよね、彼は。
僕は美術についてはまったくの門外漢なのですが、「不思議な絵だな」と思った所以について書きました。
光嶋くんのたいへんアクティブな日々の活動についてはこちらhttp://www.ykas.jp/jp_2books.htmをご覧ください。

では、帯文どうぞ。

光嶋裕介くんは「絵に描いたような好青年」である。快活で、ほれぼれするほど健康で、その知性感性のセンサーにヒットするあらゆることに興味を示し、寸暇を惜しんで本を読み、音楽を聴き、展覧会に通い、劇場を訪れる。「若い人は元気でいいね」と私は眩しいような眼で彼を見上げるけれど、この銅版画を見ると、そのような簡単な形容詞で片付けるには、この青年の感受性の構造はいささか複雑であることが知れる。
二年近く前、建築家と施主という関係において光嶋君と最初に会ったとき、彼はこれまでの作品として「自分で建てた家」というものをまだ持っていなかった。だから、彼の美的感覚がどういうものかを私に伝えるために、彼はこれまでに描いた何点かの絵を見せてくれた。この銅版画と同系列の作品である。
一見して不思議な絵だと思った。「ゆらぎ」はあるが「隙」がない。「流れ」はあるが「粘りけ」がない。運動性はあるが数理的な秩序に対するつよい志向に領されている。彼の経歴から考えて、「ヨーロッパ的」ということなのかなとも思ったが、それでは説明が尽くされない。
彼の年齢と、その「生物としての強靱さ」を勘案すると、もっと、明るく、不遜で、奔放な絵を描いてよいはずなのに、これらの作品は思いがけなく、静かで、整然としていて、そして暗い。これは彼の設計した家から私が受ける印象に近い。
これは光嶋裕介というひとのきわだった個性なのか、あるいはいくぶんか同世代の集合的感性を代表しているのか。私にはわからなかった。わかるのは、ここに描かれたのが彼の脳内に存在する、ある「ユートピア」の諸相らしいということだけである。
それにしても、不思議なユートピアの風景ではある。
彼のユートピアには、人間が工学的に作りだしたものしかない。ビルや橋梁や道路や港湾施設や電線はあるが、人間の姿は見られない。獣や鳥や魚の影もない。ところどころにはなやかな彩りはあるが、それはケミカルな合成物の効果のように見えて、花や葉のようには見えない。では、この世界には生命がないのかというと、それがあるのだ。
わが国には「付喪神(つくもがみ)」というものがある。家具什器であっても、長く生きるとついには神霊が宿り、荒ぶれば禍をもたらし、和めば幸いをなすと言い伝えられている。光嶋君のユートピアでは、おそらく橋や煙突のような無生物も、長く働いているうちに、いつしか神霊の宿りとなり、固有の生命を持ち始め、ついには固有の美を生み出すに至ったかのようである。
そう思って眺めると、これらの作品からは不思議な安らぎが伝わってくる。たとえ人間たちが死に絶えても、美しいものは美しいことを止めるわけではないのだ。なるほど、「人間が存在しなくても、美しいことを止めない建造物」に惹きつけられるのは建築家としてはあるいは自然なことかも知れない。
けれども、その前段に「人間がいなくなっても」という健康な青年が口にするにはあまりに突き放した仮定が置かれていることに私は胸を衝かれるのである。私が上に「複雑」と記したのはそのためである。

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