インタビューで、沖縄米軍基地、原発と原子力行政、日本のこれからの安全保障と外交戦略についてお話ししする。
どうして私のようなシロートにそういう話を聞きに来るのか、正直に言って、よくわからない。
私は外交や国防の専門家ではないし、知っていることはどれも新聞で読んだ公開情報だけである。
それさえあまり真面目に読んでいない。
読んでも「よくわからない」からである。
でも、仮にも一国の外交戦略と国防にかかわることであるから、どこかに、日本政府の「よくわからない」国家行動を説明できる「読み筋」があるはずである。
はたからみてどれほど支離滅裂な行動であっても、行動の主体から見れば、主観的には首尾一貫した論理性がある。
だから、私は日本政府の「よくわからない」行動を説明できる仮説を立てる。
仮説が立てば、反証事例が必ずず「ヒット」するからである。
あ、この読み筋は違っていたのだということが、少なくとも私にはわかる。
違っていることがわかれば、仮説の修正ができる。
仮説がないと修正ができない。
自然科学の場合と同じである。
仮説の提出/反証事例との遭遇/仮説の書き換え
その繰り返しである。
長くこのプロセスを繰り返してきて、わかったことがいくつかある。
あまりにも多くの事例に妥当する仮説は、世界の成り立ちを理解する上で役に立たない。
例えば、「人間はほとんどの場合、自己利益だけを計って行動している」という仮説は多くの場合に妥当する。だが、それによって私たちが直面している問題を解決する手がかりが得られることはあまりない。
「私に反対する人間は邪悪であるか、愚鈍であるか、あるいはその両方である」というのもたいへん使い勝手のよい仮説である。
でも、これを繰り返して活用していると、そのうちまわりに話を聴いてくれる人が一人もいなくなる。
よいことがあれば、悪いことがある。
そういうものである。
さて、私の個人的経験からして、これまでのところのかなり「打率」のいい仮説の一つは次のようなものである。
「はたからは邪悪で愚鈍に見える行動の多くは善意と熟慮の産物である」
これはほんとうです。
だから、そのような「はためからは支離滅裂に見える行動や思考」を理解するためには、行動者たちの内面で活発に働いている「善意」と「熟慮」にフォーカスすることが有効である。
ほとんどの場合、組織のゆくえを誤るほどにつよい指南力を発揮できる人間は、主観的には「善意」であり、客観的には「わりと賢そう」な人なのである。
だから、始末におえないのである。
さて、そのような一般論に基づいて、沖縄基地問題についての私の仮説を申し上げる。
それは「日本のエスタブリッシュメントは、『アメリカの国家意思を忖度する』ことで、そのつどの政策を決定している」というものである。
別に珍しい話ではないが、この仮説のかんどころは「忖度」という動詞にある。
「日本はアメリカの属国である」ということは、必ずしも、アメリカのが「箸の上げ下ろし」についてまで、こうるさく干渉してくるという意味ではない。
ほとんどの場合、そうではない。
人が他人にこうるさく干渉してくるのは、相手の「反抗」や「自律」を恐れているからである。
アメリカは日本を恐れていない。
ぜんぜん。
悲しいけれど。
アメリカ政府が日本人の「反抗と自律」を恐れていた時期がなかったわけではない。
1950年までは日本人による進駐軍に対するテロやゼネストや、過度の抑圧が日本人民を「国際共産主義運動」に押しやる可能性をたしかにアメリカは恐れていた。
60年安保闘争のときにも、反米ナショナリズムのあまりの激しさにたじろいだ。
60年代末のベトナム反戦運動にもかなりナーバスになった。
でも、それが最後だった。
そのあと、日本人はアメリカを相手には、もう経済競争にしか興味を持たなくなったからである。
60年代まではそれでも「経済戦争でアメリカに勝って、先の敗戦の汚名を雪ぐ」というようなことを揚言するビジネスマンがちらほらといた。
だが、70年代に「明治生まれのビジネスマン」がフロントラインから消えると同時に、そのようなマインドセットも消えた。
それから後のビジネスマンは自社の利益(ひどい場合は自分の利益)だけ配慮して、日本の国益については「知ったことじゃない」という態度を取るようになった(だいたい株主も社長も外国人になってしまったし)。
だから、70年代から後、アメリカは日本人を恐れることを止めてしまった。
恐れていない以上「干渉」することもない。
でも、「命令する」ことを止めたわけではない。
用事があれば、「おい、お茶」くらいのことは言う。
日本人の一挙手一投足を監視して、反米的なふるまいを芽のうちに摘むというようなコストのかかる仕事はとっくに止めたが、それでも、もののはずみで「アメリカの虎の尾」を踏むと、物凄く怖い目を向けることを止めたわけではない。
田中角栄はたぶん「アメリカの虎の尾」を踏んだ最後の日本人政治家だと思う。
彼を「罰する」ことはアメリカの国家意思として遂行された。
それ以後、「アメリカの虎の尾」を思い切り踏んだ政治家はいない。
小泉純一郎は無意識のうちに「虎の尾」踏んだと私は思っているが、踏んだ本人も踏まれたブッシュもそうは思っていないはずである。
そして、久しぶりに、小沢一郎と鳩山由紀夫は西太平洋戦略をめぐって「アメリカの虎の尾」を踏んだ。
だが、彼らを「罰した」のはアメリカ人ではなかった。
「アメリカ政府の意思を忖度した日本人」たちである。
「日米同盟基軸」という「呪文」を唱えているうちに「アメリカの国益を最大化することが、日本の国益を守る最良の方法である」という不思議な信憑に陥った人々がいる。
彼らが現代日本におけるエリート層を形成している。
そして、「アメリカ政府を怒らせそうなことをする人々」を血眼になって探し出し、「畏れながら」とお縄にして、うれしげに「忠義面」をしてみせるんである。
何で、そんなことをするのか、私にはよくわからない。
アメリカだってそんなこと、別に頼んでいないのである。
日本の総理大臣が「日米間の国益が背馳する事案」について「日本の国益を優先したい」と言ったからといって「罷免しろ」というような無法なことを、いくら世界の冠絶するスーパーパワーであったにせよ、アメリカが言うわけがない。
内政干渉である。
でも、「鳩山がアメリカが機嫌を損なった以上、ホワイトハウスはきっと総理大臣を替えて欲しいと思っているに違いない」と「忖度」して、引きずりおろしたのは日本の政治家と官僚とメディアである。
これは内政干渉ではない。
アメリカとしては、なんか「苦笑い」状態であろう。
何も言わないのに、勝手に「忖度」して、先様の意向をじゃんじゃん実現してくれるのである。
いや~、なんか悪いね。別に頼んでいるわけじゃないのに、勝手にこちらに都合のいいようにあれこれと配慮してくれて。
まあ、頼んでいるわけじゃないから、お礼するという筋でもないけどね。
そんなふうにしてことが進んでいる。
ように見える。
「忖度する人」にはわかりやすい外形的な特徴がある。
それは「首尾一貫性がない」ということである。
アメリカの国家意思は首尾一貫している。
それはアメリカの国益の最大化である。
でも、「忖度する人」たちは「こんなことをしたら、アメリカが喜ぶかも知れない」と思って、走り回っているので、その動線には法則性がない。
というのは彼らが「アメリカ」と呼んでいるものは、彼らひとりひとりの頭の中に像を結んだ「幻想」だからである。
「オレが『アメリカ』だと思っているもの」
それが「忖度する人たち」にとっての「アメリカ」である。
アメリカが直接日本政府に「指示」を出しているなら、その指示は国家的にオーソライズされている。
だから、どの政策も首尾一貫している。
でも、「忖度する人たち」にとっての「アメリカの欲望と推定されているもの」は誰によってもオーソライズされていない。
「言挙げされていない」欲望に焦点化しているなのだから当然である。
「いや、殿、その先はおっしゃいますな。何、こちらはちゃんと飲み込んでおります。ま、どうぞここは、この三太夫にお任せください」的状況である。
このような「みなまで言わずと」的制止のあとに「殿の意思」として推定されるのは、多くの場合、「三太夫の抑圧された欲望」である。
三太夫は「私が殿の立場だったら、きっとこう考えるだろう」ということを推定する。
そして、「忖度する人」は相手の欲望を読み取っていると思っている当のそのときに自分の欲望を語ってしまうのである。
「せこい」やつがアメリカの意思を忖度すると、アメリカは「せこい国家意思」を持った国として観念される。
そういうものである。
彼らが「アメリカの国家意思だと思っているもの」は、それぞれの「忖度する人」ごとの「もし自分がアメリカ人だったら、へこへこへつらってくる属国民に向かって何を要求するか?」という自問への答えの部分なのである。
「忖度されたアメリカの意思」はこれらの人々の「卑しさ」をそのままに表示することになる。
ある人にとってアメリカは「日本を軍事的に支配し、いかなる自主的な外交戦略も国防構想も許さない」国として立ち現れる(それは彼らの先輩たちがかつてアジアの植民地を支配したときに「やろうとしたこと」である)。
ある人にとってアメリカは「日本の市場を食い荒らし、農業を潰し、林業を潰し、自動車産業を潰し、IT産業を潰し、その他なんでも潰したがっている資本家たちの集団」として立ち現れる(それと同じことを自分たちも弱小な国を相手にする機会があれば、ぜひやってみたいと思っているからである)。
だから、「忖度する人たち」にとってのアメリカは、彼らの歪んだ自画像なのである。
それが、傍から見ると支離滅裂に見えるのは当り前である。
「小沢一郎の政治生命を断つ」というのは、別にアメリカが指示したことではない(と思う)。
私が国務省の小役人なら、「政治生命が絶たれた方が望ましいが、アメリカが間接的にではあれ介入するリスクに引き合うほどの政治的効果はない」とレポートするであろう。
たしかに、小沢一郎は在日米軍基地の縮減について語ったことがある。
だから、「アメリカ政府は西太平洋における軍略上のフリーハンドを確保するために、小沢一郎を邪魔に思っているのではないか」と「忖度」することは可能である。
現に、多くの人々がそう「忖度」した。
だから、それらの人々は、実際には相互に何の連携もないままに、まるで指揮者に従うオーケストラのように、整然と行動しているのである。
小沢一郎は野田首相にとっては党内反対派の最大勢力である。
自民党の谷垣総裁にとっては彼らを政権の座から叩き落とした不倶戴天の敵である。
検察にとってもマスメディアにとっても年来の天敵である。
彼らは「小沢一郎を排除することをアメリカは望んでいる」というかたちでおのれの欲望をアメリカに投影してみせた。
私はそう思っている。
彼らがあれほど執拗かつ非寛容になれるのは、彼らが「小沢排除」は自己利益のためではなく、アメリカの要請に応え、日本の国益を増大させるソリューションだと思っているからである。
自分のためにやっているんじゃない。
アメリカの、ひいては日本のためにやっているのである。
そう思っている人たちがこれほどたくさんいることに私はむしろ感動するのである。
でも、これほどに立場の違う人々が、同一の実践的結論を共有することを彼らは「変だ」とは思わなかったのだろうか?
ふつう、人間は自分は例外的に賢いと思っている。
いや、謙遜しなくてもよろしい。
誰でもそうなのであるから恥ずかしがることはない。
だから、「例外的に賢いはずの自分と同意見の人がたくさんいる」というときには、前段から後段にいたる論理的架橋が破綻しているということに気づいてよいはずである。
「私ほど賢い人間が、これほど多くの人と同じ意見であるはずがない」というふうに推論してよいはずである。
でもしない。
その理由はひとつしかないが、言うと角が立つので言わぬのである。
(2012-05-09 18:13)