原発ゼロ元年の年頭にあたり

2012-05-07 lundi

国内のすべての原発が止まった。
1970年から42年ぶりのことである。
2012年という年号が「脱原発元年」としてひさしく記憶されるようになることを私は願っている。
原発の再稼働の賛否については、文字通り「国論を二分する」ような議論がゆきかっている。
再稼働賛成派の論拠はおもに経済的なものである。
盛夏における電力の不足、電気料金の値上がり、電力コストの上昇による工業製品の国際競争力の相対的低下、より安い電力を求めての生産拠点の海外流出と産業の空洞化などなど。
政治的要因としては、石油依存体制がもたらすエネルギー安保上の不安があるが、これはあまり大きな声で言い立てる人がいない。
ご存じのとおり、石油の採掘、精製、輸送、販売は「オイルメジャー」と呼ばれる石油資本が伝統的に独占してきた。メジャーの価格統制を嫌った産油国が1960年にOPECを結成し、石油メジャーによる市場の独占は70年代に終わったが、エクソン・モービル、シェブロン、BP、ロイヤル・ダッチ・シェルといった巨大資本はふたたび石油の独占体制をめざして市場を回復しつつある。
石油の安定的な供給のためには、これらの石油資本と産油国の両方に「いい顔」をする必要がある。
だがアメリカ政府は日本が産油国に主権的に「いい顔」をすることを許さない。
先日の鳩山由紀夫元総理のイラン訪問に対してアメリカ政府と民主党内の親米勢力は露骨な不快を示した。
これは日本がエネルギー安保において主権的にふるまうことに対する国内外のアレルギーの現れと見るのが妥当だろう。
エネルギー安保も軍事同盟と同じである。
アメリカ以外のところと安全保障の盟約を締結することは許されない。
そういうふうに考える人たちがここにきて原発再稼働に賛成するようになっている。
ように見える。
いま原発再稼働を主張している人たちのうちで、福島原発以後官邸や東電を擁護して、「原発はこれからも稼働すべきだ」という力強い論陣を張った人がどれだけいるだろうか。
ほとんどいなかったように思う。
彼らの判断はたぶん最近変わったのである。
2011年暮れまでは「アメリカは日本には原発をコントロールできるだけの能力がないと判断して、『脱原発』を指示するのではないか」という予測が「日米同盟基軸派」内には存在した。
存在したかどうか確証はないが、私は何となくそう推測している。
だが、その後、アメリカは別に脱原発を指示してもこないし、石油メジャー依存へのエネルギー戦略の切り替えも指示してこないし、代替エネルギー(そのテクノロジー開発のアメリカはトップランナーである)への転換も指示してこなかった。
どうやら、アメリカは日本の原子力行政に積極的な介入をする意思はないらしい。
そのことがわかった。
そこで、これまで「アメリカの出方待ち」で態度表明を保留していた人々が、一斉に「じゃあ、原発再稼働しようよ。コスト安いし(事故があった場合でも電力会社にはさしたるお咎めもないみたいだし)」という命題を公言するようになった。
そういう流れではないかと思う。
私はそれが悪いと言っているのではない。
「アメリカの意思を最優先することが日本の国益を最大化する道である」という国家戦略(と言えるかどうか心許ないが)は「あり」である。
現に、そのようなしかたで日本は戦後67年を生き延びたのである。
けれども、日本の国益の判断はもう少し自主的に行ってもよろしいのではないか。
アメリカの国益を損なうが日本の国益は増大するというきびしい選択の場面で、もう少し「強押し」してもよろしいのではないか、という考え方をする人はいつもいたし、今もいる。
私もそういう立場をとるひとりである。
とはいえ、別にさしたる思想的確信があってそう言っているわけではない。
最終的な判断基準は「国益の多寡」という数量的なものだからである。
カミュの言葉を借りて言えば、必要なのは「計量的知性」である。
イデオロギーではない。
原発再稼働が国益増大に必須の所以を教えてあげようという人がいたら、私は素直にその言葉に耳を傾けるだろう。
そして、その話に説得力があれば、私は意見を変えるにやぶさかではない。
でも、誰も「そういう話」をしてくれない。
「再稼働反対なんて、バカかお前は」という言い方ばかりされて、さっぱり説得されるチャンスに恵まれないのである。
ごく短期的に見れば、原発再稼働は国益増大にプラスであるように見える。
電力不足も起こらないし、エネルギー安保も担保できるし、企業の海外流出も防げる。ばんばんざいである。
でも、すこし長期的に考えると、原発は国益にマイナスである。
すでに私たちは国土の一部を半永久的に失った。
福島の事故の終熄までにどれほどの国民が苦しみに耐えなければならないのか、どれほど国費を投じなければならないのか、まだわからない。
一説には200兆円という。
使用済み核燃料の処理費用も天文学的な額にのぼる。
これらは「原発のつくりだす電力料金」に加算されるべきものであり、それを考えると、原発は「長期的にはきわめて費用対効果の悪いテクノロジー」だということになる。
だから、原発を「損得」で考える場合に「支払期限」をどこに設定するかで、結論が変わってくる。
「この夏の電力不足は待ったなしだ」とか「このままでは国内の製造業は壊滅する」というようなタイプの「この」という指示形容詞を多用する言説は総じて「短期決算」型の損得に固着している。
その切実さを私は理解できないわけではない。
だが、短期的にはメリットがあるが、長期的にはメリットのない選択肢をリコメンドする人々は「長期的なデメリット」についての言及を忌避する傾向がある。
「私が勧めるこの選択肢は、短期的には利があるが、長期的には利がない。でも、短期で損失を計上した場合、わが社は倒産するので、そもそも『長期的メリット』について語ることさえできなくなるであろう」と会社経営者が言うのは筋が通っている。
そういうルールでゲームをしているからである。
株式会社が短期的な資金繰りの失敗で「待ったなし」ですぐ倒産するのは、100社起業した株式会社のうち99社が100年後には存在しないことを誰も不思議に思わないような「短期決戦」ルールで制度設計されているからである。
だが、国家経営は会社経営とは違う。
国民国家はそういうルールでやっているわけではない。
そもそも国民国家は「利益を出す」ためにつくられたものではない。
「存続し続けること」が第一目的なのである。
「石にかじりついても存続し続けること」が国民国家の仕事のすべてである。
もし「私の経営理念は利益を出すことではなく、会社を存続させることです」という会社経営者がいたら、「バカ」だと思われるだろう。
だから、ビジネスマインドで国家経営をされては困ると私はつねづね申し上げているのである。
短期的利益を言い立てて、原発再稼働を推進している人たちは総じてビジネスマインドの人々である。
彼らは「電気料金が上がったら企業は海外に生産拠点を移して、国内の雇用が失われる」というようなことをまるで「自明のこと」のように語る。
いかなる場合でも最大の利益を求めて行動するのが人間として「当然」のふるまいだと信じているからである。
コスト削減を最優先して国内の雇用確保をないがしろにするのは国民経済的視点からは「いささか問題」ではないかという反省はここにはまったくない。
国民経済というのは「日本列島に住む1億3000万人の同胞をどうやって養うか」という経世済民の工夫のことである。
それを考えるのが統治者の仕事である。
ビジネスマンは同胞の雇用の確保よりも自社の利益確保の方が優先させる。
「まずオレが儲けること」があらゆる国家的事業に優先されねばならない。だから、国がビジネスの邪魔をするなら、オレはよその国に出て行くよと平然と言い放つ。
この不思議な主張を正当化するのは例の「トリクルダウン」理論である。
「オレを金持ちにしてくれたら、みんなにいずれ分配するよ」というあれである。
この理論の根本的瑕疵は「オレが金持ちになったら」というときの「金持ち」の基準が示されていないことである。
「オレはまだ皆さんに分配するほどの金持ちになっていない」と自己申告しさえすれば、企業がどれほど収益を上げようと、CEOの個人資産が10億ドルに達しようと、貧者への分配は始まらない。
その歴史的経験からそろそろ私たちは学んでもいい頃ではないかと思う。
「国論を二分する」ようなイシューについては、誰が考えても、「ゆっくり議論して合意形成を待つ」というのが筋である。
だが、国論を二分する一方の主張が「ゆっくり議論している暇なんかない」という短期的な損得勘定を自説の正しさのよりどころにしている。
つまり、まことに不思議なことなのだれけれど、原発再稼働をめぐる議論はコンテンツの正否をめぐる議論というより今ではむしろ、「じっくり話し合おう」という立場と「話をしている暇なんかない」という立場の、つまり「アジェンダをめぐる対立」と化しているのである。
当たり前だが、「アジェンダをめぐって対立が存在している」という当の事実がアジェンダの早期確定を妨げている。
そうである以上、「待ったなし派」にとっては「ここには対立はない。あるのは正しい政策を理解できる程度に賢明な人間と、正しい政策の正しさを理解できない程度の愚鈍な人間の間の乗り越え不能のコミュニケーション不調なので、議論するだけ時間の無駄なのである」というロジック以外にもう頼るものがない。
たしかに、おっしゃるとおりなのかも知れない。
だが、「お前はバカなのだから黙れ」というステートメントをしだいにヒステリックになりながら繰り返すことによって集団の合意形成が早まるということはふつうは起こらない。
そうこうしているうちに、実際に夏が来て、ばたばた節電したり停電したりしているうちに、日本を見限って出てゆく会社は日本を出て行き、「待ったなし派」の設定したタイムリミットはいつのまにか過ぎてしまう。
タイムリミットは過ぎ、原発は止まったままだが、別にそれだからと言って日本は滅びているわけではない(たぶん)。
少しばかり貧乏になるだけで。
「待ったなし派」の方々は「座して貧乏になるようなバカばかりの日本なんか、もうどうなっても知らない」と言い放って、彼らと同じような考え方をする人ばかりが暮らす国にきっと移住してしまうのだろう。
それはそれでしかたがないような気がする。
そういう静かな諦観とともに、「原発ゼロ元年」を言祝ぎたいと思う。