大飯原発再稼働について

2012-06-11 lundi

野田首相が大飯原発の再稼働に向かう決意表明を行った。
首相は記者会見で「原発を止めたままでは、日本の社会は立ちゆかない。原発は重要な電源だ」とし、「国民の生活を守るため再稼働すべきだというのが私の判断だ」と断言した。
その根拠として、首相は政府が一年以上かけて安全対策を講じたことを挙げて、「原発の安全性は実質的に確保された」とした。
首相が「国民の生活」と言うのは、長期的には電力料金の値上がりによるコストの上昇、それによる製造業の国際競争力の劣化、それによる生産拠点の海外移転、それによる産業の空洞化、それによる雇用の喪失というスパイラルのことであり、短期的には「突発的な停電が起これば、命の危険にさらされる人もいる」という生命リスクのことである。
橋下徹大阪市長も、再稼働反対を撤回した根拠として、「病院はどうなるのか、高齢者の熱中症対策はできるのか。そう考えると、原発事故の危険性より、目の前のリスクに腰が引けた」と語っている。(いずれも6月9日讀賣新聞)

3/11原発事故以来の日本であらわになったある種の思考傾向が首相にも市長にもあらわになっている。
それは「目の前のリスク」は長期的なリスクよりも優先されるべきだということである。
ただし、この「リスク」はそのコンテンツによって考量されているのではない。
「原発事故のリスク」と「病院が停電したり、エアコンが止まって高齢者が熱中症になるかもしれないリスク」ではリスクのスケールが違う。
盛夏の電力消費が最大になる時期については、専門家が繰り返し言っているように、個別的な節電努力で十分に対応できるはずである。
家庭での電力消費は電力全体の25%である。消費電力が大きいのはエアコン、冷蔵庫、照明、テレビ。この4品だけで1世帯の消費電力量の70%を占める。つまり、エアコンと冷蔵庫と照明とテレビで、国内の総発電量の17.5%を使っている計算になる。
一方、国内54基の原発が発電しているのは、年間総発電量の30%である。
節電は「焼け石に水」ではなく、工夫次第で十分に電力消費を抑制できることはこの数字を見れば誰でもわかることである。
現に一月ほど前のアンケートでは、回答者の75%が今夏の電力不足については「受忍する」と回答している。今の電力消費レベルを維持したいから、原発を再稼働してほしいと回答した国民はきわめて少数であった。
国民的規模での節電努力があってもなお、人命にかかわるような「突発的な停電」が起きるというのは、どういう場合を想定してそういうことを言っているのであろう。
病院はもちろん「突発的な停電」に備えて自家発電装置を備えている。
ICUや重篤な患者がいる病室のエアコンももちろん自家発電でカバーされている。
「突発的」というからには、まさか停電が何日も続くという事態を指しているわけではないだろう。
エアコンが突発的に止まったために、高齢者がただちに熱中症で死に至るというケースも想像しにくい。
フランスでは2003年の異常高温で、全土で15000人の熱中症による死者が出たことがある。夜間が高温で、そのために何日も寝不足が続き、心身がはげしく消耗した高齢者の死者が多かった。
いくつか原因があるが、医療体制の不備、政府の対応の遅さの他に、フランスでは一般家庭にエアコンというものが装備されていないことが挙げられる(パリで暑いのは盛夏の3週間だけで8月下旬には秋風が立つ。エアコンを買うなら、その予算で盛夏期に都会を離れて、田舎にバカンスに出かけた方がずっと快適である)。
だから、「突発的な停電」で2003年のフランスのような事態が大阪で起きるということは考えにくい。
市長がいったいどの国のどの事例に基づいて「目の前のリスク」をイメージしているのか。私にはよくわからない。
とにかくそれは「目の前にある」というだけで、「長期的なリスク」よりも優先的に配慮されるべきものとされている。
繰り返し書いているように、これはビジネスマンに特有の「業界的奇習」である。
会社経営をしている場合、今期赤字を出したら株価が下がる。資金調達が難しくなり、資金繰りがつかなければ不渡りが出て、倒産する。
そういう「目の前のリスク」のことを脇に置いて、「長期的なリスク」について語る経営者はいない。
目の前のリスクを逃れ損ねたら、長期的リスクについて考える主体そのものが消滅するからである。
何があっても今期の利益を確保して、今期だけは生き延びる。
それがビジネスマンにとっては最優先事項である。
だから、人件費が安く、環境保護法制のゆるい国に工場を移転し、法人税の安い国に本社を移すことをためらわない。
生産拠点の移転や産業の空洞化によって、長期的に祖国の国民経済がどうなろうと、同胞の雇用環境がどう劣化しようと、日本の国庫の税収がどれほど減ろうと、そんなことはグローバリスト・ビジネスマンの関知することではない。
だから、グローバリストが「目の前のリスク」は「原発事故の危険性」よりも重いと判断するのは当然のことである
その判断は、彼らがビジネスというゲームをしている限りは合理的である。
だが、私たちは今ビジネスの話をしているのではない。
国の統治の話をしているのである。
国というのは「金儲け」をするためにあるのではない。
とにかく石にかじりついても、国土を保全し、ひとりでも多くの国民を「食わせる」ために存在する。
グローバル企業がより多くの収益を求めて日本を捨てて逃げ出すのは、彼らが「国より金が大事」だと思っているからである。
そういう考え方をする人たちは、そういう考えで生きられればいいと思う。
シンガポールでも上海でもドバイでもムンバイでも、投機的なマネーが渦巻いているところでひりひりするようなゲームを続けられればよろしいかと思う。
でも、そういうマナーで国を統治することはできない。
国がなすべきことは、逃げ出したくても逃げ出すことのできない一億あまりの列島住民たちの国土を保全し、健康を配慮し、「三度の飯」を食わせることである。
それが最優先である。
金儲けのために、国土をばら売りするとか、国民の健康を危険にさらすとか、食えない国民を切り捨てるというような選択肢は統治者には許されていない。
野田首相が企業経営者であるなら、彼の言うことは筋が通っている。
彼がいう「国民の生活」というのは端的に「ビジネス」のことだからだ。「目先の金」「明日の米びつ」のことだからだ。
でも、彼は会社の経営者ではない。
一国の統治者である。
彼は「原発の危険性」がどれほどのものか、骨身にしみているはずである。
それが目先の不便や、税収の減少や、グローバリストの「エクソダス」とトレードオフできるようなレベルの災禍ではないことを知っているはずである。
それを恐怖している国民の実感を(少なくとも知識としては)知っているはずである。
かりにその国民たちの恐怖が「確率論的には無視できるほどのリスク」についての「杞憂」であったとしても、現に福島原発が「確率論的には無視できるほどのリスク」が現に起こりうるということを示してしまった以上、国民が「天文学的確率でしか起きないはずの事故」を恐れる感情を軽視することはできないはずである。
「杞憂」というのは、杞の国の人が「いつ天地が崩れるか」を恐れて、取り越し苦労をした故事に基づく。
杞人の上についに天地は崩れなかったが、福島の原発は一年前にメルトダウンを起こした。
だから、原発の危険性を「杞憂」と同列に扱うことはもうできない。
政府はその恐怖を鎮静させるために、いったいこれまでにどれだけのことをしたのか。
事故についての政府や東電の証言は食い違い、事故がなぜ起きて、なぜこれほどの規模の災禍にまで拡がったのか、システムにどのような瑕疵があり、どのような人為的ミスがあったのかについて、価値中立的な調査結果はいまだに明らかにされていない。
これは原発にとっても決してよいことではない。
というのは、官邸と東電が、「想定外の事態」によって「起こるはずのなかったことが起きた」ので、誰も責任でもないというロジックで話を打ち切るつもりであるなら、これから先も同種の事故が起こる確率はあきらかに高まるからである。
人間というのは、「手抜き」をして失敗をしたときに、それは「想定外の事態のためで、いかなる人為的ミスもかかわっていない」という弁明を採用すると、その後も引き続き同じ「手抜き」を続けることを宿命づけられる。
「手抜きのせいで起きた事故ではなかった」と言い張っている以上、もし「手抜き」を反省し、改善してしまえば、事故と「手抜き」の因果関係を認めることになるからである。
私たちに罪はないと言い続けるためには、意地でも「手抜き」を続けるしかない。
日本の原発は今そのような呪縛のうちにある。
福島原発事故について「あれでよかったのだ。われわれは安全操業のためにベストを尽くしたのだ」という電力会社や経産省の言い分を認めて、これを免責することはできる。
たぶん、政府はそうするつもりであろう。
だが、それは代償として、これから先、「われわれは安全操業のためにベストを尽くした」という言明が無意味になるということを意味している。
「安全操業のためにベストを尽くした」が「事故は起きた」。
そして、ベストを尽くしたものには非がないというのなら、この二つの出来事の間にはいかなる相関関係もないということになる。
だとすれば、安全性が担保されようがされまいが、原発事故が起こる蓋然性には変化がないことになる。
原子力行政の当事者がそうアナウンスしている以上、「原発の安全性は実質的に担保された」という言明は単なる空語である。
多くの国民はそう思って、首相の宣言を理解していると思う。
「安全性が担保されたので、原発事故は未来永劫起こらない」と信じているのは今の日本で讀賣新聞の論説委員くらいであろう。
何度も書くが、原発再稼働の判断は「会社経営者」というスタンスで考える人にとっては合理的である。けれども、国家の統治というスタンスから考えた場合には熟慮を要する問題である。
少なくとも、今の段階でゴーサインが出せるようなことではないと私は思う。
決断のためには、
(1)福島原発事故の事故原因の調査委員会の報告書が、遺漏なくすべての人為的ミスを列挙すること
(2)家庭での節電努力を最大化しても「突発的な停電」が不可避であることが技術的に証明されること
の二点がクリアーされることが必要だろうと私は思う。
それを先送りにしたまま、原発再稼働を強行すれば、私たちは「ここから出ることができない」人たちを置き去りにして、「こんな国、用がなくなったら、いつでも捨てて出て行く」と公言する人たちに国の舵取りを委ねるという背理的な選択をしたことになる。