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2010年11月 アーカイブ

2010.11.05

エクリチュールについて

クリエイティブ・ライティングは考えてみると、私が大学の講壇で語る最後の講義科目である。
80人ほどが、私語もなく、しんと聴いてくれている。
書くとはどういうことか。語るとはどういうことか。総じて、他者と言葉をかわすというのは、どういうことかという根源的な問題を考察する。
授業というよりは、私ひとりがその場であれこれと思いつくまま語っていることを、学生たちが聴いているという感じである。
「落語が始まる前の、柳家小三治の長マクラ」が90分続く感じ・・・と言えば、お分かりになるだろうか。
昨日のクリエイティヴ・ライティングは「エクリチュール」について論じた。
ご存じのように、エクリチュールというのはロラン・バルトが提出した概念である。
バルトは人間の言語活動を三つの層にわけて考察した。
第一の層がラング(langue)
これは国語あるいは母語のことである。
私たちはある言語集団の中に生まれおち、そこで言語というものを学ぶ。ここに選択の余地はない。私は日本に生まれたので、日本語話者として言語活動を開始する。
「国際共通性とか考えると英語のほうが有利だから、英語圏に生まれたい」というようなことを言うことはできない。
第二の層が「スティル」(style)。
これは言語運用における「パーソナルな偏り」のことである。
文の長さ、リズム、音韻、文字の画像的印象、改行、頁の余白、漢字の使い方などなど、言語活動が身体を媒介とするものである以上、そこには生理的・心理的な個人的偏差が生じることは避けがたい。
ある音韻や忌避し、ある文字を選好し、あるリズムを心地よく感じる・・・といった反応はほとんど生得的なものであり、決断によってこれを操作することはできない。
例えば、私は中学生の頃、とつぜん「た」行で始まる単語を言おうとすると吃音になるという時期があった。
「たかだのばば」と言おうとすると単語が出てこないのである。
駅の窓口で「う・・・」とうめいたきり立ち尽くすということが何度もあった(当時は自動販売機がなく、窓口で行く先を告げて切符を購入したのである・・・というようなことを説明しないといけない時代が来ようとは)。
しかたがなく、高田馬場へ行くときは「目白」とか「池袋」といって切符を購入した。
このような言語活動上の「偏り」は主体的決断でどうこうできるものではない。
それが「スティル」である。
『若草物語』のジョー(Jo)は「ジョゼフィーン(Josephine)」という名前が大嫌いであった。『赤毛のアン』は「私はAn じゃなくて、Anneよ」としばしば主張していた。
音韻について、あるいは表記についての、個人的好悪は誰にもある。
それについて「正しい」とか「間違っている」とかいう判断は誰にもできない。
「あ、そう」という他ない。
それが「スティル」。
それに対して第三の層として「エクリチュール」というものが存在する。
これは「社会的に規定された言葉の使い方」である。
ある社会的立場にある人間は、それに相応しい言葉の使い方をしなければならない。
発声法も語彙もイントネーションもピッチも音量も制式化される。
さらに言語運用に準じて、表情、感情表現、服装、髪型、身のこなし、生活習慣、さらには政治イデオロギー、信教、死生観、宇宙観にいたるまでが影響される。
中学生2年生が「やんきいのエクリチュール」を選択した場合、彼は語彙や発声法のみならず、表情も、服装も、社会観もそっくり「パッケージ」で「やんきい」的に入れ替えることを求められる。
「やんきい」だけれど、日曜日には教会に通っているとか、「やんきい」だけれど、マルクス主義者であるとか、「やんきい」だけれど白川静を愛読しているとかいうことはない。
そのような選択は個人の恣意によって決することはできないからである。
エクリチュールと生き方は「セット」になっているからである。
バルトが言うように、私たちは「どのエクリチュールを選択するか」という最初の選択においては自由である。けれども、一度エクリチュールを選択したら、もう自由はない。
私たちは「自分が選択したエクリチュール」の虜囚となるのである。
つまり、私たちの自由に委ねられているのは「どの監獄に入るか」の選択だけなのである。
私たちの前には「ちょい悪おやじのエクリチュール」「小役人のエクリチュール」「お笑い芸人のエクリチュール」「キャッチセールスのエクリチュール」などなど無数の選択肢が広がっているけれど、一度選んだら「終わり」なのである。
なぜ、そのような制式化された社会的言語が存在するのか。
これについては、バルトはとくに踏み込んだ分析をしていない。
そういうものがあって、現に活発に機能していることを指摘するだけで批評的価値は十分だと思ったのだろう。
しかし、社会的言語運用がきびしく制式化されており、自分が所属する社会集団に許されたエクリチュール以外の使用が禁止されているのは階層社会の際立った特徴である。
バルトはそのことを指摘していない。
指摘しているのかも知れないけれど、『エクリチュールの零度』のような書物を読むのは、フランスの知的階層に限定されており、書いているバルト自身、自分の本の内容を理解できる読者をせいぜい「5000人くらい」と値踏みして、この本を執筆したはずである(ミシェル・フーコーは2000人程度の読者を想定して『言葉と物』を書いたとはっきり言っている)。
このことが逆照明しているのは、「クリチュールの構造について理解できる程度の社会的階層に位置する人間だけが、エクリチュールの檻から脱出するチャンスがあるということである。
バルトの本が理解できない社会階層の人々(正確には「バルトの本が理解できること」の有用性を認める人が周りにいない社会階層の人々)はそもそも自分たちがエクリチュールの檻の虜囚であるというような自己認識に至ることができない。
それゆえ、「言語運用は階層社会を再生産するためのもっとも効率的な装置である」という知見そのものが階層上位にのみ限定的にアナウンスされ、階層社会で下位に位置づけられている人々は、そのような鳥瞰的な視座から言語について考察する機会から事実上隔離されているのである。
バルトは「そのこと」を言っていない。
「ぼくの話って、ちょっとむずかしすぎますか?」というメタメッセージをバルトは発信してくれない(ひとことそう言ってくれさえすれば、読む方はずいぶんほっとしたんだけれど)。
私はバルトというひとをたいへん高く評価しているけれど、その点についてはちょっとだけ不満である。
ロラン・バルトがほんとうに階層社会のラディカルな改革を望んでいたとしたら、彼は『エクリチュールの零度』を書くときに、あのような高踏的なエクリチュールを採用しなかったはずだからである。
バルトの言語についての知見は、できるだけ多くの読者にリーダブルなかたちで示されるべきものであった。
彼はそうしなかった。
というところまで書いたら、始業のチャイムが鳴ってしまったので、続きはまた明日(に書けなければ、『街場の文体論』をお買い求めください。いつ出るかわかんないけど)。

エクリチュールについて(承前)

エクリチュールについて(承前)

ロラン・バルトのエクリチュール論そのものが、そのあまりに学術的なエクリチュールゆえに、エクリチュール論を理解することを通じてはじめて社会的階層化圧から離脱することのできる社会集団には届かないように構造化されていた・・・というメタ・エクリチュールのありようについて話していたところであった。
同じことはピエール・ブルデューの文化資本論についても言える。
『ディスタンクシオン』もまた、(読んだ方、あるいは読もうとして挫折した方は喜んで同意してくださると思うが)高いリテラシーを要求するテクストである。
おそらく、ブルデュー自身、フランス国内のせいぜい数万人程度の読者しか想定していない。
自説が理解される範囲はその程度を超えないだろうと思って書いている(そうでなければ、違う書き方をしたはずである)。
だが、「階層下位に位置づけられ、文化資本を持たない人には社会的上昇のチャンスがないように設計された社会」の構造を解明したこの書物が十分な文化資本を持たない人に対しては事実上開かれていないということにブルデュー自身はどれほど自覚的であったのだろうか。
むろん、私はバルトも、ブルデューも、その知性と倫理性を高く評価することに吝かではない。
けれども、彼らがエクリチュールによって階層社会が再生産されるプロセスを鮮やかに分析しつつ、その階層社会で下位に釘付けにされている読者たちには理解することのむずかしいエクリチュールを駆使してきたことはやはり指摘しておかなければならないと思う。
階層社会の本質的な邪悪さは、「階層社会の本質的な邪悪さ」を反省的に主題化し、それを改善する手立てを考案できるのが社会階層上位者に限定されているという点にある。
「社会的流動性を失った社会」を活性化できるだけ知的にも倫理的にも卓越した精神が同一の社会集団から繰り返し登場することによって、結果的に文化資本は少数集団に排他的に蓄積してゆき、社会的流動性は失われる。
この「トリック」は階層社会の内部にいる限り、前景化しにくい。
さいわい、日本社会はフランスほどには階層化されていない。
文化資本や社会関係資本はすでに一定の社会的層に蓄積されつつあるけれど、まだそれは「階層」というほど堅固なものにはなっていない(と思う。希望的観測だが)。
私は文化資本の排他的蓄積を望まない。
私は水平的にも垂直的にも流動性の高い社会を望む。
そのためにも、バルトやブルデューのようなすぐれた知性のみが生み出しうる卓見をできるだけ多くの人々が「リーダブルなかたち」で享受できることを望むのである。
エクリチュール批判は「自らがいま書きつつあるメカニズムそのもの」を対象化しうるエクリチュールによってなされなければならない。
はたして、それはどのようなエクリチュールであるのか。
自分たちが嵌入している当の言語構造を反省的に主題化できる言語、自分たちが分析のために駆使している言語の排他性そのものを解除できる言語。
そのような不可能な言語を私たちは夢見ている。

2010.11.06

リーダビリティについて

昨日書いた「エクリチュール」論について、ツイッターの方に、「そういう内田自身の書いている文章のリーダビリティはどうなのか?」という疑問が寄せられた。
それはたして「階層下位に釘付けにされているものにも届くように書かれているのか?」
そういう問いかけはもちろん有効である。
私自身が昨日書いたブログの文章は決して読みやすいものではない(漢字が多いし、英語も使いすぎる)。
けれども、それにもかかわらず、万人に開かれた「不可能な言語を夢見て」書かれているという点において、文化資本の排他的な蓄積を回避することをめざしている点において、「リーダブルであること」は私の書きものの変わらぬ目標である。
リーダブルな文章というのは「わかりやすい文章」ということとは違う。
「ロジカルな文章」というのとも違う。
ましてや「簡単な言葉が使ってある文章」のことではない。
どれほど難しい術語が用いられていても、どれほど入り組んだロジックが使われていても、「すっと身体に入ってくる文章」というものは存在する。
例えば、レヴィナスの文章を最初に読んだとき、私はその一行も理解できなかった。けれども、その文章は物質的実感をともなって私に「触れ」、「私を解釈せよ」と私に命じた。
その結果、私は「この文章が理解できるような人間に自己形成すること」を自分に課すことになった。
レヴィナスの文章のコンテンツは私にはわからなかった。わからなかったけれども、「いずれこれがわかる人間にならなければならない」ということはわかった。
そういうことが現実にある。
リーダビリティというのは、そのように遂行的なかたちで読者にかかわるものではないか。
メディアの要求する「わかりやすさ」と私がくりかえし確執してきたのは、彼らの言い立てる「わかりやすさ」というのがほとんど「語彙の制限」のことだったからである。
それは違うだろうと私は思った。
語彙を制限すれば、文章がリーダブルになるということはない。
書き手が読み手の知性を自分よりも低いと想定して書いている文章(新聞の論説や解説記事はその好個の適例であるが)は、どれほど簡単な言葉で、平明な理屈で貫かれていても、決してリーダブルではない。
それを「理解したい」という読者のがわの知的な欲望を活性化しないからである。
「諸君が知らぬことを教えよう」という教化的な善意はあるのかも知れない。
けれども、そこに読者に対する敬意はない。
そして、そのことを読者は数行も読まないうちに感知する。
感知したとたんに、それを「読んで理解したい」という意欲は一気に萎えてしまう。
そういうものである。
それは語彙の多寡や修辞の巧拙や論理の精粗とはかかわりがない。
「読者に対する敬意」というのはメッセージではなく、メタ・メッセージのレベルにしか表れないからである。
メタ・メッセージとは「メッセージの解釈仕方を指示するメッセージ」のことである。
「後ろの方、聞こえてますか?」というようなのが典型的なメタ・メッセージである。
メタ・メッセージの特徴は「その解釈については誤解の余地がない」ということである。
当然ながら、メッセージの解釈についての指示が複数の解釈を許したら、それはメタ・メッセージの役を果たさないからである。
「後ろの方、聞こえてますか?」という問いかけに対しては「聞こえます」と(論理的には奇妙な話だが)「聞こえません。もっと大きな声でお願いします」という回答しかない。
仮に「後ろの方、聞こえてますか?」というメタ・メッセージに対して無反応な聴衆がいた場合、私たちは彼らが上記二つの台詞のどちらかを口にするまで、つまり「解釈に誤解の余地がなくなるまで」メタ・メッセージの発信を繰り返すことになる。
メタ・メッセージというのは「その意味が相手に一義的に伝わらない限り、意味をもたない」メッセージであるという点で、その他のメッセージとまったく異なるのである。
「読者に対する敬意」もまたメタ・メッセージとして示される他ない。
それは「私が語るこの言葉は『ぜひあなたには理解してもらいたい』という気持ちを込めて語られている」と読者に告げる。
そこで語られているコンテンツがどれほど難解であっても、どれほど容易な接近を拒んでいても、「読者に対する敬意」というメタ・メッセージを感知できる読者に対しては、テクストはつねに開かれている。
リーダビリティとはそのことではないかと私は思う。

2010.11.08

自立と予祝について

『ひとりでは生きられないのも芸のうち』が文春文庫になる。
鹿島茂先生がステキな(ほんとうにステキな)解説を書いてくれた。
私も文庫版のために「あとがき」を書き足した。
そのなかに「贈与」について書いたので、その部分だけここに抜き書きしておくことにする。
「贈与」というのは「コンテンツ」の問題ではなく、「構え」の問題だということ、程度の問題ではなく、原理の問題だということ。
それについて書いた。

この本の最後に収められた「あなたなしでは生きてゆけない」という短文は「連帯を通じて自立する」ための逆説的な理路について書いています。
自立は「その人なしでは生きてゆけない人」の数を増やすことによって達成される。僕はそう書きました。
「その人なしでは生きてゆけない人」に対して、僕たちは必ずや「あなたにはこれからもずっとずっと健康で幸福でいてもらいたい」と祈ります。
その予祝の言葉に対しては必ず同じく祝福の言葉が返される。
予祝に対しては予祝を以て応じなければならない。
「おはようございます」に対しては「おはようございます」と返礼することが義務づけられている(この義務を怠るものにはきびしい社会的制裁が待ち受けています)。
それと同じように、「あなたなしでは生きてゆくことができません。あなたの末永い健康と幸福を私は切に願います」という予祝の言葉に対しても、それと同文の言葉を返すことが人類学的には義務づけられています。
もちろん、そのようなつよい予祝の言葉を贈ることのできる相手は「おはようございます」という挨拶を向けることのできる相手よりもはるかに限定されています。でも、ゲームのルールは変わりません。
そのような相互的予祝のネットワークのうちに自らを位置づけること。それが僕は「自立することが困難な時代における自立」のかたち、つまりその語の本来の意味における「自立」ではないかと思うのです。
私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができない。それが人間が人間的であるためのルールです。今に始まったことではありません。人類の黎明期に、人類の始祖が「人間性」を基礎づけたそのときに決められたルールです。親族の形成も、言語によるコミュニケーションも、経済活動も、すべてこのルールに準拠して制度化されています。
繰り返します。私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができない。
祝福の言葉を得たいと望むなら、まず僕の方から「あなたにはいつまでも幸福でいてもらいたい」という言葉を贈らなければならない。まず贈与するところからすべては始まる。
というようなことを書くと、「贈与するも何も、僕は赤貧であって、他人に与えるものなんか、何もありません。それよりまず僕に何かください」と口を尖らせて言う人が出てくるかも知れません。
でも、残念ながら、「そういうこと」を言う人は、その言葉によって自分自身に呪いをかけていることに気づいていない。
そういう人はそのあと仮に赤貧から脱することができたとしても、「私は十分に豊かになったので、これから贈与をすることにしよう」という転換点を見出すことができません。いつまでも「貧しい」ままです。そこそこの生活ができるようになっても、「世の中にはオレより豊かなやつがいっぱいいるじゃないか(ビル・ゲイツとか)。贈与なんて、そいつらがやればいいんだよ。オレには家のローンとかいろいろあるんだから・・・」そういうふうにしか言えなくなってしまう。
それが「まず僕に与えてください」と言ってしまった「自分に対する呪い」の効果なのです。
他人に贈与しない人は誰からも贈与されることがない。その人は自分が必要とするものをすべて自分で手に入れなければならない。
「それでも、いいよ。誰にも面倒なんかみてもらわなくても、オレはひとりでやれるから」と言う人がいるかも知れません。けれども、個人の努力で手に入れられるものには限りがあります。現に、僕たちが享受している「社会的共通資本」(海洋や森林のような自然資源や上下水道や通信網のような社会的インフラや司法や医療や教育のような制度資本など)は個人的決断によって改変することができません。いくらひとりで踏ん張っても、海洋の水質を保全したり、治安を維持したりすることはできない。
そういう仕事はみんなで少しずつ分担するしかない。
自分に与えられた場所で(僕の場合なら教育の現場で)、自分の割り当て分よりも少しだけ大目に働く。就業規則には書かれていないけれど、誰かがそれをやっておくと、システムの瑕疵がカバーされ、「いいこと」が少しだけ積み増しされそうなことがあれば黙ってやる。そのオーバーアチーブ分は給与には反映しない。「持ち出し」です。それが仕事を通じての「贈り物」です。
すべての人がそれぞれの現場で、ちょっとずつオーバーアチーブする。それによって、社会システム全体の質が少しだけ向上して、僕たちは生活の全局面で(電車が時刻表通りに来るというようなかたちで)そのささやかな成果を享受することができる。そういう意味では、僕たちはすでに贈与と返礼のサイクルのうちに巻き込まれているのです。それが順調に機能している限り、僕たちは人間的な生活を送ることができている。
そんなのは「当たり前」のことであって、自分は誰からも贈与なんか受け取ったことはない、だから誰にも贈与しない、オーバーアチーブなんて冗談じゃない、というふうに考える人は、つまり「受け取るだけで、次にパスを出さない人」は贈与と返礼のサイクルからしだいに押し出されて、周縁の「パスの通らないエリア」に位置づけられることになります。もちろんそこでも基本的な社会的サービスは受けられます。でも、その人宛ての、パーソナルな贈り物はもう誰からも届かない。
ですから、「自分は貧しい」と思うなら、そのような人こそ贈与と返礼が活発に行き交っている場に身を置くべきなのです。どれほどわずかであっても、手持ちの資源を惜しみなく隣人に贈る人はこのサイクルにおける「ホット・ポイント」になります。贈与と返礼のサイクルはこの「ホット・ポイント」に資源が集中するように制度設計されています。
それはボールゲームで「受け取ったボールをワンタッチで予想外の多彩なコースにパスするファンタスティックなプレイヤー」のところにボールが集まるのと同じ原理です。受け取ったボールを決して手離さないプレイヤー、受け取ったボールをつねに同じコースにしかパスしないプレイヤーにはそのうち誰もパスしなくなる。
僕たちの時代がしだいに貧しくなっているのは、システムの不調や資源の枯渇ゆえではなく、僕たちひとりひとりが「よきパッサー」である努力を怠ってきたからではないかと僕は考えています。僕たちは人間の社会はどこでも贈与と返礼のサイクルの上に構築されているという原理的なことを忘れかけていた。だから、それをもう一度思い出す必要がある。僕はそう思います。

いつもの話だけれど、この考え方がいつか常識に登録されるまで、私は同じ話を繰り返すつもりである。

2010.11.09

立国の道すじについて

昨日の平松市長を囲む会の最初の1時間は寺島実郎さん(大阪市特別顧問)の講演会。
寺島さんはスケールの大きい話を「常識的」という節度を超えずに話すことができる珍しい知性である。
『街場の中国論』を書いたときは寺島さんの『大中華圏』(岩波書店、2004)にずいぶんお世話になった。
だから、昨日の講演もとても楽しみにしていた。
期待とおり、1時間余、たいへんインパクトのあるお話を伺った。忘れないうちに、たいせつなポイントを記録しておく。
メディアの一般の論調とずいぶん温度差があるのは次の二点
(1) 日本の21世紀の外交戦略・経済戦略のメインターゲットは欧米ではなく、大中華圏(中国、香港、台湾、シンガポール)と韓国である。
(2) 日本の経済的・文化的なポテンシャルはきわめて高いが、それを適切に発現するためのシステムは整備されていない。
私はどちらの論点についても寺島さんと同意見である。
寺島さんはイデオロギー的な外交経済戦略を語らない。三井物産の社員として、世界各地でものを売り買いして、口銭を稼いできた「商人」のスタンスを崩さない。
その「商人」の眼で見て、対米貿易はもう先がないという。
三井物産のサンフランシスコ支社が先日閉鎖された。シリコンバレー相手の商売では支社の経費が払えなくなったのである。
アメリカから日本のビジネスマンたちが立ち去り始めている。それはニューヨークの日本料理店が次々閉店していることからも知れると寺島さんは言う。
日本の対米貿易は1990年で27.4%。それが減り続けて、2010年は13.2%。
20年で半減したことになる。
それに対して対中国は3.5%から20.6%、約6倍に増えた。
対大中華圏は13.7%から31.0%。アジア全域では30.0%から51.0%に増加した。
このアジア・シフトは、アジアからの観光客の急増というかたちで私たちにも実感されている。
日本からアメリカへ向かう出国者は95年の475万人から09年の292万人に減った。40%減。
ただし、292万人のうち214万人はハワイ、グアム、サイパン。
アメリカ本土ドに到達したのは78万人にすぎない。
対中国は95年の87万人から09年は332万人に増加。
大中華圏全体では601万人。
海外からの訪日外国人も現在は76%がアジアからの来訪者である。
前年度比でみると、中国が47%増、韓国72%増(これは09年がウォン安で来日者が少なかったために数値が突出している)、台湾37%増、香港28%増、シンガポール44%増。
この趨勢は今後も続くだろう。
これらのデータが意味するのは、戦国時代以来の、東シナ海を縦横無尽に人とモノと情報がゆきかう「アジア大移動」時代が始まりつつあるということである。
この「アジア大移動」シフトを一過性のものとしてはならない。来日者が温泉やリゾートやブランド品の買い漁りで通過するだけの場所にしてはならない。
継続的にアジア圏(に限らず全世界)の人々を惹きつける「情報の磁場」が日本に存在しなければならない、と寺島さんは言う。
シンガポールが先鞭をつけた「医療ツーリズム」というのもその一つだろう(ただし、これに対しては医療の現場からは批判的な声も聞こえている。医療をビジネスのワーディングで語ることのリスクを勘定に入れた上でなければ、軽々に医療ツーリズムについて語ることはできないと私も思う)。
寺島さんの提案のひとつは、ジュネーブのように国際機関を誘致することである。
すばらしいアイディアだと思う。
だが、国際機関の誘致の条件は交通の利便性やホテルや通信網の充実や治安のよさだけではない。
なぜ、日本のように国際機関が常駐するためのほとんどすべての条件が整っている国の都市が選択されないのか。
それは日本では政治的中立性が担保されないのではないか・・・と世界の国々が何となく思っているからである。
そこには日本が米軍の常駐する「アメリカの軍事的属国」だという認識が反映している。
国際機関を誘致するための最優先条件は「米軍基地の撤去」だと私は思っているが、たぶん同意してくれるひとはきわめて少ないであろう。
他にも恒常的に世界中から人を集めるアイディアはある。
寺島さんは学術的なセンターを構想されているが、私も同意見である。
ある国が人々を惹きつけるもっとも安定的な要素は軍事力でも経済力でもなく、文化の力だからである。
日本の文化的ポテンシャルは世界でも一流だと私は信じている。
けれども、アウトカムはまだその潜在する資源の何十分の一をも発現していない。
これこそが21世紀における日本の「真の国力」になりうると私は思う。
このポテンシャルをどう涵養し、開花させるか。
それが喫緊の国家的使命である。
だから、ほんとうはここで「教育立国」という言葉が出てこなければならないのである。
「教育を受けるなら日本に行こう」という人々がアジア全域に数百万という規模で存在するときに、日本の文化的国力は安定的な構造をもつことになる。
けれども、過去30年間、日本の教育行政は「教育立国」に失敗した。
申し訳ないけれど、この期間の政府主導の教育施策は「文化的な力」の育成にはほとんど関心を向けなかった。
それよりは、「金が稼げる力」の育成を最優先したからである。
「わずかな手銭で短期的に巨富を回収できる能力」こそが優先的に開発されるべき人間的資源であるというイデオロギーに教育行政は振り回されてきた。
「英語ができる日本人」のプログラムを起案したとき、文科省はそのHPに堂々と「経済競争を勝ち抜くため」と書いた。
英語ができないと金儲けができない。
それが教育行政のトップが英語教育の必要性を基礎づけるために使ったロジックである。
爾来、日本の生徒たちの英語学力は底なしの低下を続けている。
こんな「下品」な教育目的で活性化するほど人間の知性は「下品」に作られていないからである。
教育行政が掲げるべきは、「世界を領導しうる文化的な力」の育成である。
一身の利益とか一国の繁栄のためというような「せこい」話ではなく、世界の人々のために、万有のために各自の知的パフォーマンスを高めようというような「おおきな物語」によってしか、人間の知性は活性化しない。
それでもまだ遅くはないと私は思っている。
「教育立国」というのは、博士号を何人がとったとか、外部資金をいくら集めてきたとか、特許の件数がいくらになったとか、そういう「せこい」枠組みで論じる話ではない。
そのような既存の枠組みの中での自分の相対的なポジションを上げて、年収や地位を上げることを人生の目標とするような小粒な人間を何十万人集めても教育立国などできるはずがない。
イノベーティヴな才能が「ここでなら気分よく仕事ができる」という環境を整備すること、それが教育立国施策の「すべて」である。
イノベーティヴな才能は、その定義からして既存の「能力査定枠組み」で格付けすることがむずかしい(「できない」わけではないが)。
だから、教育立国のための最優先の条件は、なによりも「才能」の定義をひろくゆるやかに取り、短期的・実利的なアウトカムを求めず、研究し、創意工夫をこらす人々を気長に支援することに尽きるのである。
そのような制度が整った国に、世界中の才能は「蜜に群がる蜂」のように集まってくるだろう。
観光立国も医療立国も環境立国も、どれも魅力的なオプションである。
それが成功することを私もつよく望んでいる。
けれども「文化立国」という以上は教育において「世界に類をみない制度を持っている」ということがなくては済まされない。
イノベーティヴな才能は、イノベーティヴな制度にしか惹きつけられない。
そのような制度を設計することが教育行政の最優先課題であり、外交戦略をふくめて国家戦略の最優先課題だと私は思っている。
寺島さんの話をうかがって、そんなことを思った。
少しだけ祝辞のときに話させていただいたけれど、言葉を尽くせなかったので、ここに記すのである。

2010.11.10

階層化する社会について

大学院ゼミで井原さんが『下流志向』の韓国における受容について貴重なレポートをしてくれた。
私の本はこれと『寝ながら学べる構造主義』が韓国語で出版されており、『若者よマルクスを読もう』が現在翻訳中である。
この選書基準が興味深かったので、そのことについてゼミでお話した。
『下流志向』はネット上での書評を見る限り、あまりちゃんと理解されていないようであった(「上から目線」で勉強しない人間や労働しない人間を「叱咤」している本というふうに読んだ人が多かったようである)。
現地出版社のプレゼンテーションに多少のバイアスがかかっていたのかもしれない。
『下流志向』のポイントは
(1)日本社会の「階層化」が進行していること
(2)階層下位に向けての「自分らしく生きる」イデオロギーの集中的なアナウンスによって階層化が果たされつつあること
この二点である。
これはもちろん私の創見ではなく、苅谷剛彦さんの『階層化日本と教育危機』(2001)の所説をそのまま請け売りしたものである。
苅谷さんの本は統計資料がぎっしり詰まった学術的なもので、一般読者には取りつきにくいものであったので(けっこう高額だったし)、その中で苅谷さんが(たぶん)いちばん言いたかった論件にピンポイントして、私は『下流志向』を書いたのである。
階層社会というのは一部の社会集団にのみ選択的に社会的資源(権力、財貨、威信、文化資本)が配分されるシステムのことだが、このシステムは静態的なものでない。
階層社会における「支配的なイデオロギー」は、階層下位にいる人間たちに自ら進んで「階層下位に自らを釘付けにする」ようにふるまわせる。
「支配的なイデオロギーは支配階級のイデオロギーである」とマルクスが看破したとおりである。
その時代のマスメディアが大衆にむかって「こうふるまえ」とうるさく言い立てる生き方に従うと、その結果「階層上位」に資源がいっそう排他的に蓄積されるように支配的なイデオロギーは構造化されている。
それが私たちの時代においては「自分らしく生きるイデオロギー」「自分探しイデオロギー」として制度化されていたということである。
現在階層社会の下位に位置づけられているものが「自分らしく生きること」あるいは「ほんとうの自分はどういう人間なのかを問うこと」を最優先に配慮した場合に何が起きるか、それを考えればすぐにわかる。
「自分らしく」ふるまうということは、「他人の模倣をしない」ということである。ところが脳科学の知見が教えるとおり、人間というのは他者の模倣を通じて固有性を形成し、他人の思考や感情を模倣することによって人間的な厚みを増してゆくものである。
月本洋さんによると、「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」。
その仮想身体運動を通じて「他人の心と自分の心」が同期する(ように感じ)、他人の心が理解できる(ように感じる)のである。
言い換えるならば、他者との身体的な「同期」が「理解」ということの本質なのである。
子どもにおける「自己の形成」とはその組織化プロセスのことである。
「まわりの他人の動作の模倣を繰り返すことによって、子どもは自分の脳神経回路を、まわりの人間(大人と子ども)の脳神経回路と同様にすることによって、自己を形成してゆく。すなわち、まわりの他人の心を部分的に模倣して組み合わせることで、自分の心を作っていくのである。」(『日本人の脳に主語はいらない』、2008)
思考も感情も私たちは外界から「学習」するのである。
外界を遮断して、自分の内側をじっと覗き込んでいるうちに自生してくるような思考や感情などというものは存在しない。
ところが、「自分らしさ」イデオロギーはこれとまったく逆転した人間観に基づいている。
「自分らしさ」イデオロギーによると、「私」は誕生の瞬間においてもっとも純良な「自分らしさ」をすでに達成している。
それ以後の成長過程で外部から外付けされたものはすべて「自分らしくないもの」である。
それゆえ「自分探し」とは、自分が後天的に学習してきた価値観やものの感じ方や表現法などを削り落とし、剥がし落とし、「原初の清浄」に立ち帰ることを意味することになる。
これは言い換えると、「私は知るべきことはすでに知っている。私がこれから実現すべきことのすべてはすでに胚芽的なかたちで私に内在している。私が私であるために外部から新たに採り入れなければならないものは何もない。私が所有すべきすべての知識と技術を私はすでに所有している」ということである。
問題は「私がすでに潜勢的に所有しているもの」を現勢化するための「チャンス」(しかるべき地位や年収、しかるべき敬意や配慮)が(誰かがそれを不当に占有しているために)まだ「私」に分配されていないことに尽くされる。
そのようにして、「自分らしさ」「自分探し」イデオロギーは「無権利者が占有している資源はほんらいの所有権者たる『私』に戻されねばならない」という「政治的に正しい」社会的格差解消論に結びつくことになる。
これは数年前に朝日新聞が大々的に展開した「ロスト・ジェネレーション」論そのままの構成である。
『下流志向』を書いているときにはまだ「ロスト・ジェネレーション」論は出現していなかったが、私がそこで分析したのは、他ならぬこの「階層下位の人々を、そこに釘付けにさせるイデオロギー装置」の構造であった。
なぜ「自分らしさ」の追求が階層の再生産に加担することになるのか。
理由は簡単である。
それは、「自分らしさ」を追求している人間は、「学ぶ」ことができないからである。
「学ぶ」という行為は次のような単純なセンテンスに還元される。
「私には知らないこと、できないことがあります」
「教えてください」
「お願いします」
これだけ。
これが「学び」のマジックワードである。
これが言えない人間は永遠に学び始めることができない。
けれども、「自分らしさ」イデオロギーはこの言葉を禁句にする。
「自分らしさ」を追求する人間が前提にしているのは「私には知らないこと、できないことはない」だからである。
私は知るべきことはすべて萌芽的なかたちで「知っている」のだが、それを開花させる機会を提供されていない。
私はなすべきことはすべて潜勢的なしかたでは「できている」のだが、それを発現する機会を提供されていない。
仮に私が何かを知らなかったり、できなかったりするとしても、それは私の責任ではなく、私が「私らしく」自己実現することを阻害している「社会の責任」に帰される。
一見すると整合的な言説である(「一見すると整合的」でなければ、これほど広くに普及するはずがないのだから、当然だが)。
けれども、現在の自分の社会的な不調や地位の低さや年収の少なさをすべて「私が私らしく生きることを阻んでいる社会の責任」に帰するというのは、幼児の論理である。
たしかに幼児は免責される。
けれども、免責されることの代償に、幼児には幼児のポジションしか与えられない。
「私はさしあたり『私らしさ』を達成しえていないために社会的には無能とみなされている。だが、この状態について『幼児である私』には一切責任がなく、それゆえこの状態を改善する義務もない。誰か早急に何とかするように」というようなことを呟いている人間に社会的資源を優先的に配分し、高い地位や豊かな文化資本を提供するようなシステムは残念ながらこの世には存在しない。
「大人として遇して欲しければ大人になれ」というのが人類社会のルールである。
「ロスト・ジェネレーション」論では、さらに進んで、「社会的に下位に位置づけられた人々は、社会の実相をそうでない人々よりも正しく把握しており、それゆえこの社会がどうあるべきかについて、より適切なソリューションを知っている」という「もっとも虐げられたものがもっとも明察的である」という左翼的知性論を語り出した。
この知性論を採用すると、階層下位にある人は「社会がどうあるべきか、自分がどうふるまうべきかについて、他の人たちに教えてもらうことは何もない」ということになる。
「現に収奪され、自己実現を阻害されているがゆえに、この社会の実相を誰よりも熟知している」と宣言してしまったものは、それによって「私には『教えること』はあるが『学ぶこと』はない」という宣言にも同時に署名したことになる。
しかし、階層社会とはいえ、一定の流動性は担保されており、当たり前のことだが、そのパイプラインはただ「学ぶことができる人間」にだけ開かれているのである。
「私には学ぶべきことはない」と宣言してしまったものは、まさにその宣言によって社会の流動性を停止させ、社会の階層化と、階層下位への位置づけをすすんで受け入れることになる。
「学ぶもの」にとって社会は流動的であり、「学ぶことを拒否するもの」にとって社会は停滞的である。
「学ぶことを拒否するもの」が増えるほどに社会は流動性を失って、こわばり、石化する。
この趨勢をどこかで停止させなければならない。
それが苅谷さんの洞察であり、私もそれに深く同意するのである。
長くなったので、どうして『下流志向』が韓国で「誤読」されるのか、それについて書く紙数がなくなってしまった。
それはまたこんど。

最終講義とパーティのおしらせ

みなさん、こんにちは。
私の神戸女学院大学の在任期間も、あと5ヶ月を切りました。
つきましては、1月22日(土)に最終講義と引き続き茶話会とパーティを予定しております。
お時間のあるかた、ぜひおいでくださいませ。

最終講義  15時より16時 (於・神戸女学院大学講堂)
茶話会   16時半より17時半 (於・めじラウンジ)
パーティ  18時半より (於・宝塚ホテル)

最終講義と茶話会はどなたでも参加いただけます。ただホテルでのパーティの方は準備のつごうがございますので、事前にお申し込みをいただくことになっております。
つきましては、指定のURLによって事務局あてにお申し込みをお願いいたします。
お申し込み先は

https://nakanoshima-univ.com/uchida/

パーティの参加条件は
(1)内田ゼミの人(専攻ゼミ、基礎ゼミ、文献ゼミ、大学院聴講生の在籍者、卒業生
(2)神戸女学院大学教職員(非常勤講師も含みます)
(3)合気道部・杖道会の現役ならびにOG
(4)多田塾甲南合気会会員
(5)甲南麻雀連盟会員
(6)極楽スキーの会会員
(7)以上のどれでもない内田の個人的友人
以上です。

どのカテゴリーの場合でも、私が「この人、知らない・・・」という可能性がありますので(自分のゼミの学生の顔を夏休み明けに忘れる男ですから・・・)、「忘れてるかもしれないけど、ほら私ですよ、私!」という場合(内田のメモリー容量を考えると、かなり多数にのぼる可能性がありますので)申し込みフォーマットのメッセージ欄にアピールのメールを書き込んでおいてくださいね。

では、どうぞよろしくお願い致します。

2010.11.22

『七人の侍』の組織論

どういうタイプの共同体が歴史の風雪に耐えて生き延びることができるか。
これはなかなか興味深い問いである。
前に、住宅についてのシンポジウムの席で、「コレクティブ・ハウス」を実践している人から質問があった。
その人は20世帯くらいで住まいをシェアしている。子どものいる若い夫婦同士はお互いに育児を支援し合って、とても助かるのだが、高齢者の夫婦などはいずれこちらが介護せねばならず、若い人たちは「他人に介護してもらうためにコレクティブハウスに参加したのではないか・・・」という猜疑のまなざしで老人たちを見つめている、という話をうかがった。
どうすればこの共同体を継続できるのでしょうというお訊ねだったので、「残念ながら、そういう共同体は継続できません」とお答えした。
あらゆる共同体では「オーバーアチーブする人」と「アンダーアチーブする人」がいる。
必ずいる。
全員が標準的なアチーブメントをする集団などというものは存在しない。
存在する意味がないから、「作ろう」と思っても作れない。
あらゆる集団はその成員の標準的なアチーブメントに及ばない「マイナーメンバー」を含んでいる。
幼児や老人や病人や障害者は集団内では支援を与えることより、支援を受けることの方が多い。
けれども、これらの「マイナーメンバー」を支援するときに、「自分は損をしている」というふうに考える人間には共同体に参加する資格がない。
あらゆる人間はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人となり、心身に傷を負う。
だから、集団のすべての構成員は時間差をともなった「私の変容態」である。
それゆえに集団において他者を支援するということは、「そうであった私、そうなるはずの私、そうであったかもしれない私」を支援することに他ならない。
過去の自分、未来の自分、多元宇宙における自分を支援できることを喜びとすること。
そのような想像力を用いることのできない人間には共同体を形成することはできない。
申し訳ないが、コレクティブ・ハウスというコンセプトはたぶん成功しないだろうと申し上げる。
それはそこに参加する人間の「現時点での利便性」にもとづいて選択された共同体だからである。
そこには「歴史を貫いて維持しなければならない共同体」の統合軸がない。
共同体に蓄積された資産を「次世代への贈り物」であると考えることのできない集団は短期的に崩壊する。
「では、どんな共同体なら生き延びられるのですか?」と重ねて質問があったので、ちょっと考えてから、こうお答えした。
教育のための共同体、医療や介護のための共同体、それから宗教の共同体くらいでしょうか。
とっさの返事にしては、なかなか適切だったように思う。
これら三つの共同体はどれも共通した特徴を持っている。
それは「構成員のうち、もっとも非力なもの」を統合の軸にしているということである。
教育共同体は若く非力な人々に知識や技芸を伝授し、成熟に導くためのものである。医療共同体は病み、傷ついた人々を支援するためのものである。信仰共同体は隣人を慰め癒すためのものである。
そのような共同体だけが永続性を持ちうる。
集団成員のうちの相対的に有力なものに優先的に資源が配分されるような「弱肉強食」共同体は長くは続かない(いずれお互いの喉笛を掻き切りあうようになる)。
集団成員のうちのヴォリュームゾーンである「標準的な能力をもつ成員」の利便を最優先に配慮する「平凡」共同体も、やはり長くは続かない(全員が均質化・規格化して多様性を失ったシステムは環境変化に適応できない)。
もっとも耐性の強い共同体とは、「成員中のもっとも弱いもの」を育て、癒し、支援することを目的とする共同体である。
そういう共同体がいちばんタフで、いちばんパフォーマンスが高い。
これは私の経験的確信である。
それゆえ、組織はそのパフォーマンスを上げようと思ったら、成員中に「非力なもの」を意図的に組み込み、それを全員が育て、癒し、支援するという力動的なかたちで編成されるべきなのである。
その好個の事例が『七人の侍』における勝四郎の果たした役割である。
この七人の集団は考えられる限り最小の数で構成された「高機能集団」である。
その構成員はまず「リーダー勘兵衛」(志村喬)、「サブリーダー五郎兵衛」(稲葉義男)、「イエスマン七郎次」(加東大介)。7名中の3名が「リーダーが実現しようとしているプロジェクトに100%の支持を寄せるもの」である。この比率は必須。
「イエスマン」はリーダーのすべての指示に理非を問わずに従い、サブリーダーは「リーダーが見落としている必要なこと」を黙って片づける。
その他に「斬り込み隊長久藏」(宮口精二)と「トリックスター菊千代」(三船敏郎)もなくてはならない存在である。
自律的・遊撃的な動きをするが、リーダーのプランをただちに実現できるだけの能力をもった「斬り込み隊長」の重要性はすぐにわかるが、「トリックスター」の組織的重要性はあまり理解されていない。
トリックスターとは「二つの領域にまたがって生きるもの」のことである。それゆえ秩序紊乱者という役割を果たすと同時に、まさに静態的秩序をかきみだすことによって、それまでつながりをもたなかった二つの界域を「ブリッジ」することができるのである。
菊千代は「農民であり、かつ侍である」というその二重性によって、絶えず勘兵衛たちの「武士的秩序」を掻き乱す。だが、それと同時に外見は微温的な農民たちの残忍なエゴイズムを自身のふるまいを通じて開示することによって、農民と侍のあいだの「リアルな連帯」を基礎づける。
七人の侍のうち、もっとも重要な、そして、現代においてもっとも理解されていないのが、林田平八(千秋実)と岡本勝四郎(木村功)の役割である。
平八は五郎兵衛がリクルートしてくるのだが、五郎兵衛は自分がみつけてきた「まきわり流を少々」という平八をこう紹介する。
「腕はまず、中の下。しかし、正直な面白い男でな。その男と話していると気が開ける。苦しい時には重宝な男と思うが。」
五郎兵衛の人事の妙諦は「苦しいとき」を想定して人事を起こしていることにある。
私たちは人を採用するとき、組織が「右肩上がり」に成長してゆく「晴天型モデル」を無意識のうちに前提にして、スキルや知識や資格の高いものを採用しようとする。
だが、企業の経営をしたことのある人間なら誰でも知っていることだが(「麻雀をしたことがある人間なら」と言い換えてもよい)、組織の運動はその生存期間の過半を「悪天候」のうちで過ごすものである。
組織人の真価は後退戦においてしばしば発揮される。
勢いに乗って勝つことは難しいことではない。
勝機に恵まれれば、小才のある人間なら誰でも勝てる。
しかし、敗退局面で適切な判断を下して、破局的崩壊を食い止め、生き延びることのできるものを生き延びさせ、救うべきものを救い出すことはきわめてむずかしい。
「苦しいとき」においてその能力が際だつような人間を採用するという発想は「攻めの経営」というようなことをうれしげに語っているビジネスマンにはまず宿らないものである。
けれども、実際に長く生きてきてわかったことは、敗退局面で「救えるものを救う」ということは、勝ちに乗じて「取れるものを取る」ことよりもはるかに困難であり、高い人間的能力を要求するということである。
そして、たいていの場合、さまざまの戦いのあとに私たちの手元に残るのはそのようにして「救われたもの」だけなのである。
勝四郎の役割が何であるかは、もうここまで書いたからおわかりいただけたであろう。
彼は「残る六人全員によって教育されるもの」という受け身のポジションに位置づけられることで、この集団のpoint de capiton (クッションの結び目)となっている。
どんなことがあっても勝四郎を死なせてはならない。
これがこの集団が「農民を野伏せりから救う」というミッション以上に重きを置いている「隠されたミッション」である。
なぜなら、勝四郎にはこの集団の未来が託されているからである。
彼を一人前の侍に成長させること。そのことの重要性については、この六人が(他の点ではいろいろ意見が食い違うにもかかわらず)唯一合意している。
それは自分のスキルや知識を彼のうちに「遺贈」することによって、おのれのエクスペンダブルな人生の意味が語り継がれることを彼らが夢見ているからである。
勝四郎の存在意義は『マッドマックス2』におけるブーメランを操る野生児フェラル・キッドの説話的機能と相同的である。
『マッドマックス2』のラストシーンでは、夕陽を背に浴びて道路に立ち尽くすマックスのショットに、キッドのナレーションが入る。「私はその後、北の部族のリーダーとなった。年老いた今では昔の記憶はもはやおぼろげである。けれども、あのとき荒野に立ち尽くしていたマックスの姿だけは決して忘れない」
これは実はキッドのナレーションではない。
マックスが荒野に立ち尽くしたときに、「自分が死んだあとに長く語り継がれている自分についての伝説」を想像的に先取りしたものを「幻聴」しているのである。
なぜなら、「そうでもしなけりゃ、やってられない」からである。
車は壊すは、片足は折るわ、片目はつぶれるわ、ガソリンはないわ、食い物はないわ状態で荒野に放置されたマックスが「次の一歩」を歩み出すためには、「荒野にすっくと立ち尽くすヒーローについての物語」を語り継ぐであろう「次世代」を先取りする想像力が不可欠なのである。
同じ仕掛けは『マッド・マックス・サンダードーム』でも繰り返されている。
マックスのあの異常なバイタリティを担保しているのは、この「幻聴」能力だったのである。
知らなかったでしょ(私も今まで気づかなかったけど)。
『七人の侍』に話を戻すと、勝四郎は(フェラル・キッドと同じく)、六人の侍が死んだあとに、彼らについての「伝説を語り継ぐ者」という機能を先取り的に賦与されているのである。
それゆえ、勝四郎が生き残り、末永く「侍たちのこと」を回想してもらうということは、六人にとって「こんなところで犬死にするリスク」を冒すために譲れない条件だったのである。
勘兵衛はそれを洞察したからこそ、勝四郎を仲間に加えることを許した。
それはこの戦いで「たぶん我々はみな死ぬだろう」と勘兵衛が思っていたからである。
侍だから戦いで死ぬのは構わない。だが、できるものなら最高のパフォーマンスを発揮した上で死にたい。そのための条件を考えて、勘兵衛はこの七人を選んだのである。
話をいきなり現代に戻すが、当今の企業の人事担当者の中には「平八」と「勝四郎」の重要性どころか、「菊千代」の重要性さえ理解していない人間が多い(というかほとんどそうか)。
リーダーとイエスマンと斬り込み隊長だけで「効率的な」組織を作ろうとしている経営者がマジョリティである。
そういう時代に就活をしなければならない学生たちがほんとうに気の毒である。
もっとも集団のパフォーマンスを高めるのは「若く、非力な」成員を全員で「支援し、育て、未来に繋ぐ」という仕組みをビルトインさせたシステムであるという「当たり前」のことをビジネスマンたちは忘れている。

2010.11.24

独裁体制のピットフォールについて

北朝鮮が黄海上にある韓国の延坪島を砲撃した。数十発が着弾、韓国軍兵士二名が死亡。家屋などが焼け、山火事も発生した。
53年の休戦協定以来、北朝鮮軍が韓国領土に向けて直接砲撃を行ったのは、これがはじめてのことだそうである。
後継者に対する「忠誠競争」を急ぐ軍一部の暴走という説もあったが、同日夜に朝鮮人民軍最高司令部の名によって攻撃声明がなされた。
後継者に確定した金正恩の軍部への掌握力を強化する目的との見方が支配的だ。
事件の直後、アメリカ国務省は情報収集のためしばらくコメントを控えていた。
「情報収集」というのは、平たく言えば、北朝鮮政府部内に送り込んである「アセット」からの連絡待ちということである。
北朝鮮政府内部にも、「韓国にパイプをもつもの」「中国にパイプをもつもの」「ロシアにパイプをもつもの」「アメリカにパイプをもつもの」が当然いる。
彼らは一定の範囲で北朝鮮政府部内の情報を国外の情報機関にリークしている。
別に「スパイ」としてそうしているわけではなく(多少はそうだが)、情報戦はビジネスと同じく、give and take である。「やらずぶったくり」というわけにはゆかない。彼らもまた諸国政府のコンフィデンシャルを代価として得ている。
いちばん太いパイプをもっているのはもちろん韓国である。
今回の砲撃戦で私が興味深かったのは、北朝鮮政府の砲撃「公認」までのタイムラグと、韓国政府の平静ぶりである。
なぜ、韓国政府もメディアも市民も戦闘的な北朝鮮批判を自制したのか。
私の想像では、これは「北朝鮮のアセット」から、直後に「何が起きているのか、よくわからない」というレポートが届いたからではないかと思う。
「北朝鮮のアセット」は政府部内のテクノクラートのうちにいる。
ファナティックや愛国者や好戦的な軍人には「アセット」はつとまらないからである。
テクノクラートには「筋のいい情報」が届く。
逆に言えば、「筋の悪い情報」は届かない。
今回の事件は「筋のよい情報」のパイプには乗っていなかった。
どこか軍部の「よくわからない筋」で起案され、政府部内の多くの人間が知らないうちに実施された。
だから、「アセット」から韓国政府には「なんだかよくわからない」というレポートが届いた。
私はそういうふうに想像する。
独裁国家のアキレス腱の一つは国内が「一枚岩」であるという幻想を絶えず国内外にショウオフしなければならないということである。
中央政府はすべてを把握しており、すべては熟慮の上に実施されている、という「フィクション」を政府関係者全員が「演技」しなければならない。
政府部内の不一致はただちに独裁者のハードパワーの低下として解釈されるからである。
「独裁者がうまく統治できていない」ということをアナウンスするよりは「独裁者は支離滅裂なことをやる」ということをアナウンスする方が統治者自身にとってはより「まし」である。
現に世界中のメディアはそのように報道している。
すべての政治的・軍事的行動が金総書記の命令でしか行われ得ない完全な独裁制であるという政治的幻想を国内外にふりまくことの代価は、逆説的なことだが、実は「やり放題」ということである。
「総書記が許可しない政治的・軍事的行動がありえない」以上、何をやっても、すべては「総書記の許可を得たもの」として認知せざるをえない。
北朝鮮はいまそのような自分で仕掛けたピットフォールにずるずると落ち始めているのではないかと私は思う。
跡目相続のときに起きる、一時的な権力の空白期間をめざして、軍内部のいくつかの勢力がそれぞれに「対外強硬路線」を競って、ある種の「チキンレース」を展開している。
哨戒艦を撃沈したセクションと核ミサイルを開発しているセクションと昨日の砲撃を指揮したセクションはおそらく同一系列ではあるまい。
もっともタフでハードなセクションが軍を掌握する。
そういうルールでゲームが始まっている。
このフロントラインで行われている競争の実情が「アセット」にはなかなか届かない。
韓国政府が「ただちに報復を」という感情的なリアクションを控えて、静観方針をとっているのは、これが体制崩壊の「遠い地響き」かもしれないと思っているからである。
安易な軍事的報復は、ずるずると崩壊に向かっている独裁体制を再び排外主義的ヒステリーによって団結させ、結果的に北朝鮮現体制の延命に手を貸すことになりかねない。
だから、関係諸国は耳を澄ませて静観しているのである。
と、思う(よう知らんけど)

2010.11.26

ラジオで国会中継を聴く

北朝鮮の砲撃問題のときの政府の初動対応の「鈍さ」が国会できびしく批判された。
昨日ちょうど、このやりとりをしているときNHKラジオで国会中継を聴いていた。
ラジオの国会中継がこんなに面白いものだとは思わなかった(テレビの中継の50倍くらい面白い)。
だって、テロップが出ないから。
質問のあと、答弁に立った閣僚が返答に窮して「・・・・」と無言でいると、空白の時間が流れる。
ほとんど「放送事故」である。
大臣も何か言わないといけないから、必死になって「答弁らしきもの」を口にするのだが、何も思いつかないと、ある段階からは「自動筆記」状態になる。
菅首相の答弁もとんちんかんな自己弁護に終始していたし、国家公安委員長や文科大臣の答弁に至っては、自分が何を言っているのかわかっていないほど、しどろもどろのものであった。
ラジオを聴きながら「困ったものだ」と思った。
国会の予算委員会審議は東アジアの軍事的緊張に比べればずいぶんとプレッシャーの少ない事態のはずである。
言い負かされたからと言って命を取られるわけではない。
その程度のプレッシャーで、一気にこれほど知性の活動が不調になる人たちに国政を委ねていてよろしいのであろうか。
私は彼らの政治的識見について文句を言っているのではない。
それ以前の「資質の問題」として、「窮地に追い詰められると愚鈍化する」というような生存戦略を(おそらくは無意識に)採用している人たちは、政治のようなストレスフルな環境にはあまり向かないのではないか思ったのである。
政治家の資質としてとりあえずいちばんたいせつなことは「胆力」だと私は思う。
まずは「浮き足立たない」ということである。
危機的状況でも浮き足立たず、感情的にならず、ロジカルに思考し、抑制の効いた言葉づかいでそれを語れる人間は、そうでない人間よりも危機を生き延びるチャンスが多い。
それは経験的にたしかである。
もし、ほんとうにこの事件が国難的なレベルのものであると判断しているのなら、政治家たちは、「国難的状況に臨んで、どれほど平常心でいられるか。どれほど胆力があるか」を競ったはずだと私は思う。
けれども、昨日の国会中継を聴いていたら、そうではなかった。
むしろ、全員がどれほど浮き足だっているかを競っていた。
ひごろ冷静な仙谷官房長官も「満腔の怒り」というような感情的表現を使って、自分の政治家としての適格性を証明しようとしていた。
政治家が政治的イシューについて「前後を失うほど感情的になっている」ことをショウオフすることを評価ポイントに数えるというような幼児的な風習がいつから本邦の政界に定着したのだろう。
ラジオ放送の中で興味深かったのは、参院の審議できびしく質問で政府を責め立てていた山本議員がつい「感情的」になって絶叫した言葉が「いまこそ日米同盟でしょう!」だったことである。
日本が危機的状況に陥ったのだから、「アメリカと緊密に連携をとらなくてはいけない」というロジックを支えているのは、「日本の軍事的危機について最終的に責任をもつのはアメリカだ」という信憑が彼のうちに深く根ざしていることを示している。
外交的難局を切り抜ける方法を「日本人は自力で考え出さなければならない」という緊張感はここにはない。
「まず関係各国との連携を」というのは言い換えれば「日本はどうすればよいか」についてアメリカの意向を最優先に配慮するということである。
「アメリカの軍事的属国である日本に、自力で外交を展開する選択肢はほとんどない」というのは日本に課せられた歴史的条件である。
戦争に負けたことをいまさら恨んでもしかたがない。
けれども、その歴史的条件の中でしか政略が立てられないという事実については、もうすこし「恥」の感覚を持ち続ける方がいいのではないかと私は思う。
「ここはまあ、日米軍事同盟基軸ということで、アメリカの東アジア戦略の枠内で対応するしかないんじゃないですか。ですから、まずアメリカから情報をいただき、アメリカの指示に従う、と」という政治的意見は「悲しげに、ためいきまじりに」口にされるべき言葉ではないのか。
誇らしげに、感極まって、口にすることではあるまい。
ラジオを聴きながら、そんなことを思った。
べつに誰かの悪口を言っているわけではありません。
Don't take it personal

2010.11.29

なぜ日本に米軍基地があるのか?

京都弁護士会というところに招かれて「憲法と人権を考える」会にて、日本外交について講演をする。
なぜ、私のような門外漢に外交を語らせるのであろうか。
だって、ほんとに門外漢なんだよ。
外国で暮らしたこともないし、外国政府高官にパイプがあるわけでもないし、外国の新聞雑誌だって一年に数回(観光旅行の飛行機の中で)しか読まないような人間に日本外交のこれからを語らせるというのはどういう了見なのでありましょうか。
前に『街場の中国論』を出したあと、公安調査庁の人が調査に来たことがあった。
表向きは中国の現状分析についてご意見を承りたいということだったが、どうも私がどこから「このような」中国国内情報を手に入れているのか、その入手経路をチェックしにいらしたようである。
何か先方と特別なチャンネルをお持ちなのですか?と訊かれたので、「中国についての情報源は毎日新聞だけです」とお答えした。
つねづね申し上げているように、情報というのは実定的なものには限られない。
実定的な情報のピースを並べて、「絵」を描くことは可能だし、「当然このことについて報道されていてよいはずの情報」が組織的に欠落している場合にも、そこで何が起きているかを推察することは可能である。
要は「文脈を読み当てる」ということである。
ジャン・ポーランは『タルブの花』の末尾に「焦点を合わせないで、ぼんやり眺めていないと見えないものがある」と書いているが、歴史の文脈というのも、たぶんそのようにしてしか見えないものだと思う。
自分一身の利害得失のことはとりあえず「棚に上げて」、『草枕』に言うように「ただこの景色を一幅の絵として観、一巻の詩として読む」というのはポーランの「ぼんやり」に通じる。
「画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起こらぬ。ただこの景色が、腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽しませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。」
景色を景色として眺めるときに、その土質やら植生やら、地価やら埋蔵資源やら、最寄り駅まで何分であるとか、もうすぐ新幹線開通とかいうことを知っている必要はない。
必要がないどころか、そんな情報はあるだけ景色の観賞には邪魔である。
それを堪能してもさっぱり「腹の足しにならず、月給の補いにならない」という条件が、非人情の骨法である。
いまわが国で政治について流布している語る人々にいちばん欠落しているのは、この非人情である。
むしろ政治を語る人たちはできるだけ感情的で、前後を亡ずるばかりに興奮し、義憤に駆られ、憂国の熱誠に浮かされていることをデフォルトに採用なさっているかのようである。
同じ話を蒸し返して失礼だが、先般の国会審議で、仙谷官房長官に向かって「怒り方が足りない」と怒っていた議員がいた。
察するに彼が理想とするのは北朝鮮のテレビニュースのキャスターがやっているような「怒髪天を突く」的オーバーアクションなのであろう。
だが、「かかる非道に対しては断固として正義の鉄槌が下されずんばならぬであろう」というようなことを眉毛をぴくぴくさせ、唇をわなわなさせながらテレビカメラの前で演じることがどのような外交的得点をわが国にもたらすと彼が考えているのか、私にはうまく想像できない。
ほんとうにそれが外交的にプラスになると彼が信じているなら、とりあえずNHKに出向いて、すべての政治ニュースを「北朝鮮」型の「眉毛ぴくぴく唇わなわな」スタイルで読み上げるように進言すべきであろう。
内政には気遣いや惻隠の情が必要だが、外交に感情は要らない。
非人情に徹しないと、何が起きているのかわからないからである。
自分の利害得失をとりあえず棚上げしないと「景色」は見えない。
私は「景色を見ること」「文脈を読み当てること」に興味がある。政治について、ほかのことにはとんと興味がない。
昨日の講演ではアメリカの西太平洋戦略について大づかみな話をした。
「大づかみ」もいいところで、モヘンジョダロとか黄河文明とかジョン・ウィンスロップのマサチューセッツ植民地構想とかアレクシス・ド・トックヴィルのアメリカ論にまで遡っての話である。
これくらい射程を広く取らないと、いまの沖縄基地問題の置かれている文脈はわからない。
「アメリカは西太平洋でいったい何をしようとしているのか?」
それがとりあえず最優先の政治的論件であり、これについて連日あらゆる角度からあらゆる情報を精査して議論することが何よりも必要だと私は思っているが、私の知る限り、この論件のために国会審議をしたり、紙面を割いたり、ニュースの解説時間を費やすことに日本人はきわめて不熱心である。というか、まるでしていない。
しかし、「アメリカは西太平洋でいったい何をしようとしているのか?」を問わなければ、在日米軍基地問題の解にたどりつくことはできない。
「アメリカが沖縄や日本国内に基地を引き続き持ちたがっている」ということから議論が始まっており、「なぜ、なんのために」基地があるのかについては、不問に付されている。
その理由が解明されなければ、日本人は何もできない。
「なんだかわからない理由で居座っている人をどういう言い分で立ち退いてもらうか」というような難問に解はない。
アメリカが日本にいる理由がわからない限り、基地問題の解はない。
けれども、日本人はその理由を意識化することを拒否している。
何度も言っているように、日本はアメリカの軍事的属国であり、日本には国家主権がない。
日本は自己決定によって外交を展開したり、条約を締結したり、核武装したり、戦争を始めたりすることができない(もちろん憲法は不戦を規定しているが、この憲法はアメリカからの下賜品である)。
私は核武装したり、戦争を始めたりしろと言っているわけではない(当たり前です)。
そうではなくて、核武装しないのも、戦争をしないのも、「しない」と自己決定したからではなく、「させてもらえない」からであるという現実は認識した方がいいと申し上げているのである。
日本は平和国家であり、そのことを私は心から喜んでいるが、それは日本人が平和的であることを選んだからではなく、平和的であること以外の選択肢を許されなかったからである。
結果は同じでも、プロセスが違う。
だから結果を変えろと言っているのではない。
こういうプロセスでこうなったという事実をクールにみつめた方がいいと申し上げているだけである。
その現実を直視しない限り、基地問題はある日アメリカが「あ、基地もう要らなくなったから、いいや。じゃあね」と不意に立ち去る日まで解決しないということである。
韓国の米軍基地は韓国国民のつよい反対運動によって、3分の1に縮小されつつある。ソウル駅近くの龍山基地は邪魔だからというので撤去された。
フィリピンのクラーク空軍基地とスービック海軍基地は米軍の海外最大の基地だったが、フィリピン政府の「出て行ってくれ」という要請に屈して先般撤去された。
どうして韓国やフィリピン政府にできることが日本にはできないのか。
というより、どうして東アジアにおける米軍基地の撤去が進んでいることについて、日本のメディアはおおきく取り上げないのか。
韓国やフィリピンと日本の違いは、アメリカとの同盟関係の軽重にあるのではない。
もちろんアメリカに強く出られるほど軍事力や経済力があるからという理由でもない。
日本は敗戦国だが、韓国やフィリピンはそうではない。
そこだけが違う。
敗戦国であることは恥ずかしいことではない。
歴史上無数の敗戦国が存在したし、帝国の属領になった土地も無数に存在する。そのすべての敗戦国や属領がそれだけの理由で国民的矜恃を失ったわけではない。多くはその後も絶えず叛乱と独立の機会をうかがい、しばしばそれに成功した。
敗戦国民の基本的なマインドセットは「臥薪嘗胆・捲土重来」である。
「次は勝つぞ」なのである。
それがいかに現実的に困難なことであっても、気概としては「次は勝つぞ」でなければならない。
その上で、「宿敵」アメリカとの歴史的和解を「主体的に、決然と、選択する」というのがことの筋目なのである。
そのような筋目を通していれば、基地問題は国民感情としては「ねじれ」ない。
それはアメリカの一方的な領土占拠であり、日本人は一丸となってこの全面撤去を求めるのが筋だからである。
それに対してアメリカが「自国の」安全保障上どうしても日本列島に基地が必要だと懇請するのであれば、日本政府がネゴシエーションのテーブルにつくのは外交オプションのうちである。
そして、こう訊くのである。
「いったい、どうしてアメリカは自国領土からこれほど離れたところに軍事基地をおかなければ安全保障が成り立たないようなリスクの高い制度設計をしているのか?あなたがたはいったい西太平洋で何をしたいのか?」
この問いに十分説得力のある回答が示されれば、私は一有権者として米軍基地が日本列島に置かれるというオプションを支持してもいい。いや、ほんとに。
基地問題を論じるときの最初の問いとなるべきこの問いを私たちは自ら封じている。
なぜ私たちはこう問うことができないのか。
まずはそこからだ。

2010.11.30

毎日新聞心のページ

今日の毎日新聞心のページにレヴィナスについてのインタビューが載りました。
毎日新聞お読みでないかたのために、転載しておきます。

-レヴィナスとの出会いを。
三十数年前に修士論文を書いている時、参考文献として読み始めました。でも、何が言いたいのか、当時の私の知的な枠組みではまったく理解できなかった。でも、私が成長するために学ばなければならないたいせつなことを述べていることは直感的にわかった。レヴィナスが理解できるような人間になる、それがそれから後の私の目標になりました。
-レヴィナスから見たユダヤ教とは。
第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか。若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出てきました。その時、レヴィナスは不思議な護教論を説いたのです。
「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できるもの』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるというかたちをとるはずである。」
成熟した人間とは、神の不在に耐えてなお信仰を保ちうるもののことであるというレヴィナスの人間観は私には前代未聞のものでした。
-人間性を信じていたのですか。
人間の潜在可能性を、ですね。ユダヤ人のエートス(特性)として、「これで終わり」ということがない。どのような苦境も行き止まりも、あらゆる手立てを尽くして踏み破ってゆくという態度が集団的に勧奨されている。彼らがさまざまな分野でイノベーション(革新)を成し遂げているのはこの民族的エートスがもたらしたものだと思います。「神の不在」を「神の存在証明」に読み替えるレヴィナスの護教論もその一つです。原因と結果を置き換える、問題の次数をひとつ繰り上げる、それが思考の基本であり、信仰の基本でもある。
-思考と信仰、神と現実が極めて深い関係にあるようですね。
神戸女学院大の学院標語は聖書からとった「愛神愛隣」という聖句です。レヴィナスによれば、真の信仰とは、神の支援なしに地上に慈愛と正義の場を作ることです。だから「愛神」と「愛隣」は同じひとつのふるまいを意味することになる。信仰の実践とはまずおのれの隣人を愛することとして実現されなければならない。レヴィナスのいう倫理は、彼自身のホロコースト経験をふまえていますから、その言葉通り「飢えた人に食物を与え、裸の人に衣服を与え、よるべなき異邦人に宿を与えること」として解釈されなければいけないと思います。「自分の口にくわえたパンを取り出して隣人に与えよ」という教えはレヴィナスにとって比喩ではなくて、具体的行為として命じられたものなのです。
-どんな隣人でも愛するのですか。
対面的な状況では、隣人をそのまま愛することが可能です。でも、三人以上になると、そうはゆかない。私にとっての二人の隣人が確執し、一方が他方を迫害した場合には、理非を決し、いずれかに加担しなければいけない。それが社会正義というものです。けれども、正義の執行を要請するのは、もともとは不当に傷つけられたもの、奪われたものに対する慈愛の思いです。ですから、ひとたび正義の峻厳な裁きが下されたあと、私たちはまた「正義の名において罰を受けたもの」に慈愛をもって臨むことになります。正義と慈愛はそのようにして循環するのです。
-自分とは違う「他者」とのコミュニケーションは難しいのでは。
私なりのレヴィナスの解釈ですが、他者と向かい合う時の基本的な構えは、相手が言っていることに対して、つねに「そうだね」と頷き、受け入れることです。理解できないことでもまず受け入れる。自分自身の知のセッティングを変えて、それが理解できるところまで拡大してゆく。どのような理解しがたい言行にも必ず本人にしてみれば「主観的な合理性」があります。その人の選んだ論拠や、たどった推論を追体験すれば、その人がなぜそのようなことを思うに至ったのか、その筋道がわかる。そこからしかコミュニケーションは始まりません。まず他者の思考や感情に敬意を示すところから始めて、「おっしゃることはいちいちもっともだが・・・」と交渉も始められるわけです。他者との対話はまず「聴く」というところからしか始まらない。それがレヴィナスの教えていることだと私は思います。

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