エクリチュールについて

2010-11-05 vendredi

クリエイティブ・ライティングは考えてみると、私が大学の講壇で語る最後の講義科目である。
80人ほどが、私語もなく、しんと聴いてくれている。
書くとはどういうことか。語るとはどういうことか。総じて、他者と言葉をかわすというのは、どういうことかという根源的な問題を考察する。
授業というよりは、私ひとりがその場であれこれと思いつくまま語っていることを、学生たちが聴いているという感じである。
「落語が始まる前の、柳家小三治の長マクラ」が90分続く感じ・・・と言えば、お分かりになるだろうか。
昨日のクリエイティヴ・ライティングは「エクリチュール」について論じた。
ご存じのように、エクリチュールというのはロラン・バルトが提出した概念である。
バルトは人間の言語活動を三つの層にわけて考察した。
第一の層がラング(langue)
これは国語あるいは母語のことである。
私たちはある言語集団の中に生まれおち、そこで言語というものを学ぶ。ここに選択の余地はない。私は日本に生まれたので、日本語話者として言語活動を開始する。
「国際共通性とか考えると英語のほうが有利だから、英語圏に生まれたい」というようなことを言うことはできない。
第二の層が「スティル」(style)。
これは言語運用における「パーソナルな偏り」のことである。
文の長さ、リズム、音韻、文字の画像的印象、改行、頁の余白、漢字の使い方などなど、言語活動が身体を媒介とするものである以上、そこには生理的・心理的な個人的偏差が生じることは避けがたい。
ある音韻や忌避し、ある文字を選好し、あるリズムを心地よく感じる・・・といった反応はほとんど生得的なものであり、決断によってこれを操作することはできない。
例えば、私は中学生の頃、とつぜん「た」行で始まる単語を言おうとすると吃音になるという時期があった。
「たかだのばば」と言おうとすると単語が出てこないのである。
駅の窓口で「う・・・」とうめいたきり立ち尽くすということが何度もあった(当時は自動販売機がなく、窓口で行く先を告げて切符を購入したのである・・・というようなことを説明しないといけない時代が来ようとは)。
しかたがなく、高田馬場へ行くときは「目白」とか「池袋」といって切符を購入した。
このような言語活動上の「偏り」は主体的決断でどうこうできるものではない。
それが「スティル」である。
『若草物語』のジョー(Jo)は「ジョゼフィーン(Josephine)」という名前が大嫌いであった。『赤毛のアン』は「私はAn じゃなくて、Anneよ」としばしば主張していた。
音韻について、あるいは表記についての、個人的好悪は誰にもある。
それについて「正しい」とか「間違っている」とかいう判断は誰にもできない。
「あ、そう」という他ない。
それが「スティル」。
それに対して第三の層として「エクリチュール」というものが存在する。
これは「社会的に規定された言葉の使い方」である。
ある社会的立場にある人間は、それに相応しい言葉の使い方をしなければならない。
発声法も語彙もイントネーションもピッチも音量も制式化される。
さらに言語運用に準じて、表情、感情表現、服装、髪型、身のこなし、生活習慣、さらには政治イデオロギー、信教、死生観、宇宙観にいたるまでが影響される。
中学生2年生が「やんきいのエクリチュール」を選択した場合、彼は語彙や発声法のみならず、表情も、服装も、社会観もそっくり「パッケージ」で「やんきい」的に入れ替えることを求められる。
「やんきい」だけれど、日曜日には教会に通っているとか、「やんきい」だけれど、マルクス主義者であるとか、「やんきい」だけれど白川静を愛読しているとかいうことはない。
そのような選択は個人の恣意によって決することはできないからである。
エクリチュールと生き方は「セット」になっているからである。
バルトが言うように、私たちは「どのエクリチュールを選択するか」という最初の選択においては自由である。けれども、一度エクリチュールを選択したら、もう自由はない。
私たちは「自分が選択したエクリチュール」の虜囚となるのである。
つまり、私たちの自由に委ねられているのは「どの監獄に入るか」の選択だけなのである。
私たちの前には「ちょい悪おやじのエクリチュール」「小役人のエクリチュール」「お笑い芸人のエクリチュール」「キャッチセールスのエクリチュール」などなど無数の選択肢が広がっているけれど、一度選んだら「終わり」なのである。
なぜ、そのような制式化された社会的言語が存在するのか。
これについては、バルトはとくに踏み込んだ分析をしていない。
そういうものがあって、現に活発に機能していることを指摘するだけで批評的価値は十分だと思ったのだろう。
しかし、社会的言語運用がきびしく制式化されており、自分が所属する社会集団に許されたエクリチュール以外の使用が禁止されているのは階層社会の際立った特徴である。
バルトはそのことを指摘していない。
指摘しているのかも知れないけれど、『エクリチュールの零度』のような書物を読むのは、フランスの知的階層に限定されており、書いているバルト自身、自分の本の内容を理解できる読者をせいぜい「5000人くらい」と値踏みして、この本を執筆したはずである(ミシェル・フーコーは2000人程度の読者を想定して『言葉と物』を書いたとはっきり言っている)。
このことが逆照明しているのは、「クリチュールの構造について理解できる程度の社会的階層に位置する人間だけが、エクリチュールの檻から脱出するチャンスがあるということである。
バルトの本が理解できない社会階層の人々(正確には「バルトの本が理解できること」の有用性を認める人が周りにいない社会階層の人々)はそもそも自分たちがエクリチュールの檻の虜囚であるというような自己認識に至ることができない。
それゆえ、「言語運用は階層社会を再生産するためのもっとも効率的な装置である」という知見そのものが階層上位にのみ限定的にアナウンスされ、階層社会で下位に位置づけられている人々は、そのような鳥瞰的な視座から言語について考察する機会から事実上隔離されているのである。
バルトは「そのこと」を言っていない。
「ぼくの話って、ちょっとむずかしすぎますか?」というメタメッセージをバルトは発信してくれない(ひとことそう言ってくれさえすれば、読む方はずいぶんほっとしたんだけれど)。
私はバルトというひとをたいへん高く評価しているけれど、その点についてはちょっとだけ不満である。
ロラン・バルトがほんとうに階層社会のラディカルな改革を望んでいたとしたら、彼は『エクリチュールの零度』を書くときに、あのような高踏的なエクリチュールを採用しなかったはずだからである。
バルトの言語についての知見は、できるだけ多くの読者にリーダブルなかたちで示されるべきものであった。
彼はそうしなかった。
というところまで書いたら、始業のチャイムが鳴ってしまったので、続きはまた明日(に書けなければ、『街場の文体論』をお買い求めください。いつ出るかわかんないけど)。