毎日新聞心のページ

2010-11-30 mardi

今日の毎日新聞心のページにレヴィナスについてのインタビューが載りました。
毎日新聞お読みでないかたのために、転載しておきます。

-レヴィナスとの出会いを。
三十数年前に修士論文を書いている時、参考文献として読み始めました。でも、何が言いたいのか、当時の私の知的な枠組みではまったく理解できなかった。でも、私が成長するために学ばなければならないたいせつなことを述べていることは直感的にわかった。レヴィナスが理解できるような人間になる、それがそれから後の私の目標になりました。
-レヴィナスから見たユダヤ教とは。
第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか。若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出てきました。その時、レヴィナスは不思議な護教論を説いたのです。
「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できるもの』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるというかたちをとるはずである。」
成熟した人間とは、神の不在に耐えてなお信仰を保ちうるもののことであるというレヴィナスの人間観は私には前代未聞のものでした。
-人間性を信じていたのですか。
人間の潜在可能性を、ですね。ユダヤ人のエートス(特性)として、「これで終わり」ということがない。どのような苦境も行き止まりも、あらゆる手立てを尽くして踏み破ってゆくという態度が集団的に勧奨されている。彼らがさまざまな分野でイノベーション(革新)を成し遂げているのはこの民族的エートスがもたらしたものだと思います。「神の不在」を「神の存在証明」に読み替えるレヴィナスの護教論もその一つです。原因と結果を置き換える、問題の次数をひとつ繰り上げる、それが思考の基本であり、信仰の基本でもある。
-思考と信仰、神と現実が極めて深い関係にあるようですね。
神戸女学院大の学院標語は聖書からとった「愛神愛隣」という聖句です。レヴィナスによれば、真の信仰とは、神の支援なしに地上に慈愛と正義の場を作ることです。だから「愛神」と「愛隣」は同じひとつのふるまいを意味することになる。信仰の実践とはまずおのれの隣人を愛することとして実現されなければならない。レヴィナスのいう倫理は、彼自身のホロコースト経験をふまえていますから、その言葉通り「飢えた人に食物を与え、裸の人に衣服を与え、よるべなき異邦人に宿を与えること」として解釈されなければいけないと思います。「自分の口にくわえたパンを取り出して隣人に与えよ」という教えはレヴィナスにとって比喩ではなくて、具体的行為として命じられたものなのです。
-どんな隣人でも愛するのですか。
対面的な状況では、隣人をそのまま愛することが可能です。でも、三人以上になると、そうはゆかない。私にとっての二人の隣人が確執し、一方が他方を迫害した場合には、理非を決し、いずれかに加担しなければいけない。それが社会正義というものです。けれども、正義の執行を要請するのは、もともとは不当に傷つけられたもの、奪われたものに対する慈愛の思いです。ですから、ひとたび正義の峻厳な裁きが下されたあと、私たちはまた「正義の名において罰を受けたもの」に慈愛をもって臨むことになります。正義と慈愛はそのようにして循環するのです。
-自分とは違う「他者」とのコミュニケーションは難しいのでは。
私なりのレヴィナスの解釈ですが、他者と向かい合う時の基本的な構えは、相手が言っていることに対して、つねに「そうだね」と頷き、受け入れることです。理解できないことでもまず受け入れる。自分自身の知のセッティングを変えて、それが理解できるところまで拡大してゆく。どのような理解しがたい言行にも必ず本人にしてみれば「主観的な合理性」があります。その人の選んだ論拠や、たどった推論を追体験すれば、その人がなぜそのようなことを思うに至ったのか、その筋道がわかる。そこからしかコミュニケーションは始まりません。まず他者の思考や感情に敬意を示すところから始めて、「おっしゃることはいちいちもっともだが・・・」と交渉も始められるわけです。他者との対話はまず「聴く」というところからしか始まらない。それがレヴィナスの教えていることだと私は思います。