無垢の言語とは

2010-12-03 vendredi

クリエイティヴ・ライティングでバルトの「ランガージュ論」についてお話しする。
この授業、ほんとうは少人数で、毎回課題を出して書いてもらい、それをみんなで分析するというインタラクティブなかたちで進めたかったのだが、履修希望者が多すぎて、90人に受講者を絞って講義形式でやっている。
90人分の書きものを読んで、それぞれに適切に書き方の指導することは、いまの私にはできない(高橋源一郎さんならできるかもしれないけど)。
でも、講義形式では講義ならではの緊張感がある。
それは「つまらない話をすると学生さんたちは寝ちゃう」ということである。
どういうトピック、どういう語り口のときに学生たちはばたばたと机につっぷし、何を話しているときに眼がきらりと光って(ほんとに光るのである)一斉にペンを動かしてノートを取り始めるか、それを教壇で私は身体的に確認することができる。
彼女たちは「いま生成した言葉」に鋭く反応する。
できあいのストックフレーズが続くと、どれほどロジカルに整合的であっても、どれほど内容的に面白い話であっても、微妙な「眠気」をもたらす。
「いま生成した言葉」はどれほどつっかえながらでも、同じところをぐるぐる回っていても、前言撤回や言いよどみを含んでいても、彼女たちを目覚めさせる。
それはよくわかる。
でも、こちらも生身の人間であり、90分間「いま生成した言葉」だけを語り続けるわけにはゆかない。
しかし、このクリエイティヴ・ライティングではまさに「生成しつつある言葉」を語ることはどうすれば可能かという古典的主題をめぐって半期の講義を展開しているわけである。
逆から言えば、「なぜ私たちは生成しつつある言葉(バルトのいう「無垢のエクリチュール」「白いエクリチュール」「中立的エクリチュール」)を語ることができないのか?」という問いをつねに前景化することを義務づけられているということである。
どうして私の言葉で諸君は眠ってしまうのか?
これが優先的な論件になる。
ふつうの場合なら「寝ちゃだめだよお」と講義を止めても泣訴せねばならないのであるが、今回に限っては、私が語っている当のこのときに諸君が眠っているという事態そのものを学的課題として受け止めることが教壇にいる私には課せられているわけである。
なんで君たちは寝ちゃうのか。
という話をすると、不思議なもので、みんな「きらり」と眼を光らせてペンを取り出すのである。
つまり、こういうことではないか。
イノベーティヴな言語というものを私たちは(というかシュールレアリストも未来派もダダイストも)「生まれたままの言語」の「鮮度」という度量衡で考量しようとしてきた。
だが、考えてみればわかることだが、「ずっと新しい言葉」などというものは存在しない。
だって、「あ、それ『新しい言葉』だね、かっこいいね。オレもさっそく使おう」というなリアクションがありうるということは、その「新しい言葉」の語義は聴いた瞬間にすでに聴き手によって熟知されているということだからである。
言葉が「新しい」のは一瞬に過ぎない。
はかないものである。
絶えず陳腐化してゆく言葉を強迫的に生み出し続けることが「クリエイティブ」な言語活動だと私にはどうも思われないのである。
だって、退屈じゃないですか。
「退屈なクリエイティヴィティ」というのは、どう考えても形容矛盾である。
ということは、真に「クリエイティヴ」な言語活動は別に「新しい言葉」を語ることではない、ということになる。
では、どんな言葉を語ることがクリエイティヴなのか。
以下、思弁は暴走するが、言語活動におけるクリエイティヴィティとは、ありえない(あってもはかない)「言語の鮮度」を虚しく求めるものではなく、自分がいま現に語りつつある言語の「鮮度のなさ」、その定型性、その被制性についての「病識」のことではないかと私は思うのである。
自分がいま用いている言葉がつねに「言い過ぎる」か「言い足りないか」のどちらかであって、「言いたいこと」に決して十全的に対応しないという不充足感。
「そんなこと言う気のなかったこと」を制度的な言語運用をしているうちに「言わされてしまっている」という被制感覚。
自分が言語活動を通じて、「想定読者層を排他的に限定した『内輪のジャルゴン』」を作り出そうとしているのではないかという罪の意識。
そのような、私たちの言語を幾重にも取り囲んでいるもろもろの「躓き」についての自覚のことを「創造性」と呼んでよろしいのではないか、と私は思うのである。
「無垢なエクリチュール」は自体的には存在しない。
けれども、「私が今依拠しているエクリチュールは無垢ではない」という宣告は機能的には無垢である。
前回のクリライでは「宣言」という言語の無垢性について語った。
『シュールレアリスム宣言』も『ダダ宣言』も『未来派宣言』も『共産党宣言』も『人権宣言』も『独立宣言』も、「宣言」というかたちをとるときには機能的には無垢である。
けれども、「以上、ということで宣言は述べ終わりましたので、以後は党派的活動に入ります」ということになると、とたんにつまらないものになる。
「宣言は鮮度が高い」ということではない。
そうではなくて、宣言というのは、その定義上、「ここで述べられているようなことを全然予期していない読者たちにもわかるように」書かれているからである(『ダダ宣言』はちょっとあれですけど)。
「私の言うことはたぶんうまく理解されないだろう。だが、みなさまにはぜひ私の言葉を理解していただかないと話が始まらない」という「読者を作り出す」ための切羽詰まった志向がこれらの宣言を貫いている。
宣言の無垢性を基礎づけているのは「まだ存在しない読者をめざす自己超越の緊張」である。
それは外形的には「内輪のジャルゴン」を作り出す営みと酷似している。
酷似しているけれど、志向が違う。
「ジャルゴン」はその言語で送受信できる「身内」を限定し、そこに文化資本(できれば権力や財貨や威信も)排他的に蓄積することをめざしている。
「宣言」はその言語でコミュニケートできる「身内」をかなう限り拡大し、文化資本(はじめもろもろの社会的リソース)をできるだけ広い範囲で共有し、シェアすることをめざしている。
どちらも、「それまで聴いたことがないような言葉でいきなり語り始める」という点では似ている。
でも、めざす方向が逆なのである。
バルトはこう書いている。
 「私たちは誰しもが、自分の使っている語法(langage)の真理のうちに、すなわちその地域性のうちに、からめとられている。私の語法と隣人の語法の間には激烈な競合関係があり、そこに私たちは引きずり込まれている。というのも、すべての語法(すべてのフィクション)は覇権を争う闘争だからである。だから、ひとたびある語法が覇権を手に入れると、それは社会生活の全域に広がり、無徴候的な《偏見》(doxa) となる。政治家や官僚が語る非政治的なコトバ、新聞やテレビやラジオがしゃべることば、日常のおしゃべりことば、それが覇権をにぎった語法なのだ。」(Roland Barthes, Le Plaisir du texte, in Œuvres complètes Tome II, Édition du Seuil, 1994, p.1508)
私は大学院生のころにはじめてこのテクストを読んで「なるほど」と思った。
そして赤鉛筆でぐいぐいアンダーラインを引きながら、ランガージュの「地域性」にからめとられないようにしないとね・・・と自戒したのである。
そのときにはバルトのこのテクストがいったいどれほどの読者を想定して書かれているものかについては考えなかった。
それからさまざまなフランスの思想家が書いたものを読んだ。
感想は「むずかしい」である。
どうしてこんなに「むずかしい」のか。
理由は簡単で、書き手と同じような社会階層に生まれ、同じような教育を受け、同じような書物を読み、同じような音楽を聴き、同じような映画を
観て、同じようなレストランで飯を食い、同じようなホテルでバカンスを過ごす「ような読者」を想定して書いているからである。
「セレクトのテラスでサルトルがすべった」とか「ガリマールの選書委員会でジャン・ポーランが転んだ」とか「ミシェル・レリスの夜会でシルヴィア・バタイユがゲロを吐いた」とか「エベルト座でジェラール・フィリップがくしゃみをした」というような話をしたときに、それがどのような歴史的文脈の「事件」であるかが「ほうほう」と「わかる」人たちを読者に想定して書かれているからである。
その「コノタシオン」がわからない人には意味がぜんぜんわからない。
そのようにして、排他的な読者層が形成されている。
その読者層はそのまま権力的な社会階層と同期している。
私たち仏文学者が必死になってその「読者層」にまぎれこもうとしたのは、それが階層上位への社会的向上の隘路だと信じたからである。
「この人たちの話」がわかるようになると、日本のアカデミアでも高いポジションに這い上がれる。
そう思ったので、ぐいぐい勉強したのである。
でも、この院生の直感はある意味で正しいのである。
思想書がむずかしく書かれているのは、「それが読める人間と読めない人間」を差別化し、「読める人間」に文化資本を傾斜配分するという社会的要請が現に活発に機能しているからである。
問題は「難しい本」を書いている思想家たちが、そのことを自覚しているかどうか、ということである。
前に「リーダビリティについて」で書いたことだが、文化資本の排他的蓄積のメカニズムについて怜悧な分析を行ったピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』はすでに文化資本の排他的蓄積の恩恵をこうむっている社会階層の読者にしかリーダブルではないような文体で書かれていた。
それは『ディスタンクシオン』という書物それ自体が階層社会の階層化を文化的にはさらに強化するかもしれないというリスクを含んでいるということである。
ブルデューはそのことにどれほど自覚的であったのか。
私にはそれがよくわからない。
「リーダビリティ」ということは、私の知る限り、フランスの思想家たちのあいだで喫緊な課題としては論じられたことがない。
「リーダブルな書き手でありたい」という願望を表明したフランス知識人のあることを私は知らない。
「それはウチダ君が無学なだけであって、こういう人もああいう人もリーダビリティについては語っているぞ」と教えてくれる人がいるかもしれないが、「学問がないと、『学問がある人間にしか届かない情報がある』という情報が耳に届かない」という私の命題はそれによってさらに補強されるだけである。
そもそもリーダブルというのは英語のreadbleもフランス語lisible もよい意味ではない。
「わかりやすく、簡単に書かれている」ということで、書きものとしては「下等なもの」というニュアンスが貼り付いている。
「リーダブル」という形容詞がもっぱら貶下的にしか用いられない文化圏で「リーダビリティ」が優先的課題になることはありえない。
では、どのような文化的環境において、リーダビリティは知的・学的課題となりうるのか・・・と講義は進んだのであるが、もうすぐ授業が始まるので、今日はここまで。
この話はいずれ『街場の文体論』でじっくり展開しますので、お楽しみに。