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2013年05月 アーカイブ

2013.05.04

憲法記念日インタビュー

5月3日に東京新聞の憲法記念日インタビューが掲載された。
お読みでない方のために、ここに転載しておく。
「いつもの話」である。
「それはもうわかった」と言われても、しつこく言い続けるのが身上ということで、ひとつ。

―96条の意義をどう考えますか。
「変えるな」という意味だと思います。憲法は国のあるべき形を定めたもの。硬性であるのが筋です。政権が変わるたびに国のあるべき形がころころ変わっては困る。憲法改正している他の国も立国の理念まで変えているわけではありません。

改憲論者は、そもそも憲法が硬性であることがよくないという前提に立ちます。国際情勢や市場の変動に伴って国の形も敏速に変わるべきだと思っているから、そういう発言が出てくる。
これはグローバリスト特有の考え方です。
ビジネスだけでなく政治過程も行政組織も、あらゆる社会制度はそのつどの市場の変動に応じて最適化すべきだと彼らは信じています。そして、今の日本では、政治家も財界人も学者もメディアもそれに同意している。

グローバリストたちにとって、市場への最適化を阻む最大の障害は「国民を守る」ために設計された諸制度です。医療、教育、福祉、司法、そういったものは市場の変化に対応しません。だから、邪魔で仕方ない。その惰性的な諸制度を代表するのが憲法なのです。

国民を守る制度はどれも「急激に変化しない」ように設計されています。これがなんとも邪魔である。ですから、できることなら、これまで国家が担ってきた「国民を守る」事業はすべて市場に丸投げしたい。
「自助」というのは、自分を守るために必要なサービスはこれからは「商品」として「市場」で買わなければならないということです。もちろん、経済活動はその分だけ活性化する。
安倍自民党も野田民主党もグローバリスト政権という点では選ぶところがありません。たぶん無意識にでしょうけれど、彼らが目指しているのは「国民国家の解体」なのです。

―それには、まず96条改正が手っ取り早いと。
国民国家の最優先課題は市場への最適化ではなく、現状維持です。市場のような変動きわまりない危ないものと一蓮托生するわけにはゆかない。国境線を維持すること、通貨を安定させること、国民の民生を守ること、それが国民国家の仕事です。それが果たせれば上出来。国民国家は「成長」とか「変化」という概念とは本質的になじまないのです。

―グローバリズムと「愛国心」などの右寄り思想は、相容れない気もしますが。
グローバリストはナショナリズムを実に巧妙に利用しています。彼らがよく使うのは「どうすれば日本は勝てるか?」という問いですが、これは具体的には「どうすれば日本の企業が世界市場のトップシェアを取れるか?」ということを意味しています。
国際競争力のある日本企業が勝ち残れるために、国民はどれほど自分の資源を供出できるか、どこまで犠牲を払う覚悟があるか、それを問い詰めてくる。
でも、ここにトリックがあります。ここで言われる「日本企業」は実は本質的に無国籍だということです。

大飯原発の再稼働が良い例でした。原発が動かなければ製造コストが上がる、だから、生産拠点を海外に移すしかない。そうなれば雇用は失われ、地域経済は沈滞し、法人税収入は途切れることになるが、それでもいいのかという企業の恫喝にあのときは政府が屈しました。企業の製造コストの削減のために、原発事故のリスクという国民の健康を犠牲に差し出したのです。
これが「ナショナリズムの使い方」です。
「それでは日本が勝てない」という言い分で、国民的資源を私企業の収益に付け替えているのです。でも、製造コストが上がるという理由だけで日本を出て行くと公言する企業を「日本企業」と呼ぶことに僕は同意できません。

外国の機関投資家が株主で、経営者も従業員も外国人で、海外に工場があり、よその政府に納税している無国籍企業があえて「日本企業」と名乗る理由は何でしょう?
それは、そうすれば勘違いして、「日本のために」と自己犠牲を惜しまない国民が出てくるからです。
中国や韓国の企業との競争で「日本企業」を勝たせるためなら、原発再稼働も受け容れる、消費増税も受け容れる、TPPによる農林水産業の壊滅も受け容れる、最低賃金制度の廃止も受け容れる・・・この「可憐」なナショナリズムほどグローバル企業にとって好都合なものはありません。
実際には、これらの「日本企業」は日本に雇用を生み出してもいないし、地元に収益を「トリクルダウン」してもいないし、国庫に法人税を納めてもいない。でも、そんな無国籍企業でも「日本企業」を名乗ると、惜しみなく国富が投じられる。国富の私企業への移し替えを正当化するためにナショナリズムが活用されているのです。

―占領下の米国による「押しつけ憲法」であることも改憲論の根拠になっています。
それならまず憲法を「押しつけた」ことについての歴史的謝罪を米政府に求めるのが筋でしょう。そうしないと話の筋目が通らない。
米国からすれば日本国憲法は一種の贈り物です。独立宣言以来の民主主義の理念を純化させ、当時の世界の憲法学の知見を結集して作った「100点答案」です。これを「出来が悪いから変える」というのであれば、日本国民のみならず、まずは「押しつけた」米国に対して、そして国際社会に対して、日本国憲法のどこが不備であるのかを説明する責任があるでしょう。
自民党の改憲草案は、近代市民革命の経験を通じて先人の労苦の結晶として獲得された民主主義の基本理念を否定する時代錯誤的な改変です。これについても、なぜ歴史の流れに逆らってまで憲法をあえて「退化」させるのかを国際社会に対して弁ずる義務がある。
日本のあるべき国のかたちを変えるわけですから、「これからはこう変わります」と宣言するのは国際社会のメンバーとして当然の義務でしょう。
でも、改憲派の人で国連総会でもどこでも「この改憲によって日本の憲法は人類史的に新たな一歩を画した。諸国も日本を範として欲しい」と胸を張って言うだけの勇気のある人がいるのでしょうか?
それに、中国も韓国もロシアも台湾も、隣国はどこも九条二項の廃止に強い警戒心を抱くでしょう。改憲が政治日程に上れば、当然ながら強い抗議がなされるはずです。九条二項を廃止するということは、戦争をするフリーハンドを手に入れるということですから、隣国にとってはきわめて不安な改変です。当然、反日デモにとどまらず、日本製品の不買運動、経済的文化的交流の停止、場合によっては大使引き揚げというような本格的な危機にまで立ち至るリスクがある。そういう隣国からの疑念や反発を抑えるために、どれだけの説得材料を日本政府は用意しているのか。それとも「そんな内政干渉には応じない」ということなのでしょうか。
改憲のせいで東アジアに緊張が高まれば、いずれ米国が調停に出て来ざるを得ません。
でも、米国にしてみたら日本が「米国の押しつけ憲法を変える」ということから起きた国際紛争で汗をかく義理なんかない。九条を弾力的に解釈して、これまで通り米軍の後方支援や軍費負担をしてくれるなら、現状のままでも米軍は別に困らない。
そう算盤を弾けば、米国がどたん場になって「余計なごたごたを起こすな」といって改憲にクレームをつけてくる可能性は高い。
すると「米国に押しつけられた憲法を改正しようとたら、米国に『止めろ』と言われたので止めました」というまことにみっともない話になる。
そうやって満天下に恥をさらすことで、日本の国益がどう増大することになるのか。グローバリストに最も欠けているのは、そういう国際的な見通しです。

―参院選で、96条を正面から考える必要がありそうです。
今度の選挙では国の形そのものが問われます。国民国家を解体して市場に委ねるのか、効率は悪くても生身の人間の尺度に合わせたシステムを維持するのか、それを選ぶことになる。憲法についての議論が深まり、国家のあるべき形とは何なのかを国民が真剣に考えるようになるなら、改憲が争点であることは少しも悪いことではありません。
それに、そうなれば、結論は常識的なところに落ち着くと思います。
あまりに難しい選択なので、そんなに急かさないで、ちょっと待って欲しい、と。国の形をじっくり考えるためにも「とりあえず護憲」を国民は選択するだろうと僕は思っています。

2013.05.08

改憲案の「新しさ」

ある媒体に長い改憲論を寄稿した。
一般の目に触れることのあまりなさそうな媒体なので、ここに採録しておく。

改憲案の「新しさ」

改憲が政治日程に上ってきている。7月の参院選で自民党が大勝すれば、今秋以降には国内での合意形成めざした議論が始まるだろう。自民党や改憲勢力がいったいこの改定を通じて「何を」実現しようとしているのか、それをこの機会に確認しておきたいと思う。

自民党の改憲草案については、さまざまな批判がすでになされている。個別的な条文ひとつひとつについての適否は専門家による議論に委ねて、私としてはこの改憲案に伏流している「新しいものの見方」についてだけ考えてみたいと思う。護憲派の論客の多くは、改憲案の「復古調」に違和感や嫌悪を覚えているようだが、私はむしろこの改憲案は「新しい」という印象を受けた。その「新しさ」とは何かについて書きたい。

まず、今日本のみならずグローバルなスケールで起きている地殻変動的な「潮目の変化」について抑えておきたい。大づかみに言えば、私たちが立ち合っている変動は、グローバル資本主義という「新しい」経済システムと国民国家という「古い」政治システムが利益相反をきたし、国民国家の統治システムそのものがグローバル資本主義の補完装置に頽落しつつあるプロセスのことである。その流れの中で、「よりグローバル資本主義に親和的な政治勢力」が財界、官僚、マスメディアに好感され、政治的実力を増大させている。自民党の改憲草案はこの時流に適応すべく起草されたものである。それは言い換えると、この改憲案には国民国家解体のシナリオが(おそらく起草した人間にも気づかれぬまま)書き込まれているということである。

国民国家という統治システムは政治史的には1648年のウェストファリア条約を起点とする近代の装置である。国境があり、官僚制度があり、常備軍があり、そこに国籍と帰属意識を持つ「国民」というものがいる。生誕の日付をもつ制度である以上、いずれ賞味期限が切れる。だが、国民国家は擬制的には「無窮」である。現に、あらゆる国民国家は自国の「年齢」を多めに詐称する傾向がある。日本では戦前まで神武天皇の即位を西暦紀元前660年に遡らせていた。朝鮮の檀君王倹が王朝を開いたのは紀元前2333年とされる。自国の発祥をできる限り遠い過去に求めるのは国民国家に共通する傾向である。
その構えは未来についても変わらない。国民国家はできれば不死のものでありたいと願っている。中央銀行の発行する紙幣はその国がなくなった日にはゴミになる。翌日ゴミになることがわかっているものを商品と交換する人はいない。だから、国がなくなる前日において貨幣は無価値である。残り日数を十日、二十日と延ばしてみても事情は変わらない。だから、国民国家の財政は「いずれ寿命が来る」という事実を隠蔽することによって成立している。

これに対して企業は自己の寿命についてそれほど幻想的ではない。
統計が教えるところでは、株式会社の平均寿命は日本で7年、アメリカで5年である(この数字は今後にさらに短縮されるだろう)。
グーグルにしても、アップルにしても、マイクロソフトにしても、それらの企業が今から10年後にまだ存在しているかどうか、確かな見通しを語れる人はいない。けれども、そんなことは企業経営者や株主にとっては「どうでもいいこと」である。企業が永続的な組織であるかどうかということは投資家にとっては副次的なことに過ぎない。
「短期的な利益を追い求めたことで長期的には国益を損なうリスクのあること」に私たちはふつう手を出さないが、この場合の「長期的・短期的」という判定を実は私たちは自分の生物としての寿命を基準に下している。私たちは「国益」を考えるときには、せめて孫の代まで、三世代百年は視野に収めてそれを衡量している。「国家百年の計」という言葉はその消息をよく伝えている。だが、寿命5年の株式会社にとっては「5年の計」が最大限度であり、それ以上先の「長期的利益」は損益計算の対象外である。

工場が排出する有害物質が長期的には環境に致命的な影響を与えると聞いても、その工場の稼働によって短期的に大きな収益が上げることが見通せるなら企業は環境汚染をためらわない。それは企業にとっては全く合理的なふるまいなのである。そして、これを倫理的に断罪することは私たちにはできないのである。なぜなら、私たちもまた「こんなことを続けると1000年後には環境に破滅的な影響が出る」と言われても、そんな先のことは気にしないからである。グローバル資本主義は「寿命が5年の生物」としてことの適否を判定する。国民国家は「寿命100年以上の生物」を基準にして判定する。それだけの違いである。

寿命を異にするだけではない。企業と国家のふるまいは、機動性の違いとして端的に現れる。
グローバル企業はボーダーレスな活動体であり、自己利益を最大化するチャンスを求めて、いつでも、どこへでも移動する。得物を追い求める肉食獣のように、営巣地を変え、狩り場を変える。一方、国民国家は宿命的に土地に縛り付けられ、国民を背負い込んでいる。国家制度は「その場所から移動することができないもの」たちをデフォルトとして、彼らを養い、支え、護るために設計されている。
ボーダーレスに移動を繰り返す機動性の高い個体にとって、国境を越えるごとに度量衡が言語が変わり、通貨が変わり、度量衡が変わり、法律が変わる国民国家の存在はきわめて不快なバリアーでしかない。できることなら、国境を廃し、言語を統一し、度量衡を統一し、通貨を統合し、法律を統一し、全世界を商品と資本と人と情報が超高速で行き交うフラットな市場に変えたい。彼らはつよくそう望んでいる。
このような状況下で、機動性の有無は単なる生活習慣や属性の差にとどまらず、ほとんど生物種として違うものを作り出しつつある。
戦争が始まっても、自家用ジェットで逃げ出せる人間は生き延びるが、国境まで徒歩で歩かなければならない人間は殺される。中央銀行が破綻し、国債が暴落するときも、機動性の高い個体は海外の銀行に預けた外貨をおろし、海外に買い整えておいた家に住み、かねての知友と海外でビジネスを続けることができる。祖国滅亡さえ機動性の高い個体群にはさしたる金銭上の損害も心理的な喪失感ももたらさない。
そして、今、どの国でも支配層は「機動性の高い個体群」によって占められている。だから、この利益相反は前景化してこない。奇妙な話だが、「国が滅びても困らない人間たち」が国政の舵を任されているのである。いわば「操船に失敗したせいで船が沈むときにも自分だけは上空に手配しておいたヘリコプターで脱出できる船長」が船を操舵しているのに似ている。そういう手際のいい人間でなければ指導層に入り込めないようにプロモーション・システムそのものが作り込まれているのである。とりわけマスメディアは「機動性が高い」という能力に過剰なプラス価値を賦与する傾向にあるので、機動性の多寡が国家内部の深刻な対立要因になっているという事実そのものをメディアは決して主題化しない。
スタンドアロンで生き、機動性の高い「強い」個体群と、多くの「扶養家族」を抱え、先行きのことを心配しなければならない「弱い」個体群の分離と対立、それが私たちの眼前で進行中の歴史的状況である。

ここでようやく改憲の話になる。
現在の安倍自民党はかつての55年体制のときの自民党と(党名が同じだけで)もはや全くの別物である。かつての自民党は「国民国家内部的」な政党であり、手段の適否は措いて、日本列島から出られない同胞たちを「どうやって食べさせるか」という政策課題に愚直に取り組んでいた。池田内閣の高度経済成長政策を立案したエコノミスト下村治はかつて「国民経済」という言葉をこう定義してみせたことがある。

「本当の意味での国民経済とは何であろう。それは、日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない。そういう前提で生きている。中には外国に脱出する者があっても、それは例外的である。全員がこの四つの島で生涯を過ごす運命にある。
その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である。」(下村治、『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』、文春文庫、2009年、95頁)

いまの自民党議員たちの過半はこの国民経済定義にはもはや同意しないだろう。
「外国に脱出するもの」をもはや現政権は「例外的」とは考えていないからである。今日の「期待される人間像」であるところの「グローバル人材」とは、「日本列島以外のところで生涯を過ごす」ことも社命なら従うと誓言した代償に内定をもらった若者のことだからである。
もう今、「この四つの島から出られないほどに機動性の低い弱い日本人」を扶養したり、保護したりすることは「日本列島でないところでも生きていける強い日本人」にとってはもはや義務としては観念されていない。むしろ、「弱い日本人」は「強い日本人」がさらに自由かつ効率的に活動できるように持てるものを差し出すべきだとされる。国民資源は「強い日本人」に集中しなければならない。彼らが国際競争に勝ち残りさえすれば、そこからの「トリクルダウン」の余沢が「弱い日本人」にも多少は分配されるかも知れないのだから。

改憲案はこの「弱い日本人」についての「どうやって強者に奉仕するのか」を定めた命令である。
人権の尊重を求めず、資源分配に口出しせず、医療や教育の経費は自己負担し、社会福祉には頼らず、劣悪な雇用条件にも耐え、上位者の頥使に従い、一旦緩急あれば義勇公に報じることを厭わないような人間、それが「弱い日本人」の「強い日本人」に対する奉仕の構えである。これが安倍自民党が改憲を通じて日本国民に飲み込ませようとしている「新しいルール」である。
少数の上位者に権力・財貨・威信・情報・文化資本が排他的に蓄積される体制を「好ましい」とする発想そのものについて安倍自民党の考え方は旧来の国民国家の支配層のそれと選ぶところがない。だが、はっきり変わった点がある。それは「弱い同胞」を扶養・支援する「無駄なコスト」を最少化し、「すでに優位にあるもの」がより有利になるように社会的資源を傾斜配分することを確信犯的にめざしているということである。

自民党の改憲案を「復古」とみなす護憲派の人たちがいるが、それは違うと私は思う。この改憲案は「新しい」。それはTPPによる貿易障壁の廃絶、英語の準公用語化、解雇条件の緩和などの一連の安倍自民党の政策と平仄が合っている。
一言で言えば、改憲を「旗艦」とする自民党政策のねらいは社会の「機動化」(mobilization)である。国民の政治的統合とか、国富の増大とか、国民文化の洗練とかいう、聞き飽きた種類の惰性的な国家目標をもう掲げていない。改憲の目標は「強い日本人」たちのそのつどの要請に従って即時に自在に改変できるような「可塑的で流動的な国家システム」の構築である(変幻自在な国家システムについて「構築」という語はあまりに不適当だが)。
国家システムを「基礎づける」とか「うち固める」とかをめざした政治運動はこれまでも左右を問わず存在したが、国家システムを「機動化する」、「ゲル化する」、「不定形化する」ことによって、個別グローバル企業のそのつどの利益追求に迅速に対応できる「国づくり」(というよりはむしろ「国こわし」)をめざした政治運動はたぶん政治史上はじめて出現したものである。そして、安倍自民党の改憲案の起草者たちは、彼らが実は政治史上画期的な文言を書き連ねていたことに気づいていない。

予備的考察ばかりで紙数が尽きかけているが、改憲草案のうち、典型的に「国こわし」の志向が露出している箇所をいくつか示しておきたい。
一つは九条「平和主義」と九条二項「国防軍」である。
現行憲法の平和主義を放棄して、「したいときにいつでも戦争ができる国」に衣替えすることをめざしていることは改憲派の悲願であった。現行憲法下でも、自衛力の保持と個別的自衛権の発動は主権国家としては当然の権利であると国民の大多数は考えている。だが、改憲派は「それでは足りない」と言う。アメリカの指揮で、もっと頻繁に戦争に参加するチャンスに恵まれたいと考えているからである。
国民を危険にさらし、国富を蕩尽し、国際社会に有形無形の敵をつくり、高い確率で国内でのテロリズムを招き寄せるような政策が68年の平和と繁栄を基礎づけた平和憲法よりも「望ましい」と判断する根拠はなにか。
改憲派はそれを「国際社会から侮られてきた」屈辱の経験によって説明する。「戦争ができる国」になれば、このいわれなき侮りはかき消え、国際社会からは深い敬意が示されるだろうと予測しているようだが、これまで日本が軍事的コミットメントをためらうことを不満に思い、しばしば侮言を浴びせてきたのは「国際社会」ではなく、端的にアメリカである。ヨーロッパにもアジアにも、日本の戦争へのコミットメントが自由化することを歓迎する国はひとつとして存在しない。改憲派が仮想敵国とみなしている中国や北朝鮮はまさに平和憲法の「おかげで」軍事的反撃のリスクなしに日本を挑発できているわけで、九条二項はいわば彼らの「命綱」である。日本がそれを廃絶したときに彼らが日本に抱く不信と疑惑がどれほどのものか。改憲派はそれも含めて九条二項の廃絶が「諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」ことだと考えているようだが、私にはその理路がまったく理解できない。「アメリカとの友好関係を増進し、アメリカの平和と繁栄に貢献する」ことを日本の存在理由とするというのが改憲の趣旨であるというならよくわかるが。

もう一つは13条。現行憲法の13条はこういう文言である。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求権に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
自民党改憲案はこうだ。「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求権に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大に尊重されなければならない。」
自民党案は「公共の福祉」というわかりにくい語を「公益及び公の秩序」というわかりやすい語に置き換えた。
「公共の福祉」は基本的人権を制約することのできる唯一の法的根拠であるから、それが「何を」意味するのかは憲法学上の最大の問題であり、現にいまだ一意的な定義を得ていない。
「公共の福祉」の語源は古くキケロに遡る。「民の安寧は最高の法たるべし(salus populi suprema lex esto)」。
salus populiを英語はpublic welfareと訳し、日本語は「公共の福祉」と訳した。あらゆる法治国家において、すべての法律・制度・政策の適否はそれが「民の安寧」に資するかどうか、それを基準に判定されねばならない。これは統治について久しく万国において受け容れられてきた法理である。
だが、ラテン語salusは「健康、幸運、無事、安全、生存、救助、救済」など深く幅の広い含意を有している。「民の安寧」salus populi は「至高の法」であるが、それが要求するものはあまりに多い。それゆえ、自民党改憲案はこれを「公益及び公的秩序」に縮減した。「公益及び公的秩序」はたしかに「民の安寧」の一部である。だが、全部ではない。統治者が晴れやかに「公益及び公的秩序」は保たれたと宣している当の国で、民の健康が損なわれ、民の安全が失われ、民の生存が脅かされている例を私たちは歴史上無数に挙げることができる。だが、自民党案はあえて「民の安寧」を廃し、「至高の法」の座を「公益及び公の秩序」という、統治者がそのつどの自己の都合にあわせて定義を変更できるものに譲り渡した。
先進国の民主主義国家において、自由な市民たちが、強権によらず、自らの意志で、基本的人権の制約の強化と「民の安寧」の語義の矮小化に同意したことは歴史に前例がない。歴史上前例のないことをあまり気負いなくできるということは、この改憲案の起草者たちが「国家」にも「市民社会」にももはやほとんど興味を失っていることを意味している。
「民の健康や無事や安全」を配慮していたら、行政制度のスリム化が進まない。医療や教育や社会保障や環境保全に貴重な国家資源を投じていたら、企業の収益が減殺する。グローバル企業が公害規制の緩和や教育の市場化や医療保険の空洞化や雇用条件の切り下げや第一次産業の再編を求めているなら、仮にそれによって国民の一部が一時的にその健康や安全や生存を脅かされることがあるとしても、それはもう自己責任で受け止めてもらうしかないだろう。彼らはそう考えている。

改憲案にはこのほかにも現行憲法との興味深い異同が見られる。
最も徴候的なのは第22条である。
「(居住、移転及び職業選択等の自由等)何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する」。これが改憲案である。
どこに興味深い点があるか一読しただけではわからない。でも、現行憲法と比べると重大な変更があることがわかる。現行憲法はこうなっている。
「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
私が「興味深い」という理由がおわかりになるだろう。
その直前の「表現の自由」を定めた21条と比べると、この改定の突出ぶりがうかがえる。21条、現行憲法ではこうだ。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する。」
改憲案はこれに条件を追加した。
「前項の規定に、かかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」
21条に限らず、「公益及び公の秩序」を保全するためには私権は制約されるべきだというのは自民党改憲案の全体を貫流する基本原則である。それがなぜか22条だけには適用されていない。適用されていないどころかもともとあった「公共の福祉の反しない限り」という制約条件が解除されているのである。
起草委員たちはここで「居住、移転及び職業選択の自由」については、それが「公益及び公の秩序」と違背するということがありえないと思ったからこそ、この制約条件を「不要」と判断したのである。つまり、「国内外を転々とし、めまぐるしく職業を変えること」は超法規的によいことだという予断を起草委員たちは共有していたということである。
現行憲法に存在した「公共の福祉に反しない限り」を削除して、私権を無制約にした箇所は改憲案22条だけである。この何ということもない一条に改憲案のイデオロギーははしなくも集約的に表現されている。機動性の高い個体は、その自己利益追求行動において、国民国家からいかなる制約も受けるべきではない。これが自民党改憲案において突出しているイデオロギー的徴候である。

そういう文脈に置いてみると、九条の改定の意図がはじめてはっきりと了解できる。
改憲案はあきらかに戦争に巻き込まれるリスクを高めることをめざしている。平和憲法下で日本は68年間、九条二項のおかげで戦争にコミットすることを回避できていた。それを廃するというのは、「戦争をしたい」という明確な意思表示に他ならない。
安倍自民党と改憲で共同歩調をとる日本維新の会は、現行憲法をはっきり「占領憲法」と規定し、「日本を孤立と軽蔑の対象におとしめ、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶」とした。
感情的な措辞だが、「孤立と軽蔑」というのをいったいどのような事実について述べているのかが私にはわからない。もし、北方領土や中国の領海侵犯や北朝鮮の恫喝について言っているのだとしたら、これらの問題において日本は別に国際社会では孤立していないし、すぐに軍事的行動をとらないことについて軽蔑されてもいない。北朝鮮の軍事的挑発に耐えているという点で言えば、韓国とアメリカの方が日本以上だと思うが、そのせいで米韓は国際社会で「孤立」しており、「軽蔑」されていると言う人に私は会ったことがない。
同時に「絶対平和という非現実的な共同幻想」という言葉がどういう現実を指示しているのかもわからない。「絶対平和」などという文言はそもそも日本国憲法のどこにもない。「日本国民は、恒久の平和を念願し」という言葉はあるが、「念願」している以上、それが非現実であることは誰にでも分かっていることである(すでに現実化している事態を「念願」するものはいない)。戦後の歴代政府の憲法解釈も憲法学も国連も、自衛隊と個別的自衛権を違憲として否定してはいない。「非武装中立」を訴えた政治勢力もかつては存在したが、今はほとんど存在感を持っていない。「絶対平和という非現実な共同幻想」のせいで、日本がどのような損害を蒙っているのか、それを具体的に列挙してもらわなければ話が見えない。
まさか今さら「湾岸戦争のとき世界の笑いものになった」というような定型文を持ち出すわけではないだろうが、もしかするとそれかもしれないので、一言記しておくが、湾岸戦争のとき日本が世界の笑いものになったのは、日本が巨額の戦費を供出したにもかかわらず当事国から感謝されなかったからである。多国籍軍の支援を受けたクウェート政府は戦争終了後に、支援各国に感謝決議を出したが、日本の名はそこになかった。しかし、その理由は「国際社会の笑いもの」論者たちが言うように「金しか出さなかった」からではない。日本が供出した当初援助額1兆2,000 億円のうちクウェートに渡ったのは6億3千万円で、あとは全部アメリカが持っていったからである。仮に国際社会がほんとうに日本を笑ったのだとしたら、それは、「国際貢献」という名分でアメリカにいいようにされた日本の外交的愚鈍を笑ったのである。
改憲派のトラウマの起源が湾岸戦争にあるのだとしたら、彼らの悲願はアメリカのするすべての戦争へ同盟国としてフルエントリーすることであろう。そのために戦争をすることへの法制上・国民感情上のハードルが低い国に国を変えたいと彼らは願っている。
現行憲法の下で、世界史上例外的な平和と繁栄を享受してきた国が、あえて改憲して、アメリカにとって「使い勝手のいい」軍事的属国になろうと願うさまを国際社会は「狂気の沙汰」と見なすであろう。
私に反論するのはまことに簡単である。「日本が改憲して『戦争のできる国』になれば、わが国はこれまで侮蔑してきた日本を尊敬し、これまで遠ざけてきた日本と連帯するだろう」と誓言する国をひとつでもいいから「国際社会」から見つけ出して連れてきてくれれば足りる。そのときはじめて現行憲法が「孤立と軽蔑」の原因であることが証明される。
それでもこの妄想的な九条廃絶論にもひとつの条理は貫いている。それは「戦争のできる国」になることは、そうでない場合よりも国民国家の解体が加速するということであり、改憲論者はそれを直感し、それを望ましいことだと思っている。
「戦争ができる国」と「戦争ができない国」のどちらが戦乱に巻き込まれるリスクが多いかは足し算ができれば小学生でもわかる。「戦争ができない国」が戦争に巻き込まれるのは「外国からの侵略」の場合だけだが、「戦争ができる国」はそれに「外国への侵略」が戦争機会として加算される。
「戦争ができるふつうの国」と「戦争ができない変わった国」のどちらに生き残るチャンスが高いか、これも考えればすぐにわかる。「私がいなくなっても私の代わりはいくらもいる」という場合と、「私がいなくなると『私のようなもの』は世界から消えてしまう」という場合では、圧倒的に後者の方が「生き延びる意欲」は高いからである。
だから、国民国家の最優先課題が「国民国家として生き延びること」であるなら、その国は「できるだけ戦争をしない国」であること、「できるだけユニークな国」であることを生存戦略として選択するはずである。
だが、安倍自民党はそのような選択を拒んだ。改憲案は「他と同じような」、「戦争を簡単に始められる国」になることをめざしている。それは国民国家として生き延びることがもはや彼らにとっての最優先課題ではなくなっているということを意味している。漫然と馬齢を重ねるよりはむしろ矢玉の飛び交う修羅場に身を置いてみたい、自分たちにどれほどのことができるのか、それを満天下に知らしめてやりたい。そんなパセティックな想像の方が彼らを高揚させてくれるのである。でも、その高揚感は「国民国家が解体するリスク」を賭けのテーブルに置いたことの代償として手に入れたものなのである。「今、ここ」における刹那的な亢奮や愉悦と「国家百年の存続」はトレードオフできるものではと私たちは考えるが、それは私たちがもう「時代遅れ」な人間になったことを表わしている。国民国家のような機動性の低い(というか「機動性のない」)システムはもう不要なのである。グローバリストが戦争を好むのは、彼らが例外的に暴力的であったり非人道的であったりするからではなく(そういう場合もあるだろうが)戦争をすればするほど国民国家や領域国家という機動性のない擬制の有害性や退嬰性が際立つからである。安倍自民党は(本人たちには自覚がないが)グローバリストの政党である。彼らが「はやく戦争ができるようになりたい」と願っているのは、国威の発揚や国益の増大が目的だからではない。戦争機会が増大すればするほど、国民国家の解体が早まるからである。惰性的な国民国家の諸制度が溶解したとき、そこには彼らが夢見る「機動性の高い個体」たちからなる少数集団が圧倒的多数の「機動性の低い個体」を政治的・経済的・文化的に支配する格差社会が出現する。この格差社会では機動性が最大の人間的価値であるから、支配層といえども固定的・安定的であることは許されない。一代にして巨富を積み、栄耀栄華をきわめたものが、一朝あけるとホームレスに転落するめまぐるしいジェットコースター的な出世と降位。それが彼らの夢見るウルトラ・モダン社会のとりあえずの素描である。
改憲案がまず96条を標的にすることの理由もここから知れる。改憲派が改定の困難な「硬性憲法」を法律と同じように簡単に改廃できる「軟性憲法」に変更したいと願うのは、言い換えれば、憲法が「国のあるべきかたち」を恒久的に定めることそれ自体が許しがたいと思っているからである。「国のあるべきかたち」はそのつどの統治者や市場の都合でどんどん変えればよい。改憲派はそう考えている。
安倍自民党のグローバリスト的な改憲案によって、基本的人権においても、社会福祉においても、雇用の安定の点でも、あきらかに不利を蒙るはずの労働者階層のうちに改憲の熱心な支持者がいる理由もそこから理解できる。とりあえずこの改憲案は「何一つ安定したものがなく、あらゆる価値が乱高下し、システムがめまぐるしく変化する社会」の到来を約束しているからである。自分たちがさらに階層下降するリスクを代償にしても、他人が没落するスペクタクルを眺める権利を手に入れたいと願う人々の陰惨な欲望に改憲運動は心理的な基礎を置いている。
自民党の改憲案は今世界で起きている地殻変動に適応しようとするものである。その点でたぶん起草者たちは主観的には「リアリスト」でいるつもりなのだろう。けれども、現行憲法が国民国家の「理想」を掲げていたことを「非現実的」として退けたこの改憲案にはもうめざすべき理想がない。誰かが作り出した状況に適応し続けること、現状を追認し続けること、自分からはいかなるかたちであれ世界標準を提示しないこと、つまり永遠に「後手に回る」ことをこの改憲案は謳っている。歴史上、さまざまな憲法案が起草されたはずだが、「現実的であること」(つまり、「いかなる理想も持たないこと」)を国是に掲げようとする案はこれがはじめてだろう。

朝日新聞の「オピニオン」欄に寄稿

朝日新聞の「オピニオン」の5月8日紙面に長いものを寄稿した。
「日本の現在地」というお題だったので、次のようなものを書いた。
朝日新聞を取っていない人のためにブログに転載する。

日本はこれからどうなるのか。いろいろなところで質問を受ける。
「よいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」というのがこういう問いに答えるときのひとつの定型である。それではまず悪いニュースから。

それは「国民国家としての日本」が解体過程に入ったということである。
国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のことである。平たく言えば、国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である。言い換えると、自分のところ以外の国が侵略されたり、植民地化されたり、飢餓で苦しんだりしていることに対しては特段の関心を持たない「身びいき」な(「自分さえよければ、それでいい」という)政治単位だということでもある。
この国民国家という統治システムはウェストファリア条約(1648年)のときに原型が整い、以後400年ほど国際政治の基本単位であった。それが今ゆっくりと、しかし確実に解体局面に入っている。簡単に言うと、政府が「身びいき」であることを止めて、「国民以外のもの」の利害を国民よりも優先するようになってきたということである。

ここで「国民以外のもの」というのは端的にはグローバル企業のことである。
起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれはずいぶん昔の話で、株主も経営者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない「無国籍企業」のことである。この企業形態でないと国際競争では勝ち残れないということが(とりあえずメディアにおいては)「常識」として語られている。
トヨタ自動車は先般国内生産300万台というこれまで死守してきたラインを放棄せざるを得ないというコメントを出した。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法人税を納めるということを優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからである。
外国人株主からすれば、特定の国民国家の成員を雇用上優遇し、特定の地域に選択的に「トリクルダウン」し、特定の国(それもずいぶん法人税率の高い国の)の国庫にせっせと税金を納める経営者のふるまいは「異常」なものに見える。株式会社の経営努力というのは、もっとも能力が高く賃金の低い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害規制が緩く法人税率の低い国を探し出して、そこで操業することだと投資家たちは考えている。このロジックはまことに正しい。
その結果、わが国の大企業は軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれすべての企業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックとしてその選択は合理的である。だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう。
大飯原発の再稼働を求めるとき、グローバル企業とメディアは次のようなロジックで再稼働の必要性を論じた。
原発を止めて火力に頼ったせいで、電力価格が上がり、製造コストがかさみ、国際競争で勝てなくなった。日本企業に「勝って」欲しいなら原発再稼働を認めよ。そうしないなら、われわれは生産拠点を海外に移すしかない。そうなったら国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、税収もなくなる。それでもよいのか、と。
この「恫喝」に屈して民主党政府は原発再稼働を認めた。だが、少し想像力を発揮して欲すれば、この言い分がずいぶん奇妙なものであることがわかる。電力価格が上がったからという理由で日本を去ると公言するような企業は、仮に再び原発事故が起きて、彼らが操業しているエリアが放射性物質で汚染された場合にはどうふるまうだろうか?自分たちが強く要請して再稼働させた原発が事故を起こしたのだから、除染のコストはわれわれが一部負担してもいいと言うだろうか?雇用確保と地域振興と国土再建のためにあえて日本に踏みとどまると言うだろうか?絶対に言わないと私は思う。こんな危険な土地で操業できるわけがない。汚染地の製品が売れるはずがない。そう言ってさっさと日本列島から出て行くはずである。
ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を「日本の企業」と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家は「食い尽くすまで」は使いでのある資源である。
汚染された環境を税金を使って浄化するのは「環境保護コストの外部化」である(東電はこの恩沢に浴した)。原発を再稼働させて電力価格を引き下げさせるのは「製造コストの外部化」である。工場へのアクセスを確保するために新幹線を引かせたり、高速道路を通させたりするのは「流通コストの外部化」である。大学に向かって「英語が話せて、タフな交渉ができて、一月300時間働ける体力があって、辞令一本で翌日から海外勤務できるような使い勝手のいい若年労働者を大量に送り出せ」と言って「グローバル人材育成戦略」なるものを要求するのは「人材育成コストの外部化」である。
要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである。
繰り返し言うが、私はそれが「悪い」と言っているのではない。私企業が利益の最大化をはかるのは彼らにとって合理的で正当なふるまいである。だが、コストの外部化を国民国家に押しつけるときに、「日本の企業」だからという理由で合理化するのは止めて欲しいと思う。
だが、グローバル企業は、実体は無国籍化しているにもかかわらず、「日本の企業」という名乗りを手放さない。なぜか。それは「われわれが収益を最大化することが、すなわち日本の国益の増大なのだ」というロジックがコスト外部化を支える唯一の論拠だからである。
だから、グローバル企業とその支持者たちは「どうすれば日本は勝てるのか?」という問いを執拗に立てる。あたかもグローバル企業の収益増や株価の高騰がそのまま日本人の価値と連動していることは論ずるまでもなく自明のことであるかのように。
そして、この問いはただちに「われわれが収益を確保するために、あなたがた国民はどこまで『外部化されたコスト』を負担する気があるのか?」という実利的な問いに矮小化される。
ケネディの有名なスピーチの枠組みを借りて言えば「グローバル企業が君に何をしてくれるかではなく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」ということである。
日本のメディアがこの詭弁を無批判に垂れ流していることに私はいつも驚愕する。

もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「企業利益の増大=国益の増大」という等式はその本質的な虚偽性を糊塗するために、過剰な「国民的一体感」を必要とするということである。
グローバル化と排外主義的なナショナリズムの亢進は矛盾しているように見えるが、実際には、これは「同じコインの裏表」である。
国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせて企業活動を支援せねばならない。そういう話になっている。
そのために国民は低賃金を受け容れ、地域経済の崩壊を受け容れ、英語の社内公用語化を受け容れ、サービス残業を受け容れ、消費増税を受け容れ、TPPによる農林水産業の壊滅を受け容れ、原発再稼働を受け容れるべきだ、と。この本質的に反国民的な要求を国民に「飲ませる」ためには「そうしなければ、日本は勝てないのだ」という情緒的な煽りがどうしても必要である。これは「戦争」に類するものだという物語を国民に飲み込んでもらわなければならない。中国や韓国とのシェア争いが「戦争」なら、それぞれの国民は「私たちはどんな犠牲を払ってもいい。とにかく、この戦争に勝って欲しい」と目を血走らせるようになるだろう。
国民をこういう上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの亢進は不可欠である。だから、安倍自民党は中国韓国を外交的に挑発することにきわめて勤勉なのである。外交的には大きな損失だが、その代償として日本国民が「犠牲を払うことを厭わない」というマインドになってくれれば、国民国家の国富をグローバル企業の収益に付け替えることに対する心理的抵抗が消失するからである。
私たちの国で今行われていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。
現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。戦後68年の知恵である。これはその通りである。おそらく安倍政権は「戦後最も親米的な政権」としてアメリカの超富裕層からこれからもつよい支持を受け続けることだろう。自分たちの個人資産を増大させてくれることに政治生命をかけてくれる外国の統治者をどうして支持せずにいられようか。
今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵を取っている。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。たぶんこれが国民国家の「末期」のかたちなのだろう。

よいニュースを伝えるのを忘れていた。
この国民国家の解体は日本だけのできごとではない。程度の差はあれ、同じことは全世界で今起こりつつある。気の毒なのは日本人だけではない。そう聞かされると少しは心が晴れるかも知れない。

2013.05.23

日本の文脈・アメリカの文脈

ブログ更新をしばらく怠っていた。
この間の政治的できごとを振り返って、現段階における個人的な総括と見通しを書き留めておきたい。

4月23日の参院予算委員会で、安倍首相は「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」と発言し、これが内外に大きな波紋を呼んだ。
これは前日22日に行った「戦前の日本による植民地支配と侵略」について謝罪した村山富市首相「談話」(1995年)について「安倍内閣として、村山談話をそのまま継承しているわけではない」(参院予算委)とした答弁を承けたものである。
日本が中国大陸や朝鮮半島で行ったことは「侵略」であるかどうかは当事国によって解釈が違う。だから、中国韓国は侵略だと言うが、日本はそれに同意しないという、村山談話の歴史認識を180度転換する重大な発言であった。
中国韓国がこれに異を唱えるのはいつものことだが、今回例外的だったのは、NEW YORK TIMESが これにきびしい批判を加えたことである。
NYTは発言の当日、4月23日に論説委員会名で「日本の不要なナショナリズム」JAPAN’S UNNECESSARY NATIONALISMという長文の社説を掲載し、安倍発言に露呈した日本政府の冒険主義的な外交政策をはげしくなじった。
東アジア情勢が北朝鮮の瀬戸際外交によって不安定化し、日中韓三国間にこれまで以上の連携が求められているときに、なぜあえて波風を立てるような発言をするのか。
「的外れの論戦を掻き立てることは逆効果しかもたらさないが、安倍晋三とその議会におけるナショナリストの同盟者たちがしたことはまさにそれである。火曜日、168人の保守系国会議員が東京中心の靖国神社を訪れた。これは日本の戦死者を祀る神社であり、第二次大戦後に戦犯として処刑された人々も合祀されている。この議員団は近年においては最大のものである。日本のメディアによれば安倍氏自身は参拝をしていないが、供物を捧げており、彼の内閣の副総理と二人の閣僚が週末の参拝団に加わっている。(・・・)
安倍氏と彼の同盟者たちはこれが20世紀の日本の帝国建設と軍国主義の下で苦しんだ中国と韓国にとってどれほどセンシティブな問題であるかを熟知している。だから、中韓のリアクションは予測済みだったはずである。(・・・)
日本と中国はいずれも領土問題を平和的に解決するために努力する必要がある。しかし、北朝鮮とその核問題を解決するために関係諸国が協力して連携しなければならないそのときに中韓との敵対関係に火を注ぐことは日本にとってきわめて無思慮なふるまいのように思われる。
歴史的な傷口をえぐるようなことは止めて、安倍氏は日本の未来を描くことに専心すべきである。」
同盟国の総理大臣の政治的行動に向かって「無思慮(FOOLHARDY)」という形容詞を付すことは、きわめて異例のことである。私の知る限り、アメリカのメディアからここまではっきり罵倒された日本の総理大臣は過去20年間にはいない。
この「叱責」はアメリカ政府からの直接のものではないが、米政府の意向をかなり強く反映しているものと官邸は受け止めた。その結果、米国内での批判の流れを承けて、安倍首相は15日の参院予算委員会で、「日本が侵略しなかったと言ったことは一度もない」と答弁し、村山談話も継承する考えを示し、「村山談話を踏襲しない」とした従来の発言を修正した。
この3日後に、今度は猪瀬直樹東京都知事が同じNYTによって、五輪誘致をめぐって五輪憲章に違反するおそれのある「失言」を報じられた。
五輪候補都市間では、競争相手を貶める発言をしてはならないという憲章の紳士協定を踏みにじった猪瀬「失言」は「安倍氏とその政治的同盟者たち」の国際感覚と紳士としての品性に疑問符を点じたNYMの見立てをいわば側面から立証するかたちとなった。
「猪瀬はしばしば無遠慮で歯に衣着せない言葉づかいで、東京とその競合都市、とくにイスタンブールとを比較したが、それは修辞的な駆け引きとして許される境界線ぎりぎりのものであった。彼はイスタンブールが低開発で、五輪を誘致するには設備がお粗末であることを示唆した。」
そして、猪瀬のこんな発言を採録した。
「イスラーム諸国が共有しているのはアラーだけである。彼らは互いに戦争をしており、階級に分断されている。」
この発言を紹介したあと、記事は「IOCは招致候補都市によって公然と行われた品性を疑わせる非難を看過することはなく、憲章違反をしたものには非難声明を送付してきている」というニューヨーク五輪の招致委員会委員長の発言を引用している。
この長文のインタビューは最後に都知事の国際感覚を疑わせる発言を採録した。
「猪瀬はインタビューの中で、日本文化はユニークであり、こういってよければ他国に優越したものであるという日本では広く支持されている見解を幾度となく披瀝した。」
そしてトルコの国情と人口構成についてコメントした後に、猪瀬は何を血迷ったのか、「トルコ国民が長生きしたければ、日本のような文化を創造すべきである」という暴言を発したのである。
NYTの報道があった後、猪瀬都知事ははじめ「真意が伝わっていない」「インタビューの文脈と異なる記事」として、NYTの報道姿勢に問題があるとしたが、のちに「不適切な発言」があったことを認め、これらの発言を「撤回する」と述べた。
このときのNYTの猪瀬インタビューはかなりの部分まで「トラップ」であったと私は見ている。
これまでの文脈を見れば、「安倍氏のナショナリストの政治的同盟者」には当然石原慎太郎・橋下徹のふたりの日本維新の会共同代表が入っており、猪瀬都知事はその石原前都知事の直系の人物であるから当然アメリカ側の警戒の対象であったはずである。
だから、失言をとらえようというほどの悪意はなくても、「猪瀬がどれほどナショナリスティックな暴言を吐くのか」は政治家としての危険度をみきわめるためにチェックしておく必要があると思って、日本語のできる記者二人を派遣したのだと私は思う。
ところが都知事は誘導尋問にひっかかったわけでもなく、自分から進んで五輪憲章違反の不規則発言を繰り返し、その「自民族中心主義的」「排外主義的(特に「イスラーム差別」)本性を記者たちの前で剥き出しにしてしまった。
記事の行間からうかがえるのは、「無遠慮で歯に衣着せない言葉づかい」で米紙の取材に応じた、国際感覚も紳士としてのプライドも持たない政治家に対してNYT取材記者たちが抱いた深い嫌悪感である。
記事はいささか嫌悪感が前に出過ぎているように私には思われるけれど、五輪招致という本来ならまったく政治性のない穏やかなトピックの取材で、記者たちをここまで怒らせることができたのは、都知事の「お人柄」という他ないだろう。
そして、安倍、猪瀬と続いた「失言シリーズ」の第三弾が橋下徹日本維新の会共同代表の「慰安婦問題」発言であった。
NYTはつよい驚きを以てこのニュースを報道した。
日本のナショナリストに対して、「これ以上、中国韓国を刺激して、西太平洋の戦略的安定のためのアメリカの仕事を増やすような真似をするな」というシグナルをはっきり送ったつもりでいたのが、まるごと無視されたのである。
そればかりか、米軍海兵隊の性欲処理について「気づかい」を示され、それ以降の「言い訳」の中では繰り返しアメリカ軍の「性犯罪」について言及したのである。
この橋下徹という人物は国際感覚がまったく欠如しているのか、それとも「アメリカを不快にさせること」を「中国韓国を不快にさせること」と同じくらい優先順位の高い政治目標に掲げて、それによって国内的なポピュラリティを獲得しようとしているのか。
いずれにせよ、彼はアメリカにとって「きわめて好ましからざる人物」(ペルソナ・ノン・グラータ)にカテゴライズされたのである。
そのいらだちはNYTの記事にはっきりと表れた。
橋下のバックグラウンドと彼の登場の政治的文脈を簡単に紹介したあと、記者はこう書いた。
「彼のスタイルをどう評価しようとも、彼は月曜に日本の戦時下の行動についての許しがたいコメントによって超えてはならない一線を超えた。未来の総理大臣と目されているこの政治家は戦時中のレイプと性奴隷制とに事実上の同意署名をなしたのである。」
「彼は記者団に対して性奴隷は有用な目的のために利用されたと語った。『兵士たちは命がけで銃弾の嵐の下を駆け抜けているのである。感情的に大きな負荷をかけられた兵士たちにはどこかで休息を与えたい。慰安婦制度が必要であることは明らかである』。彼は売春宿は『軍隊に規律を維持するために必要である』と主張し、さらに日本政府が女性たちを奴隷的労働を強制した証拠は存在しないとも述べた。彼は女性たちの経験を、あいまいな言い方で、『戦争の悲劇』に帰した。そして生存している慰安婦は日本からの厚情に値するとも述べた。」
その次のパラグラフからは記者の怒りが伝わってくる。
「紛争の中で女性をレイプし続けている男たちは今もいくつかの国にいる。シリアやコンゴ共和国がそうだ。橋下氏はこのような蛮行をも過労の兵士を慰労するために必要だとして擁護するつもりだろうか。」
「橋下氏のコメントはもっとも過激なものに分類されるだろう。だが、戦時中の歴史を修正し、かつて日本が占領していた諸国との間に新たな危険な緊張をかき立てている日本の政治家は彼一人ではない。」
「日本のウルトラナショナリストたちは1993年の慰安婦に対する謝罪と、戦時中に日本の侵攻によって被害を受けた国々に対する1995年の謝罪をきびしく批判してきた。新たに首相の座についた安倍晋三は当初この謝罪を見直すつもりであったが、先週彼の政府は謝罪を維持することを約束した。
火曜に、日本政府は橋下氏のコメントに対する距離を表明した。しかし安倍氏と政権執行部の人々はそれにとどまらず、橋下氏のコメントを公的に非難する必要がある。橋下氏のような非道な見解を抱く人物が、日本でも他の国でも、何らかの政治的未来があると信じることは困難である。」
記事はそう終わっている。
これはあくまで一新聞の一記者の記事に過ぎないが、WASHINGTON POST やイギリスのBBCニュースやフランスのLIBERATIONなど海外のメディアの一連の報道も、NYTと基本的なトーンは同じである。
この記事から私はアメリカのリベラル派の怒りと不安を感じ取る。
このような人物が将来的に国政で重要な発言力を持つようになったとき、日本は西太平洋におけるアメリカの「パートナー」たりうるのか。
むしろ、アメリカにとっての「新しい問題」になるのではないか。
安倍首相が尖閣をめぐって「軍事的衝突も辞さず」という態度を当初国内に向けて繰り返しアピールし、右派メディアがそれに乗じて「日中もし戦わば」というような上滑りな提灯記事を書いていたことにアメリカはつよい不安を覚えていた。
実際に日中が戦闘状態に入った場合、在日米軍は日米安保条約第五条によって出動を要請される。
だが、アメリカは中国と戦争する気はない。
何のメリットもない戦争である。
だから、日本政府からの出動要請に対して、「尖閣を日本が実効支配していることは認めるが、領有権については日中どちらの立場にも与しない」と答えるだろう。当然である。
日本領土ではないところでの戦闘であれば、日米安保条約の発動要件を満たさない。だから、米軍は動かない。
だが、これで米軍が動かなければ、日本国内の世論は一気に「反米」に振れる。
日米安保条約は「空文」だったということだからである。
68年間われわれは米軍に「無駄飯」を食わせてきたのだ、ということになる。
安保条約即時破棄、日米同盟解消という大衆的世論はもはや押しとどめることができない。
このとき、アメリカは1853年のペリー浦賀来航以来150年にわたって、アメリカ青年たちの血で購ってきた東アジアの「要衝」を失うことになる。
「ウルトラナショナリスト」たちの軽挙妄動によって同盟関係を毀損されることはアメリカの望むところではない。
だが、日本の政治家たちをあまりに長きにわたって「対米従属」下に置き、彼らに自主外交を許さず、国防についても、安全保障についても、エネルギーについても、食料についても、「指示」を下してきたことで、アメリカは結果的に「自力で外交戦略を考えることのできない国」を作ってしまったのである。
その中から「アメリカの国益を配慮しているつもりで、アメリカの足を踏む」とんちんかんな政治家たちが輩出してきてしまった。
今アメリカは深い悩みのうちにいる。
もし、これでアメリカがつよい指導力を発揮して、安倍一派を抑え込み、「ウルトラナショナリスト」の跳梁を阻止したとしても、それはますます日本という国の「自浄能力」「自己修正能力」を損なうことになる。
「困ったことがあったら、最後はアメリカが尻を拭ってくれる」から、自分では何も考えない、何も判断しない、何も改善しないで、ぽかんと口を開けてアメリカの指示を待つという国民性格がさらに強化されることになる。
つまり、ここで強い指導力を発揮して日本政府の方向性を「修正してあげる」ことで、アメリカは「日本というリスク」をさらに高めることのなるのである。
アメリカは今苦しんでいる。
私が国務省の「対日政策局」の小役人なら、どうしていいかわからずに今頃は頭を抱えているだろう。
「とりあえず『安倍を残して、橋下を切る』というのが現在とりうる『わりとましな方法』です」というレポートを起草して上司に提出するだろうが、「知恵のないレポートだな」と上司は不機嫌そうな顔をするに違いない。

2013.05.26

〈人〉の現象学を読む

鷲田清一先生の『〈ひと〉の現象学』(筑摩書房)の書評を書いた。
5月26日の日経の文化欄に掲載されたけれど、日経取ってない人のために転載しておく。

鷲田清一はあるときから「臨床哲学」ということを言い始めた。
その語には固有の含意がある。一つは(臨床医がそうであるように)「使えるものは全部使う」という素材についての開放性であり、もう一つは「哲学者は本来病んだ人、傷ついた人に寄り添う職業である」という立ち位置の選択である。
鷲田は自分にとっての哲学とは「そういうもの」だと思った。
研究室にこもって試薬や測定機器を操作するのではなく、現に血を流し、うめき声を上げている生身の人間の傍らに立とうと決意した。
そういうふうに考える哲学者は非常に少ない。私はこの大胆さに深い敬意を払う。あまり言う人がいないが、胆力もまた哲学者にとって必須の資質だからである(「臆病な哲学者」というのは形容矛盾だ)。
鷲田の思索にとって最大の資源は彼自身である。彼の欲望、彼の屈託、彼の弱さ、彼の痛み、彼の高揚。彼の「生身」である。だから、書物的な知識も、鷲田は必ず一度は自分の生身を通過させる。その中で「腑に落ちた」言葉だけを拾い上げて、彼の個人的なアーカイブに積み上げてゆく。
「手沢」という言葉がある。手になじんだ道具に生じるつやのことである。この本の中では、どの言葉にも鷲田の「手沢」が付着している。そのせいで、彼が使うと、どんな無機的な哲学用語も独特の温もりと滑らかさを帯びる。難解な、角の尖った哲学的知見を「病んだ人、傷ついた人」にとってもリーダブルで「薬効」のあるものにしているのは、「仲を取り持つ」哲学者の生身の手柄である。
この本は阪大総長として公務に忙殺される前、哲学者として脂が乗りきった時期の仕事である。扱われている主題は顔、こころ、家族、恋、市民、多様性、死など多岐にわたる。
単一の主題をしだいに掘り下げてゆくという直線的な構成ではないから、読者はモンテーニュの『エセー』を読むように、座右において好きな頁を開いて読むのがいいと思う。
私自身は「顔」をめぐる鷲田の省察に眼を開かれた。それについての感謝の言葉だけでも急いで著者に伝えたい。

2013.05.29

セックスワークについて

寺子屋ゼミで「セックスワーク」についてゼミ生から質問を受けた。
「話すと長い話になるから」ということでその場はご容赦願ったのであるが、橋下発言をめぐって「セックスワーク」についての原理的な確認をしておきたいと思って、筐底から旧稿を引き出してきた。
2003年に『岩波応用倫理学講義』(金井淑子編、岩波書店)に書いたものである。
そこでは社会学者たちの「売春擁護論」に疑問を呈した。
同じ疑問を私は今回の橋下発言をめぐる賛否のコメントについても感じている。


セックスワーク-「セックスというお仕事」と自己決定権

はじめに

最初に正直に申し上げるが、私自身は、セックスワークについて専門的に考究したこともないし、ぜひとも具申したいような個人的意見があるわけでもない。ときどき、それに関する文章を読むが、数頁(場合によっては数行)読んだだけで気持ちが沈んできて、本を閉じてしまう。
困ったものではあるが、私を蝕むこの疲労感は、必ずしも個人的なものとは思われない。
私の見るところ、この問題については、どなたの言っていることにも「一理」ある。
ただし、「一理しかない」。
異論と折り合い、より広範囲な同意の場を形成できそうな対話的な語法で自説を展開している方にはこの論争の場ではまずお目にかかることができない。
みんなだいたい「喧嘩腰」である。
経験が私に教えるのは、この種の論争では、みなさんそれぞれにもっともな言い分があり、そこに最終的解決や弁証法的止揚などを試みても益するところがないということである。
私は以下でセックスワークについて管見の及んだ限りの理説のいくつかをご紹介し、その条理について比較考量するが、そこから得られる結論は「常識」の域を一歩も出ないものになることをあらかじめお知らせしておきたい。

1・
「セックスワーク」という言葉は価値中立的な語ではなく、それ自体明確な主張を伴った術語である(と思う。違うかもしれない)。
この言葉が日本のメディアで認知されたのは、おそらくは『セックスワーク』というタイトルの売春従事者たちの証言を集めた本が93年に刊行されて以後のことだろう。
この本には売春婦の権利のための国際委員会(ICPR International Committee for Prostitutes' Rights)憲章と世界娼婦会議(1986年)の声明草案が収録されている。セックスワーク論の基本的な考想を知るため、私たちはまず彼女たちの主張から聞いてゆきたいと思う。「憲章」は次の文言から始まる。

「個人の決断の結果としての成人による売春を全面的に非処罰化せよ。」( F・デラコステ他編、『セックスワーク』、山中登美子他訳、現代書館、1993年、386頁)
 
以下に続くその基幹的な主張は、
(1)「大部分の女性は経済的な依存状態にあるか、絶望的な状態にある。」 それは女性には教育と雇用の機会が不足しており、下級職以外の職業選択を構造的に閉ざされていることによる。
(2)「女性には十分な教育を受け、雇用の機会を得、売春を含むあらゆる職業で、正当な報酬と敬意が払われる権利がある。」
(3)「性に関する自己決定権には、相手(複数の場合も)や行為、目的(妊娠、快楽、経済的利益など)、自分自身の性に関する条件を決定する女性の権利が含まれる。」
以上の三つにまとめられるだろう。
その他に「強制売春・強姦の禁止」「未成年者の保護」「性的マイノリティへの差別の廃止」などもうたわれているが、それらの主張に異論を申し立てる人はまずいないだろうから、議論がありうるとすれば、この三項にかかわると予想して大過ないはずである。
ここに掲げた三項は(1)が「女性差別」をめぐる一般的状況の記述、(2)が「売春する権利」にかかわる要求、(3)が「性に関する自己決定権」の範囲について規定したものである。それぞれの含む条理について、以下で計量的な吟味を試みてみたいと思う。
 
2.
世界娼婦会議の主張について、私たちがまず見ておかなければならないことは、それが伝統的なフェミニズムの父権制批判とかなり齟齬するということである。
私たちになじみ深い伝統的な廃娼運動は次のような考え方をする。
女性が性を商品化しなければならないのは、男性がすべての価値を独占し、商品価値のあるもの(権力、財貨、教育、情報など)を所有することを女性に構造的に禁じているからである。女性は父権制社会においては、本質的に「性以外に売るものを持たない」プロレタリアートの地位に貶められている。売春婦はその中にあって、もっとも疎外された「抑圧のシンボル」である。それゆえ、喫緊の政治的課題は、売春婦たちをその奴隷的境涯から救出し、売春制度そのものを廃絶することである。
例えば、サラ・ウィンターはこの立場を代表して、次のように書いている。

「男性は、女性の体を性的利用目的のために売買する必要性と、その権利すらあることを正当化するために周到な試みをしてきた。これは売春を職業と婉曲に表現することで、ある程度は成功した。女性のおかれた不平等な立場や、売春婦にならざるをえないような前提条件などは都合よく無視して、低賃金、未熟練、単純労働に代わる、楽しめて実利的な仕事として、女性は売春をやりたがっているのだ、という神話を男性は喧伝し広めてきたのだ。(・・・)フェミニストとして私たちは、経済的従属状態や、強制された性的服従状態(私たちはこれを強姦と定義してきた)を批判し、廃するだけではなく、性的虐待および不平等な商取引である売春制度を批判し、廃していかなければならないと決意している。」(同書、322-4頁)

だが、ウィンターの威勢の良いフェミニスト的廃娼論と世界娼婦会議の主張の間には、乗り越えがたい懸隔が存在する。
ご覧の通り、世界娼婦会議に結集した売春婦たちは、彼女たちの「生業」であり「正業」である売春制度の廃絶ではなく、存続を要求しているからである。
彼女たちが求めているのは、「女性抑圧のシンボル」として扱われることではなく、労働者として認知されることである。この点で売春婦たちはフェミニストと正面から対立してしまう。
「フェミニストが売春を正当な労働と認め、かつ売春婦を働く女性として認めるのをためらい、あるいは拒絶しているために、大多数の売春婦は自分をフェミニストとは考えていない」と「憲章」は記している。
(同書、390頁)
この対立について、フェミニストの主張と売春婦たちの主張を読み比べると、私は売春婦たちの訴えの方に説得力と切実さを感じてしまう。以下にその理由を述べる。

ウィンターはこの短い引用の中で二つのことを述べている。
一つは、父権制社会においてはすべての女性が男性への経済的な従属を強いられ、性を商品化することを強制されている、という父権制批判。
いま一つは、売春制度は男性の女性支配の最悪の形態である、とする売春制度批判である。
それぞれを一つずつ読めば、どこにも矛盾はないように思われる。
だが、二つを読み合わせると不整合があることに私たちは気づく。
というのは、売春婦を「より多く抑圧されている女」として「犠牲者化」することは、売春婦と一般女性のあいだにとりあえず「抑圧の程度差による序列化」を導入することに合意することだからあるが、この序列化には理論的な根拠がないのである。
売春婦を「穢れた女」、一般女性を「清らかな女」に区分する差別化はもちろんフェミニストの採るところではない。となると、売春婦が「より多く」抑圧されており、一般女性たちが「より少なく抑圧されている」という「差別」を可能にする理由は一つしかない。
それは、非売春婦たちの方が、売春婦たちよりも、「ロマンティック・ラブ」や「偕老同穴」や「貞操観念」などの近代家族幻想の延命に貢献しているという事実である。
例えば、主婦たちは、男性に性的に奉仕し、その自己複製欲望に応えて子を産み、家事労働によってその権力独占活動を支援し、父権制の延命に深くコミットしているがゆえに、この社会においては売春婦よりは「より少なく抑圧されている」ことになる。
だが、フェミニストの立場からするならば、「娼婦と比べて『高待遇』の終身雇用制となっていると思われる」  妻たちは、父権制の無自覚な共犯者に他ならない。この妻たちを、をその「経済的従属状態」と「強制された性的服従状態」(ウィンターによれば、これは「強姦」である)から「解放」する戦いもまた喫緊の政治的課題だということにはならないのだろうか。
父権制批判の立場からするならば、「主婦の解放」を「売春婦の解放」より「先送り」にする理由はない。
現に、「主婦こそは恥ずべき性的奴隷である」という指摘はすでに大正の与謝野晶子の時代からなさされてきた。菅野聡美は与謝野の立場をこう祖述している。

「与謝野晶子は『良妻賢母の実質』は『結婚の基礎であるべき恋愛を全く排斥して顧みない物質的結婚に由つて妻と呼ばれ、唯だ良人たる男子に隷属してその性欲に奉仕する妾婦となり、併せてその衣食住の日用を弁ずる台所婦人を兼ねることが謂はゆる我が国の良妻』だと言う。そして『男子に依頼して専ら家庭に徒食する婦人を奴隷の一種とし、たとへ育児と台所の雑用とに勤勉な婦人であつても、猶なにがしかの職業的能力の欠けた婦人は時代遅れの婦人として愧ぢる習慣を作りたい』と述べている。」 (菅野聡美、「快楽と生殖のはざまで揺れるセックスワーク-大正期日本を手がかりに」、田崎英明編著、『売る身体/買う身体-セックスワーク論の射程』、青弓社、1997年、120頁)

まことに明快な理路である。そして、この論を是とし、「男子の財力をあてに」する生き方をする女性はすべて「男子の奴隷」であり、そのような生き方は否定されるべきものであるとするならば、そこから導出される結論は、父権制社会のすべての性制度の同時的廃絶であって、売春制度の選択的廃絶ではない。
ウィンターと与謝野晶子に共通する「女性=性的奴隷」論は「総論」としては文句なく正しい。
しかし、その理論に基づいて、「各論」的課題として、廃娼運動を進めようとすると、なぜ売春婦が主婦に先んじて「解放」されなければならないのかを言わねばならない。そして、そのときにもし、売春婦が主婦よりも「貧しく」「教養に欠け」「穢れた仕事に従事している」という事実をその優先性の根拠とするならば、それは「金」と「教養」と「処女性」に高い値札をつける父権制の価値観の少なくとも一部には同意したということを意味している。
父権制批判から廃娼運動を導出しうることは、常識的にはほとんど自明のことであるけれど、なお論理的架橋が困難である理由はそこにある。
私たちは父権制批判を徹底させようと思えば、廃娼運動を唱導することは断念しなければならないし、廃娼運動を優先しようと望むなら父権制批判をトーンダウンさせなければならない。
このゼロサム構造ゆえに、ラディカルな父権制批判の立場を採る論者は、ほとんど構造的に売春容認の立場を選ばざるを得ないし、売春婦を「苦界」から救出しようとするものはドミナントな性イデオロギーにある程度まで譲歩せざるを得ない。
個人的好悪とかかわりなく、論理の経済がそれを要求するのである。

3・
論理の経済に繋縛されている「不自由な知識人たち」に比べると、「現場」の諸君はもう少しでたらめであり、自由であるように私には見える。
売春婦たちにとってみれば、極端な話、理論的整合性なんかどうでもよいからである。彼女たちは別に知的威信を賭けて語っているわけではないし、論理的に破綻があろうとなかろうと、言いたいことは一つしかない。
それは「人権を守れ」ということに尽くされる。
彼女たちは、売春婦が「すべての女性と同じように」父権制社会において不公平な扱いを受けていることについては同意するが、「他の女性より多く」差別されているという考え方には同意しない。だから、売春制度の即時廃絶にも同意しない。
彼女たちが求めているのは、「看護婦やタイピストやライターや医者などと同じように」(あるいは「妻たち」と同じように)、性的技能者として、安全と自由を保証された社会的環境の中で売春を業とする「労働する権利」である。
話の筋目を通すことより、もっと緊急なことがある。それは現実に行われている人権侵害を止めることだ。このセックスワーク論の基幹的主張には十分な説得力があると私も思う。
現に売春婦の過半は貧困な家庭や劣悪な社会環境に育ち、十分な社会的訓練や教育を受けておらず、現在も客による暴力、管理者による収奪、警官による暴行の被害にさらされている。
例えば、売春婦は裁判に訴えても、客に不払い代金を払わせることはできない。
「彼女は犯罪行為は行っていないが、売春は法が禁じているのだから、代金請求の根拠となる売春契約は違法で、公序良俗に反する契約として無効と判断される」からである。(角田由紀子、「解説」、デラコステ、前掲書、421頁)
売春婦が相手の男性のサディスティックな行為に恐怖を抱き、相手のナイフを取り上げて刺殺した87年の池袋買春男性殺人事件でも、司法は売春婦に正当防衛を認めなかった。

「地裁判決は、『見知らぬ男性の待つホテルの一室に単身赴く以上、・・・相当な危険が伴うことは十分予測し得るところである・・・いわば自ら招いた危難と言えなくもない』とし、高裁判決は『売春婦と一般婦女子との間では性的自由の度合いが異なる』と断定する。ホテトル嬢のような仕事であれば、どんな客がいるか分からない。それを仕事としている以上、性的自由の侵害への抵抗は正当防衛として認められにくいというのである。」(若尾典子、『闇の中の女の身体』、学陽書房、1997年、213頁)

しかし、例えばタクシードライバーは、「見知らぬ人間」と「個室」に閉じこもり、人気のない場所へでも「単身赴く」以上、「相当な危険が伴うことは十分予測し得る」職業であるが、運転手が強盗に遭った場合に「自ら招いた危難と言えなくもない」というようなことを口にする裁判官は存在しないであろう。
これらの事例には、売春婦に他の職業人と同じ人権を認めたくない、とするイデオロギー的なバイアスが透けて見える。一般市民においては確保されている諸権利が売春婦には認められない。この無権利状態、無保護状態においてなお売春を生業とせざるを得ない女性たちに向かって、それに代わる生業の可能性を提示することなく、「犯罪だから止めろ」「抑圧されている仕事だから止めろ」「穢れた仕事だから止めろ」と言うことはむずかしいだろう。
しかし、ここで知識人たちの多くは、「売春婦たちの人権を尊重すべきで」あるという主張にうなずくだけでは済まされず、売春を正規の労働として認知し、「売春は正しい」と主張するところにまで踏み込もうとする。私はここに「無理」があると思う。
知識人のピットフォールは「自分が同意することは『正しいこと』でなければならない」という思い込みにある。「理論的に正しくないことでも、実践的には容認する」という市井の人の生活感覚との乖離はここに生じる。
例えば、岩波書店の「女性学事典」の「セックスワーカー」の次のような説明は、知識人の困惑をよく表している。

「一般的にセックスワーカーという概念は自己決定に基づく売春の擁護に用いられることが多い。すなわち、売春を自由意志に基づくもの(自由売春)とそうではないもの(強制売春)とに分けて、前者の売春を行っている人たちをセックスワーカーと呼び、これらの人びとの売春する権利を認めるべきだとするような議論である。しかし、売春者の権利主張の力点は、このような自己決定や自由意志に基づく売春の肯定という点にではなく、売春者の自己決定権の尊重という点にあると考えられる。
買春は男の本能である、性犯罪を防止するためにはセックス産業は必要であるなどと見なされ、社会自体が売春する女性たちを必要としている。すなわち、売春は社会的に必要とされ、源に労働として行われているのである。にもかかわらず、道徳的にも法的にも許されない行為と見なされ続け、売春を行う女性たちは差別され、さまざまな権利を奪われている。そのような差別に対する抵抗が、このことばには込められている。」 (浅野千恵、「セックスワーカー」、井上輝子他編、『岩波女性学事典』、岩波書店、2003年、304頁)
 
意味の分かりやすい文章とはとても言えない。
それは「売春者の権利主張の力点は、このような自己決定や自由意志に基づく売春の肯定という点にではなく、売春者の自己決定権の尊重という点にあると考えられる」というセンテンスの意味が取りにくいからである。
この文が言おうとしているのは、「売春を原理的に肯定すること」ということと「現に売春をしている人間の人権を擁護すること」は水準の違う問題だから別々に扱えばよいということである(そう書けばいいのに)。
「原理の問題」と「現実の問題」は別々に扱う方がいい。
たしかに仕事はそれだけふえて面倒になるが、それは「現実と折り合うためのコスト」として引き受けるほかない。
例えば、「囚人の人権を守る」ということは「犯罪を肯定する」こととは水準の違う問題である。囚人が快適な衣食住の生活環境を保証されることを要求する人は、別にその犯罪行為が免罪されるべきだと主張しているわけではない。人権は人権、犯罪は犯罪である。
それと同じように、「売春は犯罪だが、売春婦の人権は適切に擁護されねばならない」という立論はありうると私は思っている。
しかし、多くの知識人はこういうねじれた話を好まない。まことに不思議なことだが、政治家や学者のような、社会的影響力を持つ人ほど「話を簡単にしたがる」のである。彼らは「売春は犯罪だから、売春婦に一般市民と同等の人権は認められない」という硬直した法治主義の立場に立つか、「売春婦の人権は擁護されねばならない。だから、売春は合法化されるべきである」という硬直した人権主義の立場に立つか、どちらかを選びたがる。
しかし、現実が複雑なときに、むりにこれを単純化してみせることに、いったい何の意味があるだろう。

4・
上野千鶴子は小倉千加子との対談で、売春は女性にとって貴重な自己決定機会であるという議論を展開している。

「小倉:そしたら上野さんは、援助交際する女の子の気持ちも分かりませんか?
上野:わからないことはない。ただではやらせないという点で立派な自己決定だと思います。しかも個人的に交渉能力を持っていて、第三者の管理がないわけだから。(・・・) 援交を実際にやっていた女の子の話を聞いたことがあるんですが、みごとな発言をしていました。男から金をとるのはなぜか。『金を払ってない間は、私はあなたのものではないよ』ということをはっきりさせるためだ、と。(・・・)『私はあなたの所有物でない』ことを思い知らせるために金を取るんだ、と彼女は言うんです。」 (上野千鶴子、小倉千加子、『ザ・フェミニズム』、筑摩書房、2002年、231頁)

上野は知識人であるから「政治的に正しいこと」を言うことを義務だと感じている。だから、ここで上野は売春を単に「容認する」にとどまらず、それが端的な「父権制批判」の「みごとな」実践であることをほめ称えることになる。
自分が容認するものである以上、それは「政治的に正しい」ものでなければならない。それは上野の意思というより、上野が採用した「論理の経済」の要請するところである。
たしかに売春こそ父権制批判の冒険的実践の一部であるとみなすならば、フェミニスト廃娼論をとらえたピットフォールは回避できる。しかし、「政治的な正しさ」を求めるあまり上野は売春をあまりに「単純な」フレームの中に閉じ込めてしまってはいないか。
ここのわずか数行で上野が売春について用いているキーワードをそのまま書き出すとその「単純さ」の理由が分かる。
「自己決定」「交渉能力」「第三者」「管理」「金」「金」「所有物」「金」。
これが上野の用いたキーワードである。
ご覧の通り、ここで上野はビジネスターム「だけ」を使って売春を論じている。
上野にとって、売春はとりあえず「金」の問題なのである。「金」と「商品」の交換に際して、「売り手」が「買い手」や「問屋」に収奪されなければ、それは父権制的収奪構造への「みごとな」批判的実践となるだろう。
たしかに話はすっきりしてはいる。だが、すっきり「しすぎて」はいないだろうか。
ここでは売春について私たちが考慮しなければならない面倒な問題が看過されている。
それは「身体」の問題である。
売春する人間の「身体」はここでは単なる「商品」とみなされている。だが、身体を換金商品とみなし、そこから最大のベネフィットを引き出すのが賢明な生き方であるとするのは、私たちの時代における「ドミナントなイデオロギー」であり、上野が批判している当の父権制を基礎づけているものであることを忘れてもらっては困る。
私たちの時代においてさしあたり支配的な身体観は「身体は脳の欲望を実現するための道具である」というものである。
耳たぶや唇や舌にピアス穴を開けるのも、肌に針でタトゥーを入れるのも、見ず知らずの人間の性器を体内に迎え入れるのも、身体的には不快な経験のはずである。そのような行為が「快感」としてあるいは「政治的に正しい」実践として感知されるのは、脳がそう感じるように命じているからである。身体が先鋭な美意識やラディカルな政治的立場の表象として、あるいは「金」と交換できる商品として利用できると脳が思っているからである。
「金」をほしがるのは脳である。当たり前のことだが、身体は「金」を求めない。
身体が求めるのはもっとフィジカルなものである。やさしい手で触れられること、響きのよい言葉で語りかけられること、静かに休息すること、美味しいものを食べること、肌触りのよい服を着ること・・・身体は「金」とも「政治的正しさ」とも関係のない水準でそういう望みをひかえめに告げる。だが、脳はたいていの場合それを無視して、「金」や「政治」や「権力」や「情報」や「威信」を優先的に配慮する。
私は脳による身体のこのような中枢的な支配を「身体の政治的使用」と呼んでいる。
上野が援交少女において「自己決定」と名づけて賞賛しているのは、この少女の脳がその身体を、彼女の政治的意見を記号的に表象し、経済的欲望を実現する手段として、独占的排他的に使用している事況である。
少女はたしかにおのれの性的身体の独占使用権を「男たち」から奪還しただろう。しかし、それは身体に配慮し、そこから発信される微弱な身体信号に耳を傾け、自分の身体がほんとうに欲していることは何かを聴き取るためではなく、身体を「中間搾取ぬきで」100%利己的に搾取するためである。収奪者が代わっただけで、身体が脳に道具的に利用されているというあり方には何の変化も起こっていない。
セックスワーク論は売春の現場においては、売春婦の生身の身体を具体的でフィジカルな暴力からどうやって保護するかという緊急の課題に応えるべく語りだされたもののはずなのだが、それを「売春は正しい」という理説に接合しようとすると、とたんに「生身の身体」は「道具」の水準に貶められる。
「金を払っていないあいだはあなたのものではないよ」と宣言することは、「金をはらっているあいだはあなたのものだ」ということに他ならない。だが、それは世界娼婦会議の売春婦たちが望んでいる、「金をはらっているあいだも、はらっていないあいだも」、売春が違法であろうと合法であろうと、人間の身体に対しては無条件にそれに固有の尊厳を認められるべきだという考え方とはずいぶん狙っているところが違うような気がする。

5・
身体を道具視した視座からのセックスワーク論は、上野に限らず、身体を政治的な権力の相克の場とみなすフーコー・クローンの知識人に共通のものだ。
次の事例はその適例である。売春容認の立場を鮮明にしている宮台真司のインタビューに対して、東大生にして売春婦でもある女性は売春の「効用」を次のように熱く語っている。

「いろいろ経験したけど、自分の選択が正しかったと今でも思います。ボロボロになっちゃったから始めたことだったけれど、いろんな男の人が見れたし、今まで信じてきたタテマエの世界とは違う、本音の現実も分かったし。あと、半年も医者とかカウンセラーとかに通って直らなかったのに、売春で直ったんですよ。(・・・)少なくとも私にとって、精神科は魂に悪かったけれど、売春は魂に良かった。(・・・)私は絶対後悔しない。誇りを売っているわけでもないし、自分を貶めているのでもない。むしろ私は誇りを回復したし、ときには優越感さえ持てるようになったんですから。」(宮台真司編『〈性の自己決定〉原論』、紀伊国屋書店、1998年、279頁 )

彼女の言う「誇り」や「優越感」はやや特殊な含意を持っている。というのは、この大学生売春婦が「優越感を感じた」のは次のようなプロセスを経てのことだからだ。

「オヤジがすごくほめてくれて。体のパーツとかですけど。それでなんか、いい感じになって。今までずっと『自分はダメじゃん』とか思っていたのが、いろいろほめられて。(・・・) 最近になればなるほど優越感を味わえるようになって、それが得たくて。オヤジが『キミのこと好きになっちゃったんだよ』とか、『キミは会ったことのない素晴らしい女性だ』とか・・・。まあ・・・いい気分になっちゃいました。(・・・) オヤジは内面とか関係なく、私の体しか見てないわけじゃないですか。『気持ち悪いんだよ、このハゲ』とか思っているのも知らずに、『キミは最高だよ』とか言ってる(笑)。」( 同書、276-7頁)

上野が挙げた援交少女とこの学生売春婦に共通するのは、いずれも自分を「買う男」を見下すことによって、「相対的な」誇りや優越感を得ているということである。彼女たちは彼女たちの身体を買うために金を払う男たちが、彼女たち自身よりも卑しく低劣な人間であるという事実から人格的な「浮力」を得ている。
しかし、これは人格の基礎づけとしてはあまりに脆弱だし退廃的なものだ。
私たちが知っている古典的な例はニーチェの「超人」である。
ご存知のとおり、ニーチェの「超人」は実定的な概念ではない。それは自分のそばにいる人間が「猿にしか見えない」精神状態のことを指している。だから「超人」は「笑うべき猿」、「奴隷」であるところの「賤民」を手もとに置いて、絶えずそれを嘲罵することを日課としたのである。何かを激しく嫌うあまり、そこから離れたいと切望する情動をニーチェは「距離のパトス」と呼んだ。その嫌悪感だけが人間「自己超克の熱情」を供与する。だから、「超人」へ向かう志向を賦活するためには、醜悪な「サル」がつねに傍らに居合わせて、嫌悪感をかき立ててくれることが不可欠となる。
上野の紹介する「みごとな」援交少女と宮台の紹介する「誇り高い」売春婦に共通するのは、買春する男たちが女性の身体を換金可能な「所有物」や観賞用「パーツ」としてのみ眺める「サル」であることから彼女たちが利益を得ているということである。
ニーチェの「超人」と同じく、彼女たちもまた男たちが永遠に愚劣な存在のままであり続けることを切望している。それは言い換えれば、父権制社会とその支配的な性イデオロギーの永続を切望するということである。
この学生売春婦は性を「権力関係」のタームで語り、上野の「援交少女」は「商取引」のタームで性を語る。「権力関係」も「商取引」も短期的には「ゼロサムゲーム」であり、ゲームの相手が自分より弱く愚かな人間であることはゲームの主体にとって好ましいことである。だから、彼女たちが相対的「弱者」をゲームのパートナーとして選び続けるのは合理的なことである。しかし、彼女たちは、長期的に帳面をつけると、「自分とかかわる人間がつねに自分より愚鈍で低劣であること」によって失われるものは、得られるものより多いということに気づいていない。
宮台によれば、「昨今の日本では、買う男の世代が若くなればなるほど、金を出さない限りセックスの相手を見つけられない性的弱者の割合が増える傾向にある。」 (同書、265頁)
女性が「ただではやらせない」ようになり、そのせいで男性が「金を出さない限りセックスの相手をみつけられない」という状況になれば、たしかに性的身体という「闘技場」における男の権力は相対的に「弱く」なり、性交場面において女性におのれのわびしい性幻想を投射する「オヤジ」の姿はいっそう醜悪なものとなるだろう。当然それによって「今まで信じてきたタテマエの世界」の欺瞞性が暴露される機会が増大することにもなるだろう。
だから、性的身体を「権力」の相克の場とみなす知識人たちが、売春機会(に限らず、あらゆる形態での性交機会)の増大に対して好意的であることは論理のしからしむるところなのである。
しかし、私は依然として、この戦略的見通しにあまり共感することができない。
「自分より卑しい人間」を軽蔑し憎むことで得られる相対的な「浮力」は期待されるほどには当てにできないものだからだ。
仮にもし今週一回の売春によってこの学生売春婦の優越感が担保されているとしても、加齢とともに「体のパーツ」の審美的価値が減価し、「オヤジ」の賛辞を得る機会が少なくなると、遠からず彼女は「餌場」を移動しなければならなくなる。他人を軽蔑することで優越感を得ようと望むものは、つねに「自分より卑しい人間が安定的かつ大量に供給されるような場所」への移動を繰り返す他ない。
「東電OL殺人事件」の被害者女性がなぜ最後は円山町の路上で一回2000円に値段を切り下げてまで一日四人の売春ノルマに精勤したのか、その理由はおそらく本人にもうまく説明できなかっただろう。私たちが知っているのはこの女性が「学歴」と「金」に深い固着を有していたということ、つまりその性的身体のすみずみまでがドミナントなイデオロギーで満たされた「身体を持たない」人間だったらしいということだけである。
これらの事例から私たちが言えることは、売春を自己決定の、あるいは自己実現の、あるいは自己救済のための機会であるとみなす人々は、そこで売り買いされている当の身体には発言権を認めていないということである。
身体には(その身体の「所有者」でさえ侵すことの許されない)固有の尊厳が備わっており、それは換金されたり、記号化されたり、道具化されたりすることによって繰り返し侵され、汚されるという考え方は、売る彼女たちにも買う男たちにも、そして彼女たちの功利的身体観を支持する知識人たちにもひとしく欠落している。
性的身体はこの人々にとってほとんど無感覚的な、神経の通わない「パーツ」として観念されており、すべすべしたプラスチックのような性的身体という「テーブル」の上で、「権力闘争」のカードだけが忙しく飛び交っている。
だが、この絵柄は私たちの社会の権力関係と商取引のつつましいミニチュア以外の何ものでもないように私には思われる。
権力闘争の場で「権力とは何か?」が問われないように、経済活動の場で「貨幣とは何か?」が問われないように、性的身体が売り買いされる場では「身体とは何か?」という問いだけが誰によっても口にされないのである。

6・
セックスワーカーたちが「安全に労働する権利」を求めることに私は同意する。
ただし、それは左翼的セックスワーク論者が言うように、売春者が社会矛盾の集約点であり、売春婦の解放こそが全社会の解放の決定的条件であると考えるからではない。またフェミニストの売春容認論者が言うように、それが「みごとな自己決定」であると思うからでもない。社会学者が言うように、性的身体を闘技場とした「権力のゼロサムゲーム」での勝利が売春婦たちに魂の救済をもたらすと信じるからでもない。そうではなくて、現実に暴力と収奪に脅かされている身体は何をおいても保護されなければならないと思うからである。
それと同時に、売春は「嫌なものだ」という考えを私は抱いている。
ただし、それは保守派の売春規制派の人々が考えているように売春が「反社会的・反秩序的」であるからではない。そうではなくて、それが徹底的に「社会的・秩序的」なもの、現実の社会関係の「矮小な陰画」に他ならないと思うからである。
身体は「脳の道具」として徹底的に政治的に利用されるべきであるとするのは、私たちの社会に伏流するイデオロギーであり、私はそのイデオロギーが「嫌い」である。
身体には固有の尊厳があると私は考えている。そして、身体の発信する微弱なメッセージを聴き取ることは私たちの生存戦略上死活的に重要であるとも信じている。
売春は身体が発する信号の受信を停止し、おのれ自身の身体との対話の回路を遮断し、「脳」の分泌する幻想を全身に瀰漫させることで成り立っている仕事である。
そのような仕事を長く続けることは「生き延びる」ために有利な選択ではない。
「売春婦は保護すべきだ」という主張と、「売春はよくない」という考えをどうやって整合させるのかといきり立つ人がいるかも知れない。だが、繰り返し言うように、現実が整合的でない以上、それについて語る理説が整合的である必要はない。
「すでに」売春を業としている人々に対してはその人権の保護を、「これから」売春を業としようとしている人に対しては「やめときなさい」と忠告すること、それがこれまで市井の賢者たちがこの問題に対して取ってきた「どっちつかず」の態度であり、私は改めてこの「常識」に与するのである。

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