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2013年06月 アーカイブ

2013.06.03

歴史記述について

歴史研究者協議会というところから講演依頼があり、「国民の歴史」について話すことにした。
レジュメの提出を求められたので、こんなことを書いた。
実際には字数の制約があって、もっと短いのだが、ブログ用に少し書き足した。

歴史認識問題というものが存在する。
平たく言えば、歴史の認識が「国ごと」に違っているということである。
最近では日中・日韓・日米の「歴史認識」の違いが外交関係をぎくしゃくさせている。
あらゆる国民国家は自国の起源を有史以前の遠い過去に遡らせようとし、未来永劫に存在し続けるものとして表象する。
平成25年は皇紀2673年であるから建国は紀元前660年。隣国の壇君朝鮮はもっと早くて紀元前2333年の建国という話になっている。
同じく、どの国も永遠に存続するという前提を採用している。
中央銀行が発行する紙幣の価値を担保するのは「未来永劫に続く国家」だけだからである。
どこの国も、自分の国の歴史的ふるまいの正しさを過大評価し、誤謬や非行は過小評価するか、そもそも「なかったこと」にする。
たぶん人々はそれぞれの国が勝手な歴史を書くことを当然の権利だと思っているのだろう。
けれども、国民国家ごとに歴史認識が異なるというのは、一定の歴史的条件が整ったために生まれた一過性の現象であり、それゆえそれ自体が歴史学の研究対象であるべきだと私は思っている。
近代国民国家が制度的に認知されたのは1648年、ウェストファリア条約においてである。
このときから国土を持ち、国民がおり、常備軍と官僚層を備え、固有の言語、宗教、生活習慣、食文化などをもつ国民国家というものが基本的な政治単位に登録された。
誕生の日付が存在する制度であるから、いずれ賞味期限が切れる。
そして今、私たちは国民国家という政治制度そのものの「終わりの始まり」に立ち合っている。「世界のフラット化」を志向するグローバル資本主義がその障害となる国民国家を空洞化する方向に踏み出したからである。
国民国家がその存立条件としているすべてのもの-国境線・固有の言語・固有の貨幣・固有の度量衡・固有の商習慣など-は資本・商品・人間・情報のボーダーレスな移動を求めるグローバル資本主義にとって単なる「障壁」以外のものではない。
多国籍産業やヘッジファンドは国境を開放し、ビジネスランゲージも決済通貨も度量衡も統一することを求めている。企業が短期的に巨大な収益を上げ、CEOや株主たちが個人資産を最大化する上で端的に「国民国家は邪魔になった」ということである。
私たちの国でも、このグローバル化に即応した「歴史の書き換え」が進行している。
「慰安婦問題」や「南京事件」について日本を免罪しようとする「自虐史観論者」たちの語る歴史がそれである。
彼らが「慰安婦制度に軍部は関与していない」とか「南京事件などというものは存在しなかった」ということをかまびすしく言い立てるのは、その主張が国際的に認知される見通しがあるからではない。
全く逆である。
日本以外のどこでも「そんな話」は誰も相手にしないということを証明するために語り続けているのである。
彼らが言いたいのは、「自分たちが語る歴史だけが真実だ」ということではなく、それよりもさらに次数が一つ上の命題、すなわち「あらゆる国の歴史家たちは『自分たちが語る歴史だけが真実だ』と主張する権利がある」ということである。
彼らは自分たちが語っている自国史のコンテンツについての同意を求めているのではなく、「誰もが自己都合に合わせて、好きなように自国史を書く権利をもつ」ことにについての同意を求めているのである。
あらゆる国家は歴史を自己都合に合わせて捏造する。
だから、およそこの世に、国際社会に共有できるような歴史認識などというものは存在し得ない。
「国民の歴史」は原理的にすべて嘘である。
だから、誰もが歴史については嘘を語る権利がある。
これが自虐史観論者たちが(たぶんそれと知らずに)主張していることである。
誰もが嘘をついている。だから私も嘘をつく権利がある。そして、公正にも万人に「嘘をつく権利」を認める。
彼らはそう考えているのである。
この論法は「慰安婦制度」について、どの国にも似たような制度があると言い募った大阪市長のそれと同じである。
誰もが自己利益のために行動している。私はそれを咎めない。だから、諸君も私を咎めるな。
この命題は一見すると「フェア」なものに見えるが、遂行的には「持続的・汎通的な正否の判定基準はこの世に存在しない」という道徳的シニスムに帰着する。
それは要するに「とりあえず今勝っているもの、今強者であるものが言うことがルールであり、私たちはそれに従うしかない」という事大主義である。
同じことが歴史記述においても起きようとしている。
誰もが嘘をついている。私もついているが、お前たちもついている。だから、誰もその嘘を咎める権利はない。
このシニスムが深く浸透すれば、いずれあらゆる「国民の歴史」を、自国の歴史でさえ、誰も信じない日がやってくる。
彼らがめざしているのは、そのことなのである。
「国民の歴史」とはどこの国のものも嘘で塗り固められたデマゴギーにすぎないという判断が常識になるとき、人はもう誰も歴史を学ぶことも、歴史から学ぶこともしなくなる。
そのとき国民国家は終わる。
国民国家は「国民の歴史=国民の物語」を滋養にしてしか生きられない制度だからである。
そして、それが滋養として有効であるためには、どのようなかたちであれ、「他者からの承認」が要る。
他者からの承認を持たない物語、「その『歴史=物語』を信じるものが自国民以外にひとりもいないような『歴史=物語』」を服用しているだけでは、国は生き延びることはできない。
だが、今起きているのは、まさにそういうことである。
ウェストファリアシステムが有効だった時代に、人々はそれぞれ自己都合に合わせて「勝手な歴史」を書きながらも、複数の矛盾する記述がいつか包括的な歴史記述のうちに統合されて、各国の自国史がその中の「限定的に妥当するローカルな真実」になることを夢見ていた。
だが、グローバル化の時代には、もう誰も「包括的な歴史記述」を夢見ることはない。
もうそんなものは必要がないからだ。
もう国民国家を存続させる必要がないからだ。


「赤旗」5月31日号インタビュー

『しんぶん赤旗』の5月31日号にインタビュー記事が載った。
たぶん読んでいない人が多いはずなので、ここに再録しておく。


安倍政権の経済政策「アベノミクス」と多国籍企業やナショナリズムについて、神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんに聞きました。

私は経済の専門家ではありませんが、「アベノミクス」の先行きは暗いと思います。
国民に「景気が良くなった」と思わせて株を買わせ、消費行動に走らせる。
「景気がよくなる」と国民が信じれば景気がよくなるという人間心理に頼った政策です。
実体経済は少しもよくなったわけではありません。賃金も上がらないし、企業は設備投資を手控えたままです。
「アベノミクス」に限らず、世界経済は今あまりに変数が増えすぎている。
ヘッジファンド(投機的基金)などによる投機的なふるまいで、株が乱高下し、為替が変動し、通貨危機が起きることもある。
市場における投資家の行動は予測不能です。彼らは市場が荒れ、大きな値動きをするときに利益を上げる。だから、経済活動の安定より、急成長や急落を好ましいと思っている。そして、そうなるように仕掛けてきます。
「アベノミクス」はそういう投資家の射幸心に乗って、意図的にバブルを引き起こそうとしているハイリスクな政策です。
自分たちでコントロールできないプレイヤーに一国の経済を委ねてしまうことに私は強い不安を感じます。
それに「アベノミクス」は国際競争力のあるセクターに資源を集中して、グローバル化した企業が世界市場でトップシェアを獲得することに全国民が貢献すべきだという考え方をしてます。
企業の収益を上げるために国民はどこまで犠牲を払えるのかを問いつめてきている。
しかし、国民は企業の収益増のためにそれほどの負担に耐える必要があるのか。
そもそもグローバル化した企業はもはや「無国籍企業」であって「日本の企業」ではありません。
アップルの租税回避が問題になりました。
740億ドルという海外の売り上げをアイルランドの子会社に移して、アメリカへの納税を回避したことを咎められて、米上院の公聴会にCEOが召還されました。
多国籍企業は、最も人件費が安いところで人を雇い、最も製造コストの安いところ、公害規制のゆるいところで操業して、もっとも法人税率が低いところで納税する。企業の論理からすれば、きわめて合理的で当然のことです。 
しかし、そのグローバル企業の経営者たちが、国民国家に対し、て企業に都合のいいように制度を改変せよと要求するのは筋違いです。
金もうけするのは、彼らの自由です。勝手にやってくださって構わない。けれども、自分たちは「日本の企業」であるから、国民国家の成員たちは企業活動を支援しなければならないという言い分は通らない。教育政策やエネルギー政策や果ては外交や財政や憲法にまで「無国籍」の集団が口出しするのはことの筋目が違う。
国民に向かっては「あなたがたはグローバル企業のためにどれほどの犠牲を払う覚悟があるのか」と詰め寄るくせに、自分たちの企業利益を国民国家に還流することについては、何も約束しない。
こんな不条理がまかり通るのは、そういう企業体が「日本の企業」だと名乗り、あたかも日本を代表して、中国や韓国と経済戦争を戦っているかのような外見を作り出して、それを国民に信じ込ませているからです。
実際には、大飯原発再稼働のときに明らかになったように、グローバル企業は、人件費が高い、電力料金が高い、法人税率が高いと文句をつけて、要求が通らなければ「海外に生産拠点を移す」と脅しました。その理由が「経済戦争に勝つために」です。でも、実際に戦っているのは国同士ではなく、民間企業です。経営者も株主も従業員も日本人ではなく、生産拠点も日本ではなく、納税先も日本ではない企業を国民が支援する理由はありません。その事実を糊塗するためにも、グローバル企業は「日本の企業」という偽りの名乗りを手放さないのです。
先の総選挙では維新の会は「最低賃金制度の廃止」を公約に掲げました(批判を受けてすぐに引っ込めましたが)。大阪の最低賃金は時給800円です。橋下代表はこれを廃止すれば雇用が増える。3人で分ければ雇用が3倍になると述べました。
800円を3人で割れば時給270円です。たしかにそこまで賃金を下げれば、人件費コスト競争で中国やインドネシアにも勝てるかも知れない。
グローバル企業が「雇用の創出」と言っているのは、要するに日本人労働者の賃金を東アジアの途上国並みに下げろということです。日本の労働者が貧困化することは、長期的には内需の崩壊を招くわけですけれど、短期的には企業の収益を高める。
多国籍企業と国民国家は今や利益相反の段階に至っています。この論理矛盾を糊塗するためにナショナリズムが道具的に利用されている。
安倍自民党がことさらに中国・韓国との対立感情を煽っているのは、無国籍産業がそれを要請しているからです。国同士の経済戦争で命がけで戦っているのだという「ストーリー」を信じ込ませれば、国民は低賃金に耐え、消費増税に耐え、TPPによる第一次産業の崩壊に耐え、原発のリスクに耐えるからです。
共産党に期待することは、マルクスの教えのもっとも本質的なところ、すなわち「ものごとを根底的にとらえる」という意味でラディカルな政党であって欲しいということです。
私たちが前にしている歴史的変化は前代未聞のものであり、教条で処理できる範囲を超えています。真にラディカルな知性しかこの状況に対応することはできないでしょう。

2013.06.07

いじめについて

ある教育関係の媒体から「いじめ」についての意見を求められた。
かなりたくさん字数を頂いたので、長いものを書いた。

「いじめについて」

学校における「いじめ」とそれに対する対応のありかたについて意見を求められた。
悲観的な話から始めてしまって申し訳ないけれど、「いじめ」に対する即効的な対応策は存在しない。「いじめ」は80年代以降の学校教育を貫通している「教育イデオロギー」の副産物であり、ほとんど「成果」と言ってもよい現象である。
30年かかって作り込んできたものを一朝一夕でどうこうすることはできない。同じくらいの時間をかけて段階的に抑制してゆく気長な覚悟がいるだろう。
私たちが今向き合っている教育現場における「いじめ」現象には「太古的な層」と「ポストモダン的な層」がある。
「太古的な層」は人類と同じだけ古い歴史を持っている。こちらの方は、はっきり言って手の着けようがない。とりあえず「ポストモダン的な層」を「太古的な層」から分離して、それが分泌している悪だけを除去すること、それが私たちにできる精一杯のことである。フロイトが「転移」について述べたように、人類史の彼方に起源を持つ「古い疾患」よりも、私たちがその発生に立ち合った「古い疾患の新版」の方がまだしも制御し易いからである。

「いじめ」は「供犠」という儀礼のひとつの変種である。それは「神霊」という概念の発生と同期している。集団に不幸が訪れる。天変地異でも、異常気象でも、不作凶作でも、異族の襲撃でも、集団内部での紛争でも、何か困ったことが起きる。これは神霊の怒りを買ったことの罰である。この罪の穢れを祓うために供犠が行われる。「諸悪の根源」が単一物として存在し、それがすべての悪を分泌している。だから、それを特定し、除去さえすれば社会は原初の清浄と活力を回復する。これが供犠という考え方である。指名されたものは「贖罪の山羊(scape goat)」となり、徴をつけられて集団の周縁に追いやられ、あるいは集団の外部に追放され、あるいは殺害される。
「贖罪の山羊」を追い払っても感染症や病虫害や自然災害に対する科学的効果があるはずがない。でも、それがわかっていながら、人々は供犠の儀礼を手放さなかった。それは供犠には「コスモロジーの効果」があるからである。
供犠はもっともプリミティブな「宇宙観」である。アモルファスな世界にデジタルな境界線を引く。どこでもいい、とりあえず「境界線」を引く。「清らかなもの(fair)」と「穢れたもの(foul)」、「内部」と「外部」、「善」と「悪」の境界線を引く。境界線の選定は本質的に恣意的である。そこに線が引かれなければならない必然性はない。けれども、とりあえず境界線を引いたら気分が少しよくなった。だから、一度やったら止められなくなった。「線を引く」のは人間の本態的傾向である。クロード・レヴィ=ストロースははっきりこう断言している。
「どのようなものであれ、分類は分類の欠如よりも何らかの固有の効力を持っている」(『野生の思考』)
どのようなデタラメな分類であってもカオスよりはましである。人間はそう考える。とりあえず分類する。線を引きさえすれば、そこに秩序が立ち上がる。「昼と夜」とか「生と死」とか「男と女」とかいう分類についても同じである。どれも恣意的な境界線に過ぎない。実際には、世界はすべてアナログな連続体であって、どこにもデジタルな境界線など存在しない。ここから先が昼で、ここから先が夜だというような截然たる境界線は自然界には存在しない。しかし、人間は境界線を引くことを止めない。
供犠は「清浄なもの」と「穢れたもの」を区別することで秩序を制定する仕掛けである。集団に不幸が訪れたとき、「原因不明」というのでも、さまざまな断片的な事象の複合的効果であるという説明でも(たいていの場合はそれが実相なのだが)誰も納得してくれない。それでは「打つ手」を思いつかないからである。
どうしていいかわからない、何から始めていいのかがわからない。それがいちばん困る。でも、「悪いのはこいつだ」という「諸悪の根源」の名指しがあると、話は簡単になる。「こいつ」を叩き出すために何をすればいいのかについて具体的な手立てを考えるという「当面の仕事」ができるからである。人間は何かをして、頭を使い、身体を動かしていると、何もしていないときよりも、生命力が亢進する。「これが諸悪の根源だ」という名指しが可能であるなら、どんなデタラメな境界線でも引いてみる方がまったく引かないより、やることができるだけ「まし」なのである。だから、人類は数万年前から供犠に淫してきた。供犠は問題を解決しない。けれども、問題を前にして「何もしない」より、「何かする」方が生物としての自然にはかなっている。

「いじめ」は供犠の一変容態である。「仲間ではないもの」を名指し、徴をつけ、「穢れ」を押しつけ、集団から排除することで、排除する側の集団成員たちは同質的になり、凝集力を回復する、そういう仕掛けである。集団統合の力学的な働きに限って言えば、それは「クラス対抗リレー」とか「統一学力テストの学校別平均点競争」というようなものとそれほど変わるわけではない。「いじめ」と「競争」は同じ力学的構造を持っている。同一の組織原理の裏と表だと言ってもよい。
学校で何らかのレベルで集団的統合がつよく求められるときには、必ず供犠的な儀礼が行われる。必ず。これは避けられない。子どもたちは誰に教えられなくても本能的に供犠の有効性を知っている。集団の同質性と統合度を高めたいと思うと、子どもたちは必ず集団の同質化を阻む「異物」、統合を邪魔する「特異体」、集団の安寧を脅かす「敵」を特定し、それを排除しようとする。大人たちがしているのと同じことを子どもたちは彼らなりのスケールで再演するのである。
そのとき選ばれるのは何らかのかたちで有徴な個体である。背が低い、太っている、肌の色が違う、言葉づかいが違う、勉強ができない、不器用・・・なんでもいい、何らかの指標で「際立つ」なら、その子どもは「いじめ」の対象になりうる。
現在における「いじめ」論議の最初の「つまずきの石」は「いじめは人間集団には必ず発生する太古的な機制である」という原事実を受け容れないことである。これを「異常」で、「非人間的」なものとみなし、学校内に存在しないことが「ふつう」であるという前提を採ると、問題は最初から解決の糸口を失ってしまう。
現在の「いじめ問題」は、「あるはずのないこと」が起きているのではない。「よくあること」の暴力性と攻撃性が常軌を逸しているのである。ことは「原理の問題」ではなく、「程度の問題」なのである。これを「原理の問題」として取り扱うと、「いじめがまったくない学校」を作り出さなければならない。そうすると「いじめ」があっても、教師や教委がこれを「なかったこと」にして放置し、場合によっては隠蔽するという最悪の事態になる(現にそうなった)。
 繰り返し言うが、人間は「清浄なもの」と「穢れたもの」の境界線をどこかで引かないと、カオスから秩序を作り出すことができない。「その方が、カオスのままよりは、まし」だからである。「まし」というのは純粋に計量的な判断である。「よい」のではない。もし境界線を引いて、「穢れたもの」を排除したせいで、かえって集団の統合が崩れ、成員たちの生命力が衰えるのであれば、それはもはや供犠として機能していないということになる。そして、今学校で起きている「いじめ」はそれである。供犠のかたちをしているが、もはや供犠としては機能していない。「いじめ」はどこかで儀礼のために定められた限度を超えたのである。どこで、どう超えたのか。なぜ超えたのか。

はっきりした指標は「生け贄」の条件が「有徴的な少数者」に限定されなくなったということである。
現在の「いじめ」はできる限り多くの子どもが「いじめ」の加害者または傍観者となるように作り込まれている。「誰でも、どんなきっかけからでも「いじめ」の標的になりうる。集団の全員が「いじめ」の対象に選ばれるリスクを負っている。リスクが拡散した代わりに、標的として理不尽な攻撃に耐えなければいけない時間はそれだけ短くなる。少しの間だけ我慢していれば、いずれ「嵐」は去って、別の子どもが次の標的に繰り上がり、それまでの被害者は加害者か傍観者のポジションに移ることができる。そういうふうにして標的が一巡して、クラス全員の「手が汚れる」までいじめが拡散する。皮肉な言い方をすれば、「いじめ」は民主化されたのである。
被害が拡散するなら軽微になって結構なことじゃないかと思う人がいるかも知れないが、それは短見というものである。実際に起きるのは、全員が「いじめ」を「誰の身にでも起りうる、日常的な出来事」として容認する立場になるということである。
仮に「いじめ」の被害者となった子どもが、かつて一度も「いじめ」に加担したことも、傍観したこともなく、つねに「いじめ」と正面から戦って来たという場合、この子はたとえどれほど孤立していても「理は自分にある」と自分に言い聞かせることができる。そういう場合になら、人間はかなり長期にわたって理不尽な扱いに耐えられる。意地を張り続けることができる。もちろん、心理的負荷ゆえに、心身の不調や登校拒否といった症状を呈することはあるだろうが、自殺するところまではなかなか追い詰められない。
けれども、一度でも「いじめ」の加害者や傍観者である自分を正当化したことがあるものは、いじめを跳ね返すロジックを持たない。「嵐が過ぎるのを待つ」以外のソリューションを思いつかない。どれほど自分に対する「いじめ」が常軌を逸して執拗であったり、悪質であったりしても、それは「ちょっと、ひどいじゃないか」とは言えても、「間違っている」という批判の立場を採ることができない。「いじめ」の被害者が自分には正義を要求するだけの倫理的権利がないのでは・・・と疑いを持ってしまったら、もうふんばる足場がなくなる。今の「いじめ」では、子どもたちをそのような倫理的な無根拠に追い詰めるメカニズムが作動している。
だから、「いじめ」の解決策として、加害者に厳罰を与えればいいという立場を採る人に私は同意することができないのである。ほとんどのケースで、加害者はかつて被害者であり、被害者はかつて加害者であった。被害者・加害者の二元論的な分類を不能にする力学が働いている。メカニズムそのものが「悪」を生み出しているのであって、「悪い人間」がいるわけではない。倫理意識の例外的に高い子ども以外は誰でもが「いじめ」の加害者や傍観者にならざるを得ないようなメカニズムが現に働いているのである。そこが問題なのである。
今起きているのは、とりわけ邪悪でも暴力的でもなく、ただ倫理意識が弱いだけの子どもがいじめの加害者になって、節度のない暴力をふるうようになったということなのである。なぜ、そのようなことが起きたのか、その歴史的文脈を吟味して、子どもたちが落ち込んだそのピットフォールから彼らを解き放つ方法を考えなければいけない。
子どもたちを何人かつかまえて、一罰百戒的に「みせしめ」の刑事罰を加えても、「いじめ」はなくならない。「みせしめ」のために罰されたクラスメートとそれを逃れた子どもの間に決定的な違いがあるわけではない。罰を逃れたのは「たまたま」に過ぎない。
そういう経験をした子どもたちは、世の中というのは絶えず理不尽な暴力がふるわれるところであって、運悪くその暴力の標的にされたら、黙って耐えるしかないという経験則を深く身体化してゆく。
そういう子どもは弱い。倫理的に弱い。どんな理不尽な要求をなされても、大声でどなりつけられたり、処罰するぞという恫喝を加えられると、崩れるように屈服してしまう。「自分の手が汚れている」と知っているから、自尊感情を支える足場がない。そういう弱さをかかえたまま大人になったものが「自立した、成熟した市民」に育つことは絶望的に困難である。

では、「いじめ」を生み出した社会的条件は何か。まことに皮肉なことだが、それは戦後日本の例外的な平和と繁栄なのである。
私たちはあまりに豊かで安全な社会に暮らしてきたので、「集団としての生命力を高める」という課題に対する関心を失ってしまった。「集団としてどうやって生き延びるか」ということが優先的な課題であれば、私たちは集団成員の全員がどうすればそれぞれの個性を発揮し、それぞれの潜在的能力を最大化することができるかを考える。
最前線に放り込まれた兵士たちは生き延びるために、味方の兵士たち全員が高いパフォーマンスを発揮することを切望する。「自分以外の全員が自分より戦闘能力が高い状態」を歓迎する。その方が「自分ひとり戦闘能力が高く、あとは使い物にならない」状態よりも、自分自身が生き延びる確率が高まるからである。そのように状況を認識していれば、誰も集団内部での「競争」や弱いもの「いじめ」に時間やエネルギーを割きはしない。集団的危機に際会した場合には、人間たちは仲間の能力の向上と人間的成長を願う。どう考えても「全員がエゴイスティックで無能な幼児」である集団よりも、「全員がフェアで気配りの行き届いた大人」である集団の方が危機を生き残る確率が高いからである。
現代日本の不幸は、あまりに長期にわたって安全で豊かな社会が続いたために、喫緊の課題が、「集団として生き残ること」ではなく「集団内部での資源の分配競争に勝ち残ること」に変わってしまったことにある。家庭教育も学校教育も、「共生」のためのノウハウを教えることを忘れ、「競争」のための能力を優先的に開発したことにある。
競争では、同一集団内部での相対的な優劣だけが問題になる。入試がわかりやすいかたちだが、偏差値というのは同学齢集団内部でのポジションを示す数値であって、絶対学力とは関係がない。同学齢集団の全員の学力が低下しているときでも、その中で相対的に高いポジションにいれば、偏差値スコアは高い。競争的環境においては「自分が優れている」ことと「競争相手が劣っている」ことは同義なのである。
現代日本人はこの「競争のロジック」にあまりに慣れてしまった。「いじめ」はそれによって常軌を逸して悪質で、執拗なものになった。「いじめ」は競争が導き出した、すぐれて合理的なソリューションなのである。
考えればすぐわかるが、自分の学力を上げることと、級友の学力を下げることでは、費用対効果は圧倒的に後者の方がよい。だから、合理的な子どもたちは、仲間が知性的にも感性的にも成長することを妨げ、市民的な成熟を遂げることを阻むことが「ただちに自分の利益につながる」という考え方になじんでしまう。
集団成員がお互いの能力開発を妨害し合っている集団は、外から見ると、まるで集団自殺を企てているように見える。事実、今の日本の学校では、それに近いことが起きている。「学級崩壊」というのは、単なる怠業や不注意ではなく、合理的に選択された、競争で有利になるためのソリューションなのである。
今、残念ながら、私たちの社会はしだいに豊かでも安全でもなくなりつつある。だから、皮肉なことだが、「いじめ」はこのあたりで底を打つのではないかと私は思っている。子どもたちも、これ以上日本の国力が低下したら、同学齢集団内部での競争では勝てても、他国との競争では生き残れないのではないかという不安を直感的に感じ始めているからである。
他者の学習を妨害することは、閉じられた集団内部での競争に限定すれば費用対効果の高い解だが、「東アジアの若者たち」が就活の競争相手に登場してきた場合や、階層上位の子どもたちが日本の学校を見捨てて中等教育から欧米の学校に留学するようになった場合には(現にそうなっている)、その解に固執することはもはや「緩慢な自殺」どころではなくなる。
このまま学校教育が劣化を続けていった場合、若者たちはその後どうなるのか。低学力・低学歴で自尊感情が低く、権威にすぐ屈服する若者たちは最低の雇用条件で身をすり減らすような労働に従事するほか生きる道がない。
学力の低い若者たちを収容するだけのために高等教育を整備するのは資源の無駄遣いだ(だから大学を減らせ)と言い出した財界人がいる。最低賃金制の廃止を公約に掲げた政党もある。「世界同一賃金」を言い出したグローバル企業経営者もいる。低学力・低賃金労働者の大量発生は、国民国家の未来にとっては悪夢だが、「中国やインドネシアやスリランカ並みの低賃金での雇用を受け入れる若年日本人労働者の群れ」はグローバル企業にとっては人件費コストのカットを約束する夢の雇用環境である。
今の社会の流れの中に「いじめ」の培養基である「共倒れ的競争環境」を何としても緩和させなければならない、子どもたちに集団として生き延びるための「共生の作法」を教えなければならないという動きはほとんど見ることができない。「いじめ」問題を告発し、教員や教委を罵倒し、「いじめの発生した学校」に罰を与えるという「いじめ」構造の再生産を加速するようなことしか政治家やメディアはしていない。
私たちにいったい何ができるのか。効果的な方法を私は思いつかない。最初に書いたように、これは30年かかって日本社会が推し進めてきた教育政策の「成果」だからである。おのれの犯してきた罪の深さにおののくところから始めるしかない。
私自身はとりあえず「グローバル資本主義」を「穢れたもの」に認定して、それに対抗する手だてを考えている。ご覧のとおり、これはまさに供犠的手法そのものである。でも、恣意的であれ何であれ、まだ誰もそこに線を引いたことのない場所に「新しい境界線」を引くところからしか知性の運動は開始しないのである。

「脱グローバリズム宣言」

もうすぐ講談社から刊行される『脱グローバル論  日本の未来のつくり方』(平川克美・小田嶋隆・中島岳志・イケダハヤト・高木新平 ・平松邦夫との共著)の「まえがき」を予告編代わりにアップしておきます。
こんな本です。

はじめに 脱グローバリズム宣言

みなさん、こんにちは。内田樹です。
これはシンポジウムの記録ですから、たくさんの方たちの発言が収録されています。全発言者を代表して「はじめに」を書くというのは、ちょっと私には荷が重いのですが、全セッションに参加したのが私と進行役の平松邦夫さんと2人だけでしたので、立場上、ひとことご挨拶を申し上げます。  
このチームができた最初のご縁は、平松さんが現役の大阪市長だったとき中之島で開かれた教育関係のシンポジウムでした。平松市長が司会を務めてくださり、鷲田清一大阪大学総長(当時)、釈徹宗相愛大学教授、そして私の4人で「大阪の教育」についておしゃべりをしました。それが平松さんとお会いした最初です。そのときのシンポジウムでのみなさんの発言は『おせっかい教育論』(140B刊、2010年)に収録されております。  
平松市長については、実はそのときまでどんな人だかよく知りませんでした。お会いしたときの印象は「ジェントルマンだな」というものでした。穏やかで静かな声で話される。教育についてはこのときはじめて意見を交わしたのですが、私の「学校教育に市場原理を導入すべきではない」という論の理路を市長はすぐに理解して、受け入れてくれました。  
それがご縁となって平松さんの市長在任中に「教育問題についての特別顧問」というものを委嘱され、ときどき市長のパーソナルな諮問にお答えしたり、公開の対談をしたりということをしておりました。  そのあと2011年の大阪市長選がありました。現職の平松さんと維新の会の橋下徹前大阪府知事が激突して、大阪都構想や「グレートリセット」を掲げた橋下候補が圧勝した経緯はご案内の通りです。  この選挙はある意味で日本政治の重大な転換点だったと思います。その本質的な争点はいったい何だっただろうかということを選挙後もずっと考えてきました。そして、「維新の会」が主導する新自由主義的・グローバリスト的な諸政策や、中国・韓国に対するナショナリスティックな姿勢に対して強い不安と懸念を抱く人たちが、下野した平松さんの呼びかけに応じて集まり、公共政策ラボという政策研究のための組織が作られました。  
日本のこれからの社会のありかたを、できるだけ広い射程で、中長期的なところまで見通して自由に議論する、そういう場を作ろうという趣旨のものでした。  
その後、2012年末の総選挙で安倍自民党が圧勝し、「維新の会」が54人の衆院議員を送り出し、グローバリズムとナショナリズムの混淆態が現代日本における「支配的なイデオロギー」になりつつあるという趨向がはっきりしてきました。
ですから、公共政策ラボがこの時期に展開した連続シンポジウムは、この大きな流れに逆らって、反グローバリズムの理論的基礎を形成しようとした企てだったと言うことができると思います。  
平松さんと斎藤努公共政策ラボ所長の呼びかけに応じて参加してくださったのは、平川克美、小田嶋隆、中島岳志、イケダハヤト、高木新平という論客の皆さんでした。会社経営者、コラムニスト、研究者というわりと古典的な「肩書」を持つ3人と、いったいどういう肩書で紹介してよいのかわからない20代の若者2人という組み合わせです。  
平川、小田嶋のご両人は僕にとっては気心の知れた「古い戦友」ですが、中島さんとはこのシンポジウムではじめてお目にかかりました。
中島さんには「ほんとうの保守思想」という刺激的な立ち位置から縦横に語って頂き、間違いなくこの人が次の時代のオピニオンリーダーの1人になるだろうというたしかな印象と安堵感を抱きました。
イケダさん高木さんの若者2人はそのときまでお名前さえ存じ上げませんでしたが、いざ話してみると、もう私のような還暦を過ぎた人間の手持ちのロジックや語彙に言い換えることのむずかしい斬新なアイディアを次々と聞かせてくれました。 彼らを見ると、「ポスト・グローバル時代」はすでに始まっているということがわかりました。喩えとしてはいささか失礼ですけれど、恐竜が天に向かって吠えている足元で、小型の哺乳類獣が「次の時代」に備えて適応の用意を始めている、そんな印象を受けました。
かつて大瀧詠一さんが、「次の時代を担うもの」は思いがけないところから、まったく予想もしていなかったかたちで現れるものだと語ったことがありました。大瀧さんがそのとき話されていたのはポピュラーミュージックの歴史についてでしたけれど、政治史や思想史についても同じことが言えるだろうと思います。  
今、私たちの時代はグローバリズムの時代です。世界は急速にフラット化し、国民国家のもろもろの「障壁」(国境線、通貨、言語、食文化、生活習慣などなど)が融解し、商品、資本、人間、情報があらゆる「ボーダー」を通り越して、超高速で自由自在に行き来しています。このままグローバル化が進行すれば、遠からず国民国家という旧来の政治単位そのものが「グローバル化への抵抗勢力」として解体されることになるでしょう。
国民国家解体の動きはもうだいぶ前から始まっていました。
医療・教育・行政・司法に対する「改革」の動きがそれです。これらの制度は「国民の生身の生活を守る」ためのものです。怪我をしたり、病気をしたり、老いたり、幼かったり、無知であったり、自分の力では自分を守ることができないほど貧しかったり、非力であったりする人をデフォルトとして、そのような人たちが自尊感情を持ち、文化的で快適な生活を営めるように気づかうための制度です。ですから、これらの制度は「弱者ベース」で設計されています。当然、それで「儲かる」ということは本質的にありえません。基本「持ち出し」です。効率的であることもないし、生産性も高くない。  
でも、この20年ほどの「構造改革・規制緩和」の流れというのは、こういう国民国家が「弱者」のために担保してきた諸制度を「無駄づかい」で非効率的だと誹るものでした。できるだけ民営化して、それで金が儲かるシステムに設計し直せという要求がなされました。その要求に応えられない制度は「市場のニーズ」がないのであるから、淘汰されるべきだ、と。  
社会制度の適否の判断は「市場に委ねるべきだ」というこの考え方には、政治家も財界人もメディアも賛同しました。社会制度を「弱者ベース」から「強者ベース」に書き替える動きに多くの国民が喜々として同意署名したのです。  
それがとりあえず日本における「グローバル化」の実質だったと思います。社会的弱者たちを守ってきた「ローカルな障壁」を突き崩し、すべてを「市場」に委ねようとする。  
その結果、医療がまず危機に陥り、続いて教育が崩れ、司法と行政が不可逆的な劣化過程に入りました。現在もそれは進行中です。この大規模な社会制度の再編を通じて、「健常者のための医療、強者のための教育、権力者に仕えるための司法と行政」以外のものは淘汰されつつあります。
驚くべきことは、この「勝ったものが総取りする」というルール変更に、(それによってますます収奪されるだけの)弱者たちが熱狂的な賛同の拍手を送っていることです。国民自身が国民国家の解体に同意している。市民たち自身が市民社会の空洞化に賛同している。弱者たち自身が「弱者を守る制度」の非効率性と低生産性をなじっている。倒錯的な風景です。 「みんな」がそう言っているので(実際には自分の自由や幸福や生存を脅かすようなものであっても)ずるずると賛同してしまう考え方というものがあります。マルクスはそれを「支配的なイデオロギー」と呼びました。グローバリズムは現代における「支配的なイデオロギー」です。
人々はそれが自分たちの等身大の生活にどういう影響を及ぼすのかを想像しないままに、「資本、商品、人間、情報があらゆるローカルな障壁を乗り越えて、超高速で全世界を飛び交う状態」こそが人類がめざすべき究極の理想だと信じ込んでいます。どうしてそんなことが信じられるのか、僕にはよくわかりません。  
高速機動性が最高の人間的価値だとみなされるような世界においては、機動性の低い人間は最下層に分類されることになります。
この土地でしか暮らせない、この国の言葉しか話せない、伝統的な儀礼や祭祀を守っていないと不安になる、ローカルな「ソウル・フード」を食べていないと生きた心地がしない……そういったタイプの「地に根づいた」人たちは、グローバル社会では最底辺の労働者・最も非活動的な消費者、つまり「最弱者」として格付けされます。能力判定の基準が「機動性」だからです。
グローバル化というのは「そういうこと」です。自家用ジェット機で世界中を行き来し、世界中に家があり、世界中にビジネスネットワークがあるので「自分の祖国が地上から消えても、自分の祖国の言語や宗教や食文化や生活習慣が失われても、私は別に困らない」と言い切れる人間たちが「最強」に格付けされるということなのです。  
もちろんそんな非人間的なまでにタフな人間は現実にはまず存在しません。でも、それが「高速機動性人格」の無限消失点であり、グローバル社会における格付けの原基であることに変わりはありません。 あるグローバル企業の経営者が望ましい「グローバル人材」の条件として「英語が話せて、外国人とタフなビジネスネゴシエーションができて、外国の生活習慣にすぐ慣れて、辞令一本で翌日海外に飛べる人間」という定義を下したことがありました。まことに簡にして要を得た定義だと思います。これは言い換えると、その人がいなくなると困る人がまわりに1人もいない人間ということです。
「グローバル人材」であるためには、その人を頼りにしている親族を持ってはならないし、その人を欠かすことのできないメンバーに含んでいる共同体や組織に属してもならない。つまり、その人が明日いなくなっても誰も困らないような人間になるべく自己陶冶の努力をしたものが、グローバル企業の歓迎する「グローバル人材」たりうるわけです。  
これは「地に根づいた」生き方のちょうど正反対のものです。「地に根づいた人」とは、その人を頼る親族たちがおり、その人を不可欠のメンバーとして機能している地域の共同体や組織があるせいで、「私はこの人たちを置き去りにして、この場所を離れることができない」と思っている人間のことです。
そういう人間はグローバリズムの世界では「望ましくない人間」であり、それゆえ社会の下層に格付けされることになる。  
繰り返し言いますけれど、どうして日本人たちがこんな自分たちに圧倒的に不利なルール変更にうれしげに賛同したのか、「支配的なイデオロギー」の発揮する魔術的な効果ということ以外に私には理由が思いつきません。  
その「支配的なイデオロギー」はどういう歴史的条件の下で形成されたのか、どういうふうに構造化されているのか、どう機能しているのか、その破壊的な効果をおしとどめる手立てはあるのか、あるとすれば何か……といった一連の問題意識がこのシンポジウムには伏流しています。  
別に皆さんがそういう堅苦しい言葉づかいをしているわけではありませんが、それぞれに使う言葉は違っていても、参加者の問題意識は同一だったと私は思っています。  
ですから、本書は、日本のグローバル化が急激に進行し、グローバリスト=ナショナリスト・イデオロギーが国内世論で支配的であった時期(安倍晋三と橋下徹と石原慎太郎が高いポピュラリティを誇っていた時代)に、それに抵抗する理論的・実践的基礎を手探りしていた人間たちの悪戦の記録として資料的に読まれる価値があるのではないかと思います。
「資料的に読まれる価値がある」と思うのは、とりあえずシンポジウムが行われていたリアルタイムでは誰からも相手にされなかったからです。メディアからはほぼ完全に黙殺されました。  
しかし、偶然にも、「はじめに」のために指定された締め切りをとうに過ぎてから督促されてこれを書き出したちょうどその時に、日本維新の会の橋下徹共同代表の「慰安婦容認発言」が国外のメディアから批判の十字砲火を浴びるという事件がありました。
この発言をめぐる維新の会内部の意思不統一で、グローバリスト=ナショナリスト・イデオロギーの「尖兵」として我が世の春を謳歌していた維新の会も今は解党的危機を迎えています。安倍自民党も「侵略」をめぐる首相発言、靖国集団参拝、改憲、橋下発言に対する宥和的姿勢などが中国韓国のみならずアメリカ政府の不信を招き、ナショナリスト・イデオロギーの暴走を抑制せざるを得ない状態に追い詰められています。  
これら一連の「逆風」が日本におけるグローバル化趨勢が方向転換する歴史的な「転轍点」になるのかどうか、ただの挿話的出来事で終わるのか、それはまだ見通せません。でも、この20年日本を覆ってきた「支配的なイデオロギー」に対するある種の不安と倦厭感が国民の間に、ゆっくりではありますけれど、拡がりつつあるようには感じられます。  
この本は2013年7月の参院選の直前に発行される予定です。選挙で、グローバリスト=ナショナリスト的政治勢力に対する有権者の信認がどれほど減るのか、それとも支持率はこれほど国外からの批判があっても高止まりしたままなのか、私は興味をもって見守っています。私たちがこの本の中でそれぞれに主張してきた言葉がすこしでも理解者を獲得してきていたのであれば、選挙結果にそれなりに反映するはずです。そうなることを願っています。  
最後になりましたが、シンポジウム主催者としてさまざまな用事を一手に引き受けてくださった公共政策ラボの斎藤努所長、有形無形のご後援を賜った講談社の瀬尾傑さん、編集をご担当くださった松本創さんと講談社の青木肇さんにお礼を申し上げます。
シンポジウムの出席者が他の出席者のみなさんに参加のお礼を申し上げるというのはちょっと筋目が違うようですけれど、みなさまのご尽力に改めてお礼を申し上げます。そして、シンポジウムにおいでいただき、いつも暖かい笑い声と拍手を送って公共政策ラボの運動を支援してくださいました聴衆のみなさんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。  
日本が少しでも住みよい国になりますよう、みなさまとともに祈りたいと思います。  

2013年5月20日  内田樹

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