「脱グローバリズム宣言」

2013-06-07 vendredi

もうすぐ講談社から刊行される『脱グローバル論  日本の未来のつくり方』(平川克美・小田嶋隆・中島岳志・イケダハヤト・高木新平 ・平松邦夫との共著)の「まえがき」を予告編代わりにアップしておきます。
こんな本です。

はじめに 脱グローバリズム宣言

みなさん、こんにちは。内田樹です。
これはシンポジウムの記録ですから、たくさんの方たちの発言が収録されています。全発言者を代表して「はじめに」を書くというのは、ちょっと私には荷が重いのですが、全セッションに参加したのが私と進行役の平松邦夫さんと2人だけでしたので、立場上、ひとことご挨拶を申し上げます。  
このチームができた最初のご縁は、平松さんが現役の大阪市長だったとき中之島で開かれた教育関係のシンポジウムでした。平松市長が司会を務めてくださり、鷲田清一大阪大学総長(当時)、釈徹宗相愛大学教授、そして私の4人で「大阪の教育」についておしゃべりをしました。それが平松さんとお会いした最初です。そのときのシンポジウムでのみなさんの発言は『おせっかい教育論』(140B刊、2010年)に収録されております。  
平松市長については、実はそのときまでどんな人だかよく知りませんでした。お会いしたときの印象は「ジェントルマンだな」というものでした。穏やかで静かな声で話される。教育についてはこのときはじめて意見を交わしたのですが、私の「学校教育に市場原理を導入すべきではない」という論の理路を市長はすぐに理解して、受け入れてくれました。  
それがご縁となって平松さんの市長在任中に「教育問題についての特別顧問」というものを委嘱され、ときどき市長のパーソナルな諮問にお答えしたり、公開の対談をしたりということをしておりました。  そのあと2011年の大阪市長選がありました。現職の平松さんと維新の会の橋下徹前大阪府知事が激突して、大阪都構想や「グレートリセット」を掲げた橋下候補が圧勝した経緯はご案内の通りです。  この選挙はある意味で日本政治の重大な転換点だったと思います。その本質的な争点はいったい何だっただろうかということを選挙後もずっと考えてきました。そして、「維新の会」が主導する新自由主義的・グローバリスト的な諸政策や、中国・韓国に対するナショナリスティックな姿勢に対して強い不安と懸念を抱く人たちが、下野した平松さんの呼びかけに応じて集まり、公共政策ラボという政策研究のための組織が作られました。  
日本のこれからの社会のありかたを、できるだけ広い射程で、中長期的なところまで見通して自由に議論する、そういう場を作ろうという趣旨のものでした。  
その後、2012年末の総選挙で安倍自民党が圧勝し、「維新の会」が54人の衆院議員を送り出し、グローバリズムとナショナリズムの混淆態が現代日本における「支配的なイデオロギー」になりつつあるという趨向がはっきりしてきました。
ですから、公共政策ラボがこの時期に展開した連続シンポジウムは、この大きな流れに逆らって、反グローバリズムの理論的基礎を形成しようとした企てだったと言うことができると思います。  
平松さんと斎藤努公共政策ラボ所長の呼びかけに応じて参加してくださったのは、平川克美、小田嶋隆、中島岳志、イケダハヤト、高木新平という論客の皆さんでした。会社経営者、コラムニスト、研究者というわりと古典的な「肩書」を持つ3人と、いったいどういう肩書で紹介してよいのかわからない20代の若者2人という組み合わせです。  
平川、小田嶋のご両人は僕にとっては気心の知れた「古い戦友」ですが、中島さんとはこのシンポジウムではじめてお目にかかりました。
中島さんには「ほんとうの保守思想」という刺激的な立ち位置から縦横に語って頂き、間違いなくこの人が次の時代のオピニオンリーダーの1人になるだろうというたしかな印象と安堵感を抱きました。
イケダさん高木さんの若者2人はそのときまでお名前さえ存じ上げませんでしたが、いざ話してみると、もう私のような還暦を過ぎた人間の手持ちのロジックや語彙に言い換えることのむずかしい斬新なアイディアを次々と聞かせてくれました。 彼らを見ると、「ポスト・グローバル時代」はすでに始まっているということがわかりました。喩えとしてはいささか失礼ですけれど、恐竜が天に向かって吠えている足元で、小型の哺乳類獣が「次の時代」に備えて適応の用意を始めている、そんな印象を受けました。
かつて大瀧詠一さんが、「次の時代を担うもの」は思いがけないところから、まったく予想もしていなかったかたちで現れるものだと語ったことがありました。大瀧さんがそのとき話されていたのはポピュラーミュージックの歴史についてでしたけれど、政治史や思想史についても同じことが言えるだろうと思います。  
今、私たちの時代はグローバリズムの時代です。世界は急速にフラット化し、国民国家のもろもろの「障壁」(国境線、通貨、言語、食文化、生活習慣などなど)が融解し、商品、資本、人間、情報があらゆる「ボーダー」を通り越して、超高速で自由自在に行き来しています。このままグローバル化が進行すれば、遠からず国民国家という旧来の政治単位そのものが「グローバル化への抵抗勢力」として解体されることになるでしょう。
国民国家解体の動きはもうだいぶ前から始まっていました。
医療・教育・行政・司法に対する「改革」の動きがそれです。これらの制度は「国民の生身の生活を守る」ためのものです。怪我をしたり、病気をしたり、老いたり、幼かったり、無知であったり、自分の力では自分を守ることができないほど貧しかったり、非力であったりする人をデフォルトとして、そのような人たちが自尊感情を持ち、文化的で快適な生活を営めるように気づかうための制度です。ですから、これらの制度は「弱者ベース」で設計されています。当然、それで「儲かる」ということは本質的にありえません。基本「持ち出し」です。効率的であることもないし、生産性も高くない。  
でも、この20年ほどの「構造改革・規制緩和」の流れというのは、こういう国民国家が「弱者」のために担保してきた諸制度を「無駄づかい」で非効率的だと誹るものでした。できるだけ民営化して、それで金が儲かるシステムに設計し直せという要求がなされました。その要求に応えられない制度は「市場のニーズ」がないのであるから、淘汰されるべきだ、と。  
社会制度の適否の判断は「市場に委ねるべきだ」というこの考え方には、政治家も財界人もメディアも賛同しました。社会制度を「弱者ベース」から「強者ベース」に書き替える動きに多くの国民が喜々として同意署名したのです。  
それがとりあえず日本における「グローバル化」の実質だったと思います。社会的弱者たちを守ってきた「ローカルな障壁」を突き崩し、すべてを「市場」に委ねようとする。  
その結果、医療がまず危機に陥り、続いて教育が崩れ、司法と行政が不可逆的な劣化過程に入りました。現在もそれは進行中です。この大規模な社会制度の再編を通じて、「健常者のための医療、強者のための教育、権力者に仕えるための司法と行政」以外のものは淘汰されつつあります。
驚くべきことは、この「勝ったものが総取りする」というルール変更に、(それによってますます収奪されるだけの)弱者たちが熱狂的な賛同の拍手を送っていることです。国民自身が国民国家の解体に同意している。市民たち自身が市民社会の空洞化に賛同している。弱者たち自身が「弱者を守る制度」の非効率性と低生産性をなじっている。倒錯的な風景です。 「みんな」がそう言っているので(実際には自分の自由や幸福や生存を脅かすようなものであっても)ずるずると賛同してしまう考え方というものがあります。マルクスはそれを「支配的なイデオロギー」と呼びました。グローバリズムは現代における「支配的なイデオロギー」です。
人々はそれが自分たちの等身大の生活にどういう影響を及ぼすのかを想像しないままに、「資本、商品、人間、情報があらゆるローカルな障壁を乗り越えて、超高速で全世界を飛び交う状態」こそが人類がめざすべき究極の理想だと信じ込んでいます。どうしてそんなことが信じられるのか、僕にはよくわかりません。  
高速機動性が最高の人間的価値だとみなされるような世界においては、機動性の低い人間は最下層に分類されることになります。
この土地でしか暮らせない、この国の言葉しか話せない、伝統的な儀礼や祭祀を守っていないと不安になる、ローカルな「ソウル・フード」を食べていないと生きた心地がしない……そういったタイプの「地に根づいた」人たちは、グローバル社会では最底辺の労働者・最も非活動的な消費者、つまり「最弱者」として格付けされます。能力判定の基準が「機動性」だからです。
グローバル化というのは「そういうこと」です。自家用ジェット機で世界中を行き来し、世界中に家があり、世界中にビジネスネットワークがあるので「自分の祖国が地上から消えても、自分の祖国の言語や宗教や食文化や生活習慣が失われても、私は別に困らない」と言い切れる人間たちが「最強」に格付けされるということなのです。  
もちろんそんな非人間的なまでにタフな人間は現実にはまず存在しません。でも、それが「高速機動性人格」の無限消失点であり、グローバル社会における格付けの原基であることに変わりはありません。 あるグローバル企業の経営者が望ましい「グローバル人材」の条件として「英語が話せて、外国人とタフなビジネスネゴシエーションができて、外国の生活習慣にすぐ慣れて、辞令一本で翌日海外に飛べる人間」という定義を下したことがありました。まことに簡にして要を得た定義だと思います。これは言い換えると、その人がいなくなると困る人がまわりに1人もいない人間ということです。
「グローバル人材」であるためには、その人を頼りにしている親族を持ってはならないし、その人を欠かすことのできないメンバーに含んでいる共同体や組織に属してもならない。つまり、その人が明日いなくなっても誰も困らないような人間になるべく自己陶冶の努力をしたものが、グローバル企業の歓迎する「グローバル人材」たりうるわけです。  
これは「地に根づいた」生き方のちょうど正反対のものです。「地に根づいた人」とは、その人を頼る親族たちがおり、その人を不可欠のメンバーとして機能している地域の共同体や組織があるせいで、「私はこの人たちを置き去りにして、この場所を離れることができない」と思っている人間のことです。
そういう人間はグローバリズムの世界では「望ましくない人間」であり、それゆえ社会の下層に格付けされることになる。  
繰り返し言いますけれど、どうして日本人たちがこんな自分たちに圧倒的に不利なルール変更にうれしげに賛同したのか、「支配的なイデオロギー」の発揮する魔術的な効果ということ以外に私には理由が思いつきません。  
その「支配的なイデオロギー」はどういう歴史的条件の下で形成されたのか、どういうふうに構造化されているのか、どう機能しているのか、その破壊的な効果をおしとどめる手立てはあるのか、あるとすれば何か……といった一連の問題意識がこのシンポジウムには伏流しています。  
別に皆さんがそういう堅苦しい言葉づかいをしているわけではありませんが、それぞれに使う言葉は違っていても、参加者の問題意識は同一だったと私は思っています。  
ですから、本書は、日本のグローバル化が急激に進行し、グローバリスト=ナショナリスト・イデオロギーが国内世論で支配的であった時期(安倍晋三と橋下徹と石原慎太郎が高いポピュラリティを誇っていた時代)に、それに抵抗する理論的・実践的基礎を手探りしていた人間たちの悪戦の記録として資料的に読まれる価値があるのではないかと思います。
「資料的に読まれる価値がある」と思うのは、とりあえずシンポジウムが行われていたリアルタイムでは誰からも相手にされなかったからです。メディアからはほぼ完全に黙殺されました。  
しかし、偶然にも、「はじめに」のために指定された締め切りをとうに過ぎてから督促されてこれを書き出したちょうどその時に、日本維新の会の橋下徹共同代表の「慰安婦容認発言」が国外のメディアから批判の十字砲火を浴びるという事件がありました。
この発言をめぐる維新の会内部の意思不統一で、グローバリスト=ナショナリスト・イデオロギーの「尖兵」として我が世の春を謳歌していた維新の会も今は解党的危機を迎えています。安倍自民党も「侵略」をめぐる首相発言、靖国集団参拝、改憲、橋下発言に対する宥和的姿勢などが中国韓国のみならずアメリカ政府の不信を招き、ナショナリスト・イデオロギーの暴走を抑制せざるを得ない状態に追い詰められています。  
これら一連の「逆風」が日本におけるグローバル化趨勢が方向転換する歴史的な「転轍点」になるのかどうか、ただの挿話的出来事で終わるのか、それはまだ見通せません。でも、この20年日本を覆ってきた「支配的なイデオロギー」に対するある種の不安と倦厭感が国民の間に、ゆっくりではありますけれど、拡がりつつあるようには感じられます。  
この本は2013年7月の参院選の直前に発行される予定です。選挙で、グローバリスト=ナショナリスト的政治勢力に対する有権者の信認がどれほど減るのか、それとも支持率はこれほど国外からの批判があっても高止まりしたままなのか、私は興味をもって見守っています。私たちがこの本の中でそれぞれに主張してきた言葉がすこしでも理解者を獲得してきていたのであれば、選挙結果にそれなりに反映するはずです。そうなることを願っています。  
最後になりましたが、シンポジウム主催者としてさまざまな用事を一手に引き受けてくださった公共政策ラボの斎藤努所長、有形無形のご後援を賜った講談社の瀬尾傑さん、編集をご担当くださった松本創さんと講談社の青木肇さんにお礼を申し上げます。
シンポジウムの出席者が他の出席者のみなさんに参加のお礼を申し上げるというのはちょっと筋目が違うようですけれど、みなさまのご尽力に改めてお礼を申し上げます。そして、シンポジウムにおいでいただき、いつも暖かい笑い声と拍手を送って公共政策ラボの運動を支援してくださいました聴衆のみなさんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。  
日本が少しでも住みよい国になりますよう、みなさまとともに祈りたいと思います。  

2013年5月20日  内田樹