鷲田清一先生の『〈ひと〉の現象学』(筑摩書房)の書評を書いた。
5月26日の日経の文化欄に掲載されたけれど、日経取ってない人のために転載しておく。
鷲田清一はあるときから「臨床哲学」ということを言い始めた。
その語には固有の含意がある。一つは(臨床医がそうであるように)「使えるものは全部使う」という素材についての開放性であり、もう一つは「哲学者は本来病んだ人、傷ついた人に寄り添う職業である」という立ち位置の選択である。
鷲田は自分にとっての哲学とは「そういうもの」だと思った。
研究室にこもって試薬や測定機器を操作するのではなく、現に血を流し、うめき声を上げている生身の人間の傍らに立とうと決意した。
そういうふうに考える哲学者は非常に少ない。私はこの大胆さに深い敬意を払う。あまり言う人がいないが、胆力もまた哲学者にとって必須の資質だからである(「臆病な哲学者」というのは形容矛盾だ)。
鷲田の思索にとって最大の資源は彼自身である。彼の欲望、彼の屈託、彼の弱さ、彼の痛み、彼の高揚。彼の「生身」である。だから、書物的な知識も、鷲田は必ず一度は自分の生身を通過させる。その中で「腑に落ちた」言葉だけを拾い上げて、彼の個人的なアーカイブに積み上げてゆく。
「手沢」という言葉がある。手になじんだ道具に生じるつやのことである。この本の中では、どの言葉にも鷲田の「手沢」が付着している。そのせいで、彼が使うと、どんな無機的な哲学用語も独特の温もりと滑らかさを帯びる。難解な、角の尖った哲学的知見を「病んだ人、傷ついた人」にとってもリーダブルで「薬効」のあるものにしているのは、「仲を取り持つ」哲学者の生身の手柄である。
この本は阪大総長として公務に忙殺される前、哲学者として脂が乗りきった時期の仕事である。扱われている主題は顔、こころ、家族、恋、市民、多様性、死など多岐にわたる。
単一の主題をしだいに掘り下げてゆくという直線的な構成ではないから、読者はモンテーニュの『エセー』を読むように、座右において好きな頁を開いて読むのがいいと思う。
私自身は「顔」をめぐる鷲田の省察に眼を開かれた。それについての感謝の言葉だけでも急いで著者に伝えたい。
(2013-05-26 09:16)