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2014年09月 アーカイブ

2014.09.03

グローバリズムと英語教育

「グローバリズムと英語教育」というタイトルの文章をある媒体に書いた。英語教育専門の媒体なので、たぶんふつうの方は読む機会がないだろうと思うのでここに採録する。


少し前にある雑誌から「子供を中等教育から海外留学させることがブームになっている」という特集を組むので意見を聴きたいと言ってきた。そういう人がいるとは聞き知っていたが、特集を組むほどの拡がりとは知らなかった。
聞けば、富裕層は欧米の寄宿学校へ子供を送り、それほど富裕でもない層ではアジア諸国に移住して子弟をインターナショナル・スクールに通わせ、父は単身日本に残って働いて送金するというかたちが選好されているそうである。
半信半疑だったが、その後バリ島に行ったとき、現地の日本人の方からバリ島のインターナショナルスクールに日本人の母子を誘導する計画があるという話を聴いて得心した。なるほど、そういう時代になったのだ。
これが意味するのは、親たちが「英語が話せる」能力の開発を教育の最優先課題に掲げるようになったということである。英語が話せないとグローバル化した世界では高いポジションを得ることはできない。そうこの親たちは信じている。
一面の真理ではあるが、中等教育から英語習得だけのために海外留学させるのは長期的に見れば得るものより失うものの方が多いと私は思う。
どうしてもうちの子供はその国で育って欲しいという強い願いがあっての留学なら話は違う。例えば、シンガポールという国が大好きで、その社会システムや独特の文化に強い親近感を覚えるという人がシンガポールに子供を送るというのなら話はわかる。その場合はそこで過ごす時間はおそらく有意義なものになるだろう。けれども、ほんとうはスイスの寄宿学校に入れたかったのだが、予算が足りず諸式リーズナブルな国を選んだということになると話は違う。そこに暮らす必然性が本人にも家族にも「英語が話せるようになって、グローバル人材としていずれ重用される」という期待しかないからである。
だが、頭を冷やして考えて欲しい。英語運用能力が大きなアドバンテージになるのは「グローバル化が進行しているのに、英語を話せる人間があまりいない社会」においてだけである。この子供たちはいずれ日本に帰ってこなければ留学した意味がない。
当然ながら、そのような理由で留学させた親たちは、子供が留学先の土地や文化に親和して、そこに居着くことを全く望んでいない。現地人と結婚して、タガログ語やインドネシア語を話す孫たちが生まれるというようなことは祖父母にとっては悪夢以外の何ものでもない。彼らが大きな財政的負荷や単身赴任の不便さや異国での生活に耐えることの代価として求めているのは、「英語が話せる子供たち」が帰国後にそのアドバンテージを最大限活用することだけだからである。
しかし、残念ながら、子供たちが親の願い通りのキャリア形成をするという見通しに私は与することができない。この子供たちは「日本の学校なんかに行くとグローバル社会では生き残れない」という言葉を幾度となく耳に育ってきたわけであるが、それは毒性の強い呪詛としてやがて機能することになるからである。
「日本で学校教育を受けたらダメになる」と聞かされてきたからこそ、子供たちは母語が通じず、生活習慣もものの考え方も感じ方も違う異邦での生活に耐えてきた。だから、彼らが帰国して、まわりの「日本育ちの若者」を見たときに、そこに「自分ほどの努力をしてこなかったもの」への軽蔑の感情がまじることは避けられない。英語が話せない日本の若者たちは「自分のような苦労」をしなかったことの罰を「英語が話せる若者」に侮られ、それより低い地位と低い年収に甘んじることで支払う義務がある。
論理的にはそうなる。どれほど性格のよい若者であっても、自分のがしてきた苦労を正当化するためには、英語が話せない若者たちより自分の方が高く格付けされるべきだと思うことを止めることができない。
だが、果たしてそのような考えをする若者が日本社会において順調なプロモーションを遂げることができるであろうか。私は懐疑的である。彼らはたぶん二言目には「だから日本はダメなんだ」というコメントを口にする「厭なやつ」になってしまうが、それは彼らの属人的な資質とは関係がない。親たちがグローバル化する世界で競争上のアドバンテージを取るためには「日本で教育を受けたら負ける」と判断したことのコロラリーなのである。そういう若者が上司に評価され、同僚に信頼され、部下に慕われるということはあまり起こらない。結局、彼らが「厭なやつ」にならずに済むのは、「全員がふつうに英語を話している環境」だけである。だから、遠からず彼らは日本を離れて、彼の英語運用能力が何のアドバンテージももたらさない労働環境を探すようになるだろう。
そういうコスモポリタン的な生き方をはじめからめざしているなら「三界に家なし」という生活を楽しめばよい。だが、ドメスティックな格付けを上げるために「日本を捨てる、日本を侮る」という態度を選ぶことの長期的なリスクについてはもう少し冷静に評価した方がよいと私は思う。

今さら言うまでもなく、英語が国際共通語であるのは、イギリスとアメリカが200年にわたって世界の覇権国家であったという、それだけの理由による。
母語が国際共通語である人間はあらゆる領域で圧倒的なアドバンテージを享受できる。世界中どこでも母語で通せるし、国際会議も国際学会も母語でできる。母語しか話せないのに「国際的な人間」という資格を僭称できる。非英語圏話者たちが英語習得のために費やすすべての労力を英語話者は免ぜられる。そしてあらゆるコミュニケーション局面で英語話者は非英語話者に対して圧倒的な優位を保持する(ネイティブスピーカーはどんな文脈でも、相手の話の腰を折って、発音や言い回しを「矯正」することができるが、逆は絶対に許されない)。英語話者はこの政治的優位を決して手放さないだろう。
何よりあらゆるイノベーションは母語の領域で行われるということが決定的である。私たち誰でも母語においては新しい言い回し、ネオロジスム、それまでにない音韻、文法的破格を行う自由を有する。それによって母語は不断に富裕化している。ある語をその辞書的意味とは違う文脈で用いることが「できる」という権能は母語話者だけに許されている。
今の日本の若者たちは「やばい」という形容詞を「すばらしく快適である」という意味で用いるが、それを誤用だから止めろということは私たちにはできない。けれども、例えば私が「与えた」というのをgaveではなくgivedと言いたい、その方がなんか「かっこいい」からと主張しても、それは永遠に誤用のままであり、それが英語の語彙に登録されることは絶対にない。
知的イノベーションというのは、こう言ってよければ、そこにあるものをそれまでと違う文脈に置き直して、それまで誰も気づかなかった相に照明を当てることである。だが、そのような自由が許されるのは母語運用領域においてだけなのである。
フィリピンのある大学の先生がこう言っていた。「英語で講義ができるのはpracticalである。母語で講義ができないのはtragicである。」
彼女の母語は情緒豊かな生活言語ではあるが、それで国際政治やグローバル経済や先端的な学術について語ることは困難である。これが植民地の言語政治の実相である。
知的イノベーションは母語によってしか担われない。成長したのちに学んだ英語によっては「すでに英語話者が知っている概念」を表現することはできるが、「まだ英語話者が知らない概念」を語ることはできない。語ってもいいが、誰も理解してくれない。母語ならそれができる。母語話者の誰もがそれまで知らなかった概念や思念や感覚であっても、母語なら口にした瞬間に「それ、わかる」と目を輝かせる人が出てくる。記号が湧出してくる「土壌」を母語話者たちは共有しているからである。その非分節的な「土壌」から生起するものは潜在的には母語話者全員に共有されている。だから、「わかる」。それがイノベーションを励起するのである。
だから、フィリピンのような二層言語構造では、エリートたちは英語に習熟するにつれて「母語的土壌が生み出すイノベーション」のチャンスから遠ざけられる。それが植民地の知的自立を遠のかせている。
英語の国際共通語化というのは、英語を母語とする者があらゆる分野でのイノベーションを排他的に担う仕組みを作ることである。政治でも通商でも学術でもあらゆる領域で英語を母語とする人間の優位性を半永久的に保持するようにするための政治的構築物である。
これは否定しがたい現実である。だが、英語を効率よく学習しようとする非英語圏の人々は、まさにそのふるまいを通じて、英語話者の圧倒的優位というアンフェアな仕組みをさらに補強することになるということはつねに自分に言い聞かせるべきだろう。
繰り返し言うが、言語はすぐれて政治的なものである。覇権国家の言語が国際共通語になる。軍事的・経済的弱小国の人々は強国の言語を学ぶという「苦役」を強いられる。
ただ、この「苦役」は同時に「贈り物」でもある。というのは、母語が国際共通語である人たちにとって、「国際的であるために国際的であることを要さない」というのはメリットであると同時にたやすくリスクにも転化するからである。
国際共通語話者は「言葉が通じる相手」があまりに多いせいで、「言葉が通じない相手」の「何が言いたいのかよくわからないこと」に耳を傾ける手間を惜しむ傾向がある。だが、歴史が教えるのは、「帝国」の没落は「何が言いたいのかよくわからない人々」によってもたらされてきたということである。

旦那芸について

宝生流で出している『宝生』という雑誌に能楽についてのエッセイを寄稿した。
これもふつうの人の眼に止らない媒体なので、ここに採録。

 「旦那芸」というかたち

観世流の謡と舞の稽古を始めて十七年になる。二年前に初能で『土蜘蛛』を披き、今年の六月には『羽衣』で二度目の能の舞台を踏んだ。次の能は再来年で、『敦盛』を舞う予定になっている。私が専門とする合気道の基準を当てはめると、まず「三段」というあたりである。ようやく薄目が開いてきて、自分がそもそもどういう技芸を学んでいるのか、自分はなぜこの技芸の習得をめざしたのか、自分はこの芸能の「地図」のどのあたりに位置しているのか、いささか構えて言えば、芸能史におけるおのれの「歴史的役割」は何かということがようやくぼんやりわかってきたあたりである。
こういう自己認知のしかたを「マッピング」と呼ぶ。自分自身を含む風景を上空から鳥瞰的に見下ろしてみるということである。そうやってみてわかったことがある。それは私がしているのは「旦那芸」だということである。
こういう言い方を好まない人がいることはわかっている。けれども、芸能史をひもとくならば、「趣味の稽古事に夢中になって、そのために本業を忘れ、社交上若干の問題を抱えるようになった困った旦那たち」が芸能の力強い支援者であったという事実は否定できない。
落語には『寝床』という秀逸な「旦那芸」咄がある。義太夫語りに夢中になって長屋の店子や店のものたちに辟易される旦那の話である。私は志ん生の『寝床』が好きで、旦那の下手な義太夫を嫌って逃げ出す隣人たちの身勝手よりも、酒肴も甘味も用意しているのに誰も聴きに来てくれない旦那の孤独にむしろ親しみを覚えた。こういうはた迷惑な素人衆の「裾野」があってこそ芸能の峰はその高度を獲得することができる。それはどのような領域においても変わらない。
私はもともと仏文学者である(今ではその名乗りも怪しいが)。私が仏文を志したのは、中学生高校生だった頃、日本の仏文学者たちが(桑原武夫や渡辺一夫や鈴木道彦が)「裾野の拡大」にずいぶん熱心だったからである。知的に背伸びしたがる子供たちに向かって「この世にはこれほど面白く刺激的な学問領域がある」ことを彼らは教えてくれた。そして、専門領域にとどまらず、政治についても哲学についても歴史についても、底知れぬ学殖を示し、しばしば社会的実践にも身を投じた。「仏文学者というのは、こういうダイナミックな生き方をする人たちなのだ」と私は思い込み、その姿に惹きつけられた。おそらくは私と同じ理由で仏文を志した若者たちで、当時どこの大学でも仏文学科研究室は汗牛充棟の状を呈していた。
けれども、しばらくして、その仏文人気が急速に冷え込んだ。他の歴史的理由もあるかも知れないが、私は(私をも含めた)専門家たちが「裾野の拡大」のための努力を止めてしまったからではないかと思っている。「脱構築」だとか「ポストモダン」だとか、難解な専門用語を操り、俗衆の頭上で玄人同士にだけ通じる内輪話に興じているうちに、気がついたら仏文科には学生がぱたりと来なくなってしまっていた。わずか30年の間のことである。その30年間に中学生や高校生のために「フランスの文学や思想や歴史を研究することがどれほど愉快なことか」を熱く説いて、次世代に自分たちの仕事を継承してくれるように懇望した学者はほとんどいなかった。今にして思うなら、その仕事を怠るべきではなかったのだ。
経験的に言って、一人の「まっとうな学者」を育てるためには、五十人の「できれば学者になりたかった中途半端な知識人」が必要である。非人情な言い方に聞こえるだろうが、ほんとうだから仕方がない。一人の「まともな玄人」を育てるためには、その数十倍の「半玄人」が必要である。別に、競争的環境に放り込んで「弱肉強食」で勝ち残らせたら質のよい個体が生き残るというような冷酷な話をしているわけではない。「自分はついにその専門家になることはできなかったが、その知識や技芸がどれほど習得に困難なものであり、どれほどの価値があるものかを身を以て知っている人々」が集団的に存在していることが一人の専門家を生かし、その専門知を深め、広め、次世代に繋げるためにはどうしても不可欠なのだということを申し上げているのである。
私は仏文学者として「裾野」の拡大に失敗した。そして、先人たちが明治初年から営々として築き上げてきた齢百年に及ばない年若い学問の命脈を断ってしまったことについてつよい責任を感じている。今、日本の大学には専門の仏文学者を育てるための教育環境がもう存在しない。個人的興味から海外留学してフランス文学研究の学位を取る人はこれからも出てくるだろうが、それはもう枯死した学統を蘇生させるという集団的責任を果すためではない。
能楽の場合でも事情は変わらない。一人の玄人を育てるためには、その数十倍、数百倍の「半玄人」が要る。それが絶えたときに、伝統も絶える。
私が「旦那」と呼ぶのは「裾野」として芸能に関与する人のことである。余暇があれば能楽堂に足を運び、微醺を帯びれば低い声で謡い、折々着物を仕立て、機会があるごとに知り合いにチケットを配り、「能もなかなかよいものでしょう。どうです、謡と仕舞を習ってみちゃあ?」と誘いをかけ、自分の素人会の舞台が近づくと、「『お幕』と言った瞬間に最初の詞章を忘れた夢」を見ては冷や汗をかくような人間のことである。
私はそういう人間になりたいと思う。そういう人間が一定数存在しなければならないと思う。技芸の伝承は集団の営為だからである。全員が玄人である必要はないし、全員が名人である必要もない。玄人の芸を見て「たいしたものだ」と感服し、おのれの素人芸の不出来に恥じ入り、それゆえ熟達し洗練された技芸への欲望に灼かれる人々もまた能楽の繁昌と伝統の継承のためになくてはならぬ存在なのである。
私たちの社会は「身の程を知る」という徳目が評価されなくなって久しい。「身の程を知る」というのは自分が帰属する集団の中で自分が果すべき役割を自得することである。「身の程を知る人間」は、おのれの存在の意味や重要性を、個人としての達成によってではなく、自分が属する集団がなしとげたことを通じて考量する。それができるのが「大人」である。
私たちは「大人」になる仕方を「旦那芸」を研鑽することによって学ぶことができる。私はそう思っている。同意してくれる人はまだ少ないが、そう思っている。

大阪保険医新聞のインタビュー

大阪府保険医新聞というところから取材を受けた。ロングインタビューで、グローバリズムと医療の問題について思うところを述べた。
インタビュアーは大阪府保険医協会の安田雅章副理事長。


「蓄積」という日本の強み活かそう

「何となく違和感」を持ったまま立ち止まる若者たち

安田 内田先生は長年教員生活を送ってこられましたが、若者に変化を感じられましたか。
内田 社会全体が変化すれば、若者もそれにつれて変化するのは当然ですが、いわれるほど劇的な変化があったようには思いません。ただ、社会全体の傾向として、反教養主義・反知性主義の傾向は明らかに見て取れます。それと、コミュニケーション能力が全体として落ちているということは言えると思います。
その集団の持つ「知性の総量」は変化しないというのが僕の経験則です。ですから、ある局面で知的な力が落ちてきた場合には、どこか違うところで思いがけない新しい知的活動が起きている。知性の総量は変わらない。かたちが変わるだけです。
安田 若者の政治感についてはいかがでしょうか。「3・11」後であれば反原発の集会や集団的自衛権の行使容認反対の官邸前集会に若者が集まっています。反面、選挙の投票率を見ると、政治に関心がないようにも見えます。
内田 僕の周りの若者は政治意識が高い人が多いです。そんなには変わっていないと思います。
安田 メディアの影響があるのでしょうか。
内田 メディアの政治について語る言説の質は明らかに劣化しています。メディア自身今何が起きているのかわかっていない。わかっていないことをさもわかったような口ぶりで報道されるので、読者の方は何かはぐらかされたり、騙されたりしている気になる。問題の本質がわからなければ政治的な行動は起こせません。だから、人々は今はどうしていいかわからなくて立ちすくんでいるのだと思います。例えば、デモに行くのが本当に自分のしたいことなのかどうかが分からない。政治的事件に何となく違和感はあるけれど、どうすればその違和感が解消するのか、その手立ては見えない。若い人たちもまたその未決定状態のうちにあるわけで、それを政治的無関心だとは思いません。
安田 若者の「働き方」に対する考え方は、昔と今とで変わってきているのでしょうか。
内田 みんなよく働いていると思います。親の世代が次第に貧しくなっているせいです。今の20歳の学生だと親はだいたい50歳くらいでしょうか。父親が非正規労働者という家庭が少なくない。私学ではとても授業料を親には頼れない。ですから、今大学ではゼミコンパがなかなかできないらしい。みんな夜にバイトを入れているので、全員が集まることができない。「最近の若い者は…」といろいろ言われますが、日本の若年労働者たちは他国の同世代の労働者に比べると、就労態度はずっとまじめなんじゃないですか。例えば、コンビニや外食産業などでは、正社員がいなくて、全員バイトだけで仕事を回してもほとんど問題は起こりません。こんなことができるのは日本だけでしょう。

農業衰退、サラリーマン増加で「株式会社化」する日本社会

安田 日本にはモラルがある一方で、生活保護を受けている者に対するバッシングが高まっていま
す。この辺りはどう考えたらよいのでしょうか。
内田 これはイデオロギー的なものだと思います。政府主導で「自己責任論」を広めている。本来、国民国家は弱者救済のために制度設計されていなければならない。でも、弱者救済のシステムを作れば、「私は弱者です」と虚偽申請して「システムに寄生する」人間が必ず出てきます。これは、避けられない。どんなシステムを作っても、必ず出てきます。人間はそういうものだからです。ですから、「フリーライダーがゼロであるシステムを作る」と言うことは「弱者救済をしない」という以外に結論がない。自民党が世論を誘導しているのはそういう方向だと思います。
安田 なぜ、そういう意見が多くを占めているようになったのでしょうか。
内田 それは社会構成が変わって、サラリーマンばかりになったからです。農村人口が50%までの時代なら、集団として相互扶助するのは生きる上で誰にとっても自明のことでした。それ以外に生きていく方法がなかったからです。1950年代までは都市住民であっても、生活のためには隣人たちとの相互扶助システムを作らざるを得なかった。でも、農村人口が減り、サラリーマンの都市生活者が過半を占めるようになったら、相互扶助という発想は希薄になります。サラリーマンは自分が帰属する株式会社をベースに社会制度を構想するからです。自治体も、地域社会も、「株式会社みたい」に制度化されていないので、サラリーマンから見ると「無意味」なものに見える。だから、「能力の高いものは高い処遇を受け、能力の低いものは資源の分配に与れないのが『フェアネス』というものだ」というようなことが平気で言える。
安田 いつ頃から「株式会社」の論理が蔓延するようになったのでしょうか。
内田 ここ20年くらいでしょう。官僚も政治家も学者も全員が「株式会社に準拠して社会制度を論じる」ようになってきた。だから市場のニーズに即応してあらゆる制度は朝令暮改的に変化すべきだという話になる。橋下徹大阪市長が、地方自治体について「民間ではあり得ない」と言ったのは「自治体は株式会社ではない」ということを指摘したわけで事実認知的には当たり前のことなのですが、「だから自治体を株式会社のように制度改革しなければならない」という結論を導くのは論理的に間違っている。でも、そのことを誰も指摘しなかった。その流れの中で、医療も学校教育もどれも株式会社のように組織化されなければならないという話に今はなっている。これは一種の集団的な狂気です。
安田 安倍首相もそういう感覚の持ち主なのでしょうか。
内田 そうだと思います。「私の政策に不満だったら、次の選挙で落とせばいい」と言い放ちましたが、あれは「わが社の出す商品が不満だったら買わなければいい」というのと同じ理屈です。その根本には「政策の適否は最終的にマーケットが判断する」という信憑がある。政治家にとっては「次の選挙」が「マーケット」に相当する、首相はそう思っているのでしょう。だから、どんな法律を作ろうが、どんな政策を実施しようが、仮に戦争を始めようが、その適否の判断は「次の選挙」での当落で決まる、と。自分が当選すればすべての政策は正しかったことになり、失政でどれほどの被害を国民がこうむっても、落選すればそれで「チャラ」になる、と。そう考えているから「次の選挙で落とせばいい」というようなことが言えるのです。これはそのまま株式会社の「有限責任論」です。「倒産」すればおしまい。それ以上の責任は誰も追及できない。

集団的自衛権の行使は戦争をすることを意味

安田 安倍首相は集団的自衛権を政府解釈で認める閣議決定をしました。首相は「限定的」と言いますが、実際に米国の戦争の「後方支援」をすれば、他国から米国と一緒に攻めてきていると解釈され、日本も戦争に巻きまれるのではないかと思います。
内田 集団的自衛権を発動するためには「宣戦布告」をしなければならない。敵国に宣戦布告をしないで戦闘を始めれば戦時国際法違反になりますから。でも日本国憲法は交戦権を放棄しているから、宣戦布告はできない。だから「これから法整備が必要」と首相は言っていますが、「交戦権はこれを放棄する」という憲法条文を「交戦権があるかないかは内閣が判断する」と解釈することはいくら安倍首相でも無理でしょう。それに、日本には軍法がありません。戦争行為の中で兵士たちが犯した犯罪行為、略奪や民間人の虐殺や敵前逃亡についての処罰を規定した法律がない。軍法がなければ戦争はできません。ですから軍法についての新しい法律を作って次の国会に出すつもりだろうと思います。
ただ、今の米国は中国と戦争する気はありません。中国は日本以上に重要な戦略的パートナーですから。韓国とは米韓相互防衛条約を結んでおり、戦時作戦統制権を保持しているので、日韓が戦争をするということもありえない。韓国が日本と戦うというときにはすでに国内の米軍基地から日本への攻撃が始まっているわけですから。
安田 国民はそれを知らないのではないでしょうか。
内田 安倍政権は、今でも40数%の支持率がありますが、首相を支持する国民のほとんどは集団的自衛権の意味が分かっていないと思います。「集団的自衛権がないと、中国が攻めてくる」「北朝鮮からミサイルが飛んでくる」と本気で思っている。それは個別的自衛権でカバーできるということを知らない人が集団的自衛権支持者の大半でしょう。
しかも今回の集団的自衛権を巡る一連の国会答弁を聞く限り、情理を尽くして思うところを述べて、国民の理解を得ようという感じが全くしない。その場その場で適当なことを言って、言い逃れをする。平気で食言をする。はじめから国民を説得する気はない。
ただ、戦争は急には始まらないと思います。海外派兵はあくまで米軍の世界戦略の中でなされるわけですが、米軍はもう厭戦気分になっていて、これ以上戦線を拡大する気がない。それにいざ戦争となったら、日本国内の世論からの激しい抵抗があるでしょう。そう簡単にはいかない気がします。
 
医療・教育・司法・宗教は社会集団の維持に不可欠

安田 僕たち医師にとっては、TPP参加で国民皆保険がどうなるか心配です。生存権を保障した憲法25条を破棄するような「自助」を政府は強調しています。「公助」が先ではないかと思うのですが、今後どうなっていくと先生はお考えですか。
内田 国民皆保険はたしかに危機的だと思います。本来、学校教育や医療というものは、公的な事業です。米国のリバタリアンの発想は「医療や学校教育の受益者は本人なのだから、コストは受益者が自己負担すべきだ。税金を投じるべきではない。質の高い医療を受けたければ、それだけの金を出せ」というロジックで一貫しています。日本のシステムが変わっていく場合も、「受益者負担、医療の商品化」という米国の方向に沿って行くことになるでしょう。
 しかし、医療というのは、司法や学校と同じく、どんな状況においても保持されていなければならない制度です。難民キャンプであっても、敗戦国の焦土の上であっても、天変地異の後の破局的状況の中でも、医療はただちに活動しなければならない。国家がなくなっても、市場がなくなっても、医療は行われなければならない。ですから、市場や政治体制に合わせて医療の仕組みを変えるというのは、発想そのものが間違っているのです。医療が適切に機能する仕組みは医療専門者自身が考えることであって、政体や株の値動きとは何の関係もないし、あってはならないのです。
安田 抵抗している部分はあるのですが、残念ながら市場原理の方向に医療制度もグイグイ押されています。
内田 学校教育も押されています。私は立場上、教育関係者と話す機会が多いので、よく現場の話を聞きますが、「文科省の言うことをこのまま黙って聞いていると、遠からず学校教育が崩壊する」ということについては知性的な教員はだいたい理解しています。でも、文科省に抗う手立てがない。国公立は文科省に握られていますが、私学はまだチャンスがある。文科省に逆らっても自分たちのやりたい教育を実施できるだけの力量がある私学は生き延びられるでしょう。また私塾が今急速に増えています。学校教育に期待できないのなら、教育機関を手作りするしかないと考えている人たちがそれだけいる。
たぶん、医療もそうなっていくような気がします。厚労省や自治体と緊密な関係を持って、その助成がないと成り立たない医療機関と、「うちはうちの医療方針でやっていく」という病院や篤志家が私財を擲って作る病院に二分化していくような気がします。

近づく資本主義の終焉 日本が生き残るヒントが江戸時代に

内田 資本主義はすでに末期状態にあると私は見立てています。資本主義は「外部」を収奪して成立する仕組みですから、地球上の資源を食い尽くしたら、そこで資本主義は終わります。その先はありません。
安田 「末期」の資本主義社会に、展望はないのでしょうか。
内田 資本主義の崩壊のしかたは国情の違いによって違ってくるでしょう。日本は比較的崩れ方が遅く、いきなりクラッシュすることはないだろうというのが僕の見通しです。
それは日本は他国に比べて、圧倒的に国民的資源の「ストック」が大きいからです。天変地異があっても、恐慌で株券が紙くずになってしまっても、「国破れて山河あり」。山河さえ残っている限り、お米さえ食べていれば、何とか飢え死にはまぬかれる。石油や原子力エネルギーがなくなっても、再生エネルギーを考える手立てはある。経済成長はもうできないけれど、「ぼちぼちでええやん」という感じでやっていれば、それくらいの蓄えはある。
両班制の韓国や独裁制の中国が近代化できなかったのに、日本は300の藩が原則自給自足体制にありました。藩ごとに固有の政治文化、宗教、食文化があり、生活習慣や伝統芸能、武芸があった。これは理想的なリスクヘッジシステムでした。明治維新で日本が近代国家にテイクオフができたのは、この江戸時代からの「遺産」の賜です。
同じように、日本は戦後70年にわたって戦争をしないきた。それが蓄積している豊かなストックがある。ですから、この後、戦争にさえ巻き込まれなければ、日本を恨む敵さえ作らなければ、かりに資本主義の瓦解があっても、それは幕末明治維新規模の激動だと思って受け止めればいい。日本はたぶんその衝撃に持ちこたえられるだろうと思っています。

自衛隊の「志願者の確保」に公的医療保険が利用される恐れ

安田 資本主義が崩壊に近づくなかで、今後日本はどうなるとお考えでしょうか。
内田 今まさに分岐点を迎えているという気がします。実は「3・11」で一度分岐点にきたという気がしたのです。「金儲けと自己実現ばかり考えていたが、もう一度足下を見直して、お互いに助け合う仕組みを作ろう」という反省の時期がたしかにありました。でも、そういう気分が続いたのはわずか半年ほどでした。でも、すぐに復興のことも原発事故のことも忘れ去られ、オリンピック誘致だ、アベノミクスだ、カジノ解禁だと浮かれ騒ぎを始めた。「結局、金だ」という話にまた戻ってしまった。
安田 中国や韓国との外交関係が悪化しています。民間レベルでのデメリットはないのでしょうか。
内田 民間レベルのビジネスはほとんど問題なく進んでいます。民間人同士の交流は、相変わらずです。個人間の信頼のネットワークが緊密であれば、簡単に世論が変わっていくことはないと思います。
韓国の人たちは日本人以上に日韓関係を重要視しています。南北対立と反共法のせいで韓国は欧米の人文科学や社会科学の知見の取り入れに大きく遅れを取った。日本はその点ではアジアで抜きんでています。韓国にとっては今も日本は欧米の学知にアクセスするときの重要な回路です。中国もそうです。辛亥革命のときから日本人が翻訳した漢訳の文献を通じて欧米の学術情報を手に入れてきたのです。中韓の知識人たちや若者の間には、今でも日本社会の言論の自由や知的な開放性に対する敬意とあこがれがあると思います。
安田 医療についてはいかがでしょうか。
内田 国が「市場原理による医療の再編」を目指すという方向性ははっきりしていると思います。医療者をどう育成し、医療活動をどう支援するかではなく、医療をどうやって効率的に運営して、収益を上げるかを優先的に考えている。リバタリアン型の「医療を受けるのは自己利益の増大なので、受益者自身がすべてのコストを負担すべきだ」という発想を持ち込めば、いずれ国民皆保険システムは壊滅すると思います。
米国の保険制度はすでに破綻しています。民間保険会社には健康な人しか入れませんし貧しい階層の若者は医療保険を手に入れるためには軍隊に志願せざるを得ない。
日本でも、このあと自衛隊員の志願者の確保が喫緊の課題となるでしょうが、そのためには公的医療保険を廃止してしまうのが一番効果的です。「医療を受けられる権利」を政府がコントロールできるようになるからです。政府の言うことを聞く人間は公的保険で保護し、政府に逆らう人間は「自己責任で医療を受けろ」と突き放す。いわば、個人の命を「人質」にとって権力を行使できるようになる。
安田 市場原理による医療の再編に立ち向かい、食い止めるよい方法はないものでしょうか。
内田 それは、私ではなく皆さんでぜひ知恵を絞ってください。
安田 宿題として持って帰ります。本日はお忙しいなかを多岐にわたってお話を伺うことができ、誠にありがとうございました。

2014.09.04

「若者よマルクスを読もう2」まえがき

『若者よマルクスを読もうII』 が7日に書店に並ぶので、販促のために「まえがき」を掲げておきます。おもしろい本ですよ。買ってね。

みなさん、こんにちは。内田樹です。
『若者よマルクスを読もうII』は石川康宏先生と僕の同名の共著の続編です。このシリーズの企図はオリジナルの「まえがき」にも、本書に収録した『韓国語版への序文』にも書いてあります。若い人たちにひとりでも多くマルクスを読んで欲しい。それが著者ふたりの素朴な思いです。
今、若い人たちはもうマルクスを読みません(日本だけでなく、世界中がそうです)。若い人に限られない。もう誰もマルクスを読まない。僕たちはこの否定的な現実から出発しなければならないと思います。でも、なぜ誰もマルクスを読まなくなってしまったのか?
超大国アメリカの人たちは1950年代なかば、マッカーシズムの時代に「マルクスを読む」という知的習慣を国民的規模で放棄しました。「私はマルクス主義者ではない」と宣言することが生きるために必要な時代をアメリカ人たちは通過したのです。
『マッカーシズム』(リチャード・H・ロービア、岩波文庫)を読むとその時代の様相がよくわかります。時間のない方はジョージー・クルーニーが監督をした『グッドナイト・アンド・グッドラック』のDVDを借りてご覧ください。
マッカーシーの妄想が支配した時代はごく短いものでした。けれども、この経験は戦前からマルクスにそれなりの敬意と関心を抱いてきたアメリカのリベラル派知識人たちに深い「恥の記憶」を残しました。人は一度自分が強権に屈して放棄した思想について、それをもう一度取り上げることを望みません。そのような経験の全体を否認しようとする。アメリカ人はそうしました。そして、マッカーシズムから半世紀経っても「マルクスの話はしないこと」が知識人たちの間でも、ある種の暗黙の礼儀になっています。毛沢東やゲバラやカストロが「文化的アイコン」として反体制的な青年たちに選好されたことはありましたけれど(それももう40年前の話です)、それはマルクスの思想への敬意とは無関係の文脈においての出来事でした。
もう一つの超大国旧ソ連は91年にマルクス主義と訣別して、国家資本主義国家に路線を切り替えました。今のロシアでマルクス主義を懐かしむ人たちは「守旧派」と呼ばれており、共産党は「極右」政党として細々と生き残っています。でも、もうマルクスについても、マルクス主義政党についても、その歴史的役割に期待する人はロシア国内にはいないでしょう。
中国でも事情は変わりません。中国共産党はマルクス・レーン主義、毛沢東主義、鄧小平理論などを公式理論として掲げていますが、中国が「マルクスの政治的理想を実現した国家」だと思っている人は中国人にもいないでしょう。マルクスについて何か知りたいと思った人が中国共産党員に就いて学ぶということもたぶんないでしょう。
隣国韓国もマルクス研究の環境は整っていません。韓国は1961年から80年まで「反共法」という法律があり、マルクスを読むだけで投獄されるという国でした。その学術的なビハインドは間違いなく韓国の社会科学の発展に深いダメージを与えてしまったと思います。
インドネシア共産党は東アジア最初の共産党合法政党でした(中国共産党よりも日本共産党よりも結成は早いのです)。戦後インドネシアで巨大な政治勢力となりましたけれど、1965年の9月30日事件で壊滅しました。党関係者は虐殺され。死者数は一説には200万人と言われています。映画『アクト・オブ・キリング』にその一端が紹介されています。今でもインドネシアでマルクス主義はタブーです。
カンボジアでは逆に共産党が大量虐殺の主体となりました。カンボジア共産党(クメール・ルージュ)は原始共産制を実現しようとして、1975年から5年間で330万人の国民を虐殺しました。
東アジアを一望するだけで、これらの諸国や近隣諸国が「若者よマルクスを読もう」というような言葉が許容される環境ではないことがわかります。
日本はその中にあって、ほんとうに例外的な国なのです。マルクスの全著作どころか草稿までも翻訳されており、それについての膨大な研究書があり、かつマルクスの理想の実現を掲げる政党が国会に議席を持っている。そんな国は世界中を眺め回しても、もう日本とフランスくらいしかありません。研究分野だけに限れば、イギリスもドイツも高い水準を達成していますが、どちらの国でも「マルクス主義政党」は国会に議席を持ちません。
このような本が合法的に出版されて、書店の店頭に配架され、中学生や高校生が手に取って読めるというような言論環境の社会は世界でも例外的であるということを僕たちは心にとどめておいた方がいいと思います。それは言い換えると、マルクス研究と、その理論の現実化については、僕たち日本人だけにしかできない仕事があるかもしれないということです。
仏教がそうでした。発祥の地インドでは宗派そのものが消え去り、中国でも韓国でも道統が衰微したけれど、歴史的には最後に流れ着いた日本列島において仏典の整備も教義の研究も制度革新も進められた。そして、今日本が世界の仏教研究の中心地になっている。
マルクス主義もあるいは仏教と同じような運命をたどるのかも知れません。発祥の地では消滅し、それを掲げて立国した国が変質し、それを掲げた政党がさまざまな失敗を犯し、それが流れ着いた辺境においてだけ細々と棲息している。
そういうSFがありますね。ある新種のウィルスが世界を破滅させようとするとき、それに対抗できるアンチ・ウィルスが世界のある地域にだけ奇跡的に生き残っている。それを主人公が取りに冒険の旅に出る・・・。同じ話が手を変え品を変え繰り返し映画化されるのは、「そういうことがあるかもしれない」と世界中の人々が何となく思っているからでしょう。マルクス主義はその「辺境に奇跡的に生き残っていて、最後に世界を救うアンチウィルス」かもしれない。そんな気が僕にはします。そのために僕たち日本人は「マルクスを守る」という世界史的使命を委ねられているのではないか。そう思うと少しどきどきしてきませんか。
僕の敬愛する友人のイスラーム学者の中田考先生は「カリフ制再興」という政治的主張を掲げて活発な政治活動言論活動をされていますけれど、前に「どうして『カリフ制再興』のための活動をイスラーム圏から遠く離れた日本でされるんですか?」と素朴な質問をしたところ、「イスラーム圏でこんな過激な主張を口にしたら、すぐに殺されますから」とこともなげにお答えになりました。なるほど。イスラームについて、日本人が日本で言う他ない言葉がある。イスラーム共同体全体にとって「聴く価値のある言葉」が自由に言える言論環境が日本にだけ選択的に存在しているという事実には感謝しなければいけないでしょう。
マルクスについても同じことが言えるのかも知れません。日本でなければ「こんなこと」を出版する会社も、読んでくれる読者もいないという例外的な歴史的条件を僕たちは現に享受しています。この事実に僕たちは改めて深く感謝しなければいけないのかも知れません。
かもがわ出版の松竹さんはじめ、出版にご協力くださったみなさん、この本を手に取ってくださったみなさん、ほんとうにありがとうございます。

2014.09.05

ネット時代の共生の作法

ある学会誌からインタビューの申し込みがありました。携帯の廃棄物としての重要性を論じるという切り口だったのですけれど、いつのまにあぜんぜん違う話になってしまいました・・・
学会誌なので、一般読者の目に触れる機会がないと思いますので、ここに採録しておきます。


現在、人口比一人1.3台所持しているといわれる携帯電話。その一方で、出荷数2,610万台のうち、その70%の1,780万台が廃棄されています。これだけ消費されている携帯電話ですが、ケータイやネットによるいじめや犯罪など、現代の社会問題としてもクローズアップされてきています。この膨大な廃棄物となる携帯電話は、何のために利用され、わたしたちのくらしとどう折り合いをつけていくのか。人間の社会活動に造詣の深く日和らない、武道家であり思想家である内田樹氏に、ネット社会のありようやこれからの社会の行方を伺いました。みなさんとともに考えていきたいと思います。

—ケータイやインターネットの発現によって、現在、社会の中でどういった現象が起きていると思われますか?

大きな流れとして、携帯やネットを利用する人たちの間で情報リテラシーの二極化が急速に進行していると思います。
一方に良質な情報を選択的に享受できる人たちがおり、他方にジャンクな情報やデマゴギーを大量に服用させられている人たちがいる。この両者の間の情報格差がかつてなく広がっています。その階層化は、情報量の差によってではなくて、目の前の情報のクオリティを判定できる能力の差によってかたちづくられています。
自分が知らないことについて情報の真偽を判定するということは原理的にできません。でも、その情報をもたらすソースの信頼性や、情報が差し出されるマナーの適否、情報が流れてくる文脈については判定できる。「情報についての情報」をどれだけ持っているかによって情報社会の強者と弱者は差別化されます。
「情報についての情報」、メタ情報とは言い換えると、自分自身の「知のありよう」についてのマップを持っているということです。自分は何を知っていて、何を知らないのかについて俯瞰的に見ることができるということです。図書館の案内図と同じです。どこの書架に行けばどの情報を得られるかを知っている人は、自分が今持たない情報についても必要なときにアクセスできる。それは「潜在的にはすでに知っている」ということに等しい。
情報格差を形成するのは「今所有している情報」の多寡ではなく「潜在的に所有している情報=いつでもアクセス可能な情報」の多寡です。情報弱者というのは、自分が知っていることが知の布置全体のうちのどこに位置づけられるのかを言えない。自分の持っている情報についての客観評価を下す足場を持っていない。

安売りの全能感

例えば、20年、30年前にはなかったことですけど、街のあんちゃん、おっさんたちがウィキペディアで仕込んだばかりの一知半解の知識で、「こんなことも知らないのか」と学者に向かって喧嘩を売ってくるようになった。この人たちって、単一の論件については偏執的に詳しかったりするのです。数値や日付や書名や人名をぺらぺら諳んじてみせる。そして「自分のような素人でも知っていることを知らない学者にはこの論件について語る資格はない」と一刀両断する。ほとんどこのワンパターンです。彼らにとっては情報というのは「量」ではかるものであって、「質」についての判定がありうるということを知らない。彼らは学者というのをただ「知識を大量に持っている人」だと見なしているので、自分が知っていることを知らない人間はいきなり「自分と同程度かそれ以下」に格付けされる。だから、彼らは必ずまず「私はずぶの素人ですが」とか「ものを知らない人間ですけど」という名乗りをしてきます。別に謙遜しているわけではなく「バカでも知っていることを知らない」というレッテルを他人に貼り付けたいだけです。
これ、やれば簡単なのです。統計数値や年号の一つでも覚えておいて、専門家に「あなた言えますか?」と訊いて、答えられなければ「論ずる資格なし」と切り捨てることができる。この専門家を切り捨てることの全能感はたいへんに強烈なので、一度味をしめた人間は必ずこれにアディクトしてしまう。そして回復不能の情報弱者へと自己形成してしまう。
専門家も知らないような知識にすぐにアクセスできるというのはネットがもたらしたすばらしい恩恵ですけれど、それは同時にある種の全能感を人々に安売りしてしまった。体系的な勉強なんかしなくても、キーボードをちゃかちゃか叩けば、この世のことはすぐに知れると思い込んでいる。

Wikipediaの罠

何年か前にアメリカの大学で、日本の近世史の授業で「島原の乱」についてのレポートを学生に課したところ、ほとんどの学生が「島原の乱はイエズス会の陰謀だ」って書いてきた(笑)。そんな話専門家の間では聞いたことがないので、先生がもしやと思ってWikipedia調べたら、そう書いてあった。みんな、それ読んでそのまま写して書いていたわけです。それで先生は今後一切Wikipediaからのコピペはまかりならんと(笑)。
ネット検索すると、情報が羅列されていますが、それはアクセス数の順に配列されている。ですから、1頁目に出てくる情報は繰り返し読まれるけれど、2頁以下の情報はほとんど読まれない。一度もののはずみで1位になった情報は繰り返しアクセスされるので、2頁以下の情報とたちまちアクセス数が一万倍くらい違ってくる。たとえ虚偽の情報であっても、一度上位に格付けされると後はポジティブ・フィードバックがかかって世界を席巻する「定見」と見なされてしまう。情報のクオリティがアクセス数という量によって計量される。けっこう怖い話なんです。キーボードを叩けばダイレクトにアクセスできる「知の源泉」では、実は科学的検証に耐えないジャンク情報が大きな顔をしている場合もある。それを知らない人たちがネットにアディクトする。

-ネットがもたらす恐ろしい部分ですよね。でも、どうしてそんな使われ方をされるようになってきたのでしょうか。本来は人々のくらしが便利になるから、どこでも、いつでもつながることにあったのではないのでしょうか。

ネットのもたらした最大の恩恵は、万人がダイレクトに知的な資源にアクセスできるということだと思います。これこそ情報科学がもたらした最大の福音なわけです。キーボード叩くだけで、ジャンルを超えた膨大な情報に無償でアクセスできるわけですから。人間の可能性を大きく拡げた。
でも、全員が同じような情報へのアクセス能力を配分されたあと、今度はこの情報検索能力をどう使うか、その技術が問われることになった。
「情報についての情報」という次数が一つ高い情報はただキーボードを叩いて検索しただけでは手に入らない。これは誰も教えてくれない。マニュアルも、入門書もない。こればかりは身銭を切って、自力で獲得するしかない一種の身体知です。どういう人間が信用できるかできないかの判定は一種の身体知ですから。現実生活で会得するしかない。ネット空間には転がっていないし、金で買うこともできない。でも、この「情報についての情報」こそが情報時代における死活的に重要な知的資源なのです。

ネット社会における真の情報リテラシー

以前は、「無学な人」というのは、ややこしい問題については、「寅さん」のように「俺は無学な人間だけど、人としてやっていいことと、やっちゃいけないことの違いはわかる」というかたちで判断を下したわけです。人に騙されたり、裏切られたり、あるいは救われたり、支えられたりというさまざまな人生経験の積み重ねを経て、「それは人としてどうかと思うよ」という判断ができた。その適切性はその人の学歴や知識量とは無関係です。人間を一目見て、信用できるかできないかがわかった。それがわからないとえらい目に遭うからです。だから、修羅場の経験を踏んで、「人を見る眼」を養っていた。
かつて「人を見る眼」という言葉がよく口にされたのは、「エビデンスがないときにでもその人のもたらす情報の真偽を判定できる能力」が必要だということを昔の人はよくわかっていたからだと思うんです。生死の境にあって、見知らぬ人に自分の運命を託さなければならない極限状況というのは戦時中には現に頻繁にあったわけです。この人は信用できるのか、うかつに信用すると身ぐるみ剥がれるのか、それを一瞬で判定しなければならなかった。僕の父はその時代の人間ですけれど、人間について外形的な情報、地位だとか業績だとかは、その人間が信頼できるかどうかの判定基準としては使えないということをつねづね言っていました。
情報リテラシーというのは一言で言えば「自分がその真偽を知らないことについても真偽の判定ができる」能力のことです。情報の「コンテンツ」そのものではなく、その情報がもたらされるときの「マナー」を見る能力だと言い換えてもいい。情報そのものではなく、それをもたらす人間を見る。情報そのものより、それを伝える生身の人間の方が圧倒的に情報量が多いからです。
人間は無数のノイズを発しています。嘘をついているときは、「嘘をついている人間」特有のノイズを撒き散らしているし、十分に裏を取っていないことを断定的に語るときも微妙な「自信のなさ」のノイズが出ている。情報リテラシーというのはそのノイズを受信する力のことだと僕は思います。

―ネット以前は、直感力で判断していた。今は、簡単にネットにつながることで、知にアクセスできるようになって、却って、マッピングが出来なくなってしまった? こういう情報収集力とか、コミュニケーション力というのは、ユーザーの意識の問題でしょうか?

ユーザーの個人的努力で何とかなるところと、歴史的に形成されたもっと射程の長い制度問題と両方がまじりあっていると思います。
ネットがもたらした「集合知」というアイディアはすばらしいと思います。「自分の知っていること」をひとりひとりがパブリックドメインに持ち寄って、それを共有する。「三人寄れば文殊の知恵」です。でも、集合知を機能させるためには、「私はこれについては知っているが、これについては知らない」と自分の割り前についてはっきりと申告できるということが一番たいせつなことなんです。
でも、ネット情報がもたらす安価な全能感にアディクトしてしまった人は「自分が長い個人的努力を通じて確信をもって言えるようになったこと」と「Wikipediaで読んだばかりのこと」を区別することができない。それをきちんと区別してしまうと、せっかくの全能感が消失してしまうからです。ですから、情報弱者はなんでも知っているような顔をしているけれど、「あなた以外の誰によっても代替することのできないパーソナルな正味の知として、あなたは集合知に何を供出できるのか?」という問いの前には絶句してしまう。
集合知への参加条件は「マッピングができる」ということです。自分が何を知っていて、何を知らないかについて適切な記述ができるということです。専門家集団が機能するのは「自分にはこれができるが、この辺のことはわからない」とはっきりカミングアウトする人たちの集まりだからです。知りもしないことを「知っている」と言い、できもしないことを「できる」と言い張る専門家というのはありえません。そういう人は決して専門家たちの共同作業には招かれない。邪魔になるだけですから。
でも、自分が知らないことをきちんと言語化するのは非常に難しい。自分が「知っていること」と「知らないこと」の境界線を精密に記述するためにはかなりレベルの高い知性が求められる。でも、この「自分のバカさ」を客観的に表象できる能力というのが最も上質な知性だと僕は思います。それが言えれば、自分は誰を必要としているのか、どのような能力とのコラボレーションを求めているのかがわかる。集合知の形成のためには自分が「知っていること」「知らないこと=知りたいこと」を鮮明に表示するというマナーを身につけておかなければならないということです。

―その「集合知」のところをもう少し詳しくお願いしたいのですが、生き延びるための「集団としてのパフォーマンス」はどうやってあげていくのでしょうか?

学術的なイノベーションにしても、集団全体がイノベーターになれるわけではないし、そうである必要もありません。「イノベーターが生まれやすい環境」をみんなで作り上げてゆけばよい。そういう環境を適切に整備できる管理能力のある人だってイノベーターと同じくらいに有用なわけです。イノベーションは集団的な創造だからです。
イノベーションというのは「そんなところから、そんなものが出てくるとは思わなかった」というかたちを取るものですから、原理的には「マッド・サイエンティスト」によって担われる。でも、すべてのマッドサイエンティストがイノベーティヴであるわけではない。ただのマッドサイエンティストで、結局何の役にも立たない人でした終わり、ということも多々あるわけです。でも、これを嫌っていてはイノベーションはできません。イノベーションは「歩留まりの悪いプロジェクト」なんです。マッドサイエンティストが100人いて、そのうち5人がイノベーターで残りの95人はただの無駄飯食らいでした・・・というくらいの比率でも結果的には「とんとん」だと思います。
ですから、共同研究組織では「あいつ、ホント働かないな、いったい何やってんだよ」とまわりから思われるような人間を相当数「放し飼い」にしておく必要がある。そういう人たちが好き勝手なことができるように、他方にはこつこつと日常業務をこなして「イノベーションができやすい環境」を整備する人たちがいる。両方揃っていないと学術的なイノベーションはあり得ないんです。何を生み出すかは個人ベースではなく集団ベースで見るからです。ある集団からイノベーター2人、3人出てきら、それはきわめてうまく設計され運営された学術集団だったということになる。
今は科学者の業績を個人単位で計りますね。あれがいけないんです。科学の発展は個人が担うものじゃない、集団で担う事業です。卓越した研究者が一人出るときは、それを生み出すだけの土壌の厚みがあるものなんです。それを分断して、すべてを個人の業績に還元しようとする。そうなると研究者たちも集団のパフォーマンスを上げることよりも個人の業績を積み上げることを優先するようになる。それは学術的創造に逆行する発想なんです。

マンガ界の集合知

この間、京都精華大学の学長でマンガ家の竹宮恵子さんと対談したのですが、マンガが他のジャンルと比べてすごいところは、マンガ家たちが、著作権とかオリジナリティーとかいうことを基本的に言わないっていう点なんです。ストーリパターンとか、キャラクター設定とか、コマ割りとか、吹き出しの使い方とか、顔の描き方とか、そういうマンガを描く技術はすべて「パブリックドメイン」なんだそうです。
マンガの技術はみんなのものだ、と。先人から伝えられたものを後続世代が工夫して育てているジャンルなんだから、ひとりで囲い込まないで、使えるものはみんなで共有しよう。そうすればマンガのクオリティーがどんどん上がっていって、読者も増えるし、本の発行部数も増える。結果的にマンガ家全員が力量をつけることで業界全体が潤うんだ、と。
だから、お互いの技法をどんどん模倣するし、パロディやスピンオフ(二次創作)も基本的には許している。その結果、マンガは今世界中に広がって、英語やフランス語だけじゃなくて、中国語、ロシア語、アラビア語にまで訳されて、総発行部数が何億部というような作品が次々と生まれている。これは新しい技術の発明を個人の業績に還元して、「囲い込み」をしなかったことのみごとな成果だと思うんです。
これはマンガ制作と流通にかかわる全員が一個の「運命共同体」を形成して、集団として生き延びることを最優先に考えたからだと竹宮先生は説明してくれました。めざすものが個人の名声とか収入とかじゃない。音楽にしても文学にしても、そこにかかわっている人たちが個人的成功よりも自分たちの「運命共同体」のパフォーマンスを高めることを優先すれば、スケールの大きな、すばらしいものができあがる。自己利益を確保しようとするとジャンル全体が衰退する。そういうものなんです。ですから、平凡な結論なんですけれども、よい仕事をしようと思ったらみんなで力をあわせましょうってことなんです(笑)。

―お話を伺って、この集合知を機能させるというのが、ネット世代の「知のありよう」のように思ったのですが、しかし、現実はネット依存やネットの繋がりで疲れている若い人たちも多い。どうしてこのようなことになったのでしょうか?

サッカーとか、ワールドカップの様子を見ていると、「日本戦見てない奴は非国民」みたいな攻撃的な同調圧力が異常に高まっていましたね。全員が同じものに、同じように熱狂することを強制する。この同調圧力がこの20年くらいどんどん高まっている。
均質化圧と同調化圧。それはやはり学校教育のせいなんだと思います。学校はどこかで子どもの成熟を支援するという本務を忘れて、子どもたちを能力別に格付けして、キャリアパスを振り分けるためのセレクション装置機関になってしまった。
子どもたちを格付けするためには、他の条件を全部同じにして、計測可能な差異だけを見る必要がある。
問題は「差異を見る」ことじゃなくて、「他の条件を全部同じにする」ことなんです。みんな叩いて曲げて同じかたちにはめ込んでしまう。そうしないと考量可能にならないから。同じ価値観を持ち、同じようなふるまい方をして、同じようなしゃべり方をする子どもをまず作り上げておいて、その上で考量可能な数値で比較する。
見落とされているのは、この均質化圧が財界からの強い要請で進められているということです。
彼らからすれば労働者も消費者もできるだけ定型的であって欲しい。労働者は互換可能であればあるほど雇用条件を引き下げることができるからです。「君の替えなんか他にいくらでもいるんだ」と言えれば、いくらでも賃金を下げ、労働条件を過酷なものにできる。消費者もできるだけ欲望は均質的である方がいい。全員が同じ欲望に駆り立てられて、同じ商品に殺到すれば、製造コストは最小化でき、収益は最大化するからです。ですから、労働者として消費者として、子どもたちにはできるだけ均質的であって欲しいというのは市場からのストレートな要請なんです。政治家や文科省の役人たちはその市場の意向を体して学校に向かって「子どもたちを均質化しろ」と命令してくる。

―均質化と同調圧力を押し返し、本来の「知のありよう」を取り戻すのには、やはり教育がキーワードになっているのでしょうか?

教育だとは思いますよ。でも、今の学校教育は閉ざされた集団内部での相対的な優劣を競わせているだけですから、そんなことをいくらやっても子どもは成熟しないし、集団として支え合って生きて行く共生の知恵も身につかない。保護者も子どもたちも、どうすれば一番費用対効果の良い方法で単位や学位を手に入れるかを考える。最少の学習努力で最大のリターンを得ることが最も「クレバーな」生き方だと思い込んでいる。
でも、学校教育を受けることの目的が自己利益の増大だと考えている限り、知性も感性も育つはずがない。人間が能力を開花させるのは自己利益のためではなくて、何度も言っているように、まわりの人たちと手を携えて、集団として活動するときなんですから。でも、今の学校教育では、自分とは異質の能力や個性を持つ子どもたちと協働して、集団的なパフォーマンスを高めるための技術というものを教えていない。共生の作法を教えていない。それが生きてゆく上で一番たいせつなことなのに。
僕は人間の達成を集団単位でとらえています。ですから、「集団的叡智」というものがあると信じている。長期にわたって、広範囲に見てゆけば、人間たちの集団的な叡智は必ず機能している。エゴイズムや暴力や社会的不公正は長くは続かず、必ずそれを補正されるような力が働く。
ですから、長期的には適切な判断を下すことのできるこの集団的叡智をどうやって維持し、どうやって最大化するのか、それが学校でも最優先に配慮すべき教育的課題であるはずなのに、そういうふうな言葉づかいで学校教育を語る人って、今の日本に一人もいないでしょう。学校教育を通じて日本人全体としての叡智をどう高めていくのか、そんな問いかけ誰もしない。
今の学校教育が育成しようとしているのは「稼ぐ力」ですよ。金融について教育しろとか、グローバル人材育成だとか、「英語が使える日本人」とか、言っていることはみんな同じです。グローバル企業の収益が上がるような、低賃金・高能力の労働者を大量に作り出せということです。
文科省はもうずいぶん前から「金の話」しかしなくなりました。経済のグローバル化に最適化した人材育成が最優先の教育課題だと堂々と言い放っている。子どもたちの市民的成熟をどうやって支援するのかという学校教育の最大の課題については一言も語っていない。子どもたちの市民的成熟に教育行政の当局が何の関心も持っていない。ほんとうに末期的だと思います。

―モノや資源のレベルでも、教育のレベルでも、色んな意味での持続可能性というのは、一人一人がそういった知のマップを作ることだと思います。このマッピングをどうやって可能にして、共生の知恵をもった社会に作ることができると思われますか。

今の日本の制度劣化は危険水域にまで進行しています。いずれ崩壊するでしょう。ですから、目端の利いた連中はもうどんどん海外に逃げ出している。シンガポールや香港に租税回避して、子どもを中等教育から海外に留学させて、ビジネスネットワークも海外に形成して、日本列島が住めなくなっても困らないように手配している。彼らは自分たちが現にそこから受益している日本のシステムが「先がない」ということがわかっているんです。でも、「先がない」からどうやって再建するかじゃなくて、「火事場」から持ち出せるだけのものを持ち出して逃げる算段をしている。
僕は日本でしか暮らせない人間をデフォルトにして国民国家のシステムは制度設計されなければならないと思っています。でも、日本語しか話せない、日本食しか食えない、日本の伝統文化や生活習慣の中にいないと「生きた心地がしない」という人間はグローバル化した社会では社会の最下層に格付けされます。最高位には、英語ができて、海外に家があり、海外に知人友人がおり、海外にビジネスネットワークがあり、日本列島に住めなくなっても、日本語がなくなっても、日本文化が消えても「オレは別に困らない」人たちが格付けされている。こういう人たちが日本人全体の集団としてのパフォーマンスを高めるためにどうしたらいいのかというようなことを考えるはずがない。どうやって日本人から収奪しようかしか考えてないんですから。
この仕組みを何とかしないといけない。そのために学校教育とは別のラインに、若い人たちの市民的成熟を支援する場を立ち上げなければならないと思って凱風館という私塾を僕は始めたわけです。でも、こういうことを考えたのは僕一人ではなくて、ほとんど同時期にまわりの友人たちも次々と私塾を立ち上げて若い世代のための教育事業に取り組んでいます。鷲田清一、平川克美、釈徹宗、名越康文、茂木健一郎・・・みんなこの二三年の間に、凱風館と相前後して私塾を開設しています。そういう流れが来ているんだと思います。
ネット社会というのはどういう「ハブ」に繋がるのかで力量が問われるわけです。「誰に繋がっているのか」ということが死活的に重要なわけです。ツィッターがそうですけれど、「誰をフォローするか」によってその人の情報リテラシーの質が決定される。数百万の発信者のうちから、良質な情報発信源を「この人」と特定するためにはそれなりの力が要ります。そして、自分自身も流れ込んでくる無数の情報の中から「これ」というものを選別して次に流してゆく。そういう何層かのスクリーニングを通過して伝播した情報は良質のものと見てよい。これも集合知です。複数の人のピア・レビューを経て伝播する情報は信頼性が高い。
ジャンク情報というのは情報のスクリーニングを経由しない情報のことです。均質的なイデオロギーや言葉づかいの人たちの間だけで共有されている情報は、どれほど拡散していてもいずれ厳密なレビューには耐えられない。だから、情報の階層化は急速に進行することになる。
ネット社会では「誰とネットワークを結ぶか」という集団の選択がその人の情報リテラシーだけでなく、その後のキャリアパスの広がりや、社会的地位までをも決定することになります。
個人ではなく集団が社会的活動の単位となるべきだというのは人類史的な経験知ですが、それが現代ではさらに切迫したものとなってきたということでしょう。

―−−−本日は長時間にわたり非常に内容の濃いお話を盛りだくさんお話ししていただき、どうもありがとうございました。

2014.09.14

「英語教育論」についての再論

英語教育についてある媒体に書いたものをブログに採録したところ、それを読んだニュージーランドに20年お住まいの読者の方から手紙を頂いた。
その方の見聞でも、ニュージーランド「留学移民」事情は、だいたい私の指摘と符合しているということであった。
香港や台湾や韓国からの児童生徒の留学生は「いざというとき」の脱出先を確保するという政治的な目的もあるので、parachute children と呼ばれている由。もちろん、そればかりでなく、幼児期から英語運用能力を身につけることで、故国に戻ったときにキャリア形成上のアドバンテージを得るということも期待されている(それをhead start と呼ぶというそうである。「一歩先んじたスタート」)。
僕の見聞の通り、父親が国に残って仕送りする母子家庭がベーシックなスタイルだが、中には小学生の子どもだけをホームステイ先に送り込んでいるケースもあるという。
さて、このように幼いときに母語的環境から切り離された子どもたちはどうなるのか。
家族と一緒に移民してきた場合、母語を生活言語として「話すこと」はできるが読み書きはできないという事例が多い。
小学生の途中で留学したが、英語運用能力が大学入学レベルに達せず、一方日本語では祖父母と会話ができないというケースや、高校の途中から留学して大学入学の英語レベルには達したが、今度は英和辞典の日本語が読めなくなったというケースなど「英語も日本語も中途半端」ないわゆる「セミ・リンガル」というケースも少なくないそうである。
この方は「留学移民」についてもEMI(Englishas a Medium of Instruction=英語以外の教科を英語で教える教育法)についても批判的であった。
高校の数学や物理を英語で教えることにどういうメリットがあるのか。教えられる教員もいないだろうし、英語の苦手な生徒たちは数学や物理学について興味があっても教科内容を理解する手前で梯子を外されてしまう。
それが非効率だからというので、明治初期に大学での教科を日本語で教えられるように、漱石のような卓越した知性を「お雇い外国人」に代えて次々と大学教員に登用し、あわせて日本語そのものを高度化していったのではなかったか。
先人が営々として築き上げて、日本の近代化を推し進めた民族的な努力を100年後にまたゼロに戻そうとする人たちは何を考えているのか。
私たちにまず必要なのは英語の早期からの習得ではなく、むしろ「日本語の高度化」だと私は思っている。
明治時代において西周や加藤弘之や中江兆民や福沢諭吉が果したような「世界と日本を架橋する」仕事を担う人々が出てこなければならないと私は思っている。
そういうのは「そういう仕事は自分がやるしかない」という自覚のある人が進んで担うものであって、利益誘導したり、強制したりするものではない。ましてや、日本人全員が就くべき仕事でもない。
「外界と自分たちの集団の間を架橋すること」は集団が生き延びてゆくために必要な無数の仕事のうちの一つである。必須のものではあるが、無数の必須の仕事のうちの一つであることに代わりはない。
「餅は餅屋」。そういう「架橋仕事」が「好きで堪らぬ」とか「自分の天職だ」と思っている人がやればいい。全員が「餅屋」になる必要はない。
考えればわかるが、「全員が餅屋であるような社会」で人は生きて行くことができない。
そんな社会で、そもそも、誰が餅米を作るのか、誰が餅を流通させるのか、餅を売った金で餅以外に何が買えるのか。少し考えれば「餅屋経済」が不可能であることはわかる。
けれども、それでも「餅屋経済」を願う人たちがいる。
「全員が餅屋であるような社会」はすぐに壊滅してしまうが、「ほとんど全員が餅屋である社会」でなら、残りの「非餅屋」には莫大な利益を確保するチャンスがあるからだ。
彼らは「餅屋が欲しがるもの」(つまり餅以外のすべての生活財)を作り、それを売ることで莫大な利益を上げることができる。
ご覧のとおり、これはグローバル経済の理想状態を戯画化した姿である。
すべての労働者と消費者を規格化・定型化することで企業の収益は最大化する。
全員が同じことしかできない、同じものしか求めない状態にあって、「それ以外のことができる」一握りの人間になることこそグローバル資本主義者の夢なのである。70億の99%を互換可能な状態にとりまとめると、地上のすべての富は残り1%に排他的に集積されることになる。
いま日本の英語教育で推進されているのは、「できるだけ多くの互換可能な人間で地上を埋め尽くす」というグローバル資本主義の夢の実現のためのプログラムである。
明治人たちの身を削るような努力を水泡に帰せしめ、日本語話者は母語だけでは政治も経済も学術も芸術も「語ることができない」状態にすること、つまり言語的な植民地状態に日本を作り替えることに官民挙げて熱中している。
「狂気の沙汰」という以外に形容のしようがないけれど、さすがにここまで頭のネジが飛んでくると、「この人たちは頭がおかしいのではないか」ということには気の利いた小学生でも気づくだろう。
彼らが言語的実践としてどういうオルタナティブを提示してくるのか、私は期待して眺めている。
予測できることが一つある。
それは、アメリカにおけるエボニクスやシンガポールにおけるシングリッシュのような「英語の極端な方言化」である。
戦略的な言い方をすれば、「母語として身につけた英語」ではもう「別の英語」圏の人たちとはコミュニケーションできないという状態を作り出すことで、英語の国際共通性=特権性を解体するのである。
実際に、たぶん半世紀後には、インドと中国では、人々が文法も語彙も私たちの知っている英語とは違う固有の「インド英語」と「中国英語」を話し始めているだろう。彼らがそのときに十分な政治力を持っていれば、当然それを「英米英語」に代えて「国際共通語」にすることを要求してくる。
もちろん、そのときは文科省は(まだ存在していれば、だが)「中国英語ができないとビジネス・コミュニケーションで不利になり、また無用の侮りを受けるリスクがある」という理由で、低年齢からの「中国英語」習得を学習指導要領に書き込むだろう。
それに対して「バカじゃないの」と思う国民が過半に及ばないようであれば、日本はもうその前に終わっているだろうから、私が今さら心配するには及ばない。
もう一つもっと夢のあるオルタナティブもある。
それは「日本語の高度化」という選択肢である。
それを担うような天才的な「日本語の遣い手」の登場を私ははげしく待望している。

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