「若者よマルクスを読もう2」まえがき

2014-09-04 jeudi

『若者よマルクスを読もうII』 が7日に書店に並ぶので、販促のために「まえがき」を掲げておきます。おもしろい本ですよ。買ってね。

みなさん、こんにちは。内田樹です。
『若者よマルクスを読もうII』は石川康宏先生と僕の同名の共著の続編です。このシリーズの企図はオリジナルの「まえがき」にも、本書に収録した『韓国語版への序文』にも書いてあります。若い人たちにひとりでも多くマルクスを読んで欲しい。それが著者ふたりの素朴な思いです。
今、若い人たちはもうマルクスを読みません(日本だけでなく、世界中がそうです)。若い人に限られない。もう誰もマルクスを読まない。僕たちはこの否定的な現実から出発しなければならないと思います。でも、なぜ誰もマルクスを読まなくなってしまったのか?
超大国アメリカの人たちは1950年代なかば、マッカーシズムの時代に「マルクスを読む」という知的習慣を国民的規模で放棄しました。「私はマルクス主義者ではない」と宣言することが生きるために必要な時代をアメリカ人たちは通過したのです。
『マッカーシズム』(リチャード・H・ロービア、岩波文庫)を読むとその時代の様相がよくわかります。時間のない方はジョージー・クルーニーが監督をした『グッドナイト・アンド・グッドラック』のDVDを借りてご覧ください。
マッカーシーの妄想が支配した時代はごく短いものでした。けれども、この経験は戦前からマルクスにそれなりの敬意と関心を抱いてきたアメリカのリベラル派知識人たちに深い「恥の記憶」を残しました。人は一度自分が強権に屈して放棄した思想について、それをもう一度取り上げることを望みません。そのような経験の全体を否認しようとする。アメリカ人はそうしました。そして、マッカーシズムから半世紀経っても「マルクスの話はしないこと」が知識人たちの間でも、ある種の暗黙の礼儀になっています。毛沢東やゲバラやカストロが「文化的アイコン」として反体制的な青年たちに選好されたことはありましたけれど(それももう40年前の話です)、それはマルクスの思想への敬意とは無関係の文脈においての出来事でした。
もう一つの超大国旧ソ連は91年にマルクス主義と訣別して、国家資本主義国家に路線を切り替えました。今のロシアでマルクス主義を懐かしむ人たちは「守旧派」と呼ばれており、共産党は「極右」政党として細々と生き残っています。でも、もうマルクスについても、マルクス主義政党についても、その歴史的役割に期待する人はロシア国内にはいないでしょう。
中国でも事情は変わりません。中国共産党はマルクス・レーン主義、毛沢東主義、鄧小平理論などを公式理論として掲げていますが、中国が「マルクスの政治的理想を実現した国家」だと思っている人は中国人にもいないでしょう。マルクスについて何か知りたいと思った人が中国共産党員に就いて学ぶということもたぶんないでしょう。
隣国韓国もマルクス研究の環境は整っていません。韓国は1961年から80年まで「反共法」という法律があり、マルクスを読むだけで投獄されるという国でした。その学術的なビハインドは間違いなく韓国の社会科学の発展に深いダメージを与えてしまったと思います。
インドネシア共産党は東アジア最初の共産党合法政党でした(中国共産党よりも日本共産党よりも結成は早いのです)。戦後インドネシアで巨大な政治勢力となりましたけれど、1965年の9月30日事件で壊滅しました。党関係者は虐殺され。死者数は一説には200万人と言われています。映画『アクト・オブ・キリング』にその一端が紹介されています。今でもインドネシアでマルクス主義はタブーです。
カンボジアでは逆に共産党が大量虐殺の主体となりました。カンボジア共産党(クメール・ルージュ)は原始共産制を実現しようとして、1975年から5年間で330万人の国民を虐殺しました。
東アジアを一望するだけで、これらの諸国や近隣諸国が「若者よマルクスを読もう」というような言葉が許容される環境ではないことがわかります。
日本はその中にあって、ほんとうに例外的な国なのです。マルクスの全著作どころか草稿までも翻訳されており、それについての膨大な研究書があり、かつマルクスの理想の実現を掲げる政党が国会に議席を持っている。そんな国は世界中を眺め回しても、もう日本とフランスくらいしかありません。研究分野だけに限れば、イギリスもドイツも高い水準を達成していますが、どちらの国でも「マルクス主義政党」は国会に議席を持ちません。
このような本が合法的に出版されて、書店の店頭に配架され、中学生や高校生が手に取って読めるというような言論環境の社会は世界でも例外的であるということを僕たちは心にとどめておいた方がいいと思います。それは言い換えると、マルクス研究と、その理論の現実化については、僕たち日本人だけにしかできない仕事があるかもしれないということです。
仏教がそうでした。発祥の地インドでは宗派そのものが消え去り、中国でも韓国でも道統が衰微したけれど、歴史的には最後に流れ着いた日本列島において仏典の整備も教義の研究も制度革新も進められた。そして、今日本が世界の仏教研究の中心地になっている。
マルクス主義もあるいは仏教と同じような運命をたどるのかも知れません。発祥の地では消滅し、それを掲げて立国した国が変質し、それを掲げた政党がさまざまな失敗を犯し、それが流れ着いた辺境においてだけ細々と棲息している。
そういうSFがありますね。ある新種のウィルスが世界を破滅させようとするとき、それに対抗できるアンチ・ウィルスが世界のある地域にだけ奇跡的に生き残っている。それを主人公が取りに冒険の旅に出る・・・。同じ話が手を変え品を変え繰り返し映画化されるのは、「そういうことがあるかもしれない」と世界中の人々が何となく思っているからでしょう。マルクス主義はその「辺境に奇跡的に生き残っていて、最後に世界を救うアンチウィルス」かもしれない。そんな気が僕にはします。そのために僕たち日本人は「マルクスを守る」という世界史的使命を委ねられているのではないか。そう思うと少しどきどきしてきませんか。
僕の敬愛する友人のイスラーム学者の中田考先生は「カリフ制再興」という政治的主張を掲げて活発な政治活動言論活動をされていますけれど、前に「どうして『カリフ制再興』のための活動をイスラーム圏から遠く離れた日本でされるんですか?」と素朴な質問をしたところ、「イスラーム圏でこんな過激な主張を口にしたら、すぐに殺されますから」とこともなげにお答えになりました。なるほど。イスラームについて、日本人が日本で言う他ない言葉がある。イスラーム共同体全体にとって「聴く価値のある言葉」が自由に言える言論環境が日本にだけ選択的に存在しているという事実には感謝しなければいけないでしょう。
マルクスについても同じことが言えるのかも知れません。日本でなければ「こんなこと」を出版する会社も、読んでくれる読者もいないという例外的な歴史的条件を僕たちは現に享受しています。この事実に僕たちは改めて深く感謝しなければいけないのかも知れません。
かもがわ出版の松竹さんはじめ、出版にご協力くださったみなさん、この本を手に取ってくださったみなさん、ほんとうにありがとうございます。