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2011年10月 アーカイブ

2011.10.18

格差と若者の非活動性について

ある媒体から若者の労働観についてアンケートを受けた。
みじかい回答を期待していたはずだが、やたら長くなってしまったので、たぶんこのままでは掲載されないだろう。
自分としてはたいせつなことを書いたつもりなので、ここに転載して、諸賢のご叱正を乞うのである。

Q1.現在、世界では、経済格差(世代間格差ではなく、金持ちとそうではない人との格差)や社会への不満に対して、多くの若者たちが声を上げ、デモを起こし、自分たちの意見を社会に訴えようと行動しています。翻って日本ではここ数十年、目に見える形での若者の社会的行動はほとんど見られません。これだけ若者たちにしわ寄せが行く社会になっているのに、そして政策的にも若年層に不利な方向で進んでいるのに、若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのでしょうか? それは特に不満を感じていないからなのか、それともそうした行動に対して冷めているのか。あるいは社会的に連帯するという行為ができないのか。ネットにはけ口が向かっているだけなのか。内田さんはどのようにお考えでしょうか? 

マルクスの『共産党宣言』の最後の言葉は「万国のプロレタリア、団結せよ」でした。革命を呼号したパンフレットの最後の言葉がもし「打倒せよ」や「破壊せよ」であったとしたら、マルクス主義の運動はその後あのような広範なひろがりを見せたかどうか、私は懐疑的です。マルクスの思想的天才性は、彼が社会のラディカルな変革は「なによりもまず弱者たちが連帯し、団結するところから始めなければならない」ということを直観したこと、最初のスローガンに「戦え」ではなく、「連帯せよ」を選択した点にあると私は思っています。
今の日本の若者たちが格差の拡大に対して、弱者の切り捨てに対して効果的な抵抗を組織できないでいるのは、彼らが「連帯の作法」というものを見失ってしまったからです。どうやって同じ歴史的状況を生きている、利害をともにする同胞たちと連帯すればよいのか、その方法を知らないのです。
それは彼らの責任ではありません。それは私たちの社会がこの30年間にわたって彼らに刷り込んできた「イデオロギー」の帰結だからです。
彼らが教え込まれたのは「能力のあるもの、努力をしたものはそれにふさわしい報酬を受け取る権利がある。能力のないもの、努力を怠ったものはそれにふさわしい罰を受けるべきである」という「人参と鞭」の教育戦略です。
数値的に示される外形的な格付け基準に基づいて、ひとに報償を与えたり、処罰を加えたりすれば、すべての人間は「報償を求め、処罰を恐れて」その潜在能力を最大化するであろうというきわめて一面的な人間観を土台とする、この「能力主義」「成果主義」「数値主義」が「弱者の連帯」という発想も、そのための能力も深く損なってしまった。私はそう考えています。
弱者たちの権利請求のうちに「能力のないもの、努力を怠るものと格付けされたものであっても、人間としての尊厳を認めるべきだ」という言葉はほとんど見ることができません。比較的戦闘的な反格差論者が口にするのは「バカで強欲な老人たちが社会的資源を独占し、若者たちは能力があり、努力をしているにもかかわらず格付けが低い。これはフェアではない」というものです。それは「能力がなく、努力もしていない人間は(老人であれ若者であれ)低い格付けをされるのは当たり前だ」という「イデオロギー」に対する暗黙の同意を言外に含んでいます。彼らは連帯を求めているわけではなく、「社会のより適切な能力主義的再編」を要求しているのです。
ですから、「フェアネス」を求めている若者たちのうちの一人がたまたま社会的上昇を遂げた場合に、成功した若者には「いまだ社会下層にとどまっている仲間」を救う義務は発生しないということになります。だって、彼が成功したという事実からして、社会の能力主義的格付けは「部分的には正しく機能している」からです。若者たちの多くは格差に苦しんでいるけれど、一部の若者は成功している。そして、成功した若者たちはそれをまったくの偶然だとは思わず、「きわだった才能を見落とさないほどには社会的な格付けは機能している」というふうに判断している。はなやかな社会的上昇を遂げた「勝ち抜け」組は自分たちが「勝ち抜け」したという当の事実から推して、階層下位に釘付けにされた若者には能力や努力が足りないからだという結論に簡単に飛びついてしまう。
私たちの社会においては、若者たちの集団を組織し、思想的に教化指導し、政治目標を設定できるレベルの知的能力をもつものは「システマティックに社会上位に釣り上げられる」。そのようにして若者の連帯は制度的に不可能にされている。それが僕の見方です。

Q2.そもそも、賃金の低さや高い失業率(正社員になれないことも含め)、世代間の不平等などについて、今の若者たちはどのように感じているのでしょうか。怒り?あきらめ?それともあまり関心がない?あるいは別に不自由していない? 

Q1の答えにある通りです。世代間の不平等については激しい発言をする若者たちも、同世代間に発生している格差については押し黙っている。それは能力主義的な思想が彼らに深く内面化しているからです。若者たちは資源配分のアンフェアに怒っているのではなく、「(それなりの能力をもつ)私に対する評価がフェアではない」という点について怒っているわけです。だから「能力のある人間が抜擢され、無能な人間が冷遇されるのは当たり前」という格差を生み出す発想そのものには異議を唱えていない。
ご質問にお答えするなら、世代間の不公平については「怒り」を感じ、同世代間の不公平については「あきらめ」を感じ、そのような社会的不備の原因を質し、解決策を講じるということについては「無関心」を感じている、ということになると思います。
繰り返し言うように、私はそれが彼らの責任であるとは思っていません。そのような「イデオロギー」を刷り込んだのは社会全体の、あえて言えば、私たちの世代の責任です。ですから、私たちの世代は、それを「解毒」する社会的責任を負っている。それが日本社会の急務だろうと思います。
格差が進行している最大の理由は「社会上層にいる人間たち」がその特権を自分の才能と自己努力に対する報酬であり、それゆえ誰ともわかちあうべきではないと信じ込んでいる点にあります。
能力や努力(できる能力)というのははっきり言って先天的なものです。「背が高い」とか「視力がよい」とか「鼻がきく」というのと同じ種類の天賦の資質です。それは天からの「贈り物」です。自分の私有物ではない。だから、独占してはならない。
能力というのは「入会地」のようなもの、みんなが公共的に利用するものです。それがたまたまある個人に「天が授けた」。
だから、背が高い人は高いところにあるものを手の届かない人のために取ってあげる。眼の良い人は嵐の接近や「陸地が見えた」ことをいちはやく知らせる。鼻のきく人が火事の発生に気づいて警鐘を鳴らす。そのようにして天賦の能力は「同胞のため」に用いるべきものなのです。
19世紀まで、マルクスの時代まで「団結せよ」という言葉が有効だったのは、マルクス自身が自分の天才を「天賦のもの」だと自覚していたからです。その稟質を利用すれば、マルクスならドイツの「既成制度」の中で、政治家や法曹や大学教授やジャーナリストとしてはなやかな成功を収めることだってできたはずです。でも、マルクスはそうしなかった。自分のこの「現世的成功確実な頭の良さ」を苦しむ弱者のために捧げなければならないと思った。それは倫理の問題というよりは、「能力とは何か?」という問題についての答えの出し方の違いによるのだと私は思います。マルクスは自分の才能を「万人とわかちあう公共財産のようなもの」だと見なしていた。それはたぶん遠い淵源をたどれば、一神教的な人間観に基礎づけられたものでしょう。

Q3・内田さんはかつて「下流志向」のなかで、「働かない若者たち」について指摘されました。「働かない」結果としての低賃金(あるいは格差といってもいいかもしれません)があるとすれば、なぜ、そのような若者が生み出されていったのでしょうか? なぜ、若者は働かなくなったのでしょうか。それは社会構造としてそうなってきているのでしょうか、それとも若者の考え方、精神構造の変化によってそうなっているのでしょうか?
最初の質問とも関連しますが、なぜ、若者は、そうなってしまったのでしょうか? 

若者が働かなくなったのは「努力すれば報償が与えられる」という枠組みそのものに対する直感的な懐疑のせいだろうと思います。「みんなが争って求めている『報償』というのは、そんなにたいしたものなのか?」という疑念にとらえられているのです。一流大学を出て、一流企業に勤めて、35年ローンで家を建てて、年金もらうようになったら「蕎麦打ち」をするような人生を「報償」として示されてもあまり労働の動機付けが高まらない。努力すれば「いいこと」があるよ、というタイプの利益誘導の最大の難点は、示された「いいこと」がさっぱり魅力的ではないという場合に、誰も努力しなくなってしまうということです。
私たちの社会は利益誘導によって学習努力、就業努力を動機づけようとしてきました。それが作り出したのがこの「働かない若者たち」です。
人間は自己利益のためにはあまり真剣にならない。これは多くの人が見落としている重大な真実です。
自己利益は自分にしかかかわらない。「オレはいいよ、そんなの」というなげやりな気分ひとつで人間は努力を止めてしまう。簡単なんです。
人間が努力をするのは、それが「自分のため」だからではありません。「他の人のため」に働くときです。ぎりぎりに追い詰められたときに、それが自分の利益だけにかかわることなら、人間はわりとあっさり努力を放棄してしまいます。「私が努力を放棄しても、困るのは私だけだ」からです。でも、もし自分が努力を止めてしまったら、それで誰かが深く苦しみ、傷つくことになると思ったら、人間は簡単には努力を止められない。自分のために戦う人間は弱く、守るものがいる人間は強い。これは経験的にはきわめて蓋然性の高い命題です。「オレがここで死んでも困るのはオレだけだ」と思う人間と、「《彼ら》のためにも、オレはこんなところで死ぬわけにはゆかない」と思う人間では、ぎりぎりの局面でのふんばり方がまるで違う。
それは社会的能力の開発においても変わりません。自分のために、自分ひとりの立身出世や快楽のために生きている人間は自分の社会的能力の開発をすぐに止めてしまう。「まあ、こんなもんでいいよ」と思ったら、そこで止る。でも、他人の人生を背負っている人間はそうはゆかない。
人間は自己利益を排他的に追求できるときではなく、自分が「ひとのために役立っている」と思えたときにその潜在能力を爆発的に開花させる。これは長く教育現場にいた人間として骨身にしみた経験知です。
でも、「こんな当たり前のこと」をきっぱりと語る人間は今の日本では少数派です。圧倒的多数は「人間は競争に勝つために徹底的にエゴイスティックにふるまうことで能力を開花させる」という、(今となっては、ウォール街以外では)十分な経験的基礎づけを持っていない「イデオロギー」を信じている。
日本の若者が非活性的なのは、「自己利益の追求に励め。競争相手を蹴落として社会上層に這い上がれ」というアオリが無効だったからです。  
「連帯せよ」とマルクスは言いました。
それは自分の隣人の、自分の同胞をも自分自身と同じように配慮できるような人間になれ、ということだと私は理解しています。そのために社会制度を改革することが必要なら好きなように改革すればいい。でも、根本にあるのは、「自分にたまたま与えられた天賦の資質は共有されねばならない」という「被贈与感」です。そこからしか連帯と社会のラディカルな改革は始まらない。
今の日本社会に致命的に欠けているのは、「他者への気づかい」が「隣人への愛」が人間のパフォーマンスを最大化するという人類と同じだけ古い知見です。

2011.10.20

雇用と競争について

フェリスへの行き帰りの新幹線車中で、下村治『日本は悪くない、悪いのはアメリカだ』(文春文庫)を読む。
先日、平川克美君に勧められて、これと『日本経済成長論』を買った。
下村治は明治生まれの大蔵官僚で、池田勇人のブレーンとして、所得倍増計画と高度成長の政策的基礎づけをした人である。
1987年の本だから、24年前、バブル経済の初期、アメリカがレーガノミックスで「双子の赤字」が膨れあがり、日本では中曾根首相が「国民一人100ドル外貨を消費しよう」と輸出過剰を抑制しようとしていた時代の本である。
24年前に書かれた経済分析の本が、四半世紀を経てなおリーダブルであるということにまず驚かされる。
リーダブルであるのは、(リーマンショックによるアメリカ経済の崩壊を含めて)下村が指摘したとおりに国際経済が推移したからである。
これだけ長い射程で日米経済のありようを見通せたのは、下村のものを見る眼がきちんとしていたからである。
下村の思想を一言で言えば「経済は人間が営んでいる」ということである。
人間が営んでいるものである以上、「人間とはどのようにふるまうものか」についての洞察があれば、経済についても汎通性の高い知見をもつことができる。
解説で水木楊はこう書いている。
「経済学は自然科学ではない。例えば、台風は来て欲しくないといくら願っても、自然の法則に従い、やってくる。だが、恐慌は人間の行動と、その奥にある心理によってもたらされる。株価が下がるとみなが思えば株を売りに走り、その結果として株価はさらに下がるのだ。」(217頁)
人間が集合的にふるまうときの「心理」についての理解が深ければ、経済活動のランダムに見える動きに人間的なレベルで、ある種の合理性やパターンを見抜くことができる。
下村がエコノミストたちの議論を一蹴するときのロジックはそれである。
「この議論の決定的な間違いは、現実の人間が視野に入っていないことだ。(・・・)いったい人間がいない経済を想定してどういう意味があるのだろうか。
このような間違いを犯すのは、経済の姿を原子論的な個体の集合のように思い違いしているからだ。」(108-9頁)
これは自由貿易について述べた部分での言葉である。
TPPについて原理的に考えようと思って読み出した本であるが、自由貿易についての下村の舌鋒の鋭さに驚いた。
現在の日本のエコノミストの中で、ここまでクリアカットに自由貿易主義を批判する人が何人いるだろうか。
下村の基本は経済は「国民経済」を基礎とする、ということである。「経世済民」の術なのだから、それが本義であるのは当たり前のことだ。
「本当の意味での国民経済とは何であろうか。それは、日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない。そういう前提で生きている。中には外国に脱出する者があっても、それは例外的である。全員がこの四つの島で生涯を過ごす運命にある。
その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である。」(95頁)
この指摘のラディカルさに、私は驚かされた。
当節はやりの「グローバル人材」とか「メガコンペティション」とかいうことを喃々と論じている人たちはおそらく「この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない」と言い切ることができまい。
「競争で勝ち残らなければひどい目に遭う」という命題を彼らは国際競争についてだけでなく、実は国民間の「生き残り競争」にも適用しているからである。
「競争で勝ち残れない日本人はひどい目に遭ってもしかたがない」と彼らは思っている。
あれほど「競争力をつけろ」とがみがみ言い聞かせて来たのに、自己努力が足りなかった連中にはそれにふさわしい罰(列島からでられず、貧苦に苦しむという罰)が下るのは「しかたがない」と思っている。
そういう人たちは別に何のやましさもなく、日本列島を出て、愉快に暮らせる土地に移って行くだろう。
下村は逆に「その手」を封じて、経済について考える。
「まずオレが食って行くためにどうするか」ではなく、「まず一億二千万が食ってゆくためにどうするか」を考える。
話の順番が違うのである。
グローバリストたちの言い分は一見すると合理的に見える。
自由貿易によって、低コストで高付加価値の製品をつくりだす産業分野だけが国際競争に生き残り、他の産業は壊滅する。
だが、この「勝ち抜けた産業分野」からの「余沢」に浴することによって、いずれ国民全体が経済的な恩恵をこうむるであろう。
一点突破全面展開論といってもいいし、「先富論」といってもいい。
もとは中華思想である。
世界の中心に中華皇帝がおり、そこに権力も財貨も情報も文化資本も全部が集中する。
臣民は中華皇帝からの同心円的な隔たりによって格付けされ、資源も皇帝からの距離に従って按分される。
皇帝に近いものは王化の光に浴し、辺境には禽獣と変わらない「化外の民」が蟠踞する。
4000年前から中国人はグローバリストだったのである(今日の富貴もむべなるかな)。
中華皇帝を「ウォール街」と置き換えても話は同じである。
国民経済というのは、このグローバルでモノトーンな世界に対して、ローカルで、自律的で、カラフルな経済環境を対置させようとするものである。
世界は同心円構造ではなく、サイズも機能も異なるさまざまな国民経済圏に「ばらけている」方がよい、という考え方である。
その方が個別的な「経済圏」の中に暮らす人々を「食わせる」ことのできる可能性が高いからである。
下村によれば、国民経済は、生産性の低いセクターで働く人たちでも「食える」ように制度設計されている。
それだけでもたいしたものだ、と下村は考えている。
TPPのいちばん熱いトピックである農産物についても下村の立場は明快である。
アメリカは日本が農産物について高い関税障壁を設けて保護していることを市場閉鎖的であると難じているが、それは文句を言うのが筋違いである。
これには国民経済史的必然があるからだ。
「どうしてこうなったかと言えば、日本は明治維新から、日本列島に住む日本人に十分な就業機会を与えながら、かつ、付加価値生産性の高い産業を育成し、それで十分に高い所得を実現する、という目標を必死になって追求してきた。ところが、雇用機会を増やすことと付加価値生産性の高い産業を育成することは必ずしも簡単ではないばかりか、同時に実現することはできないものである。
というのは、多くの人に就業機会を与えるためには、それ相応の人手を産業に吸収させなければならない。しかし、付加価値を高めるには、なるべく人手を減らして生産性を高める必要がある。
このため、必然的に、生産高の割りには人手を多く必要とする生産性の低い部門と、徹底的に合理化して相対的に人手をあまり必要としない生産性の高い部門の両極端の産業が成立するようになったのである。その結果として、今日の日本人の生活があるということができる。
したがって、今でも日本は、自動車のように生産性がきわめて高い産業がある一方で、コメに代表されるような、生産性のきわめて低い品目をむりやり維持している、という状況になっているのだ。」(75頁)
コメ生産について、これほど腑に落ちる説明を私はかつて読んだことがない。
今の日本における若年層の雇用環境の悪化は「多くの人に就業機会を与えるために、生産性は低いが人手を多く要する産業分野が国民経済的には存在しなければならない」という常識が統治者からも、経営者からも、失われたからではないのか。
生産性を上げなければ国際競争力はつかない。
生産性を上げるためには人件費を最低限まで抑制しなければならない。
だから、「生産性が高くなればなるほど、雇用機会が減少する」というスパイラルが起こる。
今のエコノミストたちのうちに、これをはっきり非とする人はいるのだろうか。
完全雇用(食わせること)が国際競争力の向上の「目的」であり、それゆえ、それに「優先する」と断言する人を、私は見たことがない。
エコノミストたちは「雇用環境の改善は、さらに生産性を上げることによって達成される」というロジックを手放さない。
「生産性を上げる」というのは端的に「人件費コストを減らす」ということである。
だから、付加価値生産性の高いセクターでは、雇用はどんどん減る。
たしかに一時的に雇用は減るが、生産性の高い産業が日本経済を牽引して、いずれその突出した成功をおさめた国際的企業の収益が下々のものにも「余沢」を及ぼし、雇用は回復することであろう・・・というのがグローバリストの主張である。
貧乏人たちの金を吸い上げて、一部の金持ちに集約させる。衆の輿望を担ったこの「金持ち」が他の金持ちたちとの国際競争に勝ち、回り回ってその金持ちが貧乏人たちに「収益の余り」を施すようになる、というシナリオである。
鄧小平の「先富論」そのままである。
だが、競争に勝った金持ちはイタリアでフェラーリを買い、フランスでシャトーマルゴーを飲み、ハワイにコンドミニアムを買い、ケイマン諸島に銀行口座を開くかもしれない。
彼を送り出すためにあえて貧乏を受け容れた「地元民」たちは「いずれ、『余沢』が及ぶ」という約束を信じて、手をつかねて待っているうちに貧窮のうちに生涯を終えた・・・という話になるかも知れない。
たぶん高い確率でそうなるだろう。
だが、国民経済というのは、端的に全国民が「食えるか」どうかという問題である。
胃袋の問題、米びつの問題である。原理原則はどうでもよろしい。
生産性が高い産業は「よいもの」で、生産性が低い産業は「悪いもの」だというのは、下村の言葉を借りれば「原子論的」な世迷い言である。
生産性が低いが大量の雇用を引き受ける産業(というより、大量の雇用を引き受けるがゆえに生産性の低い産業)は、国民経済的には必要不可欠のものである。
良いも悪いもない。
全国民に就業機会を担保しつつ、付加価値生産性の高い産業を育成すること。
これが国民経済の課題である。
それは「食べたいけど、痩せたい」というのと同じように苦しい条件である。
でも、この条件を呑み込まないと国民経済というものは立ちゆかない。
だが、自由貿易論者たちは、この分裂を嫌う。そして話を簡単にしようとする。
付加価値生産性の高い産業を育成すれば、「自動的に」全国民の就業機会は担保されるのだから、問題は「勝てる産業の育成だけだ」という話にまとめこもうとする。
この単純化を下村は語調荒く難じている。
「それぞれの国には生きるために維持すべき最低の条件がある。これを無視した自由貿易は百害あって一利なしといってよい。(・・・)自由貿易主義の決定的な間違いは、国民経済の視点を欠いていることだ。」(96頁)
下村は自由貿易で国内産業が壊滅したチリとインドと清朝中国の例を挙げている(存命していたら、2008年のメキシコの食料危機も例に挙げただろう)。
そして、ハロッドの次のような言葉を引いている。
「完全雇用は自由貿易にもまして第一の優先目標である。完全雇用を達成するために輸入制限の強化が必要であれば、不幸なことではあるが、それを受容れなければなるまい。」(100頁)
続けて下村はこう書く。
「自由貿易とはそういうものである。決して、神聖にして犯すべからざる至上の価値ではない。
強大国が弱小国を支配するための格好な手段でもあることをもっとハッキリと認識すべきだ。」(100頁)
改めて言うまでもないが、これは机上の空論をもてあそぶ学者の言葉ではない。日本の高度成長と所得倍増という、戦後もっとも成功した経済政策を現場で起案した人の言葉である。
TPP推進論者たちは、農業もまた自由貿易に耐えられるだけ生産性を高めなければならないと主張している。だから、アメリカでやっているようなビジネスライクな粗放農業を提案している。だが、それによって完全雇用の機会が遠のくことについては、何も言わない。
彼らは「自由貿易は完全雇用に優先する(なぜならば、自由貿易の結果、国際競争に勝利すれば、雇用環境は好転するはずだからである)」というロジックにしがみついている。
彼らが見落としているのは、自由貿易の勝利は、最終的にどの国の国民経済にも「義理がない」多国籍産業の手に帰すだろうということである。
「国民を食わせる」というような責務を負わず、「生産性の低い産業の分まで稼ぐ」というハンディを背負っていない多国籍企業が国際競争では勝つに決まっている。
国民経済は国際競争に勝つために制度設計されているものではない。
それは国民に雇用を担保することを第一義に制度設計されているのである。
そのことを下村治に改めて教えてもらった。
それを多として、ここにその主張の一部を録すのである。

2011.10.23

アンケートの続き

若者と雇用について、アンケートに回答したら、さらに続きの質問が来た。

Q4 「人参と鞭」の教育を突き進めてきた米国であのような大規模なデモが起こっているのはなぜなのでしょうか? 日本とはどこが違うのでしょうか? 日本は戦後、米国から教育や民主主義の概念など多くを学び、米国的価値観をよしとしてきました。その日本では連帯せず、米国では拡大している。この差についてどうとらえたらいいのか、ぜひ教えて下さい。

戦後日本で大きな社会運動が起きたのはすべて「反米ナショナリズム」の運動としてです。
外形的には「左翼」主導の運動でしたので、本質は見えにくいですが、そうなのです。
内灘闘争以来の反基地運動、60年70年の二次にわたる安保闘争、佐世保羽田に始まるベトナム反戦戦争などなど・・・巨大な動員をもたらした社会的な異議申し立ての運動はすべて本質的には反米闘争(すなわち「日本の主権回復闘争」)として行われました。
日本人が「社会正義」を要求して運動を起こすとき、それはつねに「反米ナショナリズム」とセットになっているというのが私たちがとりあえず戦後史から学ぶことのできる「パターン」の一つです。

今の日本の格差社会は「アメリカ的社会観」が作り出したものです。そして、これまでの質問でお答えしてきたように、若者たちは「アメリカ的社会観=能力のないものが階層下位にとどまるのは当然であるという考え方」を深く内面化しております。
ですから、もし彼らが「アメリカ的な社会観・人間観からの脱却」という枠組みで、「格差社会の是正」ということを言い出したら、その主張は広範な国民的共感を獲得する可能性があります。
「もともと日本には、弱者をとりこぼさないような相互扶助的な社会システムが整っていたのではなかったか?そのような『古きよき伝統』に回帰しよう」というタイプの主張を若者たちが掲げたら、大きな「うねり」が発生する可能性があります。
でも、若者たちはあまりに深くアメリカ的な利己主義に嵌入しているので、そういう「アイディア」は彼らからは出てくるようには思えません。残念ながら。

日本で劇的な社会改革運動を起こそうとしたら、それは「アメリカの属国であることを恥じる、主権奪還の闘争」として行われる他ない。そして、そのように考えている人間はとりあえず政治の世界にもメディアの世界にも、もちろんビジネスの世界にもほとんどいません。

それに対して、アメリカ国内では格差解消という主張がつよい訴求力を持つのは、それが「アメリカという国の建国理念」の確認にかかわるからです。
アメリカは理念の上につくられた国です。すべての人間は「造物主によって、生命、自由、幸福追求の権利を与えられている」という「自明の真理」を彼らは推論の基礎に置くことができます。
つまり、ウォール街でデモをしている若者たちの主張の本質的な正統性は、アメリカの独立宣言と、さらに言えば「神」によって保証されているのです(「権利」を実現する手続きについてはテクニカルな異論があるでしょうが)。
残念ながら、私たちの国の若者にはそのような思想的バックボーンがありません。
天上的な保証人がいない。日本国憲法でさえ、彼らはほとんど典拠にすることがありません(典拠にしたくても、それもまた「アメリカからおしつけられたもの」に他なりません)。
それが日本人の「本態的な弱さ」なのです。
日本人が強くなれるのは「圧倒的な強敵(自然災害も含めて)に対して弱者たちが連帯する」という物語のうちに身を置いた場合だけです。
そういう「物語」を作り出すことができるかどうか、格差解消という政治的実効の成否はそれにかかっていると私は思います。


2011.10.24

凱風館オープンハウス

凱風館オープンハウス

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2011.10.25

グローバリストを信じるな

Againの定例経営会議で箱根湯本に集まり、平川くん、兄ちゃん、石川くんと日本の行く末について話し合った。
EUの先行き、日本のデフォルトの可能性から、TPPが「空洞化したアメリカ産業の最後の抵抗」という話になる。
いったいアメリカは自由貿易によって日本に何を輸出して、どういうメリットを得るつもりなのか?
この中心的な論点について、メディアは実はほとんど言及していない。
「TPPに参加しないと、『世界の孤児』になる」とか「バスに乗り遅れるな」というような、「自己利益(というよりは「自己利益の喪失)」にフォーカスした言葉が飛び交うだけで、「なぜアメリカがこれほど強硬に日本のTPP参加を要求するのか?」という、アメリカの行動の内在的なロジックを冷静に解析した記事をメディアで見る機会はほとんどない。
まさか、アメリカが自国の国益はさておき日本の国益を守るために完全な市場開放を日本に求めているのだと思っている国民はいないと思うが、メディアの社説を徴する限り、論説委員たちはその数少ない例外らしい。
TPP参加は日本の国益のためだ、と推進派の人々は言う。
だが、それではアメリカが日本に市場開放を求め理由を説明したことにはならない。
アメリカが他国に市場開放を求めるのは、自国の国益がそれによって増大するという見通しが立つからである。
そして、貿易において、一国が輸出によって大きな貿易黒字を得る場合、その相手国は輸入超過となって貿易赤字が増えることになっている。
ふつうはそうである。
貿易では(グローバリストの好きな)Win-Win はない。
片一方が黒字なら、片一方は赤字になる。
アメリカは自国の貿易収支が黒字になることをめざして他国に市場開放を求めている。
それは「売りたいもの」があるからで、「買いたいもの」があるからではない。
アメリカが自国の貿易黒字を達成すれば、相手国は貿易赤字を抱え込むことになる。
だから、「アメリカの求めに応じて、日本が市場開放することは、日本の国益を増大することになる」という命題を有意味なものにするためには、「アメリカの国益を最大限に配慮することが、結果的には、日本の国益を最大化することになる」という命題をそこに媒介命題としてはめ込むしかない。
だが、「アメリカの国益を最大限に配慮することが、結果的には、日本の国益を最大化することになる」という命題は汎通的に真であるわけではない。
そう思っている人は少なからずいるが、それはあくまで個人的な「信念」であって、一般的真理ではない。
もちろん私はそのような「風が吹けば桶屋が儲かる」式の推論にまるで根拠がないと言っているわけではない。
経験的に「そういうこと」が繰り返しあったからこそ、彼ら(松下政経塾系政治家とか財界人とか官僚とかメディア知識人のかたがた)はそのような推論になじんでいるのである。
私とて経験則の有効性を否定するものではない。
でも、その場合には、「この政治的選択は原理的には合理性がないが、経験的にはわりと合理性がこれまではあったので、これからも妥当するかも・・・」というくらいの、節度ある語り口を採用すべきだと思う。
「バスに云々」のような、人を情緒的に不安にしておいて、その虚を衝いてガセネタをつかませるあくどいセールスマンのような安手の語り口は採るべきではないと私は思う。
誤解して欲しくないのだが、私は市場開放や自由貿易に「原理的に」反対しているのではない。
その点については、ぜひご理解を頂きたい。
ただ、市場開放や自由貿易は「主義」として採用すべきものではなく、国民経済に資する範囲で「按配」すべきものだという下村治の立場に与するのである。
貿易政策の得失については、「これでいいのだ」と包括的に断定したりしないで、個別的に吟味した方がいいと申し上げているだけである。
とりあえず私たちが知っているのは「アメリカは必死だ」ということである。
ここでTPPに日本を巻き込むことができるかどうかが「アメリカ経済の生命線」であるかのような悲壮な覚悟でアメリカは日本に迫っている。
別に、日本の国運を案じて悲愴になっているわけではない。
アメリカの行く末を案じて悲愴になっているのである。
アメリカの貿易について考える場合に、私たちがまず前提として理解すべきことは、「アメリカには、日本に売る工業製品がない」ということである。
アメリカの製造業は壊滅してしまったからである。
「ものつくり」という点について言えば、もうアメリカには世界のどんな国に対しても国際競争力のある「もの」を輸出する力がない。
自動車も家電も衣料品も、なにもない。
一応作ってはいるけれど、クオリティについての信頼性が低く、割高なので、買い手がつかないのである。
「もの」でまだ国際競争力があるのは、農産物だけである。残りは「ノウハウ」、つまり「頭のなかみ」である。
GoogleとAppleのような情報産業と司法、医療、教育といった制度資本を「金にするノウハウ」だけはまだ「売り物」になる。
でも、正直に言うと、GoogleもAppleも、「なくても困らない」ものである。
あると便利なので私も愛用しているが、ほんとうに必要なのか、と改めて考えるとわからなくなる。
「そうやって温泉宿にまでiPhoneやiPadを持ち込むことで、キミたちの人生は豊かになっていると言えるのかね。そんなものがあるせいで、キミたちはますます忙しくなり、ますます不幸になっているようにしか、オレには見えないのだが」と兄ちゃんに言われて、私も平川くんも返す言葉を失ったのである。
たしかに、そのとおりで、このような高度にリファインされた情報環境があった方がいいのか、なくてもいいのか、考えるとよくわからない。
朝起きてパソコンを起動して、メールを読んで返事を書いているうちに、ふと気づくとが日が暮れ始めていたことに気づいて愕然とするとき、「いったいオレは何をしているのか」と考え込んでしまう。
私が機械を使っているのか、それとも機械が私を使っているのか。『モダンタイムス』的不条理感に捉えられる。
兄ちゃんの話では、最近のサラリーマンたちはオフィスで朝から晩までプレゼン用の資料をパワーポイントとエクセルで作っているそうである。
「仕事の時間の半分をプレゼンの資料作りに使っているのを『働いている』と言ってよいのだろうか?」と兄ちゃんは問う。
情報環境の「改善」によって、私たちの労働は軽減されるよりはむしろ強化された。
それは実感として事実である。
家にいながら仕事ができるようになったせいで、私たちは外で働いているときも家にいるときも働くようになり、そうやって増大する作業をこなすためにますます高度化・高速化した端末を求めるようになり、その高度化した端末のせいで私たちのしなければいけない仕事はますます増大し・・・
エンドレスである。
アメリカはこのエンドレスの消費サイクルに私たち「ガジェット大好き人間」を巻き込むことによって、巨大な市場を創設することに成功した。
もうアメリカが「売ることのできるもの」は、それくらいしかない。
だから、アメリカの大学と研究開発機関は世界中から「テクニカルなイノベーションができそうな才能」を必死で金でかき集めようとしている。
アメリカの先端研究の大学院に占める中国人、インド人、韓国人の比率は増え続けているが、それは彼らにアメリカで発明をさせて、それを絶対に故国に持ち帰らせず、アメリカのドメスティックなビジネスにするためである。
いつまで続くかわからないが、しばらくはこれで息継ぎできるはずである。
「アメリカの大学は外国人に開放的で素晴らしい」とほめたたえる人がよくいるが、それはあまりにナイーブな反応と言わねばならぬ。
先方だって生き残りをかけて必死なのである。外国人だって、国富を増大させてくれる可能性があるなら、愛想の一つくらい振りまくのは当たり前である。
これが「教育を商売にする方法」である。
アメリカの学校教育には「子供たちの市民的成熟を促す」という発想はもうほとんどない。
学校はビジネスチャンスを生み出す可能性のある才能をセレクトする機会であり、市民的成熟のためのものではない。
アメリカでは、高付加価値産業だけが生き残り、生産性が低い代わりに大きな雇用を創出していた産業セクターは海外に移転するか、消滅した。
だから、「才能のある若者」以外には雇用のチャンスが減っている(失業率は2010年が9・6%だが、二十代の若者に限ればその倍くらいになるだろう)。
ウォール街でデモをしている若者たちは「まず雇用」を求めている。
これまでアメリカ政府は彼らに「我慢しろ」と言ってきた。
まず、国際競争力のある分野に資金と人材を集中的に投入する。それが成功すれば、アメリカ経済は活性化する。消費も増える。雇用も増える。貧乏人にも「余沢に浴する」チャンスが訪れる。だから、資源を「勝てそうなやつら」に集中しろ、と。
「選択と集中」である。
でも、それを30年ほどやってわかったことは、「選択されて、資源を集中されて、勝った諸君」は、そうやって手に入れた金を貧乏な同胞に還元して、彼らの生活レベルを向上させるためには結局使わなかった、ということである。
それよりは自家用ジェット機買ったり、ケイマン諸島の銀行に預金したり、カリブ海の島を買ったり、フェラーリに乗ったり、ドンペリ抜いたり、アルマーニ着たり(たとえが古くてすみません・・・)して使ってしまったのである。
選択-集中-成功-富の独占というスパイラルの中で、「選択から漏れ、集中から排除された、その他大勢の皆さん」が絶対的な貧窮化にさらされ、今ウォール街を占拠している。
彼らの運動に「政策的な主張がないから、政治的には無力だろう」と冷たく言い捨てる人々が日米に多いが、それは間違いだと思う。
彼らが政府に何を要求していいかわからないのは、「完全雇用は経済成長に優先する」という(日本の高度成長を理論づけた)下村治のような「常識を語る人」がアメリカでは政府部内にも、議会にも、メディアにもいないからである。
ウォール街を占拠している若者たち自身「成長なんか、しなくてもいい。それより国民全員が飯を食えるようにすることが国民経済の優先課題である」という主張をなしうるだけの理論武装を果たしていないのである。
「生産性の低い産業分野は淘汰されて当然だ(生産性の低い人間は淘汰されて当然だ)」というグローバリストのロジックは貧困層の中にさえ深く根付いている。
だから、彼らはこの格差の発生を「金持ちたちの強欲(greed)」という属人的な理由で説明することに満足している。
「属人的な理由で説明することに満足している」というのは、それを社会構造の問題としては論じないということである。
「強欲である」というのは「能力に比して不当に多くの富を得ている」という意味である。
問題は個人の倫理性のレベルにあり、国家制度のレベルにはない。
「アメリカはこれでいい」のである。
ただ、一部に「ワルモノ」がいて、国民に還元されるべき富を独占しているので、それは「倫理的に正しくない」と言っているのである。
このような一部の富者だけを利する経済システムは「アメリカの建国理念からの倫理的な逸脱」であって、構造的な問題ではない。だから、建国の父たちが思い描いた「あるべきアメリカの姿」に立ち戻れば問題は解決する。
彼らの多くはまだそう思っている。
アメリカのこの頽落はもしかすると「建国の理念のコロラリー」ではないのか・・・という足元が崩れるような不安はまだアメリカ人のうちに広まっていない。
それが最大の危機であるように私には思われる。
話を続ける。
情報と教育の他、あと、アメリカが商売にしようとしているのは司法と医療である。
これについては、専門家が的確に危険性を指摘しているから、私の方からは特に付け加えることはない。医療については、前にご紹介したYoo先生の『「改革」のための医療経済学』をご一読いただければよろしいかと思う。
そして、アメリカの最大の売り物は農産物である。
驚くべきことに、アメリカが「かたちのあるもの」として売れるのはもはや農産物だけなのである(あと兵器があるが、この話は大ネタなので、また今度)。
農産物はそれは「その供給が止まると、食えなくなる」ものである。
Googleのサービスが停止したり、Appleのガジェットの輸入が止まると悲しむ人は多いだろうが(私も悲しい)、「それで死ぬ」という人はいない(と思う)。
日本列島からアメリカの弁護士がいなくなっても、アメリカ的医療システムが使えなくなっても、誰も困らない。
でも、TPPで日本の農業が壊滅したあとに、アメリカ産の米や小麦や遺伝子組み換え作物の輸入が止まったら、日本人はいきなり飢える。
国際価格が上がったら、どれほど法外な値でも、それを買うしかない。そして、もし日本が債務不履行に陥ったりした場合には、もう「買う金」もなくなる。
NAFTA(North America Free Trade Agreement)締結後、メキシコにアメリカ産の「安いトウモロコシ」が流入して、メキシコのトウモロコシ農家は壊滅した。そのあと、バイオマス燃料の原材料となってトウモロコシの国際価格が高騰したため、メキシコ人は主食を買えなくなってしまった。
基幹的な食料を「外国から買って済ませる」というのはリスクの高い選択である。
アメリカの農産物が自由貿易で入ってくれば、日本の農業は壊滅する。
「生産性を上げる努力をしてこなかったんだから、当然の報いだ」とうそぶくエコノミストは、もし気象変動でカリフォルニア米が凶作になって、金を出しても食料が輸入できないという状況になったときにはどうするつもりなのであろう。同じロジックで「そういうリスクをヘッジする努力をしてこなかったのだから、当然の報いだ」と言うつもりであろうか。
きっと、そう言うだろう。そう言わなければ、話の筋目が通らない。
でも、こういうことを言う人間はだいたい日本が食料危機になったときには、さっさとカナダとかオーストラリアとかに逃げ出して、ピザやパスタなんかたっぷり食ってるのである。
TPPについて私が申し上げたいことはわりと簡単である。
「生産性の低い産業セクターは淘汰されて当然」とか「選択と集中」とか「国際競争力のある分野が牽引し」とか「結果的に雇用が創出され」とか「内向きだからダメなんだ」とか言っている人間は信用しない方がいい、ということである。
そういうことを言うやつらが、日本経済が崩壊するときにはまっさきに逃げ出すからである。
彼らは自分のことを「国際競争に勝ち抜ける」「生産性の高い人間」だと思っているので、「いいから、オレに金と権力と情報を集めろ。オレが勝ち残って、お前らの雇用を何とかしてやるから」と言っているわけである。
だが用心した方がいい。こういう手合いは成功しても、手にした財貨を誰にも分配しないし、失敗したら、後始末を全部「日本列島から出られない人々」に押しつけて、さっさと外国に逃げ出すに決まっているからである
「だから『内向きはダメだ』って前から言ってただろ。オレなんかワイキキとバリに別荘あるし、ハノイとジャカルタに工場もってっから、こういうときに強いわけよ。バカだよ、お前ら。日本列島なんかにしがみつきやがってよ」。
そういうことをいずれ言いそうなやつ(見ればわかると思うけどね)は信用しない方が良いです。
私からの心を込めたご提言である。

おまけ:「笠原和夫による『ある対話』」
(これはおまけです。内容は本文とはまったく関係がありません)
「岸和田のだんじり大将」に私のオリジナルのヴァーチャル関西弁を地場のイントネーションに「校正」していただきました。
では、正調「岸和田弁」でどぞ。

(松方弘樹の声で)
おー、何ちょけたこというとんじゃ、こら。

ここまで66年間戦争の方で面倒みたったんは誰おもとんじゃ。
そやろが。その間にそっちは戦争もせんと、ぬくぬく商いしてたんとちゃうんか?
うっとこの若い衆、その間にぎょうさん死んどるど。

こっちがどんぱちしてる間に、そっちはうっとこの若いもんの血いでたっぷり金儲けしたんちゃうんか?おー。
その分くらい吐き出さんと、世間にかっこつかんやろ。ちゃうけ?

わしら、そうゆうてるわけやろが。
この言い分、そんなに筋違いか。てこっちは訊いとるわけや。


(遠藤辰雄の声で)

まあまあ、そちらのご事情も、わしら、わからんわけではないですよ。

たしかに、本家には、えらいご苦労かけました。
わしら、そのご恩、忘れしまへん。忘れるはず、ありまへんわ。

せやけど、言わせてもろてええですか。

こっちもこれまで、それなりのご恩返しはさせてもろてるんとちゃいますのん。

わしら、世間からは「属国」言われてんですわ。
ほんま、かっこつきまへんねん。

主権国家として、こらごっつ恥ずかしいですわ。

でも、戦争に負けたんやし、これはしゃあない。
そう思て、ぐうっと我慢して、「同盟機軸」いわせてもうてきたんとちゃいますのん。

わしら、66年間、本家にいっぺんでもさかろうたこと、ありまっか?

いっぺんもないでっしゃろ?

そら、60年安保とか、68年羽田とか、若いもんが跳ねたことはおましたけど、若いもん弾けたんはそっちもご一緒でっしゃろ。

基地も、地元の皆さんに、わしらほんま合わせる顔ありまへんねん。
「辛抱やで」しか言えんのですわ。
ほんま、恥ずかしいことですわ。

属国やからゆうて、なんもそこまでコケにせんでもと思いますわ。

もう、ええんちゃいますのん。このへんで。

本家が手元不如意や言うて、うちのシマもシノギも全部寄越せゆうのは、ちょっと無理筋ちゃいまっか。

それでは、渡世の仁義が通らへんのとちゃいまっか(と、ちょっと怖い顔になる)

2011.10.26

相撲について

『通販生活』にだいぶ前に相撲について書いた。
大相撲なんて、ろくに見ないし、力士の名前ももう知らないのだが、不祥事が相次いで、「透明化」とか「合理化」とかいう話がでてきたので、「それは違うだろう」と思ってはいた。
どういうわけか、『通販生活』から「大相撲再建プラン」の提出を求められたので、さらさらと書いた。
三人の人がそれぞれ再生案をもちよって、読者アンケートしたら、私の提案が一位になったそうである。
「大相撲は株式会社すればよい」というのである。
反資本主義者であるところのウチダがなぜ「株式会社化」を言い出したのか・・・興味ありますでしょ?
というわけで、こんなことを書きましたというアンケート内容をブログ公開いたします(ちょっと加筆しました)
どぞ。


不祥事が続く相撲協会に対して「協会の体質を改めてもっと透明性を高めるべき」「競争原理が前提のフェアなスポーツとしての意識改革が必要だ」という意見が多いようですけれど、私には違和感があります。
批判の的になっているのは相撲協会の「古い体質」ですが、「新しい体質」こそが問題なんです。
相撲協会は文部科学省の管轄下に置かれていて、そこで行なわれる相撲は、清く正しく美しくなければならない。土俵ではスポーツマンシップが求められ、八百長など言語道断である……
当然と思われるかもしれませんが、それは戦後の、わずか数十年の間につくられた「常識」なのです。相撲は実際はそのはるか以前から存在した。
それをむりやり近代市民社会の常識にかなうように体裁を整えて、公益法人の認定を受けようとしているようですが、その「新しい体質」に収まらないあれこれが不祥事として噴出している。
それが大相撲の現状ではないでしょうか。
果たして協会の収支や番付編成の過程を開示して、透明性を高めれば人気は復活するのでしょうか?
力士が労働組合をつくって協会と統一契約書を交わし、労働条件を団体交渉すれば入場者は増えるのでしょうか?
部屋制度を廃止して、最強力士を決めるガチンコ・トーナメントを導入すれば視聴率は上がるのでしょうか?
私はどれも違うと思います。
「相撲とは何か?」という根源的な問いと向き合わずに、表層的な「常識」に合わせて形を変えてしまうと、「相撲」そのものが消えてしまう、私にはそのように思われます。
相撲とは様々な要素を含む「なんだかよくわからないもの」です。
それが相撲の真骨頂であり、相撲の魅力です。
相撲とは何でしょうか。  
神事の要素を含んでいますが、それ自体は神事ではない。
武道でもないし、格闘技でもない。
昔は力士が最強と思われていた時代もありましたが、Kー1で秒殺される元横綱を見て以来、格闘技としての有効性を信じる人もあまりいません。  
相撲がスポーツかといわれると、これも無理でしょう。
スポーツの生命線は「フェアネス(公正さ)」です。しかし、中立であるはずの行司は相撲部屋に所属し、監視する審判部も部屋を持つ親方で構成されている。
どう考えても「フェアネス」は成り立ちません。  
伝統芸能の要素は含んでいます。
でも、ほんそうにそうなら、外国人力士に日本古来の文化に対する敬意があり、それを継承しようとするつよい意思が認められるはずです。
でも、彼らのなかに「日本の伝統芸能を学びに来ている」という意識を持つ人がどれだけいるのでしょうか。彼らのプライオリティはむしろ勝ち負けであり、「アスリートとしての成功」のように思われます。  
ここまで挙げてきたすべての要素を相撲は含んでいます。
「なんだかよくわからないもの」、それが相撲です。
神事でも武道でも格闘技でもスポーツでも伝統芸能でもなく、同時にそのすべてでもある。
これほど多様な機能を担う「芸事」は他には存在しません。その雑種性において、相撲はきわめて「日本的」なものだと思います。  
相撲の本義はおそらく「異種架橋」能力のうちにあります。
起源は太古の昔、言葉の通じない異民族同士が出会ったときにまで遡る。そのとき、2人の男が裸形になり、拍手を打ち、大地を踏み、塩を撒いて浄めの儀式を行ない、歌を歌い、同じ動作を鏡像的に反復してみせた。  
反復は、相手からのメッセージを受信したことの一番わかりやすい合図です。
でも、反復は同時に暴力性も帯電します。
そこで「擬制的に」勝敗を競うことで、その暴力性をリリースした。
だから、相撲の起源において、極端な話、「勝敗はどうでもよかった」のです。  
私たちだって、本場所の優勝争いは格闘技・スポーツとして見ながら、巡業の花相撲では初っ切り(相撲の禁じ手をコミカルに演じるもの)や相撲甚句を伝統芸能として楽しむ。
そうやって、相撲という「なんだかよくわからないもの」に向き合ってきたのです。
今になって、相撲不祥事に対してヒステリックに反応するのは、本場所での勝ち負けだけを相撲だと思うからです。
それは相撲のひとつの要素ではありますが、すべてではありません。
以前、高砂部屋の松田哲博さんと雑誌で対談したことがあります。松田さんは元力士で四股名は「一ノ矢」。最高位は三段目でしたが、46歳まで現役を続けた、昭和以降の最高齢力士であり、初の国立大学出身力士として話題を集めた人です。  
地位だけで判断すれば、相撲で成功したとは言えません。でも、松田さんにとっての相撲は本場所の土俵だけではありませんでした。稽古を含めた日頃の生活を含め、相撲に関わるすべてが好きだった。元横綱の朝青龍はじめ、自分を追い越して出世していく後輩の世話をしながら、ちゃんこ長やマネージャーを務め、部屋のホームページの運営・更新まで担当しました。
松田さんは相撲を武道と位置づけて、「年齢に関係なく、身体的資質にも関係なく、筋肉のつけ方や使い方によって爆発的な身体能力を発揮できるようにプログラムされた合理的な技術体系」であることに相撲の卓越性を見いだしていました。
今の相撲協会に問題があるとすれば、この「なんだかよくわからない」性を守るための理論武装ができていないことです。
相撲とは何かを一義的に定義すること自体、「相撲」となじみが悪いんです。だから、そのことを呑み込んだ上で、相撲に携わる人は先行世代から何を受け継ぎ、次世代に何を受け渡そうとしているのかを、きちんと考え、言葉にする必要があると思います。  
協会を合理的な組織に改造して透明性を高め、より競争原理が働く仕組みを取り入れても、相撲の本質が「なんだかよくわからないもの」である以上たぶんうまくはゆかないでしょう。
組織はクリアーになり、ルールはフェアになったけれど、一般の「相撲離れ」が進んで、やがて誰も見なくなったというのでは「相撲改革」なんか「しないほうがよかった」ということになりかねません。
それよりも、見習うべきは歌舞伎です。  
伝統芸能としての歌舞伎が存続できたのは、松竹という一民間会社が、梨園を一般社会と切り離して運営してきたからです。
問題なのは芸の質であり、一般社会の常識が通用するかどうかは、関係ありません。  
相撲協会も、公益法人認定なんてやめて、すっきり株式会社化すればいい。
そして、自分たちが「やりたい」と思う相撲を、思う存分やればいい。私はそう思います。
そもそも、相撲を「国技」というのもよろしくない。
相撲は国家の後にできたものじゃない。むしろ、国家を基礎づけたものです。
国家が国家になるために「使えるものは全部使って」つくりあげた「前-国家的」な制度です。
そのようなものは国家制度の側から見たら「いかがわしいもの」に映る。
当然です。
相撲は発生的に「公的な認知」にはなじまない。
朝廷や豪族や大名や貴族が「相撲を私有化」しようとしたことはわかります。「国家を基礎づけた機能」を所有したいと思うのは当然です。
でも、相撲の方から、国家にすり寄ることはない。
本来はそのような制度の編み目ではとらえられないものなんです。
だから、公益の財団法人を目指すことが、そもそもボタンの掛け違いなんじゃないでしょうか。
相撲はわれわれの社会に深く根を下ろしすぎていて、その公益性を示す根拠を行政の用語では言語化できない。
協会を株式会社化して、誰にも気兼ねせず、採算が合う限り、やりたいようにやってもらったほうが、たぶん面白い相撲が見られると私は思います。

2011.10.29

地方紙の存在意義について

10月29日朝日新聞の朝刊オピニオン欄に、アメリカの地方新聞の消滅とその影響についての記事が出ていた。
たいへん興味深い内容だった。
アメリカでは経営不振から地方紙がつぎつぎと消滅している。
新聞広告収入はこの5年で半減、休刊は212紙にのぼる。記者も労働条件を切り下げられ、解雇され、20年前は全米で6万人いた新聞記者が現在は4万人。
新聞記者が減ったこと、地方紙がなくなったことで何が起きたか。
地方紙をもたないエリアでは、自分の住んでいる街のできごとについての報道がなくなった。「小さな街の役所や議会、学校や地裁に記者が取材に行かなくなった」
「取材空白域」が発生したのである。
カリフォルニアの小さな街ベルでは、地元紙が1998年に休刊になり、地元のできごとを報道するメディアがなくなった。
すると、市の行政官は500万円だった年間給与を十数年かけて段階的に12倍の6400万円まで引き上げた。市議会の了承も得、ほかの公務員もお手盛りで給与を増やしていた。でも住民はそのことを知らなかった。十数年間、市議会にも市議選にも新聞記者がひとりも行かなかったからである。
「地方紙記者の初任給は年間400万円ほど。もし住民が総意でその額を調達し、記者をひとり雇っていれば、十何億円もの税金を失うことはなかった」
もうひとつの影響は地方選挙の報道がなくなったこと。
地元紙が選挙報道をしない地域では、候補者が減り、投票率が低下する。候補者の実績について、政策内容について有権者に情報が与えられないので、選択基準がない。
結果的に現職有利、新人不利の傾向となり、政治システムが停滞する。
都市部でも記者の不足は法廷取材の不備にあらわれている。
法廷取材は公判を傍聴し、裁判資料を請求し精査する記者なしには成立しないが、この手間をかけるだけの人員の余裕が新聞社にはもうない。
もちろんネットはある。けれども、ネットの情報の多くはすでに新聞やテレビが報道したニュースについてのものである。「ネットは、新聞やテレビが報じたニュースを高速ですくって世界に広める力は抜群だが、坑内にもぐることはしない。新聞記者がコツコツと採掘する作業を止めたら、ニュースは埋もれたままで終わってしまう」
この全米調査は、連邦通信委員会の発令によるもので、ネット化の進行とコミュニティーの報道需要についてリサーチしたものである。
わかったことは「自治体の動きを監視し、住民に伝える仕事は自費ではできない。ニュース供給を絶やさないためには、地元に記者を置いておくことが欠かせない」ということだとインタビュイーのスティーブン・ワルドマン氏は言う。
彼はビジネスモデルとしての民間新聞はもう保たないだろうと見通した上で、それに代わるものとして住民からの寄付を財源とする「NPOとしての報道専門組織を各地で立ち上げる」ことを提唱している。
「教師や議員、警察官や消防士がどの街にも必要なように、記者も欠かせない」。
アメリカで起きた「地方紙の消滅と自治体の退嬰のあいだのリンケージ」が日本にもそのまま妥当するのかどうか、それはわからない。
アメリカにおける新聞というものの発生はわかりやすい。
開拓者たちはまず最初に街の中心に教会を建て、それから子供たちのために学校を作り、治安維持のために保安官を選び、巡回裁判所を整備し、防災のための消防隊を組織した。たぶんその次くらい(人口が1000人くらいのオーダーに達したとき)新聞ができた。全国紙から配信される記事と地元記者が足で取材した記事で紙面を構成した。それが広告媒体としての有用性を評価されて、しだいにビッグビジネスになり・・・という順番でことは運んだはずである。
その「広告媒体としての有用性」が崩れてきた以上、「縮小均衡」をめざすのであれば、もとの「小商い」に戻ればよい、と私は思う(ワルドマンさんもたぶんそう思っている)。
記者ひとり、購読者千人くらいの規模なら、今でもたぶん「小商い」は成り立つはずである。
けれども、いちど「ビッグビジネス」の味をしめたものは、二度と「小商い」に戻ろうとしない。小商いに戻るくらいなら、さらに冒険的な仕掛けをして、いっそ前のめりにつぶれる方を選ぶ。
それがビジネスマンの「業」なのだからしかたがない。
でも、新聞はもともとは金儲けのために始まった仕事ではない。
そのことを忘れてはいけない。
ワルドマンさんが言うように、発生的には「警察官や消防士」と同じカテゴリーの制度資本だった。
それが「たくさん売れると、どかんと儲かる」ということがわかったので、「警察官や消防士」とは違うカテゴリーに移籍してしまったのである。
ならば、「どかんと儲からなくなった」以上、時計の針を逆に回して、また「警察官や消防士」と同じカテゴリーに戻る、というのはごく適切な判断であると私は思う。
メディアにきわだった知性や批評性を求める人が多いが、私はそれはおかしいと思う。
警察官や消防士にきわだった身体能力や推理能力や防災能力を求めるのがおかしいのと同じである。
地域の治安や防災はもともと、その地域のフルメンバーであれば「誰でもが負担しなければならなかった、町内の仕事」であった。
誰もが均等に負担すべき仕事であったということは、「誰でもできる仕事」でなければならないということである。
組織のつくりかたが適切であれば、そこにかかわる個人の資質にでこぼこがあっても、治安や防災のような「それなしには共同体が成り立たない社会的装置」はきちんと稼働するのでなければならない。
個人にきわだった身体能力や知性がなければ治安や防災の任に堪えないように作ってあるとすれば、それは制度設計そのものが間違っているのである。
新聞記者も同じである。
それは「誰でも基本的な訓練を受け、それなりの手間さえかければできる仕事」であるべきなのだ。
新聞やテレビはこれからそういう方向にゆっくり「縮んでゆく」ことになると思う。
事業規模が縮むということは、言い換えれば、「その気になれば、誰でも始められるレベルの仕事」になるということである。
新潟県村上市には「村上新聞」という地方紙がある。
そこを訪ねてみた話が村上春樹のエッセイにあった。
三人くらいで回している地方紙である。たいへん好意的に紹介されていた。
私はこういうタイプの新聞が日本列島すみずみにまで数百数千と併存している状態が過渡的にはいちばん「まっとう」な姿ではないのかと思う。

2011.10.30

有事対応コミュニケーション力について

有事対応コミュニケーション力という本が技術評論社から出る。
震災と原発事故について、危機管理という視点から論じたシンポジウムの記録である。
鷲田清一、上杉隆、藏中一也、岩田健太郎というメンバーで行った。
緊急出版なので、完成度は低いけれど、珍しいメンバーでのシンポジウムだし、チャリティーイベントなので、印税は全額義捐金に回すことになっている。
本は書店で手にとっていただくとして、とりあえず私が書いた「あとがき」を告知代わりに掲載しておく。

あとがき

リスクコミュニケーションについてのチャリティーシンポジウムをやるので、出て下さいと岩田先生に声をかけられた。
岩田先生は「それは何ですか?」的なテーマの場所に私を引き出すことを好む傾向がある。最初に対談したときのトピックは「新型インフルエンザの防疫体制について」だった。その次にお会いした時は「看護教育について」だった。その次は感染症の学会に呼ばれて「パンデミックとメディア」というお題でのスピーチを振られた。もう何が来ても驚かない。
今回は大震災と原発事故をリスク管理という視点から吟味する趣旨の集まりだと伺った。この論件についてはすでにいくつかの媒体で私見を述べているので、私自身はそれに付け加えることはもうほとんどない。だが、さまざまな分野から呼集されたシンポジウム参加者の専門的知見を直接うかがえるのは得難い機会であるので、お招きを受けることにしたのである。
岩田先生はパンデミック、つまり医療分野における「パニック的事態」の専門家である。蔵本先生は企業の危機管理の専門家である。上杉さんは原発事故発生以来、フロントラインでほとんど不眠不休で取材活動を続けているジャーナリストである。そして、鷲田先生は傷ついた人、病んだ人のかたわらに立つ臨床哲学の専門家である。私だけが何の専門家であるか不分明なままその場にいた。
お話をうかがったあと、私の心に一番残ったのは、岩田先生が伝えた現地派遣の医療チームの人々の「寡黙さ」についての証言と、上杉さんが言われた「これからは放射性物質と共に生きる他ない」という言葉だった。
告発や批判ももちろん必要だと思う。デモをするのも必要なことだろう。懲戒や場合によっては刑事罰も必要になるだろう。けれども、「すでに起きてしまったこと」の解明と有責者の特定と同時に、それよりも長い時間をかけて、失われたものと傷ついたものについての「手当て」が続けられなければならない。
もちろん私はこの事態を招いた有責者の告発や補償の要求を抑制すべきだと言っているわけではない。犯罪の場合とおなじように、正義の執行は粛々と、ときには非情に行われなければならない。けれども、それと同時に、この出来事に巻き込まれて物心両面で深い傷を負った人たちの支援のためには、穏やかな声と、手触りの柔らかい言葉もまた整えられていなければならない。そのどちらか一方だけを選ぶということはできない。
私たちに求められているのは、排他的な選択ではなく、糾弾と赦しが、冷たい宣告と暖かい慰めが絡み合った両義的な言葉を使えるような市民的成熟である。そういう構えを「ダブル・スタンダード」だと難じる人もいるだろう。つねに正しいことだけを言い続けたい、正しい行為だけをし続けたいという人にとっては、不愉快な提言に聞こえるかも知れない。けれども、「放射能という十字架」をこれから長い期間背負ってゆく私たち日本人に求められているのは、たぶんそのような種類の「市民的成熟」である。

このシンポジウムで語られた言葉の多くは(私の言葉も含めて)このあと時間が経つにつれて、その現時的な切実さを失うだろう。切迫した出来事に対処するために緊急招集されたシンポジウムで口にされた言葉なのだから、それは仕方がない。その中にあって、たぶん鷲田先生の言葉だけは、かなり長期にわたって、場合によっては「原発事故?ああ、そんな出来事が昔あったようですね」と人々が言い交わすような時代が来ても、まだある種のアクチュアリティを保っているのではないかという気がする。切迫した事態にてきぱきと対処するためにはクリアカットで、ロジカルで、具体的な言葉が必要だ。けれども、鷲田先生がめざしているように、そのような危機的事態をもたらした長い文脈を底ざらえするような言葉を語ろうとすると、言葉はずしんと持ち重りしてきて、自重でねじれ、たわんでくる。
このシンポジウムでは種別を異にするいくつかの語種の言葉が語られた。そのそれぞれの知見を読者のみなさんそれぞれの度量衡に基づいて掬していただきたいと思う。岩田先生のご奔走によって実現したこの試みにおいて提言されたうちのいくつかが実を結ぶこと、ここで示された知見のいくつかが長く読者たちの心にとどまることを一人の参加者として願っている。

最後になったが、東日本大震災によって今も苦しんでいる多くの人々に一日も早く穏やかな生活が戻ることを心からお祈りする。また、シンポジウムの書籍化のためにご尽力下さった技術評論社の安藤聡さんの献身的なお骨折りにもお礼を申し上げたい。

2011年10月
                              内田樹

Harbor light について

ゼミの卒業生の結婚式でスピーチをするのは、大学の教師にとっては「仕事の一部」のようなものである。
だから、日程さえ合えば、日本中どこでもうかがって、一席弁じることにしている。
どうしてゼミの教師を結婚式に呼ぶのか、ということをあまりこれまで真剣に考えたことがなかったが、今日スピーチしながら、やはりこれは「観測定点」としての機能ということが主なのであろうと思った。
卒業生たちはのどかな4年間を過ごしたあと、多くは卒業してからはなかなかにめまぐるしい人生の変転を経験する。
住むところが変わり、いくつかの職種を経験し、出会いと別れがあって、そしてある日「めでたく華燭の典を迎えられた」わけである。
はたと立ち止まって来し方行く末について熟慮してみたいという気分にもなろうというものである。
『五万節』だって、「学校出てから十余年」と歌っている。
「学校出てから」というのは、実人生の「起点標識」なのである。
私はあれからいったいどんな人生を生きてきて、どれほど変わり、何を達成し、何を失い、どれほど成熟したのか・・・それを確認するために「学校」を代表する人物にご登場願おうではないか、と。
前にも書いたことだが、ある卒業生(奇しくも本日の新婦と同期のゼミ生)と一年ほど前に図書館本館で遭遇したことがあった。
その日は土曜日で私はたまたま雑誌の取材で出校してキャンパスに来ていて、無人の図書館本館でその卒業生にばったり会ったのである。
「あ、先生、来てたんですか?」と彼女はびっくりしていた。私も驚いたが、取材中だったので、立ち話だけで、そのまま手を振って「じゃあね」と別れた。
そのあと彼女はメールをくれて大学に来た理由を教えてくれた。
「転職しようかどうか迷っていたのだが、そういうときには学生時代にいちばん好きで、よく考えごとをしていた場所(図書館本館3階のギャラリー)に行けば、自分がほんとうは何をしたいのかわかるような気がして、休日のキャンパスを訪れたのだ」と。
そのとき私は学校に「そういうはたらき」があることを知った。
大学と教師には、「卒後の自己教育」にとっての観測定点であり続けるという重要な任務がある。
卒業生たちは私を見ると「先生、少しも変りませんね」と言う。
それは客観的な記述をしているのではなく、むしろ彼女たちの主観的願望を語っているのではないか。
「先生は、少しも変わらないままでいてほしい。そうしてくれないと、自分がどれくらい成長したのか、どれくらい変わったのかが、わからない」そういうことではないかと思う。
もし、学校時代の先生が、その後不意に大学の仕事を辞めて、ラッパーになったとか、デイトレーダーになったとか、蕎麦打ちになったとかいうことになると、「学校出てから・・・」という卒業生たち自身の「振り返り」はむずかしくなる。
想像してみても、「60歳過ぎてから突然『自称プロサーファー』になった恩師」とか「70歳過ぎてベガスのカジノで10億稼ぎ、今は若いモデルと六本木ヒルズで暮らしている恩師」とかを囲んでの同窓会はたぶんあまり楽しくないと思う。
変わってしまった先生にどう話しかけていいか、わからないからだ。
卒業生たちは自分の出た学校と自分が習った先生については、いつまでも同じままでいてほしいと願っている。
自分が卒業して何年経っても、同じキャンパスで、同じ先生が、同じような授業をやっていることを心の奥では願っている。
大学が社会状況に合わせてどんどん変化することを「アクティヴィティが高い」とほめそやす人がいるが、彼らは「卒後教育」というものがあることを理解していないのではないか。
大学を卒業したあとも、自己教育は続く。
そのとき自分がほんとうは何をしたかったのか、何になりたかったのか、どんな夢を思い描いていたのかが「そこにゆけば、ありありと思い出せる場所」は不可欠のものである。
スティーブ・ジョブズは your heart and intuition somehow know what you truly want to become と語った。「あなたの心と直感は、なぜかあなたがほんとうは何になりたいのかを知っている」
「あなたがほんとうは何になりたいのか」を知っていると想定された主体 sujet supposé savoir ce que tu veux véritablement devenir であること、それが教師のたいせつな仕事の一つであるのではないかと私は思う。
そのような「知っていると想定された主体」は「あなたの心と直感」の代理を機能的にはつとめることができるからである。
教師というのはもしかすると「道祖神のようなもの」ではないかと思う。
積極的に何か「よいこと」をするわけではない。
でも、それが子供のときに見たままのところに、子供のころのままの姿をしてあることを知ると、ひとは「自分には根がある」という感覚をもつことができる。
どれほどブリリアントなキャリアを積み重ねた人も、自分の卒業した学校がなくなり、自分を教えた先生がいなくなってしまったら、「自分がどれくらい成功したのか」がわからなくなる。
卒業生たちが自分がどんな道程をどこに向かって歩んでいるのかを確認しつつ一歩ずつ進めるようにするためには、「母港」がいつまでもHarbour light を送り続けていることが必要である。
「そこに来れば、もとの自分に戻れる気がする場所」が必要である。
というわけで、卒業生の結婚式では「ウチダセンセって、ほんとにいつまで経っても変わんないわねえ」と教え子たちが深く納得するようなお話をするのである。

2011.10.31

さよならアメリカ、さよなら中国

昨日の結婚式では右隣が某自動車メーカーの取締役、左隣が某貴金属商社の取締役だったので、さっそく日本経済の今後について、東アジア圏の経済動向について、現場からのレポートをうかがう。
私は昔から「異業種の人から、業界話を聞く」のがたいへん好きなのである。
あまりに熱心に話を聞くので、相手がふと真顔になって「こんな話、面白いですか?」と訊ねられることがあるほどである。
私が読書量が少なく、新聞もテレビもろくに見ないわりに世間の動向に何とかついていけるのは、「現場の人」の話を直接聞くことが好きだからである。
新書一冊の内容は、「現場の人」の話5分と等しい、というのが私の実感である。
さっそく「TPP加盟でアメリカ市場における日本車のシェアは上がるのでしょうか?」というお話から入る。
「多少は上がるでしょう」というのがお答えであった。
アメリカの消費者は同程度のクオリティであれば、ブランドというものにほとんど配慮しないからだそうである。
トヨタが3200ドルでヒュンダイが3000ドルなら、大半の消費者は迷わずヒュンダイを買う。
一円でも安ければそちらを買う、というのは、私の定義によれば「未成熟な消費者」ということになる。
「成熟した消費者」とは、パーソナルな、あるいはローカルな基準にもとづいて商品を選好するので、消費動向の予測が立たない消費者のことである。
同じクオリティの商品であっても、「国民経済的観点」から「雇用拡大に資する」とか「業界を下支えできる」と思えば、割高でも国産品を買う。あるいは貿易収支上のバランスを考えて割高でも外国製品を買う。そういう複雑な消費行動をとるのが「成熟した消費者」である。
「成熟した消費者」とは、その消費行動によって、ある国の産業構造が崩れたり、通貨の信用が下落したり高騰したり、株価が乱高下したり「しないように」ふるまうもののことである。
資本主義は「勝つもの」がいれば、「負けるもの」がいるゼロサムゲームである。
この勝ち負けの振れ幅が大きいほど「どかんと儲ける」チャンスも「奈落に落ちこむ」リスクも増える。
だから、資本主義者たちは「振れ幅」をどうふやすかに腐心する。
シーソーと同じである。
ある一点に荷重をかければ、反対側は跳ね上がる。
どこでもいいのである。ある一点に金が集まるように仕向ける。
「金が集まるところ」に人々は群がり、さらに金が集まる。
集まった金をがさっと熊手で浚って、「仕掛けたやつ」は逃げ出す。
あとには「そこにゆけば金が儲かる」と思って群がってきた人間たちの呆け顔が残される。
その繰り返しである。
このマネーゲームが順調に進むためには、消費者たちはできるだけ未成熟であることが望ましい。
商品選好において、パーソナルな偏差がなく、全員「同じ行動」を取れば取るるほど、「振れ幅」は大きくなる。
だから、資本主義は消費者の成熟を好まない。
同じ品質なら、一番安いものを買うという消費者ばかりであれば、サプライサイドは「コストカット」以外何も考えなくて済む。
消費者の成熟が止まれば、生産者の成熟も止まる。
現に、そのような「負のスパイラル」の中で、私たちの世界からはいくつもの産業分野、いくつもの生産技術が消滅してしまった。
アメリカの消費者は「未成熟」であることを求められている。
アメリカのように、人々の文化的バックグラウンドがばらついている移民社会では、不可解な消費行動はその人が「なにものであるか」についての情報(おもに収入についての情報)をもたらさないからである。
『ベストキッド』のミヤギさんは不可解な消費行動を取る人なので(庭師のはずだが、家の中に和風のお座敷を作り、ヴィンテージカーを何台も所有している)、お金持ちなんだか貧乏なんだか、わからない。こういう人はたぶんアメリカ社会ではすごく例外的なケースなはずである。
「消費行動がパーソナル」というだけで「神秘的な人」に見えるくらい、アメリカの消費者は単純な行動を社会的に強制されている。
私はそういうふうに理解している。
TPPというスキームは前にも書いたとおり、ある種のイデオロギーを伏流させている。
それは「すべての人間は一円でも安いものを買おうとする(安いものが買えるなら、自国の産業が滅びても構わないと思っている)」という人間観である。
かっこの中は表だっては言われないけれど、そういうことである。
現に日本では1960年代から地方の商店街は壊滅の坂道を転げ落ちたが、これは「郊外のスーパーで一円でも安いものが買えるなら、自分の隣の商店がつぶれても構わない」と商店街の人たち自身が思ったせいで起きたことである。
ということは「シャッター商店街」になるのを防ぐ方法はあった、ということである。
「わずかな価格の差であれば、多少割高でも隣の店で買う。その代わり、隣の店の人にはうちの店で買ってもらう」という相互扶助的な消費行動を人々が守れば商店街は守られた。
「それでは花見酒経済ではないか」と言う人がいるだろうが、経済というのは、本質的に「花見酒」なのである。
落語の『花見酒』が笑劇になるのは、それが二人の間の行き来だからである。あと一人、行きずりの人がそこに加わると、市場が成立する。その「あと一人」を待てなかったところが問題なのだ。
商店街だって店が二軒では「花見酒」である(というか生活必需品が調達できない)。
何軒か並んで相互的な「花見酒」をしていれば、そこに「行きずりの人」が足を止める。
循環が活発に行われている場所に人は惹きつけられる。
だから、何よりも重要なのは、「何かが活発に循環する」という事況そのものを現出させることなのである。
「循環すること」それ自体が経済活動の第一の目的であり、そこで行き来するもののコンテンツには副次的な意味しかない。
「一円でも安いものを買う」という「未熟な」消費行動は、たしかに多くの場合は「商品の循環」を促す方向に作用する。
けれども、つねに、ではない。
後期資本主義社会においては、それがすでに商品の循環を阻害する方向に作用し始めている。
それがこの世界的な不況の実相である。
未熟で斉一的な消費行動の結果、さまざまな産業分野、さまざまな市場が「焼き畑」的に消滅している。
資本主義は「単一の商品にすべての消費者が群がる」ことを理想とする。
そのときコストは最小になり、利益は最大になるからである。
けれども、それは「欲望の熱死」にほとんど隣接している。
商品の水位差がなくなり、消費者たちが相互に見分けがたい鏡像になったところで、世界は「停止」してしまう。
資本主義はその絶頂において突然死を迎えるように構造化されている。
私たちは現に「資本主義の突然死」に接近しつつある。
その手前で、この流れを止めなければならない。
それはとりあえず「消費者の成熟」というかたちをとることになるだろう。
「パーソナルな、あるいはローカルな基準によって、予測不能の消費行動をとる人になること」、資本主義の「健全な」管理運営のために、私たちが今できることは、それくらいである。
TPPは「国内産業が滅びても、安いものを買う」アメリカ型の消費者像を世界標準に前提にしている。
まさにアメリカの消費者はそうやってビッグ3をつぶしたのである。だが、それについての深刻な反省の弁を私はアメリカ市民たちからも、ホワイトハウス要路の人々からも聞いた覚えがない。
日本の車がダンピングをしているというタイプの非難はあったし、自動車メーカーにコスト意識が足りないとか、労働組合が既得権益にしがみついたという指摘はあった。だが、「アメリカの消費者はアメリカの車を選好することで国内産業を保護すべきだった」という国民経済的な視点からの反省の弁だけは聞いた覚えがない。
ビッグ3の売る車の品質に問題があろうと、燃費が悪かろうと、割高であろうと、それが彼ら自身の雇用を支えている以上、国民経済的には「つぶしてはならない。だから、泣いてキャデラックに乗る」という選択を「成熟したアメリカ市民」はしてよかったはずである。
でも、しなかった。
誰も「しろ」と言わなかった。している人間を褒め称えることもしなかった。
そこからわかることはアメリカには「国民経済」という視点がないということである。
「二億五千万人をどう食わせるか」ということは政府の主務ではないということである。
TPPの問題は「国民経済」という概念をめぐる本質的な問題である。
そのことを乾杯のあとのシャンペンを飲みながら改めて感じた。
もう一つ「中国での工業製品生産はもう終わりだ。これからの生産拠点はインドネシアだ」「これから『川上』の経済活動を牽引するのは中国ではない、インドだ」というのも、両方のエグゼクティヴの共通見解だった。
中国の没落は私たちの予想よりもずいぶん早い可能性がある。
というわけで、アメリカと中国は「もうそろそろ終わり」という話を結婚式のテーブルでうかがって、耳学問をしたウチダでした。

さよならアメリカ、さよなら中国(承前)

アメリカの経済がどうしてダメになったのか、ということについてはさきほど書いた。
次は中国の経済がどうしてダメになるのかという第二の論点である。
これはおおかたの見通しと共通すると思う。
誰でもが認めるのは「賃上げ圧力の強化」である。
日本企業が過去集中的に中国に生産拠点を移した最大の理由は「人件費コストが破格に安かった」からである。
だが中国は急速な経済成長を遂げた。そして、ニューリッチ層が出現し、桁外れの誇示的な消費行動を始めた。それが人々の「もっと金が欲しい」という欲望に火を点けた。
朝日新聞は昨日(10月30日)の「ルポチャイナ」で腐敗体質について報告している。
教育、医療、行政という「制度資本」の根幹部分に「拝金主義」が入り込んでいる。
教員採用試験の合否も袖の下次第。教師には保護者から賄賂攻勢がかけられ、「金品をもらった生徒を前の席に集め、丁寧に教える。あとの生徒はほったらかし」「腐敗体質が庶民の日常に入り込み、『すべては金次第』というムードが社会全体を覆う。有能な人材は埋もれ、富は権力者に集中」している。
病院でもまともな診療を受けようと思ったら「紅包(ホンパオ)=ご祝儀」を渡すのが常識。
医師に紅包を渡すと入院費が一気に安くなるので、その方が得なのである。
他の商売でも同じで、行政当局からの規則違反で罰金を命じられたときには、担当者に賄賂を渡せば、罰金が一気に減額される。
だったら、賄賂を渡した方がビジネスライクだ、ということになる。
むろん共産党は不正防止に躍起となっており、悪質な上級行政官には死刑も科しているが、腐敗は止らない。
この間相次いだ鉄道や地下鉄の事故も、業者の「手抜き」がほとんど日常的に行われていることを示している。
これはモラルの低下という問題であり、これは中国製商品全体の信頼性を傷つけ始めている。
それ以上に拝金主義が理由で中国人労働者の労賃も高騰することになった。
もうかつてのような「中国に工場を移せば、安い人件費で利益を出せる」という話ではなくなった。
労賃の安い労働者を探すと、もう「字が読めない、四則計算ができない」というレベルの下級労働者を雇うしかないが、それでは品質管理上のリスクが大きい。
大手の日本企業はほぼ一斉に生産拠点をさらに人件費が安く、労働者のモラルの高い国へ移転させようとしている。
一番人気があるのがインドネシア、そして、ベトナム、マレーシアも「人心が穏やかで、労働者のモラルも中国に比べると高い」という点で評価されている。
このトレンドはたぶんもう止らないだろう。
中国は新製品の研究開発、ビジネスモデルの創出、マネジメントといった「川上」の仕事をこなすレベルにまではまだ達しておらず、もっぱら「川中」の部品調達・製造を担ってきたわけだが、その「製造工場」としてのメリットが失われ始めている。
円高で苦しむ日本企業が、さらなる国際競争力を求めて、ぎりぎりまでのコスト削減のために、雪崩的に中国からより労賃のやすい国へ生産拠点を移転する流れはたぶんもう止らない。
そのときに中国はどうやって9%という経済成長を維持するのか。
パイが大きくなっているときには人はパイの配分に多少のアンフェアがあってもあまり気にしない。でも、パイが縮み始めると配分のアンフェアを人々は許さなくなる。
中国の腐敗体質は国策的に作り出したものである。
「先富論」というのは「格差があればあるほど、利己的なふるまいを勧奨すればするほど、人間はよく働くようになる」という労働観に基づいている。
その人間観はたしかに一面の真理を衝いている。
けれども、それは「全員が富を分かち合う共産主義社会をめざす一行程」として暫定的には許容されても(鄧小平はそのつもりだったはずである)、「社会の最終形態」として受け容れるにはあまりに貧しい。
中国はこれからどうなるのか。
私にはよくわからない。
ただ、このまま事態が進行すれば、どこかの時点で、中央政府のコントロールを超える「カタストロフ」を迎えるだろうということはわかる。
制度資本が劣化し、社会的インフラが劣化し、そして、すでに自然環境が劣化している(80年代に西域で埋蔵量の豊かな油田が発見されたが、採掘の技術だけはあって、運搬や精製の技術がなかったために、採掘された石油の95%は「垂れ流し」にされ、環境汚染の原因となった、という話は昨日自動車メーカーのエグゼクティヴからうかがった)。
社会的共通資本が軒並み崩れ始めている共同体がこの先どうやって生き延びることができるのか。
中国政府はたぶん真剣に頭を悩ませていると思う。
知恵があれば貸して差し上げたいが、何も思いつかない。

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