『通販生活』にだいぶ前に相撲について書いた。
大相撲なんて、ろくに見ないし、力士の名前ももう知らないのだが、不祥事が相次いで、「透明化」とか「合理化」とかいう話がでてきたので、「それは違うだろう」と思ってはいた。
どういうわけか、『通販生活』から「大相撲再建プラン」の提出を求められたので、さらさらと書いた。
三人の人がそれぞれ再生案をもちよって、読者アンケートしたら、私の提案が一位になったそうである。
「大相撲は株式会社すればよい」というのである。
反資本主義者であるところのウチダがなぜ「株式会社化」を言い出したのか・・・興味ありますでしょ?
というわけで、こんなことを書きましたというアンケート内容をブログ公開いたします(ちょっと加筆しました)
どぞ。
不祥事が続く相撲協会に対して「協会の体質を改めてもっと透明性を高めるべき」「競争原理が前提のフェアなスポーツとしての意識改革が必要だ」という意見が多いようですけれど、私には違和感があります。
批判の的になっているのは相撲協会の「古い体質」ですが、「新しい体質」こそが問題なんです。
相撲協会は文部科学省の管轄下に置かれていて、そこで行なわれる相撲は、清く正しく美しくなければならない。土俵ではスポーツマンシップが求められ、八百長など言語道断である……
当然と思われるかもしれませんが、それは戦後の、わずか数十年の間につくられた「常識」なのです。相撲は実際はそのはるか以前から存在した。
それをむりやり近代市民社会の常識にかなうように体裁を整えて、公益法人の認定を受けようとしているようですが、その「新しい体質」に収まらないあれこれが不祥事として噴出している。
それが大相撲の現状ではないでしょうか。
果たして協会の収支や番付編成の過程を開示して、透明性を高めれば人気は復活するのでしょうか?
力士が労働組合をつくって協会と統一契約書を交わし、労働条件を団体交渉すれば入場者は増えるのでしょうか?
部屋制度を廃止して、最強力士を決めるガチンコ・トーナメントを導入すれば視聴率は上がるのでしょうか?
私はどれも違うと思います。
「相撲とは何か?」という根源的な問いと向き合わずに、表層的な「常識」に合わせて形を変えてしまうと、「相撲」そのものが消えてしまう、私にはそのように思われます。
相撲とは様々な要素を含む「なんだかよくわからないもの」です。
それが相撲の真骨頂であり、相撲の魅力です。
相撲とは何でしょうか。
神事の要素を含んでいますが、それ自体は神事ではない。
武道でもないし、格闘技でもない。
昔は力士が最強と思われていた時代もありましたが、Kー1で秒殺される元横綱を見て以来、格闘技としての有効性を信じる人もあまりいません。
相撲がスポーツかといわれると、これも無理でしょう。
スポーツの生命線は「フェアネス(公正さ)」です。しかし、中立であるはずの行司は相撲部屋に所属し、監視する審判部も部屋を持つ親方で構成されている。
どう考えても「フェアネス」は成り立ちません。
伝統芸能の要素は含んでいます。
でも、ほんそうにそうなら、外国人力士に日本古来の文化に対する敬意があり、それを継承しようとするつよい意思が認められるはずです。
でも、彼らのなかに「日本の伝統芸能を学びに来ている」という意識を持つ人がどれだけいるのでしょうか。彼らのプライオリティはむしろ勝ち負けであり、「アスリートとしての成功」のように思われます。
ここまで挙げてきたすべての要素を相撲は含んでいます。
「なんだかよくわからないもの」、それが相撲です。
神事でも武道でも格闘技でもスポーツでも伝統芸能でもなく、同時にそのすべてでもある。
これほど多様な機能を担う「芸事」は他には存在しません。その雑種性において、相撲はきわめて「日本的」なものだと思います。
相撲の本義はおそらく「異種架橋」能力のうちにあります。
起源は太古の昔、言葉の通じない異民族同士が出会ったときにまで遡る。そのとき、2人の男が裸形になり、拍手を打ち、大地を踏み、塩を撒いて浄めの儀式を行ない、歌を歌い、同じ動作を鏡像的に反復してみせた。
反復は、相手からのメッセージを受信したことの一番わかりやすい合図です。
でも、反復は同時に暴力性も帯電します。
そこで「擬制的に」勝敗を競うことで、その暴力性をリリースした。
だから、相撲の起源において、極端な話、「勝敗はどうでもよかった」のです。
私たちだって、本場所の優勝争いは格闘技・スポーツとして見ながら、巡業の花相撲では初っ切り(相撲の禁じ手をコミカルに演じるもの)や相撲甚句を伝統芸能として楽しむ。
そうやって、相撲という「なんだかよくわからないもの」に向き合ってきたのです。
今になって、相撲不祥事に対してヒステリックに反応するのは、本場所での勝ち負けだけを相撲だと思うからです。
それは相撲のひとつの要素ではありますが、すべてではありません。
以前、高砂部屋の松田哲博さんと雑誌で対談したことがあります。松田さんは元力士で四股名は「一ノ矢」。最高位は三段目でしたが、46歳まで現役を続けた、昭和以降の最高齢力士であり、初の国立大学出身力士として話題を集めた人です。
地位だけで判断すれば、相撲で成功したとは言えません。でも、松田さんにとっての相撲は本場所の土俵だけではありませんでした。稽古を含めた日頃の生活を含め、相撲に関わるすべてが好きだった。元横綱の朝青龍はじめ、自分を追い越して出世していく後輩の世話をしながら、ちゃんこ長やマネージャーを務め、部屋のホームページの運営・更新まで担当しました。
松田さんは相撲を武道と位置づけて、「年齢に関係なく、身体的資質にも関係なく、筋肉のつけ方や使い方によって爆発的な身体能力を発揮できるようにプログラムされた合理的な技術体系」であることに相撲の卓越性を見いだしていました。
今の相撲協会に問題があるとすれば、この「なんだかよくわからない」性を守るための理論武装ができていないことです。
相撲とは何かを一義的に定義すること自体、「相撲」となじみが悪いんです。だから、そのことを呑み込んだ上で、相撲に携わる人は先行世代から何を受け継ぎ、次世代に何を受け渡そうとしているのかを、きちんと考え、言葉にする必要があると思います。
協会を合理的な組織に改造して透明性を高め、より競争原理が働く仕組みを取り入れても、相撲の本質が「なんだかよくわからないもの」である以上たぶんうまくはゆかないでしょう。
組織はクリアーになり、ルールはフェアになったけれど、一般の「相撲離れ」が進んで、やがて誰も見なくなったというのでは「相撲改革」なんか「しないほうがよかった」ということになりかねません。
それよりも、見習うべきは歌舞伎です。
伝統芸能としての歌舞伎が存続できたのは、松竹という一民間会社が、梨園を一般社会と切り離して運営してきたからです。
問題なのは芸の質であり、一般社会の常識が通用するかどうかは、関係ありません。
相撲協会も、公益法人認定なんてやめて、すっきり株式会社化すればいい。
そして、自分たちが「やりたい」と思う相撲を、思う存分やればいい。私はそう思います。
そもそも、相撲を「国技」というのもよろしくない。
相撲は国家の後にできたものじゃない。むしろ、国家を基礎づけたものです。
国家が国家になるために「使えるものは全部使って」つくりあげた「前-国家的」な制度です。
そのようなものは国家制度の側から見たら「いかがわしいもの」に映る。
当然です。
相撲は発生的に「公的な認知」にはなじまない。
朝廷や豪族や大名や貴族が「相撲を私有化」しようとしたことはわかります。「国家を基礎づけた機能」を所有したいと思うのは当然です。
でも、相撲の方から、国家にすり寄ることはない。
本来はそのような制度の編み目ではとらえられないものなんです。
だから、公益の財団法人を目指すことが、そもそもボタンの掛け違いなんじゃないでしょうか。
相撲はわれわれの社会に深く根を下ろしすぎていて、その公益性を示す根拠を行政の用語では言語化できない。
協会を株式会社化して、誰にも気兼ねせず、採算が合う限り、やりたいようにやってもらったほうが、たぶん面白い相撲が見られると私は思います。
(2011-10-26 10:34)