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2011年09月 アーカイブ

2011.09.02

学ぶ力

「学ぶ力」という文章を書きました。中学二年生用の国語の教科書のために書き下ろしたものです。本が届いて、読んでみたら、なかなか「なるほど」と思うことが書いてあったので(自分で言うなよな)、ここに再録することにします。
中学二年生になったつもりで読んでね。

「学ぶ力」


「学ぶ力」

 日本の子どもたちの学力が低下していると言われることがあります。そんなことを言われるといい気分がしないでしょう。わたしが、中学生だとしても、新聞記事やテレビのニュースでそのようなことを聞かされたら、おもしろくありません。しかし、この機会に、少しだけ気を鎮めて、「学力が低下した」とはどういうことなのか、考えてみましょう。
 そもそも、低下したとされている「学力」とは、何を指しているのでしょうか。「学力って、試験の点数のことでしょう」と答える人がたぶんほとんどだと思います。ほんとうにそうでしょうか。「学力」というのは  「試験の点数」のことなのでしょうか。わたしはそうは思いません。
 試験の点数は数値です。数値ならば、他の人と比べたり、個人の経年変化をみるうえでは参考になります。でも、学力とはそのような数値だけでとらえるものではありません。「学力」という言葉をよく見てください。訓読みをしたら「学ぶ力」になります。わたしは学力を「学ぶことができる力」、「学べる力」としてとらえるべきだと考えています。数値として示して、他人と比較したり、順位をつけたりするものではない。わたしはそう思います。
 例えば、ここに「消化力」が強い人がいるとしましょう。ご飯をお腹いっぱいに詰め込んでも、食休みもしないで、すぐに次の活動に取りかかれる人は間違いなく「消化力が強い」といえます。「消化力が強 いです」と人にも自慢できます。しかし、それを点数化して他人と比べたりしようとはしないはずです。  「睡眠力」や、「自然治癒力」というものも、同様のものだと思います。どんなときでもベッドに潜り込んだら、数秒で熟睡状態に入れる人は睡眠力が高いといえるでしょう。この力は健康維持のためにもストレスを軽減するうえでも、きわだって有用ですが、睡眠力を他人と比較して自慢したり、順位をつけたりすることはふつうしません。怪我をしてもすぐに傷口がふさがってしまう自然治癒力も生きるうえでは、おそらく学力以上に重要な力でしょうが、その力も他人と比較するものではありません。わたしは「学力」もそういう能力と同じものではないかと思うのです。
 「学ぶ力」は他人と比べるものではなく、個人的なものだと思います。「学ぶ」ということに対して、どれくらい集中し、夢中になれるか、その強度や深度を評するためにこそ「学力」という言葉を用いるべきではないでしょうか。そして、それは消化力や睡眠力と同じように、「昨日の自分と比べたとき」の変化が問題なのだと思います。昨日よりも消化がいいかどうか、一週間前よりも寝つきがよいかどうか、一年前よりも傷の治りが早いかどうか。その時間的変化を点検したときにはじめて、自分の身に「何か」が起きていることがわかります。もし「力」が伸びているなら、それは今の生き方が正しいということですし、「力」が落ちていれば、それは今の生き方のどこかに問題があるということです。
 人間が生きてゆくためにほんとうに必要な「力」についての情報は、他人と比較したときの優劣ではなく、「昨日の自分」と比べたときの「力」の変化についての情報なのです。そのことをあまりに多くの人が忘れているようなので、ここに声を大にして言っておきたいと思います。自分の「力」の微細な変化まで感知されている限り、わたしたちは自分の生き方の適不適を判定し、修正を加えることができます。
「学ぶ力」もそのような時間の中での変化のうちにおいてのみ意味をもつ指標だと私は思います。その上で「学ぶ力」とはどういう条件で「伸びる」ものなのか、それを具体的にみてみましょう。
「学ぶ力が伸びる」ための第一の条件は、自分には「まだまだ学ばなければならないことがたくさんある」という「学び足りなさ」の自覚があること。無知の自覚といってもよい。これが第一です。
「私はもう知るべきことはみな知っているので、これ以上学ぶことはない」と思っている人には「学ぶ力」がありません。こう人が、本来の意味での「学力がない人」だとわたしは思います。ものごとに興味や関心を示さず、人の話に耳を傾けないような人は、どんなに社会的な地位が高くても、有名な人であっても「学力のない人」です。
 第二の条件は、教えてくれる「師(先生)」を自ら見つけようとすること。
 学ぶべきことがあるのはわかっているのだけれど、だれに教わったらいいのかわからない、という人は残念ながら「学力がない」人です。いくら意欲があっても、これができないと学びは始まりません。
 ここでいう「師」とは、別に学校の先生である必要はありません。書物を読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう」と思って、会ったことのない人を「師」に見立てることも可能です(だから、会っても言葉が通じない外国の人だって、亡くなった人だって、「師」にしていいのです)。街行く人の中に、ふとそのたたずまいに「何か光るもの」があると思われた人を、瞬間的に「師」に見立てて、その人から学ぶということでももちろん構いません。生きて暮らしていれば、至る所に師あり、ということになります。ただし、そのためには日頃からいつもアンテナの感度を上げて、「師を求めるセンサー」を機能させていることが必要です。
 第三の条件、それは「教えてくれる人を『その気』にさせること」です。
 こちらには学ぶ気がある。師には「教えるべき何か」があるとします。条件が二つ揃いました。しかし、それだけでは学びは起動しません。もう一つ、師が「教える気」になる必要があります。
 昔から、師弟関係を描いた物語には、必ず「入門」をめぐるエピソードがあります。何か(武芸の奥義など)を学びたいと思っていた者が、達人に弟子入りしようとするのですが、「だめだ」とすげなく断られる。それでもあきらめずについていって、様々な試練の末に、それでもどうしても教わりたいという気持ちが本気であるということが伝わると、「しかたがない。弟子にしてやろう」ということになる。そのような話は数多くあります。
 では、どのようにしたら人は「大切なことを教えてもいい」という気になるのでしょう。
 例えば「先生、これだけ払うから、その分教えてください」といって札束を積み上げるような者は、ふつう弟子にしてもらえません。師を利益誘導したり、おだてたりしてもだめです。だいたい、金銭で態度が変わったり、ちやほやされると舞い上がったりするような人間は「師」として尊敬する気にこちらの方がなれません。
 師を教える気にさせるのは、「お願いします」という弟子のまっすぐな気持ち、師を見上げる真剣なまなざしだけです。これはあらゆる「弟子入り物語」に共通するパターンです。このとき、弟子の側の才能や経験などは、問題になりません。なまじ経験があって、「わたしはこのようなことを、こういうふうな方法で習いたい」というような注文を師に向かってつけるようなことをしたら、これもやはり弟子にはしてもらえません。それよりは、真っ白な状態がいい。まだ何も書いてないところに、白い紙に黒々と墨のあとを残すように、どんなこともどんどん吸収するような、学ぶ側の「無垢さ」、師の教えることはなんでも吸収しますという「開放性」、それが「師をその気にさせる」ための力であり、弟子の構えです。たとえ、書物の中の実際に会うことができない師に対しても、この関係は同様です。同じ本を読んでいても、教えてもらえる人と、もらえない人がいるのです。
 「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。
 第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
 第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
 第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
 この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。数値で表せる成績や点数などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これがわたしの考える「学力」です。このセンテンスを素直に、はっきりと口に出せる人は、もうその段階で「学力のある人」です。
 逆に、どれほど知識があろうと、技術があろうと、このひとことを口にできない人は「学力がない人」です。それは英語ができないとか、数式を知らないとか、そういうことではありません。「学びたいのです。先生、教えてください。」という簡単な言葉を口にしようとしない。その言葉を口にすると、とても「損をした」ような気分になるので、できることなら、一生そんな台詞は言わずに済ませたい。だれかにものを頼むなんて「借り」ができるみたいで嫌だ。そういうふうに思う自分を「プライドが高い」とか「気骨がある」と思っている。それが「学力低下」という事態の本質だろうとわたしは思っています。
 自分の「学ぶ力」をどう伸ばすか、その答えはもうお示ししました。みなさんの健闘を祈ります。

2011.09.16

情報リテラシーについて

朝日新聞の「紙面批評」に書いたものを再録する。
長すぎたので、本紙では数行削られているが、これがオリジナル。

「情報格差社会」

 情報格差が拡大している。一方に良質の情報を選択的に豊かに享受している「情報貴族」階層がおり、他方に良質な情報とジャンクな情報が区別できない「情報難民」階層がいる。その格差は急速に拡大しつつあり、悪くするとある種の「情報の無政府状態」が出現しかねないという予感がする。このような事態が出来した理由について考えたい。
少し前まで、朝日、読売、毎日などの全国紙が総計数千万人の読者を誇っていた時代、情報資源の分配は「一億総中流」的であった。市民たちは右から左までのいずれかの全国紙の社説に自分の意見に近い言説を見いだすことができた。国民の過半が「なんとか折り合いのつく範囲」のオピニオンのうちに収まっていたのである。これは世界史的に見ても、かなり希有な事例ではないかと思う。
欧米には「クオリティ・ペーパー」と呼ばれる知識階級のための日刊紙が存在する。それはせいぜい数十万の「選ばれた」読者しか対象にしていない(『ル・モンド』は35万部、『ガーディアン』は25万部)。日本には「クオリティ・ペーパー」が存在しないことに非を鳴らす人がいるが、「クオリティ・ペーパー」は階層社会に固有のものであり、権力と財貨と文化資本がある社会集団に集中している場合にしか成立しない。日本にそれがなかったというのは、「一億総中流」の日本社会が欧米ほど排他的に階層化されていなかったためだと私は理解している。日本のマスメディアの欠点とされる「個体識別しがたさ」「横並びの凡庸さ」でさえ、情報資源が全国民に均質的に分配される「情報平等主義」を達成したことの代償と言えないことはない。
その「情報平等主義」がいま崩れようとしている。理由の一つはインターネットの出現による「情報のビッグバン」であり、一つは新聞情報の相対的な劣化である。人々はもう「情報のプラットホーム」を共有していない。私はそれを危険なことだと思っている。
私が小学生の頃、親は朝日新聞と週刊朝日と文藝春秋を定期購読していた。私は(暇だったので)寝転んでそれらを熟読した。それだけの情報摂取で、世の中で起きていることについて(政治経済からファッションや芸能まで)小学生でさえ「市民として知っておくべきこと」はだいたいカバーできた。思えば牧歌的な情報環境であった。全国民が同じような事実しか知らず、同じようなことに興味を持ち、同じような意見を口にしていた時代(紅白歌合戦の視聴率が80%を超えていた時代)がかつて存在し、今消え去ろうとしている。だが、そのことのリスクについては誰も語らない。
インターネット・ユーザーとして実感することは、「クオリティの高い情報の発信者」や「情報価値を適切に判定できる人」のところに良質な情報が排他的に集積する傾向があるということである。そのようなユーザーは情報の「ハブ」になる。そこに良質の情報を求める人々がリンクを張る。逆に、情報の良否を判断できないユーザーのところには、ジャンク情報が排他的に蓄積される傾向がある。
「情報の良否が判断できないユーザー」の特徴は、話を単純にしたがること、それゆえ最も知的負荷の少ない世界解釈法である「陰謀史観」に飛びつくことである。ネット上には、世の中のすべての不幸は「それによって受益している悪の張本人(マニピュレイター)」のしわざであるという「インサイダー情報」が溢れかえっている。「陰謀史観」は、この解釈を採用する人々に「私は他の人たちが知らない世の中の成り立ちについての“秘密”を知っている」という全能感を与えてしまう。そして、ひとたびこの全能感になじんだ人々はもう以後それ以外の解釈可能性を認めなくなる。彼らは朝から晩までディスプレイにしがみついている自分を「例外的な情報通」だと信じているので、マスメディアからの情報を世論を操作するための「嘘」だと退ける。こうやって「情報難民」が発生する。彼らの不幸は自分が「難民」だということを知らないという点にある。
情報の二極化がいま進行している。この格差はそのまま権力・財貨・文化資本の分配比率に反映するだろう。私は階層社会の出現を望まない。もう一度「情報平等社会」に航路を戻さなければならないと思っている。そして、その責務は新聞が担う他ない。
その具体策について述べる紙数が尽きた。

というのが原稿。
その続きを書き足しておく。
本稿では「情報の階層化」について書いたが、実際に起きているのは、「階層化」というよりはむしろ「原子化」である。
人々は今では個人単位で情報を収集し、「自分が知っている情報の価値、自分が知らない情報の価値」についての中立的なメタ認知能力を失いつつある。
「自分が知っている情報の価値、自分が知らない情報の価値についての中立的なメタ認知能力」のことをここでとりあえず「情報リテラシー」を名付けることにする。
情報リテラシーとは一言で言えば「情報についての情報」である。
「自分が知っていることについて、何を知っているか」というメタレベルの情報のことである。
例えば、「この情報をあるメディアは伝えているが、違うメディアは伝えていない」という情報の「分布」についての情報。
「この情報には信頼性の高いデータによる裏付けが示されているか、いないか」という情報の「信頼性」についての情報。
「この情報はこれまで何度も意匠を変えて登場してきたある種のデマゴギーと構造的に同一か、先例の見いだしがたい特異性を示しているか」という情報の「回帰性」についての情報。
などなど。
私たちは一般的傾向として、自分が知っている情報の価値を過大評価し、自分が知らない情報の価値を過小評価する。
「私が知っていること」は「誰でもが当然知らなければならないこと」であり、「私が知らないこと」は「知るに値しないこと」である。
そういうふうに考える人間がいれば(アカデミズムの世界にもけっこうたくさんいるが)、その人の情報リテラシーは低いと判断してよい。
情報リテラシーが高いというのは、自分がどういう情報に優先的な関心を向け、どういう情報から組織的に目を逸らしているのかをとりあえず意識化できる知性のことである。
私たちはつねにある種の情報を選好し、ある種の情報を忌避する。
そこには個人的な基準がある。
基準となっているのは、私たちがひとりひとり選び取っている「世界についての物語」である。
そのストーリーに整合する情報は「よい情報」であり、そのストーリーになじまない情報は「悪い情報」である。
私たちは客観的事実よりも主観的願望を優先させる。
「世界はこのようなものであって欲しい」という欲望は「世界はこのようなものである」という認知をつねに圧倒する。
それは人間である以上しかたがない。
しかたがないけれども、「人間とは(自分を含めて)そういうものである」という認知を行うことはできる。
「私の眼に世界はこのように見える」という言明と、「私の世界経験には主観的なバイアスがかかっており、かつ限定的であるので、私の見ているものが『世界そのもの』であり、『世界の全容』であるということは私にはできない」という言明はレベルが違う。
「レベルが違う」ということは「問題なく共存できる」ということである。
私たちの世界経験はつねに限定的である。
フッサールの「他我」の例で繰り返し引用したが、私が一軒の家の前に立っているとき、私にはその前面しか見えない。家の側面や裏面や屋根の上や床下はさしあたり非主題的なものにとどまっている。
しかし、今、家の前面を見ている私は、この家に側面や裏面があることを「知っている」。
知っていなければ、そもそも私は自分の見ているものが「一軒の家の前面である」と言うことさえできないはずだからである。
私は家の前から横に回り込めば側面が見え、さらに進めば裏面が見えることを確信している。
そう確信できるのは、「家の側面を見ている想像上の私」「家の裏面を見ている想像上の私」たちが「家の前面を見ている現実の私」の経験の真正性を担保してくれているからである。
この「今、ここにいる、この私」の経験の真正性を担保してくれている「想像上の私」たちのことをフッサールは「他我」と呼んだ。
「今、ここ、私」という直接性は、これら無数の「他我」たちとの協働作業抜きには存立し得ない。
それゆえ、「主観性とはそのつどすでに間主観性である」と現象学は教えるのである。
情報リテラシーというのは、自分が受信している情報をつねに「疑え」ということではない。
どのような情報も(嘘もデマゴギーもプロパガンダも妄想も夢も)、紛う方なくこの世界の真正な一部であり、その限りでは、世界と人間の成り立ちについて程度の差はあれ有益な知見を含んでいる。
情報リテラシーとは、それらがどのような間主観的構造によって「私の世界経験」に関与しているかを知ろうとすることである。
私たちはある種の情報の組織的な欠如や歪曲からも「ほんとうは何が起きているのか」を推理することができる。
嘘をついている人間についても「この人は嘘をつくことによって、何を達成しようとしているのか?」を問うことができる。
情報リテラシーとは、一般に信じられているように、「精度の高い情報と、そうでない情報を見分ける力」のことではない。
それはリテラシーのほんの第一歩というにすぎない。
精度の低い情報や、虚偽の情報からでさえ、私たちは「精度の低い情報を発信せざるを得ない必然性」や「虚偽の情報を宣布することで達成しようとしている功利的目標」を確定することができる。
「主観的な情報操作や歪曲はそのつど間主観的に構造化されている」がゆえに、それらもまた「きわめて重要な情報」であることに変わりはない。
そして、私自身による情報の選好や操作もまたまたそのつど間主観的に構造化されているがゆえに、その検討を通じて、私たちは「私自身の知がどのように構造化されているか」を知ることができるのである。
情報リテラシーとはそのことである。
「情報についての情報」とは「おのれの知についての知」のことである。
というところまでは「よくある話」である。
問題はこの先。
では、この「おのれの知についての知」を私たちは単独で構成しうるか?
できない、と私は思う。
メタ認知とは、コンテンツの問題ではなく、主体の問題だからである。
メタ認知の認知主体は集合的であり、単独ではない。
それはカール・ポパーのいう「反証可能性」のありかたと同一である。
ロビンソン・クルーソー的単独者は、無人島でどれほど厳密な手続きで、どれほど精密な実験を行っても、科学的真理に到達することはできない。
それは彼が実験によって到達した命題が科学的に間違っているからではない。
命題の当否を吟味するための「集合的な知」の場が存在しないからである。科学者たちが集まって、ある命題の真偽について議論するための「公共的な言論の場」が存在しないからである。
「反証不能」とはそのことである。
命題そのものがどれほど正しくても、他の専門家たちによる「反証機会」が奪われている限り、それは「科学的」とは言われない。
それと同じく、情報リテラシーとは個人の知的能力のことではない。「公共的な言論の場」を立ち上げ、そこに理非の判定能力を託すことである。
情報の階層化とは、そのことである。
私が「情報貴族」と呼んだのは、「自分たちが所有している情報についての情報」を集合的なかたちで形成できる集団のことである。
「情報難民」と呼んだのは、原子化されたせいで、自分が所有している情報を吟味する「公共的な言論の場」から切り離されてしまった人々のことである。
もちろん、「情報難民」たちもネット上に「広場」のようなものをつくって、そこに情報を集約することはできる。けれども、彼らがそこに集まるのは、「自分に同調する人間がたくさんいることを確認するため」であって、「自分の情報の不正確さや欠落について吟味を請うため」ではない。
情報リテラシー問題は実は「情報の精度」にかかわる知力のレベルの問題ではなく、「情報についての情報を生み出す『集団知』に帰属しているか、していないか」というすぐれて「政治的な問題」なのである。
政治的な問題である以上、それは政治的なしかたで解決するしかない。
具体策について書く前にまた紙数が尽きてしまった。
続きはまた今度。

2011.09.20

多数派であることのリスクについて

神戸新聞に隔週で「随想」というコラムを書いている(これが二回目)。神戸新聞を読んでいない方のために再録しておく。
これは先週書いたもの。

橋下大阪府知事は、持論である大阪都構想に賛成の市職員を抜擢し、反対する市職員を降格するためのリスト作りを維新の会所属の大阪市議に指示した。
首長選の候補者が選挙に先立って公約への賛否を自治体職員の「踏み絵」にするというのは異例の事態である。
公務員が遵守義務を負うのは、憲法と法律・条例と就業規則だけのはずである。「大阪都」構想は、その当否は措いて、今のところ一政治家の私念に過ぎない。それへ賛否が公務員の将来的な考課事由になるということは法理的にありえまい。
まだ市長になっていない人物が市職員に要求している以上、これは彼に対する「私的な忠誠」と言う他ない。彼はそれを「処罰されるリスクへの恐怖」によって手に入れようとしている。
私はこの手法に反対である。
脅迫や利益誘導によって政治的意見を操作してはならない。私はそう信じている。それは強制された政治的意見は必ず間違っていると思うからではない。暴力的に強制されたのだが「内容的には正しい政策」というものは論理的には存在しうる。
私は政策の当否について論じているのではない。
「強いられた政治的意見」は「自発的な政治的意見」より歯止めを失って暴走する傾向が強いことを案じているのである。
歴史を振り返るとわかるが、「強制された政治的意見」を人々は状況が変わるといとも簡単に捨て去る。
後になって「ほんとうは反対だったのだが、あのときは反対できる空気ではなかった」という言い訳が通ると思えば、人はどれほど過激な政策にも同調する。私が恐れるのはそのことである。
あからさまな強制は、それに屈服した人たちに「説得力のある言い訳」を用意してくれる。その「安心」が人を蝕む。
(ここまで)

私たちは「圧倒的多数が支持する政治的意見」は穏健で、「少数の支持者しかいない政治的意見」は過激であると考えがちだが、経験的にはそうではない。
私の知る限りでは、「圧倒的多数が支持する政治的意見」はしばしば実現不可能な空論を選好する。
それは「数を恃む」ということが、個人の責任を解除してしまうことによって起きる。
ある意見を掲げているのが自分ひとりである場合、自分がその意見を口にするのを止めてしまえば、もうその意見はこの世界に存在しなくなる。
私が語るのを止めたら、この世にそれを語る人が誰もいなくなる意見、私の説得が功を奏さなければ、そのまま宙に消えてしまう意見については、私たちは情理を尽くして語る。
逆説的に聞こえるだろうが、少数意見であればあるほど、そして、自分がその意見が「他の人たちに聞き届けられる必要がある」と信じていればいるほど、語り口は丁寧で穏やかなものになる。
うかつに断定的に語り出したり、聴き手を見下したり、恫喝したりして、「気分の悪い野郎だな」とふっと横を向かれ、耳をふさがれてしまっては、それで「おしまい」だからである。
それで「おしまい」にされないためには、とにかく一秒でも長く自分の話を聞いてもらわなければならない。
すがりつき、かきくどき、「とにかく話を聞いてくれ」という懇請によって相手の足を止め、しばらくの間「耳を貸して」もらわなくてはならない。
そのような語り手の言葉が威圧的であったり、断定的であったり、冷笑的であったりするはずがない。
逆に言えば、その人の言葉が威圧的であったり、断定的であったり、冷笑的であったり「できる」のは、そのような不愉快な語り口に苛立った聴き手が聴く気を失っても「少しも困らない」からである。
聴き手が聴く気を失っても少しも困らない語り口を採用できる理由は二つある。
一つは「聴き手はいくらでも替えが効く」と思っているからである。「私の話を聴いて支持してくれる人間はいくらでもいるから、お前は消えてよし」と思っているからである。
もう一つは「語り手はいくらでも替えが効く」と思っているからである。たとえ、私の話が耳障りで、「いい加減にしろ」と語るのを制止されても、「私が言いそうなこと」を私に代わって言う人が「いくらでもいる」と思えば、私たちは語り口を限りなく粗雑なものにできる。
語る言葉に論理性がない人、挙証を怠る人、情理を尽くして説得する気のない人は、実は「理論上無限の聴き手に向かって、理論上無限の語り手が語っている」という状況を想定して語っているのである。
自分と同じ意見を述べる人が何十万、何百万人いると思えば、私たちは「説得する」意欲を殺がれる。
私に代わって論理的に語ってくれる人がいるだろう、私に代わって挙証責任を果たしてくれる人がいるだろう、私に代わって聴き手への気遣いを果たしてくれる人がいるだろうと思えば、私たちは自分が語るときにはいくらでも手を抜くことができる。
ネット上の罵詈雑言を見ればわかるが、威圧的であったり、断定的であったり、冷笑的であったりする人たちは「自分と意見を同じくする数十万の同意者」の存在を(無根拠に)前提にして、そうしているのである。
どのような意見であれ、それが「圧倒的多数の支持」を勘定に入れたときに、言葉は粗暴になり、空疎になる。
もうその言葉を「それは私の言葉です」といって引き受ける「生身の個人」が存在しなくなるからである。「私が語るのを止めたときに、その言葉も私とともに失われる。だから私は語り止めることができない」
と思っている個人がどこにもいないからである。
20世紀の政治史を振り返るとわかることだが、スターリンも、ヒトラーも、毛沢東も、ポルポトも、フセインも、カダフィも、「国民の圧倒的多数の支持を得ていた政治的意見」の上に立っていた。
だが、ある日ことが終わってみると、「その言葉は私自身の言葉です」として引き受ける個人はどこにもいなかった。
「支持者の多い意見は現実的で、支持者の少ない意見は空論的である」という命題は論理的にも、実践的にも正しくない。
支持者が増えるほど「それは私の個人的知見であり、最後のひとりになっても私はその意見を言い続けるつもりである」と言う人の数は減り、言葉の責任をとる気のある人が減るほど、政治的意見は過激で、粗雑で、空疎になる。
民主主義のルールには「少数意見の尊重」というものがある。私はこれはむしろ「多数派が空洞化することのリスク」として理解すべきことではないかと思っている。

2011.09.29

選書しました

技術評論社の安藤さんから「若い読者のための選書60冊」を頼まれた。
本屋さんで『最終講義』の刊行イベントとして、お薦めの本を選んで、それを並べて、あわせて買って頂こうという趣旨のものである。
本を選ぶのはたのしい仕事なので、さくさくと60冊選んだ。

もうフェアは終わってしまい、「どんな本を選んだのか知りたい」という人からメールがあったので、ご参考のために掲げるのである。

こんなのでした。

「日本および日本人論」として読むべき本(35)

『福翁自伝』(福沢諭吉)
『明治十年 丁丑公論・痩我慢の説』(福沢諭吉)
『氷川清話』(勝海舟)
『柳北奇文』(成島柳北)
『勝海舟』(子母沢寛)
『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)
『坂の上の雲』(司馬遼太郎)
『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(石光真人)
『澁江抽斎』(森鴎外)
『断腸亭日乗』(永井荷風)
『「坊っちゃん」の時代』(関川夏央・谷口ジロー)
『日本の思想』(丸山眞男)
『日本人の法意識』(川島武宜)
『「甘え」の構造』(土居健郎)
『「いき」の構造』(九鬼周造)
『忘れられた日本人』(宮本常一)
『風土』(和辻哲郎)
『文明の生態史観』(梅棹忠夫)
『呪の思想』(白川静・梅原猛)
『思い出袋』(鶴見俊輔)
『戦中派不戦日記』(山田風太郎)
『共同幻想論』(吉本隆明)
『逝きし世の面影』(渡辺京二)
『ヨーロッパ退屈日記』(伊丹十三)
『ものぐさ精神分析』(岸田秀)
『父・こんなこと』(幸田文)
『細雪』(谷崎潤一郎)
『陰翳礼賛』(谷崎潤一郎)
『堕落論』(坂口安吾)
『愛と幻想のファシズム』(村上龍)
『あ・じゃぱん!』(矢作俊彦)
『神の子どもたちはみな踊る』(村上春樹)
『さようなら、ギャングたち』(高橋源一郎)
『橋』(橋本治)

現代日本とはずいぶん離れたところにいる人たちに共感するためのレッスン本(15)
(ちょっとフランスに偏っているのは私の趣味です)

『火を熾す』(ジャック・ロンドン)
『あしながおじさん』(ウェブスター)
『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)
『桜の園』(チェホフ)
『悪霊』(ドストエフスキー)
『飛ぶ教室』(ケストナー)
『魔の山』(マン)
『異邦人』(カミュ)
『夜の果てへの旅』(セリーヌ)
『陽はまた昇る』(ヘミングウェイ)
『ザ・ロング・グッドバイ』(チャンドラー)
『エピクロスの園』(フランス)
『パルムの僧院』(スタンダール)
『感情教育』(フローベール)
『自由への道』(サルトル)
『阿Q正伝』(魯迅)
『山月記・李陵』(中島敦)

知性にキックを入れるために読む本(10)

『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(マルクス)
『悲しき熱帯』(レヴィ=ストロース)
『精神分析の四基本概念』(ラカン)
『開かれた社会とその敵』(ポパー)
『精神分析入門』(フロイト)
『善悪の彼岸』(ニーチェ)
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(ウェーバー)
『孔子伝』(白川静)
『唯脳論』(養老孟司)
『アースダイバー』(中沢新一)

同じころに、「大学生のためのブックガイド」というのも頼まれた。
それは5冊限定だったので、選んだのはこれ。重複したのもある。

「大学生が読んでおくといい本」

若い人のブックガイドを頼まれると、なんとなくわくわくします。
それは「こういう本を読め」とえらそうに言えるのがうれしいからではなく、「この本をまだ読んでいない人がこの本を読んだら、世界が一変するかもしれない」と想像するからです。本を閉じて顔を上げたときに、読む前とは「別人」になっているような本をお勧めせねば・・・と考えて、5冊を選びました。

カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(平凡社ライブラリー)。
1851年のルイ・ボナパルトのクーデタをリアルタイムで分析したマルクスの著作です。「ジャーナリストとしてのマルクス」の天才性が堪能できます。それがどうした、と思う人がいるかも知れませんけど、みなさんは例えば、現代の政変(リビアの革命とか、日本の政権交代とか)についてひとりのジャーナリストが書いたドキュメントが150年後にも読むに耐えるという事態が想像できますか?僕にはできません。この本でマルクスは隣国で起きたある政治事件についてのノンフィクションを書いているだけなんです。その分析が150年後も胸がどきどきするほどスリリングであるというのは、そのときのマルクスがほとんど鳥瞰的な視点から地上の事件をおおづかみに見下ろしていたということです。レヴィ=ストロースは学術論文を書き始める前には必ずこれか『経済学・哲学草稿』を何頁か読み返すことにしていると書いていました。知性に「がつん」とキックが入るらしいです。

クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』(中公クラシックス)。
レヴィ=ストロースは僕が知る限り「歴史上もっとも頭のいい人」の一人です。そのレヴィ=ストロースが文化人類学という生まれたばかりの学問を選び、そのフィールドワークにアマゾンの奥地にでかけるまでの自伝的なドキュメントです。「頭がいい」というのはいろいろな意味がありますけれど、「人間の知性って、一息で『そんなところ』まで行けるの?」という「思考の肺活量」に何より驚嘆します。
あと、僕はこの人から「悪口の言い方」を学びました。鮮やか過ぎて「斬られた人がわからない」くらい悪口うまいです。

鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書)。
鶴見さんの文体は「にべもない」のが特徴です。飾らない、言い訳しない、自己正当化しない。いきなりずばっと核心に入ります。武道的な比喩を使って言うと、「斬る」には、鋭利なメスのような薄刃のもので「切り裂く」のと、重たい斧のようなもので「斬り潰す」の二つがありますが、鶴見さんの切れ味は後者の方です。こういうタイプの知性は日本には珍しい。
一番「来た」ところを引用しておきます。ハーヴァード大学にいた鶴見さんが、日米戦争が始まり、交換船で帰ることを決断したときの話。「この戦争で日本が米国に負けることはわかっている。日本が正しいと思っているわけではない。しかし、負けるときには負ける側にいたいという気がした。」

白川静『孔子伝』(中公文庫)。
白川先生のことを僕は直感的に「戦後日本でいちばん偉い学者だ」と思っています。白川先生は超人的な画像記憶力の持ち主で、古代の漢字が専門なのですが、どうも一度見た文字(発掘された甲骨や石盤や金属に手彫りしてある数十万ものそれぞれかたちの違う文字ですよ!)を全部記憶していたらしい。それを脳内で高速度でスキャンすることで、漢字の古義を「幻視」する。だから、白川先生の漢字学は基本「断定」です。「古代中国においては、こうであった」と「見てきたように」断定する。でも、あれは「ほんとうに見てる」から書けるんだと僕は思います。すごい。

村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋)。ランニング論であると同時に文学論であるという不思議な書物です。僕は「合気道論であると同時にレヴィナス論でもある書物」を書くことをライフワークにしているので、この本は今のところ最高の「先達」です。村上さんはご本人が繰り返し言うように「文学的天才」にそれほど恵まれていたわけではないかも知れません。でも、自分の中に潜在する才能(身体資源も知性も想像力も含めて)を最大限まで開花させるための努力においてはほとんど超人的です。才能は学ぶことができませんが、才能を開花させる方法は学ぶことができます。

2011.09.30

効率とリスクヘッジについて

大谷大学に鷲田清一先生の就任記念の講演『震災と哲学』を聴きに行く。
その前に読売新聞の西田さんから「大阪都構想」について、賛否の両論を掲載するのでインタビューしたいというお申し出があったので、大谷大学構内で1時間ほどお話をする(大谷大学は学外者が学外の仕事をするのに空いている部屋を貸してくださって、おまけにお茶まで出してくださった。なんという寛仁大度。さすが仏教系大学)。
大阪都構想「そのもの」について私は別に反対ではない。
大阪府と大阪市の二重行政を一元化しようという動きはすでに40年前からあり、前任者の太田府知事もその唱道者であった。
それが40年間はかばかしい成果を上げていないのは、大阪市がその権限と財源を府に委譲することによって、どのような「よきこと」が大阪の地に起るのか、その見通しがはっきりしなかったからだろう。
政策の適否はつねに計量的なものであって、「絶対に正しい政策」とか「絶対に間違った政策」というようなものはない。
ある歴史的条件の下ではオプティマルな政策が、ひとつ入力条件が変わっただけで無意味なものになる、ということはしばしばある。
あらゆる政策は固有の「未来予測」を含んでいる。
「こうなれば、こうなる」というときの後段について、われわれはその蓋然性を語れるだけである。
政策の適否について激しい対立があるのは、ほとんどの場合、「未来予測」が違うからである。
アメリカの次期大統領が共和党の茶会推薦の政治家になったら、国際社会の流れは一変するだろう。ギリシャやアイルランドやポルトガルの財政が破綻したらEUは空中分解するかも知れない。中国のポスト胡錦濤政権が出だしで失政を重ね、社会的インフラの弱さが露呈した場合、中国の「右肩上がりの時代」は突然停滞期に入るかも知れない。豪腕プーチンの再登場のときにアメリカが国際性のない大統領を抱えた場合、米露関係はいきなり緊張するかも知れない。
何が起るか、いつだって一寸先は闇である。
人びとはそれぞれ主観的な願望のバイアスをかけて「未来はこうなるだろう」と思っている。
アメリカが没落するときに「日米同盟堅持」というのは(信義は通るが)国益を減じる可能性がある。
中国が再び混乱期に入った場合に中国中心にビジネスを展開するのはリスクが高い。
政策の適否は文脈依存的である。
それゆえ、私たちは政策そのものの内的整合性を言い立てるよりもむしろ、「これから世界はどうなるのか」という未来予測について、その根拠となるファクターをひとつひとつ吟味する方が生産的だろうと私は思っている。
大阪都構想を単独の政策として議論することにはあまり意味がない。
どういう文脈の中にその政策を位置づけるかの方に意味がある。
構想がめざしているのは、大きな文脈の中で言えば、社会の「効率的再編」と「地域経済の活性化=需要の喚起」である。
「効率」と「成長」が端的に「よいもの」とされる時代においては適切な政策だったかも知れない。
それは東京府東京市が統合されて東京都に再編されたのが1943年の戦時下すなわち、中枢的で効率的な上意下達システムが何よりも求められていた状況においてであったという歴史的事実からも推察される。
けれども、高度成長期からバブル崩壊まで、「効率と成長が端的によいものとされた時代」においてさえ、この「効率と成長」を求める政策は採択されなかった。
どのような事情があったかはつまびらかにしないが、「二重行政」の非効率よりも優先されるべき「何か」があったというふうに考えるのが合理的である。
大阪都構想では、この「何か」を「既得権益」と同定している。
この指摘はその通りであるが、「既得権益」の受益者は別にごく一部の「ワルモノ」(悪代官や越後屋)であるわけではない。
しばしば既得権益、すなわち非効率なシステムの受益者は住民自身である。
役場や出張所が狭い地域にいくつも点在しているのは管理コスト上は非効率であるが、住民にとっては利便性が高い。
府立大学と市立大学が狭いエリアに併存しているのは、管理コスト上は非効率だが、学術的アウトカムという点から言えば、サイズが違い、学部構成が違い、教育方法が違い、教員組織が違う大学が二つある方が、学術的な生産性は高い。これは経験的に確かである。
似たような機能をもつものが重複し、併存していることを生態学では「ニッチ」と呼ぶ。
限られた資源しかない環境では、似たような個体がそれぞれライフスタイルを微妙に「ずらして」共生している方がシステムクラッシュを回避できる可能性が高いからそうするのである。
例えば、サバンナにはウマとシマウマがいるが、似ている種が二つ併存しているのは非効率だから統合しろという人はあまりいない。
この二種は微妙に行動や摂食パターンや身体組成が「ずれている」。そのため、仮にウマだけが罹る感染症でウマが全滅しても、シマウマがその地位を代補して繁殖するので、ウマとシマウマを捕食するライオンにはあまり影響が出ない。そのようにして、生態系全体は安定を保っている。
別にシマウマであることに既得権益がついてまわるからシマウマはウマと差別化しているわけではない。
システム全体のために差別化しているのである。
人間も、人間のつくる社会も本質的にはこの生物のルールに準拠している。
だから、人間たちもエコロジカル・ニッチに「ばらける」。
この行動を非効率ととらえるか、リスクヘッジととらえるかは、その人の社会意識(より細かく言えば「社会の脆さについての意識」)によって決まる。
安全で豊かな社会においては、システムクラッシュのリスクをあまり心配する必要がない。
そこでは「効率」を優先する方が適切である。
あまり安全でも豊かでもない社会では、システムクラッシュによる壊滅的危機に備えて「リスクヘッジ」を優先する方が適切である。
効率とリスクヘッジの善し悪しは、それ自体にはない。
システムの危機についての評価に依存する。
「全部の卵をひとつの籠に入れる」のは、流れ作業でオムレツを作るようなときには効率的である。
「卵をあちこちに分散しておく」のは「卵を守る」ためには有効である。
効率的なシステムを編成し、経済を活性化することが最優先の課題であるとする人は「この社会は安定している」と考えている。
システムは中枢的で上意下達的なツリー組織であるよりも、(たとえ非効率でも)ある程度分散している方がよいと考える人は「この社会はリスキーなものになりつつある」と考えている。
それをわかつのは、この社会の脆弱性についての危機感の違いである。
「社会システムが非効率的であり、経済活動が停滞して、市民が自己利益の追求に専念できないこと」を危機と考えるか、「市民が砂粒化し、自己利益の追求を優先して、公共システムが空洞化すること」を危機とみるか、その違いである。
リスク評価の適否は未来予測に依存するから、ここでいくら議論しても、どちらが正解であるか、結論は出ない。
私が経験的に知っているのは、「ハイリスク」を想定したが未来予測が外れたせいで失うものと、「ローリスク」を想定したが未来予測が外れたせいで失うものは、「桁が違う」ということである。
そのことを私たちは福島原発事故で骨身にしみて学習したのではないのか。

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