学ぶ力

2011-09-02 vendredi

「学ぶ力」という文章を書きました。中学二年生用の国語の教科書のために書き下ろしたものです。本が届いて、読んでみたら、なかなか「なるほど」と思うことが書いてあったので(自分で言うなよな)、ここに再録することにします。
中学二年生になったつもりで読んでね。

「学ぶ力」


「学ぶ力」

 日本の子どもたちの学力が低下していると言われることがあります。そんなことを言われるといい気分がしないでしょう。わたしが、中学生だとしても、新聞記事やテレビのニュースでそのようなことを聞かされたら、おもしろくありません。しかし、この機会に、少しだけ気を鎮めて、「学力が低下した」とはどういうことなのか、考えてみましょう。
 そもそも、低下したとされている「学力」とは、何を指しているのでしょうか。「学力って、試験の点数のことでしょう」と答える人がたぶんほとんどだと思います。ほんとうにそうでしょうか。「学力」というのは  「試験の点数」のことなのでしょうか。わたしはそうは思いません。
 試験の点数は数値です。数値ならば、他の人と比べたり、個人の経年変化をみるうえでは参考になります。でも、学力とはそのような数値だけでとらえるものではありません。「学力」という言葉をよく見てください。訓読みをしたら「学ぶ力」になります。わたしは学力を「学ぶことができる力」、「学べる力」としてとらえるべきだと考えています。数値として示して、他人と比較したり、順位をつけたりするものではない。わたしはそう思います。
 例えば、ここに「消化力」が強い人がいるとしましょう。ご飯をお腹いっぱいに詰め込んでも、食休みもしないで、すぐに次の活動に取りかかれる人は間違いなく「消化力が強い」といえます。「消化力が強 いです」と人にも自慢できます。しかし、それを点数化して他人と比べたりしようとはしないはずです。  「睡眠力」や、「自然治癒力」というものも、同様のものだと思います。どんなときでもベッドに潜り込んだら、数秒で熟睡状態に入れる人は睡眠力が高いといえるでしょう。この力は健康維持のためにもストレスを軽減するうえでも、きわだって有用ですが、睡眠力を他人と比較して自慢したり、順位をつけたりすることはふつうしません。怪我をしてもすぐに傷口がふさがってしまう自然治癒力も生きるうえでは、おそらく学力以上に重要な力でしょうが、その力も他人と比較するものではありません。わたしは「学力」もそういう能力と同じものではないかと思うのです。
 「学ぶ力」は他人と比べるものではなく、個人的なものだと思います。「学ぶ」ということに対して、どれくらい集中し、夢中になれるか、その強度や深度を評するためにこそ「学力」という言葉を用いるべきではないでしょうか。そして、それは消化力や睡眠力と同じように、「昨日の自分と比べたとき」の変化が問題なのだと思います。昨日よりも消化がいいかどうか、一週間前よりも寝つきがよいかどうか、一年前よりも傷の治りが早いかどうか。その時間的変化を点検したときにはじめて、自分の身に「何か」が起きていることがわかります。もし「力」が伸びているなら、それは今の生き方が正しいということですし、「力」が落ちていれば、それは今の生き方のどこかに問題があるということです。
 人間が生きてゆくためにほんとうに必要な「力」についての情報は、他人と比較したときの優劣ではなく、「昨日の自分」と比べたときの「力」の変化についての情報なのです。そのことをあまりに多くの人が忘れているようなので、ここに声を大にして言っておきたいと思います。自分の「力」の微細な変化まで感知されている限り、わたしたちは自分の生き方の適不適を判定し、修正を加えることができます。
「学ぶ力」もそのような時間の中での変化のうちにおいてのみ意味をもつ指標だと私は思います。その上で「学ぶ力」とはどういう条件で「伸びる」ものなのか、それを具体的にみてみましょう。
「学ぶ力が伸びる」ための第一の条件は、自分には「まだまだ学ばなければならないことがたくさんある」という「学び足りなさ」の自覚があること。無知の自覚といってもよい。これが第一です。
「私はもう知るべきことはみな知っているので、これ以上学ぶことはない」と思っている人には「学ぶ力」がありません。こう人が、本来の意味での「学力がない人」だとわたしは思います。ものごとに興味や関心を示さず、人の話に耳を傾けないような人は、どんなに社会的な地位が高くても、有名な人であっても「学力のない人」です。
 第二の条件は、教えてくれる「師(先生)」を自ら見つけようとすること。
 学ぶべきことがあるのはわかっているのだけれど、だれに教わったらいいのかわからない、という人は残念ながら「学力がない」人です。いくら意欲があっても、これができないと学びは始まりません。
 ここでいう「師」とは、別に学校の先生である必要はありません。書物を読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう」と思って、会ったことのない人を「師」に見立てることも可能です(だから、会っても言葉が通じない外国の人だって、亡くなった人だって、「師」にしていいのです)。街行く人の中に、ふとそのたたずまいに「何か光るもの」があると思われた人を、瞬間的に「師」に見立てて、その人から学ぶということでももちろん構いません。生きて暮らしていれば、至る所に師あり、ということになります。ただし、そのためには日頃からいつもアンテナの感度を上げて、「師を求めるセンサー」を機能させていることが必要です。
 第三の条件、それは「教えてくれる人を『その気』にさせること」です。
 こちらには学ぶ気がある。師には「教えるべき何か」があるとします。条件が二つ揃いました。しかし、それだけでは学びは起動しません。もう一つ、師が「教える気」になる必要があります。
 昔から、師弟関係を描いた物語には、必ず「入門」をめぐるエピソードがあります。何か(武芸の奥義など)を学びたいと思っていた者が、達人に弟子入りしようとするのですが、「だめだ」とすげなく断られる。それでもあきらめずについていって、様々な試練の末に、それでもどうしても教わりたいという気持ちが本気であるということが伝わると、「しかたがない。弟子にしてやろう」ということになる。そのような話は数多くあります。
 では、どのようにしたら人は「大切なことを教えてもいい」という気になるのでしょう。
 例えば「先生、これだけ払うから、その分教えてください」といって札束を積み上げるような者は、ふつう弟子にしてもらえません。師を利益誘導したり、おだてたりしてもだめです。だいたい、金銭で態度が変わったり、ちやほやされると舞い上がったりするような人間は「師」として尊敬する気にこちらの方がなれません。
 師を教える気にさせるのは、「お願いします」という弟子のまっすぐな気持ち、師を見上げる真剣なまなざしだけです。これはあらゆる「弟子入り物語」に共通するパターンです。このとき、弟子の側の才能や経験などは、問題になりません。なまじ経験があって、「わたしはこのようなことを、こういうふうな方法で習いたい」というような注文を師に向かってつけるようなことをしたら、これもやはり弟子にはしてもらえません。それよりは、真っ白な状態がいい。まだ何も書いてないところに、白い紙に黒々と墨のあとを残すように、どんなこともどんどん吸収するような、学ぶ側の「無垢さ」、師の教えることはなんでも吸収しますという「開放性」、それが「師をその気にさせる」ための力であり、弟子の構えです。たとえ、書物の中の実際に会うことができない師に対しても、この関係は同様です。同じ本を読んでいても、教えてもらえる人と、もらえない人がいるのです。
 「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。
 第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
 第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
 第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
 この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。数値で表せる成績や点数などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これがわたしの考える「学力」です。このセンテンスを素直に、はっきりと口に出せる人は、もうその段階で「学力のある人」です。
 逆に、どれほど知識があろうと、技術があろうと、このひとことを口にできない人は「学力がない人」です。それは英語ができないとか、数式を知らないとか、そういうことではありません。「学びたいのです。先生、教えてください。」という簡単な言葉を口にしようとしない。その言葉を口にすると、とても「損をした」ような気分になるので、できることなら、一生そんな台詞は言わずに済ませたい。だれかにものを頼むなんて「借り」ができるみたいで嫌だ。そういうふうに思う自分を「プライドが高い」とか「気骨がある」と思っている。それが「学力低下」という事態の本質だろうとわたしは思っています。
 自分の「学ぶ力」をどう伸ばすか、その答えはもうお示ししました。みなさんの健闘を祈ります。