「まったなし」を待っていただけないでしょうか。

2011-08-30 mardi

民主党の代表選挙があった。
一国の総理大臣を決める選挙なのだが、あまり盛り上がらない。
私自身も選挙結果にそれほど興味がない。
日本の政治過程は成熟期にあり、誰が総理大臣になっても、それほど違いが出ないようにシステムが作り込まれているからである。
安全と言えば、安全だし、不活性的と言えば、不活性的である。
東日本大震災以来の官邸の対応について「スピード感がない」という批判が繰り返されたが、たぶん「スピード感がない、だらだらしている」というのが成熟期に入った政治プロセスの特徴なのだろう。
「スピード感がない」というのは、いまの政治を否定的に論評するときの流行語になっている。
同じように「まったなし」というのが財政危機や景況についての形容の定型になっている。
状況は「まったなし」で切迫しているのであるから、「スピード感のある」対応が必至である、という言明は整合的なように聞こえるけれど、こういうものは繰り返し口にしているうちに、しだいにその本義を失って、ある種の「呪文」に化すことがある。
「ちょっと待て、その政策でいいのか?」という政策の適否の吟味そのものを「スピード感を殺ぐもの」として否定的にとらえる環境を作り出す。
いま、とりあえずマスメディアの論調はそうなっている。
「『まったなし』の状況に『スピード感のある』対応をするためには、政策的な適否について時間をかけて論じている暇はない」ということを早口で、相手の腰を折りながら、大声で、政治家も評論家も新聞の社説もテレビのコメンテイターも街頭でインタビューされる市民たちも、口を揃えて言い立てる風景を想像すると、なんだか気が滅入ってくる。
というのは、日本の政治史をふりかえると、政策的な「大失敗」はつねに「拙速」の結果だからである。
これは先日お会いした医療経済学Yoo先生の医療政策にかかわるご指摘であるが、欧米諸国では「政策は誤る可能性が高い」ことを前提にして、政策を起案する。
だから、制度改革に際しては「どうしたら大失敗するか」についてのシミュレーションにまず時間を割く。
ところが、日本の官僚や政治家は、「どういう要素によってこの政策の成功は妨げられるか」という問いを吟味することを嫌う。
それは「統治者は無謬であらねばならない」というありえない条件に、彼らが取り憑かれているからである。
おのれの無謬性を強調しようとする人は「これまで自分が犯した失敗とその被害・これから犯すかもしれない失敗とその被害」を過小評価する。
すると、「実はこれまで犯してきた失敗のすべてに共通するパターンがあるのではないか?」というもっとも生産的な問いが封殺されてしまう。
「無謬性」を競う環境においては、プレイヤーたちはその意思にかかわらず、「自分が失敗するかも知れない」蓋然性をできるだけ切り下げて考え、語り、やがて信じるようになる。
けれども、このような「自分が間違える可能性を過小評価する傾向」こそは「大失敗への王道」なのである。
私の見るところ、この20年間、日本の統治者は小規模ないし中規模の「失敗」を積み重ねてきた。
同時に、小規模の「成功」もいくつか達成した。
差引勘定ではマイナスになっているが、今すぐ「破産」するほどではない。
もちろんこのままあと100年マイナスが続けば、わが国民国家は破滅的状況に立ち至るだろう。
けれども、まだ今日明日の話ではない。
まだ落ち着いて、「どうしてこんなに失敗が続くのか?」について自問するくらいの余裕はあるはずである。
浮き足だって、「とにかく既成のものはみんな壊せ」というようなことを口走って、それでよい結果が出るというふうに私は思わない。
とりあえず日本近代史を徴する限り、「みんな壊せ」というようなことを口走った政治運動はすべて「大失敗」に帰着した。
日本の社会制度の中にはまるで機能不全のものもあるし、そこそこ機能しているものもあるし、ずいぶん順調に機能しているものもある。
その「仕分け」が重要である。
だが、その基準をほとんどの人は「採算」で量ろうとする。
「採算がとれるもの」はよいもので、「採算がとれないもの」は廃絶すべきだというふうに考える。
けれども、社会制度中には四半期とか単年度のアウトカムでは良否を判定できないものがある。
何度も書いているように、社会的共通資本はそもそも共同体の存立に不可欠のものであるから、「採算が合わない」とか「政治的に正しくない」とかいう水準の議論にはなじまない。
「仕分け」をするとしたら、まずそれが採算を度外視して守るべき「社会的共通資本」であるのか、あるいは政治や市場のレベルに出来する(なくても別に誰も困らないもの)なのか、その見極めだろう。
例えば、教育の場合、そのアウトカムは数値的には考量不可能である(教育の制度的目的は「知性的・感性的に成熟した公民を作り出すこと」だが、ある人物が公民的成熟を果たしたかどうかは、卒後数十年待たないと判定できない)。
私たちの有限な可処分資源をどのようにその緊急性に応じて配分するか。
それを決定するのがほんらいは統治者の仕事なのである。
私のいう「緊急性」というのは、「スピード感」というレベルの話ではない。
「人類学的な優先順位」のことである。
私たちが生き延びてゆくために最優先すべきものは何かという問いのことである。
その問いを深くつきつめ、国民的合意を練り上げることを怠って、「とりあえず金が要るんだよ」という耳障りで雑駁な主張に流されてきたせいで、私たちはいま「こんな目」に遭っているのではないのか。

民主党の代表選を聴いていたが、Twitterにも書いたように、候補者たちの中に、「自分の演説が英訳されて、海外のメディアに報道された場合に、21世紀の日本の国家ヴィジョンが海外の人々にも理解できること」を配慮して語っていた人は一人もいなかった。
彼らがしたのは「人情」の話と、「金」の話と、「まったなし」の話だけだった。
「お茶の間でちゃぶ台を囲んで、身内だけで話すようなこと」ばかりだった。
見識が低いとか、内向きだとかいっているのではない。
「家の外」からこの家はどんなふうに見えているのか、という想像力が働いていないということは、わが国民国家についての長期的・巨視的なヴィジョンが端的に「ない」ということである。
彼らは口々に危機を語っていたが、彼ら自身が「危機の徴候」そのものなのではないかという不安が去来することはないのだろうか。
私はけっこう不安になった。