効率とリスクヘッジについて

2011-09-30 vendredi

大谷大学に鷲田清一先生の就任記念の講演『震災と哲学』を聴きに行く。
その前に読売新聞の西田さんから「大阪都構想」について、賛否の両論を掲載するのでインタビューしたいというお申し出があったので、大谷大学構内で1時間ほどお話をする(大谷大学は学外者が学外の仕事をするのに空いている部屋を貸してくださって、おまけにお茶まで出してくださった。なんという寛仁大度。さすが仏教系大学)。
大阪都構想「そのもの」について私は別に反対ではない。
大阪府と大阪市の二重行政を一元化しようという動きはすでに40年前からあり、前任者の太田府知事もその唱道者であった。
それが40年間はかばかしい成果を上げていないのは、大阪市がその権限と財源を府に委譲することによって、どのような「よきこと」が大阪の地に起るのか、その見通しがはっきりしなかったからだろう。
政策の適否はつねに計量的なものであって、「絶対に正しい政策」とか「絶対に間違った政策」というようなものはない。
ある歴史的条件の下ではオプティマルな政策が、ひとつ入力条件が変わっただけで無意味なものになる、ということはしばしばある。
あらゆる政策は固有の「未来予測」を含んでいる。
「こうなれば、こうなる」というときの後段について、われわれはその蓋然性を語れるだけである。
政策の適否について激しい対立があるのは、ほとんどの場合、「未来予測」が違うからである。
アメリカの次期大統領が共和党の茶会推薦の政治家になったら、国際社会の流れは一変するだろう。ギリシャやアイルランドやポルトガルの財政が破綻したらEUは空中分解するかも知れない。中国のポスト胡錦濤政権が出だしで失政を重ね、社会的インフラの弱さが露呈した場合、中国の「右肩上がりの時代」は突然停滞期に入るかも知れない。豪腕プーチンの再登場のときにアメリカが国際性のない大統領を抱えた場合、米露関係はいきなり緊張するかも知れない。
何が起るか、いつだって一寸先は闇である。
人びとはそれぞれ主観的な願望のバイアスをかけて「未来はこうなるだろう」と思っている。
アメリカが没落するときに「日米同盟堅持」というのは(信義は通るが)国益を減じる可能性がある。
中国が再び混乱期に入った場合に中国中心にビジネスを展開するのはリスクが高い。
政策の適否は文脈依存的である。
それゆえ、私たちは政策そのものの内的整合性を言い立てるよりもむしろ、「これから世界はどうなるのか」という未来予測について、その根拠となるファクターをひとつひとつ吟味する方が生産的だろうと私は思っている。
大阪都構想を単独の政策として議論することにはあまり意味がない。
どういう文脈の中にその政策を位置づけるかの方に意味がある。
構想がめざしているのは、大きな文脈の中で言えば、社会の「効率的再編」と「地域経済の活性化=需要の喚起」である。
「効率」と「成長」が端的に「よいもの」とされる時代においては適切な政策だったかも知れない。
それは東京府東京市が統合されて東京都に再編されたのが1943年の戦時下すなわち、中枢的で効率的な上意下達システムが何よりも求められていた状況においてであったという歴史的事実からも推察される。
けれども、高度成長期からバブル崩壊まで、「効率と成長が端的によいものとされた時代」においてさえ、この「効率と成長」を求める政策は採択されなかった。
どのような事情があったかはつまびらかにしないが、「二重行政」の非効率よりも優先されるべき「何か」があったというふうに考えるのが合理的である。
大阪都構想では、この「何か」を「既得権益」と同定している。
この指摘はその通りであるが、「既得権益」の受益者は別にごく一部の「ワルモノ」(悪代官や越後屋)であるわけではない。
しばしば既得権益、すなわち非効率なシステムの受益者は住民自身である。
役場や出張所が狭い地域にいくつも点在しているのは管理コスト上は非効率であるが、住民にとっては利便性が高い。
府立大学と市立大学が狭いエリアに併存しているのは、管理コスト上は非効率だが、学術的アウトカムという点から言えば、サイズが違い、学部構成が違い、教育方法が違い、教員組織が違う大学が二つある方が、学術的な生産性は高い。これは経験的に確かである。
似たような機能をもつものが重複し、併存していることを生態学では「ニッチ」と呼ぶ。
限られた資源しかない環境では、似たような個体がそれぞれライフスタイルを微妙に「ずらして」共生している方がシステムクラッシュを回避できる可能性が高いからそうするのである。
例えば、サバンナにはウマとシマウマがいるが、似ている種が二つ併存しているのは非効率だから統合しろという人はあまりいない。
この二種は微妙に行動や摂食パターンや身体組成が「ずれている」。そのため、仮にウマだけが罹る感染症でウマが全滅しても、シマウマがその地位を代補して繁殖するので、ウマとシマウマを捕食するライオンにはあまり影響が出ない。そのようにして、生態系全体は安定を保っている。
別にシマウマであることに既得権益がついてまわるからシマウマはウマと差別化しているわけではない。
システム全体のために差別化しているのである。
人間も、人間のつくる社会も本質的にはこの生物のルールに準拠している。
だから、人間たちもエコロジカル・ニッチに「ばらける」。
この行動を非効率ととらえるか、リスクヘッジととらえるかは、その人の社会意識(より細かく言えば「社会の脆さについての意識」)によって決まる。
安全で豊かな社会においては、システムクラッシュのリスクをあまり心配する必要がない。
そこでは「効率」を優先する方が適切である。
あまり安全でも豊かでもない社会では、システムクラッシュによる壊滅的危機に備えて「リスクヘッジ」を優先する方が適切である。
効率とリスクヘッジの善し悪しは、それ自体にはない。
システムの危機についての評価に依存する。
「全部の卵をひとつの籠に入れる」のは、流れ作業でオムレツを作るようなときには効率的である。
「卵をあちこちに分散しておく」のは「卵を守る」ためには有効である。
効率的なシステムを編成し、経済を活性化することが最優先の課題であるとする人は「この社会は安定している」と考えている。
システムは中枢的で上意下達的なツリー組織であるよりも、(たとえ非効率でも)ある程度分散している方がよいと考える人は「この社会はリスキーなものになりつつある」と考えている。
それをわかつのは、この社会の脆弱性についての危機感の違いである。
「社会システムが非効率的であり、経済活動が停滞して、市民が自己利益の追求に専念できないこと」を危機と考えるか、「市民が砂粒化し、自己利益の追求を優先して、公共システムが空洞化すること」を危機とみるか、その違いである。
リスク評価の適否は未来予測に依存するから、ここでいくら議論しても、どちらが正解であるか、結論は出ない。
私が経験的に知っているのは、「ハイリスク」を想定したが未来予測が外れたせいで失うものと、「ローリスク」を想定したが未来予測が外れたせいで失うものは、「桁が違う」ということである。
そのことを私たちは福島原発事故で骨身にしみて学習したのではないのか。