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2011年08月 アーカイブ

2011.08.01

ネット上の発言の劣化について

個人的印象だが、ネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。
攻撃的なコメントが一層断定的になり、かつ非論理的になり、口調が暴力的になってきている。
これについては、前に「情報の階層化」という論点を提示したことがある。
ちょっと長い話になる。
かつてマスメディアが言論の場を実効支配していた時代があった。
讀賣新聞1400万部、朝日新聞800万部、「紅白歌合戦」の視聴率が80%だった時代の話である。
その頃の日本人は子どもも大人も、男も女も、知識人も労働者も、「だいたい同じような情報」を共有することができた。
政治的意見にしても、全国紙の社説のどれかに「自分といちばん近いもの」を探し出して、とりあえずそれに同調することができた。
「国論を二分する」というような劇的な国民的亀裂は60年安保から後は見ることができない。
国民のほとんどはは、朝日から産経まで、どれかの新聞の社説を「口真似する」というかたちで自分の意見を表明することができたのである。
それらのセンテンスはほぼ同じ構文で書かれ、ほぼ同じ語彙を共有しており、ほぼ同じ論理に従い、未来予測や事実評価にずれはあっても、事実関係そのものを争うことはまずなかった。
それだけ言説統制が強かったというふうにも言えるし、それだけ対話的環境が整っていたとも言える。
ものごとには良い面と悪い面がある。
ともかく、そのようにして、マスメディアが一元的に情報を独占する代償として、情報へのアクセスの平準化が担保されていた。
誰でも同じような手間暇をかければ、同じようなクオリティの情報にアクセスできた。
「情報のデモクラシー」の時代だった。
これはリアルタイムでその場に身を置いたものとしては、「たいへん楽しいもの」として回想される。
内田百閒と伊丹十三が同じ雑誌に寄稿し、広沢虎造とプレスリーが同じラジオ局から流れ、『荒野の七人』と『勝手にしやがれ』が同じ映画館で二本立てで見られた。
小学校高学年の頃、私は父が買ってくる『文藝春秋』と『週刊朝日』を隅から隅まで読んだ。
それだけ読んでいると、テレビのクイズ番組のすべての問題に正解できた。
そういう時代だった。
だが、70年代から情報の「層化」が始まる。
最初に「サブカルチャー系情報」がマスメディアから解離した。
全国紙にはまず掲載されることがない種類のトリヴィアルな情報が、そういうものを選択的に求める若者「層」に向けて発信され、それがやがてビッグビジネスになった。
「異物が混在する」時代が終わり、「異物が分離する」時代になったのである。
たしかに、筒井康隆の新作を読むつもりで買った月刊誌に谷崎潤一郎の身辺雑記が掲載されていたら、「ここ読まないのに、その分金出すのもったいないよ」と思う読者が出て来ても仕方がない。
メディアの百家争鳴百花繚乱状態が始まった。
そのときも「別に、これでいいじゃん」と思っていた。みんなも「これでいいのだ」と言っていた。
それによって、社会集団ごとにアクセスする情報の「ソース」が分離するようになってきた。
国民全員が共有できる「マス言論」という場がなくなった。
若い人はもう新聞を読まない。テレビも見ない。
必要があれば、ニュース記事はネットで拾い読みし、動画はYou tubeで見る。
「必要があれば」というのは、当人のまわりで「それ」が話題になっているときに、キャッチアップする「必要があれば」ということである。
まわりで話題にならなければ、戦争があっても、テロがあっても、政権が瓦解して通貨が紙くずになっても、どこかの国が水没しても、どこかの国の原発が爆発しても、そんなことは「知らない」。
マス言論というのは、いわば「自分が知っている情報をマップするための、メタ情報」である。
もし、マス言論の場に登録されていない情報を自分が知っている場合、それは「国民レベルで周知される必要のない情報」だという予備的なスクリーニングがかけられたと判断してよい。
「国民レベルで周知される必要のない情報」には二種類ある。
「重要性が低いので(例えば、「今のオレの気分」)、周知される必要がない情報」か「あまりに重大なので(例えば、尾山台上空にUFOが飛来した)、それが周知されると社会秩序に壊乱的影響を及ぼす情報」の二つである。
そして、私たちは長い間のマスメディア経験を通じて、「自分は現認したが、マスメディアに報じられない情報」はとりあえず第一のカテゴリーのものとみなすという訓練を受けていた(ぶつぶつ文句を言いながら、ではあるが)。

それが揺らいできた。
マスメディアの「マップ機能」が著しく減退したからである。
マスメディアのマップ機能が低下すると、私たちは自分の知っている情報の価値を過大評価するようになる。
私が知っていて、メディアが報道しない情報は、「それを知られると、社会秩序が壊乱するような情報」であるという情報評価態度が一般的になる。
やっと話が最初に戻ってきた。
私が今のネット上の発言に見る一般的傾向はこれである。
自分自身が送受信している情報の価値についての過大評価。
自分が発信する情報の価値について、「信頼性の高い第三者」を呼び出して、それに吟味と保証を依頼するという基本的なマナーが欠落しているのである。
ここでいう「信頼性の高い第三者」というのは実在する人間や機関のことではない。
そうではなくて、「言論の自由」という原理のことである。
言論が自由に行き交う場では、そこに行き交う言論の正否や価値について適正な審判が下され、価値のある情報や知見だけが生き残り、そうでないものは消え去るという「場の審判力に対する信認」のことである。
情報を受信する人々の判断力は(個別的にはでこぼこがあるけれど)集合的には叡智的に機能するはずだという期待のことである。
それは自分が言葉を差し出す「場」に対する敬意として示される。
根拠を示さない断定や、非論理的な推論や、内輪の隠語の濫用や、呪詛や罵倒は、それ自体に問題があるというより(問題はあるが)、それを差し出す「場」に対する敬意の欠如ゆえに「言論の自由」に対する侵害として退けられなければならないのである。
繰り返し書いている通り、挙証の手間暇や、情理を尽くした説得を怠るものは、言論の場の審判力を信じていない。
真理についての検証に先だって、自分はすでに真理性を確保していると主張する人間は、聴き手に向かって「お前がオレの言うことに同意しようとしまいと、オレが正しいことに変わりはない」と言い募っているのである。
それは言い換えると「お前なんか、いてもいなくてもおんなじなんだよ」ということである。
私たちはそういう言葉を聴かされているうちに、しだいしだいに生命力が萎えてくる。
それはある種の「呪い」である。
言論の自由には「言論の自由の場の尊厳を踏みにじる自由」「呪詛する自由」は含まれないと私は思う。

情報の「層」化が進行し、私たちはいま「情報の階層化」のフェーズに入っている。
それは端的に言えば「質の良い情報にアクセスできる階層」と「質の悪い情報にしかアクセスできない階層」の分極化である。
だが、問題はそれが「状態」ではなく、「プロセス」だということである。
「質の良い情報」というのは物性のことではない。
そうではなくて、自分の発信する情報が「情報環境全域」の中でどこに位置づけられ、どう機能しているかを「マッピング」できるということである。
「私はこのことを言うことによって『何を言いたいのか』」を言える情報は良質な情報である。
「質の悪い情報」はその逆のもののことである。
それが送受信される文脈、その歴史的機能などについて自省する機制を含まない情報は「質の悪い情報」である。
「オレはこう思う。」とか「オレはこれを知っている。」といったタイプの情報は、そのコンテンツの正否にかかわらず「質の悪い情報」である。
自分の主張に含まれている「思い込み」「事実誤認」「推論の間違い」などについて、価値中立的な視点から精査する自己点検システムを含まないステートメントは、そのコンテンツの正否にかかわらず「質の悪い情報」に分類される。

現在進行している情報の階層化は、端的に言えば、「情報には質の差がある」ということを知っている人たちと、それを知らない人たちの間に広がっている。
情報の階層化は不可逆的に進行する。
「質のよい情報」を取り込む装置を持っている人のところには「質の良い情報」が累積し、「質の悪い情報」をスクリーニングできない人のところには「質の悪い情報」だけしか集まらない。
「情報」はその自体的な正否によってではなく、「それが誤っている蓋然性」についての適正な評価を伴う場合だけに意味がある。
そのことを「知っている人間」と「知らない人間」の間に、急速に、不可逆的なしかたで、情報の階層差がいま進行している。
情報化社会においては、その差は権力・財貨・文化資本のすべての配分に直接反映することになる。

誤解して欲しくないが、私は情報の階層化には反対である。
ネット上に「呪詛」を書き込んでいる諸君は、それによって他ならぬ自分自身を情報化社会の最下層に釘付けにしていることに気づいて欲しいと思って、この文章を私は書いている。
たぶん、ご理解いただけないであろうが。(あ、いけない呪いを書いちゃった。今のなしね)


2011.08.07

歩哨的資質について

毎日新聞社が高野山金剛峯寺で開いているセミナーで一席おうかがいしてきた。
「公共性の再構築」という演題だったのだが、それは3・11以前に出したものなので、もう少し踏み込んで「社会制度の作りなおし」というテーマで70分お話しする。
このところ繰り返し述べている「存在しないもの」と「存在するもの」のフロントラインにおけるふるまいということをまた申し上げる。

私たちの世界は「存在しないもの」に囲繞されている。
宇宙の起源を私たちは知らないし、宇宙の果てに何があるか(というより「何がないか」)も知らない。
時の始まりを知らず、時の終わりを知らない。
『ヨブ記』で主はヨブにこう問う。
「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
あなたは知っているか。
だれがその大きさを定め、
だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめこまれたか。
その隅の石はだれが据えたか。
(・・・)
あなたは海の源まで行ったことがあるのか。
深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。
死の門があなたの前に現れたことがあるのか。
あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。
あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。
そのすべてを知っているなら、告げてみよ。」(『ヨブ記』 38:3-18)
ヨブはこの問いの前に絶句する。
私たちは私たちの生きているこの世界の「外部」についてはほとんど何も知らない。
私たちは私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの、手持ちの言語では記述できないものに囲繞されている。
私たちが理解できる世界と、理解を超えた世界のあいだには目に見えない境界線がある。
「存在するもの」と「存在しないもの」のあいだには目に見えない、手で触れることもできない境界線がある。
けれども、その境界線を守護するのは、私たちが「人間の世界」で生きてゆくために必須の仕事なのである。
誰かが境界線を守護しなければならない。
『ヨブ記』においては主がその仕事を担っている。
主はこう言う。
「海がふき出て、胎内から流れ出たとき、
だれが戸でこれを閉じ込めたか。
(・・・)わたしはこれをくぎって境を定め、
かんぬきと戸を設けて、言った。
『ここまでは来てもよい。
しかし、これ以上はいけない。
あなたの高ぶる波はここでとどまれ』と。」(『ヨブ記』 38:8-11)

「存在しないもの」に向けて「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない」と宣告する境界線がある。
高野山の奥の院に足を踏み入れたときにも「フロントライン」に近づいた感覚がした。
弘法大師がそこでとどめた「高ぶる波」の微かな波動が感知された。
聖域というのは、そこで完結している場所ではなく、何かとの「境」なのだ。
機能的には「かんぬきと戸」なのだ。
髑髏島の原住民たちがコングの人間界への侵襲を防ぐために建設した、あの巨大な「門」を想像してもらえればよろしいかと思う。
「かんぬきと戸」がしっかり機能している場所だと、私たちは「高ぶる波」のすぐ近くまで行くことができる。
聖人とは、「境を定め、かんぬきと戸をもって高ぶる波をおしとどめる」人のことである。
私たち全員がそのような仕事をしなければならないというわけではない。
けれども、ときどき、聖人が登場して、「かんぬきと戸」の点検をすることは私たちが人間的秩序のうちで生きてゆくためには必須のことなのである。

私はかつてそのような仕事のことを「歩哨」(sentinelle)と呼んだことがある。
私たちの社会制度のさまざまな箇所で「ほころび」が生じている理由を私は端的に「歩哨」の絶対数が減ったことだと思っている。
福島の原発事故は「恐るべき力」を制御するための「かんぬきと戸」の整備と点検の仕事がほとんど配慮されていなかったことを示した。
そこには会社の収益や、マニュアル通りの業務や、自身の組織内の立場を優先的に配慮する人間たちはいたが、「あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と告げる「歩哨」仕事を自分に託された召命だと思っている人間はいなかった。
「境を守る」ことを本務とする人間を「戸」の近くに配備しなければならないという人類学的な「常識」を私たちはだいぶ前に忘れてしまった。
戦争もテロも飢餓も恐慌もない、豊かで安全な生活が半世紀続いただけで、日本人はその常識を忘れてしまった。
私たちの生きているこの狭く、脆い世界は「境を守るもの」たちの無言の、日常的な、献身的な努力によってかろうじて支えられているのだということを忘れてしまった。
崩れかけたこの社会の再構築のための急務は、「歩哨」の備給である。
「境」における歩哨のふるまいには定型的なマニュアルもガイドラインもない。
もちろん、一般的な「傾向」はあるが(それは神話や恐怖譚として繰り返し語られている)、「存在しないもの」の侵襲はどのようなかたちをとるのかを私たちは正確には予測できない。
だから、歩哨たちには「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまえばよいかがわかる」能力が必要なのである。
その「センサー」を研ぎ澄ますために経験的に効果的な方法が存在する。宗教的な修業や武道の稽古は本来そのためのものである。
たしかに、そういうセンサーがきちんと機能している人がいる。
WTCへのテロのとき、「なんとなく外に出た方がいいような気がして」ビルを出て難を避けた人がいた。
その日に限って、「ふだんと違う行動をとって生き延びた人」がどれくらいの数いたのか、誰かが統計を取り、その人たちに共通する「生き方の傾向」を吟味するというのは興味深い研究主題だと私は思うが、たぶん「非科学的」と一蹴されることだろう。
でも、「わかる人はわかる」というのはほんとうである。
先日、こんな記事を読んだ。
大阪京都両府警の捜査官が広域事件について打ち合わせしたとき、京都府警の刑事が「こういう事件もあるんです」と、ある空き巣事件の容疑者の写真を大阪の刑事に示した。打ち合わせが終わって外へ出て10分後に大阪府警の刑事は近くの競艇場外発売所近くでその容疑者を発見した。
この捜査員は雑踏の中から指名手配犯などをみつける「見当たり捜査」の専門家だったそうである。
「そういうものだ」と思う。
彼らは警察官の視野から逃れようとする人々が発する微細なオーラを感知する能力を備えている。
「職務質問」というのは組織的にやるものではなく、「挙動不審」な人間をピンポイントして行うものである。
「挙動不審」というのは、チェックリストがあって、そのスコアが高い場合にそう判断するというものではない。
遠くにいる人間の、わずかな眼の動きや呼吸や心拍数の変化のようなものが「際だって感知される」場合にそう言われるのである。
そういう能力を持っている人が警察官になるべきであり、これまではなってきた。
警察という制度はそのような能力を勘定に入れて制度設計されている。
私たちは刑事ドラマを見ているときに、刑事たちが街中であまりにも容易に挙動不審な容疑者と偶然遭遇するのを「ご都合主義」だと嗤うことがあるけれども、警察の捜査というのは、もともと「そういうもの」なのである。
だが、挙動不審な人間を感知する能力や嘘をついている人間とほんとうのことを言っている人間を直感的に見分ける能力などは、その有無や良否をエビデンスによって示すことができない。
本来は捜査員の採用のときには、「そのようなエビデンスをもっては示すことのできない能力」の有無を基準に採否を決すべきなのである。
でも、エビデンスをもっては示すことのできない能力の有無の判定にはエビデンスがないので(当たり前だが)、現在の公務員採用規定ではこれを適用できない。
そのせいで、わが国の司法システムは劣化したのだと私は思っている。
冤罪事件が多発するのは、司法システムが「嘘をついている人間と真実を述べている人間を直感的に識別できる能力」を備えた司法官が一定数存在することを前提に制度設計されているからである。
司法官の少なくとも一定数は物証がなくとも、自供がなくとも、証言の真偽を直感する力を備えていると想定されている。
「裁判官の心証形成」という不思議な法律用語があるが、これは裁判官が「複数の解釈可能性のうち、ある解釈を優先的に採択したくなる気分」のことである。
「気分」に法律的な力が認められているのは、司法官(の少なくとも一部)には、「証言の真偽を直感的に判定する力が備わっている」ということが司法界では広く信じられていたからである。
そのような能力を備えた人間が一定数存在することを前提にしてつくられた制度が、まったくそのような能力を持たない人間によって運用されるから冤罪事件が起きるのである。
シャーロック・ホームズのモデルになったエジンバラ大学医学部教授ジョーゼフ・ベルは患者を一瞥しただけで、出身地や職業や疾病歴を「言い当てる」ことができた。
医師(の少なくとも一部は)そのような能力を有しているということを勘定に入れて医療制度は設計されている。
司法や医療や教育はひろく社会的共通資本の中の「制度資本」にカテゴライズされるけれど、これらはいずれも「わからないはずのことが、わかる」という人間の潜在能力を勘定に入れて設計された制度である。
これらはいずれも「存在しないもの」とのフロントラインに位置する「歩哨的制度」である。
人間の世界の内部では「存在することが明証的であるものだけが存在する」「存在することのエビデンスの示されないものは、存在しない」というルールが適用されている。
「内部」はそれでよい。
でも、「存在しないものとのフロントライン」では、そのルールは通用しない。
そこはまさに「存在しないはずのもの」が「存在するもの」にかたちを変える、生成の場だからである。
そのような場にどのようにして「歩哨的資質」を持った人々を配することができるか。
子どもたちのうちから、そのような「歩哨的資質」を備えたものをどうやって見出し、その能力を選択的に育成してゆくのか。
これは原理問題ではなく、純粋に技術的な問題である。

2011.08.10

感情表現について

海江田経産相が国会で落涙したことについて、週刊現代から電話取材を受けた。
「どう思いますか?」と訊かれたので、こんなふうに答えた。

どうして「そういうこと」が起きるのか。
理由は二つ考えられる。
一つは「感情表現が抑制できない人が増えている」という解釈。
一つは「感情表現について抑制的である必要はない」という考え方が広く定着したという解釈。
たぶん、その両方の理由によるものだと思う。
感情は自分の内面に根拠をもっていると私たちは思いがちだが、ほんとうはそうではない。
脳科学が教えるところによれば、私たちは感情を外部にあるものの模倣を通じて学習するのである。
ミラーニューロンの働きについてはこれまでも何度も書いてきた。
他人がある動作をしているときに、それを見ているものの脳内ではそれと同じ動作を指示するニューロンが発動する。
ミラーニューロンは、行為をするときにも、知覚するときにも動くのである。
そして、子どもは感情というものを、このミラーニューロンの動きを通じて学習する。
「他人の心を理解するとは、他人の振る舞いや顔の表情から、自分の脳神経回路を使って他人の心を想像するということである。(・・・)ミラーニューロンにより、他人の振る舞いを見ると、自分もそれと同じ振る舞いを仮想的にするのである。ミラーニューロンによって、他人の振る舞いを見るだけで自分の中に仮想的身体運動が起こり、他人の心と同様の状態に自分の心がなり、そうして他人を理解しているのである。」(月本洋、『日本人の脳に主語はいらない』、講談社、2008年、118頁)
例えば、「怒り」という感情は、怒っている人間の表情や声の出し方や身ぶりを模倣することによって内面化し、学習される。
子どもの内面に感情がまずあって、それが身体表現に外化するのではない。
他人の身体表現を模倣し、それが伴う情動が内面化した結果、感情が生まれるのである。
子どもの感情が豊かになる過程を仔細に観察していればわかる。
他人の身体表現の模倣に熟達するにつれて、子どもたちの感情は深まり、多様化する。
感情は他人の外形を模倣することで発生するわけであるから、外形抜きの「純粋感情」などというものは存在しない。

人類が致死性のウィルスで絶滅して、あなたが「人類最後の一人」になったときのことを想像して欲しい。
あなたは自分が「人類最後の一人」になったことでたいへん腹を立てている。
たぶん、その怒りをゴミ箱を蹴飛ばしたり、机をひっくり返したりして表現するはずである。
だが、どうしてあなたはそんなときにも「誰が見ても、それとわかる怒りの定型」を忠実になぞるのか?
誰も見ていないのだから、そんなことをする必要は全然ないのである。
純然たる怒りの感情だけがあって、それが身体化しなくても誰も困らない(見ている人は誰もいないのだから)。
でも、誰も見ていない場所においてでさえ、私たちは見ている人がいれば「ああ、この人は怒っているのだな」とわかるような感情表現を外形化する。
外形化せざるを得ない。
というのは、身体表現抜きで、輪郭のはっきりした感情を維持することが私たちにはできないからである。
感情とは(観客がいないと意味をなさない)社会的な記号なのである。
そして、強い感情表現は、それを見ている他者のミラーニューロンを賦活させるから、他者のうちに同質の感情を作り出す。
そこにある種の一体感が醸成される。
自分の内面には「そんな感情」がなくても、それを演じているうちに「そんな感情」が自分のうちにも、自分を見ている人のうちにも生まれてくるのである。

だから、他人の内面をダイレクトに操作しようと願う人間-つまり、「政治的な人間」-は、演技的な怒りや演技的な悲しみや演劇的な苦悩に熟達するようになる。
政治家が「過剰に感情的になっている」ように見えるのは、当たり前なのである。
橋下大阪府知事や石原都知事は怒りを剥き出しにすることでメディアの注目を集め続けているが、これは計算ずくのパフォーマンスだろうと思う。
「怒る人」は衆人の耳目を最優先に集めることができるからである。
成員の誰かが怒っている場合、その怒りを鎮めることは共同体の最優先課題となる。
その他の日常業務を一時停止しても、怒りを鎮めるために、資源を緊急投入せねばならない。
というのは、怒っている人間は「共同体の弱い環」だからである。
例えば、あなたが帆船の乗組員であった場合、クルー内に「常軌を逸して怒り狂っている人間」がいた場合、彼がもたらすリスクは致命的なものとなりかねない(彼は氷山や暗礁の接近を通告しないかも知れないし、羅針盤を叩き壊すかも知れないし、スープに腐肉を投じるかも知れない)。
だから、怒っている人間がいれば、私たちはその(かなり身勝手な)言い分にも耳を傾け、その要求を(できる範囲で)受け容れ、何とかして怒りを鎮めようとする。
共同体の安全のための、それがルールだからである。
「怒っている人間をそれ以上怒らせるな」というのは、人類学的な命令なのである。
「怒る政治家」たちは、それを知っている。
それを利用している。
だから、「泣く政治家」もそれに類する政治的効果を期待しているのだと私は思う。
意地悪い言い方になるが、彼は「私をもっとやさしく遇してください」と要求しているのである。
政治家に限らず、経営者たちも、メディア知識人たちも、私たちの社会の「偉い人たち」がしだいに感情を抑制する努力を怠るようになってきた。
たぶん、その方が自分たちの言い分を通す上で効果的だということを学んだからであろう。
二昔前ではまず見ることのなかった、「いい年をした大人が怒声をあげる、泣く、ふて腐れる」という様子を私たちはもう見慣れてきている。
これはたぶん「無理に我慢しないで、感情は爆発させた方がいい」というフェミニストたちがうるさく説いた「専門的」勧告の一つの成果でもあるのだろう。
「子どもらしく/大人らしく」「男らしく/女らしく」ふるまわなければならないという社会的規範がどれほど人の心を抑圧し、傷つけているかについて、私たちは飽きるほど聴かされてきた。
「らしく」という抑圧的行動規範こそが父権制を支えているのだ。
「らしさ」の呪縛から人々は解き放たれねばならない。
人は「自分らしく」ありさえすればよい。
それ以外のすべての社会的行動規範は廃絶されるべきである。
この二十年ほどそんな話ばかりだった。
だが、そう主張した人々は「感情の成熟」ということについてどこまで真剣に考えていたのだろうか。
私たちは子どものときは「子どもらしさ」を学習し、それから順次「男らしさ/女らしさ」や「生徒らしさ」や「年長者らしさ」や「老人らしさ」を学習してゆく。さらには育児や老親の介護を通じて、「子どもに対する親らしさ」や「(親に対する)子どもらしさ」といった変化技を学習してゆく。
さらに職業によって「クラフトマンシップ」や「シーマンズシップ」のような固有のエートスを身につけてゆく。
そのようにして習得されたさまざまな「らしさ」が私たちの感情を細かく分節し、身体表現や思考を多様化し、深めてゆく。
感情の成熟とはそのことである。
「感情の学習」を止めて、「自分らしさ」の表出を優先させてゆけば、幼児期に最初に学習した「怒り、泣く」といったもっともアピーリングな「原始的感情」だけを選択的に発達させた人間が出来上がる。
そのような人間であることは、今のところ、まわりの人々の関心と配慮を一身に集めるという「利得」をもたらしている。
「怒っている人間、泣いている人間は最優先にケアすべき幼児だ」という人類学的な刷り込みが生きているからである。
けれども、今、私たちの社会では、「過度に感情的であることの利得」にあまりに多くの人々が嗜癖し始めている。
それは私たちの社会が、「大人のいない社会」になりつつあるということを意味している。
そのことのリスクをアナウンスする人があまりに少ないので、ここに大書しておくのである。

私はこの文章を書きながらぜんぜん怒らずに「怒り」について書くということは可能かどうかわが身を用いて確かめてみた。
さて、その可否はいかがでしたでしょうか?

2011.08.22

教育基本条例について

大阪維新の会が教育基本条例の素案をまとめた。
知事・市長による教育目標の設定や教育委員の罷免権など、教育委員会に対する政治主導を明記したほか、校長による教職員への権限強化など組織管理の徹底も打ち出している。
その趣旨は基本条例の冒頭に示されている。
「教育行政からあまりに政治が遠ざけられ、教育に民意が十分に反映されてこなかったという不均衡な役割分担を改善し、政治が適切に教育行政における役割を果たし、民の力が確実に教育行政に及ばなければならない」。
教育の独立性についても、従来の教育現場からは違和感のある理解が示されている。
「教育の政治的中立性や教育委員会の独立性という概念は、従来、教育行政に政治は一切関与できないかのように認識され、その結果、教員組織と教育行政は聖域扱いされがちであった。しかし、教育の政治的中立性とは、本来、教育基本法(平成18年法律第120号)第14条に規定されているとおり、『特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育』などを行ってはならないとの趣旨であって、教員組織と教育行政に政治が関与できない、すなわち住民が一切の手出しをできないということではない。」
ここに貫かれているのは「政治家は選挙で選ばれ、民意を代表しているので、公的な制度の最上位に置かれるべきであり、選挙で選ばれた政治家の選択する政策に反対するものは民意にそむものである」という、いわゆる「政治主導」の考え方である。
この「政治主導」という考え方は民主党が政権交代のときに持ち込んだもので、その無残な失敗はこの2年間の経験であきらかになったと思っていたが、どうもそうではなかったようである。
2009年9月の総選挙において「民意」は民主党に308議席を与えた。
議席占有率は64%。けれども、そのあと失政が続き、政党支持率は2011年8月現在で10%にまで落下した。
このあとさらに低下するかも知れない。
いま解散総選挙を行った場合、民主党は高い確率で政権を失うだろう。
つまり現政権は「民意を代表している」とはすでに言いがたい。けれども、擬制的には「民意を代表している」とみなされている。
そうしないと、外交も内政も立ちゆかないからである。
「民意」は極端から極端に急変するが、擬制的には「システム」は惰性を保っている。
「民意」と「システム」は違う時間を生きており、違う波動で動いている。
これを不条理と思う人もいるかもしれないが、この「ラグ」は制度的に作り込まれたものである。
もし「民意」がただちにあらゆる場面で実現されるべきであるというなら、「政治家人気ランキング」を毎日実施して、その日のトップの人間に総理大臣を依嘱するというのがいちばん民意に忠実な統治方法である。
けれども、誰が考えても、そのようなめまぐるしい統治者の交代は国益を増大するよりも損なうことの方が多い。
私たちの社会に存在する制度文物のうちには、そのつどの「民意」を受け入れて即時に制度改変をすることが可能であり、かつその方がよいものもあり、「民意」に応じて、制度改変すべきではないものがある。

これまでも繰り返し書いてきた通り、学校教育は惰性のつよい制度であり、また惰性がつよいということが必要な制度であり、軽々に「民意」(すなわち政治イデオロギーと市場の要請とメディアの作り出す世論)に応じて改変すべきものではない。
宇沢弘文先生の「社会的共通資本」論によれば、「共同体の存立に必要不可欠のもの」は社会的共通資本と呼ばれ、専門家による専門的な管理運営にゆだねるべきものであって、そこに政治と市場は関与してはならない。
社会的共通資本の第一は自然環境である。
大気、水質、土壌、海洋、河川、湖沼、森林などは人間が生きてゆく上で必須の資源であるので、「政治的に正しい環境論」や「収益率の高い環境利用」といったものに管理をゆだねてはならない。
第二は社会的インフラストラクチャーである。
交通、通信、電力、ガス、上下水道なども社会生活を営む上での基本であり、政権交代のたびに新幹線の停車駅が変わったり、株価が高下するたびにライフラインが動いたり止まったりされては困る。
第三は制度資本である。
司法、医療、教育などがこれに相当する。
「裁き」と「癒やし」と「学び」のためのシステム、それなしでは人間集団が機能できない基本的なシステムである。
これらの制度の原初的な形態が整備されたのは人類史の黎明期に遡る。
忘れてならないのは、国民国家より資本主義経済システムより、司法や医療や学校の方が制度的にはずっと古いということである。
だから、学校教育について、これが現在の政治イデオロギーになじみが悪いとか、市場の要請にジャストフィットしていないとかいう理由でクレームをつけるのは、裁判官に向かって「愛国心に富み、伝統文化への造詣の深い被告に対しては量刑を軽くしろ」と命じたり、「刑務所の管理コストがかさむから、執行猶予をふやせ」と要求するのと同じようなナンセンスなのである。

社会的共通資本としての学校の目的はただ一つである。
それは「集団を支える成熟したメンバーを再生産する」こと、要するに「大人を作り出す」ことである。
これに尽くされる。自余のことはすべて副次的なものに過ぎない。
だから、教育制度に改変を試みる場合は、それによって「子供たちを成熟に導く」という目的にどのようなプラスが加算されるか、それだけが適否の基準になる。
子供たちの成熟にかかわらないもの、あるいは成熟を阻害するものを、学校は受け入れるべきではない。
これが私の教育論の基本にある判断基準である。
その上で維新の会の提言を見る。

維新の会の提言している一連の教育改革は「効率的な上意下達組織の形成」にある。
素案には、「我が国及び郷土の伝統と文化を深く理解し、愛国心及び郷土を愛する心に溢れるとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する人材を育てること」という基本理念が掲げてあるが、これを書いた人は別に愛国心や郷土愛を高めたいと切実に思っているわけではないだろう。
私が経験的に知っているのは、「愛国心」とか「郷土愛」ということをうるさく言う人間に、同胞や同郷者に対する寛大さや愛情の深さできわだつ人間を見たことがない、ということである。
彼らはむしろ「愛国心のない人間」や「郷土愛を欠いた人間」をあぶり出して、彼らを攻撃し、排除することの方に興味がある。
ほんとうの愛国心というのは、その人間がどんな政治イデオロギーを信じていようが、どんな宗教を信じていようが、どんな道徳律に従っていようが、「同国人である」というただそれだけの理由で「思わず抱きしめたくなる」という感情に依拠しているはずである。
そのような身体実感の上にしか、持ち重りのする愛国心は築かれない。
「非国民」とか「売国奴」というようなフレーズを軽々しく口にする人間は、同胞の数を減らすこと、つまり彼らの愛国心発露の機会を減らすことに熱心なので、私はそういう人間を「愛国者」には算入しないのである。
だから、こんな文言を条例に書き入れたら子供たちの愛国心や郷土愛が高揚するとほんとうに起草した人間が思っているなら、彼の知性にはかなり問題があり、このような条項を書き入れておくことで、学校において「非国民」や「売国奴」のあぶり出しがやりやすくなると思ってそうしているなら、彼は愛国心に大きな問題を抱えている。
だが、これはたぶん「ちょっとアリバイ的に書いてみました」というだけの文言で、次の項目ほどには本気で書かれたものではあるまい。
「グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で競争力の高い人材を育てること」
これはまぎれもなく、彼らのかなり切実な「本音」である。
平たく言えば、「金を儲けさせてくれる人間」がもっと欲しいということである。
企業にたくさんの収益をもたらし、かつ劣悪な労働条件に耐える「人材」に対する欲求は彼らにおいて(そして、一部の府民にとっても)きわめて切実である。
「愛国心や郷土愛」は、たぶん、そのようなハードワーカーたちに「気合い」を入れるためのイデオロギー「小道具」に過ぎないのであろう。
だが、私はこのような功利的なマインドで教育を語ることには反対である。
その所以を述べる。

ここ30年、子供たちの学力はとめどなく劣化してきた。
この事実に異議のある人はいないだろう。
同年齢集団を東アジア諸国と比べた場合、日本の子供たちの「社会的向上心」はすでにはるか下位に位置づけられる。
修身斉家治国平天下というような大ぶりな目標を掲げて生きている子供は私たちのまわりにはもうほとんど存在しない。
「国を背負って立つ」というような気概を持つ子供がいたら、現在の学校環境では気味悪がられるだけだろう。イジメの対象になるかも知れない。
残念ながら、今の日本の教育がここまで劣化したのは、維新の会のかたがたが考えているように、「民の力」が教育行政に及んでいないからではない。
及びすぎたせいである。
子供たちは、いま学校の教師からも親からも塾の教師からもメディアからも、勉強するのは、自己利益の増大のためだと教えられている。
同学齢集団の仲間を蹴落として、相対的な優位に立てば、社会資源の分配において有利になると教えられている。
いい大学に行き、いい企業に入り、いい地位に就き、いい年収を獲得するために勉強するのだと教えられている。
それが常識だと思う人もいるかも知れないが、これは一つのイデオロギーである。
私たちの社会において支配的になったイデオロギーである。
そして、このイデオロギーは、そのような単純な思考と規格化された欲望をもつ労働主体と消費主体の大量供給を切望するマーケットの要請によって生まれたものである。
この教育観の中には「子供を、いずれ共同体を支えることのできる成熟した公民たらしめる」という教育目的はまったく含まれていない。

「公民」というのは「公共の福利を自己利益よりも優先的に配慮する人間」のことである。
これは形成することのきわめて困難な社会的存在である。
マルクスはかつて「公民」(citoyen)を「類的存在」と呼んだ。
孔子は「仁者」と呼んだ。
求めて得がたいものであるが、そのようなふるまいをする人物が一定数供給されないと、社会集団は維持しがたい。
そのために学校はある。
自己利益を専一的に求める人間(マルクスの言う「私人」)を作り出したいなら、学校はもとより不要のものである。
学校に限らず、あらゆる制度資本は不要のものである。
弱肉強食ルールで、欲しいものはすべて力のあるものが占有できるという社会なら「裁き」は要らない。けがをしたり病気をしたりするのは自己責任だから、不運にも心身の能力を損なわれたものは野垂れ死にしろという社会に「癒やし」のシステムは要らない。
同じように、仲間をおしのけて、自分だけ社会的資源の有利な配分にありつきたいと思う人間だけでいいなら、「学び」の場は要らない。
学校は自分は「公民」あるいは「大人」にならなければならないという責務の感覚を(一部の)個人のうちに扶植するための装置である。
一定数の「大人」が存在しないと社会は維持しがたいから、「大人」は制度的に作り出さなければならないのである。
そして、政治イデオロギーと市場は「大人の育成」にもっとも不向きなものなのである。

政治イデオロギーは(維新の会が典型的にそうであるように)徹底的な上意下達の組織を作り上げ、すべての社会成員が上位者の顔色をうかがい、報償を求め、処罰を恐れる「うつろな人」(hollow men)であることを願う。
グローバル資本主義は、すべての労働主体に対して、同じような能力を備え、それゆえ容易に査定可能、格付け可能であることを求める(そうすれば労働条件を限りなく切り下げることができるからである)。
同時に、消費主体としての社会成員に対しては、同じような欲望をもち、同じようなライフスタイルを送り、それゆえ市場が用意する同一商品にあらそって群がる人間であることを求める(そうすれば最低のコストで最高の利益を上げることができるからである)。
政治イデオロギーも市場も、どちらも社会成員の知性的・情緒的成熟を求めない。
社会成員が幼児的であり、利己的であり、模倣的であり、「うつろ」であることはそうでない場合よりも政治家と資本家に多くの利益をもたらすからである。
政治と市場は子供たちに「成熟しないこと」を要求する。
学校に政治と市場を介入させてはならないと私が言うのはそのためである。
別に政治や市場が本質的に邪悪であるとか有害であるとか言っているわけではない。
政治と市場は社会成員の成熟を望まない。それは先方の事情であって、私がとやかく言う筋のものではない。どうしてもそうしたいというなら、そうされればよい。
私はただ「お願いだから、学校にはこれ以上入り込まないで欲しい」と懇願しているのである。
このまま政治と市場の介入が進めば、学校の本質的機能は遠からず回復不能なまでに破壊されてしまうだろう。
だが、「大人」を作り出す制度を失えば、そのときには、共同体そのものが壊滅してしまうのである。
政治が支配する相手も、市場が収奪する相手もそのときにはもういないのである。
それでは政治家のみなさんもビジネスマンのみなさんもお困りになるだろうから、みなさんの明日のたずきのためにも、司法と医療と学校には口を出さない方がよろしいですよと申し上げているのである。

2011.08.23

8月の備忘録

Twitterに身辺雑記、ブログに演説というふうにわけたのはいいけれど、「日記」代わりに使うにはブログの方がずっと使い勝手がよい(Twitterは記事が多すぎるし、どうでもいいことばかり書いてあるので、あとから検索するときにたいへんである)。
というわけで、備忘のため定期的にブログに「業務日誌」を記録しておくことにしている。
6月7月はあきらめて、8月から。
8月1日(月)午前、産経新聞電話取材。午後名古屋で名越先生、橋口いくよさんとの『ダ・ヴィンチ』鼎談。引き続き、原発の話。『スター・ウォーズ』について『BRUTUS』で名越先生と徹底討論するという企画、日程が苦しいので一度断ったのだが、お会いしたら、「ウチダセンセが断ったから、ぼく一人でやることになったの」と寂しそうな顔をされていたので、急に気が変わって、対談することに一決。
8月4日(木)鷲田清一先生最終講義。阪大総長として最後の講演のため待兼山まで酷暑のなかを出かける。旧知の方たちが集まっている。仲野先生に呼ばれて、お隣に座って、拝聴。途中で演壇から「そうやね?」と急に訊ねかけられてびっくり。
実に味わい深いお話だった。いずれどこかで活字になると思うけれど、鷲田先生のアカデミズムの退嬰性に対する憤りの深さに驚く。穏やかな風貌の下に、圭角のある反骨精神がひそんでいる。
講演後、懇親会。スピーチを依頼されて、ひとことご祝辞を申し上げる。
こちらはもう肩書きのない一介の野人であるから、何を言ってもどこかに迷惑がかかるということはないので、まことに気楽である。
「革命をやるなら鷲田先生とやります」をはなむけの言葉としてお送りする。
8月5日(金)高野山の夏期大学。難波から南海に乗って、高野山まで。毎日新聞社の主催のイベントなので、毎日新聞の相原さんがお迎えに来ている。
お昼の精進料理を食べてから、東川さんご夫妻たちと金剛峯寺のお坊さんのご案内で堂内を奥の院まで歩く。さすがに奥の院は霊気がびしびし肌にしみこむすごいパワースポットである。
そのあと高野山大学の講堂で、70分の講演。
霊気を浴びた後なので、「霊感」について。
私たちが「霊感」と呼んでいるものは、いずれ、今より精密な計測機器が発明されたら、数値的にも計測可能になる、微弱なシグナルのことである。
現有の計測機器では測定できない定量的な変化を「存在しない」と断定するのは、愚かなことである。
ウィルスを「発見」したのは、ロシアのディミトリ・イワノフスキーであるが、彼はタバコモザイク病の病原が細菌濾過器を通過しても感染性を失わないとい事実から、当時の顕微鏡では検出できないサイズの病原体が存在すると推測した。
この推論は正しい。
手持ちの計測機器では計測できないが、あるパターンを描いた「出力」がある場合、そこには「入力がある」と推測することは間違っていない。
このときは、大阪府警の「見当たり捜査」官の話をした。
そのあと朝日新聞などが騙されたニセ医者の話もこれと同趣旨のものである。二週分のAERAの記事をここに採録しておく。

「大阪京都両府警の捜査官が広域事件について打ち合わせしたとき、京都府警の刑事が「こういう事件もあるんです」と、ある空き巣事件の容疑者の写真を大阪の刑事に示した。打ち合わせが終わって外へ出て10分後に大阪府警の刑事は近くの競艇場外発売所近くでその容疑者を発見した。この捜査員は雑踏の中から指名手配犯などをみつける『見当たり捜査』の専門家だそうである。
そういうものだろうと思う。こういう人たちは『犯罪にかかわる人間』が発する微細なオーラを感知する能力を備えている。そういう能力を持っている人が警察官になるべきであり、これまではなってきたのだと思う。警察という制度はそのような能力を勘定に入れて制度設計されている。
だが、挙動不審な人間を感知する能力や嘘をついている人間とほんとうのことを言っている人間を見分ける能力などは、その有無や良否をエビデンスによって示すことができない。そして、私たちの社会では『エビデンスによって示すことができないものは存在しないものとみなす』というルールを採用しているのである。そのせいで、わが国のあらゆるシステムは劣化したと私は思っている。
冤罪事件が多発するのは、司法システムが『嘘をついている人間と真実を述べている人間を直感的に識別できる能力』を備えた司法官が一定数存在することを前提に制度設計されているからである。物証がなくとも、自供がなくとも、証言の真偽を直感する力を備えていると想定された司法官に賦与されている諸権限を、そのような能力を持たない司法官に許したからこそ、『今起きているようなこと』が多発するのである。
人々は司法制度の改善(平たく言えば『司法官がどれほど無能でも真犯人が逮捕され、正しい判決が下せる制度』の実現)を願っている。それも一つの道だろう。だがそれでは制度の劣化は止まらない。遠くから容疑者に引き寄せられる捜査官や、偽証を直感できる司法官はどのようにすれば選抜され、育成されるのかという問題は純粋に技術的なものだ。それを誰も論じないという事実が制度劣化の病態そのものなのである。」(AERA8月一週号)

次はニセ医者について書いたもの。今週号のAERAに掲載されている。
「石巻市の災害ボランティアセンターで、医師免許を持たない人物が医療行為を行っていた。朝日新聞は『ひと』欄でこの男性をカナダの大学病院所属の『小児救命救急医』と紹介し、社外から詐称ではないかという指摘を受けて、二日後に記事を削除した。この事件には日本のメディアの本質的な弱さが露出していると私は思う。
それはジャーナリストに『人を見る目』がなくなったということである。取材のたびに、記者たちの前にはさまざまな人物が登場して、さまざまな言明をなす。多くは主観性のバイアスがかかっている(中にはあからさまな誇張や虚偽も含まれる)。だから、報道を職務とするものに一番必要なのは、彼らに向かって語っている人間の言明のうちの真実含有量をクールに計測する能力である。
しかし、このような能力は入学試験や就職試験では査定の対象にならない。受験科目にないし、大学でも教えない(そもそも教員たちも上司たちも若者がそのような能力を持つことをほんとうは望んでいない)。
その結果、私たちの社会では『人を見る目』を持つ人が絶滅に瀕しつつある。
『人を見る目』というのは、コンテンツの理非については判断できないが、『この人の言うことなら信じてもよい』と判断できる力のことである。あるいは、話のつじつまは合っているが、『この人を信じてはいけない』と直感できる力のことである。
この先駆的なスクリーニングによって、さまざまな犯罪や業務上のミスは未然に防がれ、社会的コストは抑制されている。
けれども、この能力には顕示的なエビデンスが存在しない。『人を見る目がある人間』の身の上にはさしあたり何も起こらないからである。不可解なことだが、私たちの社会はこの『予防的に厭な思いを回避した力』をゼロ査定する。危機的状況に際してはこの能力の有無がしばしば生死を分かつことになるにもかかわらず。
このニセ医者には朝日新聞の他に複数のマスコミが騙された。『他社が取り上げた』ことを以て取材対象の身元保証に代えることができると信じたのだとしたら、マスメディアはまさに危機的状況にある。」(AERA8月三週号)

私が言いたいことはどちらも同じである。
人を見るときに私たちがなすべきは、表面的なロジックの整合性や資料的根拠を吟味することではなくて、「あなたはそれを言うことによって何を言いたいのか?」という分析的問いを差し向けることである。
人間の抑圧された欲望はその表層にあからさまに露出しているので、見ればわかるのである。
ほんとに。
8月6日(土)。合気道のお稽古。そのあとゼミコンパ。2009年卒のゼミ生諸君が遊びに来る。リクエストによって颱風グリーンカレーを作って待つ。
みなさんの近況をうかがう。みんな元気にやっているようで、老師もちょっと安心。
8月7日(土)甲南麻雀連盟例会。お盆のさなかなの例会なので、釈住職がおいでになったところで「おつとめ」。ありがたいことである。
住職は墨染めの衣の裾を翻して一荘打って走り去られた。
総長は5の1で、また勝率を下げる・・・
8月11日(木)「ゆくるの会」。サニー影浦主催の不思議なご飯イベント「ゆくるの会」が社員旅行グループからのスピンオフ活動としてひそかな盛り上がりを見せていることはTwitter上ではつとに知られていた。「社長」としても一度は見聞しておかねば・・・ということで光嶋くんといっしょに西天満に出かける。
番画廊のすぐそばのビルの地下に21人の「社員」が集まる。
驚くべきことに最大派閥は甲南麻雀連盟ではなく、ジュリー部。
ジュリー部というのは知らない方のためにご説明すると、私の周辺にいる方々が形成している沢田研二ファンクラブである。
どうしてジュリーなのかつまびらかにしないのであるが、フジイさん、サモトさん、フクダさんというあたりのコアなジュリー・ファンが地道なファン活動(コンサート通いおよびカラオケでの絶唱)を細々となされていたのだが、それがいつか大学院聴講生仲間の知るところとなり、昨年はじめころから入部者が急増。マエダさんもウッキーも広末も青木くんも仁さんも入部。やがてジロちゃん、仲野先生、西さん、釈先生まで加わって総数30名。先般は大規模なオフ会が開かれた(ジロくんと西さんが「さらっていった」そうである)。
私はカラオケというものとご縁のない人なので参加しておらないのであるが、たいへん楽しそうである。
これらの諸活動の本体はバリ島社員旅行参加者たちである。
バリ島社員旅行はゼミ旅行が起源であるのだが、「OG、友人、知人、家族も参加できます」というルールで運営していたので、だんだん参加者が増えた。
前回のバリ島社員旅行では、ついに総数34名という添乗員付きツァーになったことはご案内の通りである。
このツァーには、ゼミの卒業生のみならず、大学院聴講生(ジュリー部員多し)、甲南合気会会員、甲南麻雀連盟会員も参加していた(甲南麻雀連盟はバリにおいて「バリ王杯争奪戦」を開催し、ジロちゃんが初代バリ王の栄冠に輝いた)。
これらの複合的な集団をまとめてなんと呼ぶべきか定まった名称がなく、とりあえず「内田ゼミ」と呼んでいたのだが、それがいつのまにか「内田組」に変わり、その呼称がいまのところ使用されているのである。
「ゆくるの会」もそのスピンオフ活動の一つであり、参加者のほとんどは旧バリ島組であった。
おいでになったオオクラさんは私のゼミ生のお母さんであり、いまやジュリー部長として隠然たる勢力を誇るフジイさんも元はと言えばそのお友だちである。ご縁が濃いのか薄いのか、なんだかもうよくわからない。
次回の内田組の企画は11月末の「道後温泉・伊丹十三記念館訪問ツァー」であり、その次は2月の「恒例・バリ島社員旅行」。
8月13日(土)合気道のお稽古のあと、IT秘書の東沢くんと三宮にでかけて、VAIOとiPad2を購入。
VAIOは大VAIOがちょっと作動不良となったので、さくっと新品に買い換え。
iPad2は奥さんへの誕生日プレゼントである。
奥さんにはこれまで何度かPCの使い方をお教えして、MacBookAirもご提供したのだが、さっぱり使用された形跡がない。
お贈りしたiPad2も部屋の隅で埃をかぶって余生を過ごすことになるのでは・・・といささか不安である。
8月14日(日)-15日(月)丸亀合気道講習会。守さんのところの恒例の合気道講習会。今年は書生二名(ヨハンナとサキちゃん)に、香川うどんツァーにでかけるウッキーとヒロスエを乗せて、5人で明石海峡大橋を渡る。
最初の日のお昼は永楽亭の鰻(美味)。ここで香川在住のかんきちくんたちも合流。
ご主人の野原さんからまたまた面白い話をいろいろうかがい、お土産に「サヌカイト」の風鈴までいただく。
午後2時から5時まで講習会。例年よりは涼しかったです。
そのあと懇親会で、日本各地からおいでになった講習生の方々とお話する。
やはり医療関係、教育関係のかたが多い。
守さんとふたりでコンビ漫才のように身体技法について語り続ける。
翌日は明水亭のおうどん。おいしい~。
8月16日(火)伊藤歯科。夜は「ジブリの日」。『コクリコ坂から』を奥さんといっしょに三宮に見に行く。
映画の感想についてはTwitterに少し書いたけれど、まとまったものはまた別の機会に。
帰りに門でビーフカツとビール。
8月17日(水)東京へ。秋葉原のLinux Café の新しいオフィスで平川くんと『たぶん月刊話半分』の収録。おいしいおそばと珈琲を御馳走になる。
平川君、だいぶお疲れのようである。なかなか休めないんだよね。
この日は学士会館泊。僕も疲れがどっと出て、すずらん通り角の三幸園で味噌ラーメン、餃子、ビールで腹がふくれたら睡魔に襲われ、午後8時に就寝。朝5時半まで爆睡。
8月18日(木)早起きして、静岡へ。静岡県高等学校図書館研究大会で講演。
お題は「子供たちが本を読むことの意味」。
90分ほど書物と他者との出会いについて、お話しする。
高校の、それも図書館の担当の先生たちであるから、非常に気合いの入った聴衆たちでした。
終わって静岡から新幹線に乗ったら、また爆睡。
8月19日(金)。午後、光嶋くんと現場で打ち合わせ。夕方から淀屋橋でドクター佐藤と140B主催の「石巻の阿部慶吾さんのお話しを聴く会」へ。石巻に医療支援に行っていたドクター佐藤が現地でお会いした阿部さんのお話。
津波で孤立し、何の物資もない湊小学校に1400名の被災者を収容しながら、奇跡的に犠牲者の一人も出さなかった組織論のすばらしさもさることながら、津波マニュアルの指示より自分の直感に従って子供たちを避難させて全員の命を救った阿部さんの危機センサーのたしかさに驚く。http://blog.140b.jp/satoh/archives/108
終了後、適塾となりの福仙楼にて、ドクターと大迫くんの慰労会。
内装を見回して「昭和ですねえ」と光嶋くんが言う。「いや、大正だよ、これは」
料理の盛りがすごいの・・・サニー影浦が必死になって写真を撮っていたので、興味のある方はそちらをご覧ください。
8月21日(日)歌仙会。『土蜘蛛』の仕舞で、拍子を間違えて、「やりなおし」を命じられる。蜘蛛の巣6本まき散らす。
一日謡い続けだったので、さすがに疲れて、またもや9時就寝。爆睡。
8月22日(月)アメリカのロチェスター大学で医療経済学を研究しているByung-Kwan Yoo さんとお話。
大阪出身の在日コリアンの方で、北大医学部を出てから医療経済学を学ぶために渡米。Harvard で修士号、Johns Hopkins で博士号、スタンフォード医療政策センターで研究員、CDC(Centers for Disease Control & Prevention)でエコノミスト。2006年からこの9月までRochester 大学医学部准教授という、それこそ「グローバル人材」を絵に描いて彩色したようなキャリアの白面の学究である。
そんな人が御影の隠居に何の用か・・・と思うのだが、どうやら医療についての考え方において、私に深く共感するところがあって、それを告げるだけのためにわざわざおいでくださったのである。
ありがたいことである。
お話をうかがうと、日本の医療についても、アメリカの医療についても、Yoos先生は相当にご不満なようであった。
もちろん日米どちらにも立派な医療者はいるのだが、やっぱりどちらにも「ろくでもない医療者」や「ろくでもない学者」や「ろくでもない医療保険会社のビジネスマン」がいて、医療の進歩を妨げ、フェアで質のよい医療提供機会をつぶして回っている。
とくに下層をターゲットにした「メディケイド」を扱う医療保険会社の強欲ぶりはひどいもののようである。
こういう保険会社は金がない人間、重い疾患をもつ人間は保険に加入させない。
Yoo先生によると、保険も「20:80の法則」が適用される領域であって、全体の20%の加入者が給付金の80%を受け取る。
だから、この20%を効果的なスクリーニングによって保険に加入させないことに成功すれば、保険会社は健康な加入者から掛け金を受け取るだけで、病人には給付金を払わずに済む。
アメリカの保険会社は単年度契約であるので、「この加入者が来年一年間にどれくらいの給付金を請求することになるか」をもし統計的に適切に予測できるようになれば、保険会社というのは「金のなる木」を手に入れることになる。
だから、保険会社から大学での「発病予測」研究には膨大な研究費が投じられているのだそうである。
でも、「未来は未知」というのはほんとうで、スーパーコンピュータを使って演算しても、「この人が来年発病するかどうか。どのような病態をとるか。いつ死ぬか」はぜんぜん予測できない。
医療費のほとんどは末期医療に投じられているので、「いつ死ぬか」がわかれば、医療費支出は抑制できる(「じきに死ぬことがわかっている人間には医療行為を行わない」ということにすればよろしいのである)。
そして、「死期」を予測するために、さまざまな指標をとってみたが、結局いちばん信頼性の高い指標は「本人の自分の健康状態についての5段階自己評価」だったそうである。
「なんか、オレ、長生きしそう」とか「あと五年くらいで死にそう」とかような主観的な印象が、どのような客観的検査数値よりも統計的には発病や死亡時期との相関が高いのだそうである。
驚きますね。
人間はそういうことがわかる能力が潜在しているとみるべきか、あるいは「遂行的言明の力」を重く見るべきか。
たぶん、その両方なんだろうけど。
医療経済学という新しい学問分野を担う学究が、どうして僕のところにおいでになったのか、やっぱり理由はよくわからなかったけれど、「医療にビジネスは介入すべきではない」ということを断定的に言う人間がたぶんアメリカにも日本にもあまりいないからなのであろう。
というところでやっと昨日までたどりつきました。

2011.08.24

ラジオについて

子守康範さんのMBS「朝からてんこもり」に三月に一度ペースで出演している。
早起きするのがたいへんだが、ラジオにかかわっている人は、なぜかみんな気分のいい人ばかりで、仕事はたのしい。
同じメディアなのに、どうしてテレビや新聞とラジオとでは、こんなにキャラクターが違うのかとときどき思う。
たぶんラジオは「声」だけでリスナーとつながっているからだと思う。
声はその人の「正味のところ」がかなりむき出しになる。
話している内容のコンテンツがうまく理解できなくても、その人が「自分に向かって語りかけている」かどうかは理解できる。
それはその人が発する声の中に「自分の声域と周波数が合う音」が含まれているからである。
価値観が合うとか、趣味が似ているとか、イデオロギーや信教になじみがいいとか、そういう顕在的なレベルの出来事ではない。
もっと身体的で、もっと深いレベルの出来事である。
「声の深い人」というのがいる(子守さんはそういう人のひとりである)。
声の深い人は、「多声的」(polyphonique)である。
一人の人間なのに、その声の中に「複数の声」が輻輳している。
大人の声に少年の声がまじり、おじさんの声におばさんの声がかぶり、謹厳なサラリーマンの声にやさぐれた悪漢の声が唱和する。
だから、その中のどれかに聴き手は「自分の周波数と合う音」を聴き出すことができる。
多声的な人は、いわば「ひとりオーケストラ状態」を実現している。
聴き手はそこに「和音」を聴くこともできるし、ある一つの楽器のフレーズだけを選択的に聴くこともできる。
この聴き手に与えられている「居住域の広さ」が聴き手に「ほっとする」感じを与えるのである。
何度も書いたが、太宰治は多声的な文体を操る天才であった。
「子供より親が大事と、思ひたい」とはご存じ『桜桃』の冒頭の言葉だが、この言明は「子供より親が大事なはずがない」という否定言明を同時に発信している。
同一の言明のうちに、肯定否定のふたつの命題が輻輳している。
こういう言葉の使い方を「多声的」と私は呼んでいる(「倍音的」という言い方をするときもある)。
こういう多声的なエクリチュールを使えるその人のうちでは、現に「複数の人格が共生している」という事態が起きている。
だから、その人が一言発するごとに、それに「セコンドします」という賛同の声も、「ちょっと・・・どうかな」という懐疑の声も、「ふざけたことを言うな」という否定の声も、「あ、そういえばさ」と「ずらす」声も、相次いで聞こえてくる。
そういう声を聴いていると、私たちは「ほっとする」。
というのは、そこで語られているコンテンツの正否についてはとっさには判断できないのだけれど、「こういう語り方をする人になら、ついていっても、たぶん『それほど悪いこと』は起こらない」ということは最初の一声で確信されるからである。
間違いなくその人のステートメントのうちには「自分の声」も含まれているからである。
この人は(たとえ部分的にではあっても)、私の気分や意見をも代表してくれる。
そういう確信がすると、私たちは緊張を解いて、なんだかゆったりした気分で人の話を聴くことができる。
そういう「被代表感」(変な日本語だけど)を聴き手に与えることができるパーソナリティがラジオでは重用される。

テレビのワイドショーやバラエティやトーク番組には、こういうタイプの「深い声」の人はまず出てこない。
視覚優位なテレビメディアでは、音声的には「わかりやすいコンテンツ」が最優先で要求されるからである。
視覚優位メディアでは、「画像」の構成に制作費のほとんどを割いているという費目配分ゆえに、視聴者が「絵より音に」その関心を振り向けることを構造的に望まないのである。
声はできるだけ「平板」で、「一意的」な方がいい。
テレビ番組の制作者は無意識のうちに、そう思っている。
たぶんそうだと思う。
だから、ほとんどの人は「テレビの画面を見ないで、音だけ聞く」という視聴態度ができない。
それを長時間強制されたら、たぶん相当数の人はそれを「拷問」に近いものに感じるだろう。
自分が聴いているコンテンツの意味がさっぱりわからないからである。
きんきんとして、奥行きのまったくない声を聞き続けることに耐えられなくなるからである。
でも、テレビはわざと「そういうふうに」作ってあるのである。
テレビを「ラジオのように画像ぬきで聴いても十分に面白い」というかたちで制作することは、このメディアにとって自己否定だからである。

ここまで書いたら、テレビよりラジオが好きな理由がすこしわかった。

2011.08.26

再録しますね(1)

 菅内閣の支持率が20%を切った。末期的な数値であるから、もう政権は長くは保つまい。だが、「次の内閣」に私たちはどれほどの期待を託すことができるのだろう。
わが有権者たちは久しく政治の不調を統治者の個人的無能に帰してきた。「総理大臣が無能だから、外交も経済もうまくゆかないのだ」とメディアは書き立て、野党政治家たちもそう言ってきた。だから、「首のすげ替え」以外の選択肢はないのだと。そうやって過去5年間、私たちは一年に一人の割合で総理大臣の首をすげ替えてきた。
システムの失調を特定の個人の無能や悪意に帰して、それを排除しさえすればシステムは復調するという思考法に私たちは深くなじんでいる。「首相のすげ替え」も「小沢おろし」もその意味で思考パターンに代わりはない。けれども、そのようにして私たちの社会からは「公民」というものが消え失せつつあることについては自覚的であらねばならない。
「公民」とは自分と敵対するものを含めて集団を形成することを受け容れる人間のことである。
敵対者や反対者や批判者を含めて集団を形成し、ともに統治する仕事が楽しいはずがない。だから、公民の仕事は「痩せ我慢」なしには果たし得ない。
「自分と意見を異にする人間はここから出て行け」とすっきり言える人間は、どれほど権威があっても、威信が高くとも、財貨や情報を占有していても、「公民」とは呼ばれない。単なる「強い私人」である。
「公民の育成」が今の日本の社会システムを補正するための最優先の課題だろうと私は思っている。むろん、似たような言葉づかいで社会改革の喫緊であることを述べている政治家や論客がいないわけではない。でも、彼らが考えていることと、私の考えはたぶんまるで違う。
「公民」に求められるのは、何よりもまず「他者への寛容」である。そして、それは「痩せ我慢」なしには達成しえない。自分の好き嫌いを抑制し、当否の判断をいったん棚上げし、とりあえず相手の言い分に耳を傾け、そこに「一理」を見出し、その「一理」への敬意を忘れないこと。それが「公民への道」の第一歩である。それを教えるのが学校教育の第一の、最重要の課題だと私は思っている。
かつてオルテガ・イ・ガセーは「市民」(civis)の条件を「敵とともに生きる。反対者とともに統治する」とした。この卓見がもう一度私たちの社会の常識に登録されなければならない。
(2月22日)

2011.08.27

秀才について(再録シリーズその2)

東北関東大震災から二週間が経った段階でこの原稿を書いている。被害の規模はまだ確定していない。原発事故の先行きも不透明である。それでも、東電と政府の初動に問題があったことはほぼ確かとなった。「海水投入による廃炉」を初期段階から検討していたら、被害はここまで拡大しなかっただろう。国民の多くはそう思っている。なぜ、その決断ができなかったのか。私はこの「遅れ」のうちに日本型秀才の陥るピットフォールを見る。
秀才は判断が遅い。ことの帰趨が定まったあとに「勝ち馬に乗る」ことで彼らは成功してきた。その成功体験が骨身にしみついているので、彼らは上位者の裁定が下る前にフライングすることを病的に恐れる。ひとたび「正解」や「勝者」が示されると、素晴らしいスピードでその責務を果たすけれども、「どうふるまっていいかわからないとき」にどうふるまうべきかは知らない。つねに正解してきたせいで、危機的局面においてさえ、秀才たちはつい「正解」が開示されるのをじっと待ってしまう。その「遅れ」がしばしば致命的なビハインドをもたらすということを彼らは知らない。  
秀才たちは官僚であれ、ビジネスマンであれ、政治家であれ、査定者(それは上司であり、メディアであり、株主であり、有権者である)のまなざしをつねに意識している。だから、何を決定するときも「説得力のあるエビデンス」を求める。エビデンス抜きの直感的な決断を彼らは自分に許すことができない。「あとになって言い訳が立たないこと」ができない。エビデンスとエクスキュースが整うまでは「フリーズ」して待つ。それが秀才のピットフォールであり、その「遅れ」はときにシステムに大きな被害をもたらすのである。
誤解してほしくないが、私は秀才が「悪い」と言っているのではない。そうではなくて、上から「正解」が示される前に、論拠も言い訳も立たない時点で、なお自己責任で決断が下せる人間を、統治の要所に一定数配備しておくことはシステムの保安状必須であろうと言っているだけである。
別にオカルト的な能力が要るわけではない。身体感度と判断精度を体系的に涵養すれば、「胆力のある人間」は組織的に生み出すことができる。現に、武道はそのためのものである。それゆえ、「胆力のある人間」の育成は教育の最優先課題であると私は言い続けてきた。しかし、教育行政の要路にもメディアにも、私に同意してくれた人はひとりもいない。

2011.08.29

ミスマッチについて(再録シリーズその3)

2011年4月26日
 
震災復興と原発処理で政府の動きがもたついている。非常事態なのだから、手順通りにことが進まないのは仕方がない。だが、役所的な慣例やマニュアルは非常事態に最適ソリューションを選択する場合にしばしば阻害要因となるということは覚えておいた方がいい。
阪神大震災のとき、私の友人の外科医はニュースを見て、すぐに車に医薬品を積み込んで、東京から神戸までやってきた。市役所を訪ねて、どこで医療活動をすべきか訊いたが、市庁の役人はボランティアの医療活動はまだ制度整備されていないし、宿泊や食事の手当てもできないので、とりあえず帰ってくれと彼に言ったそうである。医者は仕方なく近くの小学校で場所を借りて、勝手に外科診療を数日間行ってから東京に戻った。
今回の被災地でも、避難所に300枚毛布が届けられたが、被災者が500人いたので、不公平になるといけないという理由で毛布を配布しなかったという事例が報告された。
被災地の自治体職員が職務に忙殺されていることはよくわかる。支援したいというサプライ・サイドと支援して欲しいというデマンド・サイドの需給関係の一致をはかることがどれほどむずかしいか、それもよくわかる。けれども、こういう場合に「需給が一致しなければ、支援の申し出を断る」という判断はありえない。
経済学の用語で「欲望の二重の一致」という言葉がある。ある商品を売りたいと思っている人間と、他ならぬその商品を欲しがっている人間が出会う確率は天文学的に少ない。「欲望の二重の一致」が果たされなければ交換は行うことができないというルールを採用していたら、人類はいまだに旧石器時代のままであっただろう。
支援活動において、需給の一致をめざすのは原理的には正しい。けれども、それが実現しなかったからといってサプライを停止すべきではない。ふだんの経済活動においてさえ、需給関係というのは「ミスマッチ」なのである(だから在庫の山ができ、株価が乱高下するのである)。まして今回のような大規模災害に対する救援活動では「供給と需要が適切に対応していない」というのは「当たり前」なのである。「そういうものだ」と肚を括るしかない。
東京のある医大は震災の第一報を聴いて、自治体からの要請も厚労省の指示もないまま、その夜のうちに医療チームを派遣した。「それが医療者の仕事だから」と理事長はこともなげに言った。見識だと思う。

2011.08.30

「まったなし」を待っていただけないでしょうか。

民主党の代表選挙があった。
一国の総理大臣を決める選挙なのだが、あまり盛り上がらない。
私自身も選挙結果にそれほど興味がない。
日本の政治過程は成熟期にあり、誰が総理大臣になっても、それほど違いが出ないようにシステムが作り込まれているからである。
安全と言えば、安全だし、不活性的と言えば、不活性的である。
東日本大震災以来の官邸の対応について「スピード感がない」という批判が繰り返されたが、たぶん「スピード感がない、だらだらしている」というのが成熟期に入った政治プロセスの特徴なのだろう。
「スピード感がない」というのは、いまの政治を否定的に論評するときの流行語になっている。
同じように「まったなし」というのが財政危機や景況についての形容の定型になっている。
状況は「まったなし」で切迫しているのであるから、「スピード感のある」対応が必至である、という言明は整合的なように聞こえるけれど、こういうものは繰り返し口にしているうちに、しだいにその本義を失って、ある種の「呪文」に化すことがある。
「ちょっと待て、その政策でいいのか?」という政策の適否の吟味そのものを「スピード感を殺ぐもの」として否定的にとらえる環境を作り出す。
いま、とりあえずマスメディアの論調はそうなっている。
「『まったなし』の状況に『スピード感のある』対応をするためには、政策的な適否について時間をかけて論じている暇はない」ということを早口で、相手の腰を折りながら、大声で、政治家も評論家も新聞の社説もテレビのコメンテイターも街頭でインタビューされる市民たちも、口を揃えて言い立てる風景を想像すると、なんだか気が滅入ってくる。
というのは、日本の政治史をふりかえると、政策的な「大失敗」はつねに「拙速」の結果だからである。
これは先日お会いした医療経済学Yoo先生の医療政策にかかわるご指摘であるが、欧米諸国では「政策は誤る可能性が高い」ことを前提にして、政策を起案する。
だから、制度改革に際しては「どうしたら大失敗するか」についてのシミュレーションにまず時間を割く。
ところが、日本の官僚や政治家は、「どういう要素によってこの政策の成功は妨げられるか」という問いを吟味することを嫌う。
それは「統治者は無謬であらねばならない」というありえない条件に、彼らが取り憑かれているからである。
おのれの無謬性を強調しようとする人は「これまで自分が犯した失敗とその被害・これから犯すかもしれない失敗とその被害」を過小評価する。
すると、「実はこれまで犯してきた失敗のすべてに共通するパターンがあるのではないか?」というもっとも生産的な問いが封殺されてしまう。
「無謬性」を競う環境においては、プレイヤーたちはその意思にかかわらず、「自分が失敗するかも知れない」蓋然性をできるだけ切り下げて考え、語り、やがて信じるようになる。
けれども、このような「自分が間違える可能性を過小評価する傾向」こそは「大失敗への王道」なのである。
私の見るところ、この20年間、日本の統治者は小規模ないし中規模の「失敗」を積み重ねてきた。
同時に、小規模の「成功」もいくつか達成した。
差引勘定ではマイナスになっているが、今すぐ「破産」するほどではない。
もちろんこのままあと100年マイナスが続けば、わが国民国家は破滅的状況に立ち至るだろう。
けれども、まだ今日明日の話ではない。
まだ落ち着いて、「どうしてこんなに失敗が続くのか?」について自問するくらいの余裕はあるはずである。
浮き足だって、「とにかく既成のものはみんな壊せ」というようなことを口走って、それでよい結果が出るというふうに私は思わない。
とりあえず日本近代史を徴する限り、「みんな壊せ」というようなことを口走った政治運動はすべて「大失敗」に帰着した。
日本の社会制度の中にはまるで機能不全のものもあるし、そこそこ機能しているものもあるし、ずいぶん順調に機能しているものもある。
その「仕分け」が重要である。
だが、その基準をほとんどの人は「採算」で量ろうとする。
「採算がとれるもの」はよいもので、「採算がとれないもの」は廃絶すべきだというふうに考える。
けれども、社会制度中には四半期とか単年度のアウトカムでは良否を判定できないものがある。
何度も書いているように、社会的共通資本はそもそも共同体の存立に不可欠のものであるから、「採算が合わない」とか「政治的に正しくない」とかいう水準の議論にはなじまない。
「仕分け」をするとしたら、まずそれが採算を度外視して守るべき「社会的共通資本」であるのか、あるいは政治や市場のレベルに出来する(なくても別に誰も困らないもの)なのか、その見極めだろう。
例えば、教育の場合、そのアウトカムは数値的には考量不可能である(教育の制度的目的は「知性的・感性的に成熟した公民を作り出すこと」だが、ある人物が公民的成熟を果たしたかどうかは、卒後数十年待たないと判定できない)。
私たちの有限な可処分資源をどのようにその緊急性に応じて配分するか。
それを決定するのがほんらいは統治者の仕事なのである。
私のいう「緊急性」というのは、「スピード感」というレベルの話ではない。
「人類学的な優先順位」のことである。
私たちが生き延びてゆくために最優先すべきものは何かという問いのことである。
その問いを深くつきつめ、国民的合意を練り上げることを怠って、「とりあえず金が要るんだよ」という耳障りで雑駁な主張に流されてきたせいで、私たちはいま「こんな目」に遭っているのではないのか。

民主党の代表選を聴いていたが、Twitterにも書いたように、候補者たちの中に、「自分の演説が英訳されて、海外のメディアに報道された場合に、21世紀の日本の国家ヴィジョンが海外の人々にも理解できること」を配慮して語っていた人は一人もいなかった。
彼らがしたのは「人情」の話と、「金」の話と、「まったなし」の話だけだった。
「お茶の間でちゃぶ台を囲んで、身内だけで話すようなこと」ばかりだった。
見識が低いとか、内向きだとかいっているのではない。
「家の外」からこの家はどんなふうに見えているのか、という想像力が働いていないということは、わが国民国家についての長期的・巨視的なヴィジョンが端的に「ない」ということである。
彼らは口々に危機を語っていたが、彼ら自身が「危機の徴候」そのものなのではないかという不安が去来することはないのだろうか。
私はけっこう不安になった。

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