再録しますね(1)

2011-08-26 vendredi

 菅内閣の支持率が20%を切った。末期的な数値であるから、もう政権は長くは保つまい。だが、「次の内閣」に私たちはどれほどの期待を託すことができるのだろう。
わが有権者たちは久しく政治の不調を統治者の個人的無能に帰してきた。「総理大臣が無能だから、外交も経済もうまくゆかないのだ」とメディアは書き立て、野党政治家たちもそう言ってきた。だから、「首のすげ替え」以外の選択肢はないのだと。そうやって過去5年間、私たちは一年に一人の割合で総理大臣の首をすげ替えてきた。
システムの失調を特定の個人の無能や悪意に帰して、それを排除しさえすればシステムは復調するという思考法に私たちは深くなじんでいる。「首相のすげ替え」も「小沢おろし」もその意味で思考パターンに代わりはない。けれども、そのようにして私たちの社会からは「公民」というものが消え失せつつあることについては自覚的であらねばならない。
「公民」とは自分と敵対するものを含めて集団を形成することを受け容れる人間のことである。
敵対者や反対者や批判者を含めて集団を形成し、ともに統治する仕事が楽しいはずがない。だから、公民の仕事は「痩せ我慢」なしには果たし得ない。
「自分と意見を異にする人間はここから出て行け」とすっきり言える人間は、どれほど権威があっても、威信が高くとも、財貨や情報を占有していても、「公民」とは呼ばれない。単なる「強い私人」である。
「公民の育成」が今の日本の社会システムを補正するための最優先の課題だろうと私は思っている。むろん、似たような言葉づかいで社会改革の喫緊であることを述べている政治家や論客がいないわけではない。でも、彼らが考えていることと、私の考えはたぶんまるで違う。
「公民」に求められるのは、何よりもまず「他者への寛容」である。そして、それは「痩せ我慢」なしには達成しえない。自分の好き嫌いを抑制し、当否の判断をいったん棚上げし、とりあえず相手の言い分に耳を傾け、そこに「一理」を見出し、その「一理」への敬意を忘れないこと。それが「公民への道」の第一歩である。それを教えるのが学校教育の第一の、最重要の課題だと私は思っている。
かつてオルテガ・イ・ガセーは「市民」(civis)の条件を「敵とともに生きる。反対者とともに統治する」とした。この卓見がもう一度私たちの社会の常識に登録されなければならない。
(2月22日)