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2011年11月 アーカイブ

2011.11.01

教育基本条例再論(しつこいけど)

『赤旗』の取材。大阪のダブル選挙と教育基本条例について。
教育基本条例に反対する「100人委員会」の呼びかけ人に私が入っているので、意見を徴しに来られたのである。
教育基本条例に反対する人たちにはいろいろな立場があり、私のような「教育への市場の介入と、グローバリスト的再編そのものに反対」という原理主義的な反対者はおそらく少数(というかほとんどいない)のではないかと思う。
マスメディアと保護者のほぼ全部と、教員の相当部分は「学校教育の目的は、子供たちの労働主体としての付加価値を高め、労働市場で『高値』がつくように支援すること」だと思っている。
私はそのような教育観「そのもの」に反対している。
この100人委員会にも、私に原則同意してくれる方はほとんどいないだろうと思う。
メディアでも、教育基本条例の区々たる条文についての反論は詳しく紹介されるが、私のようにこの条例を起草した人間の教育観(「学校は市場に安くて使いでのある人材を供給する工場である」)そのものに反対する立場は紹介されることがない。
それはメディア自身がそのような教育観に同意しているからである。
いや、いまさら否定しても無駄である。
「大学淘汰」の状況をおもしろおかしく報道した新聞がどれほど堂々と「競争力のない教育機関は市場から退場すべきだ」と語っていたか、私は忘れていない。
メディアは「競争力のない企業は市場から退場すべきだ」というビジネスルールをそのまま学校に適用して、「競争力のない教育機関は市場から退場すべきだ」と書いた。
この能力主義的命題が実は「競争力のない子供は市場から退場すべきだ」という命題をコロラリーとして導くことにメディアの人々は気づいていなかったのだろうか(気づいていなかったのだと思う)。
能力のない子供、努力をしない子供は、それにふさわしい「罰」を受けて当然だ、というのが能力主義的教育観である。
「罰」は数値的格付けに基づいて、権力、財貨、文化資本すべての社会的資源の配分において「不利を蒙る」というかたちで与えられる。
罰の峻厳さが(報償の豪奢と対比されることで)社会的フェアネスを担保する。
能力主義者はそう考える。
このアイディアは2005年の小泉郵政選挙で劇的な勝利を自民党にもたらした。
このとき小泉が呼号した社会の能力主義的再編(「既得権益を独占する抵抗勢力を叩き潰せ」)に、劣悪な雇用環境にいる若者たちがもろ手を挙げて賛同したことを私はまだよく覚えている。
「橋下政治」に期待する層もこれと重なる。
現に階層下位に位置づけられ、資源配分で不利を味わっている人々がなぜか「もっと手触りの暖かい、きめこまかな行政」ではなく、「もっと峻厳で、非情な政治」を求めているのである。
それは「強欲で無能な老人たちが既得権益を独占している」せいで、彼ら「能力のある若者たち」の社会的上昇が妨げられているという社会理解がいまでも支配的だからである。
彼らは社会的平等や、階層の解消ではなく、「社会のより徹底的な能力主義的再編」を求めている。
それによって、「無能な老人たち」は社会下層に叩き落とされ、「有能な若者たち」が社会の上層に上昇するというかたちで社会的流動性が高まるに違いないと期待しているからである。
このイデオロギーをもっとも熱心に宣布したのは朝日新聞である。
「ロスト・ジェネレーション」論という驚くほどチープな社会理論を掲げて、2007年朝日新聞は全社的規模のキャンペーンを長期展開し、小泉=竹中の構造改革・規制緩和に続いて、社会全体のグローバリズム的再編を強いモラルサポートを与えた。
2005年の郵政選挙から6年、「ロスト・ジェネレーション」論から4年。
日本社会はどうなったのか。
たしかに能力主義的再編は進んだ。
たしかに社会的流動化は加速した。
でも、それは下層から上層への向上でも、上層から下層への転落でもなく、「一億総中流」と呼ばれたヴォリューム・ゾーンが痩せ細り、かつて中産階級を形成していた人々が次々と「貧困層」に転落するというかたちで実現したのである。
「人参と鞭」による社会再編を日本人の多くが支持した。
「もっと甘い人参を、もっと痛い鞭を」と叫びたてた。
でも、そう叫んだ人たちのほとんどは「鞭」を食らう側に回った。
維新の会の教育基本条例は「教育の能力主義的=グローバリスト的再編の政治的マニフェスト」である。
そのようなものが起案されるのは、2005年以降の政治史的・経済史文脈と照らし合わせれば「理解」できないことではない。
けれども、そういうマニフェストは小泉改革やロスジェネ論の「末路」についての歴史的教訓を無視しない限り出てこないだろう。
たぶんこの条例案を起草した人は文科省や中教審の出したペーパーの類は読んだのだろうが、「社会の能力主義的再編」戦略そのものの破綻という歴史的現実についてはそれを読み解くだけのリテラシーを所有していなかったのだと私は思う。
たぶん彼(ら)はいまでも「強欲で無能な既得権益の受益者」を叩き潰して、「能力のある若者」たちが浮かび上がれるように社会的流動性を高めようという命題が有効であると信じている。
驚くべきことに、この命題はまだ有効なのである。
まだ社会の能力主義的再編が「間違った選択だった」ということを誰もカミングアウトしていないからである。
政治家は言わない。自民党の一部は小泉政治の間違いに気づいているが、野党が過去の失政を懺悔しても次の選挙に何のプラスにもならない。民主党の主流はグローバリストであり、「成長戦略なき財政再建はありえない」というような空語を弄んでいる。もちろん「成長戦略」などどこにも存在しない。でも、それらしきものならある。それはTPPのような「国際競争力のある産業セクターへの国民資源の一点集中」戦略である(それが「賭場で負けが込んだやつが残ったコマを張るときの最後の選択肢」と酷似していることは誰も指摘しないが)。
財界人も言わない。言うはずがない。
彼らは「多くの能力のある若者が社会下層に停滞してそこから脱出できない」という現実から「能力があり、賃金が安く、いくらでも替えの効く労働力」を現に享受しているからである。それがいずれ「内需の崩壊」を導くことがわかっていても、ビジネスマンたちは「今期の人件費削減」を優先する。
メディアも言わない。朝日新聞が自紙が主導した社会改革提言の失敗について陳謝するということはありえない。
そもそもメディアで発言している人々のほとんど全部は自分のことを「社会的成功者」だと思っている。
彼らは「成功者とみなされている人々は偶然の僥倖によってたまたまその地位にいるにすぎない」という解釈よりも、「際だった才能をもっている人間は選択的に成功を収める」という解釈を採用する傾向にある。
そのような自己理解からは「われわれの社会は能力主義的に構造化されており、それは端的に『よいこと』である。じゃんじゃんやればよろし」という社会理解が導出されるに決まっている。
つまり、私たちの国では、能力主義的な社会の再編が失敗し、その破局的影響があらゆる分野に拡大しているにもかかわらず、そのことを指摘する人間が「どこにもいない」という痛ましい事態が現出しているのである。
せめて『赤旗』くらいは「そういうこと」を述べてもよいのではないかと申し上げたのだけれど、彼らは彼らで「独裁対民主」「強権政治家対無垢な人民」(泣)というようなスキームで大阪の政治を理解しようとしているらしいので、ここに備忘として録すのである。

2011.11.03

ガラパゴス化の症状としてのグローバリズムについて

広島学院の文化祭で、中高生1000人ほどをお相手に講演。
文化祭のキックオフイベントである。
高校生を講堂に集めての講演は何度か経験があるが、中学生ははじめて。
でも、関係ない。
子供たちは「彼らの知性に対する敬意」が示される限り、その限界まで理解力を押し上げてくる、というのは私の揺るがぬ確信である。
「子供にもわかるように話す」人間の話を聴いているうちに知性的、情緒的な成熟が果たされるということはない。
一期一会。1000人の少年たちが私の話を70分間静かに聴いて下さるというのである。
このチャンスを逃すことはできない。
君らの理解力を限界まで高めないと「ついてこられない」話をしようではないか。
というわけで、まず国際関係における「移行期的混乱」についてお話しする。
来年のアメリカ大統領選挙の見通しについて、中国の産業空洞化について、EUの瓦解の可能性について、プーチンの資源外交と北方領土ブラフについて。そして、「激動するグローバル社会」の変化に最も遅れているのが、今頃「国際競争」とか「グローバル人材」とか言っている人々であるという話をする。
世界情勢の変化を見ると、日本は相対的に社会システムが最も安定している国に数えてよい。
これだけの国内的危機を抱えながら、いまだ内戦も、テロも、ゼネストも、流血のデモも、商店の略奪も、人種間抗争も、少数民族の独立運動も、辺境の離脱も、国軍のクーデタも「心配しなくていい国」は世界に例を見ない。
だからこそ、「安全な国の通貨」が買われているのである。
輸出振興のための円安がそんなにご希望なら、政府がこっそりと今あげたうちのどれかを仕掛ければいい、すぐに円は暴落するだろう。だが、それは貿易黒字とトレードオフできるような事態ではない。
繰り返し言うが、日本は世界で群を抜いて社会システムの復元力が強い国である。
この特殊日本的な「メリット」を無化して、他国と同じ「劣悪な条件で」競争させようとするのが、「グローバル化」である。私はそう理解している(同意してくれる人はほとんどいないが)。
今日の毎日新聞に「TPP参加で立ち遅れている業界の尻を叩け」という論説が掲げてあった。
「TPPの圧力を利用して国内改革を進めよう」としているベトナムやマレーシアに「続け」というのである。
この編集委員は「負ける確率の高いゲームに参加した方が、ゲームに負けない確率は高まる」という不思議なロジックを駆使していた。
彼がいったいどういう思考訓練の果てに、このような奇怪なロジックを操るようになったのか、私には想像がつかない。
「溺れないようにするためには、溺れて死ぬほどの目に遭わせるのが捷径である」という人に、私が訊きたいのは、それで溺れたらどうするのか、という素朴な問いである。
それよりは「溺れそうな場所には近づかない」方が生き延びる確率は高いのではないか。
ベトナムやマレーシアの後塵を拝さないためには、まずベトナムやマレーシアの「後に続くべきだ」という命題には論理性が欠けているということに、どうしてこの編集委員は気づかずにいられるのだろうか?
もちろんこの「?」は修辞的な疑問符であって、私は理由を知っている。
それは「どんなにボコボコにされても、命までは取られない。『タンマ』と言えばゲームを中断してもらえる」と彼が思っているからである。
一度きっちり締め上げてやらんと、生ぬるい環境でぬくぬくしている奴らは目を覚まさん、と思っているのである。
「自分が有利に立つためには、わざと不利な条件で戦うとよい」というような言葉がポロリと出るのは典型的な「平和ボケ」の症状である。
「誰も命までは取りゃせんだろ」というこの生ぬるい構えそのものが「ガラパゴス化した日本の症状」なのである。
私の見る限り、「ガラパゴス化」を難じる人々の中には、なぜそう言う夫子ご自身だけは日本人であるにもかかわらずガラパゴス化を免れているのか、その理由を吟味している人のあることを知らない。
日本はこれでもまだ先進国中では相対的に安定した社会システムを維持できている。
これを「他の国並み」にしようというのが「グローバル化」である。
条件をいっしょに揃えれば、自由な競争ができる、と。
それだけ聞くと話のつじつまが合っているようにも聞こえる。
だが、「ゲームへの参加」は先祖伝来の国民的な宝であるところの「社会的安定」(それを他のアジア諸国は有していないのである)を供物に差し出さなければならないほど緊急なことなのか。
内戦もテロもなく、国民皆保険制度で医療が受けられ、年金も僅かなりとはいえ支給され、街頭でホールドアップされるリスクもなく、落とした荷物が交番に届けられる国は一朝一夕でできたわけではない。
先祖たちの営々たる努力の成果である。
この社会的なセキュリティーを市民たちが自己責任、自己負担でカバーしようとしたら、どれほどの代償を支払わなければならないのか、グローバリストたちは考えたことがあるのだろうか。
彼らの特徴はこのような「見えざる資産」をゼロ査定することにある。
それはこの「例外的な安全と豊かさ」のうちで66年間うつらうつらと眠っていた日本人の「平和ぼけ」の症状そのものなのである。
重ねて言うが、私たちが「ぬるい」のは、それでも生きていけるほど豊かで安全な社会に私たちが住んできたことの「コスト」である。
一瞬の油断もできぬ、ヒリヒリした環境に身を置きたいという気持ちは私にもわからぬではない。
でも、そのハードボイルドな気分の代償に「ぬるくても生きられる」この安全と豊かさを放棄してもいい、とグローバリストたちは本気で思っているのだろうか。
そこで自分が生き残れると本気で思っているのだろうか。
私は無理だと思う。
というような感じで、延々と70分間グローバル人材育成教育の悪口を言い続けたのでした。
「グローバル人材」とか「キャリア教育」とか「教育投資」とか「自分の付加価値を高めろ」とかいう人間を信じるな。
そいつらは君たちを「英語がしゃべれて、ネットが使えて、コミュニケーション能力があって、一日15時間働ける体力があって、そして十分に規格化されているのでいくらでも換えが効く人材(つまり、最低の労働条件で雇用できる人材)」に仕立てることで、最低の人件費コストで最大の収益を上げることを求めてそう言っているわけであって、君たちの知性的・感性的成熟には何の関心もないのだ。
そういうやつらの言うことを信じるな。
広島学院はイエズス会のつくったミッションスクールなので、神戸女学院と同じく、教育への政治と市場の介入に対しては、懐疑的な校風であったので、先生方も私の話をけっこう喜んで聞いてくださったようである。
講演のあと、何人かの高校生から握手とサインを求められた。
話が気に入ってくれたのならいいのだけれど。

2011.11.24

平松さんの支援集会で話したこと

10月17日の平松邦夫市長を励ます会で「おせっかい教育論-教育基本条例の時代錯誤について」という講演をした。
講演録はそのあと『橋下主義を許すな!』という本に採録された(香山リカ、山口二郎、薬師院仁志との共著、ビジネス社)。
選挙の応援のための、いささか「煽り」の入った本なので、手に取るのを控えた方も多いと思うが、私の書いていることはいつもの原則論である。

教育現場にドラスティックで急激な変化は馴染まない

平松市長から教育関係の特別顧問をと委嘱されて、お引き受けした時に、「大阪市の特別顧問に任ず」という委嘱状を頂きました。紙一枚もらって終わりだろうと思っていたら、いきなり「さあ、これから記者会見です」と言われました。そんな話聴いてなかったので、何の準備もしていない。いきなり記者会見に連れ出されて、「内田さんの顧問としての抱負を」と尋ねられました。何も考えていなかったのですが、そういうときの反射能力はけっこう高いので、「言いたいことが二つあります」と申し上げました。
一つは、隣に座っていた平松さんに対して。「私が市長にお願いしたいことが一つあります。一つだけです。それは地方自治体の首長は教育行政に関与して欲しくないということです。」
横にいた平松さんの顔が一瞬引きつっていたようですけれど、申し訳ないけれど、これは言わざるを得ない。政治家の方が教育行政に関与して、ご自身の教育理念を現場に押し付けるようなことをされては困る。顧問として、市長にまずお願いしたいのは「教育権の独立」にご配慮頂きたいということである、そう申し上げました。
もちろん僕はその前に何度もお会いしていましたから、平松市長の教育理念は良く存じ上げております。立派な考えをお持ちだし、僕も深く共感するところもありました。だからこそ、顧問をお引き受けしたわけです。
でも、市長が個人的に高い教育的見識をお持ちだということと、教育行政に首長が関与するということは、水準の違う話です。もし、平松さんが個人的信念を教育現場に政策的につよく押し付けことが許されるとすると、そのあとに平松さんが市長を辞められあと、今度は平松さんと全く違う教育理念をお持ちの方が市長になられた場合に、その人が「前任者のやったことは全部廃止して、私の信じるところの教育理念を実現してゆく」と言い出したときに、それを阻むロジックがなくなってしまう。政治が教育行政に関与することを一度認めたら、その後教育現場は首長選挙があるたびに、異なる教育理念、異なる教育方法、異なる教育プログラムにそのつど変更しなければならない。
それによって一番混乱するのは現場の教師であり、一番被害を受けるのは当の子供たちです。猫の目のように教育行政や教育現場のルールが変わることで利益を得るものは教育現場にはおりません。
教育現場に朝令暮改はあってはならない。これは教育を語る場合の基本ルールです。
もちろん、そのつどの社会状況の歴史的な変化に応じて、教育は変わります。でも、決して変化は急速なものであってはならない。私たちは人間という「なまもの」を扱っているわけで、缶詰を作っているわけじゃない。子供たちの成長速度という生物学的な縛りがあるんです。それに合わせて、変えるにしてもゆっくり変えなくちゃいけない。
今日は維新の会が提案した教育基本条例案の理論的な難点を指摘していきたいと思っていますが、最大の問題点は、この条例案は「学校教育というのは非常に惰性の強いシステムであって、頻繁な変更になじまない」という現場の人間にとっての常識を理解していないということです。
ある教育方法を導入してから、その効果を検証をするまでには、10年から20年、場合によっては30年、40年かかります。2年や3年で効果が分かるはずがない。
教育は生身の人間が相手の仕事です。子供たちは学校に来る前にすでに、さまざまな思想信条、信教、イデオロギーをもった周囲の大人たちの影響を受けています。その子供たちを学校は迎え入れて、ある種の方向づけをしていく。子供たちの中に深く内面化し、それこそ、血肉化しているものをいじってゆく仕事です。だから、ゆっくりやるしかない。それぞれの子供の個性によって、子供たちが受けてきた家庭教育によって、子供たちは教師の働きかけに違う反応を示す。全級一斉に同じことを教えるわけにはゆかないんです。子供一人一人について、やり方を変えなければいけない。
一つの教育的実験について、統計的に有意な命題を引き出すためには、少なくとも20年はかかる。僕はそう思います。30年以上教師をやってきた人間の経験的な知見として申し上げるのです。最低でも20年。10年では短すぎる。それくらいの時間をとらないと、やってみたことが良かったか悪かったのか、本当に分からないのです。
本気で科学的に教育方法の有効性を評価しようとするなら、ある教育方法について、それを適用するグループと適用しないグループに分けて、その10年後20年後の教育効果を比較するしかない。医薬品の治験と同じです。ある新薬を投与するグループと投与しないグループに分けて、10年後の延命率を見て、この薬は効くとか効かないとか判断する。本当にある教育的実験の効果を科学的に測定しようと思ったら、子供を二つのグループに分けて試すしかないわけですけど、そんな人体実験みたいなことができるはずがない。
人体実験ができない以上、教育現場ができるのは、「マイナーチェンジ」だけです。子供たちの成長に合わせてゆっくり変えてゆく。経験的に「これでまあ大丈夫」という教育方法を実践しつつ、微調整してゆく。
たしかに社会は急激に変化していきます。政治だって変わる。でも、そうした外の社会の変化のスピードに学校は合わせちゃいけないんです。ビジネスなら、新しいビジネスモデルを取り入れて、起業して、市場にその適否の判断を委ねるということができる。それはすぐわかる。ビジネスにおいては「マーケットは間違えない」というルールでゲームをやってますから。正しければ儲かり、間違っていれば倒産する。それだけのことです。でも、実際には設立された株式会社のうち、20年後まで生き残っているのは100社に1社程度でしょう。会社ならそれでいい。でも、こっちは生身の人間が相手なんです。1%なんていう歩留まりで教育モデルを試すわけにはゆきません。100人中99人は「教育に失敗しました」というようなことを教師は言う訳にはゆかない。
教育はビジネスと同日には論じられないというのは、そういうことです。失敗が許されないんです。だから、「長い経験によって、これはまあ大丈夫だということがわかっているやりかた」をベースにして、少しずつ微調整する以外に手立てがない。それに対して、「社会の変化のスピードに対応してない」というような批判を向けるのは、ナンセンスなんです。生身の人間が相手なんですから。ちょっと動かしてみて、間違ったらすぐに戻れるようなように慎重にやってみて、上手く行ったなと思ったら、「こういうやり方、割といいですよ」ということをアナウンスして、また少し進める。尺取り虫のような、こういう緩慢な方法しか教育現場には許されないのです。それが政治や市場と全く違うところなんですが、この一番基本的なことがなかなかご理解頂けない。

政治とマーケットが関与してはならないカテゴリー

今回の維新の会の教育基本条約の前文には、今の教育行政には政治が関与していない、市場が関与していない、それがよろしくないと書いてあります。「市場」ではなく「民の力」というこなれない言葉が使われていますが、たぶん「市場」のことと読んでよろしいのでしょう。政治権力とマーケットが関与していないのは間違いだ、と。ところが、なぜ教育行政に政治やマーケットが関与すべきであるのかということについては、何の根拠も示されていない。教育行政に政治と市場が関与するのは論証の余地なく「当たり前」なことだ、というところから話が始まっている。でも、こっちはその手前の話をしているのです。教育行政に政治や市場は関与すべきではない、という原則的立場から申し上げているわけで、条例案を起草するなら、まずこのような原則的立場にきちんとした反論をしてもらってからでないと、話が始まらない。
政治とマーケットは教育に関わるべきではないというのは、人類学的な常識に属することです。別に僕が言い出した話じゃない。元東大経済学部教授の宇沢弘文先生が、「社会的共通資本論」として述べていることです。
共同体が存立するためにどうしても必要な要素がいくつかあります。それを宇沢先生は「社会的共通資本」と呼んで、三つのカテゴリーに分けています。
第一のカテゴリーに含まれるのは、大気、土壌、海洋、河川、湖沼、森林などなどの自然環境。それがなくては人間は生きていけない一番基本的なものがこれに当たります。第二のカテゴリーは社会的インフラです。上下水道、通信、交通、電力、ガスなどの社会生活に必要不可欠な設備、これが第二。第三のカテゴリーが、宇沢先生が「制度資本」と呼ぶもので、それなしでは集団が存立し得ない社会システム。司法、行政、医療、教育などがこれに入ります。
これらのシステムは共同体存立の根本にかかわることであるから、専門家が専門的な知見と技術的良心に基づいて運営管理しなければならない。政治イデオロギーとマーケットは社会的共通資本の管理運営には絶対にかかわってはならない。
これは考えれば、当たり前のことです。現在の政治システムの中でも、政権交代は起こります。もちろん革命や内戦などが起こった場合には政治システムは劇的に変わる。でも、選挙結果によって、政権党が変わる度に、司法システムが変わり、医療システムが変わり、学校のカリキュラムが変わり、教育目標が変わる、ということになると、その社会はがたがたになってしまう。
例えば、エコロジーについて強固な政治的確信を持っている人が政権に就き、日本の森林を保護すべきであるから、これから木を切ったやつは首を切ると言ったらどうなるか。逆に、金にさえなればいい、海洋も湖沼も山もばら売りして、金にする算段をする政治家が政権をとったらどうなるか。山を崩して、海を埋め立てて工場を作る。排水を川に流す。景勝地を外資に売り飛ばす。その時は短期的にはお金が入っていいかもしれませんが、50年、60年経った後に、そこはもう僕たちは住めなくなってしまう。
それに、社会的インフラストラクチャーにマーケットが関与するとどうなるか。そのことを、我々は福島の原発事故で骨の髄まで経験したのではないですか。あの事故は、電力の供給という、本来専門家が専門的知見と技術的良心に基づいて関与運営すべき仕事に、「潜在的な核兵器開発能力を外交カードとして使いたい」という政治家と、「電力をできるだけ安いコストで作って収益を上げたい」というビジネスマンが関与したことによって起きたものです。政治家やビジネスマンは自己都合で原発のリスクを過小評価し、地震や津波は「想定外」にして、防災コストを切り下げる。もし、ほんとうに専門家が専門的な知見と常識に基づいて原発を管理運営していたら、こんな事故は起きていなかったはずです。
あらゆる社会的な活動のうちに政治的に介入し、ビジネスチャンスを求めるのは、政治家やビジネスマンの本性ですから、これは「やめろ」というわけにはゆかない。そういうものなんですから、しかたがない。でも、「彼らが入ってはいけないエリア」は存在するんです。自然環境や社会的インフラや制度資本は政策的な論争点や金儲けの手段にしてはならない。申し訳ないけれども、ここは抑制して戴いて、現場の者に任せてくれないと困る。専門家には、その技術的良心にかけて共同体を守る使命があります。日本の国土を保全し、国民の健康を守る責務がある。そう思っている人間は社会的共通資本の管理運営については、政治家やビジネスマンの関与にはっきりとした抵抗を示さなければならない。僕はそう思っています。
しかし僕のように考えている人間は極めて少数です。ほとんどいない、といってもいいくらいです。もちろん、現場の先生たちは僕の意見に深く同意を示してくれます。僕はこういう話を文科省のお役人や与党の政治家にも会えばしてます。すると、彼らも僕の話にうなづくわけです。そうです、そうです、と。先日は文科省副大臣に、同じことを申し上げました。「政権交代したけれど、教育行政に政治家は干渉しないでください」と言った。すると、おっしゃるとおりですと言ってくれました。文科省のお役人へも直談判しにいってそう話しても、そうです。おっしゃる通りです、と。われわれだってそう思っているんです。教育を政治と市場から守ろうと必死なんですと言ってくれる。でも、声がでかいので負けちゃうんです、と。みんな言い負かされていて、司法や医療や教育に政治家とビジネスマンは口を出すなと、心では思っていても、はっきり公言する人はほとんどいない。
でも、原理的なことなんですから、そのことははっきり、繰り返し言わないといけないと僕は思います。
教育というのは我々のこの共同体の次世代の「フルメンバー」たりうる人を育成し、継続的に供給するためのものです。政治イデオロギーとも、金儲けとも関係ない。それ以前の話なんです。みなさんが楽しく政治やビジネスができるような社会のそもそもの基礎づくりとして学校は存在する。
子供たちは商品じゃないし、人材でもない。彼らは次代の我々の共同体のメンバーです。それを作り出さなければいけない。社会を担う成熟した公民をきちんと育成してゆかなければ、この共同体そのものが保たないから。
裁判が正邪の「裁き」を下すように、医療が「癒し」の機能を担うように、教育は「学び」の機能を担うものです。裁き、癒し、そして学び、これは人類が誕生したときから、その最初の人間集団から既に存在していたはずです。
裁きのシステムと医療のシステムと教育のシステムを持っていた集団は効果的にその成員たちを守ることができ、衣食住のような生活資源をフェアに分配できた。そういう集団だけが生き残り、裁きや癒しや学びのシステムを持たなかった集団は滅びていった。当然ですね。集団内部で正邪理非の判定が行われない、怪我しても病気をしても誰もケアしてくれない、大人たちは子供たちを放置して、生き延びるための技術も知識も教えない・・・そんな社会集団が存続できたはずがない。
制度資本というのは、そういう太古的なものなんです。代議制民主主義や資本主義ができるよりはるかに昔から存在した。だから、それに今の政治イデオロギーやビジネスモデルが適用できるはずがないんです。
教育の目的は、そういう古代的な集団を思い浮かべればすぐ理解できるはずです。狩猟や採取で生きている集団なら、大人は子供たちに狩りの仕方を教える、食べられる植物と毒草や毒キノコの見分け方を教える、火の起こし方、道具の作り方、気象の見方、集団における正しいふるまい方を教える。生きて行く上での基本的な技術を、ある程度の年齢になれば必ず年長者が組織的に子供たちに教えたはずなんです。子供たちに自分のたちが祖先から伝えられたものを継承しておかないと、その集団そのものが存続し得ないから。学校教育の機能もそれと同じです。集団そのものを存続させるための知恵と力を子供たちに授けること、これに尽くされる。
学校教育の目的は、次世代においてこの集団を支える成熟した市民を一定数(全部とはいいません)、継続的に供給していくことです。それが教育の第一目的です。最初で最後の目的です。それ以外の目的は全て副次的なものに過ぎません。
ですから、ある教育方法について、その適否を吟味する基準があるとすれば、それは提唱されたその教育方法に従った場合、子供たちの公民的成熟にどのようなプラス効果があるのか、それを見る以外にない。あなたが提唱されるその教育方法を適用すると、子供たちが成熟した市民に育つ上で、どのような効果が期待されるのか、その見通しをまずお聞かせ願いたい。そう問うべきだと僕は思います。
しかし、今行われている教育についての議論の中で、「子供たちの公民的成熟に資するかどうか」という基準に基づいて教育実践の適否を論じる人はほとんどいない。
今日は会場にメディアの方もいらしているので申し上げますが、教育について議論する新聞やテレビ番組が多く存在しますが、今のような基準から教育改革の適否を論じたメディアを見たことがない。こういうことをやると点数が上がる、偏差値が上がる、英語ができるようになる、読解力が上がる。たしかにそんな話はしている。きっとそれが教育の全部だと思っているんでしょう。でも、そんなものが一体何になるのか。そんなものを僕は教育の目的だとは思っていません。

学力とは何か

今の日本の子供たちは劇的に学力が低下しています。それは僕も認めます。でも、その人たちの言っている「学力」と僕が言っている「学力」はたぶん全く別のことです。彼らが「学力」と読んでいるのは、単に成績のこと、点数のことです。
確かに、そういう意味での学力も下がっている。これは事実です。絶対的な知識の学力は二〇年前に比べて確かに下がっています。予備校では同学齢集団に、毎年同時期に同じ難度の模試を受けさせます。偏差値は同学齢集団内部のポジションを示す数値ですから、それをみても「学力」の経年変化はわからないが、試験の素点を見れば絶対学力の変化がわかります。それによると、素点は毎年下がっている。20年前からずっと下がり続けている。
でも、問題はそのことではないんです。成績が下がっていることより「学ぶ力」が劣化していることが問題なんです。ふつう「学力」というのは点数のことです。数値で示されるものです。でも、そんなものでは学力の一部分しか測定できない。「学ぶ力」そのものは測定できない。
学ぶ力とは何か。乾いたスポンジが水を吸うように、自分が有用だと思う知識や技術や情報をどんどん貪欲に吸い込んで、自分自身の生きる知恵と力を高めていって、共同体を支え得るだけの公民的成熟を果たすこと。それを「学ぶ力」という。僕はそう理解しています。

スティーブ・ジョブズと嘉納治五郎に見る「教育の意味」

学力を構成する条件は三つあります。
第一に自分自身の無知、非力についての強い不全感、不満足感。オレはものを知らない、もっと知りたい、世界の成り立ちについてもっと知りたい、何で世の中にはこんな仕組みになっているのか、どうして人間はこんなふるまいをするのか、それを理解したい。でも、自分にはまだわからない。だから知りたい。そういう自分自身の無知と無力さに対する不全感、「もっと大人になりたい」という切実な願い。これが学力を構成する第一の要件です。どれほど試験の成績がよくても、「オレは必要なことは全部もう知っているので、これ以上学ぶべきことはない」と豪語する子供がいたら、その子にはもう「学ぶ力」がない。その理屈はおわかりになるでしょう。
第二番目は、誰が私のこの不全感を埋めてくれるのか、それを探しあてる力。「メンター(導き手)」、自分を導いてくれる人、それを見当てる力です。本当に強い不全感を持っている子供は必ず「この人について行けば大丈夫」、この人なら、本当に自分が何をしたいかを教えてくれるという直感が働きます。
先ごろ亡くなったスティーブ・ジョブズのスタンフォード大学の卒業式での有名なスピーチがあります。僕が言いたかったことを彼は全然違う言葉で言っていて、僕は深い共感を覚えました。彼がその中でこう言っていました。半生を振り返って得た結論が、一番大事なことは、「あなたの心と直感に従う勇気を持つことだ」(the courage to follow your heart and intuition)と。どうしてかというと、ここが素晴らしいんですが、「あなたの心と直感は、あなたが本当は何になりたいかを知っているからである(they somehow know what you truely want to become)」。
これを僕は本当に素晴らしい言葉だと思いました。僕の言う二番目の学力というのはこれのことです。「勇気」です。
こういうことを勉強すると、これこれこういういいことがある、この知識や技能や資格や免状はこういうふうにあなたの利益を増大させる、というような情報に耳を貸すな、とジョブズは言っているんです。だって、まわりの人が「これを勉強しろ。これを勉強すると得をするぞ」と言い立てている通りに勉強するなら、勇気なんか要りませんから。勇気が要るのは、「そんなことをしてなんの役に立つんだ」とまわりが責め立てて来るからです。それに対して本人は有効な反論ができない。でも、これがやりたい。これを学びたい。この先生についてゆきたい。そう切実に思う。だから、それを周囲の反対や無理解に抗して実行するためには勇気が要る。自分の心の声と直感を信じる勇気が要る。
ジョブズは大学に入って半年でドロップアウトしてしまいます。授業に興味が持てなくて。ドロップアウトした後は自分が興味を持てる授業だけ聴いた。そのときにカリグラフィー、習字ですね、その授業を受けた。さまざまな美しい書体について勉強した。その勉強が何の役に立つのか、授業を受けている時にはわからなかった。でも、10年後にわかった。最初のアップルのコンピュータを設計するときに、ジョブズは「パーソナルコンピュータは複数の美しいフォント(書体)を持つマシーンでなければならない、字間は自在に変化しなければならない」と思ったからです。タイポグラフィーの美しさというコンセプトをジョブズははじめてパソコンに持ち込んだのです。カリグラフィの授業を受けたという経験がなければ、僕たちはたぶん今でも複数の「フォント」から好きな字体を選んで字を書くということはなかっただろうとジョブズは言ってました。
ドロップアウトした後、どうしてカリグラフィーを履修したのか。それは彼が「自分の心と直感に従った」からです。そのときには、いったい将来自分のがどんな職業に就くことになり、今習っているこのことがどんなかたちで実を結ぶか、予測できなかった。でも、10年後に振り返ってみたら、そこにははっきりとして線が結ばれていた。
ジョブズはこれを「点を結ぶ」(connection the dots)という言い方で表現しています。僕たちは「何となく」あることがしたくなり、あることを避けたく思う。その理由をそのときは言えない。でも、何年か何十年か経って振り返ると、それらの選択には必然性があることがわかる。それが「点」なんです。自分がこれからどういう点を結んで線を作ることになるのか、事前には言えない。「点を結ぶ」ことができるのは、後から、回顧的に自分の人生を振り返ったときだけなんです。
教育はまさにそのような行程です。教育を受ける前には、自分がどうしてそれを勉強するのかその理由はわからない。だから、教育を受けるに先立って、「これを勉強したら、どんないいことがあるんですか?」という理由の開示を求めるのは間違っている。ほんとうに必要な勉強は、「それをやらなければならないような気がするが、どうしてそんな気がするのかは説明できない」というかたちでなされるものだからです。学ぶに先立って学ぶことの意味や有用性について「教えろ」というのは間違っているんです。
「学び」というのは、なんだか分からないけど、この人についていったら「自分がほんとうにやりたいこと」に行き当たりそうな気がするという直感に従うというかたちでしか始まらない。ただし、この導き手、メンターというのは実にさまざまなありようをする。必ずしも生涯にわたって弟子に敬愛される恩師というわけではない。道を教える役割ですから、場合によっては、会って次の角まで連れて行って終わりということだってある。
夢枕獏が、講道館柔道の創始者、嘉納治五郎を主人公にした『東天の獅子』という小説を書いていますが、そこにメンターについての興味深いエピソードが出てきます。
嘉納治五郎は、九歳の時から漢学と英語とドイツ語を学び、明治十年には東京大学に入って学んだ秀才です。大学に入って、これから日本の近代化を担う国家須用の人材となるという周囲の期待を担った治五郎少年はなぜかそのとき日本の伝統的な柔術をやりたいと思った。とにかく柔術がやりたい。どこで教えてくれるのか、あちこち聞き回った。でも、明治初期ですから、武術に対する社会的ニーズは地に落ちている。修業する人も、教える人もいない。周囲の人たちも、どうして治五郎少年がそんな時代遅れの技術を習いたがるのか、誰も理解してくれない。
当時、行き場を失った柔術家たちは「骨接ぎ」で生計を立てていた。それで、治五郎少年は街を歩いて、骨接ぎがあると、そこを訪ねて「もしご存じなら、柔術をご教授願えないか」と頼み込んだ。でも、どこにも、そんな時代遅れのものを教える物好きはいない。でも、ある日、八木百之助という人に出会う。天神楊心流という古流を伝えている骨接ぎの先生です。でも、八木は自分では教えることができないので、同門の福田八之助を紹介しようと言う。そして、治五郎少年を福田八之介のところまで連れてゆく。八木さんの場合は、来た人を次の角まで連れていっただけですね。でも、そこで治五郎少年は福田先生に出会い、柔術の手ほどきを受け、先生の死後は、その同門の磯正智に就いて学び、そこで起倒流の飯久保恒年に会って、柔術に熟達し、明治十五年に、講道館を開く。
この先生たちは、みな嘉納治五郎にとってのメンターなわけです。全員が「嘉納治五郎が進むべき道」を受け渡すように指示してゆく。でも、メンターと言っても、一生の師というわけではない。中には「ある角から次の角まで」道を教えてくれるだけという人もいる。でも、この人がいなかったらその次はなかった。やっぱり、必要不可欠のメンターではあったのです。その出会いを後から振り返ると、みごとに「点がつながって線になっている」。ジョブズの言うconnectiong the dots です。
ジョブズや嘉納治五郎の修行時代の話は学校教育の一番のベースにあるのが何かということをみごとに伝えていると思います。嘉納治五郎少年は柔術がやりたかった。でも、何で柔術がやりたいのか、うまく説明できなかった。言葉にできなかった。でも、やりたい。そういうものなんです。スティーブ・ジョブズがどうしてカリグラフィーのクラスを履修したのか、その理由をその時点では言えなかったのと同じです。学びの始点においては自分が何をしたいのか、何になりたいのかはわからない。学んだあとに、事後的・回顧的にしか自分がしたことの意味は分からない。それが成長するということなんです。
成長する前に「僕はこれこれこういうプロセスを踏んで、これだけ成長しようと思います」という子供がいたら、その子には成長するチャンスがない。というのは、「成長する」ということは、それまで自分が知らなかった度量衡で自分のしたことの意味や価値を考量し、それまで自分が知らなかったロジックで自分の行動を説明することができるようになるということだからです。だから、あらかじめ、「僕はこんなふうに成長する予定です」というようなことは言えるはずがない。学びというのはつねにそういうふうに、未来に向けて身を投じる勇気を要する営みなんです。 
教育の効果というのは事後的にしか分からない。ジョブズにしても嘉納治五郎にしても、自分がある時点で受けた教育の意味がずっと後になるまでわからなかった。たぶん、僕たちは死ぬ間際になるまで自分の受けた教育の価値はほんとうは分からない。教育の意味は受けたその時点で開示されるわけじゃない。その時点ではわからない。教育を受けた結果、自分自身が現に成長を遂げたことによって、受けた教育の意味がわかる。それを語れる語彙を持ったこと、その価値を考量できる度量衡を手に入れたことこそが教育の贈り物だからです。
そういう非常にダイナミックなかたちで教育の価値、教育のアウトカムは現実化する。ですからもし教育に意味があるとすれば、それは教育を受けた人がそれによって成長したということです。成長しなければ、教育の意味は発見されないし、認知されないし、言葉にならない。

子供を教育産業の消費者にした結果は

ですから、知識や技術で得る免状や資格といったものが、教育の目的だと考えるのは完全な誤解です。どうして、そんな誤りが起こるのか。それは、ビジネス・マインドで教育を考えるからです。教育を商品とみなしているからです。
子供たちが五〇分間黙って授業を聞くとか、校則を守るとか、教師に対して恭順な態度を示すとか、そういうことは彼らにとって「苦役」だと考えられている。これが子供たちが学校に差し出す「代価」です。これだけの代価を払っているのだから、それにふさわしい商品を出せ、と。そういう「商取引」のスキームで今の子供たちは教育を見ています。
実際に、「子供たちは消費者です。彼らクライアントのニーズに見合うようなより質の高い教育商品教育サービスを提供するのが学校の使命です」と平然と言い放つ学校関係者がいます。メディアもそういう言葉を無批判に垂れ流している。教育とは商取引の一種である、というのが現在もっとも流布している教育についての誤解です。申し訳ないけれど、そういうことを言う人たちは、教育の本質を全く分かっていない。教育は商品ではありません。
もし教育が商品だとしたら、誰にもわかる使用価値や交換価値のある商品だとしたら、子供の「学び」という「苦役」が貨幣であって、それを差し出す代償に知識や情報や技術や資格や免状のようなかたちで教育商品が手に入るのだとしたら、何が起きると思いますか?
考えればすぐにわかります。子供たちは消費者としてふるまおうとする。賢い消費者としてふるまおうとする。
賢い消費者とはどんなものでしょう。それは「最も安い代価で、最も価値のある価格を買おうとする人」のことです。最少の学力、最少の学習努力で最高の教育商品を手に入れた子供が「最も賢い消費者」だということになる。そして、現にそうなっている。
今の子供たちは賢い消費者になるべく懸命に努力をしています。その点については、感動的なほどまじめです。最低の努力で得られる最高の結果をめざしている。費用対効果のことだけ考えている。ですから、授業に出るのは出席日数ぎりぎり。授業中もこれ以上意識を散漫にしては理解できないギリギリまで意識の集中を控える。レポートや試験では60点ぎりぎりを狙ってくる。この「60点ぎりぎりを狙ってくる」ための努力の真剣さに、僕はほとんど感動するのです。「素晴らしい」と思ってしまう。まさに彼らにとっては、それこそが一番真剣な競争なんです、60点で済む試験のために、70点分、80点分の勉強をするのは、恥ずかしいと思っている。それは100円の価値しかない商品に200円、300円を払う消費者と同じように愚かなことだと思っている。
以前、ある東大出の若者と話をしていて、あまりにものを知らないので驚いたことがありました。さすがに「何で君はそんなにものを知らないんだ」と訊ねました。すると、彼は「だって僕全然勉強しませんでしたから」と明るく笑って答えました。僕はそれを聞いて胸を衝かれました。彼は自慢しているんです。子供の頃から一夜漬けで試験をクリアーし、レポートは人のを丸写しし、試験はカンニング。要領だけで、全然勉強しないで超一流の学歴を手に入れました。そんな僕って「賢い消費者」でしょう。そう彼は誇ってるんです。無知で無学なまま東大卒業の資格を得た自分が誇らしいんです。消費者マインドを刷り込まれた子供たちのこれが末路だと思いました。でも、今の日本社会は学校教育の場で子供たちにそのようにふるまうことを要求している。
教育を商取引の枠組みでとらえる人々が陥るもう一つの誤謬は、学校とは子供たちを選別し、格付けする場だと思うことです。そういう人がたくさんます。子供たちは格付けされねばならないと考えている。一斉テストで一番からビリまで順番に点数をつけて、差別化する。そして、上位者には報償を与え、下位の者には罰を与える。そうすると、学力が上がると思っている。人間というのは報酬を約束すれば喜び、罰を与えれば縮み上がる、そう思っている。「人参と鞭」です。
でも、これは人間についてのあまりに浅薄な理解としか言いようがありません。そんなことをしても、子供たちの「学び」は決して起動しません。そもそも、彼らが求めているような「学力」さえ上がらない。
子供たちを閉じ込めて、閉鎖集団の内部で相対的な優劣をつけて、相対的優者に報酬を、劣者に罰を与えるということをしたら何が起こるか。集団全体の学力が下がるだけなんです。必ず下がる。なぜかというと、閉じられた集団の中の相対的な優劣を競うのであれば、自分の学力を上げることと、まわりの学力を下げることは「同じこと」だからです。そして、自分の学力を上げるのと、まわりの子供たちの学力を下げるのでは、後の方が圧倒的に費用対効果が高い。だから、子供たちを競争的環境に追い込めば、子供たちは互いに争って、となりの子供たちの学習意欲を失わせようとする。必ずそうなる。
みなさん、自分の子供の授業参観にゆかれたことがありますか?行ったら驚きますよ。みなさんが子供の頃と教室の雰囲気が全く違うということが分かる。御存じですか、子供たちは授業を聞かないんです。聞いているのは前の十人ぐらいだけ。あとの子供たちは私語をしたり、ゲームをしたり、立ち歩いたりしている。
これは彼らが消費者マインドを完全に内面化したことの結果です。授業は商品なんです。それに子供が価値を認めれば、真剣に授業を聴いてもいい。それほどの価値がないと思えば、自分の判定基準に従って、学習努力を適宜按分する。この授業は50%程度の集中にしか値しないと思えば、授業時間の50%は他のことをする。
ところが、勉強したくないなら、まわりの邪魔にならないように、ぼんやり空想にふけるとか、本を読むとかしていればいいのですが、そうはしない。その暇があれば、他の子供たちの学習を妨害しようとするんです。
人の学習意欲を減殺する方法にはいろいろなものがあります。「やる気」を殺ぐことであれば、何でもいい。「くだらねえよな、こんなこと勉強しても、意味ねえよ」というメッセージをまわりに発信できれば、何でもいい。
こんな話があります。僕のゼミの学生が、近くの学習塾で講師のバイトをしていました。学習習慣が身についていない子供たちを集めて、勉強するという態度そのものから指導する塾です。彼女は非常に忍耐強い教師でしたので、その努力が功を奏して、とうとうある子供が机に座って勉強するという態度が身に着いてきた。そして、学校の授業にもなんとか追いついてきた。それどころか、学習進度が学校より一単元分だけ進んだ。そんなこと、その子供にしたら、はじめての経験なわけです。そうしたら、この子供は学校で何をしたか?その子は自分だけが習っていて、級友たちがまだ習っていないことを教師が教え始めたら、立ち上がって歌を歌い始めたそうです。
いったい、どうしてあの子はそんな態度をとったのでしょうと、学生が僕のところに訊きに来た。僕はそれを聞いて、その子は実はきわめて合理的にふるまったんじゃないかと思ったのです。
それまで、学習態度が身についていないので、学校の授業がぜんぜんわからなかった子供が、学校の進度に追いつき、追い越した。だったらどうするか。ようやく競争における相対優位に立ったのです。このポジションを死守しようと思ったら、級友たちの学習を妨害するのが最も効率的である。そう考えたのです。
別に計算したわけじゃなくて、無意識に子供たちはそうしている。子供たちをよく観察すれば分かります。今どきの中高生は、他の生徒の学習を妨害するのに全力を注いでいます。電車の中で、高校生たちが「TPPに参加すべきか否か」とか「プーチンの対日外交はどうなるだろうか」とか、そんな話しているの聞いたことあります?ないでしょう?いや、すればいいと思うんですよ。良く分かんなくても。TPPって、あれって農業がやばいんじゃないの、とか。いや、お前はわかってないよ。国際競争力のない産業分野は淘汰されるしかないんだよ、とか。そういう話したってよさそうじゃないですか?でも、絶対しない。子供同士で話すときに、それが少しでも学校の成績の向上にかかわるような話題は絶対に選ばない。アニメの話とか、アイドルの話とか、そういうのはいいんです。いくらトリヴィアルな知識を披瀝してもかまわない。成績に関係ないから。成績に全く関係がないことがわかっているトピックについてなら、子供たちは異常に能弁になる。逆に、その話題に触れることによって、自分の周りの子供たちの成績がちょっとでも上がりそうな話題は徹底的に回避する。文学の話もしない。それを聞いた友だちの国語の成績が上がるかも知れないから。歴史の話もしない。世界史の成績が上がるかも知れないから。政治の話もしない。政経の成績が上がるかも知れないから。まわりの子供の学力が上がりそうなことは絶対に話さない。これはもう、日本の子供たち全員に深く深く内面化した習慣です。嘘だと思うなら、町中でおしゃべりしている中高生のそばににじり寄って、彼らがどんな話をしているか聞いてみてください。
これはまさに教育に競争原理と市場原理を持ち込んだことの結果です。閉鎖集団内の相対的な競争の優劣にだけに子供たちを熱中させたことの結果です。そのせいで、お互いに足を引っ張り合い、お互いの学力を下げることに懸命な子供たちが大量生産された。 
彼らを学習させるために、市場原理主義者たちは「自己利益」を道具に使いました。「勉強するといいことがあるよ」と利益誘導した。勉強すると、高い学歴が手に入るよ、いい会社に入れるよ、高い年収が取れるよ、レベルの高い配偶者が手に入るよ・・・というふうに教え込んだ。自己利益の追求を動機にして学習意欲を引きだそうとした。その結果何が起きたか。
たしかに子供たちは「努力」するようにはなりました。でも、それは学習努力じゃありません。「最低の努力で最大の結果を出す」ための、費用対効果のよい勉強の仕方をみつけるために知恵を絞った、ということです。「勉強しないで、勉強したのと同じ結果が得られる、もっと楽な方法」を見つけ出すための努力です。
一番確実なのは、まわりの子供たちの学習意欲を殺ぐことです。勉強なんかすんなよ。くだらねえことやめろよ、と説いて回る。この「まわりの子供に勉強させない」ために今の日本の子供たちが割いている努力は半端なものではありません。それだけの努力を自分の学習に向けたら、ずいぶん成績だって上がると思うのだけれど、それでは費用対効果が悪いから、やらない。だって、問題は費用対効果なんですから。
だから、もっと賢い子供は「勉強すると『いいこと』があるよ」という利益誘導を聞かされているうちに、「勉強する」という部分をショートカットして、いきなり「いいこと」だけを手に入れる方法を考えるようになる。もし「いいこと」というのが端的に金のことを言っているなら、学校なんか行くことはない。無駄な勉強することない。インターネットを使って株でもやろう、ということになる。賢いですよね。でも、中学生が学校不登校になって、家でインターネット使って株の売買して数億円儲けたということになったら、今の教育関係者は誰も彼を批判できるロジックを持たない。学校行ってしっかり勉強すると、結果的に高い年収が手に入るよと言って学習を誘導してきた人間には、それを批判する言葉がない。オレ、もう金あるから、教育は受ける必要ないよと子供に言われたら、もう何も言い返せなくなる。
利益誘導は学習の動機づけにならないんです。「オレ、もう金あるよ」という子供は勉強しない。同じように、「オレ、金なんか要らない」という子供も勉強しない。実際にはこのタイプの子供の数が思いがけなく多い。経済合理性で子供たちの学習を動機づけようとする人たちの最大のピットフォールは「金なんか、要らない」という「無欲」な子供たちには手も足も出せないということなんです。
だから「人参と鞭」戦略は無効だと言っているんです。
相対的な優劣だけ問題にしていれば、集団全体の学力は下がる。必ず下がる。現に下がっている。利益誘導すれば、目端の利いた子供は学校に行かないで「金」だけ手に入れるショートカットを選び、「金なんか要らない」という子供たちは学校に行かないようになる。そのパーセンテージがもう半端じゃないところまで来ている。
教育というのは自己利益のために受けるものじゃない。君たちは次世代の集団を支えるフルメンバーにならなければならない。私利の追求と同様に、それ以上に「公共の福利」に配慮できる公民にならなければならない。僕たちは子供たちにそう言わなければならないんです。でも、今の子供たちは、「公共の福利」なんて言葉を聞いたら、たぶん鼻で笑います。われわれは30年かけて、「公共の福利」とか「社会的フェアネス」とか「市民的な成熟」と言った言葉を鼻で笑うような子供たちを作りあげてきたんです。いい加減、もうそういうのは止めなきゃいけない。

学校教育は、次世代の公民を育てるためにある

ここまでの話で、維新の会の教育基本条例のことはもう言わなくてもおわかりと思います。あの教育基本条例を起草した人は骨の髄まで市場原理と競争原理に毒されている。教育は商品である。子供や保護者はクライアントである。最も少ない代価で最も上質な商品を提供する教育機関が淘汰に耐える。生き延びた教育機関が良い教育機関で、ダメな教育機関はマーケットから退場しなければならない。そういう考えです。通常の営利企業なら確かにそうでしょう。でも、学校は営利企業じゃない。学校は金儲けのために作られた組織じゃない。そのことがわかっていない。
株式会社なら、100社起業して、99社が10年後につぶれたとしても、別に誰も困らない。つぶれたビジネスモデルは出来が悪く、生き延びたビジネスモデルはすぐれていたというだけの話です。でも、学校教育は100人育てて、99人が失敗しても、一人成功したからいいじゃないかというわけにはゆかない。一人だけ生き残って、99人の失敗作はそのへんで野垂れ死にしても仕方がないだろうというわけにはゆかない。
同じことを何度も言いますけど、学校教育は次世代の公民を育てるためのものです。われわれの社会が存続するためには、まっとうな公民が不可欠である。から学校教育がある。教育の受益者は子供自身じゃない。社会そのものが受益者なんです。一生懸命子供が勉強してくれて、市民的に成熟してくれると、それで得をするのは社会全体なんです。社会全体がそれで救われる。僕らが助かり、子孫が助かり、共同体が助かる。だから、子供たちに向かっては「学校に通って、きちんと勉強して、市民的成熟を遂げてください」と強く、強く要請しなければならない。
子供たちが学校の教育の主人公であるのではありません。よくそういう言い方がされますけれど、それは違います。子供たちが自分のハートや直感を信じて、進むべき道を自己決定をしていくということについてはもちろん子供たちが教育の主人公です。でも、彼らがそのハートや直感を信じて、自分の潜在可能性を開花しなければならないのは、そうすると彼らに個人的に「いいこと」があるからではありません。子供たちが生きる知恵を高め、生きる力を強めてくれると、社会全体にとって「いいこと」があるからなんです。
子供たちが教育を受けるのはもともとは公的な要請です。だから教育は義務なんです。「まっとうな大人」が一定数いないと世の中はもたない。だから、教育を受けさせる。
でも、今の日本の教育は「大人を育てる」ということをほとんど教育目標に掲げることがない。僕は「大人を育てる」といった文言を中教審の答申にも、文科省の通達にも見た記憶がありません。
この維新の会の基本条例にも、「学び」とか「成熟」とか「公共の福利」といった言葉は一度も出てきません。一万五千字もある条文の中に一度も出てこない。「市民」も「公共性」も出てこない。出てくるのは「競争」とか「人材」とか「グローバル」とかいう言葉ばかりです。
前文の終わりのところには、こう書いてあります。
「大阪府における教育の現状は、子どもたちが十分に自己の人格を完成、実現されているとはいい難い状況にある。とりわけ加速する昨今のグローバル社会に十分に対応できる人材育成を実現する教育には、時代の変化への敏感な認識が不可欠である。大阪府の教育は、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に対応できるものでなければならない。教育行政の主体が過去の教育を引きずり、時宜にかなった教育内容を実現しないとなれば、国際競争から取り残されるのは自明である。」
教育の目的は競争に勝つことだと書いてあります。競争に勝てる人材を育成することだ、と書いてあります。彼らは「激化する国際競争」にしか興味がないんです。だから、教育現場でもさらに子供同士の競争を激化させ、英語がしゃべれて、コンピュータが使えて、一日20時間働いても倒れないような体力があって、弱いもの能力のないものを叩き落とすことにやましさを感じないような人間を作り出したいと本気で思っている。そういう人間を企業が欲しがっているというのはほんとうでしょう。できるだけ安い労賃で、できるだけ高い収益をもたらすような「グローバル人材」が欲しいというのは間違いなくマーケットの本音です。
だから、ここにあるのは基本的に「恫喝」です。能力の高いものだけが生き延び、能力のないものは罰を受ける。国際社会は現にそういうルールで競争をしている。だから、国内でも同じルールでやるぞ、と言っている。能力の高い子供には報償を、能力の低い子供には罰を。能力の高い学校には報償を、能力の低い学校には罰を。そうやって「人参と鞭」で脅せば、人間は必死になると思っている。人参で釣り、鞭で脅せば、学校の教育能力が上がり、子供たちの学力がぐいぐい高まるとたぶん本気で信じている。そんなわけないじゃないですか。それはロバを殴ってしつけるときのやり方です。子供はロバじゃない。子供は人間です。
でも、これはひとり維新の会だけの責任じゃありません。中教審も文科省も、みんな同じことを言ってるんですから。文科省のホームページを見る、とにかく国際的な経済競争に勝ち残ることが国家目標であると堂々とうたっている。金儲けが国家目的だと、ほんとうに書いてある。
そんな「せこい」動機では人間は努力しません。自分の限界を超えるようなことはしない。それがなんでわからないのか。
日本は世界三位の経済大国ですよ。これだけの経済大国でありながら、世界に対してなんら強い指南力を発揮できないでいる。国際社会で侮られている。それは事実です。でも、それは日本に「金がない」からじゃありません。軍事力がないからでもない。日本に大人がいないからです。国際社会の中の子供だと思われているからです。成功した他国のモデルをどうやって真似たらいいか、それをきょろきょろ探している。最小限の努力で最大限の利益を得るためにはどうしたらいいのか、そればかり考えている。国際社会における威信がそんなに「せこく」て、小利口なふるまい方をする国に寄せられるはずがないじゃないですか。国際社会から十分な敬意を寄せられたいと、本気で思うなら、二一世紀の国際社会を導くような骨太の、雄渾な、品格のある、「世界はかくあるべきだ」というヴィジョンを提示するしかない。国力というのは、そういうものじゃないんですか?マレーシアのマハティールだって、シンガポールのリー・クワン・ユーだって、小国の元首であるにもかかわらず、世界中がその言動に注目していた。経済力や軍事力のせいじゃないですよ。国際社会が傾聴するに足るだけの堂々たるヴィジョンを語ったからです。日本の総理大臣のステートメントに誰も耳を貸さないのは、中身がないからです。どうやったら儲かるのか、どうやったら「バスに乗り遅れずに済むか」というようなことだけ考えている人間の話を誰がまじめに聞きますか。
日本が国際社会で「負けて」いるのは、金儲けが下手だからじゃありません。国際社会を導いてゆくという気概がないからです。「バスに乗り遅れちゃいけない」というような言葉を政治家が口走るということは、自分でバスを設計して、路線を決め、運転し、乗る人を集めるという発想が彼らにはまったくないということを暴露している。すでに他人がルールを決めたゲームの中でどうやってうまく立ち回るかだけ考えている。そんな国の人間の話を誰が聞くものですか。誰がその指南力に服しようとするものですか。
申し訳ないけれど、維新の会の教育観というのはもう時代遅れなんです。それでは通用しない。これまでずっと維新の会の言うようなことばかりやってきたんです。その結果がこうなんです。それを改革すると称して、さらに競争を激化して、恫喝におびえるイエスマンや、自分さえよければそれでいいというようなエゴイストをこれ以上作り出して、いったい日本をどうしようというんですか?
今はもう競争の時代じゃありません。もう一回足を止めてゆっくりと、なぜ日本がこんなになってしまったのかを反省すべき時です。そして、その最大の理由が公共の福利に配慮を向ける成熟した市民を育ててくることに失敗した、という点に求めるべきなんです。われわれ自身が自らの市民的成熟の努力を怠ってきた。だからこそ、日本の子供たちは「こんなふう」になってしまった。これはたしかにわれわれの罪です。だからこそ、その反省を踏まえて、共同体をどうやって再興していくか、次代の担い手を忍耐強く育てていくことが求められている。
子供たちを競争に追いやったり、格付けしたり、「グローバル人材」に育て上げたりすることが今われわれがなすべきことではありません。世界はほんとうに激動しているんです。新しい指導的なアイディアを世界中の人が求めている。
アメリカはこれからどうなるのか?もし来年共和党の、茶会が支持するような大統領が選出されたら、アメリカの世界戦略はどう変わるのか?中国のポスト胡錦濤政権がどうなるか?社会的インフラがこれ以上ほころび、格差がこれ以上拡大したときに中国がどうなるかなんて誰にもわからない。EUはどうなるのか?いくつかの国が脱退して、空中分解する可能性だってある。ロシアはプーチンが出てくる。アメリカの大統領にうっかり国際感覚のまったくない人間が選ばれた場合、プーチン相手で勝負になりますか?米ソ関係は一気に緊張するかも知れない。プーチンなら「北方領土返還」というような提案をいきなり出してくる可能性がある。「沖縄の米軍基地の撤去」を交換条件にするなら、これはロシアにとっては有利な交渉ですからね。そういう「激動」の中で日本はどうふるまうべきか、そういう話を誰かしてますか?東アジア、西太平洋の状況がどう変わるか、まったく予断を許さない状況にあるときに、「国際競争で勝つ」って、何の話をしているんですか?これ日米安保もEUも中国の政体も全部「今のまま」ということが前提での話でしょう。時代が変化しないことを前提に、今の国際社会のルールのままでこれからもずっとゲームが続くという前提で教育を論じている。悪いけどいったい、どこに「時代の変化への敏感な認識」があるんです?「激化」してるのは、国際競争じゃない。構造そのものなんです。維新の会のような「古い」政治装置ごときしみ始めているんです。
申し訳ないけれど、この教育基本条例を特徴づけているのは、「時代錯誤」です。なんとも古めかしい、二〇年位前のスキームのまま教育を語っている。維新の会代表の橋下さんは自分が時代のトップランナーだと思っているでしょうから、こういうことは言われたくないでしょうけれど、教育基本条例については、彼の最大の問題点は「感覚が古過ぎた」ということです。
たぶん、平松さんもご自身の政策は「ちょっと古いかも」って自覚されてると思います。まあ年も年だし、性格的にも割りと保守的な方ですから。でも、橋下さんは自分を最先端を走っていると思っている。一番新しいことをやっているつもりでいる。でも、考えていることはずいぶん古い。「それはもう使えない」ということがわかった道具を最新流行だと思い込んでいる。それに気づいていない。
これからはどうやって共同体を再生させてゆくか、乏しい資源をどうやってフェアにわかちあうか、競争的環境を抑制して、お互いに支援し合い、扶助し合うネットワークをどう構築するかということが喫緊の政治課題となる。そういう歴史的状況の大きな変化が始まっているんです。そんな歴史的激動のときに、「人参と鞭」のような古典的な道具を持ち出してきて、社会的連帯の解体を進めようとする歴史感覚の悪さに僕はつよい不安を感じるのです。
もう時間なので、このへんで終わりにします。これだけ立錐の余地もないくらい人が集まるというのも、平松市長の市政に対する高い評価、今後の選挙に対する期待が反映していると思います。僕は神戸市民なので、選挙は「対岸の火事」なんですけども、平松さんには、穏やかで、忍耐強く、すっと背筋の伸びた目線で、日本の五〇年後百年後を見据えるような射程の遠い政策を語っていただきたいと思っています。

2011.11.25

『百年目』のトリクルダウン

子守康範さんのMBSラジオ『朝からてんこもり』に三ヶ月に一度出演している。今回は「冬の出番」。
日曜に迫った大阪ダブル選挙の話は放送の中立性に抵触するデリケートな話題なので、微妙に回避。
子守さんが今朝の新聞記事から、ユニクロの柳井会長兼社長の「グローバル人材論」を選んだので、それについてコメントする。
柳井のグローバル人材定義はこうだ。
「私の定義は簡単です。日本でやっている仕事が、世界中どこでもできる人。少子化で日本は市場としての魅力が薄れ、企業は世界で競争しないと成長できなくなった。必要なのは、その国の文化や思考を理解して、相手と本音で話せる力です。」
ビジネス言語は世界中どこでも英語である。「これからのビジネスで英語が話せないのは、車を運転するのに免許がないのと一緒」。
だから、優秀だが英語だけは苦手という学生は「いらない」と断言する。
「そんなに甘くないよ。10年後の日本の立場を考えると国内でしか通用しない人材は生き残れない。(・・・)日本の学生もアジアの学生と競争しているのだと思わないと」
「3-5年で本部社員の半分は外国人にする。英語なしでは会議もできなくなる」
これは「就活する君へ」というシリーズの一部である。
私は読んで厭な気分になった。
たしかに一私企業の経営者として見るなら、この発言は整合的である。
激烈な国際競争を勝ち残るためには、生産性が高く、効率的で、タフで、世界中のどこに行っても「使える」人材が欲しい。
国籍は関係ない。社員の全員が外国人でも別に構わない。
生産拠点も商品開発もその方が効率がいいなら、海外に移転する。
この理屈は収益だけを考える一企業の経営者としては合理的な発言である。
だが、ここには「国民経済」という観点はほとんどそっくり抜け落ちている。
国民経済というのは、日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本固有のローカルな文化の中でしか生きている気がしない圧倒的マジョリティを「どうやって食わせるか」というリアルな課題に愚直に答えることである。
端的には、この列島に生きる人たちの「完全雇用」をめざすことである。
老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計することである。
「世界中どこでも働き、生きていける日本人」という柳井氏の示す「グローバル人材」の条件が意味するのは、「雇用について、『こっち』に面倒をかけない人間になれ」ということである。
雇用について、行政や企業に支援を求めるような人間になるな、ということである。
そんな面倒な人間は「いらない」ということである。
そのような人間を雇用して、教育し、育ててゆく「コスト」はその分だけ企業の収益率を下げるからである。
ここには、国民国家の幼い同胞たちを育成し、支援し、雇用するのは、年長者の、とりわけ「成功した年長者」の義務だという国民経済の思想が欠落している。
企業が未熟な若者を受け容れ、根気よく育てることによって生じる人件費コストは、企業の収益を目減りさせはするが、国民国家の存立のためには不可避のものである。
落語『百年目』の大旦那さんは道楽を覚えた大番頭を呼んで、こんな説諭をする。
「一軒の主を旦那と言うが、その訳をご存じか。昔、天竺に栴檀(せんだん)という立派な木があり、その下に南縁草(なんえんそう)という汚い草が沢山茂っていた。目障りだというので、南縁草を抜いてしまったら、栴檀が枯れてしまった。調べてみると、栴檀は南縁草を肥やしにして、南縁草は栴檀の露で育っていた事が分かった。栴檀が育つと、南縁草も育つ。栴檀の”だん”と南縁草の”なん”を取って”だんなん”、それが”旦那”になったという。こじつけだろうが、私とお前の仲も栴檀と南縁草だ。店に戻れば、今度はお前が栴檀、店の者が南縁草。店の栴檀は元気がいいが、南縁草はちと元気が無い。少し南縁草にも露を降ろしてやって下さい。」
これが日本的な文字通りの「トリクルダウン」(つゆおろし)理論である。
新自由主義者が唱えた「トリクルダウン」理論というのは、勝ち目のありそうな「栴檀」に資源を集中して、それが国際競争に勝ったら、「露」がしもじもの「南縁草」にまでゆきわたる、という理屈のものだった。
だが、アメリカと中国の「勝者のモラルハザード」がはしなくも露呈したように、新自由主義経済体制において、おおかたの「栴檀」たちは、「南縁草」から収奪することには熱心だったが、「露をおろす」ことにはほとんど熱意を示さなかった。
店の若い番頭や手代や丁稚たちは始末が悪いと叱り飛ばす大番頭が、実は裏では遊興に耽って下の者に「露を下ろす」義務を忘れていたことを大旦那さんはぴしりと指摘する。
『百年目』が教えるのは、「トリクルダウン」理論は「南縁草が枯れたら栴檀も枯れる」という運命共同体の意識が自覚されている集団においては有効であるが、「南縁草が枯れても、栴檀は栄える」と思っている人たちが勝者グループを形成するような集団においては無効だということである。
私が「国民経済」ということばで指しているのは、私たちがからめとられている、このある種の「植物的環境」のことである。
「そこに根を下ろしたもの」はそこから動くことができない。
だから、AからBへ養分を備給し、BからAへ養分が環流するという互酬的なシステムが不可欠なのである。
柳井のいう「グローバル人材」というのは、要するに「どこにも根を持たない人間」のことである。
だから、誰にも養分を提供しないし、誰からも養分の提供を求めない。労働契約にある通りの仕事をして、遅滞なくその代価を受け取る。相互支援もオーバーアチーブも教育も、何もない。
そういうふうに規格化されて、世界どこでも互換可能で、不要になればそのまま現地で廃棄しても構わないという「人材」が大量に供給されれば、企業の生産性は高まり、人件費コストは抑制され、収益は右肩上がりに増大するだろう。
繰り返し言うが、一私企業の経営者が求職者たちに「高い能力と安い賃金」を求めるのは、きわめて合理的なふるまいである。
だが、そんなことが続けば、いずれ日本国内の「南縁草」は枯死する。
多国籍企業はそのときには日本を出て、「南縁草」が繁茂している海外のエリアに根を下ろして、そこで新たな養分を吸い上げるシステムを構築するだろう(そして、そこが枯れたらまた次の場所に移るのだ)。
後期資本主義の「栴檀」たちは『百年目』の船場の大店と違って、「根を持たない」から、そういうことができる。
誤解してほしくないが、私はそれが「悪だ」と言っているわけではない。
現代の企業家にとって金儲けは端的に「善」である。
けれども、『百年目』の時代はそうではなかった。
私はその時代に生きていたかったと思う。
それだけのことである。

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