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2007年01月 アーカイブ

2007.01.02

柴五郎のこと

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
57回目の新年である。
よく、ここまで死病にも取りつかれず、事故にも遭わず、戦乱や暴動にも遭遇せず、飢餓も悪疫も避けて、生き延びてこられたものである。
地球上60億人類同胞の中で、私のような平坦な人生を生きられた幸運な個体はおそらく全体の5%にも満たないであろう。
いまこの瞬間も世界のあちこちで戦争は続いており、飢餓や病で苦しむ人、貧困や圧制に苦しむ人は数億人を超える。
自分が今こうして屋根のある家で、暖かい布団にくるまって、満ち足りた眠りを享受できること、朝起きると温かい食事が供されることがどれほど貴重なことか、私たちはそのことを忘れがちだ。
そんなことを考えたのは、柴五郎が少年時代を回想した『ある明治人の記録』(石光真人、中公新書、1971/2006)を読んだせいである。
柴五郎のことには『街場の中国論』で少し触れた。
義和団事件のことに論及した中で、当時の日本陸軍のモラルが世界標準からも卓越していたこととを紹介した。
その当時の日本陸軍はまだ「武士的エートス」に領された集団だった。
それを人格的に体現していたのが指揮官の柴五郎中佐である。
柴五郎は「賊軍」会津の出身でありながら陸軍大将になった硬骨の軍人である。
その少年時代を回想した自伝が新書に採録されている。
会津藩滅亡のことを晩年の柴はこう書いている。
「過ぎてはや久しきことなるかな、七十有余年の昔なり。郷土会津にありて余が十歳のおり、幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かれるよと教えられしに、いかなることのありしか、子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず。」
戦いに敗れた会津藩士たちは俘虜として東京に送られ、柴五郎少年もその捕囚の群れに投じられる。
その後、会津藩は67万石は下北半島の恐山山麓に斗南藩3万石に移封される。
「藩士一同感泣してこれを受け、将来に希望を託す」のだが、新領地は実高わずか7千石。柴五郎とその父、兄嫁は極寒の下北半島で絶望的な冬を過ごすことになる。
「落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着の身着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の歳月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれなり。」(同書、7-8頁)
柴少年は必死の手立てを尽くしてこの絶望的境涯から脱して、陸軍幼年学校に入り、やがて陸軍士官学校に進み、その輝かしい軍歴を重ねてゆくことになるのだが、薩長中心に書かれた明治維新史の裏面には、記録に残されなかった「敗残の兵士たち」の絶望と痛みがある。
子母澤寛は函館の戦いの敗戦後北海道の漁師となった彰義隊隊士祖父斉藤鉄五郎の懐旧談を聞いて育った。
新撰組をはじめとする「敗残の兵士たち」への彼の愛惜は、正史から切り捨てられた「敗残者」の側から見た近代日本への異議申し立てでもある。
子母澤寛や藤沢周平の時代小説にはこの薩長に蹂躙され、明治日本の日の当たる場所から遠ざけられ続けた東北諸藩の積年の怨念のようなものがにじんでいる(その点で、関西人である司馬遼太郎とは感覚が微妙に違う)。
私は藤沢周平と同じく、戊辰戦争で負けた庄内藩士、旧新徴組隊士の末裔であり、祖母の父は白虎隊の生き残りの会津藩士であったから、私の中には「負け組」の血が脈々と流れていることになる。
だから柴五郎の感懐は私にとって決して「ひとごと」ではない。
それは私の三代前四代前の父祖たちの実体験である。
私は彼らに対する感謝を忘れてはいけないと思う。
私たちが今このような平和と繁栄を享受できているのは、絶望的な境涯の中で必死に生き延びようとした彼ら先人たちの孜々たる努力の成果を今私たちが受給しているからである。
だが、私たち自身は次世代にために、そのさらに次の世代のために、かれらが享受できるようなものを残すために何か努力をしていると言えるだろうか。
柴五郎翁の少年期の回想録を読みながら、そんなことを考えた。

2007.01.04

「若者はなぜ3年で辞めるのか?」を読む

お正月、特にすることもないので新春早々ゲラを校正。
朝日新聞社から出る教育本「狼少年のパラドクス」の再校である。
ブログ日記から教育関連のものを選び出しただけなので、内容的には繰り返しが多いし、文体もわりと手荒なので、このまま本にするわけにはゆかず、あれこれいじりまわす。
夕方から自由が丘。
等々力在住の兄上と平川くん、千鳥町在住の石川くんという「極楽カルテット」でお正月を祝うべく不二屋書店前に5時集結。
そのまま居酒屋にとぐろを巻いて、ビジネスの話。
平川くんと私は石川くんが3月から始める新規ビジネス、ライブハウス+落語定席「アゲイン」の出資者であるので、ビジネスプランについて詳細をあれこれ論じる。
メニューはどうするのか、禁煙か喫煙可か、クライアントにはどのような年齢層をターゲットにするのか、楽器はどうするのかなどなど。
平川くんと私は開店イベントにすでにブッキングされているようである。
開店のときにはこのブログで告知するので、東京在住のみなさまはぜひともごひいきに。
目蒲線(てもう言わないのかな)武蔵小山駅前のペットサウンズビルのB1Fです(まだ工事中)。
行き帰りの電車の中で城繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか?年功序列が奪う日本の未来』(光文社新書、2006)を読了。
面白いですよと薦められて読んだのだけれど、どうも読後感が「しっくり」しない。
2000年の統計では大卒新入社員の36.5%が三年以内に辞めている。
1992年には23%だから、10年間に1.5倍になった計算である。
そのまま増え続けているのだとしたら、2007年は40%くらいになっているのかもしれない。
たしかにこれは大きな社会問題である。
辞める若い勤め人だけでなく、彼らをそういう立場に追い込む企業の構造にも問題がある。
著者はその両方の原因を指摘するが、リソースを老人に集中して、若者を収奪する構造に主因を見る。
それはどういう構造かというと。
終身雇用・年功序列制がきちんと機能していれば、若いときの薄給は年齢が上がってからの地位と給与の上昇という報酬によって相殺される。
しかし、バブル崩壊以後、経済のグローバル化の荒波の中で、そのような牧歌的な人事制度を維持できている企業はもうほとんど存在しない。
というのは「若い頃の頑張りに対する報酬をポストで与える以上、企業側はポストをどんどん増やさなければならない。定期昇給を毎年実施してゆくためには、売り上げが上がり続けること(少なくとも高い水準での現状維持)が必須だ」(44頁)からである。
今後数十年にわたり黒字経営が続く保証なければ、終身雇用・年功序列は機能しない。つまり、若いときに薄給でこき使われて、そのまま「こき使われ損」で馘首されるか、生涯平社員のままという可能性が出てくる。
社内にキャリアパスが一本しかない以上、その数を減じた管理職ポストの空きを待って、30代40代のサラリーマンが長蛇の列をなしている。
それを見た20代の平社員に企業内における未来についての希望が扶植できるであろうか?
たしかにきわめて困難であろう。
もちろん首尾よく管理職に登って、若い頃のオーバーアチーブを地位と給与で補償される人もいるけれど、「半数以上は“働き損”で終わることになる。彼が受け取るのはポストではなく、やり場のない徒労感でしかない。これが、若者が会社を途中下車する最大の理由だ。」(46-7頁)
この分析はおそらく正しいのであろう。
もちろん、人は金だけのために働くわけではない。
「働き甲斐」というのは金だけではない。
著者は「やりがい」の条件として「担当業務が縦に切り出された形で一任されること」、「予算も含めた権限がセットでついてくる」雇用形態を推奨する。つまりスタンドアロンで、小なりといえども「一国一城」を任されると、若者もやる気になる。
それを可能にするのが年俸制・職務給という「キャリアの複線化」システムである。
それぞれ自分の得意な分野で自由裁量権をある程度任され、その働きに応じて給与を受け取るシステムであれば、仕事にやりがいは見出されるであろう、というのが著者の見通しである。
私はこれを読んでしばらく考え込んでしまった。
これは仕事とそのモチベーションについて書かれた本のはずであるが、この200頁ほどのテクストの中で、「私たちは仕事をすることを通じて、何をなしとげようとしているのか?」という基本的な問いが一度も立てられていないからである。
それはたぶん自明のことだからだ。
仕事をするのは「昇給」のためであり、「やりがい」というのは「職務給」システムのことである。
要するに人間は金が欲しいんでしょ、という若い著者の「クール」な諦念(と申し上げてよろしいであろう)が全体に伏流している。
だが、私は「要するに人間は金が欲しいんでしょ」という「リアル」な人間観そのものが「3年で辞める若者」を再生産しているのではないかと思えてならない。
終身雇用・年功序列が長らく日本的雇用形態として定着してきたのは、それが最終的には努力と報酬の相関という「フェアネス」を保障したからである。
年俸制・職務給が人をひきつけるのはそれが「権限委譲」「自由裁量」というかたちで「信頼」というものを示すからである。
年俸制・職務給というシステムの合理性を著者はさかんに強調するけれど、この給与システムは実はそれほど合理的なものではない。
なぜなら、それは「まだやっていない仕事」に対して俸給を約束するシステムだからである。
ストーブリーグになるとプロ野球選手の年俸契約更改がスポーツ欄をにぎわす。
そのとき高額の俸給だけでなく、「複数年契約」ということについて選手にとって「高い評価を与えてもらった」というコメントをする。
ベテラン選手に対して複数年契約をするということは、「まだやっていない仕事」に、場合によってはかなりの確率で「完遂できないかもしれない仕事」に高額の年俸を約束することである。
もし、ほんとうの意味で合理的な年俸があるなら、それは「次年度」の俸給ではなく、「過年度」の俸給として支払われるべきであろう。
労働者が現に達成した成果に対して支払う限り、そこに「払いすぎ」ということは起こらないし、予想外の活躍をしたにもかかわらず新人だったので「働き損」をしたということも起こらない。
けれども、高いアチーブメントを求める人々は「まだ完遂していない成果」に対する「前払い」という給与形態をやめない。
それはどうしてか。
それは、「完遂できない可能性のある仕事」に対して高額の給与を約束することは、そうでない場合よりもその仕事を完遂する確率が高いということを人々が経験的に知っているからである。
職能給や年俸制が合理的なのはそれが成果の査定の仕方として厳密だからではなく(事実厳密ではない)、「まだ出ていない成果に対して前払いするという「信頼」を与えられると人間のパフォーマンスが高まるからである。
「フェアネス」とか「信頼」というものを頭の悪いビジネスマンは「そんなものには一文の価値もない」と笑って棄てるけれど、実際に人間の労働パフォーマンスが上がるのは、自分の労働を通じて社会的な「フェアネス」が達成できるという希望を持てる場合と、与えられた「信頼」に応えねばという責務の感覚に支えられている場合だけである。
何度も書いていることだけれど、労働というのは本質的にオーバーアチーブである。
オーバーアチーブという言葉には、単に「賃金に対する過剰な労働」のみならず、個人にとっては「その能力を超えた成果を達成すること」を意味している。
というより、「賃金に対する過剰な労働」は労働者自身が「能力を超えた働きをしてしまった」ことの副作用なのである。
だから、もし労働条件というものを「能力に応じた賃金」という「合理的な」ものに設定した場合、私たちの労働パフォーマンスは一気に萎縮してしまうだろう。
労働について考えるときには、「どうしたら能力や成果に応じた適正な賃金を保証するか?」ではなく、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」というふうに問題を立てなければならない。
人間が継続的に活気にあふれて働くのはどういう条件が整った場合か?
そういうふうに問題を立てなければ、「なぜ若者たちは3年で辞めてしまうのか?」という問いには答えることができないだろう。
答えはもう書いたとおりである。
人間は「フェアネス」の実現と、「信頼」に対する応答のために働くときにその能力の限界を超える。
阪神の金本選手は契約更改のときに、「自分の俸給を削っても、スタッフの給与を増額して欲しい」と述べた。
これを「持てるものの余裕」と解釈した人もいるだろう。
けれども、私は違うと思う。
金本選手という人はどういう条件であれば自分のモチベーションが維持できるかを経験的に熟知している。
彼の活躍を「わがこと」のように喜んでくれる人間の数を一人でも増やすことが自身のモチベーションの維持に死活的に重要であることを知っているからこそ、彼は「フェアネス」を優先的に配慮したのである。
ベネフィットを分かち合うことによって、ベネフィットの継続的な享受システムを基礎づける。
これは人類学的な「常識」に属する。
話を戻そう。
老人たちが社会的リソースを独占して、若者の機会を奪っているせいで、日本はこんな社会になってしまった。老人は既得権益を吐き出して、若者に未来を託せ、と著者は主張する。
私はこの主張には一理あると思う。
「フェアネス」が担保されなければ社会は機能しないからである。
ただし、「フェアネス」に対する欲求は年齢とは関係がない。
潤沢に社会的リソースを享受しながら「フェアネス」の必要を痛感している人もいるし、貧しいけれど、「自分さえよければ、それでいい」と思っている人間もいる。
その人が「フェアネス」を希求しているかどうかは、その人の年齢とも社会的な成功とも関係がない。
私が「奪還論」型の議論(「私から収奪したものを私に返せ!」)を好まないのは、「奪還したリソース」を「戦わなかった人間」に分かち与えることを奪還論は論理的に許容しないからである。
必死の思いで戦い獲ったものをどうして戦わなかった人間とシェアしなければならないのか。
若者が収奪されている社会にあってもスペクタキュラーな成功を収めている若者はいくらもいる。
だが、彼らはその成功の成果を貧しい若者たちと共有しようとしているだろうか。
私は若者たちが「フェアな分配」を求めていることには堂々たる根拠があると思う。けれど、それが「フェアネス」に対する原理的な配慮からかどうかはわからない。
著者は能力のある人間であれば若くても相応の給与と待遇を獲得し、能力のない人間は老人であっても放逐されるのがフェアな社会だと考えているようである(「強欲で恥知らずな老人ども」というような措辞から推して)。
若い読者の中にはこれを読んで溜飲を下げる人もいるだろうけれど、私は「能力があるけれど貧しい若者」と「無能で強欲な老人たち」というようなシンプルな二項対立で現代日本の社会状況を説明することはいずれ破綻をきたすだろうと思う。
なぜなら、確実にあと20年経てば「老人たち」はいやでもリタイアして、一部の「若者たち」が「既得権益の享受者」の席に繰り上がるからである。
そのとき「元・若者」たちが「いまこそ社会改革のときだ」と呼号して、自分たちに選択的に与えられた既得権益を放棄して、「貧しい若者たち」とシェアするフェアな社会システムの構築を求めるようになるだろうという見通しに私は与することができないからである。
「無能で強欲な老人たち」に収奪されている若者という自己規定から出発する人間は、いずれ老人になったときに「無能で強欲であること」を自らに義務として課すようになる。そうでなければ「帳尻が合わない」からである。
「不当に収奪しているあいつら」と「不当に収奪されているわれわれ」という二項対立で社会矛盾を論じることに慣れた人々は、ひとたび「収奪する側」に回ったときに、「これまで収奪された分の奪還」(つまり個人的な損得勘定の精算)に忙しくて、社会的フェアネスの実現にはあまり配慮しないものである。
それは社会主義革命のあとの革命党派の官僚たちの腐敗ぶりをみればわかる。
社会的リソースは放っておけば必ず偏る。
それをできるだけうまく「流れる」ような装置をそれぞれがそれぞれの場所で工夫を凝らすこと。
それが「フェアネスへの配慮」ということである。
繰り返し言うように、その仕事には年齢や年収や社会的立場はかかわりがない。
フェアネスは行政指導で全社会的な規模で実施されるべきものであって、個人的にどうこうするものではない、と思っている人もいるだろう。
それは「誰か」がやることだ、と。
社会がそういう人ばかりになったとき、役人たちもまたそういう人ばかり
になったとき(今がそうだ)社会的フェアネスを配慮する「公人」は地を払った。
今必要なのは、「自分のもとに流れ込んだリソース(財貨であれ権力であれ情報であれ文化資本であれ)を次のプロセスに流す」という「パッサー」の機能がすべての人間の本務であるという人類学的「常識」をもう一度確認することである。
私は大学を卒業してすぐ無業者となり、しばらくして平川君と会社を立ち上げて経営者になった。
仕事は愉快で、俸給もたっぷり頂いていたけれど、その会社を私は3年で辞めた。
その会社での自分のキャリアパスの見通しがあまりにわかりやすかったので、ちょっと脱力してしまったのである。
私たちの労働意欲を担保するのは必ずしも「未来が保障されている」ではない。
「未来が未知だから」こそ働く意欲がわくという若者もいつの時代にもいる。
そのことを誰かがアナウンスしたほうがいいと思うので、ここに書きとめておくのである。

2007.01.05

私家版・新春放談

1月3日は恒例のお年賀で多田先生のお宅に伺う。
先生のお宅に向かう前に、吉祥寺でるんちゃんと待ち合わせをして、「お年玉」を差し上げ、かねて久闊を叙す。
るんちゃんは高円寺のリサイクルショップでバイトをしているのであるが、そのお店が朝日新聞の元日の一面記事に取り上げられたそうで、思いがけなく「時の人」の関係者なので、ちょっとだけ自慢そうであった。
このリサイクルショップの原理はいまどきまことに珍しい「左翼の貧者救済ネットワーク」である。
21世紀の日本人は「弱者ベース」「飢餓ベース」での生活設計が必要である、というのが私の年来の(昨年来くらいだけど)持論であるのだが、さすがわが娘、父の著作を読まなくても、その説くところは先取りされていたのである。
「貧乏ですけれど、それが何か問題でも?」という構えを私は「貧乏ベース」という概念に託しているわけであるが、るんちゃんたちはそのあたりの消息をよくご理解されているようである。
なにしろ、るんちゃんと「よーよーちゃん」(誰ですの?)のユニットの名前は「貧乏屋敷」というのだから。
るんちゃんたちはその貧しいリソースを持ち寄り、分かち合い、フレンドリーな相互扶助共同体を築いている。
私が「たまには芦屋に遊びにおいでよ」と言ったら、困惑した顔をしている。
「四五人いっしょでもいいかな?」
え?四五人ですか・・・そ、それは・・・
うちの部屋に四五人を容れる余裕はないけれど、そういうふうにぴったりと身体を寄せ合って生きることで、都会での孤独の生活が伴うリスクをヘッジしているというのはたしかな生活の知恵であると思う。
老いたりとはいえ、私もマルクシアンである。「万国の労働者、団結せよ」という『共産党宣言』のスローガンに対する共感は変わらない。
若き労働者諸君には何よりもまず貧しい者同士で支え合うという基本から出発して欲しいと思う。
貧しい仲間の中の誰かがチャンスをつかんだら、そこから「芋づる式」にその「余沢」に与るというのが貧者のリスクヘッジの基本である。
とりあえず私たちはそうしてきた。
自分が手に入れたものはできるだけみんなで分かち合う。
自分が獲得したコネクションは次にパスする。
自分が切り開いたビジネスチャンスには友人たちを巻き込む。
この原理を30年来律儀に実践してきたという点において、平川くんや私はその語の語源的意味における「コミュニスト」(コミューン主義者)と名乗る資格があるだろう。
フェアな社会を希求することは大切だし、行政に対して弱者支援を求めることもたしかに必要だ。
けれども、その前にまず貧しいもの同士、弱いもの同士で支援し合い、扶助し合うことの方が緊急だろうと思う。
誤解する人がきっといるだろうからもう一度言うが、それは社会がアンフェアでよいということでも、行政が弱者を切り捨ててもよいということでもない。
社会制度がフレンドリーなものに変化するまでには必ずタイムラグがある。その期間は、ひとりひとりがその隣人に対してフレンドリーであることしか具体的にリスクをヘッジする方途はない。
理想的な社会を希求するのはよいことである。
けれども、他人に向かって「お前は理想社会を希求していない」と言い立てる時間があったら、まず自分の身近な現実でささやかなりとも隣人への援助にリソースを割くほうが世界を住み易いものにするためには実効的であると私は思う。
そのことを多田先生は「脚下照顧」という言葉に託して教えられたのだと私は思っている。
るんちゃんと別れてから、少し遅れて到着。
多田先生に年頭のご挨拶。
工藤くん、のぶちゃん、K野くん、王子、山キョー、アッシーらいつもの気錬会の諸君、かなぴょんとウッキーも来ているので年賀のご挨拶を交わす。
恒例の多田先生お手製の鶏のお雑煮(天狗舞じゃぼじゃぼ)を頂き、先生の秘蔵のワイン、ブランデー、日本酒、シャンペンなどをがぶがぶ飲みつつ談論風発。

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明けて4日は恒例の湯元温泉極楽ツァー。
宿につくとすぐ携帯に大瀧詠一師匠からお電話がある。
メールを書いたのだけれど、あまりに長文になったので、電話することにしたというご説明である。
電話口からの師匠のお言葉を拝聴する。
ナイアガラーでない人には想像しにくいであろうが、ジョン・レノンから電話がかかってきたとか、古今亭志ん生から電話がかかってきたときの「畏まりぶり」をご想像願いたいと思う(どちらも物故者なので、その点の驚愕は割り引くとしても)。
ナイアガラーの皆さんには「『新春放談』を山下達郎になって聴いている状態」と申し上げれば、私がどれほど緊張して受話器に向かっていたかご想像頂けるであろう。
元日に私がブログ日記に柴五郎のことを書いたのだが、大瀧さんも実は柴五郎には因縁の浅からぬ人だったのである(詳細は割愛)。
そこから「東北」の話になる。
先年「鈴木晶先生のところのワインセラーを飲み干す会」の席で、高橋源一郎さんと加藤典洋さんと私が「山形がらみ」であることが発覚した。
大瀧さんと山下達郎さんが「伊達藩・南部藩つながり」であることはナイアガラーには周知されていることであるが、どうやら明治維新以来、日の当たらない東北人の「敗者のエートス」はいまだ消滅することなく、脈々と継承されているようである。
大瀧さんによると、大晦日の紅白に東北出身の歌手はゼロだった由。
甲子園の優勝旗が「白河の関」を越えたことがないというのも知られざる歴史的事実なのである。
ブログで公言していることもあって、「私、実はナイアガラーでして・・・」と仕事の話が済んだあとにひそひそとカミングアウトされることはままあるのだが、最近はそれに加えて「実は、私、庄内藩で・・・」というカミングアウトに遭遇する。
維新以来140年、いまさら「庄内藩です」という名乗りにどのようなアイデンティフィケーションの意味があるのかわからないが、それにもかかわらず「お、庄内藩ですか・・・お互い戊辰ではつらい目に遭いましたなあ」とつい手を握り合ってしまうというのはいったいどのような記憶装置のなせるわざなのであろう。
おそらく、
人間は勝利の記憶よりむしろ敗北の経験を深く記憶にとどめ、後代の人々は勝利の経験よりももむしろ敗北の経験の方から豊かな知見を汲みだすからであろう。
大瀧師匠から「福生のスタジオが完成したので、石川くんと一緒に遊びに来てください」とお誘いを頂く。
これはナイアガラーにとっては、エルヴィスから電話がかかってきて「サン・スタジオに遊びに来てよ」と言われたくらいの大事件なのである(エルヴィスに呼ばれた場合は「あの世」に行かねばならぬが)。
新年早々、『新春放談』の放送前に師匠の生声を聴くことができようとは。
まことによい正月でありました。

2007.01.10

負け込むことのたいせつさ

ああ、忙しい。
5日間更新がなかったのはとっても忙しかったからなのである。
6日は合気道の稽古始めと鏡開き。7日は居合の稽古と甲南合気会の役職者会議、8日は甲南麻雀連盟の「打ち初め」。
その間に6本の卒論を読んで、コメントをして返し、その間に原稿を3コを書いた。
その間も容赦なく電話やメールで「原稿はまだか」「ゲラの校正はまだか」「対談の日程は決まったか」「インタビューは何時に行けばいいですか」という督促や問い合わせがやってくる。
今年は仕事をしないぞと心に誓ったのであるが、そうそう簡単に「やです」とは言えないものである。
というのも、この業界では書き手と編集者の人間関係を中心に仕事が進んでゆくので、仕事をお断りするというのは「その仕事はしません」ではなくて、「あなたとは仕事をしません」という属人的な判断として解釈されるからである。
「あんたとは仕事しないよ」と言われたときの編集者の恨みがましいまなざしを見てしまうと、(そのあとの祟りが怖くて)なかなか非人情に徹しきれるものではないのである。
本日はこれから「女子大学教育の哲学的意義」(仮題)という原稿(8000字)を書き上げてから、先日文部科学省で行った私学行政課長との対談を「一人称の訪問記」に書き換えるというややこしい仕事が残っている(これは9日締め切りだったのであるが、10日締め切りの原稿が3本もあったので「ところてん」的に押し出されたのである)。
さて、「打ち初め」の記録をご紹介しておこう。
勝率
1位 弱雀小僧(おおおお何という異変。地軸が歪んだのではないか?) 0.750(4戦3勝)
2位 ラガーマン(東京の試合からとんぼ返りして終盤のみ参戦)0.500(2戦1勝)
3位 会長   0.429(ま、当然の数字ですが)(7戦3勝)
4位 歌う牧師 0.333(3戦1勝)
4位 老師   0.333(3戦1勝)
ほかのみなさんも順調に勝ち星を挙げて、今期未勝利はドクター(ボロ負け)とかんちきくん(今期よりハンドルネームを「かんきちくん」から「かんちきくん」に改名)とシャドー影浦の3人だけ・・・ということになった。
かんちきくんは後ろで観戦していた江さんから、その「へたれ麻雀」と酷評されていた。
「カンキくんな、役満手をチリコであがりよんね。へったれや」(現代語訳すると「カンキ青年は役満(この場合は四暗刻)の可能性のある配牌を七対子で安上がりしてしまう。まことに根性のないことであるよ」)
青年はすべからく客気を誇るべきではないかな、かんちきくん。
勝ち点
1位 会長   104(わはは)
2位 弱雀小僧 87(信じられない)
3位 老師   73(老師、復活の兆しが)
参考記録・今期半荘最高得点
1位 会長 74
(ちなみに06年度の最高記録は3月11日にかんきちくんがマークした半荘96点であった。そういう時代もあったのね、かんちきくん)。
それにしても、麻雀は「負け方」に人柄のにじむゲームである。ひとりひとりの負け方に味がある。
「爽やかに負ける」(ドクター)
「予定調和的に負ける」(弱雀小僧)
「静かに負ける」(エディター)
「微笑みつつ負ける」(老師、さすが法徳)
「天を呪いつつ負ける」(牧師・・・いいのでしょうか、それで)
「知らないうちに負ける」(ホリノ社長)
「往生際が悪く負ける」(会長)
若手の諸君はまだ「負け方」に「味」が出るまで負け込んでいないように思われる。
今後さらに血のにじむような「負け込み」に励むことが期されるのである。

2007.01.12

ぷるぷる

終日原稿書き。
入学センターのA木課長から年末に「1月10日までに8000字お願いしますね」と頼まれたのである。
本学のPRのための単行本というのを出すのである。
ふつうPR素材は無料配布と決まっているが、これを店頭で売ろうという「一粒で二度美味しい」戦略である。
うまくゆくかどうかわからないけれど、とりあえず業務命令であるから、さくさくと「どうして女子大は必要なのか?」ということについて書く。
書いているうちにだんだん腹が立ってくる。
A木課長に対してではなく、「女子大は必要ない」という政治判断を支える経済合理主義的発想そのものに対する憤りで、身体が小刻みにぷるぷる震えてきたのである。
私はもともと男女雇用機会均等法をめぐる議論あたりから、「ぷるぷる」していたのである。
この法改定はご存じの通り、雇用機会における性差別を廃したものであるが、そこに伏流する雇用と性の関係についての基本的な考え方のうちに、どうしても私には飲み込みにくいことがあった。
均等法の前提にあるのは、「男女は同一の社会的リソース(権力、財貨、威信、情報、文化資本などなど)を競合的に奪い合っており、女性はこの競争で不利なポジションを歴史的に強いられている」という考え方である。
話の前段を「真」とすれば、後段も「真」である。
だが、私はこの前段にひっかかるのである。
間違っているというのではない。
「男女は同一の社会的リソースを競合的に奪い合っている」という言明が「事実認知的言明」であるのか「遂行的言明」であるのか不分明である、というところがひっかかるのである。
ご存じでない方のためにご説明するが、「事実認知的言明」というのは言語学者オースチンの用語で「客観的事実を叙述することば」のことである。「いま9時半である」というようなのは事実認知的発話である。
それに対して、「遂行的言明」というのは「あなたを生涯愛します」というような、話者自身がその言明内容が「真」であることを主体的に実現してゆくことを誓約する種類の言明のことである。
その上で申し上げるのであるが、私には「男女は同一の社会的リソースを競合的に奪い合っている」という言明が事実認知的であると同時に遂行的であり、むしろ遂行的であるところに政治的意図があるように思われるのである。
妙に世知に長けた野郎がなれなれしく肩に手を回して「な、ウチダ、そういうもんなんだよ。世の中、所詮、色と欲だよ」というようなことを言われたときのような、「べたっ」とした気持ちの悪さを感じるのである。
この訳知り男の言明は事実認知的であると同時に遂行的でもある。
「人間はさまざまなモチベーションで行動する」という私の「世間知らず」を矯正しようという政略的意図をあきらかに含んでいる。
均等法に私はそれと似たものを感じたのである。
「要するにみなさん、ぶっちゃけた話が、いい服着て、いい家住んで、美味い物喰って、いい車乗りたいんでしょ。ねえ、本音で行きましょうよ、ウチダさ~ん」というようなことを耳元で言われたような不快感を覚えるのである。
たしかにそのような言明は大多数の人間にとっては自明の真理であろう。
けれども、「いや、世の中そういうことばかりじゃないんじゃないの」という人々が少数なりとはいえこの世にはいるし、いないと困る。
人類史上、世の中をこれまでより少しでも住み易くする方向に貢献した人々のほとんどはこの「そうじゃないんじゃないの派」に属する。
性間の社会的差別を廃絶して、女性にサクセスする機会を開放するというのは「よいこと」である。
しかし、それが「すべての人間は権力、財貨、威信、情報、文化資本などなどのリソースを欲望している」という条項への同意署名した、ということにされると私は困る。
そのようなことにうかつに同意署名した場合、私たちの社会がそれまでより住み良くなるか住みにくくなるか、これは誰でもわかる。
生物システムにおいては、欲望は同一対象に集中してはならないからである。
同一の空間に生物がひしめきあって、限定されたリソースを分かち合っているときには、種によって体型や活動時間帯や活動域や食性を異にする方がシステム維持上安全である。
それゆえ、生物はサイズや機能や生態を多様化している。
夜行性と昼行性の生物では同じ空間にいても場所の奪い合いが起こらないし、肉食動物と草食動物の間では食物の奪い合いは起こらない。
トカゲは枯れ葉の動く音には反応するが、銃声には反応しない(トカゲの環境世界には銃声を伴う危険が存在しないからである)。
すべての種は他の種と環境世界を「ずらす」ことで限定された環境資源を最大限に活用し、かつおのれ自身の限られた生物資源をもっとも有利な機能に限定して発達させている。
人間も生物である以上そうすべきだろう。
だから、「社会は同質的な個体ばかりで形成されるべきである」という主張に軽々には与すことができないのである。
たしかに、世界中どこにいっても人間のありようが標準化・規格化されると、生きる上ではいろいろな便益があるだろう。
世界中どこでも乾電池やカセットテープの規格が同じであるように、万人が同じ言葉をしゃべり、同じロジックを用い、同じものを欲望し、同じものを忌避するとしたら、たしかにコミュニケーションは容易になるだろう。
けれども、そのような世界は個体の生存にとっても種の生存にとってもきわめて不利な世界だということを忘れてはいけない。
個体レベルで言えば、それは「いくらでもあなたの代替物がいる」ということだからである。
あなたと同じ欲望を持ち、同じ行動規範に律される個体の数が増えるほど、あなたの唯一無二性は損なわれる。
だって「いくらだって替えがいる」んだから。
現に、労働史的に見た場合、均等法以後、労働者の労働条件は一貫して劣化してきた。
求人が一定で、求職者の数が増えれば、労働条件は切り下げられるのは当たり前のことである。
これは女子労働者への雇用機会の拡大であると同時に、誰からも文句がつかない「政治的に正しい」コストカットだったのである。
均等法の導入に財界が何も文句を言わなかったということから推して、これが労働者を保護するための法律ではなく、労働者をより効率的に収奪するための法律であることに気づいてよかったはずであるのに、メディアはそのことをほとんど報じなかった。
「人間なんてみんな欲しいものは同じだよ」という言明を私が「遂行的」なものではないかと懐疑するのは、この言明が「自明の前提」とされることそれ自体から構造的な利益を得ている人々が現にいるからである。
自明のことを確認しておこう。
グローバル資本主義にとって性差は無意味である。
むしろ性差はできるだけ社会的に無意味であることが望ましい。
なぜなら、グローバル資本主義とは、労働者が規格化・標準化されて、地球上どこでも同質の労働力が確保されることと、消費者が規格化・標準化されて、同一の商品にすべての消費者が欲望を抱くこと(そして、手に入れると同時にその商品に対する欲望を失って、次の同一商品に欲望を抱いて雪崩打つこと)を理想とするシステムだからである。
グローバル資本主義にとって、性差は労働力と消費者の再生産機能を担保する以外には何の社会的意味も持たない。
労働者=消費者が非性的に規格化されるというのは、乱暴に言い換えれば、賃金が半分になり、マーケット・サイズが倍になるということである。
だから、少子化によって労働力の確保が危うくなり、市場が縮小することが死活問題にせり上がってくるまで、グローバル資本主義は性差の解消を推進することができたのである。
しかし、労働条件がひたすら劣化し、消費欲望はひたすら亢進し続け、かつ性差の社会的な価値がひたすら切り下げられた社会に投じられれば、遠からず労働者たちは結婚も出産もしなくなるだろう(そもそもエロス的関係の構築に限られた生物資源を投じなくなるだろう)という蓋然性の高い未来をグローバリストたちは想定していなかった。
そのようないささかインテレクチャリーにチャレンジドなグローバル資本主義者たちに政治経済の舵取りを委ねたことによって、90年代以降の日本は絶対的少子化・絶対的貧困化に向けてゆっくりと自滅の坂道を転がり落ちようとしている。
これほどシンプルな歴史的的シナリオにどうして気づかずに、大学人たちは高等教育をグローバル経済にジャストフィットするかたちに「構造改革」することに孜々として努められてきたのであろうか・・・そう思うと私は恥と悲しみに「ぷるぷる」震えてしまうのである。
女子大の「実学志向」というのは端的に「グローバル経済にジャストフィットするように教育を規格化・同質化・効率化すること」である。
それは短期的には学生たちに換金性の高い資格や技能を賦与することに成功するだろうけれども、いずれ同じような資格や技能をもった労働者たちが大量生産されるから(だって国際規格なんだから)、自動的に彼らの労働条件はひたすら切り下げられてゆく。
いま日本の大学は、学生たちをいくらでも替えの利く国際規格の標準的能力しかもっていないので、いくら安い賃金でこき使われてもそれに耐えるしかないワーキングプアとして社会に送り出す教育工場になるという自滅のシナリオを粛々と実現しようとしている。
私がぷるぷる震えるのもわかるでしょ。
というわけで、私の女子大論の最後はこんなふうに終わる。

社会の均質化・規格化の圧力に対する「否」は、そのような圧力から逃れることのできる「小さな場所」を社会の片隅に構築するかたちで実現されるしかあるまい。
権力や財貨や情報や文化資本が差別化のために過度に機能しないような「逃れの街(アジール)」を同一的な社会の中の特異点として築くこと、それがかろうじて私たちにできることではないか。
女子高等教育機関はその「場違い性」によって日本教育史の特異点であり続けた。私はそういうふうに考えている。
本学の創始者であるタルカット、ダッドレーの二人の女性宣教師が神戸に私塾を開学したのは太政官布告によって「キリシタン禁令」の高札が撤去された直後のことである。そもそもの最初から「そこにいるべきではない」と見なされた人によって本学は基礎づけられたのである。そこで彼女たちが日本の少女たちに講じた英語や古典語や西洋史は当時の日本の女子教育の基準に照らすならば、ほとんど無意味なものであった。
けれどもこのささやかな学舎は間違いなく阪神間のある種の少女たちにとって心身の平安を得ることのできる例外的な場所であった。
それは、この小さな場所には明治の日本社会においてドミナントな価値観が入り込まず、そこで学んでいることに誰も値札をつけることができなかったからである。
彼女たちがそこで学んだ最良のことは、自分たちの社会とは価値観や美意識を異にする「外部」が存在するという原事実そのものであった。
実際に学生たちがその後アメリカに留学したとか、欧米先進国の文物を導入したとかいう具体的な成果のことを言っているのではない。「ここ」とは違う場所への回路が穿たれている「同一的な社会の中での特異点」であったことが本学の日本教育史上に果たした最大の貢献だったということである。私はそう考えている。
だから、私が言いたいことはまことに単純である。
本学は開学のときと同じく、日本社会における「外部」との通路であり続けることをその歴史的使命としている。そのためにも、学生たちを現在の社会において支配的な価値観に追随し、競争的に社会的上昇を遂げるように仕向けるべきではない。むしろ、そのような現代社会のありようにつよい違和感を覚えている学生たちを迎え入れ、彼女たちが学外にいるときよりも学内にいるときの方が心身の平安と解放感を得られるような「逃れの街」であることのうちに使命を見出すべきである。それが私の結論である。

2007.01.13

会議の効用

1時から7時まで、午後ずっと会議。
「午後ずっと会議」という金曜日が年間20回くらいある。
みなさん、これは異常ですよ。
もし一般企業で管理職の人間がぞろりと並び大名のように雁首揃えて毎週六時間も会議をやっているようなことをしていたら、旬日を出でずしてその会社は倒産してしまうであろう。
一般に、会議というのを行うのは、上位者が独断で決めるより、衆議を集めた方がより正しい判断が得られる蓋然性が高いからである。
ただしこの場合、「衆議」といっても実質的な議論をしようと思ったら、会議のメンバーは「最大4人」ということはビジネスの常識である。
4人を超えたとたんに、斬新なアイディアを出し、それを具体化するプログラムを設計するという作業は膨大な時間とエネルギーを要するようになる。
だから「衆議を集めてよい知恵を出す」という目的のためなら構成員5人以上の会議をしてはならない。
しかるに昨日の会議は、最初のものが成員10名、次が20数名、三つめが48名、最後が20数名(よくやるよな、四つだよ)。
つまり、ビジネスの常識に照らすなら、これらはいずれも「衆議を集めてよい知恵を出す」ためのものではない。
では、何のためのものか。
審議される原案が実施された場合に何らかの影響をこうむる可能性のある人間を集めて、「こういうことをやりますけれど、よろしいですね」という「告知」を行い、それに「頷いた」という事実を確認して、そののち機関決定を履行しない教員がでないようにするためである。
この文章を読んで「え?」と思った方、あなたは常識ある人である。
この文章は論理的に二点の間違いを含んでいるからである。
第一に、「こういうことをやりますけれど、よろしいですね」というのは「告知」であって「審議」とは言わない。
会議で議することの90%すでにその前の「瀬踏み・根回し」作業において実施することが決定しており、会議を招集するのは、その「下ごしらえ」作業に参加していない人間に「やりますよ」と公的に告知するためである。
告知するだけであれば、メールで流せば済むことであるが、そうならないにはわけがある。
「こういうことをやりますけれど、よろしいですね」という「告知」に「頷く」という儀礼が必要だからである。
というのは、機関決定はその議案に反対した人間をも拘束するという「常識」が大学というところでは通用しないからである。
これが二つめの非論理的誤謬。
教授会決定したことであっても、「オレは(教授会休んだから)聞いてない」とか「私はだいたいあの案には反対でした」とか「いや、あのときと今では事情が違うでしょう、もう」ということを理由に、機関決定の履行を拒否ないし勝手に割り引きする教員たちが現に存在し、それがしばしば「あ、そうですか・・・」で通ってしまう世界なのである、大学というのは。
だから会議の席で、あれこれと説明の労を取って、なんとかみなさまには機関決定に「頷いていただく」という作業が不可欠となるのである。
これは「周囲の過半数の人間が同意していることには、つい同意してしまう」という日本人の付和雷同体質と、「人間はよく思案していないことでも、いったん頷いたことについては、『私の判断は正しかった』と思いたがる」という自己愛を利用した、ある意味では狡猾な集団統御方法なのであるが、それにしても手間ひまのかかることであるよ。
もちろん組織を上意下達のツリー状組織に改編してしまえば、会議なんか必要なくなる。
兄ちゃんの会社の年商は本学と同じ規模だが(大学の場合は帰属収入のことを「年商」とは言わないが)、会議は月に1回、それも20分程度だそうである。
「どうして兄ちゃんとこは会議やらないの?」と先日露天風呂に浸かりながらその兄に訊いてみた。
兄の答えはつぎの通り。
「だって、新しいこと提案すると、ほとんどの人が反対するでしょ。みんな現状を変えたくないんだよ。だからさ、『いや、やってみてうまくいかなかったら、すぐもとに戻すからさ。実験的にとりあえずやってみましょう』とごまかして強引に導入しちゃうの。最初はぶうぶう文句言ってるけど、二ヶ月もするとみんな新しいシステムにすっかりなじんでしまって、『どうもうまくいかないみたいだから、もとに戻そうか?』と言うと、今度は全員『このままでいい』って反対するんだよ。『このままでいい』っていうのが人間の基本なの。いいシステムだからいいんじゃないんだ。変えたくないからいいんだよ。会議やってみんなの意見を訊いたら、結論は『このままでいい』に落ち着くに決まってる。だから、人事とかビジネスモデルとかは会議に諮っちゃいけない。社長が独断で決めるものなのよ。」
さすがトップマネジメントの方は洞察が深い。
まるで昨日の総文科別教授会の議事をそのままに言い当てているようである(私もカリキュラム改正案につい「別にこのままでいいんじゃないの」と言ってしまったし・・・)。
ま、大学はビジネスやってるわけじゃないから、それでよいのかも知れないが・・・
それにしても会議減らしませんか。


2007.01.14

機密費ベストテン

政治団体の不明朗支出問題が新聞を賑わせている。
「事務所費」「備品・消耗品費」に高額の支出が計上されているにもかかわらず、明細や領収書提出の義務がないので、何に使われたのかわからない。
松岡利勝農相の政治団体は「備品・消耗品」に2年連続で1300万円を計上しているが、明細が示されていない。
政治資金規制法によると「備品・消耗品」にカウントされるのは「机、椅子、ロッカー、複写機、事務所用自動車、事務用用紙、封筒、鉛筆、インク、事務服、新聞、雑誌、ガソリンなど」だそうである。
この費目で年間2000万円超を計上している政治団体もある。
たぶん事務所自動車はロウルズロイスとフェラーリ、事務服はアルマーニのオーダー、ボールペンはフィッシャー、鉛筆はコヒノール、ガソリンはアラブ首長国連邦からの直送なのであろう。
要するにこれは政治団体は「使途不明金」という費目を正式に計上してもお咎めがない、ということである。
法律が「それでよい」と言っている以上、私どもに文句を言う筋はない。
ただ、使途不明金を「事務所費」とか「備品・消耗品費」とかせこい費目でお使いになるのは一国の統治にかかわる選良としていかがなものかと思う。
これはきっぱり「機密費」くらいでいくべきではないか。
この使途不明金の多くは「裏金」として拠出され、「表だってはいえないこと」に使われていることに驚くほど私も世間知らずではない。
政治家諸氏も国政に携わっている以上「越後屋、これはここだけの話にしてくれい」というようなことも多々おありであろうし、アンダーワールドとのおつきあいもおありであろうし、秘匿すべき情報源もお持ちであろう。
そこでひとつご提案なのであるが、それらの支出がいずれも国益増大のためである以上、ここは堂々と「機密費」として支出されればよろしいのではないか。
「機密費」の額を見れば、その政治家の国内政界のみならず国際社会への影響力の大きさが一望で測定できる。
政治家の力量を計ることができるという点で、これほど便利な指標はない。
毎日新聞の見出しは「備品費も高額不透明」とあったが、私はこの書き方には若干不満である。
というのは政治家というのは「不透明」な存在であるべきだと思っているからである。
手の内のカードをすべて有権者にさらすような政治家は政治的ネゴシエーションにおいて大きなビハインドを負う。
例えば、キムジョンイルはその限られた政治的リソースをもっとも効果的に使っている現代政治家の一人であるが、その政治的効果の90%くらいは「何を考えているかわからない。どういう手だてで国益を増大させるつもりなのか有権者(なんていないんだけど)に対する説明責任を負わない」ということから得ている。
政治家の発揮する社会的影響力のかなりは「何を考えているかわからない。次にどういう手を打ってくるか読めない」という点に存する。
どうせ政治資金規制法は底抜けのザル法であるのだから、せめて正々堂々と「使途不明金の額を競う」ことで政治家としての資質をお示し願いたいと思う。
いや、まじめな話、年度末に「機密費総額ベストテン」が発表されたら、私はけっこうわくわくして見ると思う。
現に、閣僚の資金管理団体における備品・消耗品費では麻生太郎くんがトップである。
とはいえ年間924万円じゃスパイ網は組織できないであろうが。

2007.01.15

納豆がない!

納豆がない。
ひとつもない。
これはびっくり。
私のうしろにいたおじさんもびっくりしていて「おい、納豆がないぞ」と奥さんに言っている。
奥さんが説明してくれたので私も聞き耳を立てる。
「『あるある大事典』で『納豆を一日二個食べると痩せられる』って放送したんで、日本中のスーパーの店頭から納豆が消えてしまったんですって」
そ、そんなことがあったんですか。
私は朝食は納豆、生卵、味噌汁、漬け物という「純日本派」であるので、納豆が払底するということの食生活への影響は甚大である。
それにしても、と私は思う。
日本人は凄い。
TV番組で「これは健康によい」とか「これで痩せます」とかアナウンスするだけで日本中の店頭からブツが消えるのである。
石油ショックのときに、日本中のスーパーから洗剤とトイレットペーパーが消えた日のことを思い出した。
なぜ選択的に「洗剤とトイレットペーパー」だったのか、理由は誰も知らない。
「洗剤とトイレットペーパーがなくなる」という風説が流布したせいで、ほんとうになくなったのである。
株価の吊り上げと同じロジックである。
「どこそこの株価が上がる」という風説が流布すると、みんなが買い集めるので、株価が上がる。
株価なんか上がろうが下がろうが私には何の関係もないことだが、洗剤やトイレットペーパーや納豆が買えなくなると、私は困る。
実際そのころは表に出ると、どこのトイレに入ってもトイレットペーパーがなくて、たいへん切ない思いをした。
そのころ丸紅という商社があって、さまざまな必需品の買い占めと価格の吊り上げで社会的指弾を受けていた。
ある日納品でその丸紅に行った。
トイレに入ったら、巨大トイレットペーパー(直径30センチくらいの)が装備されていた。
なるほど丸紅はトイレットペーパーまで買い占めて、内輪では潤沢に濫用していたのかとほとんど感動してしまった。
今なら「写メール」で友人たちに送信するところであるが、30年前のこととてそのように便利なものはなく、私はその直径30センチのロールを証拠物件として鞄に入れて(ウチダさん、それは窃盗では・・・)アーバンに持ち帰り、平川くんや石川くんに見せて「さすが丸紅」と盛り上がったのである(もちろんそのままオフィスのトイレで使用させていただいた)。
閑話休題。
納豆がなくなってしまったのである。
私はからっぽのショーケースを眺めながら日本の付和雷同体質にほんとうに感心してしまった。
もちろん、このショーケースには旬日を出でずして納豆が戻ってきて、人々は納豆のことなどあっというまに忘れてしまうのであろうが、その熱しやすく冷めやすい体質を含めて、日本人というのは
たいしたものだ
と思うのである(司馬遼太郎風の改行の仕方)。
メディア知識人はこういう現象に冷笑的にコメントする傾向がある。
「日本人て、これだからイヤですね。アメリカではこんなことありませんよ。」
私はこういうコメントを聴くと、「そういうあんたこそが典型的な日本人なんだよ」と思ってしまう。
日本人の集団主義というのは、「日本人は集団主義だからダメなんです。その点、アメリカでは個性が尊重されて・・・」という集団主義批判の文型そのものまで定型化するというかたちで出口を塞がれているのである。
もし、ほんとうに集団主義をなんとかしたいと思っているなら、「集団主義って、けっこういいじゃないですか。僕は集団主義大好きですけど。みんなで納豆喰いましょうよ」くらいのことは言って欲しい。
私は日本人の集団主義はどうにもならないと思っている。
どうにもならないのなら、それをどう「善用」するかを考えた方がいい。
例えば、納豆製造であるが、これがもともとたいへん好況な業種で、日本経済を牽引する基幹産業として期待されているという話は寡聞にして知らない。
しかし、この納豆ブームがしばらく続けば(あまり長くは続かないのが残念であるが)、遠からず納豆会社の社長は「納豆長者」と呼ばれ、その檜造りの邸宅は「納豆御殿」を呼ばれるようになるであろう。
同じことを、さまざまな業種について順番に行えば、すべての業界が定期的に年商の拡大に与ることができる。
頼母子講である。
日本人の付和雷同体質を利用して、業績不振業界の下支えをする妙手だと思うのであるが、いかがであろう。

2007.01.16

「不二家」化する日本

菓子メーカー大手の不二家が消費期限・賞味期限の切れた材料を使って洋菓子を製造していた事件は、当初現場のパート作業員の個人責任とされていたが、今朝の新聞報道によると、埼玉工場では7年前から工場長まで含めた工場全体の組織ぐるみで期限切れ原材料の使用や消費期限の付け替えが行われていたことが内部監査で判明した。また食品衛生法基準の60倍の細菌が検出されていた洋菓子についても、工場長は回収指示を出さず、出荷されていた。
調査結果を承けて、大手スーパーは不二家製品の撤去を開始、すでに洋菓子販売は全面休止しており、全国の工場での調査結果でさらに問題が出てきた場合、すでに業績悪化している経営にとって致命傷となる可能性が高い。
この事件は現代日本企業の知的退廃を象徴する出来事だと私は思う。
「知的」退廃というところにご注意願いたい。
倫理観の欠如とかコンプライアンスの不徹底とかマニュアル運用の不備とかいろいろ言われているけれど、そんな上等なレベルの話ではない。
私たちがこの一事から得ることのできる最も価値の高い情報は、日本の経営者のかなりの人々に「倫理的に」問題があるということではなく、「知的に」問題がある、ということである。
たいへんに頭が悪い、ということである。
というのは、どう考えても、消費期限の切れた牛乳や卵を使うことによって浮くコストと、食品衛生法違反で摘発されたり、食中毒を出して営業停止になったり、その果てに倒産する(不二家はたぶん倒産するであろう)リスクを「はかりにかければ」どうふるまうべきかは自明だからである。
この自明なことが「組織ぐるみ」で理解されていなかったということから私たちが推論できるのは、この会社の社員たちは「同業他社との競合上の利益」と「会社そのものの消失がもたらす損失」についての引き算ができなかったということである。
私はこれを現代人(特に男性)に典型的な症状だと思う。
どうしてそう思うのか。
それについては、『少年育成』という本(大阪少年補導協会という渋い団体が出している冊子である)に「父の子育て」という文章に思うところを書いたので、それを採録しよう。

母親の子育てと父親の子育ては「モード」が違う。
母親は子どもを「弱者」と想定している。それは実際に自分の胎内で子どもを育んできた生理的実感がそうさせるのである。「子どもは弱い。」それが母親の育児活動全体に伏流している基調音である。
その結果、母親は「弱くても生き延びることができる」生存戦略を子どものために用意する。具体的には「群れとともにある」ことである。
サバンナの草食動物を見ればわかる通り、弱い動物は群生する。群れがライオンに襲われたときに、十頭の群れであれば、ライオンに捕食される確率は十分の一であるが、百頭の群れに紛れ込んでいれば、ライオンに食べられる不幸な一頭になる確率は百分の一になる。
だから、母親は自分のこどもに「ふつう」になることを強く求める。個性の発現よりはむしろ個性の抑止を求める。できるだけ大勢に逆らわず、群れの中で「悪目立ち」しない個体にとどまることを求める。それは「自分の子どもは弱い」という生物学的確信から導かれる育児方針である。
私はこの母親の育児戦略は太古的な起源を持つものだろうと思う。自分たちの穏やかな生活はいつ「超越的に邪悪なもの」の闖入によって崩壊するか知れないという「システム・クラッシュ」への暗鬱な予感が母親の育児戦略のうちには漂っている。私はこれを「荒天型育児」と呼びたいと思う。
これに対して、父親の育児戦略は「晴天モデル」である。
父親ももちろん自分の子どもが「弱い」という起点においては母親と共通するが、そのあとが違う。父親は子どもを「群れの中での相対的強者」たらしめることを育児の目的とする傾向がある。子ども同士の競争で勝ち残ること。それが父親の子育ての目標である。
父親たちは「子どもたちの世界の外部」というものをとりあえず想定していない。「超越的に邪悪なもの」がこの世界に闖入してきて、子どもたちを喰い殺す可能性を想定していない。ゲームはあくまで「アリーナ」の中でアスリート同士によって競われるものであって、競技場そのものが「ゴジラ」に踏みつぶされるときにどうやって生き延びるか、というような問いは子育てする父親の脳裏には去来しない。
私はこの二つの育児戦略は相補的なものであって、どちらかを選べというものではないと考えている。どちらも子育てには必要なものである。
とりあえず私たちはシステムの中で同類たちとの生き残り競争に参加せねばならず、それと同時にラットレースがその中で行われているシステムそのもののクラッシュに対する備えもしておかなければならない。
国際関係論では、このラットレースで負けることを「リスク」、レースの行われるアリーナそのものが消失するような規模の破局に際会することを「デインジャー」と呼ぶ。予測可能・考量可能な危険と、予測不能・考量不能の危険。この二種類の危険を私たちは生き延びる上で勘定に入れておかなければならない。
育児とは尽きるところこの二種類のリスクヘッジを適切に行って子どもを生き延びさせることである。
現代日本の育児戦略に異常が生じていることは、どなたも分かっているはずであるが、どこに異常があるのかはよく見えない。これは父親主導の「晴天型モデル」がドミナントな育児戦略となって、母親主導の「荒天型モデル」が発言力を失ってきたことの結果だと私は見ている。つまり、「システム内競争」に育児リソースの過半が注がれ、「システム・クラッシュのときに生き残るための資質の開発」にはほとんどリソースが割かれないということである。
先ほども書いたように、父親は子どもを「相対的強者」たらしめようとする。それは言い換えると、誰でも努力さえすれば競争における相対的優位に立てると父親が信じているということである。受験や、就職や、配偶者の獲得や、出世といった無数の競争に私たちはさらされているが、私たちがこのような競争に熱中できるのは、「日本というシステム」そのものは当面安定的に継続してゆくだろうということについての信憑が成り立っているからである。私はこの楽観を「晴天型モデル」と言っているのである。

まだまだ説教は続くのであるが、とりあえずこのへんにしておこう。
お読みになった方はおわかりであろうが、不二家社員の頭にあったのは「同業他社との競合」だけであり、そのラットレースでの相対的優位だけであった。
そのレースでの競争に夢中になっているうちに、レース場の外にも世界があり、レース場の外にはもう一つ次数の高いルール(たとえば食品衛生法)が存在するということを忘れてしまったのである。
だが、不二家の失敗を笑う資格は日本人にはない。
私たちはみんな似たり寄ったりだからである。
大学は「大学淘汰」に夢中になって、そもそも学校教育が何のためのものかという根本の問いを忘れている。
「不二家」化する大学がいずれ続々と出てくるだろう。
政治家だって似たようなものである。
これについては先の書き物の続きを付け足しておこう。

「日本というシステム」がクラッシュするときに、私はそのカオスを生き延びていけるか?そのような破局的状況のときに生き延びる役に立つどのような資源を私は持っているか、あるいは開発しつつあるか?という問いを切実なものとして引き受けている子どもたちは今ほとんど存在しない。しかし、それは、戦後60年間の平和と繁栄のコストとして引き受けねばならないだろうと私は考えている。
絶えず国家システムの崩落や通貨制度の解体や隣人によるテロや略奪の可能性を勘定に入れて行動しなければならない国民はたしかにデインジャー対応能力は高まるだろうけれど、不幸な国民である。
私たちはそのようなデインジャーの可能性をほとんど考慮する必要がないまま半世紀以上を過ごしてきた。その意味では私たちは幸福な国民であると言わなければならない。だが、今、日本人がデインジャー対応能力の開発を組織的に怠り、おそらくシステム・クラッシュが訪れたときに生き延びられないほどに脆弱になってしまったのは、あまりにも長く続いたこの平和と繁栄の代価である。
勇ましい核武装論や九条改定論が出てくるのは、この平和と繁栄に対する苛立ちのひとつのかたちだろうと私は思っている。「ちょっと戦争でもしてみるか」という気分に一部の男たちはなっている。この「ちょっと戦争でも・・・」という気楽なマインドこそ「平和ボケ」のもっとも重篤な病態なのである。このようなことを言い募っている人々はこの世には「デインジャー」というものがあるということをたぶんもう忘れている。戦争はコントロール可能で、愛国心の発露と市場の賑わいと税収の増大をもたらす「イベント」くらいにしか彼らは考えていない。
いつの世でも母親たちが戦争に反対し、父親たちがあいまいな態度を示すのは、戦争で真っ先に死ぬのが自分の子どもであるということを母親たちはほとんど確信しているが、戦争があっても自分と自分の家族だけは死なず、自分の住む街だけは被害をこうむらないと父親たちが何の根拠もなしに思い込んでいるからである。

不二家の没落を笑っているうちに、不二家をも含めた日本的システム全体が「不二家」だったということに私たちは遠からず思い知らされるであろう。

と書いて投稿してから、日課の「おともだちのブログ日記めぐり」で最初に開いたヒラカワくんのブログに私が今日書いたこととほとんど同じことが(違う主題をめぐってであったけれど)書いてあったのでびっくり。
わお。

2007.01.18

がんばれ!私

忙しい。
いや、わかっている。
私が悪いのである。
仕事を引き受けるからいけないのである。
仕事を断れないのがいけないのである。
私だって生身の人間である。三日に二回締め切りが来るような生活をしたらいずれ命を縮めることになることは本人だってわかっている。
だから、基本的には新規のお仕事はすべてお断りしているのである。
しかし、「XXXの件についてぜひウチダさんのご見解をお訊きしたい」と水を向けられると、根が死ぬほどおしゃべり体質の私の中にむらむらと「あああ、しゃべりたい」欲動が勃発するのである。
例えば、
「父親の子育てについてどう思いますか?」とか
「団塊シニアの末路はどうなると思いますか?」とか
「村上春樹って、どうしてあんなに朝ご飯を詳しく書き込むんですか?」とか
「橋本治の文学性って何でしょう?」とか
「女子大なんか必要ないってほんとうですか?」とか・・・そこに水を向けられると「いや、それはね・・・」と語りださずにはおられないトピックというものがあり、心得のある編集者はそういう「ツボ」をピンポイントで衝いてくる。
一つ一つはそれほど長くないから、まあ、書けるだろうと引き受けるが、塵も積もれば山となる。
そこに養老孟司先生との対談本のゲラが届き(「天才は忘れたころにやってくる」)、大谷高校で90分しゃべった講演録のゲラが届く(「転載は忘れたころにやってくる」)。
そ・れ・だ・け・な・ら・ば・ま・だ・い・い・が(@江口寿史)
一昨日は大学院の打ち上げ宴会、昨日は会議が二つ、今日はゼミ4年生生の宴会、明日は恒例の午後全部会議日、明後日からはセンター入試。来週は京都造形大に講演に行き、フジモトさんと歌舞伎を見に行き、ラジオカフェの創立記念パーティに上京し、下川正謡会の新年会までに『鶴亀』の舞囃子の道順を覚え、翌週の博士論文の口頭試問のために数百枚の博士論文を熟読玩味せねばならない。そして来週末からは本番の大学入試が始まる。
『街場の中国論』をなんとか2月末までには書き上げるつもりでいたが、果たしてミシマくんとの約束は果たせるのであろうか・・・
今日もこれからグリーンカレーを仕込み、橋本治先生の新作の書評を書き、明日の人事教授会に出す推薦書を書き、ゼミ生たちを迎えるべく家の掃除をしてから授業に行かねばならない。
がんばれ!私(@矢部智子)

2007.01.20

さよならマルクス

教育再生会議の第一次報告案がまとまった。
主な論点は
(1)「ゆとり教育」を見直し、授業時間数を増加
(2)いじめる子どもには「出席停止」措置。体罰に関する基準の見直し。
(3)高校で奉仕活動を必修化。
(4)教員免許制度の厳密な運用で、不適格教員を排除。社会人教員を大量採用。企業から学校へ課外授業講師派遣。
(5)教育委員会、学校を外部評価。
(6)家族や古里の価値を考える機運を効用。
などである。
要するに、「学校の中」と「学校の外」を同じ基準で律するということである。
これまで学校には世間には通用しない「学校だけのルール」があった。
世間は弱肉強食・競争原理のガチンコ・ルールで運営されている(はずである)のに、学校はそうなっていない。
そういうローカル・ルールはなくして、グローバル・スタンダードでいこうじゃないか、ということである。
どこかで聴いたような話である。
そう、これはあのなつかしい「小泉構造改革」「グローバリゼーション」の教育ヴァージョンである。
どうして、学校には学校のルールがあり、それは世間のルールと違っているのか、それには何らかの理由があるのではないか、という疑問は教育再生会議の委員諸君の頭にはどうやら浮かばなかったようである。
どうして公教育制度というものができたのか、それはほんの150年ほど前のことであるが、その理由をみなさんすっかりご失念のようである。
公教育制度ができたのは、弱肉強食・競争原理「世間のルール」から子どもを守るためである。
委員のみなさんは『資本論』という本を読んだことがおありだろうか。
19世紀なかばのイギリスの児童労働状況について、マルクスはあるレポートを引用している。
「1866年の児童労働調査委員会の最終報告にはこう書かれている。『不幸にして証言全体から明らかになることは、男女の子供を、誰にもましてまず親から守る必要があるということである。』児童労働一般、そしてとくに家内労働を際限なく搾取するシステムは『幼く弱い子供たちに対して、親が自制心も節度もなく身勝手で容赦ない権力を行使することによって維持されている。』」
ランカシャの工場での児童労働については次のようなレポートをマルクスは引いている。
「幼い児童の小さくて器用な指がなによりも要求されたので、すぐにロンドン、バーミンガム、その他のあちこちの教区の救貧院から、徒弟を連れ出す習慣ができあがった。幾千も幾千もの幼い寄る辺なき子供たちが北部に送り出されたのであって、その年齢は七歳から十三歳ないし十四歳までであった。雇い主は、自分の徒弟たちに委嘱を与え、工場付近の『徒弟小屋』に泊まらせるのが慣わしであった。仕事を監視するために、監視人がおかれた。彼らの関心は児童を極度に酷使することにあった。(・・・)多くの工場地帯、ことにおそらくランカシャでは、こうして工場主に委ねられた無邪気で孤独な児童たちに、最も凄惨な虐待が加えられた。彼らは過度の労働によって死の淵まで追いやられた。」(『資本論』第一巻)
明治維新の頃のイギリスの話である。
1857年におけるリヴァプールの有産階級の平均寿命は35年、労働者の平均寿命は15年であった。
これはもちろん幼児死亡率が高かったせいもあるが、それにしても労働者は若死にしたのである。
マルクスを「資本は生きた労働を吸い取ってはじめて活気づく吸血鬼である」という反資本主義の論へ導いた動機の一つはこの児童労働の実態を前にしたときの彼の憤りであった。
公教育制度が導入されたのも、それと同じ理由からである。
それは「子供を、誰にもましてまず親から守る」ために創られた。
「親」というのは「世間のルール」のことである。
自分の子供を「商品」とみなし、それにどのような「付加価値」を与えれば、「労働市場」でどれだけの値段で売れるかを優先的に配慮するような意識のありようのことである。
公教育の第一の存在理由はそのような弱肉強食の競争原理から子供を守ることであったし、今もそうであると私は思っている。
教育再生会議の結論は、それとは逆に、学校教育の中に競争原理を導入するということである。
子供も教師も教育コンテンツも、すべてを「商品」として「市場」の中で競合させ、コストパフォーマンスのよいものだけが生き残り、そうでないものは「廃棄」される。
国内のすべてのシステムをグローバル資本主義に合わせて再構築しなければ、国際競争に勝ち抜けないというのがその論拠である。
だが、すべての国家を「市場」の中で競争させ、コストパフォーマンスのよいものだけが生き残り、そうでないものは「廃棄」されるというルールは誰が作って、誰が了承したのであろうか?
そのルールを国際基準にすることによって、いったい誰がどのような利益を得るのであろう?
そういう問いを立てる知的習慣はもう日本のエスタブリッシュメントにはない。
教育再生会議の報告を読んで、日本人がマルクスを読む習慣をほんとうに失ってしまったのだということがわかった。

2007.01.21

納豆疑獄とメディアの凋落

あら、納豆がダイエットに効果的というのは「捏造」だったですね。
テレビで「納豆を一日二個食うと痩せる」と言っていたので、本当だと思ったという善男善女のみなさんはこの機会に「メディア・リテラシー」ということの必要性を学ばれたということでよろしいのではないでしょうか。
納豆、身体にいいし。
テレビは末期であるということをつねづね申し上げているが、この事件は「もう最末期の症候」と申し上げてよろしいであろう。
今回の事件について、関西テレビの編成局長は記者会見で、どこのプロダクションが製作したのか「知らない」し、関西テレビのプロデューサーが捏造を承知していたのかどうかも「知らない」と答えた。
そうなんですか。
テレビ番組は勝手に下請けの製作会社が作っていて、放送している局は誰が何を作っているのか知らないし、内容の真偽を検証するシステムもないまま垂れ流している、と。
当の編成局長がそう言っているのであるのであるから、そうなのであろう。
この納豆番組については番組放送前に大手スーパーに対して、納豆業界から「近日中に納豆が大量に売れますからおおめに発注しておいてください」という告知があったらしい。
この番組ひとつで納豆業界が短期間に莫大な利益を上げるということを関係者たちは見越していたということである。
「近いうちに納豆が爆発的に売れますよ」という「インサイダー情報」はもちろんテレビ側から業界に流れた。
この事前の情報提供によって納豆業界は材料の仕入れとか生産ラインへの増員とかで急増する需要に対応する準備ができたわけである。
これまでも番組を面白くするために金を払って暴走族に暴走させてみたり、犯罪の現場を撮影したり、別人になりすましてインタビューを受けたりということは何度もあったが、テレビが嘘のデータを流すことで、特定の企業が短期間に巨額の利益を得るというようなことはなかった。
テレビ放送のせいでたまたま業界が利益を得たというのではなく、利益を得ることを業界が放映前にすでに見込んでいたということになると、これはある種の詐欺である。
おそらくこの事件はテレビが意図的に視聴者に虚偽の情報を伝えて、巨額の利益を一部の民間企業にもたらした本邦最初のケースである。
新聞は「真実よりも視聴率がだいじ」とか「またもやらせ」というような定型句で報道しているが、これは「番組関係者に偽の失恋経験談を語らせる」というようなフェイクと同列に類別できる事件ではない。
テレビが主体的にコミットした犯罪である。
ことほどさようにテレビの「メルトダウン」は急速に進行している。
私たちが事態の深刻さに気づかないでいられるのは、テレビ自身は決してテレビの衰退に言及しないし(当たり前である)、新聞も言及しないからである(毎日以外の新聞はテレビ局を系列会社に持っている)。
テレビは広告出稿の激減による制作費の切り下げとスタッフの劣化については何も報道しない。
新聞は新聞購読者の減少や、広告出稿の減少や、新聞の社会的影響力の低下について分析しない。
メディアはメディア自身の没落ついては決して報道しない。
私たちはメディアの没落の進捗をメディアが「何を報道しないのか」を吟味することを通じて推察するしかない。


2007.01.22

大学漫画を読む

センター入試の二日目の理科の試験監督が当たっているので、日曜日だけど、冬空の下を昼から大学に出かける。
学長、入試部長、大学事務長、入学センター課長とご挨拶もそこそこに前期試験の志願者数をお訊きする。
前年比8%減。
本学を第一志望にしている学生のうち相当数を秋季入試でもう取ってしまったので、一般入試の目減りがこの数字で収まったのは善戦といってよいであろう、と総括。
各大学の志願状況がネットで公開されているが、どこもたいへんな苦戦を強いられている。
ふつうに考えるとある大学の志願者が減った分だけ、他の大学の志願者が増えて、トータルではゼロサムになっているはずだが、そうではない。
大学全入時代であるから、「滑り止め」にいくつも大学を受ける必要がないのである。
以前は7、8校受験するのが当たり前であったが、今年は自信のある受験生は2,3校にまで絞り込んでいる。
だから、志願者実数は5%減だが、受験生の延べ人数は激減するということが起こる。
可能性としては全大学が前年度比減ということだってありうる。
現に、ほとんどの大学が志願者を減らした。
志願者全入でも定員割れというところも多い。
そのほとんどは「滑り止め」に受ける志願者であるから、志望順位の高いところに受かったら、もうそこには来ない。
蓋を開けてみたら、学科の入学者が数名・・・というようなところも出てくるだろう。
こういう大学の対応策はどうしたらよいのか。
大学そのものを廃校にしたくなければ、収入に合わせて事業規模を縮小し、教職員を減員し、人件費を切り下げるしかない。
ビジネス的にどうなるかということは別にして、これから大学院に進学して研究者になりたいという人間はかなり減ることは確実に予測できる。
大学教員ポスト数が減るだけでなく、教員給与もかなり切り下げられるはずだからである。
「三日やったら止められない」と言われた大学教員だが、遠からず「デモシカ教員」が主流となるであろう。
でも、これは今に始まったことではない。
現実に、1960年代までは「大学院に行く人」というのは「大学院に行くくらいしか能がない」変わり者であり、大学教員の給与も社会的地位も相対的にはかなり低いものであった。
1966年に高校の同期だった新井啓右くんがある日私に「学者になるのは止めたよ」と告げたことがあった。「どうして?」と訊いたら、「だって給料信じられないくらい安いんだ」と言っていた。
新井くんの家は「華麗なる一族」であり、一族に学者はいない。
彼が学者になりたいと言ったら、父親が知り合いの大学教授を家に連れてきて彼に会わせてくれた。そのたたずまいを見て「大学教授って、こんなに貧相なものなのか・・・」と新井くんはびっくりして、進路変更してビジネスマンになる決意をしたのである(その後やっぱり大学院に行ってしまったが)。
そういう風潮が一変して、大学教授がいきなり「あこがれの職業」になったのは、1960年代半ばから始まった「駅弁大学」(@大宅壮一)創成のせいである。
60-70年代にかけて、日本中で大学が新設された。怒濤のように。
1920年に日本に存在した大学は20である(京城帝大と台北帝大を日本の大学に数え入れるなら)。1946年の学制改革のときでようやく70校あまりである。
それが1970年には大学短大あわせて1000校近くまで急増したのである。
信じられない速度である。
私が大学院に入った頃、10歳くらい上の先輩たちの就職状況を聞くと、早い人は修士課程在籍中に地方大学からスカウトが来て、博士課程のうちに全員が「はけた」そうである。
まことに信じがたいことだが、フランス文学者が「飛ぶように売れた」時代があったのである。他の「実学」分野においておや。
需給関係の原理により、大学教員の給与は高騰し、労働条件は限りなく優雅なものになった。
そういうことになると、「大学教員は有利な就職先だ」というふうに考えて、(以前であれば中央省庁や一流企業に行った)秀才たちが大学院に集まるようになった。
ご賢察のとおり、どの業種も受験秀才が集まるようになると、あまりよいことはない。
彼らは「昨日儲かった商売なら、明日も儲かるだろう」というヒュームもびっくり帰納法的推理によって身の振り方を決めるような方々であるから、知的ブレークスルーというようなものとは宿命的に無縁である。
秀才たちの府となることによって、日本の高等教育はその「終わりの始まり」を迎えた。
そんなこんなで(おお豪快なまとめ)、大学メルトダウンの時代を私たちは今迎えているわけであるが、大学がこういう修羅場になると、もう受験秀才たちは日本の大学院には来ないようになる。
優秀な方々はハーバードとかMITとかスタンフォードの大学院に行かれるだろうし、手堅く出世を望む方は官庁や上場企業に行かれるであろうし、もっと手早く金儲けがしたい方は外資系の金融とかネット起業とかで巨富を得る道を選ばれることであろう。
みなさまの健闘を祈念したい。
ともかく、その結果、日本の大学の大学院研究室はふたたび1950年代末のような「デモシカ教員」たちの巣窟となる。
その結果、日本の学問水準が一気に下がることになるのか、それとも食えなくてもいいから、大学で研究できさえすればいいですというへんてこな人間ばかりが残って、大学がすごく怪しげな場所になるのか、それはわからない。
私としては大学がふたたび社会的不適応者の巣窟となり、「お天道様がまぶしい」ような生き方をする方が日本のためにはよいような気がする。
るんちゃんお薦めの『もやしもん』を読むと、日本の若い人たちの中には「めちゃくちゃ怪しい人たちばかりが跳梁跋扈している大学」というものにそれなりの夢を抱いている方がたがそれなりの数いることが知れる。
『もやしもん』は某農大のバイオ研究室に蟠踞するマッドサイエンティストたちの青春群像である。
そのような学生生活のありようを今の若者たちの一部が肯定的に受け止めているとしたら、大学に希望はあると私は思う。
数年前に一世を風靡した『動物のお医者さん』も某大学獣医学部に君臨する非常識きわまるウルシバラ教授に振り回される若きサイエンティストたちの姿を描いたものだった。
『のだめカンタービレ』も某音楽大学で社会的成熟度ゼロのシュトレーゼマン先生に振り回される若き音楽家たちの困惑と成長を描いたものだった。
意外なことに、この「大学淘汰」の時代、「大学の知的メルトダウン」の時代に、一部の若者たちは「わけのわかんない先生に振り回されて過ごした、いかなる経済合理性とも無縁な不思議な大学生活」をたいへん好意的に描いているのである。
私はこの好尚はなかなか健全ではないかと思う。
今大学教育を語る人は、国際競争力とかグローバル資本主義向きの人材育成とか産学地連携による地場産業の浮揚とかいうビジネス・オリエンテッドな話しかしない。
だが、「大学漫画」は日本の若者がいま大学に求めている「夢」を表象したものである。
もし、真にビジネス・マインデッドな大学人であれば、まず『もやしもん』と『のだめ』を熟読玩味するところからマーケットリサーチを開始するであろう。

「げ」の一日

ゼミ生のH瀬くんのお父上が亡くなったので、部長会を休んで西神中央に告別式にでかける。
昨夜ゼミ生たちにMLで回したけれど、急な話だし(こういうことはだいたい急な話なのだが)試験期間中ということもあって、参列したのはH井くんひとり(よく来てくれたね。ありがとう)。
学長からの生花が飾ってあり、学長と学科長から弔電が届いていた。形式的なことかも知れないけれど、こういう気づかいはやっぱりたいせつだと思う。
もう二ヶ月がんばってH瀬くんが卒業する姿を見たかっただろうけれど、詮無いことである。ご冥福を祈る。
芦屋まで戻って、携帯の電源を入れるとすぐに教務課長から電話。
神戸海星の校長先生たちがさきほどからお待ちです・・・
げ。
2時半に約束していたのだ。
時計を見るとすでに3時。
ひえ~。
車を飛ばして大学へ。
1時間遅れで登場して、平身低頭してお詫びする。
8月の講演の打ち合わせである。
教務課の諸君がコーヒーやケーキを出して、女学院のカレンダーなどを差し上げて部長の失態をカバーすべく必死に応接してくださったようである(ありがとね)。
神戸海星は亡き川崎ヒロ子さん(弱雀小僧の愛妻)の母校で、お勤め先であったし、本学の山内祥史学長が退職後学長をされていた因縁浅からぬ学校である。
私の許されざる遅延にキリスト者らしいにこやかな赦しの笑みをもって応じてくださった。
お二人とも私の本をお読みくださっているということなので、お詫びのしるしに本棚からお好きな本をお持ち下さいと申し上げたら、森田校長先生は『他者を死者』を、もうお一人の堀内先生は『九条どうでしょう』をお選びになったので、さらさらとネコマンガを描く。
渋いチョイスですね。
にわか雨が降ってきたので、車で芦屋川までお送りする。
家に戻ってやれやれと喪服を脱いでいたら、携帯がぴーぴー鳴る。
げ。
下川先生のお稽古日だった。
これも忘れていた。
ソッコーで御影へ。
着いたら、飯田先生が『胡蝶』の舞囃子のお稽古の最中。
帯刀さんの『藤戸』と大西さんの『船弁慶』の地謡をつけてから、大西さんと新年会の『花筐』(「はながたみ」と読むのだよ)の素謡のお稽古をして、みなさんがお帰りになってから8時まで『鶴亀』の舞囃子の稽古。
家に戻ると8時半。
「げ」の多い一日であった。
アマゾンから『北京の55日』が届いている。
伊丹十三が柴五郎中佐を演じているのである。
この映画に出演することになった経緯については伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』に詳しいが、映画のギャラで「ジャギュア」を買ったという話だけが印象に残っていて、彼が演じた柴五郎という人物については何もコメントしていなかったように思う。
これから映画を見て、伊丹十三の柴五郎理解について考えてみたい。
そういえば、今日、芦屋と西神中央への往復のあいだずっと村上兵衛の『守城の人』(柴五郎の伝記)を読んでいたのである。
柴五郎は陸軍幼年学校の第一世代であり、村上兵衛は陸軍幼年学校最後の生徒である。
村上兵衛は谷川雁とともに吉本隆明の『試行』の最初期の執筆者の一人であった。
『自立の思想的拠点』から『守城の人』まで、40年かかって私は16歳のときと同じところに還ってきたようである。
「進歩がない」と言うべきなのか、「三つ子の魂百まで」と言うべきなのか。

2007.01.24

道頓堀で芝居見物

忙中閑あり。
「魔性の女・ほんとはいいやつ」本願寺のフジモトくんにチケットを取ってもらったので(それにしても長いミドルネームだな)道頓堀の松竹座へ歌舞伎を見に行く。
團十郎(弁慶)、藤十郎(判官)、海老蔵(富樫)の『勧進帳』と、藤十郎(忠兵衛)と秀太郎(梅川)と我當(八右衛門)の『封印切』と、翫雀・扇雀兄弟の『毛谷村』。
私たちの世代の人間にとって「扇雀」と言えば、今の藤十郎のことであり、鴈治郎と言えば『浮草』と『小早川家の秋』の鴈治郎のことである。
むかし「扇雀飴」という飴があり(まだあるのかしら)、若き中村扇雀がにっこり笑って宣伝していた(食べたことないけど)。
こういうふうに名前がどんどん変わってゆくというのはよい習慣であると思う。
大きな名跡を継ぐと、そのあと芸が変わる。というか芸が変わらないと世間が許さない。
それだけでなく、「扇雀」と言っても誰のことを言っているのか分からないというあの名称上の混乱をどうも観客たちは楽しんでいるような気がする。
というのは、その名跡をどこまで遡って思い出せるか、ということが観客が舞台から汲み出す快楽と相関しているからである。
「海老蔵」と聞いて、私がまず思い出すのは先々代(十一代目市川團十郎)の九代目海老蔵の顔である。それから先代の海老蔵の顔を思い出して、当代の海老蔵にたどりつく。
もちろん名跡といっしょに芸風も伝承されるから、長く舞台を見ている観客は今目の前にいる役者の周りに先代先々代のオーラがかかって、それらが輻輳した「交響楽」のようなものを聴き取っているはずである。
『成駒屋!』という大向こうからの声もよく考えてみると屋号であるから、成駒屋に帰属する古今すべての役者を含めての包括的名称である(ジョン・レノンに向かって「よ!ビートルズ!」と呼びかけているようなものである・・・違うかな)。
カテゴリー・ミステイクのようだが、これはやはり、個人名ではなく、一種の団体名で呼びかけることによって、観客が役者にある種の「敬意」と「保護」の「贈りもの」をしていると考えてよろしいのであろう。
昨日は屋号を間違えて大きな声を掛けているおじさんが横にいて、フジモトくんは「屋号がちがうぞ~」と低い声でつぶやいていた。
『勧進帳』を見るのは実ははじめてである。
能『安宅』と比べると、「歌舞伎的なもの」とは何か、ということがなんとなくうかがい知れる。
海老蔵の富樫が名宣をあげるときの詞章は『安宅』のままである。「かように候者は加賀の国富樫の何某にて候」。
囃子も似たような感じで始まるのだが、そこに三味線が入る。
地謡は『旅の衣は篠懸の露けき袖やしをるらん』と謡うのだけれど、謡曲ではなく、もっと甲高い声である。
老松は三本描いてある。幕はあるけれど橋掛かりはなくて花道から役者は登場し、切戸口も切ってある。
勧進帳を読み上げたり、山伏の由来を尋ねたりというあたりは『安宅』と同じである。
どこが違うのかというと・・・能と歌舞伎の比較をしても仕方がないけれど、私が思うには、歌舞伎はその起源において、役者一人で「シテとワキと狂言」(言い換えると、亡霊と聖職者と道化)を演じられなければならないという条件が課せられていたのではないかと思う。
だから能楽のシテ方を評価する場合と歌舞伎役者を評価する場合では度量衡が違う。
歌舞伎役者はその芸域の広さ、演じることのできる人間の多様性やリアリティが評価の基準となり、シテ方の場合はいかに生身の人間でありながら「この世ならざるもの」を演じてみせるか、その深度が問われる。
たぶんそういうことではないかと思う。
どちらがよいというものではないが、能楽が歌舞伎のようなポピュラリティを獲得しえない理由をもう少し考えてみる必要がある。
『勧進帳』は歌舞伎と能がまだ未分化であった時期の歌舞伎だと思うが、『封印切』になると、もう松竹新喜劇や米朝の『百年目』の世界とほとんど地続きである。
藤十郎・我當の「まったり感」がたまらないです。
フジモトさん、また連れてってくださいね。

2007.01.25

そろそろ限界の日々

京都造形芸術大学空間演出デザイン学科の学生さんたちのお招きで、京都の北白川瓜生山まで講演にでかける。
ここに来るのは二度目である。
前は小林昌廣さんの司会で、春秋座(という歌舞伎の舞台があるのだ)で岩下徹さん(岩下さんもここの先生)と舞踏と武道についてのシンポジウムをしたことがある。
その小林さんは去年の秋に退職されて、いまは岐阜の大学に移ってしまった(女学院の非常勤には引き続き来てくれている)。
「作品とことば」というテーマでの講演である。
学科の学生さんたちはそれぞれに卒業制作の作品を提出するのであるが、自作についての「説明」を要求される。
ことばが足りないと、作品の「意味」がわからない。ことばが足りれば作品は要らない。
その按配はたしかにむずかしそうである。
私の場合「作品」はぜんぶ「ことば」で作られているので、そういう心配をしたことがない。
とりあえず現場に行って、何を話すかはその場で考えようと思って京都へでかける。
空デ(と略称するらしい)の企画立案の学生さんたち、その学生さんたちを指導されている中西先生、廻先生とご挨拶して歓談。
たいへんフレンドリーな気分になって演壇に立ったのであるが、好事魔多しとはよく言ったもので、話しているうちに「絶句」してしまった。
絶句というのは舞台に立つものにとっては、それはそれは恐ろしいもので、ふいに頭が「まっしろ」になってしまうのである。
どういうきっかけで「まっしろ」になるのか、これがよくわからない。
たいていは、「自分が話しているさまを上から見下ろす」ような浮遊感とともに訪れる。
「なんか声の出がわるいなあ」とか「あれ、あの人席立って出てっちゃった。話つまんないのかな」とか「あの子さっきから居眠りしてるなあ。どんな話したら、目を覚ますかなあ」とか、要するに「邪念」ですね。
邪念が入ったときに、ふいに「自分が今話していること」がリアリティを失う。
つまり、「自分の話を点検している自分」の方にリアリティがあって、「話している自分」が操り人形のように思われてくるのである。
その瞬間に「自分の話」が手から離れてしまう。
地図をもたぬまま、荒野に放り出されて、どちらに足を向けてよいのかわからず、そもそも自分はどこから来てどこへ行くつもりだったのかも思い出せないという感じである。
これまでも短い時間「絶句」したことはある。
だいたい、話というのはいくつかの「ユニット」からできている。
短いものは2,3分。長いものは20分くらいの「小咄」である。
一応骨格はできていて、あとはそのときのTPOに合わせて細部がアレンジできるようになっている。
あるユニットを話していているときに、「ああ、この話は次に『あのユニット』にうまくつながるな」ということを思いつく。そして、「このユニット」をし終えて、さて「あのユニット」につなごうとすると、「あのユニット」が何だったか思い出せない、というかたちで「絶句」は訪れる。
手元のメモを見ると、「その先」は書いてあるのだが、そこへどうやってたどりついたらいいのか、行き方が書いてない。
大阪の地下鉄の構内で迷子になったので、手元の地図を取りだしてみると「小田急線成城学園で降りる」と指示が書いてあるような感じである。
「だけど、そこまでどうやって行けばいいんだよ」と天を仰ぐことになる。
しかたがないので、その辺にある手近な「ユニット」を拾い上げて、話を続けることになる。だが、これは「その辺にあった」というだけのことで、今した話と名詞レベルの共通性はあっても、「話の流れ」との内在的な連関がない。
大阪の地下街で迷子になったので、とりあえず御堂筋線に飛び乗って「中もず」に着いたが、さてこれからどうやって「小田急」に乗り継いだらよいのかと思案するようなものである。
こんなことなら大阪駅の地下でうろうろしていたほうがましだったのではないか・・・ということになる。
数年来、「絶句」というのは経験していなかったので、ひさしぶりに壇上で冷や汗をかいた。
油断禁物である。
というわけでせっかくお呼びいただいたのに、途中で「話」が手から離れてなんだけへろへろの腰砕け講演になってしまって、空デのみなさんにはまことに申し訳がないことをした。
お詫び申し上げます。
また勉強して、出直して参りますので、今回の不調法についてはどうかご容赦を。
講演後、お二人の先生方と学生さんたちと打ち上げの宴会におまねきいただき、美味しいものを食べて、お酒を飲んで、学生さんの作品を見せていただいた。
京都造形芸術大学空間演出デザイン学科のみなさま。東さん、兼元さん、下出さん、井上さん、友部さん、どうもありがとう。卒業後のご活躍をお祈りします。

京都から帰って、一夜が明けたが、どうも調子がよろしくない。
十分寝ているはずが、疲れがとれない。
締め切り間際の原稿を書こうとしても、さっぱりアイディアが湧かない。
日本経済新聞の取材が午前中からあって、教育問題について語ること1時間半。
どうも滑舌が悪い。
私の場合舌で思考しているので、舌の回転が悪くなるということは、即頭の回転が悪くなるということである。
話の切れ味がよろしくない。
さすがに積もりに積もった疲労がそろそろ限界に近づきつつあるのであろう。
試写会に行くつもりであったが、まっすぐ家に帰って寝ることにする。

2007.01.28

東京とんぼ帰りツァー

東京へ。
平川くんの新ビジネス、ラジオカフェのオフィスのオープンセレモニーがあるので、呼ばれたのである。
電話で「パーティやるから、来てね」とだけ言われたので、これはかなり強制力の高いメッセージだとわかった。
これこれこういう事情なので万障お繰り合わせの上ご来駕願いたいというような合理的説明がある場合は、いくかいかないか、その重要性を考量することがこちらには許されている。
だから、「あ、その頃、ちょっといそがしんだよね」とか「いや~、あれやこれやでさ・・・ま、行けたら行きますわ」というような返答でお茶を濁すことも可能なのである。
だが、「来てね」だけでは言い訳のしようがない。
メッセージが短い場合、返答も短くなければ「つりあい」が取れない。
「来てね」に対しては「おう、行くぜ」か「ダメ、行けない」の二つしか答えがない。
というわけで「来てね」「おう、行くぜ」で電話は終わってしまったのである。
実はもうひとつ強力な理由があって「セキカワさんも来るし、コイケさんも来るんだぜ」というひとことが追加されていたからである。
セキカワさんというのは関川夏央さんのことである。
関川さんとは前にラジオの収録のとき、山の上ホテルで「クリエイティヴ・ライティング」へのご出講をお願いしたことがある。
そのとき快諾のご返事を頂いたのであるが、例によって私がじたばたしているうちに後期の授業が終わってしまったのである。
今度は、もう少し肚を括って、長期的に教学プログラムに関川さんにコミットしていただくにはどういうやり方があるか検討をてみたいと考えている。
コイケさんというのは小池昌代さんのことである。
平川君との共著『東京ファイティングキッズ』をTVの書評番組で取り上げてくださって「激賞」してくれたご恩を多として、平川君と私は「一度小池さんをディナーにお招きして、シャンペンなど御一献差し上げねば」とかねがね言い交わしていたのである。
ところが平川君がひとり抜け駆けして、小池さんと吉本隆明さんの対談をラジオコンテンツにするという企画を作って、さくさくと仕事を進めて、てきぱきと小池さんを自分のビジネスに巻き込んでしまったのである。
こういうことになるとまことにフットワークのよい男である。
というわけなので、小池さんはラジオカフェのパーティにも関川さんともども「内輪のメンバー」ということでご参加くださったのである。
小池さんがすたすたと近寄ってきて、「内田さん?小池です。お会いしたかったです」と語りかけてきたので、ちょっとぼおっとなってしまう。
「あ、ウチダです。僕も、ずっとお会いしたかったんです」
私が女性を前に上気するというのは、まことにレアなことである。
信じがたいであろうが、私もときにはそういうことがあるのである。
お書きになる文章と同じように、透明感と温かみが同居する不思議な感触のするまことに魅力的なひとであった。
私が15歳の少年であれば宿命的な恋に落ちたであろうが、だが私はもうおじさんなので、平川君と三人で記念撮影するだけなのである。ぐすん。

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わいわいと宴会が進み、柳家小ゑん師匠とジャズと落語のグルーヴ感についておしゃべりし、上野茂都さん(白皙の端正なたたずまいの青年だけれど、この人が実は何ものであるかについては平川ブログ・石川ブログに詳しい)にご挨拶し、なぜか全員ここにいる140Bの皆さん(江さん、青山さん、中島社長)と「明日の例会、来られます?」「兄貴のところの仕事どうです?」というようなローカルな情報交換をし、ようやく関川さんをつかまえる。

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関川さんに『私家版・ユダヤ文化論』をたいそうおほめいただく。
私は人に批判されるのが嫌いだが、ほめられるのは大好きである。
ふだんはあまりそういう機会にめぐまれないので、「え~、そうですか~(ぐふふ)。そんな~、たいしたもんじゃないですよお」と身の置きどころなく、不気味に身もだえするばかりである。
平川くんが「はい、ではもうお開きです」と宣言しても、ゲストたちはさっぱり帰る気配もなく、ケータリングの会社の人が来て、パーティ会場を片付け始めても、まだほとんどの人は残っておしゃべりをしていた。
そういえば、パーティに来る前に講談社に立ち寄っていたのである。
新刊『下流志向/学ばない子どもたち 働かない若者たち』が出たので(もう書店にぼちぼち並んでいるはずです)、その販促活動として日本経済新聞と『週刊現代』の取材を受けたのである。
担当の小沢さん、岡本さんにお迎えしていただき、講談社ビルの26階のペントハウスみたいなゴージャスな部屋で2時間にわたって取材を受ける。
ふだん、取材を受けるとつい気分が高揚して、あることないことしゃべりまくり、「・・・ということが書いてある本なんですね?」と訊かれて、「いや、それは今思いついたことで、本には書いてません」というぜんぜん紹介記事の役に立たない情報ばかりご提供してしまうのであるが、今回は「限界ぎりぎりの日々」なので、舌がぜんぜん回転せず、芸もなく、本の内容を要約するばかりである。
途中から、『週刊現代』編集長の加藤さんが登場。
もとはいえば、魔性の女フジモトの手引きで、加藤さんに芦屋川のベリーニで「ただ飯・ただ酒」をごちそうになったのが縁のはじめで、私は非人情の人間のくせに、一宿一飯の恩義に弱く、深い債務感にとらわれ(ベリーニのシャンペンがまた美味しかったのね)、「反対給付義務」に身を焼かれていたのである。
このようなかたちで講談社にわずかなりとはいえシャンペンのお返しができたことを喜びたい。
新刊『下流志向』は日下潤一さんのシンプルでかっこいい表紙である。
一読してみたが、書いた本人が言うのもなんであるが、たいへん面白く、またスリリングで一気に最後まで読んでしまった(書いた本人が「スリリング」というくらいであるから、話がどこに飛ぶのかさっぱりわからない)。
お値段も1400円(税別)とリーズナブル。
教育に関心のあるすべての日本人に読んでいただきたいと思うので、伏して皆さまにご案内申し上げるのである。

2007.01.30

言い訳上手になりました

NHKが01年放送の「女性国際戦犯法廷」のドキュメンタリー番組で政治的圧力を受けて番組内容を改変した事件について、東京高裁がNHKに賠償命令を下した。
隣の記事は関西テレビの「あるある大事典」の捏造問題の中間報告。
テレビメディアの中立性やフェアネスに対する社会的信用はずいぶん低下したようである。
まあ、身から出た錆である。
でも、「テレビの言うことならほんとうだろうと思っていたのに・・・裏切られた気持ちです」というようなナイーブなコメントを新聞が掲載しているのを見ると、「嘘つきやがれ」と思う。
テレビが虚偽を報道したのを知って「裏切られた気持ちです」というようなことをしゃあしゃあと言ってのけるという「市井の無垢(で無知)な視聴者」のポーズそのものが「テレビ化された定型」に他ならないからである。
「テレビ底なしの不信」というような新聞の見出しはまことに「テレビ的」である。
そのことに気づいているのであろうか。
今さら「不信」というようなことを言い出すところを見ると、新聞人はそれまでテレビで報道している情報がすべて真正だと信じていたであろうか。
まさかね。
「この程度のこと」が日常茶飯に行われていたことを同じメディアにいる人間が知らないはずはない。
知らないはずがないにもかかわらず、知らぬふりをして毎日毎夕テレビ欄に「あらすじ」や「今日のみどころ」など、TV局が送ってくるプレスリリースをノーチェックで掲載して、テレビの「垂れ流し」を下支えしていたのは新聞自身ではないのか。
「私は何も知りませんでした。へえ~、そんなことがあったんですか」という「とってつけたような無垢(で無知)な面つき」はテレビが日本社会にもたらした最悪の贈りものの一つである。
テレビの構造的腐敗についてどうして新聞は正面から批判をしないのか、ということを私は以前に毎日新聞の外部紙面研究会の場で問いただしたことがある。
反応はきわめて鈍いものであった。
一人の編集委員だか論説委員だかが、うんざりしたような口調で、「そうおっしゃいますけどね。新聞がテレビ番組を『俗悪だ』と批判すると、結局その番組の視聴率が上がっちゃうんですよ」と皮肉な笑いで答えた。
私はある種のテレビ番組が俗悪であるとかないとかいうようなレベルのことを言ったわけではなく、どうして「メディアはメディアの批判をしないのか」という原理的なことについて問うたのであるが、原理的な問いを表層的な答え(プラスせせら笑い)で応じたのを見て、「新聞にはテレビ批判はできないな」と思った。
これはひとりテレビへの不信ではなく、メディア全体に対する不信が「日常化」しつつあることの予兆である。
マスメディアは「驚いたふり」をするのを止めた方がいいと私は思う。
その修辞的な「驚いたふり」は、要するに「私はこの不祥事にぜんぜんコミットしていませんからね。だって、何も知らなかったんだから」という言い訳のために戦略的に採用されているのである。
だが、メディアの先端にいる人間にとって「こんなことが起きているとは知りませんでした」というのは口にすること自体が恥ずべき言葉ではないのか。
けれども「こんなことが起きていることを私は前から知っていました」と言ってしまうと、「じゃあ、どうしてそれを報道しなかったのか」という告発を引き寄せることになってしまう。
無知を装うことによって責任を回避する。
「知りませんでした」「聞いていない」「情報が現場からから上がってこない」「訴状をまだ読んでいない」「調査委の答申を待って」・・・この間に見聞きしたすべての不祥事で、すべての組織の管理者たちは、「自分は組織を管理できておらず、組織内で何が起きているかを知らなかった」とみずからの無能を告白することで責任を逃れようとしている。
私たちの社会はこの種の遁辞に対してかなり寛容である。
だから、人々は争って「自分は無知で、無能で、だから無罪です」という言い訳にすがりつく。
私がメディアに期待するのは次のような言葉である。
「テレビがこんなふうに構造的に腐敗していることを私は熟知していたが、それをあえて咎めなかった。なぜなら、テレビのようなメディアはどれほど腐っていても、ないよりましだからだ。『正しい報道・中立的な報道以外のものはなされてはならない』というルールが適用されたら、メディアは死ぬ。だから、視聴者は90%のジャンクの中に10%の貴重な情報が含まれている程度の含有率に耐えてテレビを見るべきなのだ。『裏切られた』などというせこいことを言うな。黙ってテレビの嘘を凝視して、その行間からしみ出るわずかな真実を読み出せ。」
頼むから、誰かそう言ってくれないか。

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