ぷるぷる

2007-01-12 vendredi

終日原稿書き。
入学センターのA木課長から年末に「1月10日までに8000字お願いしますね」と頼まれたのである。
本学のPRのための単行本というのを出すのである。
ふつうPR素材は無料配布と決まっているが、これを店頭で売ろうという「一粒で二度美味しい」戦略である。
うまくゆくかどうかわからないけれど、とりあえず業務命令であるから、さくさくと「どうして女子大は必要なのか?」ということについて書く。
書いているうちにだんだん腹が立ってくる。
A木課長に対してではなく、「女子大は必要ない」という政治判断を支える経済合理主義的発想そのものに対する憤りで、身体が小刻みにぷるぷる震えてきたのである。
私はもともと男女雇用機会均等法をめぐる議論あたりから、「ぷるぷる」していたのである。
この法改定はご存じの通り、雇用機会における性差別を廃したものであるが、そこに伏流する雇用と性の関係についての基本的な考え方のうちに、どうしても私には飲み込みにくいことがあった。
均等法の前提にあるのは、「男女は同一の社会的リソース(権力、財貨、威信、情報、文化資本などなど)を競合的に奪い合っており、女性はこの競争で不利なポジションを歴史的に強いられている」という考え方である。
話の前段を「真」とすれば、後段も「真」である。
だが、私はこの前段にひっかかるのである。
間違っているというのではない。
「男女は同一の社会的リソースを競合的に奪い合っている」という言明が「事実認知的言明」であるのか「遂行的言明」であるのか不分明である、というところがひっかかるのである。
ご存じでない方のためにご説明するが、「事実認知的言明」というのは言語学者オースチンの用語で「客観的事実を叙述することば」のことである。「いま 9 時半である」というようなのは事実認知的発話である。
それに対して、「遂行的言明」というのは「あなたを生涯愛します」というような、話者自身がその言明内容が「真」であることを主体的に実現してゆくことを誓約する種類の言明のことである。
その上で申し上げるのであるが、私には「男女は同一の社会的リソースを競合的に奪い合っている」という言明が事実認知的であると同時に遂行的であり、むしろ遂行的であるところに政治的意図があるように思われるのである。
妙に世知に長けた野郎がなれなれしく肩に手を回して「な、ウチダ、そういうもんなんだよ。世の中、所詮、色と欲だよ」というようなことを言われたときのような、「べたっ」とした気持ちの悪さを感じるのである。
この訳知り男の言明は事実認知的であると同時に遂行的でもある。
「人間はさまざまなモチベーションで行動する」という私の「世間知らず」を矯正しようという政略的意図をあきらかに含んでいる。
均等法に私はそれと似たものを感じたのである。
「要するにみなさん、ぶっちゃけた話が、いい服着て、いい家住んで、美味い物喰って、いい車乗りたいんでしょ。ねえ、本音で行きましょうよ、ウチダさ〜ん」というようなことを耳元で言われたような不快感を覚えるのである。
たしかにそのような言明は大多数の人間にとっては自明の真理であろう。
けれども、「いや、世の中そういうことばかりじゃないんじゃないの」という人々が少数なりとはいえこの世にはいるし、いないと困る。
人類史上、世の中をこれまでより少しでも住み易くする方向に貢献した人々のほとんどはこの「そうじゃないんじゃないの派」に属する。
性間の社会的差別を廃絶して、女性にサクセスする機会を開放するというのは「よいこと」である。
しかし、それが「すべての人間は権力、財貨、威信、情報、文化資本などなどのリソースを欲望している」という条項への同意署名した、ということにされると私は困る。
そのようなことにうかつに同意署名した場合、私たちの社会がそれまでより住み良くなるか住みにくくなるか、これは誰でもわかる。
生物システムにおいては、欲望は同一対象に集中してはならないからである。
同一の空間に生物がひしめきあって、限定されたリソースを分かち合っているときには、種によって体型や活動時間帯や活動域や食性を異にする方がシステム維持上安全である。
それゆえ、生物はサイズや機能や生態を多様化している。
夜行性と昼行性の生物では同じ空間にいても場所の奪い合いが起こらないし、肉食動物と草食動物の間では食物の奪い合いは起こらない。
トカゲは枯れ葉の動く音には反応するが、銃声には反応しない(トカゲの環境世界には銃声を伴う危険が存在しないからである)。
すべての種は他の種と環境世界を「ずらす」ことで限定された環境資源を最大限に活用し、かつおのれ自身の限られた生物資源をもっとも有利な機能に限定して発達させている。
人間も生物である以上そうすべきだろう。
だから、「社会は同質的な個体ばかりで形成されるべきである」という主張に軽々には与すことができないのである。
たしかに、世界中どこにいっても人間のありようが標準化・規格化されると、生きる上ではいろいろな便益があるだろう。
世界中どこでも乾電池やカセットテープの規格が同じであるように、万人が同じ言葉をしゃべり、同じロジックを用い、同じものを欲望し、同じものを忌避するとしたら、たしかにコミュニケーションは容易になるだろう。
けれども、そのような世界は個体の生存にとっても種の生存にとってもきわめて不利な世界だということを忘れてはいけない。
個体レベルで言えば、それは「いくらでもあなたの代替物がいる」ということだからである。
あなたと同じ欲望を持ち、同じ行動規範に律される個体の数が増えるほど、あなたの唯一無二性は損なわれる。
だって「いくらだって替えがいる」んだから。
現に、労働史的に見た場合、均等法以後、労働者の労働条件は一貫して劣化してきた。
求人が一定で、求職者の数が増えれば、労働条件は切り下げられるのは当たり前のことである。
これは女子労働者への雇用機会の拡大であると同時に、誰からも文句がつかない「政治的に正しい」コストカットだったのである。
均等法の導入に財界が何も文句を言わなかったということから推して、これが労働者を保護するための法律ではなく、労働者をより効率的に収奪するための法律であることに気づいてよかったはずであるのに、メディアはそのことをほとんど報じなかった。
「人間なんてみんな欲しいものは同じだよ」という言明を私が「遂行的」なものではないかと懐疑するのは、この言明が「自明の前提」とされることそれ自体から構造的な利益を得ている人々が現にいるからである。
自明のことを確認しておこう。
グローバル資本主義にとって性差は無意味である。
むしろ性差はできるだけ社会的に無意味であることが望ましい。
なぜなら、グローバル資本主義とは、労働者が規格化・標準化されて、地球上どこでも同質の労働力が確保されることと、消費者が規格化・標準化されて、同一の商品にすべての消費者が欲望を抱くこと(そして、手に入れると同時にその商品に対する欲望を失って、次の同一商品に欲望を抱いて雪崩打つこと)を理想とするシステムだからである。
グローバル資本主義にとって、性差は労働力と消費者の再生産機能を担保する以外には何の社会的意味も持たない。
労働者=消費者が非性的に規格化されるというのは、乱暴に言い換えれば、賃金が半分になり、マーケット・サイズが倍になるということである。
だから、少子化によって労働力の確保が危うくなり、市場が縮小することが死活問題にせり上がってくるまで、グローバル資本主義は性差の解消を推進することができたのである。
しかし、労働条件がひたすら劣化し、消費欲望はひたすら亢進し続け、かつ性差の社会的な価値がひたすら切り下げられた社会に投じられれば、遠からず労働者たちは結婚も出産もしなくなるだろう(そもそもエロス的関係の構築に限られた生物資源を投じなくなるだろう)という蓋然性の高い未来をグローバリストたちは想定していなかった。
そのようないささかインテレクチャリーにチャレンジドなグローバル資本主義者たちに政治経済の舵取りを委ねたことによって、90年代以降の日本は絶対的少子化・絶対的貧困化に向けてゆっくりと自滅の坂道を転がり落ちようとしている。
これほどシンプルな歴史的的シナリオにどうして気づかずに、大学人たちは高等教育をグローバル経済にジャストフィットするかたちに「構造改革」することに孜々として努められてきたのであろうか・・・そう思うと私は恥と悲しみに「ぷるぷる」震えてしまうのである。
女子大の「実学志向」というのは端的に「グローバル経済にジャストフィットするように教育を規格化・同質化・効率化すること」である。
それは短期的には学生たちに換金性の高い資格や技能を賦与することに成功するだろうけれども、いずれ同じような資格や技能をもった労働者たちが大量生産されるから(だって国際規格なんだから)、自動的に彼らの労働条件はひたすら切り下げられてゆく。
いま日本の大学は、学生たちをいくらでも替えの利く国際規格の標準的能力しかもっていないので、いくら安い賃金でこき使われてもそれに耐えるしかないワーキングプアとして社会に送り出す教育工場になるという自滅のシナリオを粛々と実現しようとしている。
私がぷるぷる震えるのもわかるでしょ。
というわけで、私の女子大論の最後はこんなふうに終わる。

社会の均質化・規格化の圧力に対する「否」は、そのような圧力から逃れることのできる「小さな場所」を社会の片隅に構築するかたちで実現されるしかあるまい。
権力や財貨や情報や文化資本が差別化のために過度に機能しないような「逃れの街(アジール)」を同一的な社会の中の特異点として築くこと、それがかろうじて私たちにできることではないか。
女子高等教育機関はその「場違い性」によって日本教育史の特異点であり続けた。私はそういうふうに考えている。
本学の創始者であるタルカット、ダッドレーの二人の女性宣教師が神戸に私塾を開学したのは太政官布告によって「キリシタン禁令」の高札が撤去された直後のことである。そもそもの最初から「そこにいるべきではない」と見なされた人によって本学は基礎づけられたのである。そこで彼女たちが日本の少女たちに講じた英語や古典語や西洋史は当時の日本の女子教育の基準に照らすならば、ほとんど無意味なものであった。
けれどもこのささやかな学舎は間違いなく阪神間のある種の少女たちにとって心身の平安を得ることのできる例外的な場所であった。
それは、この小さな場所には明治の日本社会においてドミナントな価値観が入り込まず、そこで学んでいることに誰も値札をつけることができなかったからである。
彼女たちがそこで学んだ最良のことは、自分たちの社会とは価値観や美意識を異にする「外部」が存在するという原事実そのものであった。
実際に学生たちがその後アメリカに留学したとか、欧米先進国の文物を導入したとかいう具体的な成果のことを言っているのではない。「ここ」とは違う場所への回路が穿たれている「同一的な社会の中での特異点」であったことが本学の日本教育史上に果たした最大の貢献だったということである。私はそう考えている。
だから、私が言いたいことはまことに単純である。
本学は開学のときと同じく、日本社会における「外部」との通路であり続けることをその歴史的使命としている。そのためにも、学生たちを現在の社会において支配的な価値観に追随し、競争的に社会的上昇を遂げるように仕向けるべきではない。むしろ、そのような現代社会のありようにつよい違和感を覚えている学生たちを迎え入れ、彼女たちが学外にいるときよりも学内にいるときの方が心身の平安と解放感を得られるような「逃れの街」であることのうちに使命を見出すべきである。それが私の結論である。
--------