納豆がない!

2007-01-15 lundi

納豆がない。
ひとつもない。
これはびっくり。
私のうしろにいたおじさんもびっくりしていて「おい、納豆がないぞ」と奥さんに言っている。
奥さんが説明してくれたので私も聞き耳を立てる。
「『あるある大事典』で『納豆を一日二個食べると痩せられる』って放送したんで、日本中のスーパーの店頭から納豆が消えてしまったんですって」
そ、そんなことがあったんですか。
私は朝食は納豆、生卵、味噌汁、漬け物という「純日本派」であるので、納豆が払底するということの食生活への影響は甚大である。
それにしても、と私は思う。
日本人は凄い。
TV番組で「これは健康によい」とか「これで痩せます」とかアナウンスするだけで日本中の店頭からブツが消えるのである。
石油ショックのときに、日本中のスーパーから洗剤とトイレットペーパーが消えた日のことを思い出した。
なぜ選択的に「洗剤とトイレットペーパー」だったのか、理由は誰も知らない。
「洗剤とトイレットペーパーがなくなる」という風説が流布したせいで、ほんとうになくなったのである。
株価の吊り上げと同じロジックである。
「どこそこの株価が上がる」という風説が流布すると、みんなが買い集めるので、株価が上がる。
株価なんか上がろうが下がろうが私には何の関係もないことだが、洗剤やトイレットペーパーや納豆が買えなくなると、私は困る。
実際そのころは表に出ると、どこのトイレに入ってもトイレットペーパーがなくて、たいへん切ない思いをした。
そのころ丸紅という商社があって、さまざまな必需品の買い占めと価格の吊り上げで社会的指弾を受けていた。
ある日納品でその丸紅に行った。
トイレに入ったら、巨大トイレットペーパー(直径30センチくらいの)が装備されていた。
なるほど丸紅はトイレットペーパーまで買い占めて、内輪では潤沢に濫用していたのかとほとんど感動してしまった。
今なら「写メール」で友人たちに送信するところであるが、30年前のこととてそのように便利なものはなく、私はその直径30センチのロールを証拠物件として鞄に入れて(ウチダさん、それは窃盗では・・・)アーバンに持ち帰り、平川くんや石川くんに見せて「さすが丸紅」と盛り上がったのである(もちろんそのままオフィスのトイレで使用させていただいた)。
閑話休題。
納豆がなくなってしまったのである。
私はからっぽのショーケースを眺めながら日本の付和雷同体質にほんとうに感心してしまった。
もちろん、このショーケースには旬日を出でずして納豆が戻ってきて、人々は納豆のことなどあっというまに忘れてしまうのであろうが、その熱しやすく冷めやすい体質を含めて、日本人というのは

たいしたものだ

と思うのである(司馬遼太郎風の改行の仕方)。
メディア知識人はこういう現象に冷笑的にコメントする傾向がある。
「日本人て、これだからイヤですね。アメリカではこんなことありませんよ。」
私はこういうコメントを聴くと、「そういうあんたこそが典型的な日本人なんだよ」と思ってしまう。
日本人の集団主義というのは、「日本人は集団主義だからダメなんです。その点、アメリカでは個性が尊重されて・・・」という集団主義批判の文型そのものまで定型化するというかたちで出口を塞がれているのである。
もし、ほんとうに集団主義をなんとかしたいと思っているなら、「集団主義って、けっこういいじゃないですか。僕は集団主義大好きですけど。みんなで納豆喰いましょうよ」くらいのことは言って欲しい。
私は日本人の集団主義はどうにもならないと思っている。
どうにもならないのなら、それをどう「善用」するかを考えた方がいい。
例えば、納豆製造であるが、これがもともとたいへん好況な業種で、日本経済を牽引する基幹産業として期待されているという話は寡聞にして知らない。
しかし、この納豆ブームがしばらく続けば(あまり長くは続かないのが残念であるが)、遠からず納豆会社の社長は「納豆長者」と呼ばれ、その檜造りの邸宅は「納豆御殿」を呼ばれるようになるであろう。
同じことを、さまざまな業種について順番に行えば、すべての業界が定期的に年商の拡大に与ることができる。
頼母子講である。
日本人の付和雷同体質を利用して、業績不振業界の下支えをする妙手だと思うのであるが、いかがであろう。
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