あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
57回目の新年である。
よく、ここまで死病にも取りつかれず、事故にも遭わず、戦乱や暴動にも遭遇せず、飢餓も悪疫も避けて、生き延びてこられたものである。
地球上60億人類同胞の中で、私のような平坦な人生を生きられた幸運な個体はおそらく全体の5%にも満たないであろう。
いまこの瞬間も世界のあちこちで戦争は続いており、飢餓や病で苦しむ人、貧困や圧制に苦しむ人は数億人を超える。
自分が今こうして屋根のある家で、暖かい布団にくるまって、満ち足りた眠りを享受できること、朝起きると温かい食事が供されることがどれほど貴重なことか、私たちはそのことを忘れがちだ。
そんなことを考えたのは、柴五郎が少年時代を回想した『ある明治人の記録』(石光真人、中公新書、1971/2006)を読んだせいである。
柴五郎のことには『街場の中国論』で少し触れた。
義和団事件のことに論及した中で、当時の日本陸軍のモラルが世界標準からも卓越していたこととを紹介した。
その当時の日本陸軍はまだ「武士的エートス」に領された集団だった。
それを人格的に体現していたのが指揮官の柴五郎中佐である。
柴五郎は「賊軍」会津の出身でありながら陸軍大将になった硬骨の軍人である。
その少年時代を回想した自伝が新書に採録されている。
会津藩滅亡のことを晩年の柴はこう書いている。
「過ぎてはや久しきことなるかな、七十有余年の昔なり。郷土会津にありて余が十歳のおり、幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かれるよと教えられしに、いかなることのありしか、子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず。」
戦いに敗れた会津藩士たちは俘虜として東京に送られ、柴五郎少年もその捕囚の群れに投じられる。
その後、会津藩は67万石は下北半島の恐山山麓に斗南藩3万石に移封される。
「藩士一同感泣してこれを受け、将来に希望を託す」のだが、新領地は実高わずか7千石。柴五郎とその父、兄嫁は極寒の下北半島で絶望的な冬を過ごすことになる。
「落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着の身着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の歳月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれなり。」(同書、7-8頁)
柴少年は必死の手立てを尽くしてこの絶望的境涯から脱して、陸軍幼年学校に入り、やがて陸軍士官学校に進み、その輝かしい軍歴を重ねてゆくことになるのだが、薩長中心に書かれた明治維新史の裏面には、記録に残されなかった「敗残の兵士たち」の絶望と痛みがある。
子母澤寛は函館の戦いの敗戦後北海道の漁師となった彰義隊隊士祖父斉藤鉄五郎の懐旧談を聞いて育った。
新撰組をはじめとする「敗残の兵士たち」への彼の愛惜は、正史から切り捨てられた「敗残者」の側から見た近代日本への異議申し立てでもある。
子母澤寛や藤沢周平の時代小説にはこの薩長に蹂躙され、明治日本の日の当たる場所から遠ざけられ続けた東北諸藩の積年の怨念のようなものがにじんでいる(その点で、関西人である司馬遼太郎とは感覚が微妙に違う)。
私は藤沢周平と同じく、戊辰戦争で負けた庄内藩士、旧新徴組隊士の末裔であり、祖母の父は白虎隊の生き残りの会津藩士であったから、私の中には「負け組」の血が脈々と流れていることになる。
だから柴五郎の感懐は私にとって決して「ひとごと」ではない。
それは私の三代前四代前の父祖たちの実体験である。
私は彼らに対する感謝を忘れてはいけないと思う。
私たちが今このような平和と繁栄を享受できているのは、絶望的な境涯の中で必死に生き延びようとした彼ら先人たちの孜々たる努力の成果を今私たちが受給しているからである。
だが、私たち自身は次世代にために、そのさらに次の世代のために、かれらが享受できるようなものを残すために何か努力をしていると言えるだろうか。
柴五郎翁の少年期の回想録を読みながら、そんなことを考えた。
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(2007-01-02 12:47)