お正月、特にすることもないので新春早々ゲラを校正。
朝日新聞社から出る教育本「狼少年のパラドクス」の再校である。
ブログ日記から教育関連のものを選び出しただけなので、内容的には繰り返しが多いし、文体もわりと手荒なので、このまま本にするわけにはゆかず、あれこれいじりまわす。
夕方から自由が丘。
等々力在住の兄上と平川くん、千鳥町在住の石川くんという「極楽カルテット」でお正月を祝うべく不二屋書店前に5時集結。
そのまま居酒屋にとぐろを巻いて、ビジネスの話。
平川くんと私は石川くんが3月から始める新規ビジネス、ライブハウス+落語定席「アゲイン」の出資者であるので、ビジネスプランについて詳細をあれこれ論じる。
メニューはどうするのか、禁煙か喫煙可か、クライアントにはどのような年齢層をターゲットにするのか、楽器はどうするのかなどなど。
平川くんと私は開店イベントにすでにブッキングされているようである。
開店のときにはこのブログで告知するので、東京在住のみなさまはぜひともごひいきに。
目蒲線(てもう言わないのかな)武蔵小山駅前のペットサウンズビルの B1F です(まだ工事中)。
行き帰りの電車の中で城繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来』(光文社新書、2006)を読了。
面白いですよと薦められて読んだのだけれど、どうも読後感が「しっくり」しない。
2000年の統計では大卒新入社員の36.5%が三年以内に辞めている。
1992年には23%だから、10年間に1.5倍になった計算である。
そのまま増え続けているのだとしたら、2007年は40%くらいになっているのかもしれない。
たしかにこれは大きな社会問題である。
辞める若い勤め人だけでなく、彼らをそういう立場に追い込む企業の構造にも問題がある。
著者はその両方の原因を指摘するが、リソースを老人に集中して、若者を収奪する構造に主因を見る。
それはどういう構造かというと。
終身雇用・年功序列制がきちんと機能していれば、若いときの薄給は年齢が上がってからの地位と給与の上昇という報酬によって相殺される。
しかし、バブル崩壊以後、経済のグローバル化の荒波の中で、そのような牧歌的な人事制度を維持できている企業はもうほとんど存在しない。
というのは「若い頃の頑張りに対する報酬をポストで与える以上、企業側はポストをどんどん増やさなければならない。定期昇給を毎年実施してゆくためには、売り上げが上がり続けること(少なくとも高い水準での現状維持)が必須だ」(44頁)からである。
今後数十年にわたり黒字経営が続く保証なければ、終身雇用・年功序列は機能しない。つまり、若いときに薄給でこき使われて、そのまま「こき使われ損」で馘首されるか、生涯平社員のままという可能性が出てくる。
社内にキャリアパスが一本しかない以上、その数を減じた管理職ポストの空きを待って、30代40代のサラリーマンが長蛇の列をなしている。
それを見た20代の平社員に企業内における未来についての希望が扶植できるであろうか?
たしかにきわめて困難であろう。
もちろん首尾よく管理職に登って、若い頃のオーバーアチーブを地位と給与で補償される人もいるけれど、「半数以上は “働き損” で終わることになる。彼が受け取るのはポストではなく、やり場のない徒労感でしかない。これが、若者が会社を途中下車する最大の理由だ。」(46-7頁)
この分析はおそらく正しいのであろう。
もちろん、人は金だけのために働くわけではない。
「働き甲斐」というのは金だけではない。
著者は「やりがい」の条件として「担当業務が縦に切り出された形で一任されること」、「予算も含めた権限がセットでついてくる」雇用形態を推奨する。つまりスタンドアロンで、小なりといえども「一国一城」を任されると、若者もやる気になる。
それを可能にするのが年俸制・職務給という「キャリアの複線化」システムである。
それぞれ自分の得意な分野で自由裁量権をある程度任され、その働きに応じて給与を受け取るシステムであれば、仕事にやりがいは見出されるであろう、というのが著者の見通しである。
私はこれを読んでしばらく考え込んでしまった。
これは仕事とそのモチベーションについて書かれた本のはずであるが、この200頁ほどのテクストの中で、「私たちは仕事をすることを通じて、何をなしとげようとしているのか?」という基本的な問いが一度も立てられていないからである。
それはたぶん自明のことだからだ。
仕事をするのは「昇給」のためであり、「やりがい」というのは「職務給」システムのことである。
要するに人間は金が欲しいんでしょ、という若い著者の「クール」な諦念(と申し上げてよろしいであろう)が全体に伏流している。
だが、私は「要するに人間は金が欲しいんでしょ」という「リアル」な人間観そのものが「3年で辞める若者」を再生産しているのではないかと思えてならない。
終身雇用・年功序列が長らく日本的雇用形態として定着してきたのは、それが最終的には努力と報酬の相関という「フェアネス」を保障したからである。
年俸制・職務給が人をひきつけるのはそれが「権限委譲」「自由裁量」というかたちで「信頼」というものを示すからである。
年俸制・職務給というシステムの合理性を著者はさかんに強調するけれど、この給与システムは実はそれほど合理的なものではない。
なぜなら、それは「まだやっていない仕事」に対して俸給を約束するシステムだからである。
ストーブリーグになるとプロ野球選手の年俸契約更改がスポーツ欄をにぎわす。
そのとき高額の俸給だけでなく、「複数年契約」ということについて選手にとって「高い評価を与えてもらった」というコメントをする。
ベテラン選手に対して複数年契約をするということは、「まだやっていない仕事」に、場合によってはかなりの確率で「完遂できないかもしれない仕事」に高額の年俸を約束することである。
もし、ほんとうの意味で合理的な年俸があるなら、それは「次年度」の俸給ではなく、「過年度」の俸給として支払われるべきであろう。
労働者が現に達成した成果に対して支払う限り、そこに「払いすぎ」ということは起こらないし、予想外の活躍をしたにもかかわらず新人だったので「働き損」をしたということも起こらない。
けれども、高いアチーブメントを求める人々は「まだ完遂していない成果」に対する「前払い」という給与形態をやめない。
それはどうしてか。
それは、「完遂できない可能性のある仕事」に対して高額の給与を約束することは、そうでない場合よりもその仕事を完遂する確率が高いということを人々が経験的に知っているからである。
職能給や年俸制が合理的なのはそれが成果の査定の仕方として厳密だからではなく(事実厳密ではない)、「まだ出ていない成果に対して前払いするという「信頼」を与えられると人間のパフォーマンスが高まるからである。
「フェアネス」とか「信頼」というものを頭の悪いビジネスマンは「そんなものには一文の価値もない」と笑って棄てるけれど、実際に人間の労働パフォーマンスが上がるのは、自分の労働を通じて社会的な「フェアネス」が達成できるという希望を持てる場合と、与えられた「信頼」に応えねばという責務の感覚に支えられている場合だけである。
何度も書いていることだけれど、労働というのは本質的にオーバーアチーブである。
オーバーアチーブという言葉には、単に「賃金に対する過剰な労働」のみならず、個人にとっては「その能力を超えた成果を達成すること」を意味している。
というより、「賃金に対する過剰な労働」は労働者自身が「能力を超えた働きをしてしまった」ことの副作用なのである。
だから、もし労働条件というものを「能力に応じた賃金」という「合理的な」ものに設定した場合、私たちの労働パフォーマンスは一気に萎縮してしまうだろう。
労働について考えるときには、「どうしたら能力や成果に応じた適正な賃金を保証するか?」ではなく、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」というふうに問題を立てなければならない。
人間が継続的に活気にあふれて働くのはどういう条件が整った場合か?
そういうふうに問題を立てなければ、「なぜ若者たちは3年で辞めてしまうのか?」という問いには答えることができないだろう。
答えはもう書いたとおりである。
人間は「フェアネス」の実現と、「信頼」に対する応答のために働くときにその能力の限界を超える。
阪神の金本選手は契約更改のときに、「自分の俸給を削っても、スタッフの給与を増額して欲しい」と述べた。
これを「持てるものの余裕」と解釈した人もいるだろう。
けれども、私は違うと思う。
金本選手という人はどういう条件であれば自分のモチベーションが維持できるかを経験的に熟知している。
彼の活躍を「わがこと」のように喜んでくれる人間の数を一人でも増やすことが自身のモチベーションの維持に死活的に重要であることを知っているからこそ、彼は「フェアネス」を優先的に配慮したのである。
ベネフィットを分かち合うことによって、ベネフィットの継続的な享受システムを基礎づける。
これは人類学的な「常識」に属する。
話を戻そう。
老人たちが社会的リソースを独占して、若者の機会を奪っているせいで、日本はこんな社会になってしまった。老人は既得権益を吐き出して、若者に未来を託せ、と著者は主張する。
私はこの主張には一理あると思う。
「フェアネス」が担保されなければ社会は機能しないからである。
ただし、「フェアネス」に対する欲求は年齢とは関係がない。
潤沢に社会的リソースを享受しながら「フェアネス」の必要を痛感している人もいるし、貧しいけれど、「自分さえよければ、それでいい」と思っている人間もいる。
その人が「フェアネス」を希求しているかどうかは、その人の年齢とも社会的な成功とも関係がない。
私が「奪還論」型の議論(「私から収奪したものを私に返せ!」)を好まないのは、「奪還したリソース」を「戦わなかった人間」に分かち与えることを奪還論は論理的に許容しないからである。
必死の思いで戦い獲ったものをどうして戦わなかった人間とシェアしなければならないのか。
若者が収奪されている社会にあってもスペクタキュラーな成功を収めている若者はいくらもいる。
だが、彼らはその成功の成果を貧しい若者たちと共有しようとしているだろうか。
私は若者たちが「フェアな分配」を求めていることには堂々たる根拠があると思う。けれど、それが「フェアネス」に対する原理的な配慮からかどうかはわからない。
著者は能力のある人間であれば若くても相応の給与と待遇を獲得し、能力のない人間は老人であっても放逐されるのがフェアな社会だと考えているようである(「強欲で恥知らずな老人ども」というような措辞から推して)。
若い読者の中にはこれを読んで溜飲を下げる人もいるだろうけれど、私は「能力があるけれど貧しい若者」と「無能で強欲な老人たち」というようなシンプルな二項対立で現代日本の社会状況を説明することはいずれ破綻をきたすだろうと思う。
なぜなら、確実にあと20年経てば「老人たち」はいやでもリタイアして、一部の「若者たち」が「既得権益の享受者」の席に繰り上がるからである。
そのとき「元・若者」たちが「いまこそ社会改革のときだ」と呼号して、自分たちに選択的に与えられた既得権益を放棄して、「貧しい若者たち」とシェアするフェアな社会システムの構築を求めるようになるだろうという見通しに私は与することができないからである。
「無能で強欲な老人たち」に収奪されている若者という自己規定から出発する人間は、いずれ老人になったときに「無能で強欲であること」を自らに義務として課すようになる。そうでなければ「帳尻が合わない」からである。
「不当に収奪しているあいつら」と「不当に収奪されているわれわれ」という二項対立で社会矛盾を論じることに慣れた人々は、ひとたび「収奪する側」に回ったときに、「これまで収奪された分の奪還」(つまり個人的な損得勘定の精算)に忙しくて、社会的フェアネスの実現にはあまり配慮しないものである。
それは社会主義革命のあとの革命党派の官僚たちの腐敗ぶりをみればわかる。
社会的リソースは放っておけば必ず偏る。
それをできるだけうまく「流れる」ような装置をそれぞれがそれぞれの場所で工夫を凝らすこと。
それが「フェアネスへの配慮」ということである。
繰り返し言うように、その仕事には年齢や年収や社会的立場はかかわりがない。
フェアネスは行政指導で全社会的な規模で実施されるべきものであって、個人的にどうこうするものではない、と思っている人もいるだろう。
それは「誰か」がやることだ、と。
社会がそういう人ばかりになったとき、役人たちもまたそういう人ばかりになったとき(今がそうだ)社会的フェアネスを配慮する「公人」は地を払った。
今必要なのは、「自分のもとに流れ込んだリソース(財貨であれ権力であれ情報であれ文化資本であれ)を次のプロセスに流す」という「パッサー」の機能がすべての人間の本務であるという人類学的「常識」をもう一度確認することである。
私は大学を卒業してすぐ無業者となり、しばらくして平川君と会社を立ち上げて経営者になった。
仕事は愉快で、俸給もたっぷり頂いていたけれど、その会社を私は3年で辞めた。
その会社での自分のキャリアパスの見通しがあまりにわかりやすかったので、ちょっと脱力してしまったのである。
私たちの労働意欲を担保するのは必ずしも「未来が保障されている」ではない。
「未来が未知だから」こそ働く意欲がわくという若者もいつの時代にもいる。
そのことを誰かがアナウンスしたほうがいいと思うので、ここに書きとめておくのである。
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(2007-01-04 12:25)