東京とんぼ帰りツァー

2007-01-28 dimanche

東京へ。
平川くんの新ビジネス、ラジオカフェのオフィスのオープンセレモニーがあるので、呼ばれたのである。
電話で「パーティやるから、来てね」とだけ言われたので、これはかなり強制力の高いメッセージだとわかった。
これこれこういう事情なので万障お繰り合わせの上ご来駕願いたいというような合理的説明がある場合は、いくかいかないか、その重要性を考量することがこちらには許されている。
だから、「あ、その頃、ちょっといそがしんだよね」とか「いや〜、あれやこれやでさ・・・ま、行けたら行きますわ」というような返答でお茶を濁すことも可能なのである。
だが、「来てね」だけでは言い訳のしようがない。
メッセージが短い場合、返答も短くなければ「つりあい」が取れない。
「来てね」に対しては「おう、行くぜ」か「ダメ、行けない」の二つしか答えがない。
というわけで「来てね」「おう、行くぜ」で電話は終わってしまったのである。
実はもうひとつ強力な理由があって「セキカワさんも来るし、コイケさんも来るんだぜ」というひとことが追加されていたからである。
セキカワさんというのは関川夏央さんのことである。
関川さんとは前にラジオの収録のとき、山の上ホテルで「クリエイティヴ・ライティング」へのご出講をお願いしたことがある。
そのとき快諾のご返事を頂いたのであるが、例によって私がじたばたしているうちに後期の授業が終わってしまったのである。
今度は、もう少し肚を括って、長期的に教学プログラムに関川さんにコミットしていただくにはどういうやり方があるか検討をてみたいと考えている。
コイケさんというのは小池昌代さんのことである。
平川君との共著『東京ファイティングキッズ』をTVの書評番組で取り上げてくださって「激賞」してくれたご恩を多として、平川君と私は「一度小池さんをディナーにお招きして、シャンペンなど御一献差し上げねば」とかねがね言い交わしていたのである。
ところが平川君がひとり抜け駆けして、小池さんと吉本隆明さんの対談をラジオコンテンツにするという企画を作って、さくさくと仕事を進めて、てきぱきと小池さんを自分のビジネスに巻き込んでしまったのである。
こういうことになるとまことにフットワークのよい男である。
というわけなので、小池さんはラジオカフェのパーティにも関川さんともども「内輪のメンバー」ということでご参加くださったのである。
小池さんがすたすたと近寄ってきて、「内田さん? 小池です。お会いしたかったです」と語りかけてきたので、ちょっとぼおっとなってしまう。
「あ、ウチダです。僕も、ずっとお会いしたかったんです」
私が女性を前に上気するというのは、まことにレアなことである。
信じがたいであろうが、私もときにはそういうことがあるのである。
お書きになる文章と同じように、透明感と温かみが同居する不思議な感触のするまことに魅力的なひとであった。
私が15歳の少年であれば宿命的な恋に落ちたであろうが、だが私はもうおじさんなので、平川君と三人で記念撮影するだけなのである。ぐすん。
わいわいと宴会が進み、柳家小ゑん師匠とジャズと落語のグルーヴ感についておしゃべりし、上野茂都さん(白皙の端正なたたずまいの青年だけれど、この人が実は何ものであるかについては平川ブログ・石川ブログに詳しい)にご挨拶し、なぜか全員ここにいる140Bの皆さん(江さん、青山さん、中島社長)と「明日の例会、来られます?」「兄貴のところの仕事どうです?」というようなローカルな情報交換をし、ようやく関川さんをつかまえる。
関川さんに『私家版・ユダヤ文化論』をたいそうおほめいただく。
私は人に批判されるのが嫌いだが、ほめられるのは大好きである。
ふだんはあまりそういう機会にめぐまれないので、「え〜、そうですか〜(ぐふふ)。そんな〜、たいしたもんじゃないですよお」と身の置きどころなく、不気味に身もだえするばかりである。
平川くんが「はい、ではもうお開きです」と宣言しても、ゲストたちはさっぱり帰る気配もなく、ケータリングの会社の人が来て、パーティ会場を片付け始めても、まだほとんどの人は残っておしゃべりをしていた。

そういえば、パーティに来る前に講談社に立ち寄っていたのである。
新刊『下流志向/学ばない子どもたち 働かない若者たち』が出たので(もう書店にぼちぼち並んでいるはずです)、その販促活動として日本経済新聞と『週刊現代』の取材を受けたのである。
担当の小沢さん、岡本さんにお迎えしていただき、講談社ビルの26階のペントハウスみたいなゴージャスな部屋で 2 時間にわたって取材を受ける。
ふだん、取材を受けるとつい気分が高揚して、あることないことしゃべりまくり、「・・・ということが書いてある本なんですね?」と訊かれて、「いや、それは今思いついたことで、本には書いてません」というぜんぜん紹介記事の役に立たない情報ばかりご提供してしまうのであるが、今回は「限界ぎりぎりの日々」なので、舌がぜんぜん回転せず、芸もなく、本の内容を要約するばかりである。
途中から、『週刊現代』編集長の加藤さんが登場。
もとはいえば、魔性の女フジモトの手引きで、加藤さんに芦屋川のベリーニで「ただ飯・ただ酒」をごちそうになったのが縁のはじめで、私は非人情の人間のくせに、一宿一飯の恩義に弱く、深い債務感にとらわれ(ベリーニのシャンペンがまた美味しかったのね)、「反対給付義務」に身を焼かれていたのである。
このようなかたちで講談社にわずかなりとはいえシャンペンのお返しができたことを喜びたい。
新刊『下流志向』は日下潤一さんのシンプルでかっこいい表紙である。
一読してみたが、書いた本人が言うのもなんであるが、たいへん面白く、またスリリングで一気に最後まで読んでしまった(書いた本人が「スリリング」というくらいであるから、話がどこに飛ぶのかさっぱりわからない)。
お値段も1400円(税別)とリーズナブル。
教育に関心のあるすべての日本人に読んでいただきたいと思うので、伏して皆さまにご案内申し上げるのである。
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