そろそろ限界の日々

2007-01-25 jeudi

京都造形芸術大学空間演出デザイン学科の学生さんたちのお招きで、京都の北白川瓜生山まで講演にでかける。
ここに来るのは二度目である。
前は小林昌廣さんの司会で、春秋座(という歌舞伎の舞台があるのだ)で岩下徹さん(岩下さんもここの先生)と舞踏と武道についてのシンポジウムをしたことがある。
その小林さんは去年の秋に退職されて、いまは岐阜の大学に移ってしまった(女学院の非常勤には引き続き来てくれている)。
「作品とことば」というテーマでの講演である。
学科の学生さんたちはそれぞれに卒業制作の作品を提出するのであるが、自作についての「説明」を要求される。
ことばが足りないと、作品の「意味」がわからない。ことばが足りれば作品は要らない。
その按配はたしかにむずかしそうである。
私の場合「作品」はぜんぶ「ことば」で作られているので、そういう心配をしたことがない。
とりあえず現場に行って、何を話すかはその場で考えようと思って京都へでかける。
空デ(と略称するらしい)の企画立案の学生さんたち、その学生さんたちを指導されている中西先生、廻先生とご挨拶して歓談。
たいへんフレンドリーな気分になって演壇に立ったのであるが、好事魔多しとはよく言ったもので、話しているうちに「絶句」してしまった。
絶句というのは舞台に立つものにとっては、それはそれは恐ろしいもので、ふいに頭が「まっしろ」になってしまうのである。
どういうきっかけで「まっしろ」になるのか、これがよくわからない。
たいていは、「自分が話しているさまを上から見下ろす」ような浮遊感とともに訪れる。
「なんか声の出がわるいなあ」とか「あれ、あの人席立って出てっちゃった。話つまんないのかな」とか「あの子さっきから居眠りしてるなあ。どんな話したら、目を覚ますかなあ」とか、要するに「邪念」ですね。
邪念が入ったときに、ふいに「自分が今話していること」がリアリティを失う。
つまり、「自分の話を点検している自分」の方にリアリティがあって、「話している自分」が操り人形のように思われてくるのである。
その瞬間に「自分の話」が手から離れてしまう。
地図をもたぬまま、荒野に放り出されて、どちらに足を向けてよいのかわからず、そもそも自分はどこから来てどこへ行くつもりだったのかも思い出せないという感じである。
これまでも短い時間「絶句」したことはある。
だいたい、話というのはいくつかの「ユニット」からできている。
短いものは2,3分。長いものは20分くらいの「小咄」である。
一応骨格はできていて、あとはそのときの TPO に合わせて細部がアレンジできるようになっている。
あるユニットを話していているときに、「ああ、この話は次に『あのユニット』にうまくつながるな」ということを思いつく。そして、「このユニット」をし終えて、さて「あのユニット」につなごうとすると、「あのユニット」が何だったか思い出せない、というかたちで「絶句」は訪れる。
手元のメモを見ると、「その先」は書いてあるのだが、そこへどうやってたどりついたらいいのか、行き方が書いてない。
大阪の地下鉄の構内で迷子になったので、手元の地図を取りだしてみると「小田急線成城学園で降りる」と指示が書いてあるような感じである。
「だけど、そこまでどうやって行けばいいんだよ」と天を仰ぐことになる。
しかたがないので、その辺にある手近な「ユニット」を拾い上げて、話を続けることになる。だが、これは「その辺にあった」というだけのことで、今した話と名詞レベルの共通性はあっても、「話の流れ」との内在的な連関がない。
大阪の地下街で迷子になったので、とりあえず御堂筋線に飛び乗って「中もず」に着いたが、さてこれからどうやって「小田急」に乗り継いだらよいのかと思案するようなものである。
こんなことなら大阪駅の地下でうろうろしていたほうがましだったのではないか・・・ということになる。
数年来、「絶句」というのは経験していなかったので、ひさしぶりに壇上で冷や汗をかいた。
油断禁物である。
というわけでせっかくお呼びいただいたのに、途中で「話」が手から離れてなんだけへろへろの腰砕け講演になってしまって、空デのみなさんにはまことに申し訳がないことをした。
お詫び申し上げます。
また勉強して、出直して参りますので、今回の不調法についてはどうかご容赦を。

講演後、お二人の先生方と学生さんたちと打ち上げの宴会におまねきいただき、美味しいものを食べて、お酒を飲んで、学生さんの作品を見せていただいた。
京都造形芸術大学空間演出デザイン学科のみなさま。東さん、兼元さん、下出さん、井上さん、友部さん、どうもありがとう。卒業後のご活躍をお祈りします。

京都から帰って、一夜が明けたが、どうも調子がよろしくない。
十分寝ているはずが、疲れがとれない。
締め切り間際の原稿を書こうとしても、さっぱりアイディアが湧かない。
日本経済新聞の取材が午前中からあって、教育問題について語ること1時間半。
どうも滑舌が悪い。
私の場合舌で思考しているので、舌の回転が悪くなるということは、即頭の回転が悪くなるということである。
話の切れ味がよろしくない。
さすがに積もりに積もった疲労がそろそろ限界に近づきつつあるのであろう。
試写会に行くつもりであったが、まっすぐ家に帰って寝ることにする。
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