NHKが01年放送の「女性国際戦犯法廷」のドキュメンタリー番組で政治的圧力を受けて番組内容を改変した事件について、東京高裁がNHKに賠償命令を下した。
隣の記事は関西テレビの「あるある大事典」の捏造問題の中間報告。
テレビメディアの中立性やフェアネスに対する社会的信用はずいぶん低下したようである。
まあ、身から出た錆である。
でも、「テレビの言うことならほんとうだろうと思っていたのに・・・裏切られた気持ちです」というようなナイーブなコメントを新聞が掲載しているのを見ると、「嘘つきやがれ」と思う。
テレビが虚偽を報道したのを知って「裏切られた気持ちです」というようなことをしゃあしゃあと言ってのけるという「市井の無垢(で無知)な視聴者」のポーズそのものが「テレビ化された定型」に他ならないからである。
「テレビ底なしの不信」というような新聞の見出しはまことに「テレビ的」である。
そのことに気づいているのであろうか。
今さら「不信」というようなことを言い出すところを見ると、新聞人はそれまでテレビで報道している情報がすべて真正だと信じていたであろうか。
まさかね。
「この程度のこと」が日常茶飯に行われていたことを同じメディアにいる人間が知らないはずはない。
知らないはずがないにもかかわらず、知らぬふりをして毎日毎夕テレビ欄に「あらすじ」や「今日のみどころ」など、TV局が送ってくるプレスリリースをノーチェックで掲載して、テレビの「垂れ流し」を下支えしていたのは新聞自身ではないのか。
「私は何も知りませんでした。へえ〜、そんなことがあったんですか」という「とってつけたような無垢(で無知)な面つき」はテレビが日本社会にもたらした最悪の贈りものの一つである。
テレビの構造的腐敗についてどうして新聞は正面から批判をしないのか、ということを私は以前に毎日新聞の外部紙面研究会の場で問いただしたことがある。
反応はきわめて鈍いものであった。
一人の編集委員だか論説委員だかが、うんざりしたような口調で、「そうおっしゃいますけどね。新聞がテレビ番組を『俗悪だ』と批判すると、結局その番組の視聴率が上がっちゃうんですよ」と皮肉な笑いで答えた。
私はある種のテレビ番組が俗悪であるとかないとかいうようなレベルのことを言ったわけではなく、どうして「メディアはメディアの批判をしないのか」という原理的なことについて問うたのであるが、原理的な問いを表層的な答え(プラスせせら笑い)で応じたのを見て、「新聞にはテレビ批判はできないな」と思った。
これはひとりテレビへの不信ではなく、メディア全体に対する不信が「日常化」しつつあることの予兆である。
マスメディアは「驚いたふり」をするのを止めた方がいいと私は思う。
その修辞的な「驚いたふり」は、要するに「私はこの不祥事にぜんぜんコミットしていませんからね。だって、何も知らなかったんだから」という言い訳のために戦略的に採用されているのである。
だが、メディアの先端にいる人間にとって「こんなことが起きているとは知りませんでした」というのは口にすること自体が恥ずべき言葉ではないのか。
けれども「こんなことが起きていることを私は前から知っていました」と言ってしまうと、「じゃあ、どうしてそれを報道しなかったのか」という告発を引き寄せることになってしまう。
無知を装うことによって責任を回避する。
「知りませんでした」「聞いていない」「情報が現場からから上がってこない」「訴状をまだ読んでいない」「調査委の答申を待って」・・・この間に見聞きしたすべての不祥事で、すべての組織の管理者たちは、「自分は組織を管理できておらず、組織内で何が起きているかを知らなかった」とみずからの無能を告白することで責任を逃れようとしている。
私たちの社会はこの種の遁辞に対してかなり寛容である。
だから、人々は争って「自分は無知で、無能で、だから無罪です」という言い訳にすがりつく。
私がメディアに期待するのは次のような言葉である。
「テレビがこんなふうに構造的に腐敗していることを私は熟知していたが、それをあえて咎めなかった。なぜなら、テレビのようなメディアはどれほど腐っていても、ないよりましだからだ。『正しい報道・中立的な報道以外のものはなされてはならない』というルールが適用されたら、メディアは死ぬ。だから、視聴者は90%のジャンクの中に10%の貴重な情報が含まれている程度の含有率に耐えてテレビを見るべきなのだ。『裏切られた』などというせこいことを言うな。黙ってテレビの嘘を凝視して、その行間からしみ出るわずかな真実を読み出せ。」
頼むから、誰かそう言ってくれないか。
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(2007-01-30 10:49)